05) 抄訳5日目、任遷途径(昇進ルート)
厳耕望撰『中国地方行政制度史』秦漢地方行政制度を抄訳
10章 任遷途径
漢制の地方官吏は権限がおもく、中央官の昇進ルートである。だが『漢書』『続漢書』に表がない。史書や碑文から、統計的にルートを分析する。
県長吏に出入するルート_316
■除補
県道の令長の職は、もっとも民に親しいので、慎重に任命された。令長になるとき記されるのは、孝廉三署郎、公府掾、尚書令や令史、侍御史や謁者、州の茂才などだ。
(1) 孝廉署三郎から
『漢書』董仲舒伝が対策する。班固が引用して「州郡に茂才や孝廉を挙げさすのは、董仲舒が始めた」と。
前漢初の郎吏は、諸県が選んだが、これは秦制である。秦制では、任子や恣意にながれて、賢者を得られなかった。郡国から孝廉をあげて郎中にすることで、天下の賢者をあつめた。郎官の性質はかわりやすいが、県の長吏に任じられるのは不変だ。
後漢にも史料がおおい。明帝紀で公主は、子を郎官から県の長吏にしようとした。桓帝紀で即位したとき、孝廉された吏が、城民を典牧したとある。楊秉伝は延熹七年に「郎官なのに宿衛し、百姓を治めにゆかぬ」と諫めた。以上から、郎官から、長吏に補されたとわかる。章帝紀、和帝紀、安帝紀で、郎を県の長吏に出した記事がある。任遷のおもなルートだ。
ただし三署の郎官らは、差等があった。比6百石の中郎、比4百石の侍郎、比3百石の郎中。ゆえに地方に出て、県の令長や相(侯国かな)、丞尉などの任命に差等があった。列伝で、孝廉の郎吏から任命された人はおおい。事例はぶく。
また応劭『漢官儀』はいう。光禄勲は三署をつかさどり、郎のうちトップの茂才を察し、秩4百石とした。つぎを尚書郎とし、百里(県)の長吏としたと。羽林郎は、3百石の丞尉に任命した。小県の丞尉は3百石、つぎは4百石だ。
以上から光禄は郎吏の優秀者をえらび、羽林郎も郎吏の一種をえらび、令長や丞尉に任じた。
(2) 公府掾から
公府掾は、中央で実際に治事している吏だ。中央だけでなく、令長や丞尉にもなる。安帝紀にある。事例は史料におおい。みな公府が「治劇」「茂才」だから挙げた人材である。前漢の公府掾の地位は、比較的高いから、令になる。後漢の公府掾の地位がさがり、長がおおい。
へー!
(3) 尚書郎、令史から
尚書郎および令史も、長吏に出される。これは後漢の制度。前漢では、ただ三署の郎が、尚書台に給事した。尚書令が専任になったのは、後漢からだ。正史に事例がおおい。『後漢書』鄭宏伝、応劭『漢官儀』、蔡質『漢儀』、古令注にある。尚書令や尚書令史が、県の長吏になる。劉祐、陽球、服虔、陶謙らがある。
(4) 侍御史、謁者から
侍御史は、親近で執法する吏だ。秩6百石。蔡質『漢儀』はいう。侍御史は、出でて治劇し、刺史や二千石となる、ふつうは県令にうつる。杜詩、衛颯、雷義らがある。
蔡質はいう。謁者は出でて、府丞、長史、陵令となると。『十三州志』はいう。謁者は、秦官だ。70人。みな孝廉に選ばれ、50歳未満である。年末に、県令や長史(もしくは県の令長)になる。都官府の丞、長史にもなると。『続志』で謁者は、常侍謁者が比6百石。給事謁者が4百石。潅謁者郎中が比3百石。秩にあわせて出され、令や長や丞となると。
(5) 州の挙げた茂才から
衛宏『漢旧儀』はいう。刺史は民から茂材をあげ、丞相に報告する。丞相は、明経、明律令、能治劇を1人ずつ選ぶ。よく治劇できれば、長安や三輔の令になる。ためしに小冠となり、1年で試用期間がおわる。
以上が、県の長吏が補任する、おもなルートだ。同じく長吏のなかでも、秩禄は異なるから、次の配属もちがう。丞尉から令長、県長から県令になるのは、通常ルートだ。試しに県長になり、県長にゆくのは、両漢にある。平富、馮野王、祭彫、桓ラン、法雄、度尚、周盤、袁安らだ。
令長の人事ルートをまとめる。県長の任に、孝廉三署郎からつくのは、全体の50%だ。公府掾は25%だ。県令の任に、県長および三曹の高級な郎吏からつくのが、20%あるいは17%ほど。公府掾、州茂才からが10%だ。尚書侍郎、侍御史からは5%である。だいたい。
■遷昇
県令から遷昇するには、4つのルートがある。
(1) つぎに守相、都尉になる
大県の県令から、守相や都尉になるのが、もっとも重要なルートで、50%を占める。前漢の魏相、王尊らだ。後漢では、祭彫、廉范、王堂、鄭宏、馮魴、宋均、袁安、衛颯、周ウ、黄昌、服虔らだ。
(2) つぎに司隷、刺史になる
守相や都尉のつぎに重要なルートである。前漢の王尊ら、後漢の魯丕、法雄、牟融、蘇章、楊震、賈琮、朱儁、王カンらだ。
(3) つぎに尚書、中郎将らになる
中央で機枢をにぎると、尚書や中郎将となる。耿国、周沢、宗意、鐘離意らが、尚書や中郎将になった。いきなり県令から尚書郎になった、周栄がいる。
(4) つぎに諌議大夫らになる
中央で間散とすると、諌議大夫になる。または議郎らとともに封転する。劉輔、李固らだ。
ほかの遷昇ルートもおおい。県長が県令になるほかに、飛びこえて小郡の太守になることがある。召信臣、龍伯高らは、零陵太守になった。
郡国の守相に出入するルート_323
■除補
(1) 守相を上佐する都尉から
守相を上佐する都尉、中尉、内史から、守相になる事例が最多だ。33%ある。
(2) 県令から
県令から守相になるのが、20%弱だ。前述。
(3) 州刺史から
『漢書』朱博伝でいう。部刺史は、郡国を督察する。故事では9年刺史をやれば、守相になると。必ずしも9年でないが、この事例はおおい。後漢では、謝夷吾、李固、楊震、法雄、度尚、楊秉らである。10%ほどだ。
(4) 尚書、尚書令僕から
応劭『漢官儀』はいう。尚書の秩は5百石、次に2千石に補されると。後漢で、尚書や尚書令僕から、守相になるなる事例は極多だ。10%ほど。けだし尚書は、職責がおもいが、秩禄がかるい。だから守相への異動がかたまった。尚書は機密をにぎり、人情をつかめるから、守相になれた。伏湛、馮豹、ラン巴、种暠らだ。また魏朗は尚書から河内太守になり、また尚書にもどる。
尚書令僕から郡国にでたのは、郭伋、韓リョウ、黄瓊、周栄、王暢、鐘離意らだ。尚書令の陳蕃は、豫章太守となる。尚書僕射の宋登は、趙国相になる。劉寛は、東海相から尚書令、南陽太守になる。辺ショウは、北地太守から尚書令、陳国相となる。尚書と守相は、往復する。
たいてい守相から中央にくると、皇帝のもとで中枢をにぎる。尚書から守相に出たのは、権臣と対立して、遠ざけられた事例もある。陳寵は竇憲に遠ざけられた。あるいはながく機密をにぎり、皇帝に重んじられ、九卿に昇進したいから、守相に出る。韓リョウ、黄香である。
(5) 侍中、中郎将から
10%。楊彪は侍中から京兆尹になり、侍中、南陽太守、侍中となる。劉昆、袁敞、宋登、延篤、黄琬らは、みな侍中からだ。李忠、梁統、張酺らは、中郎将からだ。太守から、侍中や中郎将にもなる。隴西太守の馬援は、中郎将に。北地太守の皇甫嵩は、中郎将に。侍中や中郎将は、みな近臣で寵される。秩比2千石で、要職をさせてもらった。
(6) その他
御史中丞から守相になる。中都官から大令となるのは、太官の令丞が守相に遷るのと同じ。散職の諫大夫、博士、議郎らは、ふつうに守相になれる。蕭望之伝など、事例はぶく。326ページ。
光禄大夫の地位は高いので、守相と往復した。鄧晨は、常山太守から光禄大夫、中山太守となる。光禄大夫の龔勝は、渤海太守となる。太守から光禄大夫、その逆とも、貶める意味はない。
(7) とびこえて守相になる
1つ、小県長からとぶ、前述。2つ、尚書侍郎から。蔡質『漢儀』にあり、謝承『後漢書』で駱俊がやる。
3つ、侍御史から。『漢儀』侍御史はいう。出でて治劇し、刺史、二千石となると。韋彪伝にある。陳球らがやる。
4つ、高級の謁者から。応劭『漢官儀』はいう。河堤謁者を、光武が三府の掾属に改めた。御史中丞、刺史、小郡の太守にとべた。監黎陽謁者は重いので、順帝のとき牧守にとべることにした。馬リョウ、鄧訓らがやる。5つ、公府掾からゆく。崔実『政論』はいう。三府掾は、州郡にゆくと。西南夷伝にある。
6つ、起家して(未経験で) 2千石にいたるのは、権臣である。前漢末におおい。後漢が多いと考えられるのは、守相の地位が前漢より低いので、飛んでいきなり着任しやすかったから。
■遷昇
ふつう守相は、尚書や尚書令僕、侍中や中郎将になる、前述。さらに昇進する場合について記す。
(1) 例遷するルート
守相からあがるなら、畿輔、九卿、列卿である。畿輔は後述。中二千席にうつるのは、『漢書』朱博伝にある。郡国の守相のうち高第を、中二千石(列卿、九卿)にすると。『百官表』に事例がおおい。後漢も同じ制度。遼東太守の蔡彪は太僕に、涿郡太守の楊震は太后紀に、左馮翊の鄭興は大司農に、汝南太守の胡広は大司農に、など。
(2) とびこえ
前漢の守相は、副相、御史大夫になれた。王吉伝など。『公卿表』にある御史大夫は72人だが、守相から飛んだのが9人だ。
後漢では、とびこえて三公になる事例がおおい。10人いる。司徒に遷る人がおおく、司空がつぎ、太尉はない。太尉は三公のトップだから、重んじられたのだ。後漢初はおおいが、中期や末期はすくない。地方官の地位が下がったからだ。大郡の太守くらいしか飛べない。国相や小郡の太守じゃ飛べない。郡国に差等がある。
以上、漢代では、中央の大員は、みな地方の大吏を経由して進む。地方と中央ともに、政事に明るくないといけない。公卿から、三輔を治めるのが好例。つぎに記す。
畿輔郡_329
畿輔は、官位がたかく、職務がおおい。前漢に顕著だ。郡国の守相のうち、高第を任じた。『公卿表』で畿輔は73人が長官をやり、38人が守相の高第、3人が三輔都尉からだ。事例はぶく。
守相のほかに、公卿や中央の重職から、畿輔につく事例がつぎにおおい。前漢では、まず中央に配属され、地方で治民した経験のない人がいる。試しに畿郡で能力を見てみる。蕭望之伝、翟方進伝、王吉伝、薛宣伝にある。皇帝に寵されても、政事の能力がわからんので、三輔の長官をやる。『公卿表』で、九卿や列卿のうち、20%が三輔からだ。『公卿表』で、三輔から卿になれるのは50%、御史大夫になれるのは17%だ。
後漢の河南尹は、郡守から任じられることがおおく、つぎは諸卿、つぎは尚書令だ。ただし河南尹は、前漢ほどキツくないから、賢能をあげなくてもいい。河南尹をやると、つぎに50%が九卿、さらに飛ぶ事例もある。梁冀、何進、何苗らだ。外戚は飛びこえる。
州刺史_331
刺史は、県令や侍御史からつく。県令が刺史にうつるのは前述。県令から刺史は、30%くらい。侍御史は、もとは督察の吏だから、刺史や二千石になれた。『漢儀』にある。杜鄴、楊秉、王允、朱穆、橋玄らである。侍御史から刺史は、20%くらい。ゆえに韋彪の上疏では「御史が外にゆき、州郡を動かす」とあった。
ほかに、諫大夫、博士、議郎から、刺史になるのも少なくない。『漢官儀』はいう。尚書左丞、尚書右丞は、秩4百石で、刺史にうつると。尚書の左右丞、侍郎、上級謁者、公府掾は、みな飛びこして刺史になる。こちらは事例が少ない。
刺史から守相になるのは前述。史書や碑文から、刺史から守相になるのが50%もいる。ほかに、刺史から、尚書、司隷、司直、中郎将になる。附表を見よ。
属吏_332
地方政府の属吏では、県の功曹がもっとも尊い。つぎに廷掾、つぎに主簿、もっとも下が列曹掾史。県吏任じられた人は、順番に昇進して、郡吏になる。郡吏では、功曹がもっとも尊い。
つぎは五官、つぎに督郵、つぎに主簿、もっとも下が列曹掾史。任じられた人は、五官、功曹となり、ある人は令長、ある人は州に辟されて従事。これが通常ルートだが、飛びこえもおおい。白衣から、郡県の功曹になれる。長官をのぞき、定員はない。郡府の組織表に厳耕望が記した等級から、県府の組織表も推測せよ。
州従事になるには、たとえば郡県の右曹吏に選ばれたり、みずから刺史が抜擢したりする。監察の章を見よ。年末に、郡は孝廉を察し、州は茂才を挙げる。州郡は、みずからの高級の属吏を、孝廉や茂才に選ぶこともある。
任遷途径の結論_333
漢代の任職は、おおくが地方の属吏から始まった(初配属が地方)。
賢俊の士は、おおく郷里で誉をえて、守相や刺史から中央にあげてもらった。孝廉や茂才である。散ずるなら三署諸郎になり、職につくなら尚書侍郎や、諸卿の令佐になる。律令、威儀、中都の故事をまなぶと、県の令長になる。
3年で査定され、いきなり刺史や守相に飛ぶ人もいる。
京師に入り、散じて大夫、議郎となり、左右を諷議する。機枢をとれば、尚書、諸校、中郎将らになる。のちに、郡国の守相になる。守相で高第だと、九卿や、飛んで三公になれる。官吏は内外を往復し、地方の民政をやり、中央で政事をとる。地方と中央は一体である。
両漢は、はじめは列国が割拠した。統一して治めるのは難しい。ゆえに400国から人材を集めるのが、この人事制度のねらい。下吏と宰相は、地位が隔絶しており、階品がつながらない。だが有能なら、短期間で昇進できた。孝廉の郎吏は、10余年で、4、5回の昇進をして、公卿になれた。後漢では、馮魴、第五倫、張禹、袁安、伏恭らである。
下吏が郎になるステップで、郎吏は官に除される準備をする。郷亭で末端の属吏は、発奮すれば公卿を望めた。『韓子』はいう。明王の吏や宰相は、必ず州部から起こると。335~344ページに附表。
出掛けるので、これまで。つぎは、11章 籍貫限制。120128