泰山太守、楽浪太守の涼茂伝
『三国志集解』を見つつ、涼茂伝をやります。
曹操に辟され、司空掾、侍御史、泰山太守
涼茂は、あざなを伯方という。山陽の昌邑の人。
わかくして学をこのむ。論議は、つねに經典を根拠とし、是非を判断した。曹操が辟して、司空掾とした。高第に挙げられ、侍御史に補された。
ぼくは思う。いつも曹操は、辟して人材を巻きこみ、活用する。涼茂は山陽の人だから、曹操が袁紹に勝つ前でも、辟されることができる。曹操が司空だから、190年代の後半に辟されたのかな、
ときに泰山には、盜賊がおおい。涼茂は泰山太守となり、旬月の間に、幼児を背負って、1千余家が帰順した。
楽浪太守となり、公孫度をおどす
涼茂は、樂浪太守に転じた。
洪亮吉はいう。漢末、公孫度は、楽浪郡をわけて、帯方郡をおいた。曹魏の景初2年、公孫淵が滅ぼされ、曹魏に編入された。
公孫度が遼東にいて、ほしいままに涼茂をとどめた。だが涼茂は、ついに公孫度に屈さず。
公孫度は、涼茂と、公孫度の諸将にいった。「曹操が遠征してくると聞いた。鄴県は守備がない。歩卒3万、騎兵1万で、鄴県を直撃したい。曹操の配下は、誰にも防げないはずだ」と。諸将は「そうだ」と言った。
裴松之はいう。鄴県をガラ空きにして曹操が遠征するのは、曹操が鄴県を定めたあとだ。
この涼茂伝で、涼茂は建安9年(204)に死ぬ。曹操は、この建安9年に、鄴県を平定して、ただ柳城に北征しただけた。台詞の前後関係がおかしい。
また公孫度は、涼茂を顧みていった。「どう思うか」
涼茂はこたえた。「天下が大乱したので、公孫度は10万を擁していられた。だが曹操が、天下を安定させた。すでに安定した今、軍勢を西したら、公孫度は負ける」と。
烏丸や公孫氏も、中原の情勢に耳を傾けないではない。涼茂や牽招が、口八丁で、北方の情勢を操っていく。
曹操は、長年かけて北伐した。この北伐は、必要なければ、やらないのがベストだった。涼茂や牽招 による説得は、半分は成功したが、半分は失敗だな。列伝を読む限り、成功した!という話ばかり書いてあるが。曹操の使者は、足許を見られ続けたのだ。
諸将はふるえ、公孫度も「涼茂が正しい」と認めた。
ぼくは補う。上述のように、公孫度のセリフは、曹操が遼東に入りこんで遠征した時期でないと吐けない。このとき、涼茂は死んでいるはずだ。
ぼくは思う。けっきょく、こういう「外交の言辞」は、聞き書きないしは、自己申告だったのだろう。メモったとしても、涼茂の属官とか(広義の自己申告だな)。どうしても涼茂が、カッコよくなる。涼茂は、何らかのかたちで、公孫度と談話したのだろう。だが、公孫度の一言一句までは、正しく記されなかった。チェックが甘くなった。
魏郡太守、甘陵相、のちに曹丕の八友
のちに徵され、うつって魏郡太守、甘陵相となる。治績あり。
甘陵は、武帝紀の建安9年にある。『郡国志』はいう。冀州の清河国である。桓帝の建和2年、清河王を、甘陵王と改めた。
王先謙はいう。建安11年、国を除かれ、郡となった。『後漢書』献帝紀に、清河「郡」とある。曹魏では、清河郡だった。
盧弼はいう。涼茂が甘陵相に任じられたのは、建安11年より以前だ。
ぼくは思う。楽浪太守から、いきなり内政担当になった。牽招は、辺境での活躍に味をしめられ、辺境を転戦したのに。よく分からないが、高齢だったのかな。曹操の代に死んでいるし。落ち着いて学問を身につけていることから、青年期を、後漢の平時に過ごしたのかも知れない。
曹丕が五官將となると、涼茂は選をもって、長史となる。
左軍師にうつる。
魏國が初じめて建ち、尚書僕射にうつる。のちに、中尉奉常となる。
ぼくは、中尉奉常を知らなかった!
『続百官志』はいう。中尉は1人、比2千石。建安18年、魏国が初めて中尉を置く。『魏都賦』注にある。 黄初元年、執金吾と改められた。建安21年、魏国は初めて奉常を置いた。武帝紀の注にある。黄初元年、太常に改められた。
曹丕が東宮にあると、涼茂はまた太子太傅となる。敬禮された。卒官した。
『英雄記』はいう。涼茂は、八友の1人である。
ぼくは思う。裴松之が注釈した場所から推測するに。曹丕の「四友」を拡大したものに、「八友」があったのだろう。劉表が含まれた八友であれば(そう裴松之が考えたなら)もっと列伝の前半に、注釈をつける。周寿昌とぼくが見られない史料で、『英雄記』のなかに、曹丕の八友があったのでは。
涼茂は、曹丕と友達というより、教師かなあ。
と思って、いま、ちくま訳を見たら、〔文帝の〕八友、と補ってあった。
公孫度の説得が、いちばんの見せ場だったのだが。盧弼に、年代が合わないと言われる始末。ちょっと残念だった。110406