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06) 抄訳6日目、籍貫限制(任命ルール)

厳耕望撰『中国地方行政制度史』秦漢地方行政制度を抄訳

11章 籍貫限制
漢代の地方官には、厳格な籍貫限制(任命ルール)があった。法令は、『漢書』京房伝、『後漢書』蔡邕伝にある「三互法」のほかに、記載がない。ゆえに統計の手法により、地方官の任命ルールを明らかにする。刺史と郡守は、べつの本に書いた。県の長吏は、この本に表を載せた。

漢代の中央と地方の人材の往復を見てると、レヴィ=ストロースで読みたくなる。漢代の「任官」が、ストロースのいう「婚姻」だな。地方が、中央(漢室)に人材を贈与して、それが別の形で地方に返報されて、、後漢末になるとそれが、、三国政権の成立とは、、などなど。考え中。
10年秋に文化人類学を知ったとき、ぼくは、「未開」民族を分析するツールだと思った。ストロースの調査により、「西洋ばかりが優越しない」が暴露されたらしい。この「暴露」の前提として、調査する主体、報告を受ける主体が、いずれも西洋人であるという事情があるだろう。いくら海洋の人々を礼儀正しく扱っても、西洋人がコウベを垂れてみても、主語は西洋人であることに注意。
ぼくは西洋人でないが、少なくとも自分が近いのは、調査する側であって、調査される側だとは思ってなかった。だから文化人類学を「未開」分析ツールだと思ったのだ。つまらんと思った。
11年秋、東京のホテルに泊まったとき、文化人類学の放送教育?がテレビで流れていた。現代の文化人類学者も、せっせと南洋に通って、現地の「未開」な風習をさぐっているらしい。実用できないほど巨大な刺繍を、見せていた。現地で「貨幣」にも相当する刺繍を日本に運ぶとき、代わりに何を贈与したのか気になるところだ。ともかく、ぼくは南洋を知りたいとは思わない。文化人類学、いつまで南洋を調べてるのか。結論なども、ストロースと同じような感じだった。進歩ないなー、と思った。結論の月並さは、テレビゆえの手加減かも知れないけれど。
ぼくの認識は、11年末から12年初にかけ、ベネディクト『菊と刀』を読んでから変わった。『菊と刀』では、日本人が文化人類学の「調査される側」だった。ストロースのごとき分析の眼差しが、ベネディクトから、日本人に向けられていた。ぼくが自覚していない、日本のルールが、明らかになった。言い当てられた!という気がした。「あるある」ネタの次元をこえて、感動してしまった。
結果、文化人類学の手法は『三国志』を読むにも使えるという確信をもった。漢室の人々が自覚していない、漢室のルールを、外部の人間が言い当てることができる。それが文化人類学の手法だなあ、と思った。いま厳耕望を読んで、確信が強まった。


監官長吏_345

◆前漢の三輔以外
監官の長吏は、かならず本籍を避けた。秦代から始まる。武力で討伐しただけで、秦代には典律がない。
前漢初、諸侯が国政をほしいままにし、長吏に本籍を任じた。『史記』韓信伝で、韓信は楚王となり、楚の少年を中尉とした。張耳も同じ。
景帝から武帝のとき、守相、内史、尉および県令は、なお本籍を任じた事例がおおい。景帝期は、『史記』韓安国伝、爰盎伝の2例がある。武帝期は、本籍が守相となったのが4例。隴西の李広、会稽の厳助と朱買臣、斉国の主父偃だ。みな武帝の初期、四方で討伐をした。県の長吏もおおい。武帝の寵臣ばかりなので、特例かも知れないが、「本籍を長官にしない」というルールはゆるい。また『漢書』西南夷伝で、越王を滅ぼすと、交趾と九真から長官を現地採用した。

武帝の初期までは、ルールがあって、ないようなもの。たしかに実際に治めるには、本籍を使うのが有利で早い。だが、これじゃあ、中央の権限で行政しているというより、現地の支配勢力を中央が追認しただけ。
漢室に敵対する現地勢力をほろぼし、漢室に味方する現地勢力をもちいたんじゃ、何をやってるのか分からない。だって、新しい長官が漢室への態度を変えたら、ただちに昔に逆戻りだ。態度まかせを「体制」とは言えないよなあ。


武帝の中期以後、任命ルールが厳しくなった。前漢の守相は、三輔をのぞくと424例ある。本籍がわかるのが、うち282例。本籍で守相になったのは7人(前述ら)だが、みな武帝の中期以前だ。武帝の中期以後、本籍の守相は、1例もない。282例の大半は、武帝の中期以後なのだが、そのなかに1例もない。厳密なルール運用をいえる。
前漢の県の長吏のうち、長安令をのぞき、本籍がわかるのは、令長が64例、丞尉が7例だ。武帝中期より前に、卜式が2回、本籍の県令になったが、以後は1例もない。

郡守のほうが、圧倒的に記述がおおいのだね。県の数のほうが、5倍くらいあるのに。

本郡だけでなく、隣接した郡国の県に任じられることがおおい。馮翊が本籍の県の長吏は13例あり、京兆や扶風に任命されるのが7例。扶風には17例あり、京兆に5例がつく。平富は、本籍ある県の県令だと記されるが、移住もしくは行政区画の変更による。

三輔だけは、外郡とちがう。三輔の掾属は、他郡の人を用いて(後述)、「尤異」といわれた。県令には本郡をもちいた。これも「尤異」といわれた。

前漢の三輔は、治めるのが難しい。だから、長官を現地採用してもいい(外郡ではダメ)。掾属を他で採用してもいい(外郡ではやらない)。つまり、本籍はどこでもいいから、とにかく「尤異」な人材をつれてこい!という、なりふり構わぬルール。


武帝以後には、刺史がある。

刺史を置くのと、「郡守や令長に、本籍はだめ」ルールが厳密に適用されるのが、どちらも武帝なのね!両者には、絶対に関係があるだろう。「中央集権をつよめる」という、大きな一致点だけじゃなく。

司隷をのぞくと、刺史は51例あり、45例の本籍がわかる。みな本州でない。本籍の刺史になれない。
以上から、中央が任命する地方官、つまり守相、令長、丞尉、辺侯、司馬は、みな本郡の人がつけない。刺史は、本州の人がつけない。武帝の中期から、このルールが厳密に運用されたか。
『通典』33はいう。漢代の県には、丞尉や諸曹掾がいた。おおく本郡の人が任命された。三輔では、本郡の人も、他郡の人も任命された。隋代に、他郡だけに限定したと。『唐六典』もおなじ。厳耕望はいう。ここにある、主簿と曹掾は、本郡の人を任命するので正しい。丞尉は誤りである(本郡の人を任命しない)。唐代、丞尉と主簿は、地位が同じだ。ゆえに『通典』は、丞尉と主簿を混同して誤ったのだ。

◆前漢の三輔
京畿の州(司隷)、郡(京兆)、県(長安)には、任命の禁止ルールがない。前漢の司隷校尉は16例が史料にある。昭帝のとき司隷校尉になった李仲は、河南の洛陽の人だ。成帝のときの蕭育は、京兆の杜陵の人だ。どちらも本州(司隷)が本籍だ。
三輔の太守は、142例があり、本籍は75例でわかる。元帝、成帝、平帝のとき、みな本籍の人が京兆尹になる。扶風、馮翊では、本籍の太守が1例もないのに。京兆と、扶風と馮翊は同制なのに、太守になる本籍のルールだけちがう。
長安令は4例あり、1人が杜陵の朱博だ。長安丞は、杜陵の張湯の1例のみ。どちらも本郡(長安県と同郡)の人だ。
けだし京畿の長官は、朝会に参与するから、なかば中央官、なかば地方官である。制度が特別なのだ。三輔の尤異というのは、この差異のことを言うのか。

◆後漢
後漢の刺史は280例、本籍がわかるのは167例。本籍は1例もない。ただし後漢末、地方の権臣が、相互に推薦した事例がある。趙岐伝はいう。興平のころ、北海の孫嵩が荊州に流れた。荊州牧の劉表は、(青州が本籍の)孫嵩を青州刺史にあげた
司隷校尉は82例、本籍がわかるのは50例。ただ建武二年に、馮翊の宣秉が司隷校尉になったが、これは本籍でない。

守相は1465例あり、本籍がわかるのは1005例(河南尹をふくむ)。建武元年、光武の族兄・劉順が南陽太守になる。越巂の長貴が自立して、越巂太守になるが、建武十四年に後漢に帰す。
公孫度は、みずから遼東太守をとなえ、子の公孫康がつぐ。劉焉は、漢中の樊敏を、漢中太守にする(隷釈樊敏碑)。巴郡の龔楊は、巴郡太守となる/『華陽国志』。龔楊も、劉焉のときだ。

劉焉は、みずからルールを破らないが、太守にルールを破らせまくってるのか。どちらも『三国志』の陳寿と裴松之にない。

以上の6例は例外である。また、自立したり、州牧が自ら「表」して「暫時検校」したのは論じるに足らない。

県の令長で、本籍がわかるのは259例だ。県の丞尉で、本籍がわかるのは、26例だ。いずれも本県の人でない。かつ同じ郡の人でもない。ただし循吏伝で、瑯邪の姑幕の董恢は、不其の県令になる。『漢書』いわく、前漢で不其は瑯邪だが、後漢では瑯邪でなかった。董恢は、同郡の県令になったと言えない。
理解できないのが、楊仁である。巴郡のロウ中の楊仁は、儒林伝で、ロウ中令となる。本郡かつ本県である。これは誤りだろう。あるいは太守が、一時的に仕事を担当させたか。
以上、後漢では、守相、県の令長と丞尉は、本郡の人を使わないのは明らかだ。

県の令長と丞尉は、おなじ県を避けるだけでなく、おなじ郡を避けている。郡が1つのまとまりと見なされていた証拠だ。なにがどう「まとまり」なのかは、また考えるけれど。


京畿は人材がおおい。河南尹69人のうち、本籍がわかるのは48人。河南の出身者は1例もない。洛陽令で本籍がわかるのは10例、河南の出身者は1例もない(洛陽の本籍が1人もいないだけでなく、河南の本籍すらいない)。京畿もまた、本籍を用いないとわかる。後漢は、前漢の制度をつぎながら、さらに厳しく運用した。京畿すら例外にしなかった

どういうことだろう。後漢の洛陽は、前漢ほど統治がむずかしくなかった? なりふり構わず、人材を持ってこなくても良かった?
もしくは、洛陽すら地方として扱って、ルールを徹底した? このルールが徹底された状態は、中央権力が強いと言っていいのか? 中央権力のある、司隷校尉、河南尹、洛陽令には権力が育ちにくいけどな。ここでいう中央権力とは、純粋な中央官か。前漢の長安には「なかば中央官、なかば地方官」がいたが、後漢の洛陽には「ただの、純粋な中央官」がいたという理解でいいのか。うー。
このあたりが、後漢の性質をとらえる根幹だな。


◆三互の法
いつからか特定できないが、婚姻した家があると、2州の人士は「対相監臨」できない。霊帝のとき「三互の法」が復されるまで、禁止は厳しくなり続けた。『後漢書』蔡邕伝に「三互の法」の記述があり、冀州と幽州の任命が遅れるという。李賢が注釈する。三互とは、婚姻した家の州では、相互に官職につけないことだと。けだし霊帝以前から、このルールがあった。
たとえばA州のaさんと、B州のbさんが親戚だとする。aさんは、B州刺史になれない。bさんは、A州刺史になれない。郡県の長官までも、同じルールだった。これは「本籍の人士は、本州の郡県に着任できない」というルールを、拡大運用したものだろう。

また、2州の人士は「対相監臨」できないとは、どういうことか。もしA州の人がB州刺史となれば、B州の人はA州刺史になれない。相互になれあう弊害を防ぐためだ。これが「三互の法」である。本籍のルールを拡大運用したものだ。
たとえばA州の人士が、B州を監臨する。同時に、B州の人士が、C州を監臨する。すると、C州の人士は、B州を監臨できないだけでなく、A州も監臨できない。
またもし、A州刺史が、B州の女と婚姻すれば、A州の人士は、B州刺史になれない。どれも、互いに庇護しあうのを防ぐためだ。郡県の任官も、同じルールだった。
謝承『後漢書』はいう。史弼は山陽太守にうつる、妻が鉅鹿の薛氏だから、平原相にうつったと。どういう意味か。けだし鉅鹿太守が、山陽の人だったのだろう。このように、後漢のルールは厳密に運用された。ゆえにポストに欠員が出るほどだった。過ぎたるは及ばざるが。

属吏_351

◆一般の官人のもとにいる、属吏の本籍
『日知録』8・掾属はいう。『古文苑』にひく廟碑の人名から、掾属はみな同郡の人だ。漢代の碑文だから、漢代のルールを示す。1つの廟碑だけでない。守相は朝廷が任命するが、掾曹より以下は、本郡の人だった。『漢書』京房伝はいう。京房は魏郡太守となると、みずから他郡人をもちいた。京房は異例であると。

漢代のルールは、これ(掾属は現地採用)でよい。
ただし例外がある。『後漢書』蔡茂伝で、建武に蔡茂が広漢太守となると「雒陽」の郭賀を主簿とした。『東観記』もおなじ。雒陽なら、本郡(広漢)の人でない。『華陽国志』で郭賀は、雒県の人だ。雒陽は誤りだ。解決。
もう1つ例外がある。『水経渠水注』はいう。陳相は、西華の陳キを五官掾としたと。西華は汝南であり、陳国でない。だが西華は、陳国と汝南の境界である。『後漢書』陳王・劉羨伝で、永元十一年に境界線がかわった。西華が陳国の時期もあった。解決。

州の従事は、本州の諸郡の属吏から、刺史に選ばれた。県道の属吏もまた、本県から選ばれた。史料や碑文から明らか。枚挙にいとまなし。
以上から、州、郡国、県道と侯国の政府の属吏は、みな長官が領域内からえらぶ。境界線をくぎり、境界の外から採用しない。このルールは、古代の封建社会の習慣法が拡大運用されたものだ。秦代も同じだろう。漢代に始まったのでない。

以上のルールの運用にあたり、3つの例外がある。
1つ。京畿は「尤異」だ。前漢の三輔、五官の河南では、どちらも外郡人をもちいた。県(長安と雒陽)でも、外県人をもちい、属吏とした。たとえば黄覇は淮陽の人だが、左馮翊の2百石の卒吏になった。『漢書』循吏伝にある。楼護は斉国の人だが、京兆の吏となった。遊侠伝にある。張湯は杜陵の人だが、長安の吏となった。張湯伝にある。ゆえに如淳は「三輔の郡は、他郡の人をつかえる、いわゆる「尤異」だ」という。循吏伝の注釈にある。
また『水経穀水注』にある銘文で、河南尹の属吏は、睢陽の人だ。河南の人でない。これは、後漢の河南尹も「尤異」だったとわかる。「睢」陽でなく、「雒」陽かも知れないから、注意すべきだが。
2つ。客寓して名声があると、その地で掾属となる。廉范伝で、杜陵の廉范は、(本籍でない)隴西の襄武でつかえる。京兆、隴西からも召される。班固伝で、扶風掾の李育が、客居した杜陵で、京兆と扶風からめされる。『三国志』管輅伝で、清河太守が、平原の管輅を辟す。この3例が、客寓した先で誘われる話。ただし前者2つは、三輔の「尤異」と理解すべきか。

「名士」論で、生産基盤を失った人が、客寓先でつかえる。孫権につかえた魯粛とかね。この客寓パターンじゃないか。しかし、事例が管輅だけだと、貧しすぎて、なんとも言えない。孫権は揚州に、三輔のごとき「尤異」を作り出して、人を用いていった。いくら何でも、ムチャクチャだな。笑

3つ、蛮夷のいる辺境に初めておかれた郡は、ふつうの郡県とちがう。属吏には、現地の蛮夷でなく、内郡の人をつかう。『漢書』地理志で、玄菟や楽浪には、遼東から属吏を供給した。また武帝はセン耳や珠崖で、漢人を送りこんだ。しばしば蛮夷が叛いたと。
『後漢書』袁紹伝はいう。公孫度は遼東の人だが、(辺境に飛ばされて)玄菟の小吏となった。後漢も、前漢と同じである。

諸葛亮の南方統治について、何か言えないか。

統治をうまくやるための例外である。

「本来」と「例外」を分けておかないと、ワケがわからなくなる。ここにある3つは、あくまで例外。例外の存在が、本来の意義を損なわせることはない。


◆監察する官人のもとにいる、属吏の本籍
分部して督察する任務をもつ官位の属吏について。もし通常の官位と同じく、領域内から採用すれば、ろくに監察できない。監察する官位には、2つある。1つ、州の部郡従事。これは同州の人を用いるが、監察する郡国の人を用いない。2つ、郡の部督郵。これは同郡の人を用いるが、監察する県の人を用いない。
詳しくみる。
1つ、州の部郡従事。史書に見えるのは17例で、354ページの表。例外なく、同州かつ異郡の人。17例では、絶対に同郡の人を用いないとは言い切れないが、「本籍をもちいない」というルールとの共通はわかる。魏晋にもルールが継承された。魏晋の部郡従事のうち、本籍がわかるのは9人で、みな同州異郡だ。魏晋の本の3章を参照(後日)。
2つ、郡の部督郵。漢代の郡国は、配下の諸県を2つ、3つ、または5つなどに分けて、それぞれ督郵1人を置いて管轄した。部督郵は、355ページの15例より、同郡異県だとわかる。

郡を複数に分割するのは、必然である。そうでないと、「部督郵に、他郡の人をもちいる」ハメになる。郡内から採用しつつ、本籍の県に行かせないように、部督郵を配置せねばならない。
分割すると「○○郡の南部督郵」「○○郡の中部督郵」という名になる。


後漢末期の特例_356

末期にはルールがゆるんだ。長吏と属吏をわけて論じる。
兵乱のとき、郡県の長官は、本籍でついた。建武元年、劉順は南陽太守に。越巂の長貴は越巂太守に。公孫度、樊敏もだ。

もとの郡は、春秋戦国の「国」である。戻るんだろうなあ。

『漢書』遊侠の原陟伝はいう。王莽のとき、扶風吏の尹公は茂陵令となり、「真除」した。郡吏が、かりに属県の長吏を守することは常にある。この「真除」は、乱世の特例である。
後漢末、魯粛は袁術から東城長になる。これは本貫の県長となった事例だが、「真除」とはちがう。

袁術がルールに違反して、魯粛を故郷に任じたのはなぜか。


郡県の属吏は、戦乱のときは、外からくる。『三国志』胡綜伝で、汝南の胡綜は、会稽に属吏になる。 朱治は建安七年に九真太守となり、公族の子弟および呉の四姓は、郡に出仕する。 『季漢輔臣賛』で、広漢の王国山は、荊州の議曹従事となる。
督郵は、本籍の県をまわる。『三国志』満寵伝で、満寵は県人の張苞を、郡督郵にする。『御覧』253にひく『会稽先賢伝』で、餘姚の茅開は、督郵になる。
後漢末、おおくの人士が寄寓する。ルールは守られない。魏晋南北朝、ルールは壊れた。

籍貫限制の結論_357

史書はルールの条文を載せないが、ルールは厳密に運用された。以下の4つを指摘できる。
1つ、中央が任命する、監察官や長官は、本籍の人をもちいない。刺史、守相がそうだ。県の令長、丞尉は、同県だけでなく、同郡までも禁じる。ただし前漢の司隷校尉、京兆尹、長安県令、長安丞尉は、その限りでない。
2つ、後漢の中期以後、三互の法がでてくる。1つめのルールを拡大運用したものだ。
3つ、監察官や長官は、みずから属吏を辟する。かならず本籍の人をもちいる。ただ京畿の郡県だけは、例外である。
4つ、郡督郵は、郡を分けて県をまわる。本郡の人を用いるが、まわる県の人を用いない。州の部郡従事は、本州の人を用いるが、本郡をまわらない。

太守は「郡をわけて」管理する。督郵が複数いる。刺史は「州をわけて」管理しない。部郡従事は、おそらく複数だが、それほどカッチリ分けない。

以上、長官と監察官は本籍をさけるが、属吏は本籍からとる、ただし京畿は例外とする、といえた。

『書虫』から魏晋編の発送完了のメールが入りました。秦漢編は、おもなところは抄訳できたので、つぎは魏晋編だな。120131