01) 抄訳1日目、050ページまで
厳耕望撰『中国地方行政制度史』秦漢地方行政制度を抄訳
前論_郡県制度のはじまり
西周の封建時代は、宗法として尚ばれたが、地方行政の制度はなかった。東周になり、封建制度が解体した。いくつかの中央集権タイプの軍国が生まれ、郡県制度が生まれた。官僚組織が、封建の世襲にかわった。ここに、中国の地方行政の制度がはじまった。先秦は史料がすくないので、定説がない。
「県」は「寰」と通用した。
信じられる史料で「県」が初出するのは、『史記』秦本紀の武公(前687)だ。紀元前7世紀から「県」制度があった。『国語』斉語にも、紀元前7世紀に「県」がある。『左伝』僖公も同時期だ。戦国時代にくだると、用例がおおい。
「郡」は春秋時代に少ない。戦国時代にくだると、斉国をのぞき、ひろく「郡」制度がおかれた。
前328、魏国が上郡に15県をいれた。前262、楚国が淮北12県をあつめて、郡をおいた。郡が県を統べる制度は、戦国時代の中葉より遡らない。
『史記』秦本紀の孝公(前350)、咸陽を都として、小郷聚をあわせて、大県41にまとめた。このとき、秦国の地方行政の制度は進展した。秦国の京畿は、内史が県を領した。郡はない。22年後、魏国が畿外に郡をおいた。以後は、畿内を国君がおさめ、畿外を郡がおさめた。
春秋時代の郡県は、秦漢より大きいか小さいか分からない。戦国の郡県は、秦漢より戸数が少ない。
郡県の長官の名称について。戦国時代、郡の長官を「守」という。県の長官は、春秋時代、魯や衛で「宰」といい、楚で「尹」「公」といい、晋や斉で「大夫」という。戦国時代、楚で「公」「尹」という。『史記』にある長官の名称は、後世の反映なので、正しくない。戦国時代、斉や楚をのぞき、秦や三晋で県の長官を「令」といい、「丞」「尉」を補佐官とした。秦漢時代、県の3長吏を「令」「丞」「尉」とした。この3長吏の名称は、戦国時代に始まる。
『史記』秦紀、商君伝にある、郷聚の制度がとても早い。秦の孝公十二年、すでに「県」が「郷」を統括している。戦国時代に「亭」があるが、これは地方行政の単位ではないだろう。
『韓策』三で安邑県には「令」「御史」「副御史」がある。『韓子内儲上』で卜皮県には「県令」がいて、「御史」を探っている。県に「御史」があり、郡にも「御史」があった。秦代の制度は、戦国の旧例とおなじ。おそらく戦国時代、諸国には中央集権タイプの新しい軍国があった。君主は、近臣をつかい地方を監察した。漢代の「刺史」の制度は、ここにルーツがある。
郡県の長官は『韓子』によると、一定期間ごとに報告の義務がある。
国君の直属なら、国君に報告する。別国に封じられたなら、別国に報告する。郡に所属したら、郡に報告する。范雎伝で、秦昭王は河東守の王稽に、3年報告させなかった。この特例から逆に、郡守が国君に報告を義務づけられたと分かる。けだし封建時代、諸侯は報告の義務があった。郡県時代になっても、報告の義務がつづいたのだろうか。
これが春秋時代、戦国時代の郡県制度のおおよそである。戦国末年、郡県制度は普遍的に実施されたが、封国と入りまじった。始皇帝二十六年(前221)、天下統一して封国がハイされた。京畿を直轄し、内史が治めた。天下を36郡に分けた。のちに南北に領地をひろげ、郡がふえた。郡が県を統べた。蛮夷がいる県を「道」という。県や道は「郷」「亭」を統べた。戦国時代の制度とおなじだ。
郡には「守」をおき、秩2千石。「尉」の秩は比2千石で、守を補佐して軍事をした。守と尉には、それぞれ副官「丞」がいた。卒、史、書、佐らの属官がいた。中央は御史をつかわし、地方を監察した。ゆえに郡府の組織は、ほぼ中央政府をまねた。中央には、丞相、太尉、御史大夫がいた。
1万戸以上の県に「令」をおき、秩1千石から6百石。1万戸未満の県に「長」をおき、秩5百石から3百石。みな「丞」「尉」がおり、それぞれ秩4百石から2百石で、これを「長吏」とした。1百石以下の佐、史がいて、これを「少吏」とした。大卒10里を1亭として、亭長がいた。10亭を1郷とした。郷には、三老、有秩、嗇夫、遊徼がいた。三老は教化をやり、嗇夫は裁判と徴税をやり、遊徼は盗賊をしばいた。
このような職務分担は、『漢書』百官表にある。両漢は秦代の制度をついだが、運用には変化があり、完成にむかった。
秦漢の統治政策_009
◆秦の統治政策-郡県単軌制、中央集権制
戦国時代に、郡県制度(=官僚行政制)は、封建制度と並行してはじまった。始皇帝が天下統一してから、統治政策について考えた。『史記』始皇本紀にある。封建制度を徹底して廃して、郡県制度をひろめ、中央集権制度をつくった。内史が領した京畿のほかに、36郡をおいた。ふやして40余郡となった。郡の下に、県と道をおいた。
武力で天下をおさえ、領土をひろげ、道路と駅伝をつくり、交通を軍事に利した。蛮夷がいる辺境の県へ、とくに道路を整備した。「導化」と言えない。県や道の数は、およそ1千前後か。「行政区間」の節に後述する。
郡県の行政は、すべて官僚にゆだね、中央で丞相が官僚を統べた。戦国の制度をつぎ、御史に郡を監察させ、地方の制御をたもった。徹底した中央集権である。戦国の王、始皇帝の功臣、公族の子弟や親族すら、土地に封じなかった。
◆封建政策の変化から、漢代の統治政策をみる
漢代の統治は、封建政策と監察制度をあわせた。封建と郡県がならんだ。秦楚戦争のとき、諸侯が王になった。項羽は、諸王を統括しなかった。劉邦が王国にならぶと、項羽と争った。
漢王三年、酈食其が「戦国六国の子孫をたてよ」という。漢王五年、劉邦が即位したのち、諸侯の王国が7つになった。韓王信、張耳、鯨布、韓信、彭越、臧荼と廬綰、呉ゼイである。閩オウ王の亡諸(越王勾践の子孫)は、劉邦に任じられていないから、漢室の史官は諸侯に数えない。ともあれ、合計8国があった。
8王の特徴は何か。全土に国土があって、漢王より広い。みな異姓で、韓信のほかは漢王の直属でない。故地に封じられ、張耳のほかは独立した軍隊をもち、百官をもつ。
項羽は盟約で主従関係をつくったが、じつは対等な王国である。漢王は秦代の制度をつぎ、変更はすくない。ただし漢王は、秦代の地方統治と同じにできず、封建制度にもどった。
高祖が統一したのち、諸王を慎重に扱った。周室は乱れても長らえ、秦室は乱れないが短かった。周秦を参考に、異姓の王をのぞき、同姓の王にかえ、藩塀とした。即位した翌年(高祖六年)から、政策が始まる。異姓から同姓への置換は、表のとおりだ(14ページ)。
長沙王と閩オウ王は南方で、漢室に無害だから放置した。ほか6王は同姓にかえた。
高祖六年から末年まで、放置と制度については、変革がない。『史記』諸侯年表の序文にあり、『漢書』諸侯王表の序文もおなじ。
ほかと異なるのは、斉国だ。斉地はもとは漢室の直轄だった。斉王の劉肥は、諸王のなかでもっとも皇帝に近いから、斉王に封じられた。『史記』斉王世家で、主父偃は天子にいう。「臨菑は長安より大きい。天子の親しい子弟を封じろ」と。高祖は、庶長子の劉肥を封じ、曹参を相とした。漢相の蕭何が死ぬと、曹参がついだ。このように斉国は、長安とともに東西を支える要地だ。西周が魯相を封じたのと同じ。
同姓王には、ひろい封地をあたえず、数郡のみ。しかも国境を胡越に接する。形勢は、もとの異姓王とおなじ。『漢書』百官表、『続百官志』にあるように、諸王は直接統治した。公卿より以下、百官のかまえは漢室とおなじ。漢室のみ丞相があるが、ほかの御史大夫より以下は、漢室と国王はおなじ。行政の権限は、とてもおもい。『史記』平準書、劉ビ伝によると、財政と経済の権限も、諸王が全てもつ。中央政府が取れない。
諸王が世代をへると、血筋が漢室からはなれ、異姓王とおなじ弊害がでる。『漢書』賈誼伝で、賈誼がいさめる。文帝や景帝の時代のとき、諸王の権限と財政をけずった。封地をけずり、形勢をおさえ、政権をうばい、財政をかぎった。
◆「監察州制」の変遷と、漢代の統治政策-分権と集権
「監察州制」の変遷から漢代の特徴を理解するなら、5時期にわけられる。
1つ。漢室が秦代のつよい中央集権をついだが、政治情勢がちがうので、封建と合わせねばならなかった。諸王がつよく、漢の郡の長官に功臣がおおく、どちらも中央集権をさまたげた。御史に郡を監察させる制度は、機能しない。漢代のうち、もっとも分権の色彩がつよい。
2つ。景帝と文帝のとき、御史や丞相史を、郡国に巡察させるようになった。景帝と武帝のとき、諸侯王の権力をけずり、諸国の行政を、漢室の郡と同じにした。あわせて、監察の政策をつよめ、ついに丞相史の監察を制度化し、刺史の監察制度ができた。山沢塩鉄の利益を、少府がおさえた。地方政府の財源をちぢめた。中央集権がすすんだ。
3つ。刺史の制度を始めたとき、もとは詔の6条をたてまつり、督察した。監察と行政は混ざりやすい。刺史は中央の威勢をつかい、郡国の長官をおどし、行政に干渉した。刺史の権限がつよまり、刺史の地方官化がすすみ、軍国より1級上の地方官となった。牧伯の制である。天下は13州に分けられ、州牧は1州の軍事、民政、刑罰、財政をにぎった。中央集権のための刺史が、かえって地方分権した。権限は、ただ州牧がもち、守相にない。
4つ。光武の建武十八年、州牧をやめて刺史とした。奏事は計吏がやった。ただ軍民の諸権をまとめた。ゆえに前漢の旧名にもどした。しかし武帝が初めて設置した刺史より、権限が大きかった。いちど前漢の牧伯をへたから、ただの監察官には戻れない。
刺史の強さから、何が言えるか。中央集権から見ると、刺史は中央の使臣であり、武帝の時代よりも権限がつよい。中央から郡国への統制は、武帝の時代よりキツい。言い換えると、中央集権がつよまった。ぎゃくに地方分権から見ると、刺史は行政の権限をにぎる。高級な地方官である。土地はひろく、権限はおもく、分権のようなもの。
5つ。後漢の中期以後、刺史の権限はつよまった。守相は刺史をおそれた。黄巾の乱にて、州牧をもどした。州牧の権力は、前漢末より強大だ。守相を臣下や官僚として、地方分権した。
秦代の郡県_032
全祖望は、秦代の郡県を考察した。内史の治める京畿と、始皇二十六年の36郡に、九原、南海、桂林、象郡、閩中をくわえて41郡。県と道の数はわからないが、全祖望が推測した。内史は40県前後ある。戦国時代に、郡は10余県をまとめた。『漢書』高祖紀、『史記』周勃世家から、北辺8郡は1郡あたり16.5県。8郡は秦代から変更なし。秦漢でだいたい同じと考えられる。北辺は防御の必要性から、とくに郡がおおい。内地は、1郡あたり25県ぐらい。ゆえに秦代は、約1000県であろう。
県と道は、最小の行政単位である。県と道の下に「郷」「亭」「里」「聚」の制度がある。ほぼ漢代と同じだ。後述する。
漢代の郡県_035
【機構】 『漢書』地理志はいう。三輔をのぞくと、全国を80郡+20王国にわけた。郡国が並立した。これは前漢末年の制度だ。つまり武帝以後の制度だ。前漢初、諸侯王国は大きくないが、数郡を統べた。大国は、5、6郡を統べた。『漢書』地理志によると、高帝は秦代の36郡のほかに、26郡をおいた。河内、汝南、江夏、魏郡、常山、渤海、平原、泰山、東莱、豫章など。あらたな26郡の3分の2以上は、諸侯王国の域内にあった。王国は、域内の郡に守尉をおき、漢室のように統治した。
景帝と武帝のとき、諸国をけずった。大国でも、10余県をもつのみ。元帝の初元三年、ついに「諸侯の相を、郡守の下位とする」と決まった。武帝以後、王国は郡をまとめず、じかに県を統べた。ほぼ断言できる。後漢は武帝より以後の制度をふまえた。
前漢初と、景帝から後漢末までの2つに分かれる。図示037ページ。
【数量】 漢代は秦より、辺境に郡を新設した。『漢書』地理志はいう。開拓により、高祖が26、文帝と景帝が各6、武帝が28、昭帝が1、合計で103郡を増やしたと。
全祖望は地理志に疑問をつける。景帝までは、秦代36郡と領土が同じ。1郡を2郡に分割しただけだ。武帝は辺境をひらいたが、内地の郡の分割が約10ある。武帝から前漢末は増えない。『漢官旧儀』で郡国は106という。103に近いが「秦代から純増」は言い過ぎ。
後漢にも増減がある。『続郡国志』はいう。光武は10郡をはぶき、明帝は1郡をおき、章帝は2郡国をおき、和帝が3郡をおき、安帝は郡なみの属国を6おき、順帝までに105郡国となったと。だいたい前漢とおなじだ。後漢末の建安、やたらと増設されたが、漢代の正統な制度でないので、詳説しない。
【区画】 秦漢の郡は合理的な基準でおかれた。南方の諸郡、巴郡、蜀郡、漢中、テン中、長沙、豫章、廬江、会稽、南海、閩中は、みな地形の1区画だ。天然の境界による。『華陽国志』巴志で、太守の但望が「巴郡を東西に二分したい (根拠は省略)」という。結果、漢末に実行された。巴郡の事例から、社会の習俗、経済の需給にもとづき、郡が設置・分割されたことがわかる。
郡の面積はいろいろで、十数倍もひらいた。南方は未開でひろく、北辺は羌胡に隣あうので郡を縮めて防いだ。中原は経済や文化が発達したので、郡をこまかく分割した。
【等級】 漢代の郡は、等級の上下があった。畿内の太守は九卿と同列だ。九卿から畿内の太守に転任したり、(畿内でない)列郡の太守から畿内の太守に昇進したりした。列郡にも上下があった。戸数による等級である。長安に近い三河、12万戸をこす「大郡」は、太守の秩禄がたかい。上郡や西河は戸数がすくない。
『後漢書』黄香伝で、尚書令から東郡太守にうつるのを望まず、「近郡」を望んだ。尚書令から東郡太守は、昇進でない。後漢初年、近郡の太守から三公をえらんだ。だから黄香は近郡を望んだのだ。
第五倫伝で、わざわざ蜀郡太守になったので、司空になれた。蜀郡は戸数がおおいが、遠いので等級が低い。『漢書』宣帝紀に「内郡国から、文学の高第な人を選挙せよ」とあり、韋昭が注釈する。「中国が内郡、辺境で夷狄がでるのが外郡」と。北辺を「外郡」というのは、陳亀伝にある。「太守」という地位は同じでも、名誉は同じでない。
郡と国の上下関係は、漢代に変化した。前漢初、王国は4、5郡をあわせ、漢室にならんだ。孔光伝はいう。「宣帝のとき、諸侯王の相は、郡守の上である」と。宣帝のとき、国は郡より上位だった。元帝紀で、国が郡の下になった。
『地志』を見るに、前漢末年、4国(広平、中山、信都、長沙)が10余県をもつが、その他の国は数県のみ。これに比べ、郡は10余県から20余県をもち、汝南、南陽、沛郡、東海、西河は30余県をもつ。瑯邪は51県をもつ。国の地位は低い。
【治所】 郡国の守相は、治所をもつ。『漢書』地理志、『続郡国志』は治所の県をしるす。これは前漢の元始、後漢の永和の治所を伝えるだけ。治所はコロコロ変わるし、前漢は郡国の統廃がはげしい。統廃が落ち着いたあと、郡内で第一の県に治所があると記されただけ。『水経注』や胡三省も、異説なし。
閻若璩は「『漢書』のいう郡内で第一の県が、治所とは限らない」といった。王鳴盛も王先謙も、閻若璩に賛同したが、こちらこそ誤りである。
厳耕望はいう。『漢書』は一郡の副官たる、都尉、塩官、鉄官らの治所を「絶大な多数」明記する。だが太守の治所を明記しない。王国の治所も1つ記すだけ。何か書き方のルールがあるはずだ。『続郡国志』は第一の県を治所とする。『続郡国志』は『漢書』と一致する。前漢のとき、治所はつねに移動した。地理志は平帝期を記すだけ。本紀や列伝と対応しない。移動が多いから対応しないのであり、地理志の誤りではない。閻若璩は分かっていない。第一の県が治所で良いのだ。
漢代の県、道、侯国_043
【名称】 『漢書』百官表はいう。列侯のはむ県を「国」という。皇太后、皇后、公主がはむ県を「邑」という。蛮夷がいる県を「道」というと。名称はちがうが、行政では「県」にまとめて扱う。
【数量】 百官表で1587県。光武がはぶき、順帝のとき1180。
【区画】 土地と戸数できまる。遠方でひろい。馬援伝など。最小で3千、4千戸。最大で、この10よ倍から20倍のひらき。
【等級】 1万戸を境界にして、長官の名称と秩禄がちがう。呉郡、豫章、巴郡、蜀郡など、長江流域では土地が荒れ、蛮族が弱く、職務がヒマなので、戸数が多くても「小県の制」が適用された。北辺は、羌胡が強く、忙しいので、戸数が少なくても「大県の制」がとられた。「県令」「県長」の区別は、戸数だけで決まらない。職務の大変さでも決まる。
@korekorebox さんはいう。 編集中の年表でも県令は黄蓋が平定した尋陽県の県令と、朱然がなった山陰県の県令くらいしか出てきません。
ぼくはいう。孫皓時代までに、県長から県令への改変があるのか気になります。越族に戦闘をしかけ、南方の県も多忙です。また体裁上、県長ばかりというのはダサいです。
漢代の封侯制度_047
◆受封の資格
3種類ある。武功の臣、王子、外戚恩沢。
1つ、功臣。張耳と陳余をつり、韓信、曹参、周勃、樊噲、呂氏など。光武は127人。中略し、霊帝が24人、献帝が137人。後漢は、銭大昭『後漢書補』巻3、巻4を見よ。
2つ、王子。『漢書』王子侯表を見よ。光武は50人、中略し、霊帝が2人、献帝が2人。銭大昭『後漢書補』巻2を見よ。
3つ、恩沢。恩沢には3種ある。外戚、丞相、降者。外戚は前後漢でおなじ。丞相を封じるのは、前漢のみ。降者は景帝のとき封じはじめ、後漢もおなじ。『後漢書補』表3。皇女は県で公主となり、子に侯爵をつたえた。『後漢書』皇后紀にある。後漢の中期以降、おおく宦官が封じられるが、これも恩沢。
◆列侯の等級
『廿二史考異』9はいう。前漢の列侯は1県や1郷のみ。前漢の等級は、よく分からない。後漢の等級は、県侯、郷侯、亭侯の区別がある。『後漢書』に明記の事例がおおい。郷侯、都郷侯、亭侯、都亭侯は、もとの県から分割して国をたてる。後述。
『日知録』22・都郷侯の条はいう。「皇甫嵩は槐裏侯に封じられた。中常侍の趙忠と張譲にさからい、6千戸を削られ、都郷侯に改められた。また具瑗は罪があり、東武侯の印綬を返還し、都郷侯におとされた。これにより、都郷侯は列侯の下位だとわかる」と。そのとおりだ。
朱儁伝で、都亭侯に封じられ、すすんで西鄕侯となる。西羌伝で、馬賢は安亭侯となり、すすんで都郷侯となる。『呉志』孫賁伝で都亭侯となり、子がすすんで都郷侯となる。都亭侯は、郷侯と都亭侯の下位だとわかる。『魏志』で亭侯から郷侯になり、侯になるのを「進爵」とする。爵位の序列が同じでない証拠だ。銭大昕はいう。「都郷侯は洛陽にちかい郷で、郷侯の上位だ」と。そうだろう。
県侯、都郷侯、郷侯、都亭侯、亭侯、の順序である。
◆侯国の封法
つかれたので、後日。050ページです、いま。つづく。120124