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贈与に関する理論など

ゴドリエ/山内昶『贈与の謎』法政大学出版局2000
を抜粋する。
『三国志』じゃなくて、すみません。ぼくの頭のなかでは、贈与論と『三国志』とのつながりが、けっこうできつつあります。そのうち、やります。

序_001

与えるモノ、売るモノ、与えるモノ、売るのもダメで手放せないモノ

この本は、最後の「売るのもダメで手放せないモノ」に特徴がある。

自由資本主義は、恒常的な失業を生み出した。臨時の「連帯税」は、強制的な贈与である。キリスト教の慈善的な贈与ですら、「もらう人の心を傷つける」。モースは、社会民主主義的なプログラムを描いた。_005
かつて贈与は、市場と国家にはさまれた。市場は、利害・会計・計算の場。国家は、法律・服従の場。 ゆえに贈与は、市場でも国家でもなく、近親・友人のあいだで行われた。
ゴドリエはモースに、2つの疑問をもった。_008
モースは返礼の義務の原因として、法的・利害関心的な規則だけでなく、宗教的な霊があるという。ストロースは「モースは先住民の民族に欺かれた」として、「霊」の代わりに、返礼を義務づけるものとして、社会の象徴的起源を想定した。ゴドリエは、この象徴的起源について、モースの代案を提示する。_009
所有物を分与するのが贈与なら、所有物を用いて戦うのがポトラッチだ。ストロースに触発され、ゴドリエは考えた。社会は交換に基礎づけられ、あらゆる種類の交換がある。女性(親族)、財(経済)、表象と言葉(文化等)の交換である。この交換の組み合わせにより、社会が存在する。
ゴドリエは「現実」より「象徴」が優位だと確信した。_009

バルヤ族は、ポトラッチをしない。それどころか富者が、贈与・反対贈与によって権力を得るのを排斥した。権力を持つのは、女性と富を集積したビッグマンでなく、太陽や森の精霊の知識をもつ、世襲のグレイトマンである。
マリノフスキーは、クラ交換を紹介し、与えながら同時に手放さない方法を明示した。_010
ゴドリエの独自性:
もし、贈与交換あるいは商品交換から(暫定的にだが長期的に)免れた現実、この不動点がなければ、社会もありえず、社会を構成する個人や集団に、時間を貫いて土台となるアイデンティティもあり得ない。人が与えるモノから、人が保持するモノへと、分析対象を移行する。
この移行により、貨幣の本性を解明できる。貨幣とは、贈与の慣行を脅かし、聖なるモノを冒涜・破壊するためにのみ、聖なる領域に侵入してきたものだ。
ともあれ、まずモースの評価から。_011

1章:名著『贈与論』の輝きとその影

◆三つの義務の連鎖としての、全体的で強力な贈与観_015
モースは3つの義務をしめした。一切の贈与と反対贈与の、出発点と到着点を一致させた。
モースは、人間とモノが分離していない社会を想定した。モノは人の延長であり、人間はモノを所有し、人間は、交換するモノと一体化した。モノに含まれた人間の魂が、戻りたがるので、返報の義務が生じるとした。

肩書や場所で人が呼ばれるなら、肩書と場所は、人と一体化してるだろう。

モースの説明では、返報の義務は説明できるが、贈与の義務を説明できない。

◆贈与、二重の関係_016
モースは贈与の義務を説明するとき、霊に頼るほか、ポトラッチをいう。
贈与者は、1人または集団を代表する個人。受納者も、1人または手段を代表する個人。贈与が発生すると、二重の関係を作り出す。連帯の関係と、優劣の関係である。受納者は、債務者となり、かつ返報するまで従属者となる。贈与によって、社会的地位は、差異と不平等をつくる。階層性が生まれる。
贈与以前に階層があれば、贈物は、その階層性を表現し、正統化する。
たった1つの同じ行為(贈与)のなかに、対立する2つの運動が含まれる。贈与は、分与であるゆえ、敵対者を近づける。また債務者をつくるがゆえ、両者を遠ざける。贈与は、暴力、身体的・物質的・社会的従属に対立するが、またその代理ともなる。_018

つまり、くっつけるが、つっぱねる。

受納者が返済できず、自分が贈与者の奴隷(所有物)となってしまうことがある。富・権力・知識・儀礼に近づきたい人々が競合して、 社会が組織された。ゆえに贈与がもつ「遠ざける」ほうの機能が、社会生活で効力をもつ。_018

「すげえ!」と初読のときのメモがある。うん、すげえ!
『ディスタンクシオン』も、こうして読まねばならんかなー。


贈与は、平等な関係で行われるか、不平等な関係で行われるかで、形態と異議が異なる。上位者が、神聖な力・死者の霊ならば、その贈与は「供犠」となる。
贈与を分析するとき、贈与が発生する以前に、両者の関係がどのようであったか、重視する必要がある。_019

ここも、すごく重要だなー。


贈与は、自発的で人格的なものである。ポトロラッチふうの募金集めは、贈与でない。税金、強制寄附、不当徴収は、贈与ではない。_021
近代資本主義社会は、モースが論じた社会とは対極である。近代は「市場と利潤の経済モラル」である。モースは「贈与の経済とモラル」を論じた。 モースは、両者の社会が出会ったとき、どんな社会が出現するか考えた。自分と社会関係を再生産するには、利害を超越して振る舞うことが肝要だと考えた。近代でも、贈与の3つの義務が有効だと考えたからだ。_021
だがゴドリエが考えるに、モースは返報の義務が生じる理由は足りない。「モノに宿った贈与者の魂が、贈与者のもとへ戻りたがる」という信念にもどってしまう。

◆贈与の謎と、モースによる解明_022
以上のようにモースは、なぜ同一物を返報するのか、を解明できなかった。モースは、「ハウが生まれた場所に帰りたがる」と考えたが、誤解である。

◆先住民に騙されたモース /ストロースによる批判_025
ストロースはいう。交換こそが根源的現象であって、社会生活によってバラバラにされた離散的な活動ではない。このように説明せねば、モースのように、先住民に騙されて「ハウが」と誤解せざるを得ないと。_026
ストロースは社会生活を定義した。社会生活とは、言語・財・女性が、個人間・集団間を、循環流通する不断の交換運動をするものである。_027

モースは「経験論的に」説明を求めすぎたために、マナやハウを鵜呑みにした。そうでなく、ストロースのように「説明できないのは、それが定義だからだよ」と開き直れば良かったと。


モースが「モノに霊が宿る」と言うのと同じ説明をしたのが、1世紀前のマルクスだ。マルクスは、「商品価値」の神秘を、商品に凝固している労働量だとした。商品は外見上、労働量とは異なる価値を持っているようだが、じつは労働量のカタマリにすぎない。_030
ストロースは、モースのように先住民を鵜呑みにするのでなく、「なぜ先住民がハウという説明をするか」を考えた。なぜ、ハウというシニフィアン(意味するもの)が生まれたか。どんなシニフィエ(意味されるもの)があるか。_032

◆ストロースによる謎解き /浮遊するシニフィアン_033
ポリネシアの「ハウ」は、フランス語の「あれ」「あいつ」くらいの意味しかない。世界の真偽について、何も言わない表象である。
社会は契約に由来しているから、本質において交換であり、言語なのである。言語の誕生は、一挙にしかあり得なかった。言語の出現が、認識の発展リズムを早めた。だが言語によって、世界をよりよく認識できない。
言語と同じく、社会的なものは自律的な実在である。象徴は、それが象徴するものより現実的で、意味するものは、意味されるものに先行し、それを規定する。

すごくよく分かる話だなー。


◆ストロースの公準 /想像に対する象徴の優位性_039
ラカンは「象徴が想像を支配する」という。父親の機能は、現実の父、空想の父、象徴の父、に3分割される。象徴の父が、言語・立法と混同される。ストロースは「神話が相互に思考しあう」という。「象徴その自身は、それが象徴するものよりも、現実的である」という。
ゴドリエは、ラカンやストロースのように、象徴を重視しない。理論の袋小路、理論の暴力行使だと考える。象徴でなく、内容を重視する。_040
関係を表象し、相互に対応させ、伝達させる「制度」を重視せよ。象徴のなかで、形式と内容をもった、具体的な「関係」に具現化せよ。
歴史関係、社会関係のなかで、「具体化」されることで、想像的なものは、歴史的現実、社会的現実となる。_041

このあたりは、純粋に理論的な話。ゴドリエはいう。象徴的なものが、想像的なものより優位だと措定するか。あるいは、想像的なものが、象徴的なものより優位だと仮定するか。どちらが現実に対して、より適切な表象を構成できるか。それが問題だと。
ぼくは、ゴドリエの結論を使いたいとき、ここで展開されている理論的な裏づけを、つまみ食いすれば良い。


マルクスはいう。
「価値の尺度としては、金はただ観念的な貨幣である。観念的な(あるいは想像的な)金であるにすぎない。単なる流通手段としては、金は象徴的な貨幣であり、象徴的な金である。しかしその単純な金属の現身では、金は貨幣である。言い換えれば、貨幣は現実の金である」
グーはいう。マルクスは貴金属としての金が、貨幣の3機能を引き受けていた時代に、この文章を書いた。金は、市場を流通する、商品価値の一般的等価物である。金は、富の根本の形態でもある。このとき貨幣は、①商品の価値尺度として、②商品交換の手段として、③富の備蓄・蓄蔵として機能した。
マルクスの時代は、金以外のすべての貨幣形態(紙幣、証券、他の貨幣標章、とりわけ銀行券)が価値をもつのは、それが金を代表するからでしかないと考えた。貨幣への信頼は、即座に制限なしに、金貨と交換できるという事実に基づいていた。
しかし、すべての個人が、銀行券を兌換すれば、システムが崩壊する。恐慌のとき、兌換が中止された。
恐慌でなければ、貨幣が価値尺度として機能するために、金が流通する必要がなかった。金は、銀行に備蓄されていれば充分だった。金は、想像のなかでのみ存在していれば、充分だった。_042

以上のグーに導かれて、譲渡できる財と、譲渡できない財とを区別できる。商品経済、普遍的な貨幣経済と、一般的競争経済のただなかに、流通しない何かを発見できる。すなわち、大量の商品や銀行券の交換が始動し、売買されうるものが流通し始めるためには、交換の領域・運動から、意図的に引き上げられた何かを発見できる。_043
交換領域から引き上げられ、切りはなされ、流通から取り外されたモノが、逆説的にもまた、まさしく交換の道具、流通手段、貨幣である。

貨幣は使用価値がなく(最小限で)、交換価値ばかり(最大限)である。

貨幣が存在するだけでは、商品交換が発展しない。だが貨幣は、交換のさなかにあり、支払手段として機能する。他方で、交換を越えたところでも、あるいは交換の内部でも、流通するものの価値を計るために、一定の基準点をなす。
2つの機能を同時にひきうけ、2つの場を同時に占めなければならない。
再説すると。貨幣は、あらゆる商品の運動によって、押しながされる。同時に、どの商品の運動の仕組みも、貨幣をめぐって回りはじめる。貨幣は、商品の運動の、分量と速度を計測する固定点として、不動の存在でもある。_043

いちばん面白いところ。重要なところ。


◆第4の義務の忘却(神々や神々を代表する人間への人々の贈与)
モースは、霊や神々になされる供物や供犠を、贈与のカテゴリにふくむ。しかしモースによると、神々を拘束し、ポトラッチのように、神々から、人間が与えた以上の返報を強いる力を持つのは、供犠という。「供犠の破壊の目的は、まさしく贈与であり、必ず返報がある」と。
モースはいう。死者の霊と神々こそが、地上のモノ・財のほんとうの所有者である。もっとも交換が必要なのは、霊や神々とである。霊や神々と交換しないのは、もっとも危険である。霊や神々と交換するのは、もっとも容易・確実である。

ゴドリエが見るに、モースは視点が欠ける。神や霊は、あらかじめ人間より上位である。人間である贈与者は、神である受納者より、最初から下位にある。この事実への着目が、モースに欠けている。
神々は、贈与するも、受納を拒否するも、自由である。すでに人間は、神々に負債がある。

ぼくは思う。たしかにモースは、神や霊への描写が、一貫しないかも。神や霊は、すでに人間に贈与を終えており、人間に貸しがあるから「恐ろしい」。返報を強制するから「恐ろしい」。だが神や霊は、受納を拒否しないので「優しい」と。贈与すれば、確実に返報をくれるから「優しい」と。

人間の負債が出発点、想像上の骨組みとなり、カスト間・階級間の関係を形づくり、意味づける。贈与と、贈与が創出した負債の世界でこそ、カスト・階級の形成過程が解明される。
エジプトのファラオは生き神である。ファラオは、カーの唯一の源泉である。ファラオの恩恵に対する「お返しの贈与」が、祭司・戦士・農民に、賦役・貢納・隷属を負担させた。どの権力も、その形成・再生産に必要な「想像上の核」を含んでいる。_046

◆忘れられたモース_047
神々への人間の贈与につき、モースは、富の全てが交換されない事実を暗示した。腕輪と首飾のなかには、譲渡できず、贈与も交換も禁じられた物品がある。財産は聖物(サクラ)であると。_047
贈与できない財は、時間のなかで、相続と定着をする。
クワキウトル族の銅板は、貴族の称号とリンクして、部族のなかにとどまる。

◆贈与できるモノ、保持すべきモノ/ワイナー_048
アネット・ワイナー『贈与できない占有―与えながら保持する逆説』1992で、2つの観念を発展させた。
1つ。贈与と反対贈与の相互作用は、「贈与の経済とモラル」をもつ社会においてさえ、社会の全領域を覆い尽くさない。保持し、贈与できないモノが存在する。貴重品、護符、知識、祭式などである。時間の流れを通じて、根本的にアイデンティティとの連続性を確証する。
それどころか、いち社会を構成する個人間・集団間の、あるいは諸種の交換を通じて、相互に接続された近隣社会の全体のあいだで、アイデンティティの差異をも確証する。_049
階層性の生産と再生産の過程にこそ、与え、かつ保持するという、2つの戦略が、相補的や役割を果たしている。美しく、稀少で、貴重なゴザ・翡翠を、贈与から除外する。

汚く、ありふれた、貴重でないゴザを贈与することで、贈与した相手と結びつき、かつ贈与した相手を突き飛ばす。昨日読んだ、今村仁司『貨幣とは何だろうか』にも、この宙づりが出ていた。媒介するものは、境界線をひきつつ、境界線をのりこえる。

与えられずに保持される、貴重財・宝物・護符は、そのなかに最大の想像上の権力を、したがって最大の象徴的価値を、集中的に凝縮できる、あらゆる好機に恵まれている。_049

2つ。女財のこと。氏族の宝物として、ランクや称号の象徴として聖別された貴重財、結婚・死の儀礼と結びついた、贈与=対=贈与にもちいられる貴重財の大部分は「女財」である。女性が生産し、女性が特別の権利をもつ。
インセストの禁止について、ストロースがした説明は、不充分である。インセストの禁止から、論理的に等価な、3つの可能性をいえる。①男性が自分たちのあいだで姉妹を交換する、②女性が自分たちのあいだで兄弟を交換する、③集団が自分たちのあいだで男女を交換する。ストロースは①に着目したが、これが説明の全てでない。「花婿代償」を支払う民族もある。_051
ヨーロッパでは、③集団のあいだの交換がある。

社会は、譲渡できるもの、譲渡できないもの、という2分野の並置・合算ではない。社会を誕生・存続させるものは、なにか。2つの分野の、結合・相互依存と、しかも両者の差異・相対的自律性である。ゆえに社会は、与えながら保持するのでなく、与えるためには保持し、かつ保持するために与える。与える(与え得る)ために保持し、保持する(保持し得る)ために与える。_053

◆補完的で、別の道を通ってのモース批判_055
モース『贈与論』は、ポトラッチの分析、つまり競覇的な贈与形態の分析である。だが、いちばん忘れられていたのは、モースにとってポトラッチとは、全体的給付の「進化形態」である。競合と敵対の原理が支配する形態である。
ゆえにゴドリエはいう。分析全体の出発点を、ポトラッチ以外に探さねばならない。

進化した後の形態でなく、進化する前の形態を探さねばならない。

モースは、全体的給付の「契約」と、給付が部分的にすぎない「契約」を区別した。交換された贈与と反対贈与が、敵対的形態をとるかとらないかで、全体的給付の2つのカテゴリを区別した。
非敵対的な贈与=対=贈与が、もっとも古い。しだいに、競争的・個人主義的な形態へと進化した。ポトラッチで絶頂に達した。とモースはいう。 非敵対的形態と、敵対的形態をひっくるめて、「全体的給付のシステム」とよんだ。_056

モースのいう全体的給付の、本質的な特徴を確認する。_057
1つ、個人でなく集団が、対面・対峙・対置する。2つ、経済的に有用でないものも交換する。礼儀、祝宴、儀礼、軍事的奉仕、女性、子供、踊り、祭り、市である。3つ、給付と反対給付は、自発的に始まるが、じつは厳格に義務的である。
敵対的であろうが、敵対的でなかろうが、給付が全体的なのは、法的・宗教的・神話学的・シャーマン的・美的な現象だからである。
ゴドリエはいう。モースは、敵対的な贈与に着目したが、敵対的でない贈与を、もっと分析すべきである。_060

◆非競覇的な贈与と反対贈与の例_060
2人の男が、姉妹を相互交換しても、相手への負債を帳消にできない。生きている限り、2人の男は、二重の姻族として、狩猟や塩などの永産物を分与して、ともに開墾する。これは、非競覇的な贈与の好例である。_061
相互交換を履行するあいだ、2人の男は、社会的に対等である。互いに債権者であり、債務者である。相互に不平等だから、ぎゃくに平等になる。ここから、交換(贈与であれ商品であれ)に、2人の個人・集団しか関わらない場合でも、つねに第三者(第三者としての他者)の現存をふくんでいる。交換には、第三者がつねにふくまれる。
再説する。贈与がつくった負債は、同一の反対の反対給付によって、廃棄・消滅しない。なぜか。贈与されたものが、与えた人とは本当に分離せず、完全に切りはなされていないからである。モノは、与えた人によって、真に「譲渡される」ことなく与えられたのだ。所有権を譲渡せず、使用権を譲渡するだけだ。

漫画なら、背景に電撃が流れて、ドドーン!となるべき場面。

グレゴリーが証明したように、商品交換は、取引を終えると所有権がうつる。だが「贈与経済とモラル」の場合は、モノは譲渡されず、贈与者はモノに対する権利を保有し、一連の「利益」を引き出しつづける。

◆与えられた途端の返報(バカげた贈与)_064
贈与物を最初の所有者に戻すのは、「返報」でなく「再=贈与」と考える。モノが無意味に移動したのでない。同一だが反対方向の2つの社会関係がつくりだされ、2つの個人・集団を、二重の相互依存関係に結びつける。同一物の贈与と反対贈与は、「全体的」給付を起動させるための、必要最小限の移動である。_065
非競覇的な贈与と反対贈与からみると、
モースのいうように、モノに霊が宿るという説明は良くない。非競覇的な贈与では、ほんとうに「お返し」がないからだ。

ゴドリエの説明では、贈与者がモノに現存し、モノを通じて圧力をかける。その圧力は「お返しせよ」でなく「再贈与せよ」である。モノのなかには、返報を義務づける機能はない。
たとえば土地は譲渡不能である。用役権は譲れるが、所有権を譲れないとする社会がある。この法規は、利害の規則でもある。土地の用役権を、与え、受け、再び与えることで、パートナーはいずれも、この相互関係から生まれる利益を集積している。
モノの霊とモースが「誤解」したものとは、贈与者の人格が、モノをたえず結びつけている関係の力である。この関係は二重である。贈与者は、自分が与えたモノのなかに現存する。このモノは、彼の人格(身体的および/あるいは精神的〔法人的〕)から切り離されていない。この現存が、権利の力となる。_065
モノや人が与えられても、所有権は譲渡されない。人間の集団、法人格の団体には、譲渡不能なアイデンティティ、存在、本質を構成する現実に、属し続けている。使用権は譲渡できるが、所有権を決して譲渡できない、共有「財」といえる。

以下、各論に入っていくので省きます。20120509