02) 抄訳2日目、101ページまで
厳耕望撰『中国地方行政制度史』秦漢地方行政制度を抄訳
漢代の封侯制度_047
◆侯国の封法
前漢の封侯は、おおくて数万戸、すくなくて百余戸。功績により、多少がきまる。区域がきまるので、区域のなかで戸数が増減しても、区域はそのまま。『史記』功臣侯表はいう。蕭何や曹参は、はじめ1万戸もないが、数世代のち、4万戸になった。
戦国時代は「里」で数えたが、前漢と後漢は「戸」でカウントした。都郷侯、関内侯は、戸数でなく、租穀での支払だった。
◆統属の関係
侯国は「県」レベルの行政単位だ。前漢初、郡や王国にふくまれた。銭賓四はいう。文帝のとき、王国のなかの侯国が、漢の郡にうつされた。武帝も、侯国を郡にうつした。
前漢末はどうか。『漢書』地理志によると、20王国のうち、広平国は、2侯国(曲梁と陽台)を領した。信都国は、5侯国(はぶく)を領した。その他18王国は、侯国を領さない。広平国、信都国は、県数や戸数の比率が、ほかの郡国とちがう。銭大昕は「広平と信都は、国でなく郡だ」と考えたが、確かでない。
後漢から考える。『後漢書』丁鴻伝はいう。丁鴻は、もとは廬江郡の尋陽県の魯陽郷侯に封じられ、馬亭侯にうつったと。『東観漢記』はいう。廬江郡を六安国としたので、丁鴻を馬亭侯にうつしたと。また『後漢書』劉般伝はいう。光武は劉般を菑邱侯に封じたが、のちに楚国をつくったので、劉般を杼秋侯としたと。以上から後漢では、侯国を王国に属さないと言える。だが『続郡国志』では、王国が侯国をふくむ事例がおおい。どちらとも言えない。
後漢の侯国は、戸数ベースで封じられた。後漢の侯国は、侯国の領域内の戸数をすべて食まない。国王もまた、王国の領域内の戸数をすべて食まない。王国の余った部分に、侯国が紛れこんだのかも知れない。余った部分がなければ、侯国は他郡に追いだされたのか(丁鴻と劉般の事例)。
漢代の郷亭の制度
県、道、侯国は、もっとも基礎となる行政単位だ。ゆえに中央からの任官は、県までだ。県を分けると「郷」となる。郷は行政区分と見なせない。郷吏は、県廷の属吏が管理する。ゆえに『漢官』は県吏と郷の有秩と嗇夫をしるす。亭里および亭里吏は、さらに地位がひくい。
◆郷と亭
前漢は秦制をつぎ、郷をおく。『百官表』で前漢末に、郷が6622ある。1県あたり4郷である。『東観漢記』では後漢の永興のとき、郷が3681ある。1県あたり3郷である。郷には、城郭をもつ治所がある。根拠ははぶく。『周礼地官遺人疏』によると、郷三老に宮室がある。
始皇や武帝が四方に道路をとおしたとき、道路を管理させ、反逆を防御したのが亭だ。亭は郷に従属する。
『百官表』で前漢末に、亭が29635ある。1郷あたり4.5亭である。『東観漢記』では後漢の永興のとき、郷が12443ある。1郷あたり3.3亭である。『百官表』に「大卒、10亭を1郷とする」とあるが、制度と実態はちがう。
地形がちがえば、亭を「都亭」「野亭」「旗亭」と分ける。
京師や郡国県の道にある治所を、都亭という。郷野にあるのを郷亭という。『説文』より、城郭門があるのを亭という。『漢官儀』は12門すべてに亭があるという。郡県の門を亭という。吏人のいる治舎は、亭とおなじ。旗亭は、市聞楼のこと。市街に「市亭」がある。「門亭」と「旗亭」は同じ用法。亭舎は、聚落の城壁があるもの。
公共の建築物をさす「亭舎」について。交通の線上にある。武帝は巴蜀への道をつくり、郵亭をおいた。寄宿できた。
亭と亭との間の距離。亭から郵が2.5里、郵から郵界まで2.5里、郵界からつぎの郵まで2.5里。この反復で、亭は10里ごとに置かれる。原書に図示あり。
辺境の亭は、地面から5丈、遠くまで見えた。内地の亭も、見晴らしがよい。人民を見張り、盗賊を取り締まった。
官吏が宿泊できた。太守が県をまわるとき、郷亭に宿泊した。州牧も、野亭に止まった。平民も使用できた。長期間の宿泊もあった。交易場所、防御施設にもなった。へえー。
『水経注』では、郷と亭の同名がおおい。亭の城郭をつかい、郷の治所となった。おおきな県が、郡の治所となるのと同じ構図だ。一定区域を、亭が統括することもあった。亭が民を統括することもある。
厳耕望氏は書いていないけれど、州郡の治所だって、遡れば「亭」のような1拠点でしかない。殷周の都だって、春秋の諸侯だって、おなじだ。亭が発展性をもつのは、当然のことで。ただし異なるのは、発展のタイミング。人がどこに集まるかは、地形だけで決まらない。政治、軍事、交易、などは変化する。武帝が四方に道路を開通させて、亭が整備されたのが、わかりやすい事例だ。発展が遅ければ、漢代には「亭」でしかない。
◆里、聚、落
『続百官志』は、亭の下に「里」をおく。里の制度は、とても古い。漢代の城中に、つねに里が出てくる。漢人は、きわめて「里」を重視した。戸籍が里を起点とした。史書でも出身地を、里で記す。
聚は、『史記』秦紀の商君の変法にでてくる。大小の郷聚をあつめて「県」とした。『漢書』平帝紀で王莽は学校を、県、道、郷、聚につくった。前漢で、郷の下に聚があったのだ。『続郡国志』は後漢の聚をおおく載せる。落もある。『史記』酷吏伝で、中尉を、伯格長にした。「格」と「落」は通じる。両漢で「落」がある。
「里」の制度は城市で、「聚」「落」の制度は郷野でおこなわれた。
漢代の州について_067
州は監察機構で、武帝に始まる。武帝の元封五年(前106)、十三州に刺史が置かれた。1人1州を察した。
ただし前漢の13州は、異説がある。『漢書』地理志はいう。夏制から、冀州、兗州、青州、徐州、揚州、荊州、豫州、梁州、雍州の9州をとる。
周制の9州は、禹貢から徐州、梁州をのぞき、幽州、并州を加えたものだ。武帝は、夏制と周制をあわせ、11州とした。さらに開拓した朔方、交趾を足して、13州とした。
『漢書』は「どこ郡は、どこ州に属す」と記すが、涼州と朔方が出てこない。かわりに、司隷が出てくる。河内、河南は「司隷に属す」という。班固は矛盾している。涼州は、班固が書かなかっただけ。だが朔方は「朔方郡が并州に属す」とあり、包含関係がおかしい。朔方という「州」があるか。朔方はなく、司隷に入れ替えて13州か。
キツ剛はいう。武帝は地理志どおり、朔方州をおいた。京畿の諸郡(三輔+三河+弘農の7郡)を、13州から除外した。司隷が「州」を領するのは、光武の建武十八年からと。
司隷は、武帝の前089に置かれ、これは武帝が13刺史をおいた17年後だ。はじめ司隷は、京畿を監察する職務はなかった。武帝の13州に、司隷はふくまない。朔方刺史の任命例もおおく、13州に含むのは疑いない。『北堂書鈔』も、司隷を13の外数とするとある。ほかの記述から、三輔、三河、弘農は、13州に含まれないと分かる。
前漢の末年、司隷は、京師の百官を督察した。ついに京畿の諸郡には、刺史が置かれなかった。のちに詳述。
茲拠は、前漢末年の州郡をならべる。070ページ!
王莽は『堯典』にならい、12州にした。平帝紀、王莽伝上にある。揚雄『十二州箴』にある。これは漢代の朔方をのぞき、涼州を雍州にもどしたもの。朔方は并州にはいる。京畿7郡をばらして、雍州、冀州、豫州にいれる。
光武は司隷をもどした。王莽をやめて、雍州を涼州にもどす。司隷をあわせて13郡とした。『続郡国志』は順帝のときの州郡をのせる。後漢のうち、もう大きな変更はない。曹操はイラネ。
ここからが「第2章 郡府組織」。
太守は国相とおなじ。太守には佐官がいる。丞、長史、都尉である。属吏がいる。守相は、みずから属吏を辟した。1百石以下の掾史、諸吏がこれだ。開府して吏人を置けた都尉については、べつの章で論じる。
郡国長官-郡守、国相_073
戦国から秦代、ずっと郡守がいた。前漢も秦制をつぐ。景帝中二年、「守」は太守になった。諸侯王は国をおさめ、属官は行政をした。丞相が官を統べ、内史は民をおさめ、中尉が武官をにぎる。景帝中五年、諸侯王に治国をやめさせた。丞相を「相」とした。成帝のとき、内史をはぶき、相に太守とおなじく治民させた。郡守と国相は、名称がちがうが職務が同じになった。郡国の長官を「郡吏」「主郡吏」「郡長吏」ともいう。兵をすべて「郡将」「郡将軍」ともよぶ。
◆守相の一般の職務
郡守は、すべての郡政をみる長官だ。行政をやり、刑獄をみて、盗賊をとらえ、豪強をおさえた。辺境では寇賊をふせぐ。春に県をまわり、秋冬に県の政績をしらべて、中央にしらせる。
豪強のふるまいは、地方官がもっとも注意する。遊侠、豪強をほろぼす。循吏伝、遊侠伝にある。例えば馬援伝で馬援は隴西太守となり、大姓や羌族をおさえた。前漢の李広が匈奴と戦ったのも、太守としてだ。『後漢書』廉范伝はいう。異民族5千以上が侵入したら、周囲の諸郡に救いを求めると。つまり5千未満なら、太守は独力で防御した。
◆守相の重要な権力
守相の職務が貫徹され、滞らないのは、崔寔『政論』にある。州郡は霹靂のように筆記し、詔書をえたら壁にかけたと。
守相には6つの権力がある。1つ、郡国府の官吏(部下)を、絶対的におさえた。2つ、属県を、絶対的におさえた。3つ、郡内の吏民を、中央に察挙する特権がある。4つ、刑獄を最終決定できる。5つ、地方財政を絶対的におさえる。6つ、地方の軍隊に相当の支配権がある。
以下、6つを詳しくみる。
1つ、官吏のこと。郡府の官属には、佐官がいる。中央から、都尉、丞、長史が任じられる。属吏を郡守がみずから辟する。功曹、督郵、主簿、列曹である。都尉をのぞき、守相が絶対の権限をふるえる。
郡県は、周代の封建制度につづくもの。秦漢の行政長官は、古代の諸侯のように、1郡に君臨した。ゆえに郡府を「朝廷」とも呼ぶ。『日知録』はいう。郡守を尊び「本朝」とよぶ。碑文にもある。『後漢書』劉寵伝に「郡朝」、『晋書』劉琨伝に「府朝」とある。『三国志』孫皓伝の注釈に用例がある。謝承『後漢書』で、汝南太守の宗資は、功曹の范滂に、李頌を用いさせた。范滂は「私ごときが、朝廷に仕えるなんて」と謙遜した。郡府は「朝廷」と呼ばれたのだ。
ゆえに守相と属吏は、君臣の関係になった。『後漢書』郅惲伝で、功曹が太守に「臣節」をいう。独行・彭脩伝で太守に対して「忠臣」をいう。『三国志』高堂隆伝にもあり。社会の官場で「君」というのが、尊称になった。『世説新語』で陳仲弓は県令となり「君」とよばれる。『三国志』司馬芝伝、『後漢書』虞詡伝にもある。虞詡が、守相と属吏を、父子関係にたとえる。天子と陪審の関係に通じるのは、偶然でない。
『東観記』梁鴻伝はいう。はじめ蕭友と仲がよく、対等だった。のちに蕭友が梁鴻の郡吏になった。梁鴻は、蕭友を責めた。
郡守は、任免や賞罰を自由にやれた。『後漢書』劉寛伝で賞罰してる。『三国志』黄蓋伝で県令となり、2人の掾に刑罰を指示した。
丞と長史の任命だけは守相がやれないが(後述)、丞と長史にも、守相が絶対の権限をもった。ゆえに史書は、丞と掾をならべるが、丞と長史を任じるのは、かえって、曹掾の治績がある者にしかず。??
ただし前漢の都尉は、太守の副官である。秩禄は、ほぼ太守にひとしく、太守と衝突した。だが突き詰めれば、太守に統属された。『三国志』閻温伝にひく『魏略』はいう。唐衡の弟は、京兆の虎牙都尉となった。秩は比2千石。属郡をすべた。唐衡の弟は京兆尹とぶつかる。郡功曹の趙息が、唐衡の弟のふるまいを叱った。唐衡の弟は折れたと。
唐衡の弟は後漢の事例だが、前漢も近いだろう。太守の権限をつぶせないのは、明白である。
◆属県の行政に対する権限
労貞一はいう。「実際に県は、郡をたすけて治めた。郡は県のすべてを決めた。太守が県の権限を奪いたければ、完全に奪うことができた」と。正確な指摘である。尹翁帰伝は東海太守として、県を直轄した。酷吏・咸宣伝は、県令の権限をうばった。
守相は、自分の属官を令長に送りこんだ。正史や碑文に事例がおおい。諸県の長吏に、命じることもおおい。また1人が、数県の長官を兼ねることもある。王莽のとき、公孫述は清水長になり、5県をかねた。公孫述は、正式の着任者を待つための兼務である。また『後漢書』鮑昱伝では、県長の職務を奪いあった。盗賊みたいなものだ。『後漢書』卓茂伝でも、正式の着任者と並立して、県令の権限をうばう。
守相は、県の長吏を処罰したり、駆逐したりする。
光武紀の建武三年の詔はいう。「県吏の6百石未満から、黒綬長相まで、罪があれば先に請え(かってに裁くな)」と。前漢の法制では、6百石の県令までを、守相が罰せなかった。光武が法制をかえ、黒綬の長相より上を、守相が罰せないことにした。だが質帝紀で「州郡では、喜怒により長吏を駆逐するから、へつらう」とある。対策として、桓帝紀で州郡に詔し、長吏の駆逐を禁じた。崔寔『政論』が指摘するように、法制では守相が令長を罰せないが、実際は守相が令長をかってに罰して駆逐していたのだ。
守相は、平時に督郵をまわらせ、県を督察した。令長は、虎のように督郵をおそれた。守相の絶対的な権限に、令長はしたがった。
◆郡内の吏民を中央に察挙する権限
守相は、郡府の佐吏や、属県の吏民に、絶対の権限をもった。いっぽう賢能な人を見つけると、中央に送る特権があった。この特権が、守相の権限をさらに大きくした。
中央におくる固定された察挙の権限は、孝廉選挙制である。文帝のころ、始まった。武帝のとき董仲舒が、郡県の察挙の制度をかためた。列侯や郡守に、吏民をあげさせた。武帝紀の元光元年、はじめて郡国に孝廉1人ずつをあげさせた。班固も「董仲舒が、州郡の茂才孝廉をはじめた」とある。だが該当者が少なく、あがってこない。
察挙孝廉の制には、守相が関わったが、いくつか問題がある。1つ、察挙する者の資格、年齢。2つ、察挙される者の資格。
3つ、察挙される人数。1郡国あたり、いつ2人以上に増えたのか。『後漢書』丁鴻伝で、20万口あたり1人という。种暠伝で、河南尹が6人の孝廉をあげる。戸数が120万戸以上あったのか。和帝紀はいう。幽州、并州、涼州は戸数が少ないから、10万戸以上で1人にゆるめようと。辺境を優待した。
選挙は不定期で、本紀にちらばる。086ページ。賢良方正、直言極諫、茂才異等、文学明経、孝悌義行、勇猛知兵。
守相は、すべての挙主である。守相が察挙する権限がおもい。『廿二史サツ記』があげる人材は、守相があげたものでない。だが、賢良方正らは、一般には布衣から選ばれず、すでに仕える人から選ばれる。ゆえに守相が選ぶのは、長吏がおおくなり、けだし属吏がすくない。
ほかに漢代の県の長吏は、治績が優れれば昇進できた。守相が治績を査定した。前漢の察挙は以上のとおり。後漢は察廉の科目がないが、治績で推薦されるのは前漢と同じ。『後漢書』陸康伝で、陸康は県令の仕事を州郡にほめられ、武陵太守となる。法雄伝で、県長の仕事を南陽太守にほめられ、県令にすすむ。朱儁は、県令から東海相にすすむ。
◆刑獄を決断する権限
司法と行政は、分かれない。地方行政の長官がにぎる。死刑すら、事後報告だった。長官は、生殺の権限をもっていた。
『漢書』刑法志、酷吏伝、なかでも厳延年伝、王温舒伝にある。守相が死刑といえば、絶対に死刑である。後世からは、想像もできないことだ。
◆財政を支配する権限
財源は、田賦、郡国の公田、山海池沢、市租および、その他の雑調。
田賦は、
本来は中央のもので、地方が独自にやれない。中央に許可をとってから徴発した。『後漢書』循吏・第五訪伝で、第五訪が倉を開いて恵んだので、吏人がおそれた。『後漢書』劉平伝はいう。青州刺史の王望は、許可なく恵んだので、罪とされた。辺境では、収入がすくなく、支出がおおい。ゆえに、おもに内郡で徴発された。『漢書』平準書はいう。辺境は無税で、南陽や漢中に課税したと。『後漢書』伏湛伝で、光武は漁陽を減税した。
郡国の公田。
公田には、中央に属するものと、地方に属するものがある。郡国の公田は史料におおい。『漢書』東方朔伝など。中央の公田は、大司農がみずから帳簿をつけ、地方から管理しない。郡守は、徴発を許されない。いっぽう、『東観漢記』任延伝はいう。会稽西部都尉は、卒に公田を耕させたと。『後漢書』文苑・黄香伝はいう。黄香は東郡太守となり、収穫の分配をきめた。以上より、任延が好きに耕したのは、郡の公田だと分かる。黄香の口出しから、郡国の公田は、太守の私物のように扱われたと分かる。
山沢の利益。おもに塩鉄。
前漢初、王国のものになった。平準書にある。武帝のとき、郡国の塩鉄は少府のものだが、地方政府が運営した。郡国が貨幣をつくる権限もあった。元鼎のとき、郡国は貨幣を禁じられ、中央に権限があつまった。『続百官志』大司農の条はいう。郡国の塩鉄の官は、もとは司農に属した。後漢になると、郡県に属したと。後漢のいつか分からない。塩鉄の官が郡国にあるので、守相は権限をつかえた。『後漢書』史弼伝で、史弼は河東太守となり、中常侍の侯覧に税収を欲しがられた。
市租。『五行大義』にひかれるのが「金曹は市祖をつかさどる」と。県の官職だ。だが何武伝と馮唐伝で、市祖は郡がとってる。郡に権限があった。
最後に、その他の雑調。
『漢書』平準書で、徴税の規則が守られない。雑調はもっとひどい。だが、これも公権による徴発だ。『後漢書』張譲伝で、刺史や太守が増税した。つまり私腹をこやした。『後漢書』虞詡伝にも私腹の記事があり、後漢末だけの弊害でないとわかる。
守相は、以上の5種の財産の収入がある。財源がひろい。だが漢代の法はゆるく、地方政府の収入は、公私の区別がない。黄香伝から、郡の公田と賦民を、私産にしていたと分かる。『渠水注』の注釈では、守相が財産をつかい、士人を養った。財政が自由になるから、支配も自由にした。
守相から中央には「上計」するだけ。だが上計考課のルールは、きわめてあらい。事前でなく事後の審査である。個別でなく全体の審査である。ゆえに郡守の財政には、あまり影響がない。中央と地方の関係を財政から見れば、漢代の郡国は財源がゆたかで、絶対的に自由な支配権をもつ。守相の行政に、独立の精神があることの合理的な解釈だ。
◆地方の軍隊への支配権
胡広『辺都尉箴』にあるように、郡守が民政、都尉が軍事を分担したと考えがちだ。誤りである。郡守は軍事も含め、すべての権限をもつ。
『続百官志』にひく『漢官儀』で、太守も都尉も、兵士の試験をする。『漢書』王莽伝で、東郡太守の翟義が、兵士を試験する。
韓延寿伝でも、たっぷり試験する。太守が兵権をもった強い証拠だ。
文帝紀で文帝は「符」を、都尉でなく郡守に与えた。厳助伝で武帝は、会稽に出兵を命じたが、郡守が従わなかった。以上から軍権は、都尉でなく、皇帝でなく、郡守にあることが分かる。太守が兵を動かし、征伐した記事はおおい。
都尉とは『百官表』のよると、太守をたすける武官である。『漢官儀』『漢官』でも、都尉は太守の補佐だ。太守を「郡将」「郡将軍」というように、都尉は副将である。
秦漢のとき、天下統一したとき、軍事が最重要だった。郡守1人では、すべて出来ない。ゆえに郡守は、民政を自分でみて、軍事を都尉にたすけさせた。郡守は都尉を部下とした。胡広の言葉は、誤解をまねく。後漢は都尉をはぶき、守相に兵権が集中した。
『漢書』刑法志はいう。天下が定まると、秦制どおりに材官を置いたと。つまり地方の兵種が、秦制に由来する。『漢官儀』が兵種にくわしい。兵種は地域で異なるが、秦制である。銭文子は、兵種の分布をいう。095ページ。
東北には騎士おおく、東郡より東には材官(射手)がおおい。軽車は、戦法がかわり、漢代に使われなくなったか。江淮には楼船がある。
辺境はつよい。『漢官儀』で、辺境の太守は1万騎をひきいる。上郡太守、西河太守は「万騎太守」とよばれた。
光武紀の建武七年、郡国の兵をやめたとある。だが後漢で、郡兵による平定は、本紀に数十ある。弱いはずがない。『後漢書』廉范伝はいう。廉頗は雲中太守となり、5千以上の匈奴をやぶった。虞詡伝で、虞詡は武都の郡兵3千をひきいた。酷吏の李章伝で、李章が瑯邪太守となり、1千で北海の盗賊を討った。李固伝で、泰山の盗賊を、郡兵1千で討った。西羌伝で、車騎将軍の鄧隲は、11郡の兵5万をひきい、漢陽にいた。以上から、内地の郡兵も、つねに1千人から数千人いたと分かる。しかし、前漢で太守がやった訓練「都試の役」がないので、戦うたびに負けた。
以上、郡国の長官は、6つの強大で絶対的な権限があった。ゆえに袁良は梁相となり、皇帝に「郡を典ずる職は重いよお」と言った。賢良な守相がくれば、政令は行き渡る。権限が広すぎて、万能な守相はおらず、勧農や教化まで詔されても、手がまわらない。安定をもとめ、進歩をもとめない。漢代の長官は優良だと言われるが、これが限界なのだ。
畿輔の特別な制度と、国相の職務_098
秦代、内史は京畿の諸県をみた。前漢初、秦制をついだ。左右の内史に分けた。さらに京兆尹、左馮翊、右扶風に分け、これを三輔という。どれも京畿の郡長官である。畿輔の長官と、国相の職務は、郡守とおなじ。だが職位が特殊で、郡守とちがう職権もある。以下のとおりだ。
◆畿輔の特別な制度
胡広『漢官解詁』はいう。三輔は郡守とおなじだが、朝請を奏せると。『漢書』雋不疑伝、張敞伝に、朝政への参加がある。畿輔の長官は、地方長官と朝官の両方の身分をもつから、朝政に参議できる。張敞伝で「列卿」とよばれる。王尊伝で、王尊が京兆尹になると「九卿」とよばれた。畿輔のまわりは、親貴や豪傑がおおいので、治めづらい。ゆえに地方官の成績優秀者が、畿輔にきた。秩は中2千石。公卿とおなじで、列卿と見られた。
畿輔の行政は、列郡とちがう。列郡のように、卒史はみな1百石だ。だが循吏の黄覇伝だと、左馮翊の卒史が2百石だ。長安の遊徼や獄史は、秩1百石もあり、他より高い。また張敞伝で、孝廉を経なくても、京畿の人は尚書の補吏となれる。長官は、本籍の人を避けず、属吏は本籍の人に限らない。後述あり。後漢の河南尹は、朝政に列卿として参じ、前漢の三輔と同じだったが、河南尹の権限は縮小して列郡にならんだ。
◆国相の特別な職務
王国の政治は、はげしく変化する。前漢初、諸侯王はみずから政治した。中尉、内史をおき、民政と軍事をさせた。景帝のころから、国王の権限が減った。成帝のとき、国相を郡守にならべた。中尉を郡尉とした。『漢書』何武伝より、成帝の改制より前に中尉がはぶかれ、内史が民政と軍事を専権し、内史が一国の統治者だったと分かる。成帝のとき、内史をやめて、国相に権限をうつした。中尉をもどし、国相の軍事を補佐させた。郡守と郡都尉、国相と中尉、が対応する。この体制になったのは、前漢がほろぶ10余年前だ。『百官表』は、中尉をやめて内史が専権したことを記さない。
前漢の国相は、民政をしない(民政は内史がやる)。国相は、国王をたすけた。『漢書』董仲舒伝で、董仲舒は江都相になり、易王をたすけたのが、これにあたる。おおくの事例から国相は、国王をたすけるだけでなく、督察・監視する責任があった。国王に連坐した。前漢の末年、国相の職務が郡守とおなじになっても、匡輔と督察の職務がのこった。『後漢書』河間王の劉開伝、趙王の劉良伝、済南王の劉康伝、任城王の劉尚伝、東海王の劉彊伝、中山王の劉焉伝、梁王の劉暢伝、楽成王の劉党伝などで、国相が連坐している。
千乗王の劉伉伝で劉悝が自殺すると、国相以下は殺された。国相が国王を、匡輔と督察するのは、後漢も同じである。
王の面倒を見つつ、国政もやる難しさは、『漢書』劉端伝、趙王の彭祖伝、『後漢書』陳王の劉羨伝にある。彭祖伝がくわしい。郡守ほどの権限もないから、国相は郡守より難しい。つづく。120125