表紙 > 読書録 > 小尾孟夫『六朝都督制研究』序章+曹魏

軍制史研究の現状と課題+曹魏

小尾孟夫『六朝都督制研究』溪水社、2001
の読書メモです。まとめるのでなく、ダラダラと引き写しながら、問題関心を整理していくという作り方です。ろくな考えもなく、筆写しているところばかり。自分用メモとしては、超有用な予定! 敬称略です、すみません。

1節 六朝軍制史の研究動向を概観する

都督制は、軍制にかかわる。
浜口重国にはじまる。兵源、徴兵、兵農一致か、兵戸制、兵士の身分、唐代の身分低下。「後漢末 曹操時代における兵民の分類について」(『秦漢 隋唐史の研究』上巻1966)。同じころ、何茲全が、兵源を論じる。越智重明「領軍将軍と護軍将軍」(『東洋学報』44-1、1961)のみ。中央軍(禁軍、宿衛軍)はこれだけ。
厳耕望『中国地方行政制度史』1963は、地方を論じた早いほう。越智氏は、南朝の地方支配から、中央から独立しそうな、州鎮機構をあつかった。

厳耕望氏、越智氏に読むべきタイトルがおおい。004ページ。

50年代、宮川尚志が、南朝の軍隊の 兵士の統率をあつかう。軍隊組織で、魏晋の専論はない。越智氏は、『魏晋南朝の政治と社会』『魏晋南朝の貴族制』。60年代、川勝義雄が、地方軍府の分裂と、庶民の台頭をいう。

1954 川勝義雄「曹操軍団の構成について」は、曹操が 武装豪強集団の複合体であるという。任侠的結合。結合のもつ 遠心的・分散的性格が、六朝の分裂時代を先どった。集団社会学。

後漢末を、魏晋の前史として見なければいけないから、こういう「視野の大きな」議論になるのだろう。研究の宿命だけれど、ミクロとマクロの眼鏡を、自在にかけ換えたい。川勝氏ももちろん諒解済のことだろうが(言うまでもない)、曹操の時点で、魏晋の分裂が予想されてたわけじゃないから。
例えば、後漢末を凝視したら、「豪族が弱くなっちゃった」という結論が出てもいいじゃないかと。魏晋貴族のルーツを探すため、「後漢末には豪族が強くなった」という結論が望まれる。予定調和的に。でも各論では、必ずしもそうでないかも知れない。結論から先取して歴史を見るのは、後世の結果を「必然」と見るに等しい。歴史への眼差しとして、「必然の積みかさね」と考えるのは、つまんないぞ、それはちょっと違うぞ、と。川勝氏と関係ないことを書いてしまった。

菊池英夫があるが、六朝軍制史は研究がおおくない。中央官、貴族制研究との交流をすべき。地方の軍制から、六朝貴族制国家の支配体制を明らかにする。

越智重明「領軍将軍と護軍将軍」に依拠して、中央と地方の軍事組織をみる。
中央は、領軍将軍と護軍将軍がひきいる。領軍将軍は、城内軍(中軍)をひきいる。護軍将軍は、城外軍(外軍)をひきいる。
▽領軍将軍は、中軍(五校、武衛、中塁)、二衛、驍騎、左右前後をひきいる。これらは、宿衛軍として、殿中の直衛、宮門、洛陽城を警備する。外軍とともに外出する。
▽護軍将軍は、外軍(兵員は少ない)、地方軍を支配。南朝に恒常化。護軍将軍の人事は、領軍将軍がつかむ。領軍の支配は、州鎮支配体制と、皇帝側近の寒人にさまたげられる。
都督中外諸軍事があり、全中央軍をおさえる。都督中外諸軍事が、領軍将軍と護軍将軍をおさえるはず。未解決。
兵戸制は、南朝宋まで存続。南朝で、官による募兵にうつる。八王までは兵戸がおおい。兵種は宮川いわく、水、歩、馬。

魏・西晋は、民政と軍事をわける。刺史は、太守と県令を統率し、民政をする。将軍をおもな州に派遣し、都督州諸軍事の職務で、軍事をさせる。戦争が刺史に軍事をもとめたので、刺史が将軍号をおびた。西晋末に、兼務が顕著になる。

本来の定義による刺史は、民政の担当であり、軍事をやらないのね。まあ、「本来の定義」の定義が、よく分からないのだけれど。

浜口いわく、刺史の兵権は、南北戦争と豪強制圧のため。刺史と将軍があわさったせいで叛乱し、君主をおびやかす。
民政と軍事をどちらもやる支配機構を「州鎮」といい、着任者を「州将」という。府官の長史が、州官をさしおき、府と州の次官につく。府官が、管内の太守や県令にもなる。府主と府官の結びつきは戦争のため。官僚統制をみだす。
越智はいう。州鎮の官僚機構が、自律・独立する傾向がある。州将が部下に恩恵を与えて結合し、かつ任地の豪族を起用する。部下のほうが豪族より、自律・独立をうながす。

2節 六朝時代における都督制研究の現状と課題

「都督(監、督)、、州(郡)諸軍事」をさす。州都督制は、厳耕望『中国地方行政制度史』がはやい。秦漢から隋唐への過渡期が、魏晋南北朝の地方行政制度。漢と魏晋のちがいは、軍事統制の地方官化=州都督制。

漢代には、都督制がないもんなー。袁紹とか士燮のあたりの史料をどう扱うのか。これから読むので、楽しみにしておこう。

都督区が明らかにされた。魏晋に、州都督の管轄範囲はひろがる。都督区は、二重、三重に設定される。
魏・西晋で、刺史と都督は別人。都督が刺史を上まわる。州都督(・刺史)、州刺史、郡太守、県令、の4級制となる。州都督・刺史は、将軍開府による府佐、刺史のもつ州佐の2系統の官吏をもてる。

曹魏で州都督は、1~3州を統属する。べつの刺史が民政した。刺史は都督から独立した。おなじ城にいたから、不仲だった。西晋末になると都督がつよまり、刺史の進退をにぎる。
越智いわく、刺史が将軍号をおびて軍府をひらくと、刺史は民政する州官のほかに、軍事の府官をもてる。2系統の支配をするのが州鎮。治民+武将の刺史を、州将という。州将は自州のほかを、属州の刺史をつうじて支配する。州将と属州の刺史は、個人の精神的な服属関係。
厳耕望は、都督や刺史が権限をえた理由にふれない。越智は、地方統治の必要性だとする。内乱を防ぐとか。小尾氏の課題。

州都督制と将軍制との関係。後漢のとき、軍隊を統率するなら、常官としての将軍号をおびた。州都督制とかぶる。
越智は「四征」将軍と、州都督の関係をいう。「四征」将軍には、四征、四鎮、四安、四平、征東大将軍などをふくめる。西晋のとき「四征」将軍は、州都督を支配した。東晋よりのち「四征」が虚号になった。州都督がつよまった。小尾氏のテーマは、州都督が官品をもつ独立した官であるか。

竹園卓夫「魏の都督」はいう。曹操がおいた四征や四鎮は、曹丕の魏王就任~黄初に、州都督制に結合した。 魏内部に、州都督が独立しておかれた。四征、四鎮と併置された。四征、四鎮より下位の将軍号と、州都督がむすびついた。州都督が黄初三年に制度化されたのはなぜか。四征、四鎮が州都督となり、平時の防備、兵の直接支配をやろうとした。

越智はいう。四征が東西南北に固定した管轄をもつのは、西晋でなく曹魏だ。「四征」の虚号は、すでに西晋でおこった。「四征」が都督号をもったからだ。「四征」は、有事に州から召兵できず、平時に州の兵権をもたない。「四征」と刺史を兼務しないと、内外と戦えない。
魏初、「四征」は二品だった。魏末、二品~三品。「四征」が魏代に低下した。西晋になると、「四征」は虚号になった。都督はもともと多数の兵をもたない。晋代よりのち州都督は、刺史の軍兵を指揮し、財政をみるもの。
竹園はいう。魏代に「四征」が州都督を兼ねるとき、州都督が制度化され、兵戸制度にもとづく、中央常備軍と地方駐留軍と州郡兵を統括する。

このへんで、議論が煮詰まってゆく、、と。


◆「四征」や州都督の起源
石井仁「四征将軍の成立をめぐって」。「四征」の始まりは光武帝。雑号将軍と区別された。後漢の極末、州牧による地方軍鎮体制の導入、群雄割拠の情勢から、増設された。征討・軍政司令官の価値はおちた。三国以降は、実質でなく権威の象徴。曹魏では、唯一の征討・軍司令官でない。州都督に地位をうばわれ、ほかの将軍号に埋没する
石井仁「都督考」。原初の都督は、後漢末の諸軍閥のなかにある。監軍職。設置単位の将兵の軍令違反を摘発し、処断する軍事司法職。曹魏の都督は、監軍職の発展型。州都督制は、後漢の牧伯制を克服し、郡県支配の場に、あらたな軍政支配の秩序をつくるため生まれた。

「克服」ってなんだろう。石井先生の論文、読んだはずけど、ちゃんと血肉化されてない。やりなおそう。

石井はいう。将軍号は統帥権の掌握をさす。都督は監軍職

中国の研究、陳仲安「都督散考」。都督は2種類。1つ、軍区をもたない偏裨将領(副将)としての、普通都督。後漢末、曹魏の史料に起源がある。2つ、軍区を管轄する全軍統帥としての、持節都督。起源を、前漢の御史にはじまる、督軍にもとめる。後漢に、御史が州郡兵を督して叛乱をしずめる御史督軍の制度となる。後漢後期、御史のほか、中郎将の督軍もある。さらに軍区を管轄する、督軍もあらわれた。
建安二年、朝廷任命による軍区都督があらわれた。夏侯惇が建安二一年に26軍を督したところが、起源でない。

197年って、なんだっけ。弱小の曹操軍が、何をやったところで、関係ないのだ。笑

曹魏の内地都督、東晋南朝の揚州と荊州の都督区。曹操は、みずからの統治区域を都督区に再編成した。建安初にはじめ、五都督区がつくられた。三国では、はじめ辺境に都督区をおくが、司馬氏が内地にもおいた。内地に、司馬氏の宗族をおく。洛陽も辺境もまもった。西晋は八都督区。東晋は九都督区。

曹操の五都督区を、ぼくは分かっていない。ダメじゃん。

軍事区画の都督区が、州軍県の上にできたのが、影響大。

陳琳国はいう。都督は、曹操の兼併戦争のとき、必要に応じてできた。特定の歴史条件のもとで、都督が生じた。都督制は、豪強武装を中央軍に転じさせる。私人の家兵を、国家の士兵に転じさせる。地方勢力を抑制する。

「特定の条件」で起きたことを、おおきな文脈にあてはめるのが、先行研究の仕事だったんじゃないのか。個別論だけなら、誰でもいえる? べつにいいけど。
都督制のねらいは、豪族の抑制だと。うーん、考えたい!

都督制は、曹丕の黄初元年に定型化した。定型化の目安は、職掌に規定があり、管轄地域がかたまること。都督が中央集権を強めたのは、3つの点がある。(1) 都督の人選で、宗室や重臣をおける。(2) 辺縁に重点をおく。(3) 都督を規制する;出兵、募兵、軍師派遣、佐吏の中央任命、都督の転任、人質。
西晋に、中央軍が地方軍に転じる。中央政権をそこなう。東晋になると都督は、門閥豪族の武装、私的な部曲となる。

中央集権のために置いた都督が、矛盾して、中央と対立しましたと。


姚念慈はいう。建安のとき、豪帥に対する規制とその利用、州軍を統括し、地方に対する規制をつよめるため、州都督制がうまれた。

先行研究はみんな、曹操が頴川におちつき、四方を平定しはじめたところに、スタートをおく。190年代前半ならば、史料はろくにないけれど、やりようがあるかも? 石井先生の論文で「監軍」のふるまいを見て、考えてみよう。

姚念慈と邱居里はいう。西晋前期、なぜ州都督制が、政権強化と全国統一に役立ったか。八王の乱後、いかに中央と対立したか。
▽西晋前期までの州都督制がうけた制約。都督区画の調整、軍司の設置、州都督の権限など。州都督の権限は、統率下の将領の任免権がない、軍隊の屯田や供給を直接支配しない、軍隊の派遣は朝廷がきめる、刺史や郡守と隣接する刺史に監視される。
▽西晋の州都督制の変化。中軍の崩壊、州都督が大量の親兵をもつ、咸寧三年に王が出鎮して僚属を自辟した。
▽八王での変化。辺境の州都督や州牧が中央から自律した、内地の州都督も洛陽を無視った、州都督が刺史を駆使するようになった、諸王が軍司を自辟した。東晋になると、州都督は官吏を任免できるようになった。

張焯はいう。曹魏都督制のもとは、後漢の督軍制。後漢では、御史や謁者が臨時の指揮官。地方の軍隊を組織し、監督して、秩序を回復した。督諸郡軍事から、督数州諸軍事へ。臨時から固定へ。後漢の前中期は、中央集権を維持した。後漢末は、地方軍閥が中央とぶつかる。歴史的使命をおえた。曹魏の統一戦争のとき、都督制が中央集権をつくるために登場。
後漢末に、官名、職責それぞれを表す「都督」の呼称が出現。都督制度の先がけ。曹丕の黄初二年、官名=都督、職責=督軍、というありかたが都督の職掌となる。定型化した。西晋初に完備された。曹魏の前中期は発展段階だった。

薛軍力はいう。後漢末でなく、漢魏革命の曹丕のとき、都督制がはじまる。曹丕は、曹操が留屯軍を地方においた方法をつかい、都督を設立させた。司馬氏が曹氏を弱めるため、中軍をふやし、都督区を1州にちぢめた。全州に都督をおき、統一に役立てた。内州都督と外州都督にわかれることで、内外どちらも司馬氏がにぎった。内州都督は司馬氏に利した。
都督中外諸軍事のこと。
祝総斌はいう。中外都督は、京師の中央軍だけで、地方には関与しない。洛陽城の中外でしかない。曹魏では機能したが、西晋よりのちは名誉職になった。北朝でもおなじ。

以上をふまえ小尾氏は、州都督制、征討都督制の制度をのべる。

ただ、ザツに抜粋しただけ。しかし、これにこそ 意味があるのだ。これを作るとき、ぼくの頭のなかに、概要がインストールされたから。


1部 1章 曹魏における「四征」将軍と州都督

後漢の将軍職は、常官化。後漢の将軍に専論はないが、大庭脩「前漢の将軍」に展望がある。「四征」将軍も、常官だった。「四征」は、地方における軍事担当者。

後漢の将軍職を、一覧表にしたものってあるのかな。清代にまとめられた資料にあったっけ。名大で確認しとこう。

魏の将軍も常官。州都督となり、常置の治所をもっていた。胡質、王基、王昶、曹真、劉靖。『晋書』職官志には黄初三年とあるが、黄初元年に「都督諸州軍事、或領刺史」となる。『宋書』も黄初三年に誤ってる。
厳耕望いわく、『後漢書』馮緄伝、『隷釈』車騎将軍馮緄碑により、順帝のとき御史中丞の馮緄が、州軍事を督すのが起源禹である。
はじめ監察官として置かれた刺史は、後漢のとき、郡県の上にたって民政を担当する、上級機関の州の長官となる。有力者は州牧として、地方統治をする。後漢末、刺史も軍事にたずさわり、刺史+将軍号がでてきた。

劉表は鎮南将軍、荊州牧、仮節。劉表は部下から「将軍」「劉荊州」「劉鎮南」「劉牧」とよばれた。 民政と軍事を、どちらも州牧がやった。
陶謙は、安東将軍、徐州牧。「四征」将軍が州牧に加えられた例。鎮南-荊州、安東-徐州とむすびつく。州都督のように、州など特定の地域の軍事をもつことは、しばしば見られる。
程昱は、済陰太守+兗州事(程昱伝)。鮮于輔は建忠将軍+幽州六郡(『三国志』公孫瓚伝)。公孫瓚は、前将軍+仮節督幽并司(青)冀(劉虞伝)。袁紹は、大将軍+兼督冀青幽并四州。(『後漢書』袁紹伝)。荀衍は監軍校尉+都督河北事(『三国志』荀彧伝)。のちに杜襲の漢中、牽招の青徐州、呂虔の青州、鍾繇の関中。
劉虞は『後漢書』公孫瓚伝で、六州を都督した。
これらは、曹操の政権確立過程において、曹操の意向により任用された。これが、曹魏の州都督として制度化され、軍政上の重要な役割をもった。

ぼくは思う。「曹操の意向=天子の意向」になる前と後で、分けて考えたほうがいいと思う。せっかく、ひとが総括して傾向を論じているとき、「もっと細かく分けるべきだ」というのは、スマートではないが。揚げ足とり、に過ぎないかも知れないが。分割しまくるだけなら、サルでもできるのだが。
曹操の意向が、「董卓や李傕のまったくの延長」である場合、べつに分ける必要はないけどね。どうかなー。違うと思うなあ。
魏晋南北朝を論じるとき、こまかく分割していたら、キリがない、というのは分かりますけどねー。ファンは細部をこねくり回すのだなー。
董卓や李傕と、霊帝以前との共通点を見つける。曹操と、霊帝以前との差異を見つける。これをやれば、わざわざ分割する意味はでてくる。順帝から、いきなり劉虞や劉表に飛ぶというのも、びっくりするのだ。笑


魏代の「四征」は、州都督を領職として、軍事を結集した。地方軍となった。呉蜀や内乱をしずめた。「四征」はもともと将軍だが、州都督と兼ねることで、刺史や太守を通じて、軍事力を動かしたり、州軍の部隊を支配できた。広範の軍事をつかえた。
曹魏の内乱は、「四征」将軍、州都督就任者がみずからやるか、深い関わりがあるかだ。王梁、諸葛誕、鍾会しかり。
ただし州都督たる「四征」は、拡大しきらない。刺史に牽制された。州都督は、1州レベルに切り刻まれた。 「四征」は虚号となり、州都督の官位の上下を示すだけになった。

2節を読んだけど、興味からズレるので、圧縮してしまった。「おわりに」に内容がまとめられていたので、これを抜粋しただけだ。


2章以降、西晋から南朝の話。また後日?やるのかなあ? 興味があるのは後漢なので。後漢よりのちの、全体の展望を得ることができました。曹操をはさみ、漢魏のつながりが「よく分からなかった」ので、よくよく調べたい。120117