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理論、説明、推論、実験

戸田山和久『「科学的思考」のレッスン』NHK出版新書2011
を読みました。メモします。昨日書いた、唯一絶対の事実をめざす、サイエンスとしての歴史学をやるとしたら、どんな手法になるのか。この本で分かります。GODを祭る神官の作法です。
戸田山氏が、同時期に類似内容の本が出たから、こちらも読めと言っていたのが、『もうダマされないための「科学」講義』光文社新書2011だった。読んだけど、あんまり知りたいことが書いてなかった。ひかない。
地の文が戸田山氏、枠内の注釈がぼくの感想等。

「理論」と「事実」はどう違うか

科学「が」語る言葉を「科学的概念」という。マグニチュードやベクレルなど。
科学「を」語る言葉は「メタ科学的概念」という、「メタ」というのは「~についての」という意味。メタ科学的概念とは、理論、仮説、測定、観察、予言、アドホック、説明、原因、相関、有意差、法則、普遍的、一般的、特殊ケース、方程式、モデル、帰納、演繹、類比、真理、情報、方法論、仮説演繹法、コントロール実験、検証、反証などがある。

ぼくの言葉でいうと、科学的概念は、コンテンツやプロダクト。メタ科学的概念は、プロセス。プロダクトは理系のものだが、プロセスは、サイエンスとしての歴史学にも適応される。だから、漏らさずに引用したのだ。

聖書を信じる創造論者は、進化論をいう教科書に「進化は、理論であって事実でない」とステッカーを貼った。進化論者は、このステッカーに好意的。事実とは、100%に確実で疑えず、未来永劫に正しい真理という意味。進化論者は、進化論を事実だと考えていない。証拠に照らした結果、もっとも良い理論だと考えているだけ。

創造論者は「理論であって事実でない」と言えば、進化論者を攻撃できると考えた。だが、攻撃になっていなかった。

科学は、仮説や理論を、グレーゾーンのなかで、より良くする営み。「事実は正しく、理論は誤り」という二分法でない。

サイエンスは、キリスト教の文化圏に属する考え方。事実を理解するとは、GODを理解するに等しい。キリスト教徒は、GODを理解できるとは思わない。GOD(白)はムリでも、GODの作った自然を、限りなく白に近づけて理解することをめざす。
「絶対の事実はない」は、ぼくら日本人のなかでも、例えば「学校で習わないが、中学校で自発的に気づく常識」に属するだろう。この「常識」に、キリスト教のGODの影響があるというのが、昨日の話だった。

「事実がムリなら、どんな仮説も同じだ」とはならない。これは二分法である。「原発は絶対ダメ」「絶対安全」という思考は二分法だ。二分法を避けるべきだ。

より良い仮説・理論とは

「真理に近い理論が、よりよい理論」はダメ。真理が分からないのだから、真理からの遠近を判定できない。よい仮説の基準は3つだ。
 1.より多くの新しい予言を出し、当てられる
 2.その場しのぎの仮定、正体不明・原因不明の要素を含まない
 3.既知のことを、より多く、同じ方法で説明できる
その場しのぎの仮定を、アドホックという。

「説明する」とは

科学には「説明する」が期待される。3種類の説明がある。
 1.原因を明らかにする
 2.原因と結果の間に、より細かい原因と結果をつめる
 3.正体を突きとめる
2つめは、より基本的な理論や仮説から、特殊な理論や仮説を導くこと。ニュートンの基本法則が、天上の物理と、地上の物理をどちらも説明できたように。
3つめは、どんなふうに性質が現れてくるかいう。正体の突きとめは、原因と結果の解明でない。原因と結果は、別のできごとである。正体は突きとめ、同一のできごとを扱う。同じものを、マクロで見たときと、ミクロで見たときのことを論じる。

これ以上は説明を加えられないのが「裸の事実」である。説明を与えると、裸の事実が減る。裸の事実を減らし、知識を説明というネットワークでつなぐのが、科学の営み。「還元」と「統一」である。
上下の階層を、正体の突きとめによってつなぐのが「還元」。1つの階層の内部で、原因と結果をつなぎ、階層の上下で還元すれば、科学の分野が1枚の絵につながる。「統一」という。

理論・仮説の、立て方と確かめ方

説明される側が、科学的な理論や仮説でないと、問題が解けない。理論や仮説を確かめる方法は以下。
 1.演繹でない
  A 帰納:白血球と精子に核がある。ゆえに細胞に核がある。
  B 投射:白血球と精子に核がある。ゆえに赤血球にも核がある。
  C 類比:ラットがそうなら、ヒトも似た性質だろう
  D アブダクション:天王星の外に惑星を想定すると、うまく説明できる
 2.演繹である
  甲は、乙か丙のどちらかだ。乙だ。ゆえに丙でない。

演繹でない方法は、結論は必ずしも正しくない、蓋然的であるのが短所。ぎゃくに長所は、結論で情報量が増えること。人間は、感覚でとりいれた情報にプラスして「考える」。これが推論すること。
演繹は、真理を保存するが、情報量が増えない。では、なぜ演繹をするか。人間は、命題がどんなことを言っているか、見とおすのが得意でないから。前提がふくむことを、見えるようにするのが演繹。

科学は、新しくて正しいことを言うのを期待される。演繹でない方法と、演繹である方法をあわせ、仮説演繹法をやれる。どうやるか。アブダクションで仮説を立て、演繹的推論で仮説から「予言」をひきだす。すると、新しくて正しいことが言える!

戸田山氏の具体例をひく。例えば産褥熱から、死体に含まれるある物質が、病死の原因だと「仮説」する。ある物質を防げば、産褥熱を防げると「予言」する。手を洗って、ある物質を除き、「予言」を確かめる。

この方法には、もう1つの推論が隠れる。「仮説」から演繹した「予言」が当たったので、「仮説」が確からしい。という推論である。この推論は真理でない。例えば、2を2乗すると、答えが4。何かを2乗すると、答えが4だった。ゆえに何かとは2である、は誤り。何かとはマイナス2かも知れない。
仮説演繹法は、真理が分かるのでなく、より真理に近づけるだけ。

仮説の検証には、どんな実験・観察がいるか

仮説にあてはまる「正事例」と、あてはまらない「反証例」がある。傾向をあてるには「確証バイアス」がかかる。どういう実験結果がでれば、仮説が確からしくなるかという「検証条件」がある。どういう実験結果がでれば、仮説が間違いだと決まる「反証条件」がある。
血液型占いは「反証条件」を明らかにしないから、科学でない。誰でもあてはまる「バーナム効果」が利いている。「反証例」がおおいほど、情報量がおおい。血液型占いは「反証例」が少なく、情報量が少ない(何も言っていない)。価値がない。

ポパーはいう。科学は「反証」によって開かれている。反証条件を明らかにしないと、科学でない。 ただし反証があっても、すぐに仮説や理論を捨てない。良い仮説の反証が出てきたら、アドホックな仮説を付けたし、良い仮説を守ろうとする。

なぜ実験をコントロールすべきか

実験をコントロールして「対照実験」をやる。微生物の自然発生を否定するために、「細菌の胞子は入らないが、新鮮な空気は入る」という条件が必要になった。白鳥クビのフラスコが作られた。
人間はプラセボ効果があるから「二重盲検法」がいる。患者は、真薬か偽薬か知らない。医者も、真薬か偽薬を知らない。という状況で、医者が患者に薬を飲ませて、効果をはかる。

「四分割表」で考えるとよい。湯治した・しない、治癒した・しないで、2×2の表をつくる。湯治して治癒した数量だけを見ても仕方ない。湯治して治癒したと、湯治せず治癒したが同数なら、湯治は関係なく治癒しやすい病気。湯治しても治癒しない人が多ければ、湯治の意味がない。
「四分割表」で見たいのは、確率でなく相関だ。

四分割表をつかう手続を「疫学的思考」という。つまらなかったほうの、『もうダマされない』に書いてあった。


脳科学は相関を見るとき、「逆向きの推論」をする。Aという心なら、脳のXが活性化する。いま、脳のXが活性化した。ゆえにAという心の状態だ。
相関には2つの注意点がある。「系統誤差」「確率誤差」がある。系統誤差は、前提とする理論が誤ったり、測定器にクセがあったりすると生じる。何を量っても、偏って見える。確率誤差は、少量を量ったときに出てくる誤差。ランダムで多数の母集団をぬく。
相関関係から、因果関係を推論するときは、慎重に。因果関係は、目に見えない。水の飲み過ぎが糖尿病の原因でなく、糖尿病だから喉がかわくのだ。
まったく別の要因があるのに、見落とすことがある。朝食を食べると学力が上がるのでない。親の養育態度が原因となり、朝食を食べ、学力があがる。テレビが普及すると寿命が延びるのでなく、同じ時期にどちらも伸びただけ。

おわりに

今回は、ただのメモに終わったけど、史料を読むときの参考にする。
初めに読んだときは「超おもしろい、サイトにメモらなきゃ。史料読解に引きつけて、注釈をつけなきゃ」と興奮した。戸田山氏が紹介している『もうダマされない』も即買いした。
でも1週間たち、話の筋道を書き出してみると、当たり前のことだった。っていうか、1回読んだときに、アタマのなかを整理してもらったから、2回目の感動がうすれたのだと思う。当たり前のことを、わかりやすく書いてあるのが、この本のウリだ。この感想の変化は、まあ、いいことかもなあ。
1回目のとき、個別の事例紹介がおもしろかったから、興奮したのか。『もうダマされない』のほうは、もっと事例紹介がおおかった。事例は、さすがに『三国志』に関係ないから、こまかく引用しなかった。 111224