04) 漢魏革命を祝うが、曹丕に叛く
『三国志集解』で孫権伝をやります。
なぜ、今までやらなかったのか、自分でも分からないほど、重要かつ楽しい。
219年、関羽を殺して、曹魏の天命をいう
建安二四(219)、関羽は曹仁を襄陽にかこむ。于禁3万はとらわれ、江陵に送られる。孫権は曹操に手紙をかき、関羽を討ちたい。
ぼくは思う。温恢伝を誤りとしたい。「呉主伝」にもない。
曹操は、孫権を関羽にぶつける。これを曹仁に知らせた。関羽は、樊城のかこみを解かない。閏月、孫権は関羽を攻めた。
ぼくは思う。孫権は、曹操に命じられて、曹仁を救った。きわめてスジのとおった行動。関羽を殺す、大功をあげた。このときの孫権の動きを、「劉備との同盟をやぶった、裏切り行為」とする人がいる。それは、劉備に都合のよい目線である。217年に孫権は、すでに曹操とむすび、劉備と敵対した。孫権から荊州の半分をうばいながら、「孫権は同盟者だ」と言い張る劉備は、劉備のカンチガイである。諸葛亮が「孫権とむすべ」と関羽に言ったところで、すでに同盟は決裂している。部将の関羽が、どうこうできる問題でない。
史料によってまちまちだが、閏10月だ。『資治通鑑』は10月とする。
呂蒙が公安の士仁をとらえた。南郡太守の麋芳は、くだる。捕虜の于禁軍を、呂蒙がにがす。陸遜は、宜都、秭歸をとり、夷陵にもどり、西峡で劉備をふさぐ。
魏略曰:梁寓字孔儒,吳人也。權遣寓觀望曹公,曹公因以為掾,尋遣還南。
関羽は、当陽にもどり、麦城(当陽)を保つ。朱然、潘璋が、関羽の退路をたつ。12月、潘璋の司馬・馬忠は、関羽、関平、都督の趙累をとらえる。荊州を平定した。この歳、大疫があるので、荊州の租税を免じた。
ぼくは思う。荊州に大疫というのは、ホントウか。孫権が、荊州の人心を買うための口実だろうか。もしホントウなら、関羽のタイミングの悪さが明らかになる。樊城を包囲しているうち、背後の荊州で病気が流行ったら、補給がとどこおる。孫権の備蓄に、手を出したくもなる。
曹操は孫権を、驃騎将軍、假節、荊州牧、南昌侯とした。孫権は、校尉の梁寓を、献帝におくる。王惇に馬を買わせ、朱光らを曹操にかえす。『魏略』はいう。梁寓は、呉郡の人。孫権が曹操におくる。曹操は、梁寓を掾とし、南にかえす。
朱光は、建安十九年(214)、孫権が皖城を攻めたとき、捕虜にした人だ。このとき孫権は、于禁をかえさない。孫権は、于禁が曹操に重んじられることを知っていた。だから、曹操の死後、曹丕の時代になってから、于禁をかえしたのだ。黄武元年にひく『魏略』にある。ぼくは思う。于禁を、あとからかえした意図は、また考えたい。
孫権が曹操に「臣」を称し、曹魏の天命を説いた。この記事は、武帝紀の建安二四(219)にひく『魏略』にある。
曹丕と劉備が皇帝即位し、武昌にうつる
建安二五年(220)正月、曹操が死んだ。曹丕が魏王となり、延康と改元。秋、魏将の梅敷は、張儉に命じ、孫権につきたがる。荊州の南陽で、5県5千家が、孫権にしたがう。冬、曹丕は皇帝即位し、黄初と改元。
黄初二年(221)4月、劉備が皇帝即位して、蜀漢を建国。
權自公安都鄂,改名武昌,以武昌、下雉、尋陽、陽新、柴桑、沙羨六縣為武昌郡。
『魏略』はいう。孫権は、曹丕と劉備が皇帝即位したと聞いた。孫権は皇帝即位したいので、占った。「孫権は、官位がひくく、権威がない。まずは、へりくだれ」と出た。孫権は、蜀漢と断絶し、曹魏に臣従した。
ぼくは思う。孫権に独立したい気持ちがあるのは、『魏略』の言うとおりだろう。ただし、この『魏略』は、なぜ蜀漢と断絶し、曹魏に臣従するのか、理由が書かれない。キッカケがわからない。気持ち悪いが、これでいいのだ。孫権は、曹操の生前から、曹魏についてきた。これを継続しただけだ。キッカケなど、ない。
いま曹丕と劉備が、ひとしく皇帝となれば、後漢の目線から見れば、ひとしく「僭越」である。曹丕と劉備が、ひとしく「僭越」なら、孫権は臣従する相手を変える必要がない。もし劉備が、皇帝即位せず、「献帝の復位」をスローガンに戦ったら、孫権がどう動いたのか、気になる。なお曹丕についたかな。
孫権は、鄂県(江夏)にゆき、武昌とあらためた。武昌、下雉、尋陽、陽新、柴桑、沙羨の6県をあつめて、武昌郡をつくる。
盧弼は、あわせた6県について、くわしく書くが。おもに、長沙と豫章から切りとったようだ。武昌の、地政学的な分析は、どこかで読めるかなあ。前後の戦いから、さぐらねば。
221年5月、建業で甘露がふる。8月、武昌を築城。諸将に言った。「安定したときも、危機を忘れるな。警戒をおこたるな」と。
孫権は、曹丕の藩屏を称した。于禁をかえす。11月、曹丕は孫権に策命した。
ぼくは思う。孫権は曹丕に臣従し、官位と権威をもらいたかった。後漢のなかで孫権は、出世する理由がなかった。新興の軍人である。だが曹魏のなかで孫権は、それなりに存在感がある。曹丕は、曹魏の安定のため、孫権にたかい官位を与えた。孫呉の独立を助長することになるが、仕方ない。ジレンマだな。
221年、劉備の進駐、孫登を曹丕に送らず
この歳(221)、劉備が攻めてきた。武陵の蛮夷が、劉備につく。陸遜を督とし、朱然、潘璋らをつける。
孫権は、都尉の趙咨を、曹丕におくる。曹丕は趙咨にきく。「孫権は、どんな主君か」と。趙咨は答えた。「かしこく、つよい主君だ。魯粛、呂蒙をもちい、于禁をかえした。三州をもつが、曹丕に臣従した」と。
孫権は、孫登を曹丕におくらず。西曹掾の沈珩に、みやげを持たせた。
孫登を、呉王の太子とした。
222年、曹丕と荊州で戦い、絶交する
黄武元年(222)春正月、陸遜の部将・宋謙らは、蜀軍をやぶる。3月、鄱陽に黄龍がでる。閏月、陸遜が劉備を敗走させた。
魏書載詔答曰:「老虜邊窟,越險深入,曠日持久,內迫罷弊,外困智力,故見身於雞頭,分兵擬西陵,其計不過謂可轉足前跡以搖動江東。根未著地,摧折其支,雖未刳備五臟,使身首分離,其所降誅,亦足使虜部眾凶懼。昔吳漢先燒荊門,後發夷陵,而子陽無所逃其死;來歙始襲略陽,文叔喜之,而知隗囂無所施其巧。今討此虜,正似其事,將軍勉建方略,務全獨克。」
『呉歴』はいう。孫権は曹丕に、劉備からうばった印綬をおくる。曹丕は、『典論』や詩賦を、孫権におくる。『魏書』は、曹丕から孫権へのメッセージを載せる。「孫権は、光武帝の前例にのっとり、劉備を討て」と。
じつは孫権は、曹丕にしたがわない。侍中の辛毗、尚書の桓階らは、孫登を曹魏で確保したい。孫権は、孫登をよこさない。
222年秋9月、曹休、張遼、臧覇は洞口からでた。曹仁は濡須にでた。曹真、夏侯尚、張郃、徐晃は、南郡にでた。
曹操は孫権の刀を借りて、関羽を斬る。孫権は曹丕の刀を借りて、後漢を滅ぼす。曹丕は孫権の刀を借りて、劉備を焼く。最後、曹丕がロコツに荊州に進軍し、コケる。曹丕の失敗は、孫権を軍事的に征服できなかったことでない。長江の凍結も、徐盛の偽城も小さなこと。曹丕の失敗は、孫権に対する外交を、まちがえたことかな。硬いときと、柔らかいときの、タイミングが悪い。
呂範は曹休をこばむ。諸葛瑾、潘璋、楊粲は、南郡をすくう。朱桓は濡須で、曹仁をこばむ。楊越の蛮夷がいるので、孫権はシタテに出た。「交州で余生を過ごしたい。ごめんなさい」と。曹丕は答えた。「曹魏の三公は、孫権が孫登をよこさないから、孫権をうたがう。さきの都尉の浩周をやり、孫権の気持ちをさぐった。隗囂は子をさしだしたが、光武帝に降らず。ぎゃくに竇融は、(子をさしださないが?) 光武帝に忠誠をつくした。ともあれ孫権は、孫登をよこせ。軍をひいてやる」
裴注『魏略』は、浩周を載せる。こりゃ、1本の列伝だな。于禁がらみ。はぶく。今回の目的は、孫権について見通しを立てることなので。
ついに孫権は改元し、長江をまもる。222年冬11月、呂範の兵士は溺死した。曹休は、臧覇につっこませた。全琮、徐盛は、魏将の尹盧を斬る。12月、孫権は、太中大夫の鄭泉を、白帝の劉備にやる。曹丕と切れ、はじめて劉備とむすぶ。
『呉書』はいう。鄭泉は、陳郡の人。献帝をおいて、劉備が即位したことを責めた。酒が好きだった。ぼくは思う。これも、韋昭『呉書』に列伝が立っていた人だろうな。
ぼくは思う。孫権は、217年に曹操に降伏した。曹仁を助けるため、関羽を殺した。曹丕の皇帝即位を祝福した。いま222年、曹丕を切って、改元して劉備についた。217年のつぎの転機は、222年とわかる。孫権は、態度が分かりにくいというが、そうでもない。明白である。
劉備が夷陵に出陣するとき、『趙雲別伝』で、趙雲がいう。「ほんとうの敵は、孫呉でなく、曹魏だ」と。これは、三国鼎立の結果から遡ったバイアス。このとき孫呉は、曹魏の手先。漢中から山を越えて魏を攻めるか、長江を下って魏(の一部である呉)を攻めるか。考えるとしたら、この2択である。『趙雲別伝』は、問題設定がまちがっている。当然、物理的に有利な後者を選ぶ。夷陵の戦いは、劉備と孫権でなく、劉備と曹丕の戦い。だから、夷陵に関する曹丕のコメントが残ったのかな。
夷陵で、陸遜が決戦をせず、ねばった理由は、このあたり? 曹丕の代理戦争なんて、ワリに合わないなあと。できるなら、劉備と衝突したくない。曹丕に劉備を討たせたい。そういえば曹魏は、曹操が漢中をひいてから、劉備と戦っていない。関羽のときは、孫呉がかわりに動いた。孫権にしてみれば、ワリに合わない。
いままで孫権は、曹操に対して、つかず離れずだった。曹操は、うまく孫権を使いこなした。いま曹丕は、孫権に2つの難題を要求した。劉備の撃破と、孫登の供出の2つだ。ロコツに、臣従の「証拠」を求めた。そのせいで、孫権と曹丕は決裂した。決裂も覚悟で、曹丕は孫権を服従させる必要があった。漢魏革命を、確固たるものにするために。
孫権は曹丕との交流を、しばらくして絶った。この歳、夷陵を西陵とした。
次回、最終回。孫権が、皇帝になります。110418