表紙 > 曹魏 > 袁術が後漢を再建すると信じて、呂布を導こうとした袁渙伝

父・袁滂は司徒、陳国の扶楽の袁氏

『三国志集解』で、袁渙伝をやります。

派閥あらそいをしない三公、父の袁滂

袁渙字曜卿,陳郡扶樂人也。父滂,為漢司徒。

袁渙は、あざなを曜卿という。陳郡の扶樂の人だ。

「渙」は、火偏とする版本がある。どちらが正しいか不明。
盧弼は考える。『元和志』によると、陳王の劉寵は、袁紹に殺されて、陳国は除かれた。陳郡にもどった。ゆえに陳寿は、陳郡と書いた。『三国志』許靖伝、士燮伝では、袁渙の従弟・袁徽を、どちらも陳国の人とする。袁徽のとき、陳郡でなくて陳国だった。『三国志』夏侯玄伝にひく『魏略』では、袁渙の子・袁カンを、陳国の陽夏の人とする。東阿王を、陳国にうつしたあとである。『晋書』袁カイ伝では、陳郡の陽夏の人とする。
ぼくは思う。陳王の劉寵を殺したのって、袁術じゃなかった? 汝南と陳郡は、ちかい。袁紹や袁術の家とのつながりが気になる。つぎで、解き明かされる。

袁渙の父・袁滂は、後漢の司徒。

『後漢書』霊帝紀はいう。光和元年(178)2月、光禄勲する陳国の袁滂を、司徒とする。光和二年3月、免ず。厳可均はいう。『唐宰相世系表』によると、袁滂は袁安の同祖弟である。袁安と袁滂は、三公への着任が92年もはなれる。脱字がある。袁安は袁滂から見て、曽祖父の世代だろう。兄弟でない。
盧弼は考える。汝南の汝陽と、陳郡の扶楽のあいだで、移住があった。


袁宏漢紀曰:滂字公熙,純素寡欲,終不言人之短。當權寵之盛,或以同異致禍,滂獨中立於朝,故愛憎不及焉。

袁宏『漢紀』はいう。袁滂は、あざなを公熙。純素で寡欲。ひとの短所を言わない。袁滂は權寵が盛んだが、中立したので、愛憎に巻きこまれず。

ぼくは思う。袁紹の父の世代・袁逢や袁隗は、権勢があって、愛憎のド真ん中にいたはず。派閥バンザイの家柄。この傾向は、袁紹と袁術に継承される。いっぽう袁滂、袁渙は、違うタイプの政治家。袁氏は、人材がおおいから、いろんなタイプの政治家がでる。リスクヘッジが、できている。梁冀にくみする側、くみしない側。党錮をくわえる側、くわえられる側。董卓にくみする側、くみしない側。そろっている。


皇帝・袁術の使者として、呂布との同盟を回復

當時諸公子多越法度,而渙清靜,舉動必以禮。郡命為功曹,郡中奸吏皆自引去。後辟公府,舉高第,遷侍御史。除譙令,不就。劉備之為豫州,舉渙茂才。後避地江、淮間,為袁術所命。

このころ三公の子弟は、おおく法度を越えた。だが袁渙は清靜で、舉動には、かならず礼があった。

ちくま訳は「貴族の子弟」というが、ちがうと思う。貴族って、誰だよ。魏晋南北朝のむずかしい用語で、うまく説明できない。「諸公子」だから、三公の子弟でいいと思う。宦官にちかい人は、三公となり、子弟が地方から収入をガッポリとった。この話だろう。
ちくま訳は「法度」を、「法律制度」とする。武家諸法度テキなナニカか。反対語に「礼」がある。ここの「法度」は、分限や常識をこえた行動、くらいの意味だろう。やはり収入をガッポリとること。袁術あたりも、儲かりまくっていたかも。

陳郡は、袁渙を功曹に命じた。郡中の奸吏は、みな去った。のちに三公府に辟された。高第にあがり、侍御史にうつる。譙令となるが、つかず。劉備が豫州にくると、袁渙を茂才にあげた。

盧弼はいう。茂才は秀才。光武帝を、、知ってる。
劉備が豫州にきたのは、いつを指すか。陶謙の傘下に入ったとき、呂布の追い出されたとき、曹操に置いてもらったとき。わからん。

のちに長江や淮水のあいだに、地を避けた。袁術に任命された。

ぼくは思う。淮水と長江のあいだにゆくとき、メドなしで、移住したのでない。袁術を頼ることを前提にして、移動したのだ。移動先がどうなっているか、調べてから動くはずだ。孫呉の人は、よく「淮水や長江のあいだ」に逃げた経歴をもつ。彼らも、袁術がつくった秩序を頼ったのだろう。袁術がただの迷惑ヤロウなら、べつのところにゆく。避難先として、荊州、揚州、幽州などが選ばれる。故郷からの距離が、判断に影響するだろうが、、避難先の選び方で、その人の価値観がわかりそう。
後漢末を概説するとき、「中原から、長江流域に人口が移動した」という。社会現象のように語ると、見えにくくなるが。移動した当事者は、袁術や劉繇のいる地域だと、具体的に認識して動いたはず。
また袁渙とおなじ『三国志』巻11は、幽州ににげた人がおおい。後日、やりたい。


術每有所咨訪,渙常正議,術不能抗,然敬之不敢不禮也。頃之,呂布擊術於阜陵,渙往從之,遂複為布所拘留。

袁術は、いつも袁渙のところに相談にきた。つねに袁渙は、正議した。袁術は、さからえない。

銭儀吉はいう。「抗」は「悦」でないか。盧弼はいう。「抗」でよい。
ぼくは思う。袁渙と袁術は、いかにも対立していたように書かれるが。ひらたく言えば、袁渙は、袁術の参謀になったのだ。人格がすぐれるし、なにより同族だし、頼りになる。
袁術が滅びたあとに、袁渙は、袁術と対立してたことにした。会社員で考えたらわかる。転職先の人に「転職前の勤務先は、倒産しましたが、社長との非常に良好な関係で」と宣伝する人はいない。「転職前は、よくしてもらいましたが、、まあ、いろいろとね」と濁すくらいだ。

袁術は袁渙をうやまい、袁渙を礼遇した。このころ、呂布は阜陵(九江)で、袁術を撃った。袁渙は、呂布にしたがった。袁渙は、呂布にとどめられた。

呂布が袁術を攻めるのは、建安二年(197)年の春かな。袁術が、皇帝即位したタイミングだ。袁術から見ると、呂布との外交が、仲国の生命線である。韓胤を送ったが、陳珪のせいで斬られた。
このあたり、袁渙伝がおかしい。袁術には「イヤイヤ」付き合い、呂布にも「つかまった」というニュアンス。袁術がキライなら、袁術を攻めた呂布に従えばいい。しかし、そうでもない。不自然である。そこでぼくは、推測する。袁渙は、袁術の使者として、呂布と袁術を調停に行った。呂布は、袁渙を配下に引き入れることを条件に、袁術との同盟を回復した。袁渙が入り込んで呂布をあやつったのか、呂布に留められて仕方なく徐州に残ったのか、そのあたりは、わかりにくい。
呂布は、「董卓を殺した私は、袁氏の恩人」だと思っている。袁渙は、袁隗とすこし血縁がとおいが、呂布は袁渙をたよったのだろう。徐州支配に有用な人材として、用いたのだろう。証拠に、呂布と袁術の関係は、このあと好転する。呂布が袁術を攻めることは、もうなくなる。なお下邳の陳氏に惑わされて、方針は暴走するけれど。


布初與劉備和親,後離隙。布欲使渙作書詈辱備,渙不可,再三強之,不許。布大怒,以兵脅渙曰:「為之則生,不為則死。」渙顏色不變,笑而應之曰:「渙聞唯德可以辱人,不聞以罵。使彼固君子邪,且不恥將軍之言,彼誠小人邪,將複將軍之意,則辱在此不在於彼。且渙他日之事劉將軍,猶今日之事將軍也,如一旦去此,複罵將軍,可乎?」布慚而止。

はじめ呂布は、劉備と和親したが、のちに仲がわるい。呂布は袁渙に、「劉備を詈辱する作文をせよ」と言った。袁渙はことわった。「あとから私が、呂布将軍を、詈辱してもいいのですか」と。呂布は、袁渙にせまらず。

胡三省はいう。「劉備を罵れ」なんて言う呂布は、小人である。のちに袁渙に罵られるようなタイプの人物である。
ぼくは思う。呂布と劉備の対立は、袁術と曹操の対立である。袁術-呂布は、曹操-劉備と対立した。劉備は、曹操の先兵として、呂布の豫州に食いこんできてる。
袁渙は呂布に、こう言いたいのだ。「劉備を中傷しても、曹操にたいする袁術の劣勢は、かわならない。袁術は、さっさと献帝をうばって、名目をただすべきだ。私(袁渙)も、協力してあげるから」と。袁術は、「献帝とは関係なく、私は皇帝だ」と言っているが、袁渙は「献帝ぬきではダメだ」と、冷静に見抜いている。袁渙がスジのとおったことを言い、袁術が抗えなかったのは、このあたりだろう。劉備の評価なんか、ただの話題のキッカケ。どうでもいい。


袁術から曹操に転職し、曹操に秩序回復を要請

布誅,渙得歸太祖。

袁氏世紀曰:布之破也,陳群父子時亦在布之軍,見太祖皆拜。渙獨高揖不為禮,太祖甚嚴憚之。時太祖又給眾官車各數乘,使取布軍中物,唯其所欲。眾人皆重載,唯渙取書數百卷。資糧而已,眾人聞之,大慚。渙謂所親曰:「脫我以行陳,令軍發足以為行糧而已,不以此為我有。由是厲名也,大悔恨之。」太祖益以此重焉。

呂布が誅され、袁渙は曹操に帰することができた。

袁宏『後漢紀』はいう。袁渙は、劉備、袁術、呂布につく。曹操にであうのが、遅かった。
ぼくは思う。原文に「得」があって、可能の助動詞だ。曹操に仕えることが、そんなに素晴らしいか。曹操が安定勢力になるのは、呂布、袁術、袁紹が死んでからだ。袁渙は、自分の意思で、袁術や呂布についたはずだ。主君を見る目がなかったので、こんなに放浪することになった。袁渙から見て、曹操が後漢を再建するなんて、予想外だっただろう。

『袁氏世紀』はいう。呂布が敗れた。陳羣の父子も、呂布のもとにいた。陳羣の父子は、曹操に拝した。

陳羣伝はいう。陳羣は父にしたがい、徐州に避難した。徐州は、呂布に属した。曹操は、陳羣を辟して、司空西曹掾とした。

袁渙だけが、曹操に頭をさげない。曹操は、袁渙にはばかった。曹操は、官車で、呂布軍の物資をはこばせた。袁渙は、書物を数百巻のみ。おおく物資をもらった人は、はじた。袁渙は言った。「こんなことで名を高めても、はずかしい」と。曹操は、ますます袁渙をおもんじた。

『隋書』には、『袁氏世紀』の著者がない。
ぼくは思う。どうせ、袁渙の子孫あたりが書いたのだ。袁渙スゲー!という話を、創作したのだろう。かりにも降伏した袁渙が、曹操にえらそうにできない。陳羣は、袁渙をもちあげるための道具。「あの陳羣ですら、曹操に頭をさげたのに」と、ひきあいに出しただけ。
周寿昌はいう。軍中に書物があるなんて、おかしい。ぼくは思う。ほーら、ウソだ。笑


渙言曰:「夫兵者,兇器也,不得已而用之。鼓之以道德,征之以仁義,兼撫其民而除其害。夫然,故可與之死而可與之生。自大亂以來十數年矣,民之欲安,甚於倒懸,然而暴亂未息者,何也?意者政失其道歟!渙聞明君善於救世,故世亂則齊之以義,時偽則鎮之以樸;世異事變,治國不同,不可不察也。夫制度損益,此古今之不必同者也。若夫兼愛天下而反之於正,雖以武平亂而濟之以德,誠百王不易之道也。公明哲超世,古之所以得其民者,公既勤之矣,今之所以失其民者,公既戒之矣,海內賴公,得免於危亡之禍,然而民未知義,其惟公所以訓之,則天下幸甚!」太祖深納焉。拜為沛南部都尉。

袁渙は、曹操に言った。「兵でなく、徳によって、天下を治めよ」と。

ぼくは思う。袁渙をくみとると、こうなる。「曹操は、いやしくも献帝を手にいれたのなら、献帝の権威を有効につかえ。李傕とおなじことを、するな。私の親族であり、かつて私がつかえた袁術は、献帝を手にいれられず、いまや死に体である。袁術が残念だった分まで、曹操がちゃんと秩序をつくれ」と。
もとは袁渙は、袁術の使者として、呂布に移った。その呂布がほろび、並行して、ますます袁術がダメになる。「呂布が死んだから、使者の役目が終了した。袁術のもとにもどろう」とは考えられない。それほど、曹操の献帝奉戴は、安定しつつある。

曹操は、そのとおりだと思った。袁渙は、沛南部都尉となる。

盧弼はいう。『続百官志』を見るに、諸郡の都尉は、建武六年にやめた。賊がでると、都尉を一時的においた。賊がおわると、除いた。
ぼくは思う。沛国の南方に、賊がいたことになる。だれか。袁術とその残党である。曹操は、揚州をブロックさせるために、袁渙をつかった。『袁氏世紀』が創作したような、破格の厚遇でない。「元・袁術として、後始末をやってこい」という、容赦ない適材適所である。


以下、はぶく。「屯田には、むりに移住させるな」という。梁国相になる。「未亡人や老人を大切にせよ」という。諫議大夫、丞相軍祭酒。財産にきよい。魏国が建国され、劉備の死を悲しみ、、など、また後日。子孫は、おおく高位を輩出した。
最後の裴注で、袁渙の後漢にたいする認識がうかがえるので、やっておきます。

袁宏漢紀曰:初,天下將亂,渙慨然歎曰:「漢室陵遲,亂無日矣。苟天下擾攘,逃將安之?若天未喪道,民以義存,唯強而有禮,可以庇身乎!」徽曰:「古人有言:'知機其神乎'!見機而作,君子所以元吉也。天理盛衰,漢其亡矣!夫有大功必有大事,此又君子之所深識,退藏於密者也。且兵革既興,外患必眾,徽將遠跡山海,以求免身。」及亂作,各行其志。徽弟敏,有武藝而好水功,官至河堤謁者。

袁宏『漢紀』はいう。はじめ天下が乱れようとしたとき、袁渙は、慨然として歎じた。「漢室は陵遲した。まもなく乱れる。もし天下が擾攘したら、どこに逃げようか。もし天が道を喪わず、民に義が存あれば、私は礼をつよく守ろう。身をかばえるだろう」と。

にげるための地理的な場所じゃなくて、ふるまい方の話をしてる。

弟の袁徽は言った。「古人は言った。機を知ることは、神につうじると。時機を見て、行動するから、君子はよい場所にいられる。天理の盛衰において、漢は亡びそうだ。大功をあげるには、大きな事業をなす必要がある。これは君子が、ふかく識ることだ。これは君子が、そっと秘密にすることでもある。兵乱がおきたら、私は、とおくの山海にゆき、身をかばう」と。

袁徽いわく、漢室がかたむいても、「おなじ場所で、ただしい行動をとろう」という兄・袁渙は、現実的でない。っていうか、君子でない。リアリストの弟です。

兵乱が起きると、袁渙も袁徽も、志どおりに行動した。

ぼくは思う。袁渙も袁徽も、漢室がダメなことは、共通して認めている。袁渙は、タダシイことを言っているくせに、けっきょく揚州に移った。これは「とおくの山海」でないという、認識らしい。もし袁宏が、「揚州は、とおい山海」だと思っていたら、こんな記述にならないしね。
袁渙は、袁術のもとで「義」を発揮して、漢室を回復しようとした。呂布を袁術に協力させることが、「義」だと思っていた。おおいなる見当ちがいだった。
袁徽は、交州ににげた。「とおくの山海」とは、交州までゆくこと。揚州では、とおくに逃げたうちに入らない。後漢の危機にたいして、背を向けたことにならない。

袁徽の弟は、袁敏である。武藝ができて、水軍で功績あり。河堤謁者となる。

おわりに

ぼくの読解において袁渙は、袁術が漢室の秩序を回復すると考えた。190年代前半、李傕と、袁紹-曹操によって中原が乱されると、袁術をたよった。曹操が献帝を手にいれたのちも、呂布をみちびいて、袁術の兵力として有効活用し、漢室の秩序を回復しようとした。

ひどい妄想です。知っています。皆さんは、史料をご自身にて、ご検討ください。

袁渙の人格は、たしかに儒教的にすばらしく、清いのでしょう。よく勉強していて、正論をはける。しかし「三公の家・袁氏が、後漢を立てなおす」という、バイアスのかかった信念があった。結果は、オオハズレとなった。それは言っても仕方がない。

今回ははぶいたが、袁渙の家は、魏晋で高官を出しまくった。袁氏の主流は汝南にいて、袁紹と袁術にてピークをむかえ、衰退した。袁渙の家は、陳国に移住した傍流だったから、袁術の風下にたち、ぎゃくに生き残った。裾野のひろい袁氏だから、生き残ることができた。子孫?により、『袁氏世紀』なんて、おめでたい本も作られた。
後漢と、魏晋において、袁氏の影響はおおきい。袁氏の人たちの自負も、おおきい。袁紹、袁術とおなじく、袁渙も、志がおおきかった。110521