一次史料の至上主義から自由になる
金子拓『記憶の歴史学(史料に見る戦国)』講談社選書メチエ2011
地の文が本の抜粋、枠内の文がぼくの感想など。
005_はじめに
歴史は人間がつくる。人間は、結果から因果関係をさぐる。証言やデータから、因果関係の解釈に説得力をあたえようとする。つぎに解釈が検証にさらされ、整合的で納得されるものが、歴史として共有される。「過去に関する単なる事実」に、解釈と言語化をくわえたのが「歴史的事実」だ。
007_第1章 史料学と記憶
記憶と歴史を、対立させて捉える人がある。「私」の記憶と、「公」の歴史という対立構図だ。マルクス主義歴史学の「大きな物語」が消滅し、おおくの「小さな解釈」が成立したという。
だが対立でない。大きな公的な歴史は、小さな私的な記憶から生まれる。個々の記憶を史料のひとつとして、歴史は叙述されている。
ある史料ができあがるとき、人間の記憶がどのように作用したかを考えると、あらたな歴史解釈への可能性が生まれる。疑う必要がないとされた一次史料も、あやういことがある。
一次史料と二次史料がある。
一次史料は、書信、命令書、日記。日付、出した人、受けた人がわかる。同時代性が一次史料の要件。書き方、体裁、筆づかい、料紙や墨、折り方や封の仕方、料紙の利用方法、仕立て方などが、モノとしての情報を提供する。
二次史料は、一次史料を筆写して、もとの一次史料が失われたもの。写した人の立場、動機がわかり、べつの一次史料と整合すると、たとえ同時代性に欠けても一次史料の準じるとされる。後世の編纂物、軍記や物語のような著作物、系図や由緒書のような伝記史料は、二次史料。
網野の定義する史料学は、生成論、機能論、伝来論がある。つまり史料が作成される諸要素、時間・場所、意図・目的、手続・様式、生活・社会のなかで果たす機能、伝来する過程をたどることだ。
一次史料至上主義は良くない。偽文書にも機能がある。二次史料から、後世人が書きとめた記憶がわかる。
「集合的記憶」とは、ある人間集団に共有された歴史認識。日本史の由緒論。近世のイエや村が、特定の政治権力との関係を起点として、自身を正統化するときの由来・自由。
どんな人が、過去の戦争に言及するか。どんな場面で、過去の戦争に言及するか。戦争を記録するのは、現実的な利点があるから。作成主体の意識が、過去のできごとを取捨する。集合的記憶は、再構成される。後世の歴史家が、時代相を叙述する。記憶が史料をつくり、史料が記憶をうみ、歴史に変じる。
025_第2章 記憶と史料と歴史のあいだ
『兼美卿記』は同時代史料。だが日記にあるのが、筆者の行動の全てでない。筆者の記憶から抜けた、筆者が書かぬと判断した、など。書かない理由は明らかにならない。『兼美卿記』は、天皇にこっそり筆写させてもらった本のことを書かない。筆写した本が伝わっているのに。
『信長公記』は、織田信長の神社の行事への参加を書かない。神社側は、接待費用の記録があるのに。『信長公記』の筆写が、行事に出席しているのに。一次史料のあいだの矛盾を、埋めることができない。
昭和の役者・ロッパは、葬儀での罵倒を日記に書かない。
『甫庵信長記』は『信長公記』を膨らました本。著者が『信長公記』の37歳下。大久保忠教はいう。『甫庵信長記』は3分の1が史実、3分の1が史実に類す、3分の1が全くの虚構と。
だが『甫庵信長記』も同時代史料である。『甫庵信長記』を読んだ太宰春台が、父から聞いた挿話を筆者に教えて、平手政秀の自殺が『甫庵信長記』に取り込まれた。複数の人の記憶が媒介となり、『甫庵信長記』の記述に入った。過去に関する単なる事実と、歴史的事実のあいだに、記憶がある。
065_第3章 歴史をつくった記憶
『信長公記』を記した太田牛一の著作には、手ですり消した訂正のあとがある。加筆した結果、ほかの一次史料と食い違った例がある。ページを切り貼りして誤る。
細川ガラシャの自殺には、太田牛一の筆すべりがありそう。キリシタンのガラシャが「南無阿弥陀仏」といい、牛一が「天道は恐ろし」とコメントする。
ガラシャの自殺は、ガラシャの侍女が48年前を思い出し、主君(ガラシャの孫)のために証言した史料。細川家が神聖化したガラシャ像が広まった。他の史料と異同がある。侍女のなかで記憶が変質したリスクがある。記憶にたよる史料は不安定。
110_第4章 記録と記憶
記憶は後から再構成される。リアルタイムで見ていない長嶋選手を思い出せる。できごとから日記を書くまで、時間的距離がある。翌日に書く、まとめて書く、面倒になってはぶく。事件が起きてから、書き始める。記憶と編集のバランスは、つねに変化する。日記の空白期間を、史料と見なせる。病気だと飛ぶ。
『兼美卿記』は天皇の譲位をこまかく書く。子孫のために残す。重要なことがあると、前後の記録をつける暇がない。
ロッパは病気で意識不明の期間を、周囲にきいて補った。
永井荷風は、特高を恐れて、みずから日記を改竄した。戦後に、日記を改竄前に復元した。かつて書いたはずの日記に関する記憶と、日記のもとになった過去のできごとが混ざる。
『兼美卿記』は書き直され、ダブルに残っている部分がある。ページや冊子が切れたので、作り直した。子孫のために、より良い文章に直した。見せ消した。後日の落ち着いた目で、本能寺の変を整理した。
181_第5章 覚書と記憶
近世は覚書の時代。高柳による覚書の分類。
自分の備忘、自己の体験の記録=見たもの、他人の体験の記録=聞いたもの、他人の書記の記録=読んだもの、自己と祖先の体験の記録、子孫のための記録、主人のための記録、子孫と主人以外の他人のための記録、事件の重要な当事者としての記録、子孫による祖先の戦功の記録、他人の話の記録。
上杉家の集合的記憶。記憶された戦争と、記憶されない戦争がある。従軍を記録しても利点がないから、記録されない戦争がある。藩命で家臣たちが編纂してきた歴史、歴史がつくる「記憶」がある。
『先祖由緒帳』を検討するなら、書かれていることが事実か否かは問わない。上杉家臣の各家にどのように先祖の功績が伝えられ、表現されたかを考える。
秋田藩は、初代が奮戦した1日の記憶を、記憶によって支えた。記憶を、自分が属する集団の誇りとした。
221_第6章 文書と記憶
関係する文書はまとまり、文書群となる。文書群は記憶(生物学的記憶) を伝え、「記憶」(社会的記憶) をつくる。
文書は家の「記憶」である。文書が移動すると、歴史も移動する。家の嫡流と庶流で文書をとりあうと、藩権力が介在して、どちらが文書を持つべきか判定する。秋田藩の岩屋家の文書は4冊に分かれている。とりあいの結果。
「偽作の可能性が高い文書・系図・冊子をもち、みずからの由緒とは無関係の文書をあつめる疑わしい人物」が、藩に叱られて、文書を没収された。藩に文書を持たせてもらった当主が逐電すると、さらに系図が改変された。
記憶・伝承は、再構成される。
読後の感想
『三国志』を読むとき、『記憶の歴史学』をどのように反映できるか。
佚文の収拾に深く関係しそうだが、、それは学者にやっていただくとして、ぼくは入手が容易なオープンソースのもので、楽しむつもりです。今回の読書により、妄想するとき、疑える切り口が増えた。
事実が史料に落としこまれる間に、何か改変があったのではと。故意の改竄かも知れないし、ただの忘却や覚え違いかも知れない。わざと書かなかったかも知れないし、アクシデントで書きそびれたのかも知れない。
『三国志』という二次史料が成立するあいだに、一次史料が、どう読まれ、どう写され、どう伝わり、どう評されたか。三国と西晋のなかで、いろんな変化があったに違いない。
陳寿は同時代人だから、体験した話、見聞きした話も、編集方針に影響を与えただろう。サイエンスとして論証するのは難しい、っていうか無理だけど、想像をたくましくできる。
記録や歴史が、記憶をつくるという、逆ベクトルの話は、裴松之の時代までに蓄積された史料について、推測をはさめそうだ。
『記憶の歴史学』の著者は、たびたび自制してた。言っても仕方ない、学術的でない、ゴシップに過ぎる、これだけでは判断できない等。記録だけでなく、記憶までを検討の対象にすると、サイエンスでは、どうにもならない推測の領域が増えてゆく。信長の神社行事の件は、けっきょく仮説すら出なかった。『兼美卿記』の書き直しは、本能寺の変の陰謀説とからんで議論されている。作家?の、桐野作人氏の話が、マジメ?に扱われていたりした。
記憶と歴史の関係は、小説めいた解釈をするとき、強力な武器になるなー。とくに『三国志』は一次史料に恵まれないから、やりようがある。111221