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- はじめに、+語句の解説 open
『三国志』じゃなくてすみません。ブルデューと『三国志』を結びつけるアイディアを、渡邉先生の「名士」論とは別の経路で、考え中です。
訳者による語句の解説
卓越化=ディスタンクシオン
他者から自分を区別して、際立たせること。階級文化の維持と、既成階級構造の維持との基本原理。単なる「区別」でなく、戦略的概念として用いられる。
文化資本
文化に関わる、有形・無形の所有物の総体。3種あり。
身体化された文化資本(家庭環境・学校教育で蓄積された、知識・教養・技能・趣味・感性)がある。客体化された文化資本(書物・絵画・道具・機械)がある。制度化された文化資本(学校制度、試験により賦与された学歴・資格)がある。
社会関係資本
集団に属することにより得られる、人間関係の総体。家族・友人・上司・同僚・先輩・同窓生・仕事上の知人。つながりによって利益が得られる場合に用いる概念。いわゆる「人脈」。
原語は、キャピタル・ソウシャル。「社会資本」は、べつの意味の日本語として定着しているため、訳者は「社会関係資本」とした。
いま検索した。ウィキペディアより。「ピエール・ブルデューは文化資本、経済資本に対置する資本として位置づけ、三者相互の互換性を指摘した。」と。なるほど。社会資本、文化資本、経済資本の3つかあ。
経済学では「企業・個人の双方の経済活動が円滑に進められるために作られる基盤のこと。インフラ」らしい。ふーん。聞いたことあるかも。
慣習行動(プラチーク)
ふだん行っている行動。意識的な実践(政治・宗教)がある。日ごろの行動(食事・会話・趣味・運動)がある。
ハビトゥス
性向(行動・知覚を規定する潜在的な方向づけ;個人の資質だけでなく、社会的に獲得される)の体系として、ある階級・集団に特有の、行動・知覚の様式を生産する規範。慣習行動は、否応なくハビトゥスによって、一定の方向づけを受ける。規定され、生産される。閉じる
- 1章 文化貴族の肩書と血統 open
序文_003
文化的な財にも、ひとつの経済がある。金銭的な経済とは、ことなる論理をもつ。文化財の消費者と、趣味が生み出される諸条件を明らかにする。
文化的な財も「消費」されるものなんだな。芸術を鑑賞したり、芸術品を所有することが「消費」にあたるらしい。おもしろい比喩だと思う。文化的な欲求は、じつは教育の産物である。文学・絵画・音楽などの選好は、教育水準・出身階層に結びつく。趣味は「階級」をしめす特権的指標となる。獲得したのが、家庭か学校かで、ヒエラルキー化される。家庭のほうが早く獲得できる。
学校で追いついても、すでに遅れているのだから、追いつくことができない。こういう「戦いが始まった時点で、勝負がついている」という性質の論法は、みんなの「やる気」を失わせる。だが、たいていの事柄は、たいていそうなのだ。
芸術作品を鑑賞するとは、作品がもつ様式を再認すること。芸術作品によって「意味されるもの(シニフィエ)」を読解すること。芸術作品と出会っても、稲妻の一撃は起こらない。解明・解読の作業でしかない。_006
鑑賞する「眼」は、歴史の産物である。教育が再生産する。作品に重要なのは、内容よりも形式である。画家も鑑賞者も「素朴」でいられない。
「眼」の有無は、社会的な断絶である。芸術は、弁別的・卓越的である。大衆の安易な参入や、通俗的な自己同化を拒否する。_009
芸術を理解できない庶民階級は、あらゆるイメージが、明確にひとつの機能を果たすことを期待する。判断において、道徳・楽しみなどの規範を参照したがる。作品がもつ、虚構や表象を、まじめ・素朴に見る。日常生活とおなじ図式で、作品を鑑賞してしまう。単純化してしまう。
貴族は、表象(表現の形式)を愛でて、その形式を知らない庶民を、ボイコットする。ボイコットにより、自分たちを庶民から弁別し、自分たちを卓越させる。庶民は、事物(表現の内容)を、額面どおりに受け止める。裸の写真は、象徴性が欠けており、そのままである。だから貴族は、裸の写真を喜ばない。庶民は、裸の写真を喜ぶ。_013
1章 文化貴族の肩書と血統_019
趣味とは。支配階級という場での争点。文化生産という場での争点。
フランス語では「争点」と「賭金」は、同じ言葉らしい。
消費される財の性格、消費の仕方によって、性向・文化的能力が把握される。学歴資本、出身階層とむすびつく。学歴資本が同等であれば、正統的分野(学校で習う分野)から遠ざかるほど、出身階層のしめる比重がふえる。
出身階層と学歴資本という、2つにしぼったところが、勇気があるなー!と思う。
消費者の選択に委ねられるもののうち、正統的な芸術作品は、分類づけ=等級づけの作用がもっとも強い。正統的作品とは、バッハである。
正統的のしたに、中間的趣味、大衆的趣味がある。_027
◆文化貴族の肩書_029
学歴資本は、美術館を訪れる頻度と相関する。
学校は、正統的文化に関する、全般的性向を形成する。やがて「学校で習うこと」を越えて、性向が応用される。学校では、なんの利益にならない経験・知識を、目先の利益にとらわれず蓄積しようとする。性向が一般化する。学歴という肩書が賦与される。学歴をもつと、その肩書にあうように、卒業後も勉強する。_038
学歴のような肩書は、象徴的強制効果がある。学歴資格の持主に、ふさわしい教養を持てと、暗黙のうちに強いる。_040
教育機関は、差異を生産・強化する。
学校で身についた、文学作品や哲学著作に親しむような「正統的への志向」は、ほかの分野にも拡大する。映画館から遠ければ、あまり映画は見ない。だが、映画監督の名前のような、無償の知識を、蓄積してゆく適性・能力はある。_043
勉強がクセになる。学校は「勉強しろ」と要請する。勉強する人間が形成される。勉強する人間は、社会にでると、学歴を帯びる。学歴は「勉強をつづけろ」と要請する。勉強をつづける人間が形成される。
いちど乗りかかったバスから、降りることができない。どんどん遠くにいく。ただし、バスに乗るとき、厳しい選別がある。バスに乗れない人は、いちど乗りそびれると、なかなか乗れない。下手すると、二度と乗れない。バスに乗った人との差異は、拡大するのみ。拡大するのみ。
これが、たとえば大学入試の、たった1日や2日で決まってしまう。だから「たった4年」の大学生活のために、「1年」浪人するんだなあ。学歴社会について、いろんな議論があるけど、根拠なしではないわけだ。映画監督についての知識は、文化資本の所有量と結びつく。_044
学校教育をもじったような作業をする人がある。映画のクレジットタイトルを、分類カードにとるなど。こういう能力は、気づかずに蓄積され、正統的教養を身につけてゆく性向である。
美術館は、美的な形式がもつ要請を客体化したものである。美的な性向を客体化した物である。美的なものは、機能よりも形式が、絶対的に優位である。
形式を探求すると、文学・演劇は、難解となる。庶民には「素人を近づけまいとする、玄人たち」の指標となる。貴族は、内容よりも形式を発達させて、庶民を遠ざける。_057
どっちだろう。貴族は、庶民を遠ざけようと思って、難解に向かうのだろうか。それとも、貴族はもともと難解に向かうものであり、結果的に庶民が遠ざかってしまうのだろうか。
もし貴族が「庶民を遠ざけてやろう」なんて思っていたら、そんな貴族は低俗だな。貴族は、庶民なんか気にしちゃいかんだろう。もしくは、貴族の仲間うちの関係を強化するために、難解に走るのか。いや、仲間うちを強化するとき、「庶民を遠ざける」という仕方を採用するならば、庶民のことを気にしてなくても、気にしてるも同然なのか?
このあたりの生成の問題は「同時に立ち現れる」という説明が便利だなあ。難解ぬきで貴族はなく、貴族ぬきで難解はない。しかし、こんな説明では、いまいち理解が深まらないのが問題。
ともあれ、卓越化・差別化=ディスタンクシオンが、この本のテーマ。美的なものがもつ、卓越化・差別化のはたらきについては、詳しく論証されている。実用の目的がない写真は、「ブルジョアの写真」である。_068
なんで、なんのために、人は卓越化・差別化したがるんだろう。いや、そういう積極的・自覚的な意図はないのかなあ。なんて、根本的なことを考えてしまう。
人間は「差異をつくると気持ちがいい動物」なんて定義が作れるのかなあ。ソシュールの言語学で説明されたとおり、人間のいとなみとは、差異を差異として認識することのみ。差異のみがあり、とくに実態はない。
貴族と庶民だって、相互依存的なもの。貴族は、庶民がいなけりゃ、貴族でない。そういう意味で貴族は、庶民に依存している。しかし、貴族が目的のない写真をとれるのは「庶民のおかげ」ではない。下層の人間が、思い上がってもいけない。
以降、差異のつけかたについて、いろんな事例がある。
学歴資本と出身階級を、X軸とY軸にとって、人を分類する。たがいの差異を指摘してゆく。差異のひろがる方向、差異をひろげる戦略について書いてある。相手が持っていない部分を、伸ばしていくことで、差異がひろがる。
差別化で「売っていこう」とするから、趣味の分布を「市場」と表現する。
ブルデューは一例として、文化資本(趣味や教養や美的感覚)を取りあげている。その具体的な内容については、『三国志』を読むのに使えなさそうだから、抜粋しない。注目したいのは、人間が差異をつくる動物だということ。
ブルデューの、学歴資本と出身階級という座標面をマネて、べつの座標軸を設定すればいい。
その座標軸によって、うまく人々の差異を表現できるものがいい。それぞれの領域に属する人が、ほかの領域に属する人を、虐げあう=差異をつくろうとする、という座標面をつくることができたら、成功だなー。
この文化資本というのは、社会関係資本、経済資本とならんで、把握されている概念。3つが対等にならぶ。つまり、社会関係資本と、経済資本にも、同じような座標面が描けるということだ。というか、この差別化を表現する座標面は、金銭的な経済における競合関係の分析から、借りてきたものだ。少なくとも、金銭的な経済における市場のほうが、見慣れた話である。
そもそも「資本」という言葉自体が、金銭的な経済からの借り物だ。金銭的な経済の、分析手法を借りてきて、文化資本とか、社会関係資本について論じている。わりに馴染みがあって、ぼくは理解しやすい。
言葉につき、自戒っぽいメモ。「経済」「市場」「貨幣」などの用語は、どれも金銭的なものを論じるときの術語。これを借用して、社会関係資本とか文化資本を論じている。いま、わざわざ、くどいけど「金銭的な」と書いているのは、金銭的な場合に限定して言いたいとき、厳密を期すためだ。長ったらしい。なんか、使い勝手のよい言い回しを、自分ルールで作らないと。
というわけで次回は、155頁の2章にとぶ。110517
自分用に、噛んで含めるようにメモっておくと。
『ディスタンクシオン』のここまでの特徴は、文化というものを、経済学における「財」と捉えたこと。経済学における「資本」と同じ機能を果たすものが、文化においても存在すると考えたこと。比喩的、連想的な仕方で、文化についても、「市場における競合」があると考えたこと。「差別化が強みを生む」と考えたこと。
ところで、経済学において差別化に成功すれば、結果的には、カネがもうかる。下世話な結論だが、これがもっとも望ましい結末だ。もうけることが、差別化の目的だ。
ということは、文化資本も同じか。文化資本を「賭金」とする人の営みを、カネもうけに擬えて、理解してみる。
まず、元手となる文化を獲得する(会社を設立するカネを集める)。初期条件において、出身階級が高かったり(親から資金援助を得たり)、学歴資本があると(ビジネス経験があると)有利である。
正統的な文化(もうかるビジネスモデル)に精通していると強い。
元手とした文化を手がかりに、さらに玄人っぽい趣味を獲得する(独自性のある商品を開発する)。文化を蓄積するだけでなく、文化資本を身につけるノウハウもまた、蓄積する(効果のある研究開発するノウハウを蓄積する)。
玄人の趣味で、素人を圧倒し、素人を馬鹿する(自社の商品を売りまくり、他社を市場から駆逐する)。
ええと。つぎに「文化資本家」は、何をすればいいんだ? 経済学ならば、商品を売りまくったことで、カネがもうかる。そのカネ(利益)の一部を、資本に繰りいれて、会社を大きくする。研究開発にまわしたり、設備投資にまわしたりする。
いまの比定では、設備投資と生産が出てこなかった。また、利益が何なのか、よく分からなかった。資本をカネと考えるならば、「素人を圧倒した玄人は、更なる文化を獲得する」となるはずだ。しかし、素人と自分を差別化したからと言って、新たに文化が手に入るか?そこから、さらに自分の趣味を差別化することができるか?
うーん。
本のなかでブルデューは、芸術作品を鑑賞・所有することを、「財の消費」といった。文化資本を持っているとは、うまく(ツウ好みに)鑑賞できること、というのがブルデューの話だ。しかし、経済学において資本は、消費するための元手ではない(研究・生産するための元手だ)。この食い違いは、痛打である。 無視できない。っていうか、話が成立しない。
差別化(ディスタンクシオン)を、ぼくがムリに「市場における差別化=新商品の研究開発」と捉えた。だが、ちょっとムリがあったようだ。うーん。
眠くなったので、後日また考える。とらえ直そう。もしかしたら、ぼくは、まったく見当ちがいのことを書いているのかも知れない。
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- 2章 社会空間とその変貌 open
(ハビトゥス)(資本)+場=慣習行動
構築された階級_166
社会階級は、ひとつの特性(資本量と構造のように、決定的な特性であっても)によって、規定されない。いくつかの特性(性別、年齢、出身階層、民族的出自、教育水準)の総和によって、規定されない。
階級を構築していく作業そのもののなかで、階級がつくられる。「何らかの特性により、階級が直接的に決定される」という線的な思考はちがう。
諸要因のアミのなかで、構造的な因果関係によって、階級がつくられる。多元的に、階級がつくられる。ゆえに、アンケートを分析するとき、慎重になるべきだ。
「確たることは言えませんよ」と。分析に対する「誠実さ」を宣言しているのだろう。「統計学的」問題らしい。ブルデューの意見の「内容」を吟味するとき、このあたりを、しっかり読まねばならない。しかし、ブルデューが発想する「形式」を吟味するとき、あんまり細かく検討しなくてもいいかな。
三次元空間_178
ハビトゥスの生産条件。すなわち、基本的生活条件と、それが要請する条件づけ。これは、3つで示すことができる。資本量、資本構造、時間に沿った変化である。
まず、資本の総量とは、経済資本、文化資本、社会関係資本をさす。つぎに、資本構造とは、各種の資本のあいだで、どのように配分されるかである。
経済資本の配分構造は、文化資本と逆向きに対称形をなす。_184
学者は、カネをかけずに高尚な遊びをする。社長は、カネをかけて下品な遊びをする。学者は、カネもうけより、文化的な教育に力を入れる。社長は、カネもうけの教育に力を入れる。
経済資本、文化資本というのは、相互に変換可能なものではない。つまり、カネをはらえば文化が変えるとか、文化を修めればカネがもうかるのでない。すくなくとも、ブルデューは、変換可能だとは言っていない。
すでに存在している社会を、アンケート等により分析し、経済資本と文化資本が、負の相関を持つことを発見した。と、それだけである。
ゆえに「カネを蕩尽すれば、かわりに人脈や名声(社会関係資本)が手に入る」という話は、この部分ではブルデューが言っていない。学者なら文化、社長ならカネに結びつきそうな、社会関係資本を手に入れる。そういう社会関係資本を手に入れるために、消費活動をおこなう。
ここでいう「消費」とは、たんにカネを使うことじゃないだろう。経済資本と文化資本を、べつのものとして書いてあるから。ゆえに「文化を消費する」という言い方も、成り立つはずだ。
学者ならば、いっしょに勉強する仲間のために、うごく。社長ならば、いっしょにカネもうけする仲間のために、うごく。
転換の戦略_199
ある集団が所有している、経済資本、文化資本、社会関係資本の、現在量、潜在量、資本構造の3つにより、 資本をあつかう戦略がきまる。再生産する戦略がきまる。
具体的な話は、抜粋をはぶく。学校制度や、景気変動によって、戦略がかわってくるという話。階級化、階級脱落、再階級化がある。
階級脱落、再階級化の弁証的関係は、あらゆる種類の社会過程の原理である。 関係する全ての集団が、みな同じ方向・目的・特性にむけて、走ることを前提とする。走ることを要求もする。_252
秩序=順序を維持することは、実体的な(関係的でない)諸特性の、絶えざる変化によって保障されている。
とことん足場を設けさせてくれない。実在主義っぽく考えれば、実体が変化することで、関係がかわる。関係は、実体によって決まる。この部分のブルデューは、こちらを強調している。
しかし、構造主義はぎゃくの考え方をする。
ブルデューは、実存主義であることを許さないが、構造主義であることも許さない。こうなったら、もう長々と書くしかないのだ。閉じる
- 3章 社会空間とその変貌 open
ハビトゥスとは、客観的に分類可能な慣習行動の、生成する原理である。同時に、これら慣習行動を分類する原理でもある。表象化された社会界、すなわち生活様式空間が形成されるのは、いまあげたハビトゥスの2つの原理による。_261
差異を、作り出されつつ、作り出す。まあ、現代思想では、よくある議論だと思う。
ぼくなりのイメージでは、空中浮遊しているAさんが、同じく空中浮遊しているBさんを、蹴り落とした感じ。Aさんは、単純に上昇しない。足場とすべきBさんが、浮いているから。Aさんは、Bさんが沈んだ分は、エネルギーが殺される。
AさんがBさんを蹴るとき、べったり接触する。AさんとBさんの動きを、べつのところから見れば、お互いを突き放しているのか、くっついているのか、よく分からない。だから、長々と書くしかない。差異をつくる(ディスタンクシオンする)のって、こういう感じ?
最少のコスト(資本の使用)で、最大の再生産(資本の拡大)をするには、どうするか。あぶらっこい食事をすれば、カネのわりに、カロリーがたかい。図書館にゆけば、カネをかけず、知識を得られる。_272
庶民は、身体の維持に必要なものをだけを食べ、必要なものだけを買う。必要な仕事の一部を、趣味とする。形式よりも、内容を重視する。_310
以下、こんな調子で、あとはつづく。
どういう分野で、どういう感覚で、どういう消費をすることが、ほかの階層との区別となるかと。金銭にせよ、文化にせよ、リッチな側は「内容よりも形式」をあじわう。プアな側は「形式よりも内容」にこだわる。この差異は、初期条件からありつつ、拡大再生産されてゆくと。
いちど通読し、傍線や丸かこみをしていた。2ヶ月して読み返したら、あんまり面白くなかった。「ディスタンクシオン」の意味はわかったと思うので(わかったと思ってしまうから、興味を失うのだ。)抜粋はおしまいです。上下巻の大きな本なのになあ。120519閉じる