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『晋書』列39、元帝の逃げ場 8)周顗-下、周閔
顗性寬裕而友愛過人,弟嵩嘗因酒真目謂顗曰:「君才不及弟,何乃橫得重名!」 以所燃蠟燭投之。顗神色無忤,徐曰:「阿奴火攻,固出下策耳。」王導甚重之,嘗枕顗膝而指其腹曰:「此中何所有也?」答曰:「此中空洞無物,然足容卿輩數百人。」導亦不以為忤。又于導坐傲然嘯詠,導雲:「卿欲希嵇、阮邪?」顗曰:「何敢近舍明公,遠希嵇、阮。」

周顗の性格は寬裕で、過人を友愛した。
弟の周嵩はかつて酒を飲んで、周顗に面と向かって言った。
「キミ(兄貴)の才能は弟(オレ)に及ばない。なぜ横取りして重名を得ているんだ」
そう問いつつ、燃えている蝋燭を周顗に投げつけた。周顗は顔色を全く変えず、おもむろに言った。
「阿奴(弟よ)火攻めか。お前は下策しか思いつかない人間だよ」
〈訳注〉前に従弟の周穆にも、突っかかられたことがある。身内に嫌われるのが得意らしい。
王導は周顗をとても重んじた。かつて王導は、周顗に膝枕してもらった。王導は、周顗の腹を指差して言った。
「この中には、何が入っているのかね」
周顗は答えた。
「私の腹の中は空洞で、何もありません。ただ卿輩が數百人ほどが入るだけです
〈訳注〉周顗の受け答えは、自分の度量の大きさを示しているから上手い。だが、突っ込むべき相手は王導だろ。なぜ膝枕。。
王導はまた「そうか」と認めた。
別のとき、周顗は王導の上に座って、傲然と嘯詠した。
〈訳注〉この密着ぶりは、何なんだ。
王導が言った。
「きみは、嵇康や阮籍ら、竹林の七賢のようになりたいのか?」
周顗が答えた。
「なぜ近くに明公(王導さん)が入るのに、(時代が違って会うことのできない)遠い嵇康や阮籍になりたいと思うのですか」
〈訳注〉「私はあなたに染めてほしい。浮気は絶対にしない」と。これは同性愛だ。王導っていったい・・・

及王敦構逆,溫嶠謂顗曰:「大將軍此舉似有所在,當無濫邪?」顗曰:「君少年未更事。人主自非堯舜,何能無失,人臣豈可得舉兵以協主!共相推戴,未能數年,一旦如此,豈雲非亂乎!處仲剛愎強忍,狼抗無上,其意寧有限邪!」

王敦が構逆したとき、温嶠は周顗に言った。
「大將軍(王敦)がこのたび挙兵しましたが、(もともと王敦は権勢を誇っていた人だから)状況は以前とあまり変わりないと思います。『濫』には当たらないのではありませんか?」
周顗は言った。
「キミはまだ若いから、ものの見方を変えないのだ。人間である君主は、堯舜ではないよ。過失がないということはない。人臣が、どうして君主に協力した状態のまま、兵など挙げるのかね。司馬氏を王氏が推戴して助けて、まだ数年も経っていない。いちど抗争が始まってしまえば、『乱』と認めねばならん。處仲(王敦のあざな)は、剛愎で強忍な人物で、狼抗することは上がない。彼の野心に、限りなどあろうものか」

既而王師敗績,顗奉詔詣敦,敦曰:「伯仁,卿負我!」顗曰:「公戎車犯順,下官親率六軍,不能其事,使王旅奔敗,以此負公。」敦憚其辭正,不知所答。

元帝軍が敗れると、周顗は詔を携えて王敦を訪ねた。
王敦が言った。
「伯仁(周顗のあざな)、オマエはオレに負けたぞ!」
周顗は言った。
「あなたの戎車は順を犯し(指揮命令のルールを破り)、下官が自ら六軍を率いた。兵の統率に失敗して、(結果としてあなたは)元帝軍を奔敗させたに過ぎない。そういう意味で、負けたのはあなただ
王敦は、周顗の言うことが正しいので、なんと答えたらいいか分からなかった。

帝召顗於廣室,謂之曰:「近日大事,二宮無恙,諸人平安,大將軍故副所望邪?」顗曰:「二宮自如明詔,於臣等故未可知。」護軍長史郝嘏等勸顗避敦,顗曰:「吾備位大臣,朝廷喪敗,寧可複草間求活,外投胡越邪!」俄而與戴若思俱被收,路經太廟,顗大言曰:「天地先帝之靈;賊臣王敦傾覆社稷,枉殺忠臣,陵虐天下,神祇有靈,當速殺敦,無令縱毒,以傾王室。」語未終,收人以戟傷其口,血流至踵,顏色不變,容止自若,觀者皆為流涕。遂于石頭南門外石上害之,時年五十四。

元帝は周顗を廣室に召して、言った。
「近日の大事(王敦との戦闘)があったが、二宮はつつがなく、諸人は平安だ。大將軍(王敦)は専横をやめて、元どおり臣下の立場に戻ろうと願っているのだろうか?」
周顗は言った。
「二宮は元帝の仰るとおり、つつがないでしょう。しかし私たち諸人が、元帝の言うとおり、平安かは分かりませんよ
〈訳注〉温嶠も元帝も、王敦が穏便に矛を収めてくれるのを期待している。その期待が、よほど濃かったことが分かる。
護軍長史の郝嘏らは、周顗に、
「王敦と絡むのをやめた方がいい」
と忠告した。周顗は言った。
「私は朝廷で、大臣の位に着いている。朝廷が喪敗してしまい、どうして草間に活路を求めることができようか。もしくは、外の胡越に投降しろと言うのか」
〈訳注〉「朝廷の中で、王敦と距離を置け」と言われたが、周顗は「朝廷は王敦そのものなんだ」という理屈から、逆ギレした。忠告した人が可哀相である。
にわかに戴若思と周顗は、捕らえられた。護送するとき、太廟の前の道を通った。周顗は大声で叫んだ。
「天地と先帝の靈よ。賊臣である王敦が、社稷を傾覆して、忠臣を枉殺し、天下を陵虐している。神祇に靈があるなら、速やかに王敦を殺して、毒が垂れ流されて王室が傾くのを防いでくれ」
〈訳注〉最期は意外に平凡な台詞で、がっかりだ。
セリフを言い終わる前に、押さえつけられて、戟で口を傷つけられた。血が流れて、かかとまで達した。だが周顗は顔色を変えず、容姿は自若とした。周顗の態度を見た人は、みな流涕した。
石頭城の南門外で、石に乗せられて周顗は殺害された。54歳だった。

顗之死也,敦坐有一參軍樗蒱,馬於博頭被殺,因謂敦曰:「周家奕世令望,而位不至公,及伯仁將登而墜,有似下官此馬。」敦曰:「伯仁總角於東宮相遇,一面披襟,便許之三事,何圖不幸自貽王法。」敦素憚顗,每見顗輒面熱,雖複冬月,扇面手不得休。敦使繆坦籍顗家,收得素簏數枚,盛故絮而已,酒五甕,米數石,在位者服其清約。敦卒後,追贈左光祿大夫、儀同三司,諡曰康,祀以少牢。

周顗が死んだ。王敦の1人の參軍は、馬に乗って周顗の頭を踏んで殺した。参軍は、王敦に言った。
「周家は代々声望を増してきたが、三公には至らなかった。伯仁(周顗)の代で、今にも三公に手が届くかと思われたが、登らず墜ちた。堕ちて今は、下官のこの馬の足の下にいるのだ」
王敦は言った。
「伯仁(周顗)は、東宮(司馬紹)と幼馴染として処遇されている。ミスを犯しても、3たび赦された。なぜこれほど厚遇されているのに、なぜ自ら王法をオレに差し出すようなバカなことをしたんだ」
〈訳注〉「総角」とは幼馴染のこと。『三国志』に、周瑜と孫策の間柄として用例がある。「貽」は、後に残すこと、プレゼントすること。
王敦はふだん周顗をはばかった。周顗と会うたびに、たちまち顔面が熱くなり、冬だとしても扇で顔や手を、休まずあおいだ。王敦は繆坦に命じて、周顗の家を探させ、素簏を數枚だけ持ってきた。古い綿を盛っただけで、酒五甕、米數石を周顗の死体に供えた。官位にある人は、服を清く質素なものにした。
王敦が死んでから、周顗は左光祿大夫、儀同三司を追贈され、「康」と号を贈られた。祀以少牢。

初,敦之舉兵也,劉隗勸帝盡除諸王,司空導率群從詣闕請罪,值顗將入,導呼顗謂曰:「伯仁,以百口累卿!」顗直入不顧。既見帝,言導忠誠,申救甚至,帝納其言。顗喜飲酒,致醉而出。導猶在門,又呼顗。顗不與言,顧左右曰:「今年殺諸賊奴,取金印如鬥大系肘。」既出,又上表明導,言甚切至。導不知救己,而甚銜之。敦既得志,問導曰:「周顗、戴若思南北之望,當登三司,無所疑也。」導不答。又曰:「若不三司,便應令僕邪?」又不答。敦曰:「若不爾,正當誅爾。」導又無言。導後料檢中書故事,見顗表救己,殷勤款至。導執表流涕,悲不自勝,告其諸子曰:「吾雖不殺伯仁,伯仁由我而死。幽冥之中,負此良友!」顗三子:閔、恬、頤。

はじめ王敦が挙兵したとき、劉隗は元帝に要請した。
「王敦の一族を、ことごとく除いて下さい」
司空の王導は、王氏たちを連れてきて赦しを請うた。その場に周顗が入ってきた。王導は周顗を呼んで言った。
「伯仁(周顗のあざな)よ、弁明の言葉を途切れさせず、キミの登場を待っていたんだ」
〈訳注〉「累」は、かさなる、かさねて、しきりに、わずらわす、かかわりあい、つなぐ、つがなるの意。ここでは「百口(たくさんの言葉)をもって、卿(あなた)につないだ」と読みました。
周顗はただちに入室し、王導を振り返らなかった。周顗は元帝を見て、
「王導は忠誠な人です」
と言い、言葉を尽くして救済を願った。元帝はそれを認めた。
周顗は喜んで酒を飲み、泥酔して退出した。なお王導は門のところにいて、周顗を呼んだ。周顗は何も言わず、左右を見てから口を開いた。
「今年は諸賊奴を殺し、金印を肘からぶら下げたいものです」
〈訳注〉「王氏を滅ぼして、勝軍を率いる名誉に預かりたい」と、脅かしたのだ。左右を見たのは、上奏と矛盾したことを言うから。
ふたたび周顗は上表して、王導に過ちがないことを証明した。周顗の言葉は、切実なものだった。王導は周顗が助けてくれたことを知らず、冷たい周顗のことを根に持ち続けた。
〈訳注〉「銜」は、くつわ、ふくむ、くわえる。
王敦が志を得ると、王導に聞いた。
「周顗と戴若思は、南北之望だ。きっと三公に登るだろう。間違いないよな」
王導は答えなかった。王敦はまた聞いた。
「もし周顗と戴若思が三公にならなければ、オレの命令に従うだろうか」
王導はまた答えなかった。王敦が脅した。
「もし答えなければ、あんたを殺すぞ」
それでも王導は黙ったままだった。
〈訳注〉王敦にとって厄介だったのは、戴若思と周顗だったことが分かる。独走ではないのだ。
のちに王導は、中書の記録を閲覧して、周顗がとても殷勤(ていねい)で款至(こまやか)に上表をして、自分を救ってくれたことを知った。
〈訳注〉「款」は、まこと、まろやかで欠けてない、よろこぶ、まとまる。
王導は上表を手にとって流涕し、悲しんでどうにもならなかった。王導は諸子に告げた。
「私は伯仁(周顗)を殺さなかったが、伯仁は私のせいで死んだ。幽冥之中(あの世)に行ったら、責任を取って良友に謝ろう」
周顗には、三子があった。閔、恬、頤である。
周閔
閔字子騫,方直有父風。曆衡陽、建安、臨川太守,侍中,中領軍,吏部尚書,尚書左僕射,加中軍將軍,轉護軍,領秘書監。卒,追贈金紫光祿大夫,諡曰烈。無子,以弟頤長子琳為嗣。琳仕至東陽太守。恬、頤並曆卿守。琳少子文,驃騎諮議參軍。

周閔は、あざなを子騫という。方直で、風貌が父に似ていた。衡陽、建安、臨川太守を歴任し、侍中、中領軍、吏部尚書、尚書左僕射になった。中軍將軍を加えられ、護軍に転じて、秘書監を領ねた。死ぬと、金紫光祿大夫を追贈された。「烈」と号を贈られた。
周閔には子がいないので、弟の周頤の長子である周琳が嗣いだ。周琳は、東陽太守にまでなった。
周恬と周頤は、どちらも九卿や太守を歴任した。
周琳の末子の周文は、驃騎諮議參軍になった。   
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このコンテンツの目次
『晋書』列39、元帝の逃げ場
1)劉隗-上
2)劉隗-下
3)劉隗の親戚
4)刁協、刁彝
5)戴若思
6)戴邈
7)周顗-上
8)周顗-下、周閔