諸葛瑾にかんする史料あつめ
諸葛瑾にかんする史料を集めてみました。
『三国志集解』を抄訳してひきました。『三国志集解』での引用と、ちくま訳の索引から、諸葛瑾の登場シーンを網羅しました。名前だけ出てきて、本人が出てこないところは、引いてません。今回は、ぼくが抄訳してません。史料の出典を明記してますので、必要に応じて、ちくま訳をご参照ください。
陳寿が緑字、裴松之が青字、盧弼やぼくは黒字です。
諸葛の出自
諸葛瑾 字子瑜、琅邪 陽都人也。
▼裴注『吳書』曰:其先葛氏、本琅邪諸縣人、後徙陽都。陽都先有姓葛者、時人謂之諸葛、因以為氏。
瑾少游京師、治毛詩、尚書、左氏春秋。遭母憂、居喪至孝、事繼母恭謹、甚得人子之道。
▼裴注『風俗通』曰:葛嬰為陳涉將軍、有功而誅、孝文帝追録、封其孫諸縣侯、因並氏焉。
此與吳書所說不同。
▽盧弼は何焯をひく。前漢の文帝のとき、侯に封じられたのは十人。葛姓の人はいない。葛姓では、劉邦が樂毅の後裔を一郷に封じた。葛嬰は、何の功徳により孫が県侯に封じられるか。『風俗通』は誤りである。
▽盧弼は周寿昌をひく。葛嬰は、陳渉の部将として功績がある。漢室の建国に功績はない。まして葛嬰は誅殺された。前漢の文帝は、むやみに県侯を封じない。漢書「功臣表」にもない。『風俗通』は信じられない。
▽『史記』巻一八・陳渉世家曰:陳勝者、陽城人也、字涉。(中略)陳勝自立為將軍、攻大澤郷、收而攻蘄。
蘄下、乃令符離人葛嬰 將兵徇蘄以東。當此時、諸郡縣苦秦吏者、皆刑其長吏、殺之以應陳涉。
葛嬰至東城、立襄彊為楚王。嬰後聞 陳王已立、因殺襄彊、還報。
至陳、陳王誅殺葛嬰。陳王令魏人周市北徇魏地。
▼『漢書』巻七七・諸葛豊伝曰:諸葛豐 字少季、琅邪人也。以明經 為郡文學、名特立剛直。
貢禹為御史大夫、除豐為屬、舉侍御史。元帝擢為司隸校尉、刺舉無所避、
京師 為之 語曰:「間何闊、逢諸葛。」上 嘉其節、加豐秩 光祿大夫。
時、侍中許章 以外屬貴幸、奢淫不奉法度、賓客犯事、與章相連。
豐案劾章、欲奉其事、適逢 許侍中 私出、豐駐車 舉節詔章曰:「下」欲收之。
章迫窘、馳車去、豐追之。許侍中 因得入宮門、自歸上。豐亦上奏、於是 收豐節。司隸去節 自豐始。
豐上書謝曰:「(前略)常願捐 一旦之命、不待時 而斷奸臣之首、懸於都市、編書其罪、
使四方 明知為惡之罰、然後 卻就斧鉞之誅、誠臣 所甘心也。(後略)」上不許。是後、所言益不用。(後略)
豐以春夏 系治人、在位 多言其短。上徙豐 為城門校尉、豐上書 告光祿勳周堪、光祿大夫張猛。
上不直豐、乃制詔禦史:「城門校尉豐、前與光祿勳堪、光祿大夫猛 在朝之時、數稱言堪猛之美。
豐 前為司隸校尉、不順四時、修法度、專作苛暴、以獲虛威、朕不忍 下吏、以為 城門校尉。
不内省諸己。而反怨堪猛、以求報舉、告案無證之辭、暴揚難驗之罪、毀譽恣意、不顧前言、
不信之大者也。朕憐豐之耆老、不忍加刑、其免為庶人。」終於家。
▼『三国志』に立伝された諸葛氏の列伝を比較する
▽巻二八・諸葛誕伝曰:諸葛誕字公休、琅邪陽都人、諸葛豐後也。初以尚書郎 為滎陽令。
▽巻三五・諸葛亮伝曰:諸葛亮字孔明、琅邪陽都人也。漢司隸校尉諸葛豐後也。
父珪、字君貢、漢末為太山郡丞。亮早孤、從父玄為袁術所署豫章太守、玄將亮及亮弟均之官。
會漢朝更選硃皓代玄。玄素與荊州牧劉表有舊、往依之。
▼諸葛瑾の父と思われる諸葛玄に関連する史料を検討する
▽巻三五・諸葛亮伝注引『獻帝春秋』曰:初、豫章太守周術病卒、劉表上諸葛玄為豫章太守、治南昌。
漢朝聞周術死、遣朱皓代玄。皓從揚州太守劉繇求兵擊玄、玄退屯西城、皓入南昌。
建安二年正月、西城民反、殺玄、送首詣繇。此書所云、與本傳不同。
▽巻四九・劉繇伝曰:漢命加繇為牧、振武將軍、眾數萬人、孫策東渡、破英、能等。
繇奔丹徒、遂溯江南保豫章、駐彭澤。笮融先至、殺太守硃皓、代領郡事。
繇進討融、為融所破、更複招合屬縣、攻破融。融敗走入山、為民所殺、繇尋病卒、時年四十二。
▽巻四九・劉繇伝注引『献帝春秋』曰:是歲、繇屯彭澤、又使融助皓 討劉表所用太守諸葛玄。
許子將謂繇曰:「笮融出軍、不顧命名義者也。硃文明善推誠以信人、宜使密防之。」
融到、果詐殺皓、代領郡事。入居郡中。
孫権への仕官
漢末避亂江東。
▼盧弼は、巻一・武帝紀をひく。以下、盧弼より長めの引用。
興平元年春、太祖自徐州還、初、太祖父嵩、去官後還譙、董卓之亂、
避難琅邪、為陶謙所害、故太祖志在複讎東伐。夏、使荀彧、程昱守鄄城、複征陶謙、拔五城、遂略地至東海。
還過郯、謙將曹豹與劉備屯郯東、要太祖。太祖擊破之、遂攻拔襄賁、所過多所殘戮。
值孫策卒、孫權姊婿 曲阿弘咨 見而異之、薦之於權。
▼孫晧伝注引『呉録』に、弘咨の孫・弘璆が見える。中書令、太子少傅。ちくま索引で、弘咨は他になし。
▼巻四七・呉主伝曰:五年、策薨、以事授權、權哭未及息。(中略)是時惟有會稽、吳郡、丹楊、豫章、廬陵、
然深險之地猶未盡從、而天下英豪布在州郡、賓旅寄寓之士以安危去就為意、未有君臣之固。
張昭、周瑜等謂權可與共成大業、故委心而服事焉。曹公表權為討虜將軍、領會稽太守、屯吳、使丞之郡行文書事。
待張昭以師傅之禮、而周瑜、程普、呂範等為將率。招延俊秀、聘求名士、魯肅、諸葛瑾等始為賓客。
分部諸將、鎮撫山越、討不從命。
▽同注引『江表伝』曰:初策表用李術為廬江太守、策亡之後、術不肯事權、而多納其亡叛。」
權移書求索、術報曰:「有德見歸、無德見叛、不應復還。」權大怒、(中略)舉兵攻術於皖城。術閉門自守、
求救於曹公。曹公不救。糧食乏盡、婦女或丸泥而吞之。遂屠其城、梟術首、徙其部曲三萬餘人。
▼諸葛瑾とおなじ就職経路をたどるのは歩隲と厳畯だ。
▼巻五二・歩隲伝曰:步騭字子山、臨淮淮陰人也。世亂、避難江東、單身窮困、與廣陵衛旌同年相善、
俱以種瓜自給、晝勤四體、夜誦經傳。會稽焦征羌、郡之豪族、人客放縱。騭與旌求食其地。(中略)
孫權為討虜將軍、召騭為主記、除海鹽長、還辟車騎將軍東曹掾。
▽同注引:吳書曰:歲餘、騭以疾免、與琅邪諸葛瑾、彭城嚴畯俱游吳中、並著聲名、為當時英俊。▽同伝は、潁川の周昭の著作をひく。厳畯、歩隲、諸葛瑾を並べ、直後で魯粛を論ず。周昭は『呉書』編者。
▼巻五四・厳畯伝曰:嚴畯字曼才、彭城人也。少耽學、善詩、書、三禮、又好說文。避亂江東、
與諸葛瑾、步騭齊友善。性質直純厚、其於人物、忠告善道、志存補益。張昭進之於孫權、權以為騎都尉、
從事中郎。及橫江將軍魯肅卒、權以畯代肅、督兵萬人、鎮據陸口。眾人鹹為畯喜、畯前後固辭。
與魯肅等並見賓待。
▼巻五四・魯粛伝曰:周瑜為居巢長、將數百人故過候肅、并求資糧。肅家有兩囷米、各三千斛、
肅乃指一囷與周瑜、瑜益知其奇也、遂相親結、定僑札之分。袁術聞其名、就署東城長。
肅見術無綱紀、不足與立事、乃攜老弱將輕俠少年百餘人、南到居巢就瑜。瑜之東渡、因與同行。
劉子揚與肅友善、遺肅書曰:「急還迎老母、無事滯於東城。近鄭寶者、今在巢湖、擁眾萬餘、處地肥饒、
廬江閒人多依就之、況吾徒乎。觀其形勢、又可博集、時不可失、足下速之。」肅答然其計。
葬畢還曲阿、欲北行。會瑜已徙肅母到吳、肅具以狀語瑜。時孫策已薨、權尚住吳、瑜謂肅曰:
「承運代劉氏者、必興于東南、推步事勢、當其曆數。吾方達此、足下不須以子揚之言介意也。」肅從其言。
瑜因薦肅才宜佐時、當廣求其比、以成功業、不可令去也。權即見肅、與語甚悅之。
▼同伝曰:時諸葛亮與備相隨、肅謂亮曰「我子瑜友也」、即共定交。
後為權長史、轉中司馬。
▼盧弼は胡三省をひく。ときに孫権は、配下の諸将を別部司馬とした。中司馬とは、けだし中軍司馬である。諸葛瑾は長史となり、中司馬に転じた。諸葛瑾は、けだし重んじられた。盧弼は考える。孫権伝の建安十四年、劉備は上表して、孫権を行車騎将軍とした。けだし諸葛瑾は、車騎将軍の中司馬である。
▼盧弼のいう別部司馬とは、例えば誰か。
▽巻五五・蒋欽伝曰:蔣欽字公奕、九江壽春人也。孫策之襲袁術、欽隨從給事。及策東渡、拜別部司馬、授兵。與策周旋、平定三郡、又從定豫章。調授葛陽尉、曆三縣長、討平盜賊、遷西部都尉。
會稽冶賊呂合、秦狼等為亂、欽將兵討擊、遂禽合、狼、五縣平定、徙討越中郎將、以經拘、昭陽為奉邑。
賀齊討黟賊、欽督萬兵、與齊並力、黟賊平定。
▽巻五五・周泰伝曰:周泰字幼平、九江下蔡人也。與蔣欽隨孫策為左右、服事恭敬、數戰有功。
策入會稽、署別部司馬、授兵。權愛其為人、請以自給。策討六縣山賊、權住宣城、使士自衛、不能千人、
意尚忽略、不治圍落、而山賊數千人卒至。權始得上馬、而賊鋒刃已交於左右、或斫中馬鞍、眾莫能自定。
惟泰奮激、投身衛權、膽氣倍人、左右由泰並能就戰。賊既解散、身被十二創、良久乃蘇。是日無泰、權幾危殆。
策深德之、補春穀長。後從攻皖、及討江夏、還過豫章、複補宜春長、所在皆食其征賦。
從討黃祖有功。後與周瑜、程普拒曹公於赤壁、攻曹仁於南郡。荊州平定、將兵屯岑。
曹公出濡須、泰複赴擊、曹公退、留督濡須、拜平虜將軍。
劉備と荊州を分割
建安二十年(215)、權遣瑾使蜀通好劉備、與其弟亮俱公會相見、退無私面。
▼巻四七・呉主伝曰:建安十九年五月、權征皖城。閏月、克之、獲廬江太守朱光及參軍董和、男女數萬口。
是歲劉備定蜀。權以備已得益州、令諸葛瑾從求荊州諸郡。備不許、曰:「吾方圖涼州、涼州定、
乃盡以荊州與吳耳。」權曰:「此假而不反、而欲以虛辭引歲。」遂置南三郡長吏、關羽盡逐之。
權大怒、乃遣呂蒙督鮮于丹、徐忠、孫規等兵二萬取長沙、零陵、桂陽三郡、使魯肅以萬人屯巴丘以禦關羽。
權住陸口、為諸軍節度。蒙到、二郡皆服、惟零陵太守郝普未下。會備到公安、使關羽將三萬兵至益陽、
權乃召蒙等使還助肅。蒙使人誘普、普降、盡得三郡將守、因引軍還、與孫皎、潘璋并魯肅兵並進、拒羽於益陽。
未戰、會曹公入漢中、備懼失益州、使使求和。權令諸葛瑾報、更尋盟好、遂分荊州長沙、江夏、桂陽以東屬權、
南郡、零陵、武陵以西屬備。備歸、而曹公已還。權反自陸口、遂征合肥。合肥未下、徹軍還。
兵皆就路、權與淩統、甘寧等在津北為魏將張遼所襲、統等以死扞權、權乘駿馬越津橋得去。
▽先主伝、諸葛亮伝に、諸葛瑾が交渉した記事はない。ここでは魯粛伝をひかない。
與權談說諫喻、未嘗切愕、微見風彩、粗陳指歸、如有未合、則舍而及他、徐複讬事造端、以物類相求、
於是權意往往而釋。吳郡太守朱治、權舉將也、權曾有以望之、而素加敬、難自詰讓、忿忿不解。
瑾揣知其故、而不敢顯陳、乃乞以意私自問、遂於權前為書、泛論物理、因以己心遙往忖度之。
畢、以呈權、權喜、笑曰:「孤意解矣。顏氏之德、使人加親、豈謂此邪?」
▼巻五六・朱治伝曰:朱治字君理、丹楊故鄣人也。隨孫堅征伐。從破董卓於陽人、入洛陽。(以上抜粋)
會堅薨、治扶翼策、依就袁術。後知術政德不立、乃勸策還平江東。時太傅馬日磾在壽春、辟治為掾、遷吳郡都尉。是時吳景已在丹楊、而策為術攻廬江、於是劉繇恐為袁、孫所并、遂搆嫌隙。而策家門盡在州下、
治乃使人於曲阿迎太妃及權兄弟、所以供奉輔護、甚有恩紀。治從錢唐欲進到吳、吳郡太守許貢拒之於由拳、
治與戰、大破之。貢南就山賊嚴白虎、治遂入郡、領太守事。策既走劉繇、東定會稽。
權年十五、治舉為孝廉。後策薨、治與張昭等共尊奉權。建安七年、權表治為呉郡太守、行扶義將軍。
(中略)權歷位上將、及為吳王、治每進見、權常親迎、執版交拜、饗宴贈賜、恩敬特隆、至從行吏、
皆得奉贄私覿、其見異如此。
▽盧弼は周寿昌をひく。孫権が朱治に怒った記事は、朱治伝にない。重複を避け、諸葛瑾伝のみ載った。
權又怪校尉殷模、罪至不測。群下多為之言、權怒益甚、與相反覆、惟瑾默然、權曰:「子瑜何獨不言?」
瑾避席曰:「瑾與殷模等遭本州傾覆、生類殄盡。棄墳墓、攜老弱、披草萊、歸聖化、在流隸之中、蒙生成之福、
不能躬相督厲、陳答萬一、至令模孤負恩惠、自陷罪戾。臣謝過不暇、誠不敢有言。」
權聞之愴然、乃曰:「特為君赦之。」
夷陵の戦い
後從討關羽、封宣城侯、以綏南將軍代呂蒙領南郡太守、住公安。
▼盧弼はいう。宣城は、孫策伝にある。綏南将軍は、定員一人。孫呉が置く。
▼盧弼は『郡国志』をひく。荊州の南郡は、郡治が広陵だと。呉増僅はいう。洪志は南郡の郡治を江陵という。いま周瑜が南郡太守となり、江陵に駐屯した(周瑜伝)。呂蒙が荊州を襲破し、南郡太守を領す。ときに江陵は築城されない。呉志はいう。赤烏十一年、江陵に初めて築城したと。ゆえに呂蒙は、公安にいる。呂蒙伝はいう。呂蒙が病気になり、孫権は公安で見舞ったと。諸葛瑾は呂蒙に代わり、公安にいる。諸葛瑾伝にある。のちに曹魏が南郡を攻めるとき、長江を渡った。夏侯尚伝、王昶伝にある。『宋書』はいう。孫呉の南郡は、郡治が江南だ。晋代は公安を江安と改めた。『資治通鑑』に胡三省が注釈する。西晋が孫呉を平定し、江南を南郡を、南平郡とし、郡治を考案と下。以上から孫呉の南郡は、つねに公安が治所だ。(後略)
▼巻五一・宗室伝曰:(孫皎)輕財能施、善於交結、與諸葛瑾至厚、委廬江劉靖以得失、江夏李允以眾事、
廣陵吳碩、河南張梁以軍旅、而傾心親待、莫不自盡。(中略)禽關羽、定荊州、皎有力焉。建安二十四年卒。
劉備東伐吳、
▼巻三二・先主伝曰:章武元年(中略)秋七月、遂帥諸軍伐吳。孫權遣書請和、先主盛怒不許、
吳將陸議、李異、劉阿等屯巫、秭歸。將軍吳班、馮習自巫攻破異等、軍次秭歸、武陵五谿蠻夷遣使請兵。
▼巻五八・陸遜伝曰:黃武元年、劉備率大眾來向西界、權命遜為大都督、假節、督朱然、潘璋、宋謙、韓當、
徐盛、鮮于丹、孫桓等五萬人拒之。備從巫峽、建平連圍至夷陵界、立數十屯、以金錦爵賞誘動諸夷、
使將軍馮習為大督、張南為前部、輔匡、趙融、廖淳、傅肜等各為別督、先遣吳班將數千人於平地立營、
欲以挑戰。諸將皆欲擊之、遜曰:「此必有譎、且觀之。」
吳王求和、瑾與備箋曰:「奄聞旗鼓來至白帝、或恐議臣以吳王侵取此州、危害關羽、怨深禍大、不宜答和、
此用心於小、未留意於大者也。試為陛下論其輕重、及其大小。陛下若抑威損忿、蹔省瑾言者、計可立決、
不復咨之於群後也。陛下以關羽之親何如先帝?荊州大小孰與海內?俱應仇疾、誰當先後?若審此數、易於反掌。」
▼盧弼は胡三省をひく。諸葛瑾の発言は、天下の公だ。劉備と和解し、曹魏と国交を保てば、素晴らしいと。何焯はいう。諸葛瑾の言葉どおり、劉備は私怨を忘れるべきだ。盧弼は諸葛瑾を正しいと考える。
▼臣松之雲:(中略)載之於篇、實為辭章之費。
時或言瑾別遣親人與備相聞、權曰:「孤與子瑜有死生不易之誓、子瑜之不負孤、猶孤之不負子瑜也。」
▼裴注『江表傳』曰:瑾之在南郡、人有密讒瑾者。此語頗流聞於外、陸遜表保明瑾無此、宜以散其意。權報曰:
「子瑜與孤從事積年、恩如骨肉、深相明究、其為人非道不行、非義不言。玄德昔遣孔明至吳、孤嘗語子瑜曰:
卿與孔明同產、且弟隨兄、於義為順、何以不留孔明?孔明若留從卿者、孤當以書解玄德、意自隨人耳。
子瑜答孤言:'弟亮以失身於人、委質定分、義無二心。弟之不留、猶瑾之不往也。'其言足貫神明。
今豈當有此乎?孤前得妄語文疏、即封示子瑜、並手筆與子瑜、即得其報、論天下君臣大節、一定之分。
孤與子瑜、可謂神交、非外言所間也。知卿意至、輒封來表、以示子瑜、使知卿意。」
曹魏と荊州を争う
黄武元年(222)、遷左將軍、督公安、假節、封宛陵侯。
▼盧弼はいう。長江沿いの要地に、孫呉はすべて督を置いた。宛陵は孫策伝にある。
▼裴注『吳録』曰:曹真、夏侯尚等圍硃然於江陵、又分據中州、瑾以大兵為之救援。
瑾性弘緩、推道理、任計畫、無應卒倚伏之術、兵久不解、權以此望之。
及春水生、潘璋等作水城於上流、瑾進攻浮橋、真等退走。雖無大勳、亦以全師保境為功。
▽巻四七・呉主伝曰:黃武元年(222)春正月、陸遜部將軍宋謙等攻蜀五屯、皆破之、斬其將。
三月、鄱陽言黃龍見。蜀軍分據險地、前後五十餘營、遜隨輕重以兵應拒、自正月至閏月、大破之、
臨陳所斬及投兵降首數萬人。劉備奔走、僅以身免。
初權外託事魏、而誠心不款。魏乃遣侍中辛毗、尚書桓階往與盟誓、幷徵任子、權辭讓不受。
秋九月、魏乃命曹休、張遼、臧霸出洞口、曹仁出濡須、曹真、夏侯尚、張郃、徐晃圍南郡。
權遣呂範等督五軍、以舟軍拒休等、諸葛瑾、潘璋、楊粲救南郡、朱桓以濡須督拒仁。時揚、越蠻夷多未平集、
內難未弭、故權卑辭上書、求自改厲。(中略)權遂改年、臨江拒守。
冬十一月、大風、範等兵溺死者數千、餘軍還江南。曹休使臧霸以輕船五百、敢死萬人襲攻徐陵、燒攻城車、殺略數千人。將軍全琮、徐盛追斬魏將尹盧、殺獲數百。十二月、權使太中大夫鄭泉聘劉備于白帝、始複通也。
然猶與魏文帝相往來、至後年乃絕。
▽巻九・夏侯尚伝:孫權雖稱籓、尚益脩攻討之備、權後果有貳心。黃初三年(222)、車駕幸宛、
使尚率諸軍與曹真共圍江陵。權將諸葛瑾與尚軍對江、瑾渡入江中渚、而分水軍于江中。尚夜多持油船、
將步騎萬餘人、於下流潛渡、攻瑾諸軍、夾江燒其舟船、水陸並攻、破之。城未拔、會大疫、詔敕尚引諸軍還。
進為牧。荊州殘荒、外接蠻夷、而與吳阻漢水為境、舊民多居江南。尚自上庸通道、西行七百餘裏、
山民蠻夷多服從者、五六年間、降附數千家。
▽巻五五・潘璋伝曰:劉備出夷陵、璋與陵遜並力拒之、璋部下斬備護軍馮習等、所殺傷甚眾、
拜平北將軍、襄陽太守。魏將夏侯尚等圍南郡、分前部三萬人作浮橋、渡百里洲上、諸葛瑾、楊粲並會兵赴救、
未知所出、而魏兵日渡不絕。璋曰:「魏勢始盛、江水又淺、未可與戰。」便將所領、到魏上流五十裏、
伐葦數百萬束、縛作大筏、欲順流放火、燒敗浮橋。作筏適畢、伺水長當下、尚便引退。
璋下備陸口。權稱尊號、拜右將軍。
▼盧弼はいう。明帝紀の黄初七年(226)、諸葛瑾が襄陽を囲み、司馬懿が撃破する。諸葛瑾伝にない。
▽巻三・明帝紀曰:(黄初七年・226)八月、孫權攻江夏郡、太守文聘堅守。朝議欲發兵救之、帝曰:
「權習水戰、所以敢下船陸攻者、幾掩不備也。今已與聘相持、夫攻守勢倍、終不敢久也。」
先時遣治書侍御史荀禹慰勞邊方、禹到、於江夏發所經縣兵及所從步騎千人乘山舉火、權退走。
吳將諸葛瑾、張霸等寇襄陽、撫軍大將軍司馬宣王討破之、斬霸、征東大將軍曹休又破其別將於尋陽。
論功行賞各有差。十二月、以太尉鍾繇為太傅、征東大將軍曹休為大司馬、中軍大將軍曹真為大將軍、
司徒華歆為太尉、司空王朗為司徒、鎮軍大將軍陳群為司空、撫軍大將軍司馬宣王為驃騎大將軍。
▽『晋書』巻一・宣帝紀曰:及天子疾篤、帝與曹真、陳羣等見於崇華殿之南堂、並受顧命輔政。
詔太子曰:「有間此三公者、慎勿疑之。」明帝即位、改封舞陽侯。
及孫權圍江夏、遣其將諸葛瑾、張霸并攻襄陽、帝督諸軍討權、走之。進擊、敗瑾、斬霸、并首級千餘。
遷驃騎將軍。太和元年六月、天子詔帝屯于宛、加督荊、豫二州諸軍事。
▼巻四七・呉主伝曰:黄武五年(227)秋七月、權聞魏文帝崩、征江夏、圍石陽、不克而還。蒼梧言鳳皇見。
分三郡惡地十縣置東安郡、以全琮為太守、平討山越。冬十月、陸遜陳便宜、勸以施德緩刑、寬賦息調。
又雲:「忠讜之言、不能極陳、求容小臣、數以利聞。」(中略)
於是令有司盡寫科條、使郎中褚逢齎、以就遜及諸葛瑾、意所不安、令損益之。
孫権が皇帝となる
虞翻以狂直流徙、惟瑾屢為之說。翻與所親書曰:「諸葛敦仁、則天活物、比蒙清論、有以保分。惡積罪深、
見忌殷重、雖有祁老之救、德無羊舌、解釋難冀也。」瑾為人有容貌思度、于時服其弘雅。權亦重之、大事咨訪。
又別咨瑾曰:「近得伯言表、以為曹丕已死、毒亂之民、當望旌瓦解、而更靜然。
聞皆選用忠良、寬刑罰、布恩惠、薄賦省役、以悅民心、其患更深於操時。孤以為不然。
操之所行、其惟殺伐小為過差、及離間人骨肉、以為酷耳。至於禦將、自古少有。丕之於操、萬不及也。
今叡之不如丕、猶丕不如操也。其所以務崇小惠、必以其父新死、自度衰微、恐困苦之民一朝崩沮、
故強屈曲以求民心、欲以自安住耳、甯是興隆之漸邪。聞任陳長文、曹子丹輩、或文人諸生、或宗室戚臣、
寧能禦雄才虎將以制天下乎。夫威柄不專、則其事乖錯、如昔張耳、陳餘、非不敦睦、至於秉勢、自還相賊、
乃事理使然也。又長文之徒、昔所以能守善者、以操笮其頭、畏操威嚴、故竭心盡意、不敢為非耳。
逮丕繼業、年已長大、承操之後、以恩情加之、用能感義。今叡幼弱、隨人東西、此曹等輩、必當因此弄巧行態、
阿党比周、各助所附。如此之日、奸讒並起、更相陷懟、轉成嫌貳。一爾已往、群下爭利、主幼不禦、
其為敗也焉得久乎。所以知其然者、自古至今、安有四五人把持刑柄、而不離刺轉相蹄齧者也。
強當陵弱、弱當求援、此亂亡之道也。子瑜、卿但側耳聽之、伯言常長於計校、恐此一事小短也。」
▼盧弼はいう。この手紙は、孫権が尊号を称す前にある。孫呉の黄武六年か七年、曹魏の太和二年(228)だ。▼裴松之はいう。孫権の意見は曹叡でなく曹芳のとき的中した。盧弼はいう。陳寿は司馬懿の批判を避けた。
權稱尊號(229)、拜大將軍、左都護、
▼巻五八・陸遜伝曰:黃龍元年(222)、拜上大將軍、右都護。是歲、權東巡建業、留太子、皇子及尚書九官、
徵遜輔太子、並掌荊州及豫章三郡事、董督軍國。
▽前年に陸遜は、曹休をだまして石亭で勝利した。
▽盧弼はいう。陸遜の上大将軍と、諸葛瑾の大将軍が同時にならぶ。諸葛瑾に左都護と、陸遜の右都護が同時にならぶ。胡三省はいう。孫呉では、大将軍の上に、上大将軍が置かれた。洪シ孫はいう。孫呉の黄龍元年、はじめて上大将軍を置いた。大将軍と併設された。韋昭『弁釈名』はいう。大将軍の官位は、三公の上だ。
領豫州牧。
▼洪シ孫はいう。黄龍元年(222)、孫呉と蜀漢は、天下を三分する約束をした。孫呉は遥領を任命した。諸葛瑾と陸凱を豫州に。朱桓を青州に。賀斉と丁奉を徐州に。孫韶を幽州に。兗州牧の朱然と、冀州牧の歩隲は、蜀漢の領土なので解任された。永安三年(260)、陸抗は益州牧となった。約束に違反した。
▽巻三九・陳震伝:建興七年(229)、孫權稱尊號、以震為衛尉、賀權踐阼、諸葛亮與兄瑾書曰:
「孝起忠純之性、老而益篤、及其贊述東西、歡樂和合、有可貴者。」震入吳界、(中略)震到武昌、
孫權與震升壇歃盟、交分天下。以徐、豫、幽、青屬吳、並、涼、冀、兗屬蜀、其司州之土、以函谷關為界。
▼諸葛亮から諸葛瑾への手紙の事例
▽巻六四・諸葛恪伝注引『江表傳』曰:權為吳王(222)、初置節度官、使典掌軍糧、非漢制也。
初用侍中偏將軍徐詳、詳死、將用恪。諸葛亮聞恪代詳、書與陸遜曰:「家兄年老、而恪性疏、
今使典主糧谷、糧穀軍之要最、僕雖在遠、竊用不安。足下特為啟至尊轉之。」遜以白權、即轉恪領兵。
▽巻三五・諸葛喬伝曰:喬字伯松、亮兄瑾之第二子也、本字仲慎。與兄元遜俱有名於時、論者以為喬才不及兄、
而性業過之。初、亮未有子、求喬為嗣、瑾啟孫權遣喬來西、亮以喬為己適子、故易其字焉。拜為駙馬都尉、
隨亮至漢中。亮與兄瑾書曰:「喬本當還成都、今諸將子弟皆得傳運、思惟宜同榮辱。今使喬督五六百兵、
與諸子弟傳於穀中。」書在亮集。年二十五、建興元年(223)卒。子攀、官至行護軍翊武將軍、亦早卒。
諸葛恪見誅於吳、子孫皆盡、而亮自有胄裔、故攀還複為瑾後。
▽巻五一・宗室伝曰:(孫翊の子・孫松)黃龍三年(224)卒。蜀丞相諸葛亮與兄瑾書曰:「既受東朝厚遇、
依依於子弟。又子喬良器、為之惻愴。見其所與亮器物、感用流涕。」其悼松如此、由亮養子喬咨述故雲。
呂壱の事件
▼巻四七・呉主伝曰:嘉禾三年(234)夏五月、權遣陸遜、諸葛瑾等屯江夏、沔口、孫韶、張承等向廣陵、淮陽、
權率大眾圍合肥新城。是時蜀相諸葛亮出武功、權謂魏明帝不能遠出、而帝遣兵助司馬宣王拒亮、自率水軍東征。
未至壽春、權退還、孫韶亦罷。秋八月、以諸葛恪為丹楊太守、討山越。
▼巻五八・陸遜伝曰:嘉禾五年(236)、權北征、使遜與諸葛瑾攻襄陽。遜遣親人韓扁齎表奉報、還、遇敵於沔中、
鈔邏得扁。瑾聞之甚懼、書與遜雲:「大駕已旋、賊得韓扁、具知吾闊狹。且水乾、宜當急去。」遜未答、
方催人種葑豆、與諸將弈釭射戲如常。瑾曰:「伯言多智略、其當有以。」自來見遜、
遜曰:「賊知大駕以旋、無所複慼、得專力於吾。又已守要害之處、兵將意動、且當自定以安之、施設變術、
然後出耳。今便示退、賊當謂吾怖、仍來相蹙、必敗之勢也。」乃密與瑾立計、令瑾督舟船、遜悉上兵馬、
以向襄陽城。敵素憚遜、遽還赴城。瑾便引船出、遜徐整部伍、張拓聲勢、步趨船、敵不敢幹。
及呂壹誅、權又有詔切磋瑾等、語在權傳。瑾輒因事以答、辭順理正。
▼巻四七・呉主伝:(赤烏元年・238)初、權信任校事呂壹、壹性苛慘、用法深刻。太子登數諫、權不納、
大臣由是莫敢言。後壹奸罪髮露伏誅、權引咎責躬、乃使中書郎袁禮告謝諸大將、因問時事所當損益。禮還、
複有詔責數諸葛瑾、步騭、硃然、呂岱等曰:「袁禮還、雲與子瑜、子山、義封、定公相見、並以時事當有所先後、
各自以不掌民事、不肯便有所陳、悉推之伯言、承明。伯言、承明見禮、泣涕懇惻、辭旨辛苦。(後略)」
瑾子恪、名盛當世、權深器異之;然瑾常嫌之、謂非保家之子、每以憂戚。
▼裴注『吳書』曰:初、瑾為大將軍、而弟亮為蜀丞相、二子恪、融皆典戎馬、督領將帥、族弟誕又顯名於魏、
一門三方為冠蓋、天下榮之。謹才略雖不及弟、而德行尤純。妻死不改娶、有所愛妾、生子不舉、其篤慎皆如此。
▼巻五四・周瑜伝曰:赤烏二年(239)、諸葛瑾、步騭連名上疏曰:「故將軍周瑜子胤、昔蒙粉飾、
受封為將、不能養之以福、思立功效、至縱情欲、招速罪辟。(後略)」瑾、騭表比上、硃然及全琮亦俱陳乞、
權乃許之。會胤病死。
諸葛瑾の死
▼巻四七・呉主伝:赤烏四年(241)夏四月、遣衛將軍全琮略淮南、決芍陂、燒安城邸閣、收其人民。
威北將軍諸葛恪攻六安。琮與魏將王淩戰於芍陂、中郎將秦晃等十餘人戰死。
車騎將軍硃然圍樊、大將軍諸葛瑾取柤中。五月、魏太傅司馬宣王救樊。六月、軍還。
閏月、大將軍瑾卒。秋八月、陸遜城邾。
▽巻四・三少帝紀曰:(正始二年・241)夏五月、吳將硃然等圍襄陽之樊城、太傅司馬宣王率眾拒之。
▽同注引・幹寶『晉紀』曰:吳將全琮寇芍陂、硃然、孫倫五萬人圍樊城、諸葛瑾、步騭寇柤中。
琮已破走而樊圍急。宣王曰:「柤中民夷十萬、隔在水南、流離無主、樊城被攻、曆月不解、此危事也、請自討之。」
議者鹹言:「賊遠圍樊城不可拔、挫於堅城之下、有自破之勢、宜長策以禦之。」宣王曰:「軍志有之:將能而禦之、此為縻軍;不能而任之、此為覆軍。今疆埸騷動、民心疑惑、是社稷之大憂也。」
赤烏四年(241)、年六十八卒、遺命令素棺斂以時服、事從省約。
恪已自封侯、故弟融襲爵、攝兵業駐公安。(以下、諸葛融伝)
▼盧弼は呉主伝をひく。諸葛瑾は閏六月に死んだ。諸葛瑾は、霊帝の熹平三年に生まれた。孫策より一つ上だ。弟の諸葛亮は、霊帝の光和四年に生まれた。孫権と同い歳である。諸葛瑾は、諸葛亮より七つ上だ。諸葛亮は、蜀漢の建興十二年に死んだ。孫呉の嘉禾三年である。五四歳だ。諸葛瑾より九年早く死んだ。
▼盧弼はいう。諸葛恪は、山越を討伐した功績で、都郷侯になった。諸葛融は宛陵侯を嗣いだのだ。胡三省はいう。「摂兵業」とは、父の兵を業を継承することだ。
▼盧弼はいう。諸葛瑾の娘は、張承の妻である。張昭伝に見える。
▽巻五二・張昭伝:承字仲嗣、少以才學知名、與諸葛瑾、步騭、嚴畯相友善。權為驃騎將軍、辟西曹掾、
出為長沙西部都尉。(中略)年六十七、赤烏七年(244)卒、諡曰定侯。子震嗣。
初、承喪妻、昭欲為索諸葛瑾女、承以相與有好、難之、權聞而勸焉、遂為婿。生女、權為子和納之。
權數令和脩敬於承、執子婿之禮。震諸葛恪誅時亦死。
▽同注引・臣松之案:承與諸葛瑾同以赤烏中卒、計承年小瑾四歲耳。
これは個人でやる勉強会の下準備がもとになりました。110324