方詩銘氏「『気侠』之士袁術」の翻訳
方詩銘「『気侠』之士袁術」(『論三国人物』)を翻訳します。
わりにストイックに訳しますが、もとが面白いので、読んでいただけるはず。
気侠の士・袁術
袁術と袁紹派、名をひとしくして「二袁」と呼ばれた。
『後漢書』何進伝はいう。何進は、袁紹と袁術を用いた。「袁氏は累世寵貴である。だが袁紹が士人を養い、豪傑を得た。従弟の虎賁中郎将・袁術は、気侠をとうとび、ゆえに豪傑を厚遇した」と。袁紹は「遊侠」で、袁術は「気侠をとうとぶ」人だ。何進伝のなかで、袁紹と袁術は、並列される。
また、汝南袁氏の背景をもつことと、遊侠や気侠は、逆接でつながれる。「汝南袁氏なのに」となる。汝南袁氏なら、遊侠や気侠と交わってはいけないとでも、言いたそうだ。
何進は朝政をにぎり、大将軍である。宦官を倒すトップだ。袁紹と袁術は何進に重用され、宦官との戦いに、身を投じてゆく。袁紹と袁術は、どちらも同じ何進に重んじられたが、やがて袁紹と袁術は敵対する。
宦官が消滅したのち、政権は董卓がにぎる。二袁や関東の牧守は、董卓との戦争をはじめた。董卓は『後漢紀』で、「二袁児を殺せば、天下はおのずと私に服す」と言った。董卓との戦争に参加したのは、以下だ。
後将軍の袁術、冀州牧の韓馥、豫州刺史の孔チュウ、兗州刺史の劉岱、河内太守の王匡、渤海太守の袁紹、陳留太守の張邈、東郡太守の橋瑁、山陽太守の袁遺、済北相の鮑信、行奮武将軍の曹操らだ。
みな、当時の著名な人物だ。董卓は、関東の牧守が眼中になく、袁紹と袁術だけを重視した。二袁を重んじる点で、董卓と何進は同じである。
二袁と並列されても、袁紹と袁術には、きわめて大きな性格や才能の差異があった。袁術は一生をつうじ、「気侠」な性格が関わる。では「気侠」とは何か。検討すべき問題だ。
『三国志』袁術伝はいう。「袁術は侠気をもって聞こえた」と。袁術の家は名門だから、孝廉にあげられ、虎賁中郎将になった。名門というのが、袁術の一側面だ。もう一側面は、完全に名門に由来するわけでない「侠気」である。何進伝にある「侠気」にも記された、「気」とはどんな意味か。
『呂氏春秋』審時の注がいう。「気とは、力だ」と。これは遊侠がもつ「気」の説明として、足りない。そこで『史記』を見る。『史記』季布伝はいう。「季布は、気は任侠をなす。楚で有名だ。楚人の諺言はいう。黄金100ですら、季布の1回のイエスに劣る」と。『後漢書』王カン伝はいう。「王カンは、わかくして侠を好み、気力をとうとんだ」と。『後漢書』戴良伝はいう。「戴遵は、施しを好み、侠気をとうとんだ。食客が3、4百人いた」と。『後漢書』張堪伝はいう。「張堪と廉範は、気侠をもって名を立てた。困った人を助けた」と。
気は任侠をなす、侠を好んで気力をとうとぶ、侠気をとうとぶ。これらを省略して、気侠という。これら遊侠の士の特徴だ。ただし、説明が足りない。引用した列伝から、下は人民の困難をすくい(季布と戴遵)、上は国家の緊急におもむく(張堪と廉範)のが、気侠の特徴といえる。戴遵が「関東の大豪」と呼ばれたのは、気侠の好例だ。
「気侠」と記される袁術も、おなじ行動をした。
『北堂書鈔』巻61、設官部はいう。「公路は、気をもって、人を高しとす」と。『北堂書鈔』は、『三国志』魏志をひく。袁術は長水校尉となった。「路中カン鬼の袁長水」と呼ばれたと。これは『三国志』魏志に見えない。王沈『魏書』からの引用だろう。
この記述は、季布や王カンと、完全に一致する。何進伝や袁術伝とも、完全に一致する。「路中カン鬼の袁長水」とは、「道路に平らかならざるを見れば、刀をぬきて相ひ助く」という意味だろう。季布への諺言と同じだ。袁術の遊侠的な行動、気侠な性格をよくあらわす。
後漢末、遊侠が横行した。「時難をすくい、同類をすくう」というのは、遊侠が守るべき第一のルールだ。宦官がかたむけた後漢は「時難」である。ともに宦官と戦うのが「同類」である。だから袁術は、何進の部将・呉匡と張璋をひきい、張讓らを攻めた。袁術が、気侠の性格をあらわした行動だ。
袁術と孫堅
袁術の(名門でない)新しい生涯で、もっとも密接な関係を持ったのが孫堅だ。袁術は南陽にいて、孫堅は豫州にいた。荊州を併せようとねらう。
袁術伝はいう。袁術は、董卓の禍いを畏れ、南陽に出奔したと。南陽は、戸数が数百万である。袁術は、はじめに南陽をとり、やがて荊州全土をとるつもりだ。歴史の幸運が、袁術におとずれた。「軽侠」の士・孫堅が、南陽にきた。孫堅は、董卓を討つと言いながら、味方の荊州刺史・王濬と、南陽太守の張咨を殺した。孫堅は袁術に南陽をすすめた。新任の荊州刺史・劉表も、袁術を南陽太守とした。袁術は孫堅を豫州刺史とした。袁術と孫堅の、長くて固い連盟が結ばれた。
孫堅は豫州の各郡をおとし、洛陽にせまる。袁術は、南陽の兵をすべて集めた。袁術と孫堅の連盟は、この地域で重要な割拠勢力である。
宦官を討った袁紹は、政治集団をつくった。袁術もその一員だ。だが二袁は対立した。『三国志』曹真伝がひく『魏略』はいう。袁術の部党(政治集団)が、曹操を攻却した。曹操は、曹真の父・秦伯南に逃げこんだと。
この史料に、袁術をトップとする政治集団が見える。袁術の集団は、袁紹の集団の主要人物・曹操を攻めた。曹操を「攻却」したのだから、疑いなく袁術の集団に、大量の遊侠の士がいる。「軽侠」の士・孫堅は、袁術の集団で、主要なメンバーとなった。
董卓との戦いが矛盾し、袁術と袁紹の対立がひどい。袁紹と曹操と、袁術と孫堅が、中原をうばいあう。先に動いたのは、袁紹と曹操だ。
『三国志』孫堅伝がひく『呉録』はいう。袁紹は、会稽の周グウを豫州刺史とした。孫堅の職位にぶつけた。周グウは袁紹集団の人物だ。『三国志』孫堅伝がひく『会稽典録』はいう。曹操が義兵をおこすと、周グウは兵を集めて、曹操の軍師となった。のちに豫州で孫堅に敗れたと。豫州の争奪は、曹操と袁紹がしかけた。周グウは曹操の下にいるから、豫州を攻めたのは、おもに曹操のしわざだ。
豫州に拠りつつ、袁術と孫堅は荊州を忘れない。劉表との、短期の連盟をやぶった。袁術は孫堅と同盟したとき、すでに劉表の荊州をうばう気だった。南陽は荊州の一部だ。劉表は後漢が任じた刺史だが、事実上は、袁術と劉表が2人で荊州を治めた。『三国志』袁術伝はいう。袁術は公孫瓚と、袁紹は劉表と結んだと。孫堅は豫州にいる。袁術は、南に劉表がいて、北に袁紹と曹操がいる。袁術にとって、厳峻な局面である。
『後漢書』劉表伝、『三国志』孫堅伝によると、初平三年、孫堅は黄祖に殺された。曹操は兗州に拠ったばかりで、兗州が安定しないから、曹操は豫州を攻められない。袁術と孫堅は、さきに兵力を荊州に集中したが、合理的な作戦だ。だが歴史の偶然のせいで、孫堅は死んだ。袁術は劉表に勝てず、しかも中原で曹操にも敗れる。孫堅の死は、重大な打撃だ。
袁術と曹操が、封丘で戦う
袁術は、袁紹と同じく「気侠」だから、「二袁」と並列されたのは、偶然でない。だが袁術には、厳重な欠点がある。『三国志』呂布伝がひく『九州春秋』はいう。呂布は袁術の手紙を指さし、「袁術は天下をなめてる」と言った。呂布の発言は、袁術の実態をしめす。『三国志』劉表伝がひく『戦略』で、蒯越は劉表に言った。「袁術は、勇だが断がない」と。勇敢だが、深い思慮に欠くと。孔融は袁術を、「墓の骨」と言った。
蒯越のセリフで、袁術を勇敢とする部分は「気侠」と一致する。だが思慮に欠く部分が、封丘での敗戦をまねく。
この話で、袁術は3つの性質を併せもつ。名門、気侠、無断。まとまった。
兗州は、黄河と済水の間。兗州刺史の劉岱が死んだので、曹操が入った。袁紹集団のうち、兗州をもつのは曹操だ。豫州のときと同じく、袁術は曹操と戦った。
『三国志』呂布伝がひく『典略』はいう。金尚は、献帝の初めに兗州刺史となった。曹操がいるので、南へ袁術を頼った。つまり後漢は、袁紹が曹操を刺史に任命したことを、認めなかったのだ。『三国志』呂布伝がひく『英雄記』で、呂布は徐州に入ったとき、袁術に手紙を書く。袁術は呂布に返信した。「むかし私は、金尚をひきいて封丘に来たが、曹操に破られた。滅亡しそうだった。でも呂布が、兗州を破ってくれた」と。
この手紙は短いが、3つの問題がある。
1つ、なぜ袁術は金尚を率いたものか。『典略』と合わせれば、金尚は袁術を頼る前、兗州に行ったのだ。袁術は後漢の旗印をもち、武力で兗州を奪うことになる。2つ、封丘は兗州の陳留郡にある。袁術は陳留郡に入れず、曹操に迎撃されたはずだ。3つ、袁術は曹操に完敗した。滅亡とは本当か。
封丘の戦いを、くわしく分析しよう。『三国志』武帝紀はいう。初平四年、袁術は陳留に入り、封丘に屯した、、。『三国志』袁術伝はいう、、。それぞれに詳しい武帝紀と袁術伝を、補いあって読んだら、どうなるか。
まず『続漢書』郡国志によれば、封丘、匡亭、襄邑、太寿、雍丘は、みな兗州の陳留郡だ。寧陵は、豫州の梁国だ。九江は揚州で、定陶は兗州の済陰郡だ。明らかに、この戦いは兗州の内部でおきた。袁術は豫州の兵を、陳留に入れた。大軍が、封丘にいる。あわせて劉詳を、平丘の匡亭に置いた。袁術は、先に曹操が、主力の封丘を攻めると思った。匡亭は、曹操の退路だ。封丘と匡亭から、曹操をはさみ撃つつもりだ。だが曹操は、袁術の作戦を見ぬき、先に匡亭を攻めた。匡亭は破れ、封丘に合わさる。『後漢書』袁術伝では、雍丘とするが疑わしい。袁術は、封丘をすてて襄邑にゆく。曹操が太寿で、川を決壊させたので、袁術は寧陵にゆく。すでに豫州の境界をこえた。最後には、揚州の九江に逃げた。まさに滅亡しかけた。
封丘の戦いは、袁術の性格が、よく表れた。袁術は、「勇だが断なく」、「気侠」だ。袁術は豫州をおさえ、荊州を奪いたいが、孫堅が死んだ。孫堅の部隊は、孫賁が九江でひきいた。孫賁は袁術の主力だが、封丘に参戦しない。
武帝紀と袁術伝にある、「黒山余賊」と「匈奴於夫羅」は、先年に曹操に敗れた人たちだ。だから曹操を怨んだ。黒山も匈奴も、袁術と長く連盟しないので、封丘で戦力にならない。袁術は「勇だが断なし」なので、黒山と匈奴を頼ってしまった。わずかに後漢の金尚を掲げたが、無謀すぎて曹操に完敗した。
封丘は、袁術の「気侠」な性格をよく反映したものだ。
袁術がこのようになるとは
どうして袁術は、九江で持ち直したか。
『三国志』袁術伝にひく『英雄記』はいう。揚州刺史の陳瑀が袁術を拒んだので、下邳に追い出したと。『三国志』呂範伝にひく『九州春秋』はいう。袁術は陳瑀を、楊州牧とした。袁術が封丘で敗れると、南人が反した。袁術は淮北で兵を集めた。陳瑀は怯え、袁術を攻めない。陳瑀は下邳ににげたと。
なぜ袁術は、陰陵で兵を集められたか。史料にない。だが袁術は、もと孫堅の部隊をもつ。袁術が集めた兵とは、孫賁だろうか。考察が必要だ。
『三国志』潘濬伝がひく『呉書』はいう。父のゼイシは、孫堅に従い、功績がある。孫堅はゼイシを、九江太守とした。のちに呉郡太守に転じたと。ここから、九江が孫堅の勢力範囲とわかる。『三国志』孫賁伝がいう。袁紹は会稽の周昂を、九江太守とした。袁術は孫賁に命じ、陰陵で周昂を破ったと。『三国志』孫堅伝がひく『会稽典録』はいう。袁紹の揚州刺史・周グウは、孫堅と豫州を奪いあう。袁紹の九江太守・周昂は、孫堅と九江を奪いあう。陰陵で周昂をやぶったのは、孫堅の下にいる孫賁の軍隊だ。陰陵は、九江郡に属す。九江郡は、孫堅の勢力範囲で、孫賁がいた地域だ。袁術が九江に奔ったのは、孫賁がいたからだ。
袁術は陳瑀に拒まれ、陰陵にきた。これも孫賁を頼ったのだ。孫賁と合わさり、袁術は江淮に割拠した。袁術は、孫堅の遺した軍事力に頼った。
揚州にきた後、袁術はみずから徐州伯に封じた。徐州を奪うつもりだ。徐州は戸数が百万だ。徐州牧の陶謙は、小沛の劉備に徐州牧を継がせろと遺言した。劉備は、麋竺や陳登に支えられた。劉備は実力がないから、袁術を気にかけて辞退した。『三国志』劉備伝はいう。「袁術に徐州を与えよ」と。陳登は袁術を批判した。袁紹も、劉備を支持した。袁紹の支持をもらって初めて、劉備は徐州に拠った。
袁術は呂布に手紙した。「私は劉備など知らん」と。袁術の眼中に、劉備はない。袁紹の支持にもとづき、劉備が徐州に拠ると、袁術は怒って徐州を攻めた。『三国志』呉志の妃ヒン伝はいう。袁術が劉備を攻めたとき、呉景は広陵太守となった。これは袁術が、すでに徐州の一部を占有していたと示す。『三国志』劉備伝にひく『英雄記』はいう。張飛を下邳におく。劉備と袁術は、淮陰の石亭で勝敗した。曹豹が下邳で反し、張飛を殺したい。曹豹は呂布を招いた。呂布は、東の広陵にゆき、袁術に敗れたと。これは袁術が、広陵を占拠したことを示す。
広陵というか、淮水の下流を袁術が抑えたと考えればよいのかな。
袁術と劉備が戦うあいだ、呂布が徐州を乗っ取った。袁術と呂布は、ときに戦い、ときに和した。曹操に消滅させられて、呂布と袁術の戦いは止んだ。
『後漢書』袁術伝と、『三国志』袁術伝は、どちらも袁術が寿春で、帝を号し、「仲家」あるいは「仲氏」と号を建てたとする。ただし『三国志』武帝紀につく『魏武故事』が載せる「己亥令」には、袁術の称帝に関する1つの問題がある。
袁術は「僭号」したと言うが、始終いちども、天下に通告して、正式に即位したとしない。袁術が曹操をおそれたからだとする。これは曹操の口から出たことだから、信じられる。
ただし呂布と孫策は、僭号の一点のみを責めて、袁術を攻めた。袁術が自己の利益をはかったからだ。『三国志』孫策伝がひく『江表伝』はいう。袁術が公卿をおき、天を郊して、地を祀った。だから孫策は、孫堅からの連盟を破棄した。曹操は詔勅の名のもと、呂布と孫策に、袁術を攻めさせた。
『魏武故事』は、どうやら怪しい、というのが方詩銘氏の立場だろう。賛成。
「袁術がこのようになるとは」と。これは袁術の最期の言葉だ。これも「勇だが断なし」「気侠」な性格を反映したものだ。袁術が、匹夫の勇だと示す。深謀ある軍事家や政治家でない。同時代に、性格がおなじ孫堅と連盟した。呂布と、友や敵となった。孫堅も呂布も「軽侠」の士だ。袁術の「気侠」に通じる。蒯越が言った「勇だが断なし」は、袁術の形容として、充分に適切だ。「気侠」が、袁術を成功させ、失敗させもした。110125
「孫堅と袁術」「孫策と袁術」という節を持った、孫堅と孫策の話もやりたい。