02) 抄訳3日目、187ページまで
厳耕望撰『中国地方行政制度史』秦漢地方行政制度を抄訳
郡国の佐官-丞、長史、尉_102
秦漢の郡府の官僚は、2つに分けられる。佐官と属吏である。佐官は2百石以上で、中央に任命される。丞、長史、尉である。属吏は1百石以下で、守相がみずから辟して任じた。功曹、主簿、督郵らの掾史や属佐である。さきに佐官について。
秦代の郡守の佐官は、丞、尉である。漢代は秦制をつぐ。丞は民政をたすけた。辺境では丞を長史という。尉は軍事の副官である。「郡尉」は、景帝中二年に「都尉」に改められた。尉はべつに論じ、ここでは丞と長史らを論じる。
『百官表』はいう。郡の丞は、6百石。また『続百官志』で王国の相に、「長史あり、郡丞とおなじ」とある。『漢書』馬宮伝で、楚国の長史となる。前漢の国相には長史がいたのだ。中央の丞相に、長史がいたのと同じ。
郡の丞、国の長史は、定員1名。後漢末に、かってに増員した事例がある。ある碑に「州は表す、蜀郡の北部府の丞を」とある。北部都尉の丞である。『三国志』崔琰伝にひく『九州春秋』はいう。孔融は北海太守のもとに、左丞の劉義遜と、丞の某祖がいると。ここから、丞のほかに、左丞がいたと分かる。丞の定員が増えてる。
以上は、内地のこと。
辺境の郡は『百官表』によると、長史が兵馬をつかさどり、6百石とある。『漢官儀』で辺境の郡には、長史1人が兵馬をみて、丞1人が民政をみると。前漢の辺境では、長史と丞がどちらもいた。『古今注』はいう。建武十四年、辺境の郡で、丞をやめた。長史が丞の職務をかねたと。だから『後漢書』南蛮伝と和帝紀で、日南と象林は、長史が戦った。任延伝で、武威で「将兵長史」が戦った。どういうことか。後漢の辺境では、郡の丞をはぶいたが、事実上は前漢と同じ機能があった。前漢の「丞」を「長史」にして、「長史」を「将兵長史」とした。
丞と長史は、属吏をもつ。孫志祖の史料に、孟政が「府丞」の虞卿の「書佐」になったとある。郡丞の属吏がみえる事例である。県の丞には、史がいた。だから郡国の丞や長史にも、史(属官)がいるはずだ。
丞と長史は、どちらも6百石。ゆえに朝廷に任命された。『漢官儀』はいう。丞とは承である。長史は、衆史の長であると。漢制で長官は、みな丞や長史をもち、補佐させた。補佐の長官の名称は、1つでない。郡国も例外でない。ここは2例をあげれば、職掌の説明に充分である。
1つ、文書に副署する権利。銘や碑から、郡府をめぐる奏疏や一般文書は、ひとしく郡丞の副署名がついていたとわかる。
2つ、代行する権利。『古今注』はいう。建武六年三月、太守や国相が病気ならば、丞や長史に代行させたと。簡で張掖の長史が代行する。
丞と長史は、郡府や相府でトップで、しかも代行までできた。だが平時には、ほぼ実権がない。黄覇伝で黄覇は丞となり、劉平伝で劉平は丞となるが、実権がない。太守が自ら辟した、功曹や主簿にかなわない。両漢の郡丞はよわい。
王尊伝で、太守は丞をかろんじる。厳延年伝で、丞が太守をおそれる。守相が絶対の権限をもち、丞や長史は中央に任命されるので、守相は丞や長史を親任しない。守相は、功曹、督郵、主簿らの属吏が親任する。
辺境の郡(辺郡)の長史は、兵馬をにぎるほか、司馬や千人官をもつ。『漢注』はいう。辺郡は都尉、千人、司馬をおく。どれも治民しないと。『後漢書』西域伝で、順帝のとき伊吾司馬をおく。『続郡国志』で張掖属国に司馬がある。象林には将兵司馬があり、将兵長史の下位であると。兵をひきいる職務だから、将兵と冠された。
千人官は『漢官儀』らにある。『漢書』韓延寿伝で、千人官は内地にも置かれる。漢末に群雄がたつと、郡守の属官は、往々にして司馬をもうける。関羽伝で、劉備は平原で、関羽と張飛を別部司馬とした。『後漢書』臧洪伝で、臧洪は東郡太守となり、2人の司馬に袁紹を防がせた。『三国志』孫堅伝で、許昌の乱のとき郡司馬になった。
辺郡の軍官はおおい。都尉に属す官位は、後述。
◆郡邸守丞について
郡国は京師に「邸」をもつ。上計吏が京師にゆくと、そこに泊まる。郡邸は、武帝のときすでにある。『漢書』朱買臣伝、丙吉伝にある。後漢にもある。『後漢書』何進伝で、郡邸がある。『通鑑』胡注はいう。天下の郡国は100余ある。みな京師に邸をもつ。「百郡邸」というから、1郡に1邸だろうと。
朱買臣伝から、上計吏だけでなく、郡人も郡邸に泊まれたとわかる。郡吏には、郡邸を守る者がおり、守丞がいた。郡邸の吏と守丞は、丙吉伝にもある。この「守丞」の解釈には異説がある。106ページ。「邸を守る丞」は誤り。「太守の丞」だろう。『漢旧儀』はいう。郡国の守丞長史上計と。べつのところで、御史大夫は上計丞長史に勅して、守丞長史が郡にいたると。これらから「守丞」というときの「守」は、みな太守の意味だと理解できる。「邸を守る」でない。以上から、京師の郡邸の吏は、ただ邸を守るだけで、地位はひくい。丞が管理する。
郡国の属吏_108
属吏は、長官が自由に選任できた。属吏の制度は、漢代の地方統治にとって重要だが、『百官表』にない。あちこちに出てくる「卒史」は秦官で、前漢では1百石だ。秦代から前漢の中期まで、「丞」以下の大吏を「卒史」という。定員は10名。おのおの書佐を従えるが、組織の規模は小さい。前漢の中期以後、組織が大きくなっていった。
郡守(国相、内史)の属吏の職務は、以上のとおりだ。秦代や前漢初はくわしく分からない。分かるのは、卒史が10人、書佐が10人いて、また舎人がいること。属県を監察し、ときに郡吏に循行させた。前漢の中期から後漢までは、守相の属吏の制度がくわしく分かる。綱紀、門下、列曹、監察の4種類である。まとめると、以下のとおり。
1つ、綱紀の任務は、ただ「功曹」が担当し、政事をみること。中央の丞相みたいなもの。五官掾の職務も近いが、じつはヒマだった。
2つ、門下の職務は、閤下主簿がトップで、中央の尚書令みたいなもの。現代の秘書長である。ほかに、文書をやるのが、主記室、録事、奏曹である。財務をやるのが、少府だ。護衛をやるのが、門下督盗賊、門下賊曹である。参議をやるのが、議曹である。また門下には、掾、史、書佐、循行があり、調遣した。
4つ、監察の職務は、督郵がやる。督郵に属県を分部させた。刺史が郡国を監察するみたいなもの。
3つ、列曹の職務は、職名がおおい。詳しくわからないが、民政するのは、戸曹、時曹、田曹、勧農、比曹、水曹らだ。財政するのは、倉曹、金曹、市掾らだ。交通するのは、集曹、漕曹、法曹、道橋掾史だ。教育するおは、学官および諸吏。兵政するのは、兵曹、尉曹、塞曹だ。保安するのは、賊曹だ。司法するのは、決曹、辞曹だ。衛生するのは、医曹だ。
衛生と学官をのぞき、民政、財政、交通、兵政、保安、司法の6つが、通常の政事を分担した。それぞれ、12の劇曹がいた。戸、倉、金、集(あるいは法)、兵、尉、賊、決らである。中央の九卿みたいなものだ。
翼奉がいうに、戸曹、倉曹、金曹、尉曹、功曹は2府をもつ。その1つは少府で、4府と筹用した。これで「5官6府」となる。功曹を、これら5官にならべた。だが『晋書』王羲之伝で、会稽では功曹が5曹に列さない。漢代のうちに変化したのだ。
後漢の尉曹は、前漢の尉曹ほど重要でない。ゆえに後漢では、列曹のもっとも重要なのは、戸、倉、金、法(あるいは集)、兵、賊、決の7曹だ。いわゆる「5曹」というとき、これらが常に含まれる。功曹、主簿、督郵とならび、郡府の要職だった。のこりは比較的ヒマだったり、状況によって制度が変わった。
ここから3章「郡尉」です。
一般の郡国尉_147
いつ郡尉が始まるか、わからない。始皇本紀の三十四年にあるから、それ以前だ。『百官表』は郡尉を、秦官とする。戦国時代、秦や三晋の諸県に、すでに「尉」がある(前述)。だから郡にも「尉」がある。始皇の統一後に始まったのでない。
前漢初、秦制をつぎ、郡尉をおく。王国では、郡尉でなく「中尉」といった。景帝中二年、郡尉を「都尉」とした。『百官表』にある。王応麟によると、郡によって都尉を置かない。天下に郡国は103あるが、都尉は90しかないと。
強汝諄はいう。王応麟は誤りである。『漢書』地理志に都尉の治所が記されねば、都尉がないと王応麟は考えた。だが秦代は郡ごとに「尉」をおき、前漢に郡ごとに「都尉」を新設したので、秦代「尉」を「郡尉」と呼びかえた。つまり、全郡に「都尉」がある。例えば河内は『漢書』地理志に都尉の治所を記さないが、「河内都尉」は出てくる。河南、河東、上党、弘農、廬江、武陵に同じである。諸侯の王国は「中尉」が都尉にあたる。王国の中尉は、国王と同じ城にいた。ゆえに『漢書』地理志は、中尉の治所を記さない。郡の都尉も同じで、太守と同じ城にいたのだと。(以上が強氏より)
前述のように、『漢書』で郡治の記述がなければ、はじめに記された県に郡治があった。地理志で都尉の治所が書かれるのは、みなはじめの県以外である。つまり強氏は正しい。
『百官表』で、太守は2千石で、郡の都尉は比2千石だ。元帝紀で、三輔の都尉と、大郡の都尉を、2千石にふやした。ゆえに都尉と太守の地位は、ほぼならぶ。ただ太守は全権があるが、都尉は兵馬を補佐するだけだ。ゆえに太守を「郡将軍」といい、都尉を「副将」という。太守は仕事がおおいから、民政を直接やり、軍事を都尉に補佐させたのだろう。あくまで太守が全権であり、都尉が「分治」したのでない。先行研究に誤りがおおい点だ。
太守は郡内に、武職の文書を発行し、都尉は「承転」した。A郡が、B郡の都尉の文書がとどけると、B郡の都尉は、B郡太守に文書を取り次いだ。都尉が太守に文書をわたすときは「敢えてこれを言う」である。太守が都尉に文書をくだすときは「敢えて告げる」だ。『居延漢簡』に見える。これらの形式から、太守と都尉の関係がわかる。都尉は、太守がもつ行政の系統にふくまれる。
都尉の職務は、武事をつかさどること。兵馬をひきい、盗賊をうち、豪強をおさえる。史料に、仕事の事例がおおい。150ページ。
また都尉は、ときに太守を代行して、県にゆく。周勃世家の「河東守尉」にある。『後漢書』張酺伝、循吏伝のともに建武初にある。『東観記』で城陽王の劉祉の父が「廬江都尉」として県をめぐった。このとき、太守に同行したのは武事があるからで、例外である。
冬に太守は人事考課をするが、士卒の武芸を査定するのは、都尉だった。『後漢書』李通伝、耿弇伝にある。
『続百官志』はいう。建武六年、諸郡の都尉をはぶいた。太守が都尉をかねて「都試の役」がなくなったと。ここから、都尉が武芸を査定したことがわかる。前漢で「太守が軍事訓練した」とあるが、実際は都尉が訓練したのだろう。最高長官の名義は太守だが、実際の指揮は1階級ひくい都尉がみた。太守が、都尉の指揮を検閲した。
以上から、漢代の郡国が、いかに軍権を統括したか分かった。太守が統括し、都尉が指揮・監督した。都尉は武職をもっぱらにし、士卒を率いた。ゆえに都尉は、権限をほしいままにする端緒をえた。
みずから朝廷が士卒を訓練して、兵権をにぎる。だから郡に劇盗がいたら、わずかな都尉をおき(新たに任命し)、太守の仕事を都尉に代行させ、軍事をさせた。『漢書』吾邱寿王伝はいう。東郡に群盗がおきると、寿王は東郡都尉となり、東郡太守をおかない。『漢書』王尊伝はいう。南陽の群盗がいると、王尊は京輔都尉となり、京兆尹をかねたと。ほかにも、右輔都尉が扶風をおさめ、南陽都尉が南陽をおさめた。謝承『後漢書』で、会稽西部都尉が、会稽太守をかねた。以上、都尉の地位は太守に近いので、代行ができたのだ。
おおくの都尉は、太守と治所がちがう。都尉が開府して佐官をおけるのは、太守とおなじ。後述する。職位は太守の下だが、才気があれば、太守と衝突した。『東観漢記』城陽王の劉祉伝にある。『史記』酷吏の寧成伝、周陽由伝にある。都尉が、太守の治所を奪ってしまう。
『漢官旧儀』はいう。成帝のとき、王国の内史をやめた。国相を太守と同じくした。王国の中尉を、郡と同じ都尉とした。のちに国相と中尉は、争うようになった。王国でも、郡と同じ対立がおきた。
建武六年「はじめて郡国の都尉をやめた」。光武紀、『続百官志』にある。王莽のとき、翟義が「都試」にて起兵した。光武は、太守と都尉の対立をきらい、また挙兵をまねく都試をやめた。「民を休息させるため」という名目だが、後漢の政事を効率化するためである。では都試は、なくなったか。
光武は郡の都尉をやめたが、辺境の郡には、都尉をおいて太守を補佐させた。後述する。のちに内郡にも劇盗がでると、往々にして都尉をおいた。『続百官志』は郡の都尉をはぶいたというが、応劭は「劇賊がいれば、臨時で都尉をおき、劇賊がやむと除いた」という。京兆虎牙都尉、扶風都尉があり、常設された。他は常設されない。泰山都尉、瑯邪都尉がある。九江都尉がある。清河国中尉がある。
辺郡の都尉_154
◆辺郡都尉の制度
『史記』趙佗伝で、南下には「尉」があるが、郡守がいなさそうだ。西南夷は2つ解釈できる。犍為郡に2県あり、都尉が統べる。もしくは、犍為郡に都尉はおらず、都尉は夜郎にいる。ともあれ、辺境には都尉があるとわかる。武帝は辺境に、都尉をおいて郡守をおかない。後漢の「属国」に似ている。蛮夷に対しては、軍事がもっとも優先するからだろう。
のちに辺境にも太守がおかれたが、都尉は数部にわかれて、数県をすべた。『史記』西南夷より、まず蛮夷をうって都尉をおき、内属したら郡守をおく、という手順がわかる。武帝から前漢末におかれた都尉を、『漢書』地理志からぬくと、156ページ。会稽西部都尉、会稽南部都尉。広漢北部都尉。武威北部都尉。敦煌中部都尉、洛陽東武都尉、、。
以上の辺郡の都尉のほうが、内郡より多い。名称と治所の配列が、郡によってちがう。北辺では、東西の配列で都尉がおかれる。匈奴と対面するからだ。洛陽では、東南におかれる。朝鮮と対面するからだ。隴西の南都尉、広漢の北都尉は、羌氐をはさむ。『漢書』匈奴伝で、三都尉が匈奴とたたかう。都尉の意義は、異民族との戦闘である。
初期は蛮夷がくだれば、都尉をおいた。ゆえに属国都尉の制度は、前漢初にない。武帝紀で、匈奴がくだり、5属国を置き、その地を武威、酒泉としたと。『史記』霍去病伝では、くだった匈奴を北辺5郡の塞外におき、黄河を南渡した匈奴は、習俗がちがうから属国としたと。『百官表』で属国は、前120に置かれ、都尉が置かれた。漢制の属国のはじまりだ。
『百官表』郡守で、属国都尉は武帝がおく、とある。属国都尉が隷属する系統は、ふつうの都尉とちがう。はじめ武帝が属国都尉をおいたとき、中央の「典属国」に隷属した。成帝のとき、典属国の官位が中央ではぶかれた。これ以後、属国は太守に隷属したか。
『続百官志』では話がちがう。郡のうち、遠方の県を切り離し、郡名をかぶせたのが、属国だという。これは後の制度である。
属国は、蛮夷と戦うために軍事が強かった。属国の兵士は、つねに「郡上」にいて、太守でも制御できないことがある。『後漢書』竇融伝で、竇融はまず、張掖属国都尉をしたがえ、つぎに5郡をとった。竇融は属国都尉の兵力をつかい、太守の郡治をおとした。乱世の属国都尉は、太守をやぶる。
後漢は郡都尉をはぶいたが(既述)、『続百官志』によると辺郡では、都尉と属国都尉がのこり、県で治民した。辺郡では、省かれなかったのだ。
『後漢書』陳亀伝で、桓帝のとき、幽州と并州の刺史、太守、都尉以下を変えたとある。北辺の諸郡では、都尉がなくても、都尉があるような運用がされてる。
属国都尉は、蛮夷との戦闘だけでなく、治民もやる。一般の都尉は軍事しかしない。ただし一般の都尉も、ときに民事をやる。始皇が「守尉に焚書させた」というのが該当する。属国都尉の民事は、『後漢書』西南夷伝にあり「分県治民」している。安帝のとき『続郡国志』でしてる。
以上から、秦代と前漢初、辺郡都尉は、蛮夷をつかさどる。郡守に属したり属さなかったりした。のちに辺郡にも郡守が置かれ、都尉は漢兵だけをひきいるようになった。べつに属国都尉の制度が始まった。もっぱら蛮夷をおさえ、強兵で防御したのは、自然の流れだ。
辺郡では、部都尉、属国都尉のほかに、特殊な種類の都尉がある。農都尉、騎都尉、関都尉だ。仕事にあわせて命名された。
◆辺郡都尉の名称
【部都尉】 『漢書』地理志は、部都尉が詳しい。161ページに列挙。
【属国都尉】 武帝の元狩三年に置かれた。いわゆる「五属国」である。165ページまで列挙。前漢の属国都尉は、西北の辺境だけ。後漢は、東北と西南にひろがる。
【特種都尉】 最多は、農都尉。武帝がおいた。はぶく。つぎは騎都尉。前漢末、天水に騎都尉がいて、治所は?道県。安定に騎都尉がいて、治所は参蛮県。つぎは関都尉。前漢末、敦煌に陽関都尉がいて、治所は陽関。玉門都尉がいて、治所は球門。以上は『漢書』地理志にある。
両漢の辺境の郡にいた都尉の表、167ページ。
都尉の官属_172
諸郡の都尉は、おおくが太守と治所がちがう。『漢書』地理志にある。みずから開府し、佐官をおく。史書に「郡尉の府」がおおい。『漢簡』『汝南先賢伝』にあり、都尉は「明府」と呼ばれる。
郡尉の府には、朝廷が任命した「丞」と、都尉が自ら辟した属吏の2種類がいる。太守の府と同じである。
都尉は丞を1人おき、秩6百石。太守の丞と同秩である。へー!属国都尉にも、丞が1人ある。『百官志』『続百官志』にある。ほかの(特種の)都尉も同じである。
都尉の属吏には、祭酒、掾、史、属、書佐らがある。太守の府とおなじ。祭酒、掾、史は『後漢書』任延伝にある。簡簿より、敦煌玉門都尉にも、掾、属、書佐がいた。都尉に掾史がいる史料は、おおい。
都尉がみずから任じる属吏の職務は、主簿、功曹、議曹、門下掾らがある。史料はおおすぎる。太守と同じである。ほかに、司馬、千人、侯官らがいる。174ページに説明図。侯官らは、地位は県道の令長につぐ。辺境で軍事がおおく、民事がすくないと、県道の長吏をやめて、侯官らに民事を任せてしまう。県道をやめたのは、『続百官志』では、張掖属国、武威、上郡の事例がある。
三国両晋の郡都尉_175
三国と両晋にも、都尉がおおい。東西南北の名がつく。建安以下の事例をならべる。典農、司塩、津都尉ら、特種の都尉もだいたい同じ。
『通典』36の職官18はいう。郡国都尉は、第五品。都尉に属する司馬は、第八品。『三国志』『晋書』からリストアップ。176-182ページ。
すでに三国時代、つねに都尉を郡に改めた。司馬炎が天下統一すると、都尉を郡に改めた。西晋末、ふたたび都尉が置かれた。
都尉の職務は、もとは太守の軍事を補佐すること。行政をやらない。都尉は、独立した行政単位にならない。ただし『続百官志』はいう。辺郡には、都尉と属国都尉がいて、県を分けて治民したと。『続郡国志』はいう。後漢の安帝は、6つの属国に命じて、郡なみに統治させた。ここから漢代、すでに属国が独立勢力になりつつあると分かる。後漢末、内郡は往々にして、都尉がおかれ、太守なみに、管轄する県の軍事と民事をした。建安に曹操が統治した北方で、明らかである。
『三国志』李通伝はいう。曹操は、汝南の2県をわけて、李通を陽安都尉とした。『三国志』李通伝、趙𠑊伝から、陽安都尉の李通は、太守と同じように県令をおさえ、治安を保ったとわかる。鮑勛は魏郡の西部都尉となり、陳矯も魏郡の西部都尉となった。太守と同じように統治した。
『東観漢記』はいう。建安二十年、錫県と上庸をわけて郡とし、都尉をおいたと。太守でなく都尉をおいたことから、行政の責任者が都尉だたおわかる。都尉は、じかに治民して、太守と同じように政事した。ゆえに史家は、郡名と、都尉の治所を同じによんだ。『続百官志』にひく『献帝起居注』に、榮陽都尉がある。
曹魏だけでなく、孫呉や蜀漢でも都尉がつよまる。後漢中期からのながれで、都尉は太守のように治民する。ぎゃくに、都尉を郡にする事例が19ある。184ページ。蜀郡北部都尉を、汶山郡とするなど。
三国と西晋のとい、都尉は30余ある。だが25の都尉が、郡になった。後漢中期に郡国が70前後ふえたが、このうち都尉から変わったのが25だった。都尉から郡というルートは必然である。郡国が増える要因である。『宋書』百官志に、そう書いてある。
ほかに2つの特徴がある。
1つ、魏晋では、州も都尉をおいた。
『通典』36の魏官品、『通典』37の晋官品はいう。州・郡・国の都尉司馬は、第八品だと。ここから、州にも都尉があるとわかる。『晋書』石勒載記に「冀州西部都尉」がでてくる。
2つ、武陵郡が都尉をおき、南朝陳のとき、はじめて廃された。南朝でも都尉がおおいが、南朝陳の文帝のとき(560)、廃止がはじまった。
つぎは「第4章 郡国の特種な官署」だが、とばす。県や郷と、下位にいくのをやめて、257ページ「第8章 上計」から、つづけます。120126