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鄭玄の弟子、曹操の留府長史・魏郡太守の国淵伝

『三国志集解』を見つつ、国淵伝をやります。

鄭玄に師事した「国器」が、遼東でも学ぶ

國淵字子尼,樂安蓋人也。師事鄭玄。

[一]玄別傳曰:淵始未知名,玄稱之曰:「國子尼,美才也,吾觀其人,必為國器。」

国淵は、あざなを子尼という。楽安の蓋県の人。

『郡国志』はいう。青州の楽安国である。益侯国である。 もとは北海に属した。
銭大昕はいう。蓋県は、泰山に属す。楽安に属さない。おそらく「益」の字がおかしい。
趙一清はいう。『漢書』で泰山郡の蓋県と、北海郡の益県がある。字の形が似ているから、混同されたか。
ぼくは思う。だいたい、似たような位置だから、余計にわからん。

鄭玄に師事した。

『後漢書』鄭玄伝はいう。楽安国の国淵と、任カ(人名?)は、童幼だった。鄭玄は、国淵を「国器なり」、任カを「道徳あり」と言った。
ぼくは思う。国淵を「国器」って、言葉遊びじゃないのか。もう1人は「道徳あり」なんて、当たり障りのないことを。まあ、幼児を評価する言葉を、真剣に選んだりしなかろうが。

『鄭玄別伝』はいう。国淵が名を知られる前に。鄭玄は国淵をたたえた。「美才なり。必ず國器となる」と。

ぼくは思う。鄭玄は、六天説を唱えた(らしい)が、政治的には、何もやらずに死んだ。袁紹の招きを拒んだ。もし鄭玄が政治の現場にいたら。というイフ物語は、みんなが知りたいこと。幸い国淵は、鄭玄がほめるタイプの人材で、曹操のもとで政治をする。イフ物語を、実現してくれたに等しい。やったあ。


後與邴原、管寧等避亂遼東。

[二]魏書曰:淵篤學好古,在遼東,常講學於山巖,士人多推慕之,由此知名。

のちに国淵は、邴原、管寧とともに、遼東に避乱した。

ぼくは思う。公孫度が人材を得て、栄えたのは、中原から避難した人材がいたからだ。この点では、孫呉が栄えたのと同じである。
劉虞、公孫瓚、袁紹の争いの被害者が、つまり河北の被害者が、遼東に行った。袁術、陶謙、曹操の争いの被害者が、つまり河南の被害者が、揚州に行ったのと、好対照である。

『魏書』はいう。国淵は、篤學好古。遼東では、つねに山巖で講學した。士人は、おおく国淵を推慕した。名を知られた。

どこにいても、勉強をつづける。鄭玄の学統が、どのように政治に生かされるか。先が楽しみな列伝。短いけどな。


投書に引用された『二京賦』から、筆者をあばく

既還舊土,太祖辟為司空掾屬,每於公朝論議,常直言正色,退無私焉。
太祖欲廣置屯田,使淵典其事。淵屢陳損益,相土處民,計民置吏,明功課之法,五年中倉廩豐實,百姓競勸樂業。

遼東から故郷にかえった。曹操に辟され、司空掾屬となる。公朝で論議するとき、つねに直言して正色である。退いて、私なし。
曹操は屯田をひろく置きたい。国淵に、屯田を典させた。国淵は、しばしば損益をのべ、土地に合わせて人民をおき、人民に合わせて吏人をおいた。功課之法を明らかにした。5年で、倉庫に穀物があふれた。百姓はきそって仕事した。

手柄その1。土地、人民、吏人、の順に規模が決まるのかあ!
武帝紀の建安元年にひく『魏書』はいう。民をつのり、許県のもとで、屯田をした。この記述は、許県だけでなく、州郡に屯田をおいた事例である。


太祖征關中,以淵為居府長史,統留事。田銀、蘇伯反河間,銀等既破,後有餘黨,皆應伏法。淵以為非首惡,請不行刑。太祖從之,賴淵得生者千餘人。破賊文書,舊以一為十,及淵上首級,如其實數。太祖問其故,淵曰:「夫征討外寇,多其斬獲之數者,欲以大武功,且示民聽也。河間在封域之內,銀等叛逆,雖克捷有功,淵竊恥之。」太祖大悅,遷魏郡太守。

曹操が関中に征すと、国淵は居府の長史となり、留事を統べた。

建安16年のことである。
洪飴孫はいう。留府長史は、1人。丞相が兵を領して出征したとき、留事を統べる。曹操が置いた。国淵田では「居府」と記す。
ぼくは思う。洪飴孫は、この列伝からだけ引いて、留府長史を説明している。新しい情報がない。ぎゃくに言うと、留府長史に関する雄弁な記述が、ほかの列伝にあまり出てこないということが、わかるな。

田銀と蘇伯が、河間でそむいた。田銀らをやぶると、国淵は余党1千余人を助命した。
賊を破った文書は、もともと賊の人数を10倍に表記するものである。だが国淵は10倍にしない。曹操が理由を聞いた。国淵が答えた。「外寇の場合、斬獲した人数を10倍に記すのは、武功を大きく見せ、民に示すためである。だが河間は、外寇でなく封域の内側だ。田銀ら、内地の反逆は、結果的には平定したが、反逆が起きたこと自体が恥ずかしい」と。

田銀と蘇伯の叛乱は、常林伝、程昱伝にひく『魏書』にある。

曹操はよろこび、国淵を魏郡太守とした。

時有投書誹謗者,太祖疾之,欲必知其主。淵請留其本書,而不宣露。其書多引二京 賦,淵勑功曹曰:「此郡既大,今在都輦,而少學問者。其簡開解年少,欲遣就師。」功曹差三人,臨遣引見,訓以「所學未及,二京賦,博物之書也,世人忽略,少有其師,可求能讀者從受之。」又密喻旨。旬日得能讀者,遂往受業。吏因請使作箋,比方其書,與投書人同手。收攝案問,具得情理。

ときに、誹謗する投書があった。曹操は気に病んで、投書した人を知りたがった。国淵が投書を見ると、『二京賦』からの引用がおおい。

『三国志集解』は、『二京賦』については注さない。
ちくま訳では、「政治を」誹謗する投書と、文義を補っていた。

国淵は、功曹に命じた。

ぼくは思う。魏郡太守の属官である、功曹。でいいのかな。魏郡太守は、曹操の首都をつかさどる。後漢の河南尹みたいなもの。太守とは言いながら、職務が中央の役割も兼ねるのか。

国淵はいう。「魏郡はすでに大きく、いま都輦がある。だが学問をする人が少ない。若者のなかから、学問の教師を探したい」と。功曹は3人の学問ある人を連れてきた。国淵は3人に『二京賦』に詳しい者に講義をさせ、文書を書かせた。投書とおなじ筆跡の人を見つけた。国淵が詰問すると、「私が投書しました」と白状した。

ある人がいう。曹操は、ひどいことをする。
ぼくは思う。国淵が、鄭玄から直伝の学識をつかった仕事のうち、最高の成果がこれ。つまり、マイナーな書物からの引用を見抜き、学問ある人たちを計略で引っかける。学問する人に特有の「教えたがり」という性質を、逆手にとる。筆跡を比べるという、「文化的な」捜査方法で、不必要な拷問を回避する。
なんか、セコいなー。投書の内容を吟味して、必要であれば政治を改めろと提案する。これが、本当にやるべきことじゃないのか。魏郡太守のくせに、セコいよ!


遷太僕。居列卿位,布衣蔬食,祿賜散之舊故宗族,以恭儉自守,卒官。

[一]魏書曰:太祖以其子泰為郎。

太僕にうつる。九卿だが、衣食は質素。祿賜は、舊故・宗族に散じた。恭儉をもって自守した。卒官した。
『魏書』はいう。曹操は、国淵の子・国泰を、郎とした。

国淵は中尉となった。国淵の子が郎となった。文帝紀の延康元年にひく『丁亥令』に見える。


おしまい。鄭玄の六天説のごとき「思想」は、政治には役立ってない。もし六天説が政治に役立つなら、もっと国淵は、著作をもって褒められるべきだ。それを、学問で身につけた小手先のスキルで、実務を巧妙にこなした。曹操の、現実的なニーズ(屯田を増やしたい、叛乱を鎮めたい、誹謗した人を見つけたい)にばかり、ご奉仕した。やや賢い小役人である。
曹操の信頼はあつい。関中に遠征するときは、留守を任される。実質的な首都・魏郡を任される。曹操に重んじられるには、手先だけの人間がぴったりなのかな。
学問で名を知られ、鄭玄の弟子でも、この程度か。ガッカリした。120407