04) 宦官の孫、袁紹、公孫瓚と「名士」
渡邉先生の『三国政権の構造と「名士」』の、序章と1章を再読。
最終回。袁紹と公孫瓚で、「名士」という術語の切れ味を確認。
宦官の孫、魯粛と「名士」論(掲示板より)
前ページでぼくは、なぜ「名士」が、こんな自爆的な生き方をするのか、という問題を立てた。掲示板に、遠藤さんからご指摘をいただきました。黄巾のせいだと。
以下、引用。
遠藤さんはいう。三国志でも資治通鑑でも、黄巾の残党はでてくるけど宦官の残党は出てきません。
宦官が地方に影響力を持ってなかった証拠ではないでしょうか。私が知ってるところでは、地方で宦官派といえそうなのは宦官に贈り物をして地位を得た孟他(孟達の父親)程度の例しかないと思います。
さらに遠藤さんはいう。霊帝は黄巾の乱で黄巾に通じた官吏と百姓を1000人誅殺したということですが、これ粛清の規模としてはかなり大きいですよ。例えば、梁冀に連座して死刑になった高官は数十人、免職になった者は300人です。
第一次党錮の禁で逮捕免職されたのは200人、第二次党錮の禁で100余人が処刑され、600~700人が禁錮になったとか。
とはいえ、袁紹たちが宦官皆殺し作戦で殺した宦官が2000人で、粛清の数としてはこれがぶっちぎりに多いです。
曹操が吉本の乱にかこつけて殺したの後漢の高官は、「百官」とあってよく分かりませんが、この頃になると後漢王朝の衰亡は明らかですから意外と数はいなかったかも。
三国時代になると、不思議なことにこの種の大量粛清は止んじゃうんですよね。
あってもかなり小規模になってます。(引用終)
ぼくは思う。宦官の子弟のうち、地方を撹乱しつづけたのは、曹操です。少なくとも他の宦官の関係者(宦官との縁を官位のよりどころにする人)は、董卓政権までに、駆逐されています。
ところで、
『三国志』は曹操を、宦官の孫とばかりは扱わない。党錮をなげき、濁流にいかる筆致のままで、曹操をとがめない。魏武帝だからなー。曹操の活躍や、史料的な待遇改善ゆえに、宦官集団の残党について、わかりにくくなってる?
『後漢書』許劭伝で、むりやり曹操が許劭から「名声」をむしりとる。曹操の個人的資質が強調され(武帝紀にひく『異同雑語』など)、実際は何と言われたかという論題になりやすい(史料ごとにコメントがちがうから)。だがこの逸話は、宦官集団に対する、全体的な批判に過ぎないと、ぼくは思う。
曹操がいかに許劭に食いついたとか、曹操がどんな人間だとか、何と言われたかとか、細部は、どうでもいい。どーせ作り話?だから。
曹操と許劭の不愉快エピソードは、曹操について云々したんでなく、「宦官の子弟は、このように横暴だった」という概括に落としこまれるような、事例に過ぎないのでないか。事例1つに固執し、過剰にこだわり、ウラ読みにウラ読みを重ねても、現実から遊離してゆく。 割り引いて理解するのが、落としどころ?
『後漢書』全体の編集方針が「宦官にくし、党人きよし」であるように、魏晋の史料は、宦官に冷たい。これは宦官が濁ったからでなく、宦官が短期間で破れたから。短期間で破れて、政治的な後継がいないと、悪く書かれやすい。始皇帝、袁術、曹魏、煬帝が類例である。宦官集団を該当させて良いだろう。
(「名士」の起源に、党錮事件を強調する渡邉説への遠回しな批判)
かと言って、「煬帝は名君だ!」とホメまくっても、ナイーヴな批判者と「精神的な双子」になってしまうから、注意が必要だが。
渡邉先生は4章1節(285ページ)で、曹操「豊富な財力にとどまらない」遺産を祖父や父から継承したという。汝南「名士」に仲間入りする過程をしるす。
前ページで到達したように、
渡邉先生の「名士」論が、魏晋の歴史家に親和する(故意に失礼な言い方で単純化をするなら「魏晋の歴史家に踊らされている」)ならば、これを読んだぼくは、曹操について何が言えるか。
思うに歴史家は、にくむべき「濁流」曹操が、魏晋の皇帝権力に転ずる理由を、ひねり出さねばならない。ただ単に「宦官の孫、登場!中原制覇!」では、後漢後期の士大夫の、自浄能力を疑われてしまう。曹操が単なる宦官の残党でないという証明は、宦官を悪役に設定した時点で、宿命的に歴史家に負わされた課題である。
(自分で問題設定して、自分で解決する。研究活動に似ている。笑)
宦官サクセス物語を回避するために、歴史家は、汝南や頴川に名声にもとづく社会が形成され、名声が曹操を成功させたという理路を思いついた。
(事実のでっちあげでない。だが強調の偏重は、歴史家による操作である)
ぼくが問いを立てるなら、
「なぜ汝南や頴川で、人物評価が発展したか(問題1とする)」に先行して、「なぜ汝南や頴川の人物評価が、史料に重点的に残ったか(問題2とする)」を解明しておきたい。
問題2の回答は、曹操の名声が、汝南や頴川で形成されたからだ。
人間が3人以上いれば、名声が形成される。たまたま曹操が、汝南や頴川で名声を形成した。満天の星の1つと同じで、存在は確かだが、全体に占める比率が小さすぎるという理由で、曹操の汝潁における人脈は、「とるに足らない事実」である。この「とるに足らない事実」は、2つの理由で歴史家にピックアップされた。1つ、歴史家が、曹操が勝った理由を求めたから。2つ、「けっきょく宦官が勝った」という話筋を避けるため、汝潁の人物評価を誇張したから。
(極論すれば、たかが郭泰や何顒が列伝を得たのは、曹操のおかげ)
史書および渡邉先生の4章1節にしたがえば、曹操に関する話筋はこうなる。
「曹操は宦官の孫には違いない。その点で、士大夫に軽蔑されるべき人物かも知れない。だが、けがれた出自を挽回して余りあるほどに、祖父が推挙した「清流」の人脈があり、また汝南で名声を獲得し、頴川の荀彧を獲得し、天下の輿論にこたえた」と。はっはっは!
つぎに問題1を解く。なぜ汝南や頴川で、人物評価が発展したか。
この地域が、黄巾や李傕により、汝南と頴川が、荒廃したからだろう。頴川や汝南は、交通の要衝である。在地社会が、壊されやすかった。頴川や汝南は、土地がたもてないビハインドを補うため、ほかよりも名声を発達させた。
都市の人間(現代日本の東京を想定すると理解しやすい)は、農地をもたない。相互の人間のつながりにより、生きている。都市は、食糧を生産せず、消費するだけの、危うい場所。
頴川や汝南は「先進地域」には違いないが、豪族の勢力がおおきいという点でも「都市」とは言えない。だって豪族は、生産基盤を持っているとされるから(言葉の定義による;実態を吟味するほどの準備はないから先行研究をふむ)。
汝潁は「都市」でなかった。
だが後漢末の戦乱で、汝潁の人は、荀彧が冀州に逃げたように、土地を失わざるを得なかった。土地がないという意味での「都市」の人になった(殷賑するという意味での「都市」でない)。だから汝潁の名声が、ますます盛んになりましたと。
ぼくの経験則では、社員が会社の将来性を信じているときは、営業活動とか、社内業務の効率化に励む。だが将来性が危うくなると、社内の顔色ばかりうかがう。営業そっちのけで、社内をキョロキョロする。だって、いかに営業活動をがんばっても、社内で孤立したら、なんの意味もないから。キョロキョロするほうが(それが生産的かどうかは別として)利益がおおきくなる。
「名声に拠って立つ」なんていう、ハタから見たら非効率・不安定な生き方をするのは、汝潁が戦乱で破壊されたからだろうなあ。
というわけで、
「名士」論は、汝南や頴川の士人の動きと、史料への残り方を、全国&前後の時代に拡大解釈して、分析した議論だと、理解することができた。
1つめは、ウソとは言い切れない。だが、狂人の魯粛を代表的な事例として、時代の「構造」を指摘するのは、ちょっと怖すぎる。もしぼくの指摘を怪しむのなら、同じことを、自分が属する団体に適用された場合の「不適当さ」を思い浮かべてみてください。
2つめは、冒頭で引用した遠藤さんの指摘をふくらませた理解。黄巾(もしかしたら曹操)による戦禍が大きすぎて、そもそも徐州での生産活動がムリだったと。つまり徐州は「砂漠化」したと。
2つめの傍証は、なくはない。確かに、陶謙が徐州刺史に任命されたのは、180年代の後半。つまり、黄巾を中平元年のうちに鎮圧したという「公式見解」より後年である。史料に表しきれない黄巾の残党が、徐州にいたのかも知れない。もしくは、曹操による「虐殺」が、魯粛をビビらせるのに充分だったと。
と、傍証をならべたものの、
徐州の砂漠化も、曹操の虐殺も、現実味に欠く。たしかに黄巾がいて、曹操が殺しただろうが、生産基盤を捨てさせるほどでは、なかろう。生産基盤を放棄したら、死ぬよ。わざわざ生産基盤があるのに、放棄するなんて、愚かだよ。魯粛は史料にあるとおり、養うべき人々がいる。彼らとともに、臨淮を復興?するほうが、まだマシである。
また魯粛は、いちど揚州に行ったのち、祖母を弔うために帰郷した。故郷を見限ったなら、よくぞ、ふたたび長江を北渡したなあ。
この問題につき、
曹操に迂回することで、3つめの理解に達した。つまり、汝潁の人士の動きを、魯粛に投影したものだと。
魯粛が周瑜にクラを進呈した理由は不明だが(臨淮=郷里に見せつけるためだった可能性すらある)、魯粛を「名士」の代表例とし、定義の段階で組みこむのは、難しいと分かりました。上述したように、頴川や汝南の流浪した士人、曹操を支えた士人、の特徴を、あてはめたものだと考える。
渡邉先生は、もちろん荀彧を「名士」とするが、定義の段階では魯粛をつかっていた。定義の段階でも、荀彧を使ったほうが良かったんじゃないか。魯粛や諸葛亮は、「荀彧と共通点の認められる士人」という、二次的な位置づけが妥当だと思います。
(三国時代は、曹魏を中心にマワッテイル)
以上、2012年2月第1週末に考えたこと。以下、本編。
袁紹と公孫瓚_はじめに_119
党錮を契機として、「名士」層が形成された。「名士」層は、全国的な広がりをもつ人物評価を中心とする、自律的な秩序に依拠した。在地社会との直接的な生産関係を、存立基盤としない。
この定義内容は、あたかも、避難した士人の強がりである。直接的な生産関係がほしいに決まっている。そして「全国的な広がり」は、史料に片鱗が窺えなくもないが、、のちに州大中正などから、遡及された可能性がある。考えなければ。ともあれ、土地を追われた士人のあいだで、何らかの人脈がありましたと。
思うに、
全国規模の名声を持つことって、後漢末の「名士」にどれだけの意味があるか、わからない。陳羣の九品官人法ですら、郡中正=郡レベルの名声で判定する。ぎりぎり顔の見える範囲が、郡である。州をまたげば、言語や習俗が異なるだろう。「全国」なんて、観念的な存在でしかない。「全宇宙一の強戦士族」が、どれくらい強いのか分からないのと同じである。
この「強戦士族」は、上司のフリーザ様が度量衡となった。サイヤ人は、フリーザ様と、たまたま格闘スタイルが共通だった(殴る蹴る、気弾で吹っ飛ばす)から、「強戦士族」の強さは、計量可能となった。良かったね、サイヤ人。ただし、フリーザ様のほうが強かったから「宇宙一」という部分は、否定されてしまったが。
(それでも、「強さが計量不能」という、漠然とした状況よりはマシだ)
フリーザの事例にあるように(フリーザの事例がなくても)、共通の度量衡をもった、均質な集団が「全国」に想定されないと、「全国」規模の名声に意味がない。渡邉先生のいう「名士」にとっての「全国」とは、漢室の十三州のことだろう。「名士」の発想は、定義の上で、漢室に依存してたらしい。
(漢室を全否定するなら、「全国」の語を使わずにスローガンを定義すべきだ)
渡邉先生は、諸葛亮の事例から「自己の理想を実現できる国家、主体的に形成する新しい国家」を、「名士」が願ったという。漢室の修正版なのね。これでは、「どうして漢室じゃダメなんですか」という質問に答えられない。漢室で権限を握れば、政敵を一掃し、自派で改革できる。梁冀などの前例あり。
この問いに、先生が根拠とする諸葛亮に答えさせれば、「漢室は曹操が抑えたから」である。「名士」は党錮への抗議活動のはずだったけど、、曹操も抗議の対象??「気に入らないものは、なんでも倒す。オレが権限を握れるならば、手段は選ばないぜ」って、「名士」の性質というより、政治的志向をもつ人に共通した性質だよなあ。また「名士」が、分からなくなってきた。郭泰:宦官=諸葛亮:曹操?
豪族は在地社会にしばられ、せまい地域に結びついて孤立しがち。豪族は強力な群雄に屈服した。「名士」は、はば広い交友関係と連絡網、人物評価と情報の占有により、君主権力に対する自律性を保持できた。
彼はこう言うだろう。「オレは、せまい学校や会社にしばられない。あいつらは、権力に屈服しているぞ。オレには全国に友達がいる。オレたちしか知らない情報がある。オレは、大人たちに絡めとられないぞ」と。
ぼくが後漢末にいたとして、「名士」を論難するなら、「自分探しする若者」を批判する論法を流用できる。こんな感じ。
「人間は、他者との関係によってのみ、何者かになれる。「本当の自分」なんて、どこにもいない。キミらの持っている人脈や情報は、世間の役に立たないから、大人たちが欲しがらないだけだ。いまの世の中、他者との関係を結び、何者かになるには、漢室に就官することだ。現実を見ろ。さっさと出てこい。貧しくてツラいなら、現実を直視せよ。へんに強がって、認識をゆがめるな」云々。
上記、漢室に依存しながら、スローガンを設定する「名士」は、親に依存しながら、親にさからう中学生にも似ている。親が与えた家のなかで、親を否定する。漢室がつくった枠組のなかで、漢室を否定する。その否定は、現実的な根拠に基づかない。
ここまで書いて気づく。
ぼくは漢室が好きだなー、「名士」と言われる集団が嫌いなんだなー。
「名士」は一枚岩でない。地縁や血縁により、分裂した。存立基盤である名声が、主観にもとづくからだ。
地縁によって分断し、汝南と頴川の隣接する郡であっても(もしくは、隣接する郡だから)一枚岩になれない。「名士」は、土地がないから豪族のような強さがなく、土地にしばられるという豪族の弱さだけを継承する。「名士」って、いわゆる「弱者」だ。
官僚となれば地位が安定した。だが後漢の官僚となることは、「名士」としても名声をおとす。
黄巾ののち、群雄の割拠が始まると、「名士」層は抱負実現のため、群雄の幕僚となる。
「名士」とされる人々の列伝を読むと、ふつうに、後漢の地方官の属吏になっただけでは? 州吏、郡吏もしくは将軍府吏になっただけでは?と思う。
対照的な群雄、袁紹政権と公孫瓚政権の「名士」層への対応について。
袁紹:四世三公_120
袁紹は名家出身の「名士」である。
前ページの村田氏がぬいた定義。「名士」とは、、
三国時代の支配階層である。家柄は固定化されない。豪族層にも「名士」にも転化しうる可能性がある。在地社会の直接的な支配者である、豪族層の支持を受けられる。再生産構造とは乖離した「場」における名声に依拠する。だが在地社会に規制力を振るいえた。と。
ぼくなりに判定する。
三国時代の支配階層ではなく(滅びたから)該当しない。官僚の家柄としては固定されてるが、「名士」の要件と関係ない。汝南の豪族だと考えれば、条件を満たす。だが前ページで見たように、豪族出身かどうかの定義はゆるい。定義の一部だとは思えないほど、判定がゆるい。(豪族、非豪族、どちらでも「名士」になれるから)
袁紹は、豪族層の支持は受けてそうだから、「名士」の条件に該当。だがこれって、「汝南の豪族」としての性質だと思う。区別が必要。
再生産構造との乖離は、該当するかも知れない。だが、冀州牧として赴任したことを、乖離というなら、ムチャな定義である。後漢のルールで、本籍の州牧になれない。190年代に、地方官として赴任したら、その一事をもって「再生産構造から乖離した」と言われたら、たまったもんじゃない。
(サッカー選手がルールどおり手を使わねば、「手が利かない」と言えるか)
在地社会に規制力を振るった。これは該当。だが、汝南を豪族として規制し、冀州を州牧として規制したと考えることは可能。少なくとも、「名士」ゆえに汝南を規制し、「名士」ゆえに冀州を規制したという、証明が必要。
というわけで、「名士」の定義がよく分かってないぼくが判定した結果、袁紹が「名士」とは確かめられなかった。「名士」の定義を理解していないぼくには、「名士」の判定能力がないことになり、当然の結果なのか、、
先生は「士に下り、士は多く之に付す」と史料をひき、袁紹に名声があったことを示しておられる。確かに名声は読みとれるが、それじゃあ、後漢の名官としか言えない。ぼくが見るに、「名士」の定義の排他性・唯一性は、在地社会から離れることなのだが、、袁紹は汝南に党人を匿ったりしてる。官渡のとき、汝南が袁紹を支持して、満寵が討伐している(先生は史料を引用している)うーん。
従来の袁紹政権論は、官渡で敗退した理由を、袁紹政権の性質にもとめる。
1つ、官渡から遡及して分析するから、袁紹の悪いところしか出てこない。曹操との差異を見つけることが、至上命題である。分析対象が「袁紹の敗因」なのだから、問題設定の時点で視角が固定されてる。曹操との共通性を、指摘してはいけない。不可避的にそうなっている。
渡邉先生も、敗退の理由を探すという視角は継承する。「名士」論でも、袁紹政権を網羅的に記述するのでなく袁紹の敗因しか出てこない。これは議論の欠陥とかじゃなく、「ただ、そういうもの」である。是も非もない。
2つ、渡邉先生の整理の仕方から、渡邉先生は「袁紹政権の性質」でなく、袁紹政権を包含する、同時代に共通の「構造」のようなものを示すことが期待される。先生の結論を先どると、袁紹自身が「名士」だから、「名士」を重んじすぎて、迷走したと。上で、袁紹自身が「名士」だという話が、よく分からなかったので、心もとないけど。
宮川尚志は、門生故吏が軍閥化の基礎になったという。矢野主税は、冀州牧の兵力と軍糧、官僚としての力だという。
秋山公哉は袁紹が、経済や人材を郷党に依存しないという。曹操が地方豪族の集合体で、郷党に依存したことと対照的だという。大久保靖は袁紹を、門生故吏を武装させた、豪族の集合体という。門生故吏との関係が功利化したため、曹操にやぶれた。
累世の官僚(在地性なし)か、門生故吏をもつ豪族(功利化している)か、という観点に大別できる。
渡邉先生が分析する。
満寵伝に、汝南の「壁」に、袁紹の「門生・賓客」がいたとある。豪族性を否定できない。また曹操集団にも、門生故吏の関係があるから、これを袁紹の特殊性だとはいえない。功利化を敗因とはいえない。
まったく台無しなことを言えば、官渡は「勝敗は時の運、兵家のつね」じゃないのかなー。袁紹集団と曹操集団は、だいたい同一で(曹操集団は、袁紹集団の一部だったし)、たまたま勝敗が生じただけだと。そんな指摘は、研究じゃない。分かってます。しかし、ムリに差異を求めなくてもいい気がする。「袁紹と曹操の共通点は何か」という問題の立て方のほうが、見落としが少ないような、、やりましょう。
袁紹政権の構造_123
山崎光洋はいう。袁氏は名族と婚姻した。扶風の馬氏、陳留の高氏、頴川の李氏(李膺)、中山の甄氏、弘農の楊氏。渤海太守の袁紹は、反董卓連合軍で「統合の象徴」であった。
袁紹が政権を樹立するためには、門生故吏を中核としつつ、どれだけ多くの「名士」を政権に参加させるかという問題が焦点となる。
袁紹の名声が高い(と史料にある)ことは、全く否定するつもりがないのだが。再生産構造から離れた「弱者」たちを、どうして重点的に採用するのか。
和洽伝で、袁紹は冀州から汝南に使者をやり、汝南の士大夫を迎えた。袁紹とおなじく、汝南を名声の「場」とする曹操の集団に、汝南「名士」が存在しない。おおくの「名士」を輩出した汝南からは、おおくが袁紹集団に加入したと推測する。頴川からは、荀諶、辛評、郭図ら「名士」が出仕した。
頴川は主戦場となったから、おおくが頴川から離れざるを得ず、離れた。本人の希望は別にして、「名士」として流れざるを得なかった。汝南も戦場であるが、頴川ほどは荒廃せず、「名士」として流れる必要はなかった。袁紹と個人的によほど親しい人は冀州についていった(任侠的結合という術語があたるのか)。その他は、ふつうに汝南の在地社会、再生産構造をキープした。官渡のとき、袁紹に同調して、満寵の攻撃を受けた。これで、すんなり理解できた気がする。
河北で官僚としての権限をふるい(しかも四州)、河南で豪族としての権限をもつ(おもに汝南)。袁紹、ふつうに強いよ!、という理解じゃダメなのか。
袁紹政権の構成員は、どんなか。刺史となる親族、北方民族、黄巾の残党(張楊らしい)、河北の人士(沮授や田豊)、何顒グループ(許攸、荀諶、辛評、辛毗、郭図、逢紀)の個人的な結合など。
この問題を、ぼくは立てたい。除外する理由がわからない。
韓馥は、袁氏の門生故吏だ。袁紹や曹操が、「名士」と門生故吏の関係を結んだことは、上にあった。頴川出身だ。頴川は「名士」の名産地だ。荀爽や劉表や袁紹のように(事例は甚大)董卓に重んじられ、冀州牧になった。「在地から離れて」頴川から冀州に移って、冀州を治めていた。董卓のいる後漢に反対し、袁紹の兵糧をささえた。頴川に荀彧を迎えにいった。後漢の現体制に反対し、べつの皇帝(理想とする国家の実現?)をねらった。袁紹と同じく、部下が分裂した。張邈に匿われた。
いかにも「名士」の資格がありそうだ。
ぼくが推測(邪推ともいう)するに、「名士」を重んじるはずの袁紹に、重んじられなかったから、韓馥は「名士」でない。そういう、ご都合的?な論法により、韓馥は「名士」の仲間に入れてもらえなかったのではないか。定義に照らせば、韓馥も「名士」だ。
っていうか、「名士」の該当・非該当が、論者の思いのままである。これで構造を語るのは、ちょっと大変。
袁紹に出仕した「名士」の文化的価値は、軍事的価値に転じた。だが「名士」沮授や田豊は、才能を発揮できず。武帝紀の建安十年にあるように「阿党比周」が冀州の俗だった。
荀彧は、袁紹の君主としてのあり方をいう。「名士」の分裂・功曹を招いたことについて、「名士」の意向を尊重しすぎた結果だという。
「君主」「群雄」というのは、どういう人たちだ。「君主」「群雄」は、言い換えがあるので、だいたい同じ意味だろう。官職は、州牧、刺史、太守、国相あたりか(定義がないので推測)。袁紹の事例があるように、「名士」と兼務できるらしい。
ぎゃくに、本の章立から推測するに、
三国政権の「君主」は、いずれも「名士」との兼務が難しそうだ。曹操は汝南に名声をもとめ、劉備は生産基盤を捨てるのが得意?で、名声があるらしい。曹操も劉備も、いかにも典型的な「名士」っぽいが、あくまで「君主」という扱いである。孫堅も「君主」の視点で分析され、他の「群雄」との関係がよく分からない。
のちに三国政権を作ることができれば、190年代の行動も「君主」として分析されるのか。孫堅に到っては、死後に次男が皇帝をとなえれば、長沙太守や豫州刺史という官位はさておき、「君主」なのか。渡邉先生の書き方にならえば、「名士」層と自己の権力のバランスをとれたのが、三国政権である。バランス・ゲームに最終的に勝利すれば、「君主」としての一貫性を見出されるのか。どこまでも遡及的な問題設定であることに留意。
袁紹自身が「名士」であり、「名士」の自律的秩序に一方的に従ったため、公権力になれなかった。
(葛藤という内面の活動はのぞく;せめぐには他者を必要とする)
では袁紹は、「君主」になりきらず「名士」のままだったから滅びたと理解すればよいか。とても魅惑的な命題です。これを言えば、議論が整合するから。整合させるためには、「名士」と「君主」の差異を定義する必要がある。。
残念なことに、この試みは挫折する。「名士」と「君主」を分ける、定義はない。どうやら袁紹は、「名士」と「君主」を兼務したようなのだ。
「名士」と「君主」を兼務すると滅びる、というルールがあるのだろうか。これなら、渡邉先生が、ほのめかしてる。袁紹、劉表、劉虞は「名士」から「群雄」となったので、「名士」と文化的に同質ゆえに、君主権力を確立できなかったと。
「群雄」は外面で、「名士」は内面の問題? いや違う。「名士」は、他者からの名声によって「名士」になるのだ。「名士」は内面、心持ちという次元ではないはず。
ええと、
ぼくがムリに読解すると、理想的な天下統一のためには、まず「名士」が割拠して「群雄」となる。とくに官位は問わないようで、実態(ってなんだ)によって判定される。「群雄」は、「名士」の文化的な性質をはねつけ、「君主」に進む。
、と読解したいが、そうもいかない。「名士」性を残しているにも関わらず、袁紹を「君主」と書いた箇所もある。126ページなど。あー、わからん。
曹操、劉備、孫権は「名士」との兼務をいち早く解除したから、三国政権を樹立することができた。そういうストーリーを、ムリに理解しようと思ったが、そういう言葉の用法でもないらしい。そもそも、曹操、劉備、孫権が、「名士」らしさを脱ぎ捨てたなんて話は、史料から作りにくい。渡邉先生も書いてない。章立のマジックをつかい、3人は、はじめから「君主」として登場する。詳述を回避したのかも知れない。
「名士」袁紹は、「名士」を尊重し、「名士」に支持されて君主となった。だが「名士」は、「名士」袁紹を支持する「名士」と、「名士」袁紹を支持しない「名士」に分裂し、「名士」に支えられ、かつ「名士」とせめぎあった「名士」曹操に破れた。これが官渡の勝敗の原因である。
「名士」という言葉に、いろんな意味がありすぎて、分からない。まるで大相撲のラジオ実況から、力士名をぬいて聞かされているように、よく分からない。ソシュールを待つことなく、言語の機能は、差異を際立たせることなのに。
この「名士名士名士」論により、官渡の勝敗を分析できたのだろうか。「名士」という語にいくつもの意味があり、たまに両義性&矛盾をはらむ。結果、袁紹と曹操の決定的な差異が、よく分からない。もしぼくが袁紹になり(楽しい設定だなあ)官渡に臨んだとして、「名士」論を読んでカンニングしたら、戦いが有利になるか。うー。
ただし袁紹は、公孫瓚には勝った。公孫瓚につづく。
公孫瓚:「名士」と君主権力_128
公孫瓚は袁紹の対極である。
世々2千石に生まれたが、母が賤しい。太守に評価され、盧植に学んだが、軍人として頭角をあらわした。君主権力を強大化するため、黄巾を組み入れた。「衣冠の子弟」でなく、占師や商人と「兄弟の誓」をした。
高官の家に生まれたのは、同じ。袁紹の「四世三公」ほどでないにしろ、「世々2千石」は高官だ。母が賤しいのも、袁紹と同じ。黄巾を組み入れたのは、さっき渡邉先生が袁紹について書いていたことに符合。
(異民族に対する強硬さは、袁紹や劉虞と違うのは認めます)
公孫瓚は軍人だとされるが、べつに腕っ節でのしあがったのでない。太守の評価ありきだ。公孫瓚は、袁紹が挙がりそびれた孝廉に選ばれた。鮮卑に突入したのは、遼東属国の長史として、ピンチに陥ったときだ。呂布とはちがい、士人の指揮官である。
(呂布が庶人の出身なのか、知りませんが)
渡邉先生は、呂布を公孫瓚と同じとして、「名士」との関わりを持たない集団とする。陳宮は「名士」じゃなかったのか。故郷から徐州に流れて奮闘したから、「名士」っぽいと思ったのに。陳珪や陳登は(味方しないものの)呂布と関わりは持ったはず。陳珪や陳登を重んじたから、呂布の徐州支配がグラついたと理解している。この理解が正しい場合、陳珪や陳登も「名士」でない。判定条件が難しいなあ。
公孫瓚が商人らを重んじたのは、擬制血縁的な任侠関係。「儒教国家」が成立する以前におもんじられた価値観。
この報恩する任侠的結合は、袁紹の性質に似ている。在官の者でなく、市井の人を重んじて契ったのは、「奔走の友」をつくった袁紹と同じ。袁術は「三公の子弟」と交わったが、袁紹は官位にこだわらず、むしろ官位の低い人にも遜った。交際相手の卑賤さでは、公孫瓚と大差ない。
また渡邉先生は、公孫瓚が「儒教国家」以前の価値観にとどまったことを強調し、公孫瓚が「名士」と親和しないという。だが、盧植に学んでいるじゃん。渡邉先生は、盧植に触れたあと、「結局、儒者でなく軍人として頭角を現した」と書いて、学歴をリセットする。もし公孫瓚を「名士」だという文脈で論じたければ、盧植の一事をもって「名士」の人脈に列すに違いありません。自由自在な術語だ。(ぼくの邪推)
さらに疑問なのが、「名士」のなかで、儒者という肩書で、頭角を現した人が、出てきてないということ。袁紹だって、儒者として登場したのでない。袁紹との差異とは言いにくい。っていうか、儒者の専業者は、見下されるという説明もあった。
儒教的官僚の劉虞を殺し、劉虞の従事らに崩壊させられた。酷吏の関靖をもちいた。「名士」を挙用せず、抑圧した。「名士」を排除した政権は、長期にわたって政権を維持できない。
公孫瓚が死んだのが、199年。袁紹が死んだのが、202年。この数え3年が、それほど決定的に違うのか? 袁紹が冀州に登ってくる前から、公孫瓚は幽州にいる。起算の時期はいろいろ設定できるが、袁紹のほうが遥かに長いとは言えまい。むしろ、孤城の易京を、何年も保ったことのほうが、すごいと思う。ぼくは、公孫瓚が袁紹より安定したと言いたいのでなく(そこまではムリ)、公孫瓚と袁紹は、それほど変わらない、と言いたい。
この節から、
「勝敗の理由を明らかにする」という問題設定は、回答の提示が、うまくいかない(知性が不調になる?)場合が多いことが、わかってきた。
袁紹は「名士」を尊重しすぎ、公孫瓚は「名士」を抑圧し、破れた。
(いる+いない=全集合)
あいだをとって、「名士」とのバランスを取れたのが三国政権だというが、たのしい結論とは言いがたい。「バランスが大事だ」という指摘で、何かを言ったことになるか。「食塩を適量いれた料理は、おいしい」に似ている。おいしいのは、食塩が適量だった場合だ。何も言っていない。
最後は、三国が滅亡した原因を、「名士」とのバランスを失ったから、という話になるのだから、罪深い。「食塩を入れすぎたので、料理がまずくなった」と言われても、どれくらいで「入れすぎ」なのか、分からない。まずいから、食塩を入れすぎなのだ。結果、ただ、目の前に塩辛くて食べられたものじゃない皿が横たわるのみだ。
問題を立て直すなら、
「バランスが適切となるのは、どんな方法によってか」「君主と「名士」のせめぎ合いを可能にしているのは、どんな背景か」などがあるかなあ。これを考えるには、「名士」の定義を固めなければならず、ちょっとぼくには難しそう。
さら言うと、
この本は、「構造」という問題の立て方をしてある。「構造」という切り口は、人の気持ちを排除するという宣言である。「人がどう思っていようと、必然的にこれこれの結果を招かざるを得ない」というのが、構造だと思う。ぼくが思うに、二袁や三国を分析するとき、漢室に対する視点(「君主」の気持ち)は、あまり考慮されない。ぼくには、重要な視点が落ちているような気がするが、それは「構造」を扱うのだから、ほぼ無視しうるってことか。何となく、現体制への不満があれば「名士」であり、不満の中身は問いませんと。
再読のおわりに
袁術は、孫呉の章で扱われてますが、「名士」論を持ち出すまでもなく、「自己撞着」したので滅びたと切られておしまい。袁術に関しては、「名士」論の「構造」の観点では、ノータッチだった。袁術は、漢室に対する態度が問われる。
袁紹だって、同じことが言えるだろうに、とくに比較なし。うー。
今回、
ぼくなりに吟味し直してみて、思ったこと。「名士」という言葉を、軽々しく使っちゃいかんな、と思った。まったく本人にそのつもりがなくても、「名士」という語句を後漢や三国について使うとき、渡邉先生の本に同意したことになる。(同意してなくても、そう解釈されたら反論できない)
単純に「名声ある士人」くらいのニュアンスで使ってはいけない。ちゃんと術語=分析概念として、賛同した上でつかうべきだ。ぼくは、しばらくは意識的に保留します。「名士」論の切れ味の良悪でなく、把握できないことが多すぎた。120206