05) 曹丕の死までねばり、皇帝即位
『三国志集解』で孫権伝をやります。
なぜ、今までやらなかったのか、自分でも分からないほど、重要かつ楽しい。
223年、劉備が死に、孫権は皇帝即位を検討
黄武二年(223)正月、曹真の分隊は、江陵の中州にくる。この月、孫権は、江夏の山に築城した。四分を改め、乾象曆を用いる。
裴注『江表伝』と『志林』は、五徳の話をする。改元し、暦を独自にさだめる。独立した王朝を、つくる気がたっぷりである。
3月、曹仁は、將軍の常彫らをやり、濡須の中州に渡らせる。曹仁の子は、曹泰だ。曹泰は、朱桓を攻めた。魏軍は破れ、この月に撤退。
夏5月、郡臣は孫権に、皇帝即位をすすめた。孫権はゆるさず。
曹丕と絶縁したのは、223年に入ってから。つまり、曹丕と絶縁して数ヶ月で、孫権は皇帝即位を検討している。あいだには、曹真や曹仁ら、曹魏の主力部隊との戦いがあった。忙しかっただろう。即位の検討は、まったくフツウのペース。少しも、遅れていない。順調に、爵位をあげている。ちょっと孫権は、踏みとどまったが。袁術も、興平二年(195)秋、皇帝即位を検討して、踏みとどまった。ダラダラした具合が、袁術に似ている。袁術も孫権も、明確なキッカケがないんだ。笑
劉備が、白帝で死んだ。
思いついた。ええ、どうでしょうか。「劉備が死んだから、郡臣は孫権に、皇帝即位を勧めた」というストーリーは。いま呉主伝だから、即位検討のあと、劉備の死が書かれる。だが、どうせ前後関係なんて、わからない。ま長江を、ザーッと下って伝達された。
いま、漢魏革命にノー!という劉備が、死んだ。劉禅では、曹丕に対抗できない。蜀漢が小国でも存在感があったのは、劉備がいたからだ。いま孫権は、曹丕と敵対してしまったから、劉備みたく「後漢を嗣ぐのは、うちだよ」という論法を使いたい。劉備の死は、孫権の皇帝即位の理由になる。っていうか、どうせ孫権の正統性なんて、どうせムリヤリなんだから、劉備の死去は、おいしい口実になり得るのだ。この点は、袁術とおなじ。
袁術は、「曹陽で献帝が、李傕に大敗したらしいぞ」と聞いた途端に、「劉氏が微弱だから」と、皇帝即位を検討した。献帝が手元にいない時点で、何を言ったってムチャクチャなんだ。だったら口実は、派手なほうがいい!
223年5月、曲阿に甘露がふる。戲口をまもる晉宗は、曹魏にくだり、蘄春太守となる。6月、賀齊は、糜芳と劉邵らをひきい、蘄春で晋宗を生け捕る。
冬11月、蜀漢は鄧芝をよこす。『呉歴』はいう。呉蜀は、物品を交換しあう。
224年、曹丕が広陵から撤退
黄武三年(224)夏、輔義中郎將の張温を、蜀漢におくる。秋8月、死罪をゆるす。9月、曹丕が広陵にきた。長江の対岸に孫呉の兵がいるのを見た。
干宝『晋紀』はいう。曹丕が広陵にきた。城兵を偽造した。趙達が、孫呉の命運を占った。『呉録』はいう。鄧芝は、孫呉と蜀漢を友好にした。
曹丕は、がっかりして帰った。
225年、孫邵が死に、顧雍が丞相へ
黄初四年(225)夏5月、丞相の孫邵が死んだ。
裴注『呉録』はいう。孫邵は、北海の人。孔融の功曹となる。『志林』はいう。韋昭とちがう派閥に属したので、孫邵には列伝がない。
6月、太常の顧雍が、丞相となる。
『呉録』はいう。この歳の冬、曹丕は広陵にきた。長江が凍った。孫権は、曹丕の副車の羽蓋を手にいれた。ぼくは思う。この時期の孫権は、曹丕の猛攻に耐えている。蜀漢との関係をつよめ、大人しく守るしかない。蜀漢では、諸葛亮が南征してる。曹丕が孫権にかかりきりだから、蜀漢は動きやすい。
っていうか、曹丕から見れば、蜀漢と孫呉に区別はない。どちらも、「曹魏にしたがわない、地方勢力」だ。そして、蜀漢と孫呉は、手を結んでいる。つまり、ひどく単純化すれば、孫呉を攻撃しても、蜀漢を攻撃しても、効果は同じである。だったら、地理的に攻めやすいほうを攻める。長江はウザいが、漢中に飛びこむよりは、マシである。
12月、鄱陽の彭綺が諸県をおとす。地震つづく。
ぼくは思う。曹丕は、もうひと押し。なんか国内が、ガタガタしてる。もし孫権が皇帝になっていたら、裏目に出て、孫呉は空中分解したと思う。しかし、孫権がよくわからん立場を取ったから、持ちこたえた。曹丕が皇帝の時期は、曹丕も孫権も、つらそうである。なにが正しいのか、分かっていない感じ。それだけ、漢室の永続を保証する思想が、根づいていたのかなあ。ちゃんと整理できていないが、膠着した感じ。曹丕は広陵に通いつめた。孫権は、曹丕が死ぬまでは、皇帝になれない。蜀漢は、南征して気楽。
226年、曹丕が死に、寒いから孫権が勧農する
黄武五年(226)春、孫権は命じた。「国力を回復せよ」と。陸遜は、勧農した。
秋7月、孫権は曹丕が死んだと聞いた。江夏を攻めた。石陽をかこむ。勝てず。蒼梧に、鳳凰あり。3郡から、悪地の10県をさき、東安郡をおく。『呉録』はいう。郡治は、富春だ。全琮を太守として、山越を平定する。
曹丕の末期は、長江が凍った。山越が活発になった。孫権と陸遜が、農業政策をやった。おそらく、寒冷のせいで、収穫が落ちたのだ。曹丕が孫呉を滅ぼせない理由と、孫権が皇帝即位を見送りつづける理由は、気候のせいでないか。
漢魏革命の直後、いちばん重要な時期に、気候が冷えこんだ。「魏晋南北朝は、寒冷の傾向が400年間つづいたので、大陸が分裂した」と言います。そこまで、高望みは必要ない。漢魏革命から数年だけ、曹丕に充分な物資と交通手段を提供してあげれば、分裂時代は始まらなかったかもしれない。三国志は、なかったかも知れない。
226年冬10月、陸遜は刑罰をゆるめ、減税せよと言った。孫権は、郎中の褚逢に政策の文案をもたせ、陸遜と諸葛瑾に、文案を修正させた。交州をわけて広州をおき、すぐ広州をやめた。
227年、備蓄の歳
黄武六年(227)、諸将は彭綺をとらえた。閏月、韓当の子・韓綜が、魏にくだる。
ぼくは思う。227年は、記述が少ない!収穫が少なくて、動けないのか? 諸葛亮が、出師の表を書いたのは、この歳である。次の歳、孫呉も大々的に軍事行動を起こし、曹休をボコる。227年は、備蓄の歳だったようだ。
いま韓綜がくだった。つぎに周魴が曹休にくだる、伏線となった。
228年、外征に転じ、石亭で曹休を大破
黄武七年(228)春3月、子の孫慮を建昌侯とする。東安郡をやめる。
夏5月、鄱陽太守の周魴が、曹休をさそう。秋8月、孫権は皖口にゆく。陸遜は、石亭で曹休を大破。大司馬の呂範が死んだ。この歳、合浦を珠官郡とした。
『江表伝』はいう。この歳、将軍の翟丹が、曹魏にゆく。孫権は、「重罪3つで、はじめて罰する」とした。
投降の作戦がヒットするのは、赤壁とおなじ。いま孫呉は、「曹魏にしたがうか、解散するか」という局面に立たされた。前にも書いたが、「曹丕が死んだのに、曹魏が空中分解しない。どうやら漢魏革命は、成功したらしい」という機運が高まってきたのだ。後漢を思い起こす人が減ってきた。
諸葛亮が北伐を始めるのも、おなじタイミングだ。「もし、このまま黙っていたら、漢魏革命は成功ということで、まるく治まってしまう」と、諸葛亮が焦ったのだ。蜀漢は、曹丕の時代は、ただ「こっちが正統!」と叫ぶだけで、曹魏がダメージを負うと思っていた。一代で曹丕がコケれば、献帝が復位するなりして、また展開が変わる。蜀漢は、夷陵のキズもあるだろうが、わざわざ曹魏を攻める必要がなかった。いま曹叡にうまく皇帝がうつり、蜀漢に空中分解のリスクが生じた。
229年、夏4月、皇帝に即位
黄龍元年(229)春、孫権は皇帝即位を勧められた。夏4月、夏口と武昌に、黄龍と鳳凰があらわれた。4月丙申,南郊で皇帝に即位した。
胡綜伝はいう。黄武八年夏、黄龍がでた。孫権は皇帝に即位し、これを年号とした。ぼくは思う。「黄武」という年号は、孫権が曹丕と距離をとりつつ、しかし皇帝を称さなかった、中途半端な時期にあたる。この7年のクッションが、孫権の慎重さ。漢魏革命が、コケるか、コケるか、と見守った時期。途中、気候が寒冷になり、ムダに期間が延びた。また逆から見れば、寒冷のおかげで、曹丕に併呑されなかったとも言えるか。
条件反射みたいに、ササッと皇帝即位すると、ろくなことがない。劉備は、特例。曹魏は、曹操と曹丕の2代を費やして、慎重に動いた。孫権は、曹丕が死ぬまで待った。
六月,蜀遣衛尉陳震慶權踐位。權乃參分天下,豫、青、徐、幽屬吳,兗、冀、並、涼屬蜀。其司州之土,以函谷關為界,造為盟(中略)、秋九月,權遷都建業,因故府不改館,徵上大將軍陸遜輔太子登,掌武昌留事。
大赦して、改元した。父母と兄を追尊した。孫登を太子とした。興平のとき、呉中に童話があった。「夫差がつくった門から、天子が出る」と。
5月、遼東につかい。6月、蜀漢は衛尉の陳震をやり、孫権を祝う。呉蜀で天下を二分する約束をした。9月、建業にうつる。居館をつくらず。上大将軍の陸遜に、孫登と武昌を任す。まだつづくが、、
ねばりの末、めでたく孫権が皇帝即位したので、おしまい。黄武のときの孫呉は、ほんとうに面白い。寒冷になり、国力回復に励み、曹魏への流出がひどくなった時期。孫権の皇帝即位は、諸葛亮の出師の表と、動機も時期も目的も似ている。曹丕が死んだのに、漢魏革命が失敗したことに、ならない。すでに後漢は、終わったらしい。そういう機運の高まった時期だ。
今回、かなり呉主伝を飛ばし読みして、全体像を見通しました。後日、こまかく個別に考えます。おしまい。110419