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02) 「事実」でない隆中対

『三国志集解』諸葛亮伝を読んでいます。

「史実」 三顧の礼

時先主屯新野。徐庶見先主,先主器之,謂先主曰:「諸葛孔明者,臥龍也,將軍豈原見之乎?」

襄陽記曰:劉備訪世事於司馬德操。德操曰:「儒生俗士,豈識時務?識時務者在乎俊傑。此間自有伏龍、鳳雛。」備問為誰,曰:「諸葛孔明、龐士元也。」

ときに劉備は新野にいる。徐庶は劉備に、諸葛亮をすすめた。
習鑿歯『襄陽記』はいう。司馬徽が「時務を知るのは、伏龍の諸葛亮、鳳雛の龐統だ」といった。

先主曰:「君與俱來。」庶曰:「此人可就見,不可屈致也。將軍宜枉駕顧之。」由是先主遂詣亮,凡三往,乃見。因屏人曰:「漢室傾頹,奸臣竊命,主上蒙塵。孤不度德量力,欲信大義於天下,而智術淺短,遂用猖(獗),至於今日。然志猶未已,君謂計將安出?」

劉備は3回、訪問してから会えた。

胡三省はいう。劉備は梟雄だが、わざわざ3回行った。才能を求めていたのだ。
ぼくは思う。以下、思考実験をします。隆中対は、史料屋さんによるウソだと仮定します。いかにウソかを論証します。
隆中対の「天下三分の計」は文飾で、諸葛亮は荊州のことしか、目配りできていなかった、という話をします。結論、言っちゃいました。

人をしりぞけ、劉備がいう。「漢室が傾頹して、奸臣が竊命する。主上は蒙塵だ」

goo辞書はいう。《『左伝』僖公二十四年から。天子が行幸するときは道を清めてから行くが、変事の際はその余裕がなく、頭から塵をかぶる意》天子が、変事のために難を避けて、都から逃げ出すこと。みやこおち。
この文が、献帝が洛陽におらず、許県にいることは異常事態だという理解で書かれていることに注意したい。
劉備もしくは史料の著者の認識では、曹丕が洛陽に遷都するまで、漢家は異常事態が続いています。防御しにくさという点では、許県も洛陽も同じなのに。
献帝を入手した時点では、洛陽より許県のほうが守りやすかっただろうが、、河北平定まで完了してしまえば、献帝を洛陽に戻したほうが「漢家を再建している」というニュアンスが強くでるのに。河北平定後は、むしろ残敵は南がおおい。どちらも平地の真ん中でも、許県より洛陽のほうが安全となる。曹操は「漢家は不完全」を言い続けたかった? 誰に対して? 禅譲の準備? まさかねー。

「私は、自分の徳や力量をはからず、天下に大義を信じたい。どうしよう」と。

ぼくは補う。「度德量力」は『左伝』隠公十一。自分の力量をはかり、わきまえること。
当然のことだが、いちおう確認。
諸葛亮伝は、劉備の口語をレコーディングして、伝えたものでない。会社の議事録すら、主語述語をおぎない、論理の破綻をつくろい、文語に直すんだ。命をかけて文章をつむぐ史家が、無責任に口語をたれ流すものか。史家なりに「意訳」して、カッコいい言葉に直してくれる。ありがたい!「実際はどうであったか」に興味のある、ぼくら後世の史料読みにとって、これほど、ありがたいことはない!(皮肉)
ともあれ、諸葛亮伝の文脈を確認しておく。劉備が諸葛亮に、「漢室を再建し、奸臣を排除し、皇帝を洛陽にもどしたい。どうしたらよいか」と発問したのだ。


文飾された「史実」 隆中対

亮答曰:

諸葛亮はいう。

以下、ぼくがやっつけようとしている、隆中対が始まる。といっても、全否定をして切り捨てても、面白くない。「史実」の隆中対を「事実」と仮定して読み、いろいろ推測する。そのあと、隆中対は史家の創作だ、「事実」ではない、ということを言いたい。
いま、わかりにくいことを言った。
言葉について定義する。
起こった出来事そのままを「事実」とする。人間が認知できるか、言語で記述できるか、正しく伝えられるか、などの障害はあるけれど、ともかくピュアに、起こった出来事そのままを「事実」と置くのだ。2乗したら-1になる虚数を「i」と置くのとおなじ発想。
「史実」とは、史料に記された「事実」をいう。「事実」でないことも、史料が「事実でした」と書いていれば、「史実」だということ。あくまで、ぼくの定義。
隆中対は「史実」には違いないが (諸葛亮伝に書いてあるのだ)、果たして「事実」だろうか、、と疑ってみよう。これが今日のページの方針。


「自董卓已來,豪傑並起,跨州連郡者不可勝數。曹操比於袁紹,則名微而眾寡,然操遂能克紹,以弱為強者,非惟天時,抑亦人謀也。今操已擁百萬之眾,挾天子而令諸侯,此誠不可與爭鋒。

董卓からのち、豪傑は並起する。州をまたぎ、郡をつらねる者がおおい。

諸葛亮がいうには、複数の州郡をおさえるのが豪傑。豪傑に、漢家の秩序をみだすものという意味を持たせているのだろう。単独の州郡を治めているなら、ただの地方官だ。(越境と聞いて思い出すのは、長沙太守の孫堅だ)
ぼくの知識の範囲では、後漢の安定期に、州郡をまたぐ長官はいない。
むずかしいのは、卵と鶏。統治のニーズが先に生まれて、州郡をまたぐ人が現れたのか。かってに州郡をまたぐ人があらわれて、まとめて統治しはじめえたか。都督制?ができるまで、複数の州を治めることは、曹操や孫権でもしてない。(認識があっているだろうか) 都督の成立について、先行研究を読まねば。
@Golden_hamster さんはいう。劉備は最大で予・荊・益・司隷を兼務してたと思います。予・司は名前だけだとしても荊・益は実効支配してましたよね。
ぼくはいう。漢中王に推薦するとき、「左將軍領司隸校尉豫、荊、益三州牧宜城亭侯備(先主伝)」になってますね。曹操のところより、劉備のほうが、ゆるく兼務してたのでしょうか。
ぼくは思う。後漢の官制をやぶっているのは、諸葛亮をブレインに迎えた劉備のほうじゃないか。過剰な兼務は、違反とまでは断定できないのかな。曹操の生前、曹魏では兼務がなかったと記憶してる。諸葛亮は劉備を「並起」した「豪傑」に、仕立てている曹操に勝つためなら、何をやってもいいのか? そういう、なりふり構わない系の理想主義者が、全体の利益を損なうのだ。笑
任期?が終わっても印綬を返さなかったり、後任がいるのに印綬を渡さなかったり、現任から武力で印綬を奪ったり。どうやって逆立ちすれば、劉備が「後漢のために正しい」という話になるのか、魏ファン、蜀ファンという垣根に関係なく、ぼくには分からない。
@korekorebox さんはいう。漢王室と同じ劉姓の人が力を持って再び天下統一しようとするところに中興とか再興みたいな感じで意義を感じてるんだと思います。【同じ劉姓】ってのが大事なんだと思います。それが無ければ、呂布と変わらないただの群雄ですがw
@korekorebox さんはいう。これは諸葛亮の視点じゃなくて蜀ファンの物語的な視点を解釈した発言です。が、自分の諸葛亮視点解釈ともそんなに違ってないです。
ぼくは思う。劉姓であることの扱いについては、考え中です、、そこまで特別なのか。劉姓であれば、何をやっても許されるのか。けっこう懐疑的です。
脱線したが。諸葛亮がここまでで言った「豪傑が並起」までは、ほかの史料と整合する。「隆中対はウソ」という根拠までは、指摘できない。つぎへ。

曹操は袁紹を逆転したが、天時だけでなく、人謀である。曹操は1百万をつかい、天子をもち、諸侯に号令する。正面からぶつかれない。

曹操の強さは、天だけでなく人のおかげ。現代のリアリストから見れば、「天に頼らず、人で勝つなんてすごい」となる。だが諸葛亮の論旨は、正反対だろう。あくまで天は漢家を擁護し、人(曹操) が天意をネジまげているにすぎない。それが言い過ぎなら、天がそこまで予定していないことを、人(曹操) が強引にやっている、と。
例えるなら、曹操の優性は、天意が40、人為が60だ。所与の40に、曹操が60を加算して勝ちやがった。袁紹なら天意が70はあったのに、曹操は逆転しやがった!という話。ここにあげた数字は適当です。
(諸葛亮は袁紹になら天意を認め、袁紹が勝てば従うつもりだったのか??笑)
諸葛亮は、人がなす戦争(=手出しできる範囲のリアル) において、劉備は曹操に勝てないと明言した。劉備が「私は徳も力もないが、曹操に勝ちたい」と泣きついたのに、諸葛亮は「徳も力もないから、曹操に勝てない」と言ったのだ。彼がすごいのは、戦略を考える頭脳ではない。弱りめの劉備にトドメを刺す、S根性である。
諸葛亮いわく、劉備は人為じゃムリと言うが、劉備に勝たせるつもりだ。これは、天意にすがれと言うに等しい。直接は書いてないが、論理的な帰結として、そうだろう。
思想とか宗教とかが、ぼくの血肉になってないからダメなのだが、、「人為では絶対に勝てなくても、天意が保障してくれている」と言われて、劉備は、ホッとしたり、元気になったりできるのかな。ぼくには「漢家は永続する」というビリーフがないから、理解しにくいなあ! 非現実的すぎるだろう。戦場を生きてきた劉備が、納得するものか。
ここから、ぼくの主張にゆく。
諸葛亮伝のセリフは、アトヅケだと思う。「事実」でない「史実」だ。
ぼくは諸葛亮のセリフは、劉備が漢中王をとなえ、蜀帝となったときに創作した「後漢の復興」という宣伝文句を、遡らせたものだと思う。この時点で、天意について議論しても、仕方ないのだ。まずは人為をなんとかしないと。
それに、曹操が魏公にすら就く前で、「忠臣」を逸脱していないときに、漢室の復興をとなえても、「曹操に味方するんですか」と勘違いされるよ!
ところで、
全然『三国志集解』から引いてないが、注釈がないのだ。サボりでない。『三国志集解』は、史料のなかでも、事実を記したと思われる地の文に関しては、雄弁な注釈がある。でも、セリフや手紙には、あまり注釈がつかない。「史家がどうにでも創作できるよ」という、暗黙の冷めたメッセージを感じとる。


孫權據有江東,已曆三世,國險而民附,賢能為之用,此可以為援而不可圖也。荊州北據漢、沔,利盡南海,東連吳會,西通巴、蜀,此用武之國,而其主不能守,此殆天所以資將軍,將軍豈有意乎?

孫権は江東で3代。地勢、民政、人材がいい。

ぼくは思う。「孫権が3代目」って、誰が言い出したんだろう。どうして孫堅から起算するんだろう。孫堅が長沙太守、豫州刺史(袁術の) になった名誉があるから?
いや、爵位が3代目なのか?
孫堅は江東に地盤を持たなかった。令長の時代は、徐州で人材をあつめた。長沙太守として、荊州北上した。もちろん故郷は呉郡だが、、「故郷=基盤」とは言えないだろう。「孫権が江東で3代」とは、あまりに雑な、もしかすると後世人の視点が入った、まとめかただと思う。同時代人から見たら、孫策につづく2代目の会稽太守? 太守って、そういう数え方しないよなあ。
孫権が曹操に対抗する態度を示すのは、赤壁のとき初めて。なにせ、諸葛亮伝で、みずから諸葛亮が孫権を説得にいくシーンがあるのだ。まだこの段階の孫権は、曹操から官位をもらい、曹操と婚姻した、無難な地方官。
孫権を味方の数に入れるのは、アトヂエだな。もしくは、希望的観測を挟みこんだ、精度のひくい妄想。孫権と同盟するというアイディアは、諸葛亮の判断力に期待するなら、この時点で「事実」とは認めがたい。

荊州は東西南北につうじ、用武の国だ。だが劉表は、荊州を守れない。天が劉備に、荊州を与えようとしている。

ぼくは思う。荊州の地勢は事実だろう。べつにいい。諸葛亮伝の著者の時代になっても、地勢は同じだ。信頼できる。ブローデル『地中海』の述べる、長いスパンの時間。第1部「環境の役割」にあたる。
さて、諸葛亮が天意として言っていることは、単なる乗っ取りである。学識たかく、仁徳にすぐれた思想家たちが、いろいろ論評してきたのだろうが、単なる乗っ取りである。
諸葛亮が説く天意は、漢室の再建でなく、荊州を取れと命じるらしい。セコい天意。そりゃあ、「劉備が漢室を再建する前提として、まず天意が荊州を用意した」と読むことができる。しかし、天意はそこまで具体的なのか? ぼくから見ると、思想にも宗教にも昇華していない、場当たり的に都合のいい方便のように思える。諸葛亮は、自説のハクをつけるため、「天意」という言葉を使っただけなんじゃ。
ぼくは思う。荊州をとれるのは、じつは天意でなく、人為なのだ
劉備のいる新野から、前進したら曹操、後退したら劉表。曹操に勝てないから、劉表をとれと。劉表なら、劉備の人為で勝てる
なお、諸葛亮が曹操をほめ、劉表をけなしたのは、曹操や劉表の勢力を分析することが目的ではない。劉備に荊州を奪えと勧めるための、地固めだ。多面的な事実のうち、自分の論に必要なところを抜いたのだ。

劉備に、荊州をとるつもりはあるか。

ぼくは思う。隆中対のもっとも分からない点。事実だとしたら、荊州の奪取は、劉備に採用されていない。劉備が劉表を攻めたという史料はない。「諸葛亮の仕官生活は、不遇から始まった」という理解は、諸葛亮伝のなかでツジツマがあわない。水魚の交わりをしたと、直後に書いてあるから。
「教えを請う君主と、教えを授ける賢者」というステレオタイプに当てはめたかったのだろう。だが、どうも編集方針が徹底されていない。前後の史実に影響のない、閉鎖的&個人的な営み(三顧の礼) だけを好きに描いた。ただし伏線は回収できなかったよ! というお粗末な創作に見える。
諸葛亮伝の「史実」を「事実」とするなら、
「荊州奪取という具体策や各論は却下し、天下に第三勢力を作るという発想や総論だけ採用した」となる。何が何やらわからない。そんな登用方法では、諸葛亮のアイディアは台無しだ。会社で同じことをしたら、部下はモチベーションが下がるだろう。
諸葛亮伝のなかでツジツマを合わせるとしたら、「劉表が早く死にすぎて、劉琮があっさり降伏しすぎて、劉備が攻める時間がなかった」となる。メリクリ、ムリクリ。
諸葛亮伝の、よく分からない点(ぼくの考えるところの虚飾) を除けば、裴注『魏略』の内容に落ちつく。諸葛亮から働きかけ、劉備に荊州統治を進言した。劉備は、積極的に用いなかった。終了! と。天意云々は文飾にすぎない。
なお、劉備が劉表を攻めない理由を、劉備の人柄に帰す議論は、意味がないだろう。劉備は諸葛亮にプランを聞きにゆき、諸葛亮が「劉表から奪え」といい、劉備が「いい」と言ったのだ。劉備は、劉表から奪うことで納得していた。


益州險塞,沃野千里,天府之土,高祖因之以成帝業。劉璋闇弱,張魯在北,民殷國富而不知存恤,智能之士思得明君。將軍既帝室之胄,信義著於四海,總攬英雄,思賢如渴,

益州の地勢はよく、高祖が創業した土地だ。劉璋はダメだ。

まず諸葛亮伝を「事実」として読むなら。仮定&考察開始。
諸葛亮は、劉璋が着任した経緯を責めていない。劉璋は、父の劉焉が益州牧だったという地縁と兵力を根拠に、献帝を無視して、益州牧に就いている。ぼくが後漢を復興するため、劉璋の不当を訴えるなら、ここを突く。
劉璋の人柄や手腕を批判したって、攻撃力はひくい。人事考課なんて、何とでも言えるのだ。バリバリ仕事をやれば、名官ってわけじゃない。
なぜ諸葛亮は、劉璋の着任の経緯を責めないか。
劉備に同じことをさせるつもりだからだ。つまり、兵力を使って、印綬を私占する。諸葛亮の発想は、後漢のポスト争いじゃなく、群雄割拠の戦国時代だ。諸葛亮が劉備にやらせようとしているのは、後漢の再建というより、「後漢の切り取り」だ。後世の歴史ファンは、こういうのが好きなのだが。笑
諸葛亮の暴走は、世代の問題として考えることができる。袁紹、袁術、曹操、劉備は、地方官の地位がほしくて武力をつかうが、諸葛亮や魯粛の世代になると、領土の切り取り、国VS国のような発想で話をしている気がする。三国鼎立が固まると、またこういう柔軟なことを言う人がいなくなる。
いや、世代の問題じゃなく、諸葛亮と魯粛が特殊だとすべきだろう。同世代の人たちは、大人しく歯車になっている。「個人の天才的な発想」と言うことはできるが、目の前に同じ事をいう人がいたら、ただの秩序の破壊者だ。破壊者が、人をひっぱれるのか?
『後漢書』袁術伝で、袁術が皇帝即位を検討すると、「漢家は衰えたが、殷家より弊害が大きいか」と怒られる。諸葛亮と魯粛も、おなじ文句で叱り飛ばされるべき人間だ。
魯粛は史料のなかで、ちゃんと孫権に叱られている。諸葛亮も叱られるべきなのに、、隆中対は褒められこそすれ、叱られない。危険な革命思想なのになー。
仮定&考察終了。
危険思想が軽々に口にされ、それが黙認された不自然さは、劉備が益州を得たという結果から遡り、史家が諸葛亮に益州取りを言わせているから。「事実」で諸葛亮は、こんなことを言っていない。後述します。

劉備は皇室で、リッパな人だ。賢者(私)を求めてくれた。

隆中対は、人物比較なのだ。曹操と劉表、劉璋と劉備を比べる。
「曹操と劉表は、州郡の統治者という共通点があるが、劉表のほうが弱い。劉表をつぶせ」といい、「劉璋と劉備は、皇族という共通点があるが、劉璋のほうが愚かだ。劉璋をつぶせ」という論法。
さすがに、ここから、後漢末に流行した「人物評論の影響である」とまで言う気はないけれど、それはそれで面白いかなあ。「天下三分の計」というのは、地理的な戦略をタテ糸にしつつ、人物評論をヨコ糸に。なんちゃって。笑
「事実」として諸葛亮がそう言ったのか、史書づくりが盛んな魏晋の風潮を反映して「史実」が編まれたのか。どちらでも成り立つ話だが、ぼくは後者だと思う。史家の筆クセが滑って、このセリフが作られた。
ところで、劉備は益州をとる。ぼくはこの「史実」は「事実」だと思う。他の史料群と矛盾しないから。劉備が益州を取るという作戦は、いつ固まったのだろうか孫権の集団との交渉のなかで、思いつき、現実化していったのだろう。
赤壁前は、そんなことを考える余裕はない。荊州の北部(州治) が最優先である。赤壁後は、北部がムリとなれば、荊州の南部が最優先である。そりゃ、赤壁の前でも後でも、「益州がほしいか、ほしくないか」という2択をあげれば、「ほしい」という。だが現実的でない。例えば、ぼくが「50億円ほしいか」と聞かれたら、とりあえず「ほしい」と言うだろう。だが具体的な目処がないし、そのためにどんな努力&犠牲が必要か分からない。怖いので遠慮しとく、欲しがらない、、というのが正直な気持ち。
(「劉備は、お前のようなショウジンと違う!」という反論はあるだろうけど)
孫権の集団と、劉備の集団が、益州とりをめぐって駆け引きする様子は、後日やりたい。劉備が益州をねらう決心のキッカケも。魯粛さんをからめて考えよう。


若跨有荊、益,保其岩阻,西和諸戎,南撫夷越,外結好孫權,內脩政理;天下有變,則命一上將將荊州之軍以向宛、洛,將軍身率益州之眾出於秦川,百姓孰敢不簞食壺漿以迎將軍者乎?誠如是,則霸業可成,漢室可興矣。

荊州と益州をたもち、西と南の異民族をなつかせ、孫権とむすべ。天下に変事があれば、1人の上将に荊州の軍をひきい、宛洛に向かわせよ。劉備は益州から秦川にでろ。

『通鑑シュウ覧』はいう。荊州から宛洛、益州から秦川というのは、後日に追加したものだろう。祁山への六出の時期を早めたものだ。
ぼくは思う。先学の「後日の追加」説に同意します。この時点で、そこまで未来を予測するのは、さすがに難しい。情報が足りなさすぎるのは、先学の言うとおり。
「なぜ関羽は、諸葛亮の隆中対を無視したか」という問題の建て方がおかしい。関羽がやったことも、じつは諸葛亮のプランに入っていましてね、とアトヅケしたのだ。関羽が北伐したとき、劉備が何もかも成功したかのように見えるが、それはウソである。
じゃあ、関羽と劉備の戦略を、ゼロリセットして考え直さなきゃ。
「諸葛亮の北伐が、高祖に則したもの」というのも、苦しい言い訳。高祖が保ったのは関中。関中は手放さなかった。漢中に引っ込んでしまったら、再起不能だった。

劉備は歓迎され、覇業が成る。

京師で歓迎されるのは、光武帝の記述があるし、のちの東晋でも同じ。定型文の域を出ない。とくに新しい情報だとは思えない。
ここでまとめ。
けっきょく隆中対は、何が新しい情報だったんだ?
「曹操に勝てないなら、劉表から荊州を奪うくらいしか、活路がない」という消去法だ。ぼくでも思いつくなあ。孫権と同盟する話、益州を奪う話、荊州と益州から同時に進軍する話があるが、まだ非現実的なこと。
ぼくの経験上、成功者の伝記を読んでいて、「戦略」どおりに行った話って、あんまりない気がする。価値観とか対人関係とか、大方針だけは決めておくけど、詳細な事件は、つねに行きあたりばったり。っていうか、時代や環境、得られる情報や人との出会いに応じて、当初思ってたことを変化させていかないと、何事も為せないでしょ。20代に得られた知見だけを元手に、そのまま、ついに第一人者になりました、という話しはない。これは、史料が云々でなく、ぼくが実体験&見聞に照らして感じること。
また、戦略を練るのは、柔軟性、アイディア、嗅覚とか、これらに優れた人間の得意技だと思う。「実現しそうにない夢のようなことを、昔から思い描いていた」というタイプだ。諸葛亮は、明らかに違う。「史実」がどうこうでなく、ぼくはタイプが合わないと思う。諸葛亮は、規定の方針のなかで、コツコツと最後までやるタイプでしょう。
「何でもお見通しの賢者が、未来まで仕える戦略を授ける」というのは、美談だけれど、ちょっと厳しい。賢者を信仰する士大夫がつくったフィクションだと感じる。

漢室を興せる。

諸葛亮は劉備に「劉表に成り代われ」といった。劉備が劉表を攻め損ねると、次善の策として、荊州南部をとらせた。これは現実への対応である。遠視的なビジョンでない。近視的な当たり前の対応である。
ただ目の前に劉表がいたから、攻めろと言った。ただ目の前に荊州南部があったから、攻めて治めた。それだけ。堅実な現実主義者。
隆中対のとき、漢室がー! 天意がー! と言っているが、とくに関係ない動きをしている。後漢の執政者は、曹操である。後漢の皇帝は、献帝である。もし諸葛亮が、献帝に代わる皇帝を掲げるなら、また話は変わってくるが、そこまで革新的ではない。曹操に逆らった諸葛亮は、漢室にそむいたのだ。


先主曰:「善!」於是與亮情好日密。關羽、張飛等不悅,先主解之曰:「孤之有孔明,猶魚之有水也。原諸君勿複言。」羽、飛乃止。

劉備と諸葛亮の関係に、関羽と張飛が嫉妬した。

おもしろい「史実」だ。ふーん。


諸葛亮伝と『魏略』との共通点は荊州統治

魏略曰:劉備屯於樊城。是時曹公方定河北,亮知荊州次當受敵,而劉表性緩,不曉軍事。亮乃北行見備,備與亮非舊,又以其年少,以諸生意待之。坐集既畢,眾賓皆去,而亮獨留,備亦不問其所欲言。備性好結毦,時適有人以髦牛尾與備者,備因手自結之。亮乃進曰:「明將軍當複有遠志,但結毦而已邪!」備知亮非常人也,乃投毦而答曰:「是何言與!我聊以忘憂耳。」

『魏略』はいう。劉備は樊城にいて、わかい諸葛亮を侮った。

『魏略』は、曹魏に仕えなかった諸葛亮を貶めるからね。劉備と諸葛亮の出会いを、つまらなくする。結果的に、ぼくから見るとリアリティが増しているが、ただちに支持するわけじゃない。諸葛亮伝を否定し、『魏略』を全面採用! したいのではない。それでは、諸葛亮伝を信仰して、隆中対を一言一句まで暗記する信者と同じである。

諸葛亮は、劉表では曹操から荊州を守れないと考えた。

亮遂言曰:「將軍度劉鎮南孰與曹公邪?」備曰:「不及。」亮又曰:「將軍自度何如也?」備曰:「亦不如。」曰:「今皆不及,而將軍之眾不過數千人,以此待敵,得無非計乎!」備曰:「我亦愁之,當若之何?」亮曰:「今荊州非少人也,而著籍者寡,平居發調,則人心不悅;可語鎮南,令國中凡有遊戶,皆使自實,因錄以益眾可也。」備從其計,故眾遂強。備由此知亮有英略,乃以上客禮之。

諸葛亮は劉備にいった。「劉表は曹操におよばない。劉備も曹操におよばない。どうしようもない」と。劉備は「どうしよう」と聞いた。諸葛亮は「戸籍を充実させ、徴兵せよ」といい、劉備は軍勢をふやした。

ぼくは思う。劉表と曹操をくらべ、劉表をけなすのは、諸葛亮伝とおなじ。劉備と曹操をくらべ、劉備をけなすのは『魏略』のみ。諸葛亮伝では、劉備と劉璋をくらべ、劉備を持ち上げていた。結論は異なるが、人物の優劣から方策をさぐるという、議論の枠組みはおなじ。「史実」の類型だとわかる。
諸葛亮が「劉備は曹操に及ばない」と言うのは、劉備に対していかにも希望がない。諸葛亮がドSなのか。諸葛亮伝でも「劉備は人為で曹操に勝てない」と言っていた。やっぱり、諸葛亮がドSなのか。もしくは『魏略』の編集方針により、曹操をもちあげたのか。まあいいや。
『魏略』で諸葛亮は、目先の荊州に対する政策しか言わない。ぼくが隆中対のなかから探した事実と符合する。っていうか、それ以上のプランを、現実味をもって語るのは、天才でもない限り、無理でしょう。
(だから諸葛亮は天才なんだってば、という反論は、リアリティがないので聞かない)

劉備は諸葛亮をみとめ、上客として礼遇した。

九州春秋所言 亦如之。
臣松之以為亮表雲「先帝不以臣卑鄙,猥自枉屈,三顧臣於草廬之中,諮臣以當世之事」,則非亮先詣備,明矣。雖聞見異辭,各生彼此,然乖背至是,亦良為可怪。

『九州春秋』も『魏略』と同じだ。裴松之は、出師の表を根拠に、『魏略』でなく諸葛亮伝がただしいという。

mujinさんが、出師の表を根拠に、陳寿が、諸葛亮伝の三顧の記事を書いたとされてます。喚いて叫ばざれば > 三顧の礼
ぼくも同じ認識です。
じゃあ、出師の表の内容が「事実」か否か。それは今日は議論する準備がありません。mujinさんは、この議論から距離をとってる。ぼくは議論に飛びこみたいが、、出師の表を出すときの、内外の状況を踏まえて、推測したいと思っています。
ともあれ、
劉備が諸葛亮を迎えたことは「事実」で良いでしょう (どんな態度で、どれくらい鄭重に迎えたかは保留)。諸葛亮が荊州統治の改善を勧めたことも、事実でしょう。蜀視点の諸葛亮伝と、魏視点の『魏略』が共通しており、これを否定する史料がないので、肯定しておかないと、何も言えなくなる。
そして、これ以上のことは、何とも言えない。むしろ、天下三分の話は、ウソと考えて切り捨てたほうが、相対的に納得がゆくなー、というのが結論。
劉備の「小説」をつくるにしても、「諸葛亮による規定の路線にのっとって、赤壁、荊州南部、益州を攻略した」という決定論で固めたら面白くない。よほど非現実的だ。各段階で、劉備がどう判断したか。諸葛亮が、どのように関与したか (もしくは関与しなかったか) を考えたほうが、ダイナミックなお話になる気がする。
「劉備の生前、諸葛亮の指揮権は限定的だった」という指摘は、もう常識の域でしょう。諸葛亮の隆中対の内容&影響も、限定してしまえば、『三国演義』が用意した出来合いの記号的なイメージよりも、「事実」に近づけると思う。


隆中対は「史実」だが「事実」でない、のまとめ

諸葛亮は、曹操による秩序に反対し、劉備に荊州の統治を勧めた。このとき諸葛亮は、徐州出身ながらも、荊州の豪族らと婚姻関係にある。強いて分類すれば、在地豪族の一員として、地方官(この場合は荊州牧) への支持・不支持を口にしただけ。諸葛亮が責任を持って語れるとしたら、荊州の話だけ。
諸葛亮には、劉備、劉表、曹操の順で、自分が属する豪族の派閥への、風当たりがきつくなるという認識があったのかも。

なぜ諸葛亮が、劉表を支持しなかったか。
統治の発想がキラい、天子を気どっている、曹操(というか献帝) に妥協しがち、流氷がくるのはオホーツク、などが想定できる。今日は決められない。では諸葛亮は、劉表でなく劉備に、何をさせたかったか。「漢室の復興」なんて、分かったような、分からんような概念でなく、もっと内容を想像したい。後日やる。
結果的に、諸葛亮伝にあるように「荊州をとり、益州をとり、関中を攻める」という動きをするのだが、途中で何回か、路線変更があったはずだ。

前ページで ぼくは、諸葛亮が遠心力をもち、中華の分裂に向かう人だと書いた。後漢の統一よりも、足許の荊州に関心をもち、自分の理想(というか利害?) に劉備を巻きこもうとした姿勢が、諸葛亮の正体だと思う。

天下三分の計を「事実」でないとすると、さみしいが、
ぼくは「仕官直後の諸葛亮が、劉備に何も言わなかった」と主張したいのではない。いろいろ喋ったと、仮定できる。っていうか、終止無言、というほうがおかしい。過去の話も、未来の話も、しただろう。
史家が飾った「史実」でなく、密室で語られた「事実」を想像したいのだ
「史実」主義者からは、「それを言い始めたら、キリがない」とウンザリされるだろう。「ファンが全部自分で考えるより、せめて諸葛亮伝に準拠したほうが、まだ事実に近かろう」という指摘は、ごもっともだ。反論できない。

「史実主義者」というのは、ぼくの造語です。「正史に書いてあれば、無批判に支持する」という狭いタイプだけを言うのではありません。「史料をもとに、客観的かつ合理的に事実を組み立てるべきだ」という、良識的&常識的な歴史学の態度もふくめます。このページは、歴史学に照らしたとき、まったくダメでしょう。諒解の上で、書いてます。

「史実」で思考停止するよりも、「史実」に残らない「事実」に思いを馳せるほうが、「事実」に肉薄して、『三国志』を楽しめる態度だと思う。

次回、劉表が死ぬ。諸葛亮が、何を言った、何を言わなかった、という空想はさておき、「事実」が前にすすむ。つづく。111206