父・袁滂は司徒、陳国の扶楽の袁氏
『三国志集解』で、袁渙伝をやります。
派閥あらそいをしない三公、父の袁滂
袁渙字曜卿,陳郡扶樂人也。父滂,為漢司徒。
袁渙は、あざなを曜卿という。陳郡の扶樂の人だ。
盧弼は考える。『元和志』によると、陳王の劉寵は、袁紹に殺されて、陳国は除かれた。陳郡にもどった。ゆえに陳寿は、陳郡と書いた。『三国志』許靖伝、士燮伝では、袁渙の従弟・袁徽を、どちらも陳国の人とする。袁徽のとき、陳郡でなくて陳国だった。『三国志』夏侯玄伝にひく『魏略』では、袁渙の子・袁カンを、陳国の陽夏の人とする。東阿王を、陳国にうつしたあとである。『晋書』袁カイ伝では、陳郡の陽夏の人とする。
ぼくは思う。陳王の劉寵を殺したのって、袁術じゃなかった? 汝南と陳郡は、ちかい。袁紹や袁術の家とのつながりが気になる。つぎで、解き明かされる。
袁渙の父・袁滂は、後漢の司徒。
盧弼は考える。汝南の汝陽と、陳郡の扶楽のあいだで、移住があった。
袁宏漢紀曰:滂字公熙,純素寡欲,終不言人之短。當權寵之盛,或以同異致禍,滂獨中立於朝,故愛憎不及焉。
袁宏『漢紀』はいう。袁滂は、あざなを公熙。純素で寡欲。ひとの短所を言わない。袁滂は權寵が盛んだが、中立したので、愛憎に巻きこまれず。
皇帝・袁術の使者として、呂布との同盟を回復
當時諸公子多越法度,而渙清靜,舉動必以禮。郡命為功曹,郡中奸吏皆自引去。後辟公府,舉高第,遷侍御史。除譙令,不就。劉備之為豫州,舉渙茂才。後避地江、淮間,為袁術所命。
このころ三公の子弟は、おおく法度を越えた。だが袁渙は清靜で、舉動には、かならず礼があった。
ちくま訳は「法度」を、「法律制度」とする。武家諸法度テキなナニカか。反対語に「礼」がある。ここの「法度」は、分限や常識をこえた行動、くらいの意味だろう。やはり収入をガッポリとること。袁術あたりも、儲かりまくっていたかも。
陳郡は、袁渙を功曹に命じた。郡中の奸吏は、みな去った。のちに三公府に辟された。高第にあがり、侍御史にうつる。譙令となるが、つかず。劉備が豫州にくると、袁渙を茂才にあげた。
劉備が豫州にきたのは、いつを指すか。陶謙の傘下に入ったとき、呂布の追い出されたとき、曹操に置いてもらったとき。わからん。
のちに長江や淮水のあいだに、地を避けた。袁術に任命された。
後漢末を概説するとき、「中原から、長江流域に人口が移動した」という。社会現象のように語ると、見えにくくなるが。移動した当事者は、袁術や劉繇のいる地域だと、具体的に認識して動いたはず。
また袁渙とおなじ『三国志』巻11は、幽州ににげた人がおおい。後日、やりたい。
術每有所咨訪,渙常正議,術不能抗,然敬之不敢不禮也。頃之,呂布擊術於阜陵,渙往從之,遂複為布所拘留。
袁術は、いつも袁渙のところに相談にきた。つねに袁渙は、正議した。袁術は、さからえない。
ぼくは思う。袁渙と袁術は、いかにも対立していたように書かれるが。ひらたく言えば、袁渙は、袁術の参謀になったのだ。人格がすぐれるし、なにより同族だし、頼りになる。
袁術が滅びたあとに、袁渙は、袁術と対立してたことにした。会社員で考えたらわかる。転職先の人に「転職前の勤務先は、倒産しましたが、社長との非常に良好な関係で」と宣伝する人はいない。「転職前は、よくしてもらいましたが、、まあ、いろいろとね」と濁すくらいだ。
袁術は袁渙をうやまい、袁渙を礼遇した。このころ、呂布は阜陵(九江)で、袁術を撃った。袁渙は、呂布にしたがった。袁渙は、呂布にとどめられた。
このあたり、袁渙伝がおかしい。袁術には「イヤイヤ」付き合い、呂布にも「つかまった」というニュアンス。袁術がキライなら、袁術を攻めた呂布に従えばいい。しかし、そうでもない。不自然である。そこでぼくは、推測する。袁渙は、袁術の使者として、呂布と袁術を調停に行った。呂布は、袁渙を配下に引き入れることを条件に、袁術との同盟を回復した。袁渙が入り込んで呂布をあやつったのか、呂布に留められて仕方なく徐州に残ったのか、そのあたりは、わかりにくい。
呂布は、「董卓を殺した私は、袁氏の恩人」だと思っている。袁渙は、袁隗とすこし血縁がとおいが、呂布は袁渙をたよったのだろう。徐州支配に有用な人材として、用いたのだろう。証拠に、呂布と袁術の関係は、このあと好転する。呂布が袁術を攻めることは、もうなくなる。なお下邳の陳氏に惑わされて、方針は暴走するけれど。
はじめ呂布は、劉備と和親したが、のちに仲がわるい。呂布は袁渙に、「劉備を詈辱する作文をせよ」と言った。袁渙はことわった。「あとから私が、呂布将軍を、詈辱してもいいのですか」と。呂布は、袁渙にせまらず。
ぼくは思う。呂布と劉備の対立は、袁術と曹操の対立である。袁術-呂布は、曹操-劉備と対立した。劉備は、曹操の先兵として、呂布の豫州に食いこんできてる。
袁渙は呂布に、こう言いたいのだ。「劉備を中傷しても、曹操にたいする袁術の劣勢は、かわならない。袁術は、さっさと献帝をうばって、名目をただすべきだ。私(袁渙)も、協力してあげるから」と。袁術は、「献帝とは関係なく、私は皇帝だ」と言っているが、袁渙は「献帝ぬきではダメだ」と、冷静に見抜いている。袁渙がスジのとおったことを言い、袁術が抗えなかったのは、このあたりだろう。劉備の評価なんか、ただの話題のキッカケ。どうでもいい。
袁術から曹操に転職し、曹操に秩序回復を要請
布誅,渙得歸太祖。
呂布が誅され、袁渙は曹操に帰することができた。
ぼくは思う。原文に「得」があって、可能の助動詞だ。曹操に仕えることが、そんなに素晴らしいか。曹操が安定勢力になるのは、呂布、袁術、袁紹が死んでからだ。袁渙は、自分の意思で、袁術や呂布についたはずだ。主君を見る目がなかったので、こんなに放浪することになった。袁渙から見て、曹操が後漢を再建するなんて、予想外だっただろう。
『袁氏世紀』はいう。呂布が敗れた。陳羣の父子も、呂布のもとにいた。陳羣の父子は、曹操に拝した。
袁渙だけが、曹操に頭をさげない。曹操は、袁渙にはばかった。曹操は、官車で、呂布軍の物資をはこばせた。袁渙は、書物を数百巻のみ。おおく物資をもらった人は、はじた。袁渙は言った。「こんなことで名を高めても、はずかしい」と。曹操は、ますます袁渙をおもんじた。
ぼくは思う。どうせ、袁渙の子孫あたりが書いたのだ。袁渙スゲー!という話を、創作したのだろう。かりにも降伏した袁渙が、曹操にえらそうにできない。陳羣は、袁渙をもちあげるための道具。「あの陳羣ですら、曹操に頭をさげたのに」と、ひきあいに出しただけ。
周寿昌はいう。軍中に書物があるなんて、おかしい。ぼくは思う。ほーら、ウソだ。笑
袁渙は、曹操に言った。「兵でなく、徳によって、天下を治めよ」と。
もとは袁渙は、袁術の使者として、呂布に移った。その呂布がほろび、並行して、ますます袁術がダメになる。「呂布が死んだから、使者の役目が終了した。袁術のもとにもどろう」とは考えられない。それほど、曹操の献帝奉戴は、安定しつつある。
曹操は、そのとおりだと思った。袁渙は、沛南部都尉となる。
ぼくは思う。沛国の南方に、賊がいたことになる。だれか。袁術とその残党である。曹操は、揚州をブロックさせるために、袁渙をつかった。『袁氏世紀』が創作したような、破格の厚遇でない。「元・袁術として、後始末をやってこい」という、容赦ない適材適所である。
以下、はぶく。「屯田には、むりに移住させるな」という。梁国相になる。「未亡人や老人を大切にせよ」という。諫議大夫、丞相軍祭酒。財産にきよい。魏国が建国され、劉備の死を悲しみ、、など、また後日。子孫は、おおく高位を輩出した。
最後の裴注で、袁渙の後漢にたいする認識がうかがえるので、やっておきます。
袁宏『漢紀』はいう。はじめ天下が乱れようとしたとき、袁渙は、慨然として歎じた。「漢室は陵遲した。まもなく乱れる。もし天下が擾攘したら、どこに逃げようか。もし天が道を喪わず、民に義が存あれば、私は礼をつよく守ろう。身をかばえるだろう」と。
弟の袁徽は言った。「古人は言った。機を知ることは、神につうじると。時機を見て、行動するから、君子はよい場所にいられる。天理の盛衰において、漢は亡びそうだ。大功をあげるには、大きな事業をなす必要がある。これは君子が、ふかく識ることだ。これは君子が、そっと秘密にすることでもある。兵乱がおきたら、私は、とおくの山海にゆき、身をかばう」と。
兵乱が起きると、袁渙も袁徽も、志どおりに行動した。
袁渙は、袁術のもとで「義」を発揮して、漢室を回復しようとした。呂布を袁術に協力させることが、「義」だと思っていた。おおいなる見当ちがいだった。
袁徽は、交州ににげた。「とおくの山海」とは、交州までゆくこと。揚州では、とおくに逃げたうちに入らない。後漢の危機にたいして、背を向けたことにならない。
袁徽の弟は、袁敏である。武藝ができて、水軍で功績あり。河堤謁者となる。
おわりに
ぼくの読解において袁渙は、袁術が漢室の秩序を回復すると考えた。190年代前半、李傕と、袁紹-曹操によって中原が乱されると、袁術をたよった。曹操が献帝を手にいれたのちも、呂布をみちびいて、袁術の兵力として有効活用し、漢室の秩序を回復しようとした。
袁渙の人格は、たしかに儒教的にすばらしく、清いのでしょう。よく勉強していて、正論をはける。しかし「三公の家・袁氏が、後漢を立てなおす」という、バイアスのかかった信念があった。結果は、オオハズレとなった。それは言っても仕方がない。
今回ははぶいたが、袁渙の家は、魏晋で高官を出しまくった。袁氏の主流は汝南にいて、袁紹と袁術にてピークをむかえ、衰退した。袁渙の家は、陳国に移住した傍流だったから、袁術の風下にたち、ぎゃくに生き残った。裾野のひろい袁氏だから、生き残ることができた。子孫?により、『袁氏世紀』なんて、おめでたい本も作られた。
後漢と、魏晋において、袁氏の影響はおおきい。袁氏の人たちの自負も、おおきい。袁紹、袁術とおなじく、袁渙も、志がおおきかった。110521