表紙 > 曹魏 > 烏丸の王に、袁紹から曹操への正統交代をとく牽招伝

牽招伝(曹操の代まで)

『三国志集解』を見つつ、牽招伝をやります。

泣いて、友人のひつぎを守りぬく

牽招字子經,安平觀津人也。年十餘歲,詣同縣樂隱受學。後隱為車騎將軍何苗長 史,招隨卒業。值京都亂,苗、隱見害,招俱與隱門生史路等觸蹈鋒刃,共殯斂隱屍,送喪還 歸。道遇寇鈔,路等皆悉散走。賊欲斫棺取釘,招垂淚請赦。賊義之,乃釋而去。由此顯名。

牽招は、あざなを子經という。安平の觀津の人。

『郡国志』はいう。冀州の安平国である。
ぼくは思う。田畴、田豫つながりで、幽州人をやりたかったのに。まあいいや。

年10餘歲のとき、同県の楽隠とともに、学問を受けた。のちに楽隠が、車騎將軍の何苗の長史となった。

何苗は、何進の兄弟。何進が袁紹たちを集めたように、何苗も人材を集めていた。学問をやり、かつ豊かな冀州の出身だから、洛陽にいく機会もある。田畴と田豫とは、ちがうらしい。

牽招も楽隠にしたがい、学問をおえた。
洛陽がみだれ、何苗と楽隠が殺された。牽招は、楽隠の門生・史路らとともに、楽隠の遺体を故郷におくった。賊から、楽隠のひつぎを守った。賊がひつぎのクギを盗もうとするので、泣いて赦しを請うた。牽招は、名を知られた。

ぼくは思う。逸話のタイプが、袁紹の系統だ。党人たちに通じる。さすが、洛陽に出入りしている人は、ちがうなあ。こういう行動の1つ1つに、都会っぽさ、儒学っぽさが、にじみ出る。何進や何苗は、こういう名声の持主たち(およびその予備群)を招いたのだ。
盧弼はいう。賊は、ひつぎのクギをぬき、棺の内容物を盗もうとしたのだ。


袁紹に辟され、袁尚のために奔走する

冀州牧袁紹辟為督軍從事,兼領烏丸突騎。紹舍人犯令,招先斬乃白,紹奇其意而不 見罪也。

冀州牧の袁紹は、牽招を辟して、督軍從事とした。あわせて牽招に、烏丸突騎を領させた。

牽招が辟された意義は。袁紹による、任地での人材登用だ。州牧としての権限で、現地の士人をひっぱりあげた。
袁紹の配下を2つの派閥に分け、ふるい知人と、現地の士人とすると、牽招は後者である。沮授や田豊に似ている。牽招は、儒教の名声がある。袁紹が目を付けたのは、もっともだ。直線的に史料を読めば、学友のひつぎを守ったことが、袁紹の耳に入ったのだろう。袁紹は何進の人脈である。何苗の属官の話を、知っていてもおかしくない。
ところで、牽招は、なぜ烏桓突騎なんて担当したんだろう。いままで、軍事の功績が出てきていない。なんとなくの抜擢? のちに牽招が、曹魏のために活躍したのは、袁紹が特技を開発したからだ。

袁紹の舎人が、令を犯した。牽招は、さきに舎人を斬ってから、袁紹に報告した。袁紹は、牽招の意図を奇特だとして、牽招を罪しなかった。

ぼくは思う。法令のゆるさが、袁紹の特色。牽招は、袁紹の弱点を知っているから、わざと事後報告にしたんだな。袁紹が、さっそく牽招を使い切れてないのが、わかる。


紹卒,又事紹子尚。建安九年,太祖圍鄴。尚遣招至上黨,督致軍糧。未還,尚 破走,到中山。時尚外兄高幹為并州刺史,招以并州左有恆山之險,右有大河之固,帶甲五 萬,北阻彊胡,勸幹迎尚,并力觀變。幹既不能,而陰欲害招。招聞之,閒行而去,道隔不得 追尚,遂東詣太祖。太祖領冀州,辟為從事。

袁紹が死に(202)、牽招は袁尚につかえた。

ぼくは思う。官渡のとき、何をしたのか書いてない。袁紹は、全軍で曹操と戦ったわけじゃない。局地戦で負けた。牽招のような冀州人士は、袁氏を支持しつづけたようだ。田豊と沮授が死んでしまい、張郃らが裏切り、さみしくなるが。ちゃんと冀州の人士は、袁氏に仕えている。

建安九年(204)、曹操が鄴県をかこんだ。袁尚は牽招を上党にゆかせ、軍糧をもとめた。牽招がもどる前に、袁尚がやぶれた。牽招は、中山ににげた。

ぼくは思う。軍糧の使者になるとは、牽招は袁尚から、すごく信頼が厚いことがわかる。もし、鄴県の陥落に立ち会っていたら、抜き差しならないこと(戦死するとか)になってたかも。だって、友人のひつぎを、命と涙にかけて、守るような士人だから。
中山に逃げている(曹操に降伏してない)ことからも、その予想がたつ。

ときに高幹が、并州刺史である。牽招は高幹に「并州の地勢と兵5万をつかい、袁尚をむかえ、様子を見よう」といった。高幹は袁尚をむかえず、牽招を暗殺しようとした。

高氏の高幹が、どれほど袁紹のために動いたか。どれほど袁氏から自立していたか。確認しておきたいなー。高幹は、袁尚が負ける前まで、「兵糧を支援する」と応じたはずだ。でなければ、牽招が大人しく帰らないはずだ。だが、袁尚が鄴県を失った途端、袁尚の腹臣・牽招を殺そうとするありさま。袁紹が河北を固めるためには、あと1人、男子が必要だったなあ。
牽招は、かなり袁尚のために立ち回り、万策つきるまで、諦めなかった。この人情の厚さが、当時の士人らしい。

牽招は逃げた。袁尚には追いつけない。東して、曹操に詣でた。 曹操は冀州を領しており、牽招を辟して従事とした。

『御覧』409『孫楚牽招碑』はいう。はじめ牽招と劉備は、河朔の英雄だった。刎頸の交をむすんだ。のちに牽招は、曹操にしたがった。劉備と曹操が鼎立すると、牽招は酒を飲むごとに、季孟之間を損ねたことを忌んだ。
ぼくは補う。『論語』が出典でいいのか? 季孟之間とは、末子と長子のあいだの待遇。つまり、曹操と劉備のあいだぐらいの英雄になれなかったことを、悔やんだのか?
ぼくは思う。袁紹に辟されて、袁氏のために働いた牽招。曹操は、牽招をみずから辟して、曹氏のために働かせるのだ。


袁氏から曹氏への交代を、烏丸に説く

太祖將討袁譚,而柳城烏丸欲出騎助譚。太祖以招嘗領烏丸,遣詣柳城。到,值峭王 嚴,以五千騎當遣詣譚。又遼東太守公孫康自稱平州牧,遣使韓忠齎單于印綬往假峭王。峭 王大會羣長,忠亦在坐。

曹操は袁譚を討とうとすると、柳城の烏桓がでてきて、袁譚を助けようとする。曹操は、牽招がかつて烏桓をひきいたので、柳城に行かせた。柳城で牽招は、烏桓の峭王・嚴とあった。

『三国志』烏丸伝はいう。遼東属国の烏丸の大人・蘇僕延は、1千余落をひきい、峭王をとなえた。袁紹は、峭王に印綬をあたえ、単于とした。「厳」とは、つぎの文に省略された「厳騎」のこと。?
袁紹は、ちゃんと烏桓を「封建」してた。リッパ!

烏桓の峭王は、5千騎を袁譚におくるところだ。
また遼東太守の公孫康は、みずから平州牧をとなえる。

洪亮吉はいう。建安12年(207)、曹操は幽州を平定した。謝鍾英は建安10年という。ただ遼東や楽浪ら5郡は、公孫度がよる。『晋書』はいう。後漢末、公孫度がみずから平州牧をとなえた。公孫康、公孫淵も、遼東をきりとった。曹魏は、遼東、昌黎、玄菟、帯方、楽浪の5郡を、平州とした。のちに幽州にあわせた。
呉増僅はいう。蒋済伝にひく司馬彪『戦略』はいう。太和6年、明帝は平州刺史の田豫に、海路から遼東を攻めさせた。田豫伝によれば、太和末、田豫は、烏丸校尉を本官として、青州兵を督した。
(盧弼は考える。田豫は汝南太守として、青州兵を督した)
田豫伝では、平州刺史として、遼東を討ったと記さない。
謝鍾英はいう。遼東5郡は、公孫淵がよっていた。平州牧は、遙任である。のちに、平州の長官は置かれていない。
ぼくは思う。公孫氏が勝手に名のった「平州」を、どうして曹魏も使ったのだろう。霊帝の無上将軍も、センスがなかったけど。ネーミングには、敵味方をこえた、約束事があったのか。遼東あたりを「平州」としたくて、仕方なくなる理由が。

公孫度は、韓忠に単于を印綬をもたせ、峭王に假した。峭王は、羣長をあつめ、韓忠も座らせた。

胡三省はいう。烏桓の部落には、それぞれ「君長」がいる。
つまり、民族の代表らを集め、ディベート大会がはじまる。


峭王問招:「昔袁公言受天子之命,假我為單于;今曹公復言當更 白天子,假我真單于;遼東復持印綬來。如此,誰當為正?」招答曰:「昔袁公承制,得有 所拜假;中間違錯,天子命曹公代之,言當白天子,更假真單于,是也。遼東下郡,何得擅稱拜假也?」忠曰:「我遼東在滄海之東,擁兵百萬,又有扶餘、濊貊之用;當今之勢,彊者 為右,曹操獨何得為是也?」招呵忠曰:「曹公允恭明哲,翼戴天子,伐叛柔服,寧靜四海, 汝君臣頑嚚,今恃險遠,背違王命,欲擅拜假,侮弄神器,方當屠戮,何敢慢易咎毀大人?」 便捉忠頭頓築,拔刀欲斬之。峭王驚怖,徒跣抱招,以救請忠,左右失色。招乃還坐,為峭 王等說成敗之效,禍福所歸,皆下席跪伏,敬受敕教,便辭遼東之使,罷所嚴騎。

峭王は牽招に問うた。「むかし袁紹は、天子の命を受け、わたしを単于に假した。いま曹操も、天子の命を受け、わたしを単于に假すという。遼東も、印綬を持ってきた。どれが正しいのか」

ぼくは思う。「絵」として面白いだけでない。袁紹と袁尚に全力で仕えた牽招に、「袁譚か、曹操か」という質問をしているのがおもしろい。いま烏桓は、いまにも袁譚を助けそう。もし牽招が、ここで「袁氏が正しい」と言えば、袁氏が盛り返すかも知れない。そういう、現実を変える決定権を持ったシーンだ、というのがイイ!
ところで袁紹は、いつ天子の命を受けたの?

牽招は答えた。「むかし袁紹は承制し、単于の印綬を、假す権限があった。中原で、曹操が袁紹に代わった。遼東はニセモノだ」と。

袁紹は、いつ天子の命を代行(承制)できたんだろう。冀州牧として?

韓忠が「曹操より公孫度が正統だ」といったので、牽招が韓忠を殺そうとした。峭王が牽招をなだめた。韓忠は遼東にひっこみ、烏丸は袁譚の救援をやめた。

ぼくは思う。牽招は、袁紹の顔をつぶさず、しかし現在は、曹操が正しいとした。曹操が袁紹の後継者だと、「公式」に「外交」の場で発言した。『魏書』に、ちゃんと載った。


袁尚の首を祭り、督青徐州郡諸軍事

太祖滅譚於南皮,署招軍謀掾,從討烏丸。至柳城,拜護烏丸校尉。還鄴,遼東送袁尚 首,縣在馬市,招覩之悲感,設祭頭下。太祖義之,舉為茂才。從平漢中,太祖還,留招為中 護軍。事罷,還鄴,拜平虜校尉,將兵督青、徐州郡諸軍事,擊東萊賊,斬其渠率,東土寧 靜。

曹操が南皮で袁譚をほろぼすと、牽招を軍謀掾として、烏丸の討伐にしたがえた。柳城にいたり、護烏丸校尉を拝した。鄴県にもどり、遼東が袁尚の首が届くと、牽招が祭った。

ぼくは思う。牽招から見ると、袁譚でなく、袁尚が袁紹の後継だ。袁譚はザックリ斬るが、袁尚の首を祭る。ということは、もし烏丸の峭王が、袁譚でなく袁尚の援軍に行こうとしていたら、、牽招は何と言っただろう。ちゃんと「曹操が正統だ」と言ったのかな。個人の胸の内の話だが、五分五分だったんじゃないか。笑

曹操は、袁尚を祭る牽招を義とし、茂才にあげた。

ぼくは思う。曹操は牽招を、袁氏から曹氏に移すために、茂才に挙げたんだ。曹操から見れば、なんで政敵の首を祭った行動が「義」なものか。建前だけは分かったふりをして、「牽招を罰さず」くらいが、妥当な落としどころだ。それを、わざわざ茂才にあげたのは、牽招に恩を売るためだ。推挙の恩は、すごくでかい!牽招をしばる!

漢中の平定に従軍し、曹操がもどったあと、中護軍として漢中にとどまった。漢中戦がおわり、鄴県にかえった。平虜校尉を拝し、督青徐州郡諸軍事となる。東萊の賊を討ち、渠率を斬り、東土が寧靜となった。

以降、曹丕の時代なので、おわりです。
牽招が、袁氏を慕いつづけた。曹操がそれをジャマするために、辟したり、茂才にあげたりした。というのを確認できた。漢中戦は、一瞬だったなあ。120406