表紙 > ~後漢 > 方詩銘氏の孫策論「丹楊を根拠地とする」を抄訳する

方詩銘氏の孫策論「丹楊を根拠地とする」翻訳

方詩銘氏の孫策論「丹楊を江東平定の根拠地とする」等(『論三国人物』)を翻訳します。
わりにストイックに訳しますが、もとが面白いので、読んでいただけるはず。

明果独断、勇は天下をおおう

孫策は、孫堅の長子だ。わかくから、大きな望みをもつ。孫策はそんな歴史人物だ。江東を平定したとき、呉郡太守の許貢に「項籍に似る」言われた。これは孫策の一面だ。孫策伝にひく『呉歴』は、「ギョウ武の名がある」と記す。だが孫策の才能は、これだけでない。西晋の傅玄『傅子』は、孫策を評論した。「勇は、天下をおおう」と。これも孫策の一面だ。孫策は作戦を決めるとき、孫権伝の注釈が言うには、「明果独断」だ。勝利を得つづけた。傅玄は、「明果独断」の4字を、「勇は、天下をおおう」の上に置いた。2つの評価は、符合する。

軍事だけでなく政治でも、孫策は「明果独断」だ。
孫堅が荊州で死んだ後、孫策は厳しい選択をせまられた。もし孫堅の生前の意図に照らせば、袁術との連合を継続し、劉表から荊州を奪うべきだ。袁紹や曹操と対抗し、中原を競うべきだ。だが当時の形勢は、思いもよらぬことに。
ひとつ。動乱の時期には、軍隊が生命である。だが孫堅の余部は、袁術の手中に入った。ふたつ。中原が曹操の勢力範囲となった。曹操と袁紹は、同一の政治集団に属す。孫策が中原に入る余地がない。みっつ。孫堅の同盟者・袁術は、封丘で曹操に敗れて、淮南の一隅で弱くなった。孫策はもう、袁術を頼れない。孫策は、自分の道を探る必要がある。孫策の「明果独断」な政治の才能が、示された。

孫策伝にひく『呉歴』はいう。孫策が江都にきた。張紘は母の喪だ。孫策は張紘に、世務を聞いた。孫策は張紘に言った。「袁術に、父・孫堅の余部を求める。舅・呉景と、丹楊で合流する。東は、呉郡と会稽に拠る。父の仇を討ち、朝廷の外藩となりたい。どうだろうか」と。これは孫策が、すでに長期に熟考した作戦だ。ひとつ、父の余部。ふたつ、舅の呉景。みっつ、呉郡と会稽。よっつ、劉表を討つ。いつつ、最後の目標が朝廷の外藩となり、孫呉政権を建立すること。

ぼくは『呉歴』が、完全にウソだと思う。方氏は「長期周密思考的結果」とするが、史家の創作だ。のちに孫呉が成立したのち、独立の意思をさかのぼって、孫策に託したにすぎない。孫策の戦略が、早期に(ほぼ孫堅を失った直後に)出来ていたのではない。ということを、言いたい。どんな材料が必要かなあ。

この作戦が形成されたのは、呉景が丹楊太守となった後だ。丹楊に呉景がいないと、作戦が成立しない。これがカギである。江東に地盤をもつだけでなく、ふたたび淮南の袁術を頼らない作戦でもある。丹楊は、当時は「精兵の地」である(後述)。当時、呉郡と会稽を統治する後漢の地方官は、軍事の才能と力量が足りない。孫策が来たとき、呉郡と会稽は、当時もっとも支配が弱いところだ。孫策は、呉郡の富春が故郷だ。一定の武力を、呉郡でつかえる。『三国志』孫静伝はいう。「孫堅が挙兵すると、孫静は故郷の部曲と、宗室5、6百人を集めた。孫策が劉繇を破り、諸県を平らげ、会稽に進んだ。孫策は孫静に遣いして、孫静の家属を、銭唐で合わせた」と。孫策の親族が、このあたりで武装したと分かる。孫氏の親族と、孫堅の余部のうち、朱治はその中の1人だ。ただし、「明果独断」な孫策は、疑いなくこの集団の主要人物である。

孫策を、問答無用に「君主」としないのは、支持できる話。


孫策は、以上の作戦を打ち明け、張紘の意見を聞いた。『呉歴』は、張紘の回答を載せる。張紘は、完全に孫策に同意し、漢室を匡輔せよと言った。張紘は、孫策の作戦を発展させた。あえて孫策は正面から、袁術を消滅させ、揚州を取ると言わない。だが張紘は、袁術を消滅させ、揚州を取れと言った。

張紘のセリフを、方氏は引用するが、省いた。お手元の史料をご確認ください。しかし、張紘の「揚州をとれ」とは、袁術を消滅させろという意味なのか?方氏の解釈の暴走ではないくて。なんてことを、言うんだ。笑

張紘は孫策の作戦を発展させた。張紘は、孫策に地方政権を建てろと言った。張紘は、重要な謀士の1人となった。

孫呉が独立の意思を固めるのが、いつか。ぼくが扱いたいテーマ。おそらく、かなり後なんだ。少なくとも孫策は、そんなつもりはない。


孫策と袁術

戦乱の時代、軍隊が生命である。孫堅の余部は、袁術の手中にある。これを取り戻すのが、孫策の第一歩だ。
『三国志』孫策伝にひく、『江表伝』はいう。孫策は涕泣して、兵の返還を2回もとめた。1回、袁術は断る。2回、袁術は、孫堅の余兵・千余人を返した。なぜ孫堅の余部を、袁術が掌握するのか。これは複雑な問題だ。孫堅が荊州で死んだときから、説き起こすべきだ。

『三国志』孫賁伝はいう。孫賁は、孫堅の同母兄だ。孫堅が死ぬと、余衆をおさめ、孫堅の棺を送った。孫賁は豫州刺史となり、丹楊都尉に転じたと。孫策が若いから、しばらく孫賁が余部をひきた。孫堅の地位・豫州刺史を、孫賁が継承した。当時の慣例から、これは充分に自然で合理的だ。孫賁は、袁紹が任免した九江太守・周昂を撃破した。袁氏の兄弟対立に協力しただけでない。周昂の兄弟3人は、孫堅の敵であった。この戦いは、充分に自然で合理的だ。

「充分に自然で合理的」って、何回言うんだろう。っていうか、孫堅と周昂3兄弟が敵なのは、孫堅が袁術のために働いたからだろう。けっきょく、袁氏の対立に巻き込まれただけじゃん。そう考えた方が、「充分に自然で合理的」だ。笑

明らかに、孫堅が留めた部隊を、そのまま孫賁が率いた。ではいつ、なぜ、孫堅の余部は、孫賁から袁術に移動したか。これは、1つの問題である。
『三国志』孫賁伝は、正面から回答を記さない。他の史料を見る。同時に、新しい問題を引き出す。なぜ孫賁は、豫州刺史という高位を手ばなし、丹楊都尉などに転じたか。孫賁が豫州刺史を継いだことは、孫策ら親族が同意したはずだ。この転任には、重大な原因がある。さらに進めて、探究する必要がある。

孫賁が淮南をはなれ、丹楊に赴いたのち。孫策は袁術に、孫堅の余部を返せと言った。これより前、孫堅の余部は、孫賁がひきいた。袁術は、孫堅の余部を持たない。いつ、袁術に移ったか。当時の情況を見れば、孫賁が丹楊に行ったとき、袁術が直接に掌握した。同じとき、孫賁が余部を袁術にわたすとき、なにか他に条件があったはずだ。だが、史料が不足する。ここは、合理的な推論をするのみだ。
このとき丹楊に、呉景がいた。孫策の作戦では、孫賁は急いで丹楊にゆき、呉景と合わさる必要があった。孫賁は袁術の許可をとり、袁術から、丹楊都尉に任命してもらった。孫賁は、豫州刺史の地位と、孫堅の余部を、袁術に返した。だが余部の主権は、孫氏にあった。これなら、しばしば孫策が袁術に、余部を返せと言った理由がわかる。だが袁術は、孫策に余部を返さなかった。もしこの推論が正しいのならば、新しい問題が出てくる。と同時に、上の問題の回答となる。

方氏を言い換える。孫策が熟考した独立の戦略において、丹楊で兵を集めて、丹楊を拠点とすることが、何よりも重要だった。だから孫賁は、豫州刺史をあきらめた。孫堅の余部を、袁術に預けてでも、丹楊に行きたかった。そういうことらしい。
ぼくは思う。丹楊に行くことに、過大な意味づけをしている。たしかに丹楊は強兵がいる。つぎに方氏が言うことだ。しかし、洛陽に近い豫州刺史を望んで手放し、生命線である軍隊を手放してまでも、行くものか。孫策が張紘に話した作戦を重視するあまり、理屈にあわないコジツケとなっている。さっきも書いたが、『呉歴』が記した孫策の戦略は、アトヅケだろう。孫賁の行動に、方氏が合理的な説明をつけられないことから、逆に『呉歴』がウソだと分かる。これがぼくの「合理的な推論」のつもり。笑
袁術は孫堅の軍隊を解体して、豫州を自ら治めようと思ったのではないか。袁術は寿春に移り、豫州は近接する。豫州は、故郷の汝南を含む。自ら治めたくなるじゃん。それよりも、孫堅の余部や、孫賁ら孫氏などの軍事力を、揚州攻略に投入したのであろう。「孫賁は、孫堅ほど強くない。丹楊都尉から出直せ。結果を出したら、また刺史に戻してあげる。手柄の積みなおし」という政策ではないか。孫賁が豫州刺史となったのは、一時対応だ。


孫堅の余部は、何人だったか。『江表伝』では、孫策は千余人を返された。人数は明らかだ。『三国志』太史慈伝がひく『江表伝』はいう。孫策が言うには、孫堅の手兵は、数千余人だと。つまり、孫策が袁術に返された千余人は、全部でない。孫策は、人数を2種類に語っている。孫堅の余部は、千余人と数千余人のどちらか。

ぼくは思う。出典が、どちらも『江表伝』だから、一貫すべきなのか?

回答を出すために、廬江の戦いを説明すべきだ。『後漢書』陸康伝には、孫策が廬江城を、数重に囲んだとある。2年戦い、廬江は陥ちた。城を数重に囲い、2年かかったのだから、大きな戦いである。廬江を攻めた兵は、袁術が返還した、孫堅の余部であるはずだ。『三国志』程普伝から、程普は孫堅の余部のうち、重要な将軍で、廬江へ孫策に従軍したとわかる。これは孫策が、廬江の戦いで、孫堅の余部をひきいた証拠となる。
もし孫堅の余部が千余人なら、なぜ廬江を数重に囲えるか。なぜ2年も持久戦ができるか。合理的でない。廬江攻めは完全に、袁術の命令である。孫策伝はいう。袁術は孫策を九江太守にすると言ったが、陳紀を任じた。のちに徐州を攻めたいから、袁術は陸康に米3万石を求めた。陸康が与えないので、袁術は怒った。かつて孫策は陸康をたずねたが、主簿に応対された。孫策は陸康を怨みに思った。袁術は孫策に、陸康を攻めさせた。「つぎは廬江を孫策に与える」と。だが袁術は、劉勲を廬江太守に任じた。孫策は失望したと。
袁術は孫策を利益で誘ったであり、むりに孫策を廬江に出陣させたのでない。孫策は廬江太守になれず、袁術にだまされた。孫策は、廬江を陥とした手柄を強調するため、「数千人のうち、千人しか袁術から返還されないが、廬江で勝った」と言っただけだ。孫堅の余部は、もとは数千人いた。

なんか、途中でよく分からなくなってきた。&どっちでも、よくなってきた。原文をご確認ください。サイト『書虫』で買えます。この問題は、袁術が手の内のリソースを、どのように配分したかという問題である。陸康に兵糧を求めるくらいだから、最小限の規模で、陸康を攻めたい。たった千余人で廬江を陥としたなら、孫策の手柄である前に、袁術の判断力をあらわす。
決して、孫策がいかに袁術から自立したかという問題ではない。当然、孫堅の余部の主権は、孫氏にない。袁術に回収されたのだ。方氏は、孫策が独立を狙ったという『呉歴』のウソに、振り回されすぎである。


「精兵の地」と「丹楊兵」

なぜ孫策は「舅・呉景と、丹楊で合わさり」と言ったか。なぜ丹楊をこれほど重視して、江東を平定する根拠地としたのか。
『三国志』諸葛恪伝に、丹楊の地勢がくわしい。山谷が険しく、銅を産出する。山越が住む。『後漢書』と『三国志』に記された、「山民」あるいは「山賊」は、山越のことである。山越は、「武を好み、戦に習う」から、兵を集めるのに最適だ。『三国志』劉備伝で、大将軍の何進は、毋丘毅に募兵させた。曹操 と夏侯惇らは、揚州刺史の陳温、丹楊太守の周昕に兵4千を与えられた。これが丹楊兵だ。陶謙は丹楊の人で、丹楊兵を使った。

丹楊兵については、昨日訳した、方氏の劉備論にも登場。
方詩銘氏の劉備論「『争盟淮隅』的失敗」を抄訳する

『三国志』呉夫人伝はいう。袁術は呉景を、丹楊太守とした。もと太守の周昕を討ったと。呉景は、孫堅の呉夫人の弟だ。孫策に参与した1人だ。孫策の作戦には、前提条件がある。さきに丹楊をとり、地盤とすることだ。精兵の地である丹楊を得ることが、江東を平定する条件である。
後漢の政府が任命した丹楊太守は、周昕である。会稽の周氏に属す。孫静伝にひく『会稽典録』はいう。周昕は、太傅の陳蕃に支持した。周昕は、挙兵した曹操を助けた。袁術が淮南にくると、袁術の淫虐をにくみ、周昕は袁術との通信を絶ったと。ここから周昕は、当時の名士で、後漢が任命した丹楊太守とわかる。袁紹と曹操の政治集団に属した。周昕は曹操と密接で、曹操に丹楊兵を提供した。

ぼくは思う。袁紹の政治集団に属すことは、正しかろうが。どうして、後漢が任命したと言えるのか。袁紹集団が、勝手に任命しただけだろう。


袁術は丹楊を攻め、袁紹や曹操が揚州においたジャマ者をのぞいた。袁術は、孫策や呉景と同盟したが、馴れ合わない。袁術は孫堅の余部を利用した。呉景に命じ、周昕の丹楊を攻撃させた。孫策と呉景は、「精兵の地」丹楊をとり、発展のチャンスを得た。呉夫人伝で、袁術は呉景を丹楊太守にした。記述はカンタンだ。
孫静伝にひく『献帝春秋』はいう。袁術は呉景に、周昕を劾させた。呉景が丹楊をぬく前、呉景は百姓をつのった。あえて周昕に従う百姓を、呉景は赦さない。周昕は「百姓に、なんの罪があるか」と言い、会稽ににげたと。これは、呉景が丹楊を攻めるとき、軽く動かなかった証拠だ。周昕を支持した百姓とは、一般の人民でなく、丹楊の豪族だろう。呉景は、周昕と豪族の連携を切断した。

丹楊の豪族という解釈は、おもしろい!

のちに孫策は会稽を攻め、周昕を殺した(孫静伝)。丹楊の戦いは、孫策の一生だけでなく、孫呉政権の建立にかかわる。充分に重要なカギだ。呉景は、袁術に任じられた丹楊太守だ。だが孫策は、基礎を堅実にした。呉夫人伝はつづけて、孫策と孫河、呂範は、呉景により、山越の祖郎を敗走させたと記す。なぜ呉景が丹楊にきて、孫策たちが集まったか。孫河と呂範は、それぞれの列伝より、孫策の機密に参与した、右腕である。孫策は、もっとも重要な相談を呉景とするため、孫河と呂範をまねいた。孫策の作戦を実行するため、丹楊を地盤としたのだ。

丹楊は、孫策が江東を平定する根拠地となる

孫策伝にひく『江表伝』はいう。袁術は、後漢の揚州刺史・劉繇を、呉郡の曲阿に行かせた。後漢の会稽太守・王朗がいる。孫策にとり、劉繇と王朗がジャマである。孫策は、袁術が廬江太守に劉勲を任じたので、袁術をうらんだ。だがムリに袁術に従った。孫策は、袁術の許可をとり、江東を平定する。

廬江太守の件は、たしかに袁術が違約したが。「勉強(ムリに)同意」というのは、不自然である。孫策の独立を、前倒しして設定したいから、こんなおかしな説明になるのだ。

当時の形勢を、補足して説明する。孫策伝はいう。劉繇は揚州刺史になった。袁術が寿春にいる。劉繇は曲阿に行った(以下略)。このとき呉景と孫賁は、劉繇に追われて、九江の歴陽まで退いた。横江と当利で、劉繇と戦った。袁術は呉景を、重ねて新たに督軍中郎将とした。このとき呉景と孫賁は、丹陽から追い出された。だから呉景は、新しい官位をもらった。もう呉景は、丹楊太守でない。孫策は、袁術から孫堅の余部をもらった。丹楊は、重要な拠点である。それなのに、丹楊を失った。孫策の作戦が、実現しない。 呉郡と会稽にゆくときの前提が、くずれた。
なぜこの形勢で、孫策は兵を江東に進めたか。答えるべき問題だ。

『三国志』周瑜伝はいう。周瑜の従父・周尚は、丹楊太守となった。孫策と周瑜は合流した。孫策と周瑜は、丹楊を奪ったと。この史料で、上えの問題の回答となる。
まず呉景と孫賁は、歴陽に退いた。袁術は呉景を督軍中郎将として、呉景のかわりに周尚を督軍中郎将とした。袁術は、1を知って、2を知らない人間である。周尚のおい・周瑜は、孫策と同年の親友だ。周瑜は孫策を迎えて、劉繇をやぶった。疑いなく、丹楊の軍事は、周瑜がおさえている。周瑜は丹楊兵をつかい、孫策に協力した。だから孫策は、周瑜を介して丹楊をおさえ、呉郡と会稽に進むことができた。

袁術が周尚を丹楊太守にしたのは、呉景が頼りないから。周氏は、袁安の故吏であり、三公の人脈である。在地の軍閥がショボければ、門生故吏や、三公の人脈を駆使する。これが、袁術の人材登用の方針。「1を知り、2を知らない」とは、失礼だなあ。笑
周瑜は、どのタイミングで袁術を見限るか。袁術が皇帝を号したときだろう。ってことは、丹楊を抑えた周瑜は、この時点で、袁術のために働いたのだ。孫策もまた、袁術のために勢力を拡大したのだ。


周瑜伝にひく『江表伝』はいう。孫策と周瑜は、骨肉の分で、丹楊から軍資を送ったと。『江表伝』から、継続して周瑜は、孫策に丹楊兵を送ったと読める。孫策は周瑜のおかげで、江東を平定することができた。
周瑜伝はいう。袁術は、従弟の袁胤を、周尚に代えて丹楊太守とした。周瑜と周尚は、寿春にもどったと。袁術は、周瑜が孫策を支援すると知って、袁胤を丹楊太守に代えた。このとき孫策の力量は、すでに壮大だ。袁術は、カンタンに孫策に手出しできない。

おかしな話だ。周瑜が孫策とつるんで、袁術に叛逆するなら。それが袁術に「発覚」したなら。なぜ周瑜は、ぬけぬけと寿春に帰ってきたのか。袁術に、「私を捕えてください」と頼むようなものだ。へんなの。
このおかしさは、周瑜が袁術に叛逆したという、方氏の解釈の誤りを示す。まだ周瑜は、袁術に叛逆してない。孫策を支援するのは、袁術のためだったのだ。

『三国志』徐夫人伝にひく『江表伝』はいう。袁術が袁胤を丹楊太守にした。孫策は、徐琨に袁胤を討たせ、徐琨を丹楊太守とした。徐琨は、孫策の表弟だ。孫堅と孫策に従軍した。だから孫策は、徐琨を丹楊太守とした。
『江表伝』はいう。呉景が丹楊にもどった。呉景が丹楊太守のとき、吏民にしたわれた。徐琨は手兵が多いから、孫策は徐琨をうらんだ。孫策は徐琨を攻めて、徐琨の兵をうばった。孫策は、呉景を、丹楊太守とした。徐琨は、呉郡にもどったと。孫策は、徐琨は親戚だが、手兵が多いから、安心できなかった。ちょうど呉景が、袁術の下からもどったので、徐琨をやめ、呉景を丹楊太守にした。呉景なら、安心できた。孫策が、丹楊を重要視したことがわかる。

袁胤が丹楊太守となったタイミングを、ちゃんと確かめねば。しかし、徐琨への処置が、いまいち徹底しない。ほんとに孫策が徐琨を攻めたら、のうのうと呉郡に返している場合じゃない。殺さなきゃ。『江表伝』、よく分からないなあ。

孫策が丹楊を根拠にして、江東を平定するという作戦をもたねば、孫呉政権は実現しなかったのだ。110203