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04) 抄訳4日目、上計と監察

厳耕望撰『中国地方行政制度史』秦漢地方行政制度を抄訳

8章 上計にとびました。
科挙の行政では、計画、執行、考績の3種類の機能が整備された。だが秦漢の法制では、計画と執行が明確でない。考績だけは「上計」「監察」の制度で行われた。ただし封建時代の職制であり、巡狩の名残である。さきに上計から。

上計制度の起源_257

古代の封建時代、天子が巡狩して、諸侯の職務を考績した。春秋や戦国のとき、集権国家が形成されるにつれ、上計の制度があらわれた。『韓子外儲』『晏子』にある。西門豹の事例では、県令が国君に上計した。李克の事例では、県令が郡守に上計した。王籍の事例では、郡守が国君に上計した。毎年末に報告があった。国君に直属する県は、国君に報告した。郡に隷属する県は、郡守に報告し、さらに郡守が国君に報告した。行政制度の階層にしたがい、報告された。

漢代の2階層の上計制度とその時期_258

『続志』は郡太守についていう。歳が終わると、上計を遣わしたと。つまり郡国は、中央に上計した。『志』はいう。県令は秋冬に考課して、所属する郡国に上計したと。つまり県道は、郡国に上計した。けだし両漢の地方行政は、2階層である。ゆえに上計の制度も、2階層である。『続志』はいう。はじめ歳が終わると、刺史は京都に奏事した。後漢の刺史は、計吏を京都にゆかせたと。また明帝の永平九年に詔して、司隷と刺史に、すぐれた墨綬を報告させた。刺史にも上計制度がある。以上から、少なくとも郡国の2階層に制度があるのは、確実である。

郡国が刺史に報告するのでない。


県道から郡国の上計は『続志補注』にひく胡広にくわしい。秋冬に、県の戸数、墾田、銭穀の出入、盗賊の多少を帳簿にまとめて報告する。丞尉より以下は、郡にゆき考績される。功績が最大なら、廷尉にねぎらわれる。功績が最小なら、後曹にしかられる。報告がひどければ、掾史がとらえ、太守にチクり、民の害をのぞく。
『漢書』尹翁帰伝、蕭育伝に事例がある。
上計の時期は、「歳盡」「秋冬」などの標記がある。秦代は10月を正月としたので、9月が年度末である。年1回の考課は、戦国時代から同じだ。秦代の王稽は3年も上計をせず、朝廷からおかしいと言われた。『漢書』厳助伝で、会稽太守の上計は3年に1回とある。『後漢書』西南夷伝はいう。更始二年、卬穀王は太守事を領し、報告を3年に1回にせよと願ったと。漢代の辺遠では、3年に1回である。崔実『政論』は、漢制では3年に1回、治状を考察する、とある。1年ごとに小功績、3年ごとに大功績をやった。だから3年に1回でも、遅すぎることはなかった。

計簿の内容_260

『続百官志』補注にひく胡広(上述)から、計簿の内容をだいたい知れる。
ほかの史料から、さらに上計の内容がわかる。異民族の動き、宗室の状況、断獄の状況、兵士の動き、山林沢谷の収入、貿易の利益、地理の変遷など。地方の情報は、すべて計簿した。

上計する使者_261

上計の使者は、時代によって変化する。封建時代は、諸侯がみずから行った。また主管する長官が、みずから計簿を運んだ。以上が戦国の方法である。漢代には変化する。
『漢官儀』はいう。8月、太守、都尉、令長、丞尉は、都試を会し、殿最を課すと。都尉があるから、前漢の記述である(後漢は光武が都尉を廃した)。ほか史料から前漢は、郡国が中央に上計するとき、郡の丞や、国の長史が代行した。『漢書』朱買臣伝によると、郡の丞でなく、掾史が上計しているが、代理の報告というのは確実だ。
後漢の制度は、胡広からわかる。県道が郡国に上計するとき、丞尉より以下をつかわし、みずから令長がいかない。郡国が中央に上計するとき、郡の丞、国の長史がゆくという史料が全くない。比較的地位がたかい掾史を、計掾、計史、計佐とよび、中央に計簿を報告させた。謝承『後漢書』で、上計吏、上計掾が、郡から京師にゆく。『三国志』にひく『邴原別伝』で、計掾、計吏、計佐がいる。『華陽国志』巴志で、桓帝のとき計掾史がいる。
上計する掾史は、郡国の小吏である。つまり上計吏は、掾史や佐史の系統である。(黄覇伝では、上計吏が守丞、長史を兼ねたとある)。史料から、上計吏は、みな本郡の出身者だ。後漢で上計吏となった、趙壱、楊山、程苞は、本郡で計吏となった。計吏は、太守がみずから辟した属吏である。朝廷の任命した、守丞、長史を含まない。
張湛伝はいう。光武は諸郡の計吏を召して、各地の風土や、守令の能否をきいた。蜀郡計掾の樊顕はいった。漁陽太守の張湛は、かつて蜀郡にいて云々と。『東観漢記』も同じ記事がある。光武が計吏に問い、計掾がこたえた。掾の上位に、丞や長史がいないとわかる。また朝廷は、上計掾史と会うのであり、(前漢のように) 丞や長史と会わない。後漢の郡国が中央に上計するとき、少吏、掾史をつかわし、守丞、長史をつかわさないとわかる。

上計する掾史には、ときに高級な属吏をあてる。常勤がいない。彼らは、守相の代理として中央にゆくので、才俊で高位な人が選ばれた。だから中央も掾史を厚遇し、郎官に任じた。和帝紀で、郡国の上計を郎官としたとある。楊秉伝はいう。桓帝のとき、郡国の計吏は、おおくが郎となり中央に留まった。楊秉が「郎官が7百人もいてコストがかかる。守相はろくに仕事しない。計吏を郡国にもどせ」と。
前漢の武帝のとき、計吏を郎官にする制度があり、いちど廃れ、和帝のとき復されたとわかる。桓帝のとき、また楊秉が廃した。霊帝が復したのは、度尚伝、王逸伝にある。張湛伝で、蜀郡の計掾の樊顕が報告した功績で、魚腹長を拝した。『広漢士女志』で、劉寵が上計したら、成都令を拝した。以上から、上計した計吏は、郎官だけでなく、令長にもなったとわかる。

上計吏の職責_264

上計とは、ただ計簿をはこぶだけでない。守相の代理として、朝会に参与し、政俗をこたえた。中央の詔勅を、守相に伝えた。行政の準則をなした。
『東観記』明帝紀で正月、諸王、公主、外戚、郡国の計吏と会同した。『続礼儀志』上でも、皇帝は正月に、計吏らを集めている。計吏は、朝会ほか大典に出席した。『漢書』王成伝ら、おおくの史料で計吏は、郡国の状況を皇帝にこたえた。
『続古文苑』5で、郡国の計吏は、丞相や御史大夫の勅をもった。勅には、良吏を選べ、民をなつけよ、勧農せよ、貧しきを救え、節約せよ、病人をあわれめ、官舎をなおせ、とあり、長くて全文が載らない。『漢書』黄覇伝で宣帝のとき、張敞は、長史や守丞に、教条をもたせた。以上から、守相の代理が、中央の命令を行き渡らせるのは、両漢の制度だ。『晋書』王渾伝、『隋書』礼儀志にもある。

中央が治計する機関_266

戦国時代、上計をきくのは、相国の役割である。国君がきくのは特例だ。前漢は丞相が報告をうけ、戦国や秦代と同じである。後漢は、『後漢書』趙壱伝で、司徒の袁逢が「受計」し、数百人の計吏をあつめてる。上計をきくのは司徒の役割だ。『漢律集証』がひく『周礼』では、尚書(令)が上計をきく。形式上は司徒に報告するが、実務を尚書がしたのだ。

このあたりも、研究対象にされていそうだ。


ウソの上計と、その対処法_267

法制がゆるいので、ウソの報告があがりやすい。宣帝紀で、上計がウソばかりなので、御史は上計を疑えとある。貢禹伝もいう。前漢のとき、ウソの弊害があった。武帝のとき、上谷太守がウソを報告したので、免ぜられた。
元帝のとき、京房が「考功課吏法」を提案した。正しい報告をさせようとしたが、丞相や中書令が利害にむすびつき、うまくゆかず。京房は殉法してしまい、うまく運用されなかった。

以上から、守相は根をおろして動かず、年1もしくは3年に1回に、結果報告をするだけだったと。あがる報告もウソばかり。むしろ中央は、計吏を親しく抱きこんだと。郡国はやりたい放題だなあ。まるで孫権が曹丕に、テキトーな報告をしているのと同じだ。


つぎは、お待ちかね(ぼくが)、9章 監察のこと。

中央の統率と監察

監察制度とは、中央が地方行政を監督することをいう。中央と地方の関係を明らかにする。
前漢の丞相は、すべて国政をみた。地方政府と丞相府の関係は、主計、功績と、文書の交換による。郡国が中央に上計し、丞相がチェックした。前章にある。宣帝紀、丙吉伝、薛宣伝から、丞相が地方をまとめたとわかる。
中央から郡国に詔書をくだすとき、丞相が守相にだした。武帝紀から、郡国があげる文書を、丞相と御史が受けたとわかる。地方の文書は、丞相府をとおった。
上計と考績は、みな丞相府がやる。丞相府と地方政府は、直系した行政系統である。地方政府は丞相府に直轄された。秦代のままである。
では、御史大夫と丞相の関係はどうか。『百官表』で御史大夫は、丞相を「掌副」する。これはのちの制度である。秦代と前漢中期までは、そうでない。『漢書』高帝紀などで詔書は、御史大夫から丞相にゆく。御史大夫は丞相の副官でない。御史府は、詔書を発行する機関である。『漢旧儀』からも明らか。御史大夫の役所は宮中にあり、宮官である。前漢の御史大夫とは、後漢の尚書令と同じ機能だ。今日の秘書長で、皇帝に親近する。秦代のままだ。

丞相府と地方政府の関係は、すでに明らかである。御史府の性質も明らかにした。監察制度の変化について考える。
秦制で、郡守は丞相府に報告した。御史が郡を監督した。皇帝が厳密に行政を制御した。前漢初、監郡御史の制度をやめた。行政を放任したのだ。のちに丞相の東曹掾が、監督するようになる。ついに刺史制度におちつく。軍権の行政は、本来は丞相に統制される。丞相は、行政の考績をやり、丞相の属員が軍権に派遣されてチェックした。
刺史制度は、すでに形成されつつある。丞相府が督察の責任を、直接おった。だが御史中丞もまた、監察をやった。
『漢旧儀』はいう。武帝のとき、御史中丞は司隷を督した。司隷は司直を督した。司直は刺史二千石以下、墨綬までを督したと。
刺史制度は、前漢の監察の体系のなかにある。のちに刺史による督察の職務が、直接に御史府に報告されるようになった。御史中丞が、刺史の報告をまとめた。ゆえに『百官表』はいう。御史中丞は、外に刺史を督部すると。陳萬年伝にある。陳咸は御史中丞となり、州郡の奏事を総領した。諸刺史を課第したと。薛宣伝はいう。成帝が即位すると、薛宣は御史中丞となり、殿中で執法し、外で刺史を総部したと。
漢代の州刺史が、郡県の行政を監察するのは、中国史上、有名で優良な制度である。ゆえに古今の論者は、とてもおおい。刺史制度の形成と変遷について、従事制度とともに考える。

刺史制度の形成と変遷_272

一般に行政理論では、監察制度ができるのは、中央集権の発展である。戦国時代、諸国は中央集権をつくり、監察制度がうまれた。三晋の県で、すでに御史がいる。正副1人ずつ。県令の卜皮が、御史の劾奏をおそれたのが、証拠となる。戦国時代、県は国君に直属した。ゆえに国君は、御史をつかわした。
『漢書』百官表はいう。監御史は、秦官であり、監郡を掌すると。秦の統一後の制度だろうが、いつ始まったか分からない。『史記』高祖紀などから、秦は泗水郡に、郡守のほかに「監」をおいたとわかる。「監」は、監察するほか、軍事もやっている。
漢代の監察制度は、変遷がおおい。地方行政の3階層の制度が形成されることと、密接に関係する。5つの時期にわけて考察する。

(1) 前漢初、御史や丞相掾が巡察した時期
『漢書』百官表はいう。監御史は、秦官だ。監郡をやる。漢代にはぶく。丞相は史を州ごとにつかわした。常設でないと。これが前漢初である。3階層はできていない。高祖が天下を定めると、御史監郡の制度をやめた。これが第1段階である。 ただし『漢旧儀補遺』はいう。恵帝三年、相国は上奏して、御史監を三輔につかわして監察したと。恵帝期に「三輔」という区分はないが、ともあれ御史監の始まりである。『唐六典』も恵帝三年をのせ、武帝の刺史と同じ役割をやる。ただし範囲が、三輔の内史に限定されているが。『漢旧儀』を見ると、三輔に限らず、御史監が郡国をめぐっていると分かる。これが第2段階である。
つづいて『漢旧儀』は、文帝十三年にいう。御史が法を奉らねば、失職させた。丞相史をつかわし、監察御史を督させたと。丞相史が出て、督察御史を取り締まったのが、第3段階である。この丞相史が、のちに「東曹」となる。『漢旧儀』はいう。丞相には、東曹が9人いる。出でて州を刺す、刺史となると。これが刺史制度の始まりだ。

(2) 初めて十三州に刺史をおく
景帝と文帝のとき、君主権力がゆらいだ。監察の制度は、御史、丞相史が出たが、まわる範囲がゆらぎ、成果も不確かだ。必然的に、監察制度の強化にむかった。『漢旧儀』はいう。元封元年、御史をやめたと。『百官表』はいう。武帝の元封五年、はじめて部刺史をおく。州を監察したと。ついに刺史が置かれた。
刺史の設置には、3点にて進歩的な改革である。
1つ、旧制の御史、丞相史が郡国をまわるのは、専任でなかった。刺史は専任者である。2つ、旧制の御史、丞相史は、複数が任命されて、権限が重複した。だが刺史は、丞相府が直轄した。当時の丞相府は、国政を統治するので、刺史が実効をあげやすい。3つ、旧制で督察する地域は定まらない。だが刺史は、地域を固定して責任をおった。
労貞一はいう。刺史が置かれたのは、武帝の最盛期である。刺史の置かれた元封元年は、頂点だから、封禅をやった時期だ。刺史は、中央集権が完成する、重要な一歩だ。刺史の設置には、以上の積極的な理由だけでなく、消極的な理由もある。なにか。
『史記』平準書はいう。天子が郡をまわるが、河東太守は、天子の渡河に駆けつけず、自殺した。隴西太守は、天子の食事を用意せず、自殺した。北地太守も、辺境の兵を管理できず、殺された。以上のように、太守の職務が全うされない。監御史は、太守の越度を、きちんと報告しない。武帝が天下をめぐり、太守と監御史の実情を知って、刺史を置いたのだ。これが消極的な理由だ。刺史が置かれたのは、この天下めぐりの3年後である。

『続百官表』への劉昭注に、刺史の職務がくわしい。曰く、刺史は郡国をめぐり、治世を省察する。能否を査定し、冤罪をしらべる。6つを確認する。確認すべき内容がなくても、確認を省かない。
1つ、強宗・豪右の田宅が大きすぎないか。2つ、二千石が詔書を守らず、利益を私物にしていないか。3つ、二千石が疑獄して、百姓を苦しめていないか。4つ、二千石の人事が、かたよらないか。5つ、二千石の子弟が、のさばらないか。6つ、二千石が豪強にへつらい、賄賂して法令をゆがめないか。

後漢初期の王隆『漢官』にも、刺史の職務があり、内容は同じ。『続志補注』で胡広はいう。刺史は県邑の囚人をチェックし、冤罪がないか確認する。労貞一はいう。「断理冤獄」が刺史のカナメだ。『漢書』何武伝はいう。何武は揚州刺史となり、九江太守の載聖の裁判をくつがえした。刺史が太守を弾劾した事例であると。
ここから、刺史は裁判に関わったが、最終判断は太守がやったとわかる。刺史は監察するが、執行しない。後漢も同じである。後述。

つぎに刺史の要務は、強宗・豪右をふせぎ、諸侯王をおさえること。
王鳴盛はいう。『漢書』高五王伝で、青州刺史が王を罪する。文三王伝で、冀州刺史が王を罪する。武五子伝で、青州刺史が謀反をふせぐ。揚州刺史が罪をあばく。張敞伝で、冀州刺史が王をしばく。けだし賈誼が諸国を抑えて呉楚の乱が起きたように、刺史が諸王を抑えるのが、大切な職務だった。『後漢書』郅惲伝で、子の郅寿が冀州刺史となり、王と傅相をしばく。刺史が藩国を察するのは、後漢もおなじだ。
厳耕望はこれに、東海王の劉彊、梁王の劉暢の事例をおぎなう。

へー!刺史が諸王を取り締まるのか。

『漢旧儀』の6条には、藩国のことが抜けている。藩王の権勢は、守相や豪右とひとしいから、刺史が察した。藩国を重んじ、守相や豪族を軽く見たのでない。

この時代、刺史はただ詔条を奉じて、督察を代行するだけだった。『漢書』翟方進伝はいう。翟方進は朔方刺史となり「煩苛」せずに「条」どおり督察したから、威明があったと。刺史の職務は、詔条どおりにやるのがベストだ。もし詔条を越えれば、違法である。鮑宣伝はいう。丞相司直の郭欽は、刺史の鮑宣が「煩苛」し、二千石に代わって訴訟を裁いたから、鮑宣を免じたと。これが好例だ。
『百官表』はいう。刺史は6百石。衛宏『漢旧儀』はいう。はじめ丞相は、吏員15人をおく。みな6百石。東西曹にわけた。東曹9人が出て、州を督した。刺史となったと。これが刺史制度の前身である。東曹は6百石で、刺史も6百石だ。『漢書』朱博伝で冀州刺史になり「使臣」と自称した。陳萬年伝で、冀州刺史となり「奉使」した。刺史はもとは丞相史だったから、こう呼ぶのだ。後漢で「外台」というのは、『後漢書』謝夷吾伝にある。これも刺史の起源にもとづく。
はじめ刺史は、使臣の性質があり、詔を奉った。分限をこえないのが、標準の監察官としての刺史だった。 行政をやらない。『三国志』賈逵伝はいう。刺史は上から目線で監察するが、安静寛仁を言わず、愷悌之徳がある

(3) 前漢末の牧伯制
はじめ刺史は純粋な監察官だった。ただ中央に代わって、郡国を督察した。地方に畏れ忌まれた。ゆえに権力を増した。
1つに刺史は、郡国の二千石だけでなく、下の墨綬、令長までおよぶ。『漢書』朱博伝で冀州刺史となり「墨綬長吏」を取り締まった。
2つに刺史は、郡県の行政に干渉した。『漢書』薛宣伝で刺史は、詔条を守らずに干渉する。『漢書』鮑宣伝で、丞相司直の郭欽も指摘した(前述)。『漢書』何武伝で田地を査定し、五行志で民が私に社を建てるのを禁じた。社会や民事への干渉である。『漢書』孫寶伝で、広漢太守の代わりに、益州刺史が群盗を鎮めた。軍事への干渉である。

おもしろいなあ!

3つ、貢士の権。『漢書』武帝紀で、州郡が吏民から秀才を察した。刺史設置の直後の記事である。はじめから刺史には、察挙の権限があった。この権限は、詔書6条にないが、『漢旧儀』に、刺史は民の茂材をあげ、丞相に報告したとある。権限が、制度化されていったのだ。『漢書』師丹伝で茂材をあげる。事例がおおい。はぶく。
ほかに刺史制度で重要なのは、治所が定まることだ。『三国志』夏侯玄伝で司馬懿がいう。「もとは刺史を伝車という。刺史の吏を従事という。治所がない」と。『宋書』百官志はいう。前漢の刺史は乗伝し、治所がない。後漢に治所が定まると。『続百官志』劉昭注でも、前漢は治所がない。
だが武帝紀の元封五年に、顔師古が『漢旧儀』をひき、「治所があり、秋に州内をめぐる」とある。べつに伝わる『漢旧儀』にも治所ありという。『漢書』朱博伝で、冀州刺史が治所に吏民をよんでおり、治所がある。『居延簡』にも治所があり、冬獄を断じる。治所の有無を決めづらい。
前漢は、制度の変化がはげしい。武帝が刺史を置いたとき、治所があった。『居延簡』は、武帝から30年ほど遅い。朱博伝は、武帝から80年遅い。武帝のとき治所がないが、やがて治所が置かれたのだろう。武帝紀に「治所あり」と書くのは、後世の反映だ。
治所をもった刺史は、軍事、政事、民事、刑事、人事までの権限をひろげた。地方官、行政官となった。成帝のとき前008「牧」と改め、2千石。哀帝のとき前005、刺史にもどした。『百官表』にある。『漢書』朱博伝に、改復の経緯がくわしい。
刺史は事実上は行政官となり、ただ監察官だけでない。ゆえに哀帝の前001、牧伯の名にした。『百官表』にある。

牧伯にして、3年後に「やっぱりやめた」とした。だが実態としては、監察のみの刺史でなく、行政もする牧伯なので、さらに4年後に牧伯にもどしたと。

王莽は、牧伯制をついだ。地方の行政は、2階層から3階層になった。「州」が地方の最高の行政単位となった。州牧の名副は、地方の最高の行政官となった。

王莽が変更しなかったのが、おもしろい。牧伯が、古典に則っているから? 王莽は郡県の名前や役職は、いじったのになあ。よほど牧伯が、支配に有用だったのだろう。っていうか、前漢で牧伯を置いたのが、王莽の仕事になるのか。「なぜ前漢末の制度を王莽が変えないのか」という問題設定がおかしい。


(4) 光武が刺史にもどす
はじめ光武は、旧来の州牧をつかって、軍事をおさえた。建武十八年(042)、刺史にもどした。光武紀と『続百官志』にある。地方政権を削り、中央統治するためだ。ただし名前を前漢に戻したが、実態は前漢とちがう。奏事は、ただ計吏をとおる。奏聞は三府の掾史をとおらない。
武帝が始めたとき、刺史は、年末に長安に報告した。純粋な監察官としての特徴である。のちに治所ができたが、年末には報告した。『漢書』翟方進伝で、朔方刺史となり「再三、奏事する」と。何武伝で、毎年、京師に奏事する。だが光武紀の建武十一年、州牧の自ら奏事するを断つと。『続百官志』では、京師への奏事を、刺史でなく計吏が代わったと。
『東観記』は和帝初の張酺の上言を載せる。数十年来、刺史に上奏させていないと。ここから、後漢の刺史は、計吏を洛陽に行かせるのみだ。郡国の守相(の内史)と同じだ。『後漢書』朱浮伝から、三府掾史をとおらず、刺史が報告していることがわかる。前漢との2つの違いだ。
刺史がみずから奏事しないので、地方官化がすすむ。上奏せずに決められるので、地位と権勢が高まった。ゆえに光武は州牧をやめたが、刺史の地位を抑えられない。
後漢中期以後、郡国の守相の権力と地位は低くなった。内政が日に日に乱れ、刺史の権職がのびた。その例をあげる。
1つ、督察の対象が、下は黄綬までおよんだ。『漢書』朱博伝で、刺史は黄綬までおよばない(黒綬まで)。だが順帝紀で、幽州、并州、涼州で、黄綬までの弱兵を報告させた。皇甫規伝で、并州刺史が、辺境の屯将を督察した。前漢の制度でない。
2つ、郡県の長吏を、統制するようになった。刺史はもとは監察官であり、長吏の任免はできなかった。だが後漢では、任免に口をだす。後述。『後漢書』蓋勛伝で、涼州刺史の楊雍が、蓋勛を漢陽太守に「表」した。賈琮伝で、賈琮は交州刺史となり、良吏をえらび、諸県を守らせた。郡県の長吏を査定するだけでなく、代行し、人選までやっている。前漢とちがう。
3つ、貢士権の強化。前漢のとき、「茂才をあげて、丞相にいう」制度があった。毎年、推薦するわけでない。故吏は少ない。『漢官目録』はいう。建武十二年八月、州牧に1年ごとに茂才1名をあげさせた。胡広も同じことをいう。楊震伝で、荊州刺史となり、王密を茂才にあげた。楊彪伝で、州の茂才に応じなかった。党錮・蔡衍伝で、冀州刺史のとき、中常侍に「弟を茂才にあげて」と頼まれた。ほかに例がおおい。
4つ、みずから庶政をした。もとは刺史の仕事でなかった。後漢の中期以降、刺史が庶政をした事例は、極めておおい。和帝紀で、刺史に治水を提案させた。安帝紀で、司隷校尉と、冀州と并州刺史に、訛言を取り締まらせた。順帝紀、桓帝紀にもある。詔勅が、刺史に民事をさせている。刺史の民政は、もはや違法でない。
5つ、軍事統制権。中期以後、内郡に盗賊がでて、辺郡に異民族がきた。1郡1国ではふせげないので、刺史が権限をもった。安帝紀、順帝紀、桓帝紀、霊帝紀で、刺史が討伐をやる。軍事が刺史の職務になったと言える。度尚が荊州で戦ったのが好例である。「備位方伯」といわれた。刺史というが、牧伯に等しい。班勇伝で、班勇は「州牧」と口走っている。班勇は、刺史を州牧と見なした。

以上から、後漢の刺史は行政官である。『後漢書』馬厳伝は、刺史太守が、州郡をもっぱらにするという。これは光武から30年の時期だ。刺史が、州と太守を並記したことから、行政官化がわかる。

ぼくは、これを違うと行っていきたいのだ。後日。


(5) 漢末の州牧
以上から後漢の刺史は、最高の地方行政官である。ただ名称が刺史なだけ。霊帝末年、黄巾がおき、劉焉が牧伯にもどせという。188年だ。霊帝紀に「刺史を改め、新たに牧をおく」とある。『通鑑』は3月におく。劉焉伝に詳しい。実態の追認にすぎない。
だが188年に、全て施行されない。重臣を鎮圧にゆかせるときだけ、州牧にした。刺史の名称はのこった。『三国志』武帝紀で、雍州刺史の孔伷、兗州刺史の劉岱がいる。『後漢書』袁紹伝で、同じ人の州牧と刺史が入れちがう。『後漢書』劉表伝で、190年に刺史、192年に州牧。『三国志』劉繇伝で、初平に刺史、のちに州牧。『三国志』陶謙伝で、刺史から州牧に。3人とも州牧に進むのは、188年よりずっと後だ。はじめ刺史と州牧は、併用されたのだ。
『三国志』呂布伝で、呂布は徐州刺史なり、曹操に州牧を求めたがもらえず。州牧が「特栄」なのだ。ただし1州の軍政をにぎるのは、刺史、州牧の区別によらない。だが刺史と州牧は同じでない。

州牧は「特崇」され、ゆえに将軍号、列侯がついた。劉焉は、監軍使者、陽城侯。劉備は、徐州牧、鎮東将軍、宜城亭侯。陶謙伝は、徐州牧、安東将軍、リツ陽侯。劉繇は、揚州牧、振武将軍。魏晋の刺史が、将軍号をかねるのの始まりだ。。
郡国の守相は、相対的に弱まった。はじめ州の従事は、1百石だ。従事は茂才にあがり、令長や丞尉になれた。このころ従事の地位があがり、守相の上になる。『三国志』蒋済伝で、揚州別駕になり、丹陽太守、また揚州別駕。曹操が「蒋済がいれば、揚州は憂いない」という。これは貶めて言うのでない。

揚州別駕のほうが、丹陽太守よりも実効があるから、「あとから就く仕事」でも支障がない。曹操は蒋済を丹陽太守にするより、揚州別駕にしといたほうが安心。

費詩伝で、費詩はショウカ太守から、益州前部司馬となる。楊洪伝で、楊洪は蜀郡太守から州治中従事となる。『季漢輔臣賛』で、王元泰は巴郡太守から、州治中別駕、別駕となる。彭羕伝で、治中従事から江陽太守に「左遷」される。

文脈から明らかだが、益州の吏になるのが「昇進」なのは、劉備が益州を領したからだ。蜀漢の中央官みたいなもの。これだけから、「郡より州」とは、言えないなあ。蒋済のことは、検討すべきだが。


刺史の威権_292

州刺史は6百石だから、大県令よりひくい。だが、権限が思い。守相や藩王に注目された。この特殊な制度が、漢制の特色である。
刺史の権限がおもいのは「黜陟能否」できたから。蔡質『漢儀』にあるとおり。『続百官志』にある「考殿最」もおなじ。『続志補注』に胡広をひく。長吏を課第して、職務を果たさぬ人を「殿」とし、免じるよう挙奏した。知能する人を「最」とし、ほめるよう挙奏した。州中の吏民から、茂才を年に1人あげたと。
前漢の刺史はすでに権限があり、何武や翟方進は「刺史の職任がおもいから、州牧にせよ」といった。「職任がおもい」とは、大吏を選第し、刺史に認められたら九卿に昇り、刺史に悪まれたら退官させられたからだ。後漢の明帝は、これでも刺史の権限が足らないとして、毎年冬に、墨綬、長吏の優劣を報告させた。
刺史は、地位が低いが権限が高いので、嫌われた。『漢書』魏相伝、何武伝、『後漢書』陳亀伝、徐璆伝、王龔伝で厳しくやりすぎた。刺史が聚撰した人材は、令長や首相になった。『後漢書』魯恭伝、魯丕伝、王堂伝など。茂才を選挙する規則になった(前述)。ただし刺史が選挙するのは、少吏と平民である。刺史が、朝廷の命官をえらぶのは、マレだ
刺史が優劣を決めるので、守相は刺史を畏れた。『漢書』京房伝、『後漢書』蘇章伝にある。守相の地位は、刺史より遥かに上だが、刺史を畏れた。墨綬、令長にいたるまで、刺史を畏れた。刺史が解任したのは、『後漢書』朱穆伝、賈琮伝、法雄伝、李膺伝にある。
刺史の影響はおおきい。『漢書』薛宣伝、王嘉伝は、刺史がひどすぎるという。王嘉は「二千石ますます軽し」という。後漢は、さらに刺史がつよい。ぎゃくに『後漢書』种暠伝は、百姓の歓心をえた。太后は「ひどい刺史ばかりだが、涼州刺史の种暠だけがいいなあ」と喜んだ。刺史は「天」に例えられた。ついに漢末、牧伯制にいたる。

司隷の特殊な制度_297

『漢書』百官表はいう。司隷校尉は、周官である。武帝が初めておく。持節、従中都官1200人。京師をみる。のちに兵をやめた。三輔、三河、弘農を察した。元帝が節をとる。成帝がはぶき、哀帝がおく。大司空に属し、比司直、2千石。『地志』で、河内、河南が司隷に属すのは、前漢末とする。
『続百官志』はいう。司隷校尉、比2千石。成帝がはぶき、光武がおく。1州を並領すると。哀帝が光武になってる。顧先生は前漢に、三輔、三河、弘農の7郡が、13州に属さないという。

「州」は中央にない。「地方」「分裂」が運命づけられていたような、区分だよなあ。

「司隷が近畿7郡を察した」のは、光武の建武十八年だ。前漢の司隷は、近畿7郡は見ない。『漢書』は後漢の制度を投影してしまったと。
顧先生にしたがえば『続志』にある、建武中に司隷校尉をおき、1州を並領するという記述は、『続志』刺史がいう、建武十八年、刺史12人をおき、1人1州をみた。1州は司隷校尉に属した、に対応する。ゆえにこう言える。建武十八年は、武帝が司隷校尉をおいた前105年から、147年もはなれる。司隷校尉は、刺史とおなじ職権で1州を領したと。

ここから下で、「顧先生」が誤りで、前漢の司隷校尉も、刺史と同じ仕事をしたと、厳耕望がいう。

だが『後漢書』光武紀の建武六年に「司隷、州牧に吏員を減らせた」とあり、同七年に「供御、司隷、州牧に、賢良方正を1人ずつ出させた」とある。司隷校尉は、すでに京畿の諸郡を領している。さらに前の更始元年、光武は司隷校尉を代行し、属県に文書を移した。もし司隷校尉が、京師の百官を統べるだけで、郡県を統べなければ、光武の司隷校尉としての行動が説明できない。 「従事、司察すること、旧章のごとし」も意味が通らない。司隷校尉が諸郡を統べるのは、前漢からだ。

さらに前漢の司隷について。『漢書』鮑宣伝で、哀帝の時「司隷」として、属官に「従事」がいた。従事は、部刺史の属吏だけの名称である。ほかの官属を「従事」とよばない。司隷の職務が、刺史と同じだったといえる。『漢書』蕭育伝から、扶風の茂陵県が、司隷校尉に察されたとわかる。翟方進伝から、司隷校尉と涼州刺史が、北地と長安の事件を、共同で解決した。『漢書』百官表は誤らない。顧先制の誤りだ。
昭帝紀で、河内が冀州、河東が并州に属した。成帝紀で、三輔、三河、弘農で冤獄があり、部刺史が発言した。溝ジュツ志で、部刺史に命じて、三輔、三河、弘農の治水をできる人材をあげた。顧先生は、前漢のとき、三輔、三河、弘農が十三州に属さないといったが、このように司隷が統督した。前漢末、司隷は「州」とはよばず、13州にならべないが、司隷校尉が領した。秦代や前漢初、京畿の諸県は中央官の「内史」が統べ、郡に入らなかったが、前漢末は司隷が統べた。
『続百官志』はいう。前漢で、司隷には2つの職務がある。1つ、百官以下を察挙する。2つ、京師、近郡の犯法者を察する。『百官表』は、発干を察挙すると記さない。『漢書』翟方進伝で、司隷が察挙しているから、『続百官志』が正しい。
『漢書』列伝で、丞相より以下、公卿、百官、宗室、貴戚、倖臣で、司隷に監視されなかった人はいない。後漢では、応劭『漢官儀』で、司隷校尉は、皇太子、三公以下、州郡で統べざるところなし、となる。蔡質『漢儀』などでも、京師と外の諸郡を部し、封侯、外戚、三公以下、尊卑なく糾弾されたという。後漢は、前漢の制度をすべて継承したとわかる。

司隷校尉は、もと持節した。元帝は、諸葛豊が侍中の許章にきびしいから、節をうばった。司隷校尉が威権をふるった例だ。元帝以後、持節がなくても、権限は減らない。百官を督察した。朝会では、中二千石の前にいた。『漢書』翟方進伝はいう。司隷校尉の序列は、司直の下である。だが朝会では、中二千石の前にいた。司直と並び、丞相、御史を迎えた。
光武は、司隷と御史中丞、尚書令に、専席をつくったので「三独座」といった。『東観記』、『後漢書』宣秉伝にある。後漢の初年、司隷の権限は重い。『後漢書』鮑永伝はいう。司隷校尉の鮑永は、趙王の劉良を弾劾した。明帝、章帝以後、前漢にもどらない。司隷校尉は、中央官と地方官の2つの性格を持つ。州刺史は、1州の軍政をもつ。司隷も例外でなく、軍政をもつ。後漢末、宦官を謀殺するとき、みんな司隷の権限をほしがった。『後漢書』陳球伝、酷吏の陽球伝ら。竇武、何進も司隷校尉をつかう。長安で李傕も、司隷を領した。董卓伝にある。曹操も司隷を領した。献帝紀にある。

以上から司隷は、もとは戻太子の事件のあと置かれた。従中都官徒、フコを取り締まった。事件がすんでも廃されず、前漢末に京師、百官と、近畿7郡を領し、刺史のように察部した。後漢、朔方刺史を廃したが、13州という名称を残したいので、司隷を1州とカウントした。

州従事_305

■刺史時代の制度
州の属吏は「従事」という。『史記』蕭相世家、『漢書』王尊伝の注にある。『漢旧儀』から、もとは「従事」は動詞として使われる。けだし出督の官は、もとは属吏がなかった。ただ1郡に至るごとに、郡県の属吏が、従事として随行した。これが従事の始まりだろう。元帝のとき『漢官儀』に、刺史の属吏を設けた記事がある。治中、別駕、諸部従事、秩みな1百石。武帝が刺史をおいてから、60年後である。
後漢でも「従事」という。『続百官志』は「従事史」という。碑文にもある。「従事掾」ともある。もとは郡国の卒史で、曹掾従事だったので、刺史にスライドしても「掾」と言ったのだろう。『続志』はいう。属吏は、すべて州が自ら辟除したと。例外なく、じかの登用である。どの史料も、秩1百石。
従事につぐのが、假佐である。『漢書』王尊伝で、司隷の假佐が出てくる。元帝のとき、州吏の制度が定まった。治中、別駕、部す郡国の従事ら。王尊伝に假佐がいる。『続志』はいう。司隷に従事史12人、假佐25人がいた。組織図と職務は、307ページ。
どの州もだいたい同じ。ただ「功曹」を「治中」といい、「都官」がないなどの差がある。都官は諸州になく、中央の約款を監察するのが職務だから、すでに地方と交渉がない。別駕、治中、諸曹、部す郡国の諸従事および主簿がいた。後漢末、従事祭酒および、議論興学諸従事がいた。『続志』がのせない。

(1) 主簿:
『続志』をのぞき、史料や碑文にある。司隷校尉の属吏には、従事と假佐の2つがある。假佐25人の下に「主簿する」という記述がある。主簿は假佐のトップだろう。地位は低い。だが三公や郡県に、主簿がいる。地位がひかいが「録閣下事」を担当するので、長官と親しい。今日の秘書でる。従事のなかで、初めに厳耕望が記した。
(2) 別駕従事史:
衛宏『漢官儀』はいう。丞相刺史は、秋にめぐった。郡国の境界で、吏人1人が迎えた。別駕1人を載せた。刺史と従事が郡国を回った。境界で別れたと。つまり別駕とは、刺史と別乗したという意味だ。『漢書』黄覇伝で、宣帝のときにある。けだし刺史の属吏が、最早で見える事例だ。『続志』はいう。校尉(刺史)行部、すなわち奉引、録衆事と。代行して部すのが、別駕の原義だ。「録衆事」するのは重職である。『御覧』263注引に、別駕の任期が、刺史の半分だとある。『豫章列士伝』はいう。孔恂は別駕となり、刺史と同ランクの馬車に乗った。ときに刺史が怒ったので、馬車のデコをはずした。以上から、別駕は刺史の副官であり、州吏の中で地位が最高である。

別駕は地位がたかく崇められ、主簿は地位がひくく親しまれた。州吏の地位の構造は、このようである。
州吏の地位について、まだある。『三国志』龐統伝で、魯粛が劉備に「龐統は百里の才でない。治中、別駕をさせろ」といった。法正伝で、張松は益州別駕で、劉璋の股肱である。『魏略』で袁尚が冀州牧となり、審配を別駕とし、謀主とした。別駕の地位が、最崇だとわかる。
だが州に仕える者でおおいのが、主簿、部す郡の従事、治中、別駕だ。先主伝で、荊州主簿の殷観は、別駕に進んだ。『論衡自紀』で著者は、揚州に辟され、各郡を歴部し、入りて治中となった。馮緄碑で、広漢を部して、従事から別駕、治中になる。
以上から序列がわかる。別駕と治中の地位は、後漢末には、別駕が治中の上位っぽい。別駕が「謀主」「股肱」と呼ばれるのが傍証だ。『管輅別伝』でも、文学従事、従事、治中、別駕とすすむ。

(3) 治中従事史
『漢官儀』にある元帝のとき于定国で定まった州吏に「治中」がある。司隷では「功曹従事」である。『続志』や応劭『漢官儀』でいう。功曹従事は、選署と衆事をやると。『益部耆旧伝』に、治中が選署する事例がある。傅燮伝で、涼州刺史が治中に委任する。これが衆事の事例である。
治中は、郡県の功曹にちかい。ゆえに司隷では、治中を功曹という。『続志』は別駕の職務を「録衆事」という(前述)。別駕と治中のちがいは、別駕が「外」をやり、治中が「中」をやるところ。漢官では、侍「中」や郎「中」は内側を担当する。別駕と治中は、ぶつからない。
治中には、書佐、佐従事、主選用がいる。『続志』にある。

(4) 簿曹従事史
『続志』はいう。簿曹従事は、財産や穀物の帳簿をつかさどると。財曹書佐がいて、簿書をつさどると。佐従事を言っているが、碑文や列伝に出ていない。
(5) 兵曹従事史、漢末の軍事やる従事
『続百官志』はいう。軍事のために、兵曹従事をおく。兵事をつかさどると。『三国志』賈逵伝で、豫州に兵曹従事がいる。『後漢書』杜茂伝に、幽州牧の朱浮が、兵曹掾を任じる。董卓伝で、涼州に兵馬掾がいる。これらは、従事、掾史の別称だろう。
ほかに漢末には、臨時のポストが置かれる。
1つ、武猛従事。『三国志』張楊伝で、并州にある。ここが初出で、晋代までおおく見られる。くわしくは魏晋南北朝の本を見よ。

注文したので、10日くらいで届くでしょう。

2つ、都督従事。袁紹伝にひく『九州春秋』はいう。冀州牧の韓馥は、都督従事に、袁紹を防がせた。『三国志』梁習伝はいう。并州が冀州に合わされ、西部都督従事をおき、冀州に統属したと。
3つ、督軍従事。馬超伝にひく『典略』はいう。馬超は司隷校尉の督軍従事となり、郭援を斬った。

(6) 孝経師、漢末の文教やる従事
『続志』はいう。假佐25人。孝経師は、試経の監をつかさどる。これは文教する人。ひどく地位がひくい。だが後漢末年、州牧が正式な1州の行政長官になると、文教に関わる従事がおおく設置された。
1つ、文学従事。裴キが青州刺史になると、管輅を文学従事とした。2つ、五業従事。劉表が荊州牧になると、宋忠を五業従事とした。『魏略』で、河東の楽詳が、五業を並授した。五業とは、五経である。
3つ、勧学従事。劉備が益州牧になると、譙周らを勧学従事にした。
(7)~(11)は、はぶく。月令師、律令師、門亭長、議曹従事(劉備)、師友従事と従事祭酒である。

(12) 部する郡国の従事史
応劭『漢官儀』はいう。元帝のころ、于定国の諸部従事を定めたとき、すでにいた。1百石。『漢書』朱博伝で、現地採用している。後漢にもある。『続百官志』はいう。「部郡国従事」は、郡国ごとに1人ずつ。文書の督促をつかさどり、非法を察主する。假佐は、郡国ごとに「典郡書佐」1名、1郡の文書をつかさどる。郡吏を任命して、1年ごとに更新。
後漢の郡国従事は、つねに史書や碑文に見える。もっとも要務を督察している。文書のことは、書佐に委任したのだろう。
刺史の督察の任務は、執行にあたり、部従事にたよって、郡国を分部した。だから部従事のことが、史料に残りやすい。刺史に協力して、郡国の属官をとらえたり(『後漢書』独行の載就伝、史弼伝)、守相を免じたり(『後漢書』橋玄伝、史弼伝、『三国志』劉繇伝、藩濬伝)、令長を殺したりした。郡県を威動させるほど、部郡従事の権限はおもい。わずは1百石で、別駕や治中の下位のくせに、強かった。中央に任命された刺史が、地位がひくいが権限をもったことに通じる。

漢制の監察は、自分の本籍でやらない。刺史も、地元を督察しない。部郡従事もまた、督察する郡国からは採用しない。史書や碑文にある部郡従事も、自分の郡国で監察していない。詳しくは、「籍貫限制」の章を見よ。

■漢末の州牧時期の制度
後漢末には、新たな従事がおかれる。刺史の制度が変質して、牧伯の制となる。職務や官位がおもくなるだけでなく、属佐には、長史、司馬、東曹、校尉らの名目がおかれた。将軍府のようである。魏晋南北朝の、州府の僚佐組織の系統の始まりだ。ここに略述する。

(1) 長史。『三国志』袁紹伝で、冀州牧の韓馥がおく。
(2) 司馬。『後漢書』董卓伝で、馬騰が涼州刺史の司馬になる。これが司馬の最早の事例だろう。のちに司馬は、普遍的におかれる。『華陽国志』劉二牧伝、その他たくさん。
(3) 東曹掾。幽州牧の劉虞は、東曹掾をおき、魏攸をおいた。『魏氏春秋』にある。荊州牧の劉表は、傅巽を東曹掾とした。
(4) 諸校尉。劉焉の父子は、益州に軍議校尉をおき、法正をおく。助義校尉、褒義校尉が碑文にある。劉表は、綏民校尉をおき、熊氏を任じた。

つぎは、10章 任遷途径だな。120128