表紙 > 蜀漢 > 仮節鉞された関羽の独断行動と外交権について

ツイッターのご指摘を引用

荊州・関羽・鉞について。
ツイッターで、教わったことのメモ。

引用はツイートどおり。赤字は、引用者(ぼく)による。


ぼくの質問:鉞の外交権

tmitsuda3594(満田剛先生)曰く、
『三国志』関羽伝には、孫権が関羽の娘を息子の嫁に迎えようとしたが、関羽は孫権の使者を罵り辱めてこの婚姻を拒否し、孫権が大いに怒ったという話がある。注目したいのは、孫権がこの話を関羽の主君である劉備にした形跡がないことである。関羽が外交権も持っていた可能性を考えてしまう。
また、同伝には、劉備が漢中王となった際に関羽は前将軍となり、節鉞が假せられたとある。以上のようなことから、樊城攻撃以降の関羽は本当に独断で行動していた可能性があると考えている。

Hiro_Satoh(ぼく=このサイト作成者)の質問が、
「節鉞を假せられれば、独断で行動可能。関羽が独断で動いたのは、権限の当然たる行使。珍しい例でない」とは言えませんか?

これに対する、tmitsuda3594(満田剛先生)のご回答が、
「假節鉞」は軍事に関する話で外交権は関係ないと考えております。それに孫権の息子の話も「劉備に話を通さないで関羽が(罵って)拒否した」という行動自体が、外交権の行使の問題になるのではないかと考えております。

史料における鉞の権限

Hiro_Satoh(ぼく)のツイートに対して、Golden_hamsterさんから質問。
仮節鉞で独断行動可能っていうのはどこに根拠があるんでしょうか。仮節などが将兵の処分を独断で行えるというのは史書に明記されてましたが、仮節鉞=独断行動そのものが可能、っていう説明は史書のどこに載ってるんでしょう?

ぼくは、ろくに根拠を知らなかったのですが、
weizhao3594(韋昭)さんが、教えてくださいました。引用させて頂きます。

以下、weizhao3594(韋昭)さんのツイート。

「加鈇鉞」には生殺をほしいままにできる権限という見解は、『後漢書』考獻帝紀や袁紹伝などの注にある。
また、『後漢書』馮勤伝注には「鉞,斧也,以黄金飾之,所以戮人。」とある。「鈇鉞」は色からすれば「黄鉞」であった可能性がある。また、吉川忠夫先生訓注の『後漢書』によると、「假黄鉞」は『後漢書』橋玄伝が初出らしい。将軍が賊を討伐する際に授けられるものだとのこと。

「假鉞」の正史での用例は『三国志』夏侯尚伝しかないことも踏まえると、「假鉞」=「假黄鉞」の可能性が考えられる。とすれば、「假節」+「假鉞」(「假黄鉞」)で、特別扱いを受けた将軍が軍法に違反した将兵を独断で処分し、賊討伐のために独断で軍を動かせる権限を持ったと見ることもできるか。

ちなみに、ちくま訳は「仮鉞(假黄鉞)は内外の諸軍を統率する権限を示す」とするが、これは『三国志集解』武帝紀建安元年の集解からきており、さらに典拠は『晋書』職官志であろう。
ただ、『晋書』の該当箇所を見ると、「又上軍大將軍曹真都督中外諸軍事、假黃鉞,則總統內外諸軍矣。」とある。これを典拠とするのであれば、「仮鉞(假黄鉞)は内外の諸軍を統率する権限を示す」とするのは無理かもしれない。

ちなみに、歴史書『三国志』本文及び裴注の用例を見ると、「假節鉞」とあるのは、曹操・董卓・曹真・曹爽・于禁・満寵・関羽である。その他、「節鉞」を有していたと思われるのは、袁尚・陶濬・孫綝である。『華陽国志』劉先主志によると、張飛・馬超も「假節鉞」であったらしい。
このように見ると、「假節鉞」によって、特別扱いされた将軍が独断で軍法違反の将兵を処分し、軍を動かす権限を持ったという見方も可能かと思う。

ちなみに、『宋書』百官志によると、「假黄鉞」について「則專戮節將,非人臣常器矣。」とあることから、将軍を殺すことができる特別な権限であると思われる。

引用おわり。weizhao3594(韋昭)さん、ありがとうございました。


関羽は樊城の北で、局地戦をした

weizhao3594(韋昭)さんより、伊藤晋太郎先生のコラムをご紹介いただきました。さすがに全文はムリなので、ぼくなりに抜粋。
荊州失陥と関羽:独断で出陣した真の目的より。

関羽が劉備の命を受けて樊城攻めを始めたというのは、フィクション。史料で劉備は、指示していない。樊城攻めは関羽の独断。諸葛亮の「天下三分の計」に示された段取りを無視したもので、無謀な出兵とされる。
だが関羽は、天下統一を目的として、出撃したのではない。局地戦をおこない、樊城より北を、劉備の版図に納める目的で、出撃した。

樊城の北、曹操の根拠地のそばでは、曹操に反対する勢力がいた。関羽が樊城をおとせば、曹操を牽制できた。
218年正月、曹操へのクーデターが未遂。218年、宛で侯音が、関羽と呼応。梁、陜、陸渾も関羽についた。関羽は、樊城の北の、反曹操勢力とむすぶため、樊城を攻めた。

ぼくは思う。もし伊藤先生のおっしゃるとおりなら、関羽は局地戦をミスって、死んだことになる。関羽の死が、ダサくなる。しかし、事実は、こんなものかも。
孫策の死出の旅路も、関羽とおなじパタンだ。「英雄が命を落とすほどの戦いだから、きっと壮大な目的があったに違いない」と。
一般化してみる。
死に際に、人生にピークを迎えさせたい。これは三国ファンに共通の傾向か。『蒼天航路』で顕著。この傾向を反省すれば、死に際の活躍をスポイルし、実際に近づけるかも。諸葛亮の悲壮感は空回りで、たいした見通しなし。姜維は蜀漢の復興に燃えず。鍾会も、何となく。淮南の三叛に、魏晋革命を止める力&志なし。


婚姻と外交権

おなじツイートに絡めて、
Jonathan_apple(朝霧 紅玉さん=徳本商会の作成者)が、質問されました。

興味深かったので、フォロワーとして、勝手に引用させて頂きました。

質問です。君主の身内の婚姻関係は兎も角、臣下の婚姻問題も外交権に関与するのでしょうか。関羽の娘の嫁ぎ先が近隣国のトップの親族だから外交問題なのでしょうか。

これに対するtmitsuda3594(満田剛先生)のご回答が、
劉備政権の董督荊州事の娘と他国の君主の息子の婚姻について、少なくとも「外交問題にならない」ということはないと思いますが。
とすれば、関羽の娘と隣国の君主の子の婚姻という「外交問題」(少なくとも外交的意味を持つ行動)の可否に関する決定権は、一種の「外交権」だと思いますが(ただ、この当時に「外交権」などという言葉がなかったであろうことには注意が必要でしょう)。
そういえば、臣下の親族問題では、諸葛瑾が息子を(他国の宰相である)諸葛亮の養子にする際に君主の孫権に話を通しています。これもよく考えたら凄い話かもしれません。

おわりに

ぼくは、ツイッターを見ているだけなんですが(ごめんなさい)
とても勉強になりました。自分でも調べてみます。101112