表紙 > 読書録 > 山本哲士『ピエール・ブルデューの世界』を抜粋する

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はじめに+序章 open

『三国志』じゃなくてすみません。ブルデューと『三国志』を結びつけるアイディアを、渡邉先生の「名士」論とは別の経路で、考え中です。
ブルデューの解説本を読解・抜粋します。
山本哲士『ピエール・ブルデューの世界』三交社 2007

はじめに_009

ポストモダンの言説は、マルクス主義の言説とならび、しょーもない。マルクス主義・構造主義の、社会理論・文化理論を越えなければならない。

序章 基本概念の様相_013

ブルデューは、フーコーとならび、マルクス主義。構造主義を越える。

ブルデューの社会学の照射力

ブルデューの基本概念は、「文化資本」「象徴権力」がある。それ以前に、まず「場」「構造」「ハビトゥス」「プラチック」である。翻訳本ではプラチックを「実践」と訳するが、これでは読み誤りやすい。
ブルデューが指揮した、ヨーロッパ社会学センターは1972年に、4つの研究があった。ブルデューがまとめている。_019
1つ、文化的再生産の社会学。教育システムと階級構造。2つ、文化普及の社会学。民衆文化や大衆知識と、 エリート文化・科学知識の普及。3つ、権力の社会学。知的分野・学問分野・精神治療分野などの階級性。4つ、経済戦略の社会学。信用・投資・選好・身体技法・消費。
以上4つの研究は、慣習的な文化存在様式である「ハビトゥス」が、個人や集団につくり出される、あり方を明らかにする。

ブルデュー曰く、ハビトゥスをとらえる3つの理論知識の様態がある。_020
1つ、モースの「現象学的」アプローチ。2つ、ストロースら構造論者の「客観論的」アプローチ。3つ、ブルデューの「プラチック」理論。
いま〈贈与〉〈対抗贈与〉を具体例として、3つの「理論の様式」をブルデューが比較する。

カギ括弧つきの言葉が多すぎて、じっさいに何を言っているのか、意味がとりにくいと思います。いろんな本を読んで、言外の意味(直接は語義に含まないであろう、その研究分野に特有の意味)まで含めて、読み取りましょう。そういう著者からの要請である。ぼくは、自分が理解した範囲で抜粋してる。つまり、言外の意味を受信できた範囲で、抜粋している。
しかし、3年後にこのページを見返したとき、どこまで意味がわかるか。自分に対して、あんまり保証ができない。

モースは、生活環境のなかで見落としがちな、繊細で微妙な意識のありかた、生活の仕方を記した。ストロースは「モースは現象の把握にとどまった。行動様式の深層にある構造を取りだせ」という。親族構造にある、交換の原理をとりだした。しかしストロースは、未開社会の独自性・全体性を、未開社会だけで完結させて明示しただけ。現代西欧に適用していない。

ストロースは、未開社会が、現代西欧からの要請・援助なしに、独自に全体において完結していることを、言いたかったはずだ。現代西欧につながらないからと言って、ストロースを不足とするのは、なんか違うかもなあ。
ともあれ、ブルデューの思想的系譜は、いまの解説で、だいぶ分かってきた。

ブルデューは、ストロースの客観的手法を批判媒介にする。モースの現象学的手法を、主意主義や 人間主義に還元しない。「規則・構造」に代わり、「規制化」「戦略」の場をひきだした。_021
わかりやすくいう。
贈与における2者のあいだに「戦略」が、無意識的に慣習として構成されている。この「戦略」こそ、モースとストロースがつかまないもの。例えば、贈物をその場ですぐに返せば、拒絶となる。ある時間をへて返せば、返礼となる。返さなければ、無礼となる。〈時間〉によって変わる戦略である。
AからBへの行為、BからAへの反行為、AからBへの再行為という構成は、どのエスニック文化にも必ずある。とくに反行為(返礼)まで見ることと、それを規定しているハビトゥスによって生み出されたプラチックは、予測・決定のできない戦略として行われる。
個人の主観的な活動(例えば返礼)と、それを規制している客観的な諸構造を、ブルデューは、まるごと全てつかもうとする。「構造化された諸構造」と「構造化する諸構造」の弁証法的ダイナミズムは、諸個人の文化的力能と、階級軌道によって生成される世界である。
資本×ハビトゥス+場=プラチック

いちばん美味しいところが、すでに出てしまった。
よく構造主義の「ダメ」なところは、こう言われる。構造が固定的であり、変化を把握できない。構造には血が通わず、人情的でない。ゆえに、ポスト構造主義と言われる言説は、構造が変化することをいう。構造の生成から解体まで。生成から解体をさせる原因、生成や解体するその様子など。さらに、構造に人情が働くことをいう。構造と人情の関係をいう。先後関係とか因果関係とか相互作用とか。
(人情という言葉は、いまぼくが採用した。ちょっと語弊かも)
ブルデューの話では、構造の変化、構造と人情を「戦略」という概念でとらえるらしい。まえに『ディスタンクシオン』で読んだ、差別化・卓越化の話も、「ほかの階層と、私の階層は違うんです」と主張するための「戦略」だった。


ブルデューの基本概念「ハビトゥス」_022

ブルデューの固有の概念は、文化資本/社会資本、文化生産/文化的再生産/社会的再生産、象徴権力/象徴暴力である。これら固有の概念は、結果として出てきたもの。これ以前に、思考・分析・調査に活用できる概念(使用概念)があった。ハビトゥス、規制化、ディスポジシオン、戦略、ゲーム感覚、領有、場である。
ブルデューが「ハビトゥス」を使用するとき、ディスポジシオンと戦略、ゲーム感覚の用語をつかう。行為者の行動を、主観主義の理解と、客観主義の解釈の対立を越えた地平で、叙述しようとする。
ブルデューのハビトゥスは、社会学/社会科学における、二元的思考の対立を越えて、設定される。目的論と機能論の対立、社会物理学と社会記号学の対立、社会物理学と社会現象学の対立、などの対立を越える。

文化資本・象徴資本という概念は、経済主義的な社会概念に対峙する。象徴権力・象徴暴力という概念も、客体化され、装置化された政治概念に対峙する。

経済資本と、象徴資本(文化資本+社会関係資本)の対立は、金銭をめぐるもの。象徴権力・象徴暴力と、ムジルシ権力・ムジルシ暴力は、権力をめぐるもの。権力と暴力の本、出典はどこなんだろう。そして、金銭と権力との関係は?

資本や権力は「構造化された構造」である。完成品。
いっぽう、ハビトゥス、ディスポジシオン、規制化、戦略、ゲーム感覚らは、「構造化する構造」にちかい。これらを理解しないと、ブルデューは、味気ない機能構造的な議論になる。とくに現代日本では、ディスポジシオン、規制化、領有は放置される。ブルデューも明確に定義していないが、「科学の生成過程」にブルデューが使った用語として、くわしく捉えねばならない。_024

ハビトゥスが生み出す行動は「法的原理から演繹される、行動の規則性がない」もので、「たえず変化する諸状況に、即興的に対処するなかで確定され、生成的自発性がある」ものだ。自分が何をするか知らないが、なすべき唯一を正確におこなう。
趣味、話しぶり、語法、婚姻や贈与の仕方、政治的意見の述べ方などが、プラチックな行動。このプラチックな行動のうち、明らかに社会的政治行動でなく、経済利益追求行動でなく、市民としての目的意識的実践でない、主観的な振る舞いがある。この主観的な振る舞いが、集団的・規則的・階級的に規制されつつも、個人的に行われる。この個人的な行動を把握するために、ハビトゥスが重要なタームとなる。

文章を、ぼくが故意に分割しています。ぼくは呼吸がながく続かない。


ブルデューはハビトゥスをいかに使用したか。_024
1つ、アルジェリアで、前資本主義社会が、どのように資本主義的な生活を受け入れるか、変容過程を示すものとして考えた。2つ、家庭で形成された1次ハビトゥスが、学校教育でどう2次ハビトゥスとなるか。その継続期間性、変容性、非可逆性を解明した。教育再生産論である。3つ、階級ハビトゥスとしての選好・判断が、いかにあるか。ディスタンクシオン論である。
4つ、ハビトゥスの生成原理を、ディスポジシオンや「戦略」「ゲーム感覚」の議論とともに使用する。人類学的な調査として、構造主義人類学を批判する。『実践感覚』論。5つ、言語ハビトゥスとしての言語使用論。

3つめは、読んだ。4つめが一番おもしろそうだ。山本哲士氏(この解説本の著者)は悪訳だというが、『実戦感覚』の翻訳をコピーして入手済。『ディスタンクシオン』より、おもしろく読めそうだ。読もう。


ハビトゥスの概略をまとめる。_025
1つ。ハビトゥスは「場」と関係づけられる。場に規制される。
2つ。ハビトゥスは、生成原理として設定される。構造化された構造の枠内で、構造化する構造である「配置換え(ディスポジシオンの体系)」として、ブルデューが使っている。
3つ。個人的なプラチックでありながら、階級的に類似したものとして、集団的に構成され、集団的にプラチックされる。

「プラチックする」という動詞を、受容しなければならんのか。しんどいなあ。よく知らんが、英語の「プラクティス」にあたるんだろう。よく「実践」と訳してあるが、それを山本氏は誤解を招きやすいとする。だから『実践感覚』だけは邦訳のタイトルを採用せずに、いちいち『ル・サンス・プラチック』という。なんのこっちゃ。

4つ。瞬間的な「ゲーム感覚」の行動としてプラチックされるが、長い時間をかけて恒久化されてきたものを、背景にもつ。
5つ。分類化されていると同時に、分類かするものである。分類化/階級化の論理によって、把握する。
6つ。上記5つに該当しない、複雑な戦略の基盤。

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ハビトゥスは、獲得されるものだ。恒久的なディスポジシオンの形式のもと、身体のなかに、持続可能な仕方で身体化される。個人史と結びつき、「歴史的なもの」である。生成的な思考様式のなかに登録され、本質主義の思考様式と対立する。
ブルデューは「習慣」でなく「ハビトゥス」という。習慣には、反復的、機械的、自動的、再生産的な意味があり、これはブルデューが言いたいことではない。ブルデューが言いたいのは「意思のある強い生成者」のあり方である。_026

ハビトゥスは、それを産出した社会世界とのあいだに、存在論的な共謀関係をもつ。_030
ハビトゥスは、意識のない認識の原理であり、意図のない志向性の原理であり、世界の規則性のプラチックな使用の原理である。
プラチック/ハビトゥスが、現在という瞬時の行動において、過去の規制をうけつつ、将来を先取する。時間性が設定される。主体とは、単独的コギトの瞬間的エゴでなく、集団的歴史の個人的軌跡である。
ハビトゥスは、所有するものでない。個人的かつ階級的に、現時的かつ歴史的に、領有されるものだ。

序章の最後に。ブルデューがハビトゥスの概念を、もっとも活かしたのが分類化の議論だ。『ディスタンクシオン』の基本テーマである。引用する。
ハビトゥスとは、客観的に分類可能なプラチックの生成原理であると同時に、そのプラチックを分類するシステムでもある。表象された社会世界(生活様式の空間)が構成されるのは、ハビトゥスを定義する2つの力量のためである。1つ、分類可能なプラチックや作品を、生産する力量である。2つ、これらプラチックや生産物(好み)を差異化し、評価する力量である。_031

この言い回しが、難解であるが簡明であることを、この本では言ってゆく。

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1-1章 構造主義批判とプラチック生成論 open

1 哲学と社会学

ブルデューは1960年から25年間、4つの仕事をした。
1つ、アルジェリアの人類学的・民族誌的な研究『実践感覚』。2つ、教育システムにかんする教育社会学『再生産』。3つ、中間芸術・美術愛好にかんする文化社会学『ディスタンクシオン』。4つ、社会学にかんする理論的・方法的な知識社会学『ホモ・アカデミクス』。_040
ブルデューは「科学の哲学」を提起する。
科学と哲学の境界を検討した。「最小限の出費で、科学性の利益を得るとともに、哲学の地位に結びつく利益を得る。そういう中途半端な風潮は良くない」と。「何らかの職業集団(大学の教授も含む)に所属することは、制度的/個人的な拘束をこえた、検閲効果を発揮する」と。_043
「徹底した会議というものは、根柢では哲学的姿勢そのものと、同一視される。教育をうけた哲学者は、そうした懐疑を懐疑することは、思いもよらない」と。哲学者の「客観的」は限定されたものだ。_044

ブルデュー曰く、哲学史には3つの解決法があった。_050
1つ、起源の理論。起源にある真理を見るため、後からかぶったベールを除く。ハイデガーが完成させる。
2つ、考古学的な哲学史観。経験的起源のかわりに、超越論的起源をおく。過去の全ての哲学を、反歴史的にとらえる。それぞれの哲学を、完成・完璧なものとする。アポステオリにしか叙述できない、アプリオリな歴史が、正統性を獲得する。哲学とは、 最後に生じても、始まりである。哲学は根源的な始まりであり、無であると考える。カントが代表する。

よくわからんなあ。

3つ、究極の哲学である。哲学的な哲学史という哲学を完成させる。歴史を哲学のなかに入れる。ヘーゲルである。
以上3つの哲学史が共有するのは、哲学的なディスクールは、社会的な限定を受けないという点。この3つでは、「哲学と哲学者の可能性に関する社会的諸条件」が排除されている。ブルデューは、社会的諸条件が、哲学にどのように影響するか考えよという。

構造主義の継承と批判_051

ブルデューはいう。構造のリアリズムとは、個人・集団の歴史のそとで、すでに構成された全体性があるとして、客観的な関係の体系を、実体化するものである。
構造主義は、(A)行為者と客観的な諸関係とのあいだにかんする研究を見落とす。(B)客観的な諸関係のあいだの諸関係にかんする研究を特権化する。(A)と(B)の関係を見落とす。

さて何回「関係」と言ったでしょう。ものすごい、メタな関係である。ともあれ、行為者を強調したいのが、ブルデューである。

行為者の振るまいの体系には、媒介=ハビトゥスがある。
ハビトゥスとは、複数の決定主義と 単数の決定とのあいだにあり、計算可能な確率と 生きられる希望とのあいだにあり、客観的未来と主観的投企とのあいだにある、幾何学的な場である。_052

わからせるつもりがあって、書いているのだろうか。うーん。


ハビトゥスは、構造化されたプラクシスだが、構造的ではない。外在性を内在化するものだ。主観性の全客観化の根拠を、閉じこめるものである。

「はじめから構造化したものがある」を、議論の出発点としない。何かが構造化するとき、その構造化の仕方のなかに、構造があるのだと。あるものを構造化する構造を、構造化する構造の、、そういう性質がハビトゥスだと。


構造主義を乗り越えることは、実存的な主体を取り戻すことでも、人類学的な歴史を取り戻すことでもない。プラチックな生成理論を、科学的に構築することである。生成するとき「規制化」「戦略」がからむ。_061

構造/規則から「プラチック戦略」へ_061

ハビトゥスは、構造主義的な客観主義から、ぬけだそうとして生まれた。
家族が子に最善の結婚をさせたいのは、なぜか。ストロースのいう「親族構造」のためでない。利益のためである。ブルデューは「親族構造」がもつ「規則」の概念のあいまいさを批判する。
規則とは、行為者が意識的に産出・統御するものか。規則は、ゲームに出場する者すべてに、客観的に強制されるか。規則とは、ゲームをセット名するために、学者が構築した原理なのか。 この規則に関する混乱は、「論理というモノ」と「モノがもつ論理」を混同している。

規則に対して、ブルデューのいう「戦略」は、構造主義が想定する「行為者なき行為」を切断するための道具である。他方で「戦略」は、意識的・合理的計算から、生み出されるものではない。子供のころから、社会的活動に参加して、獲得される。明白なコード化された規則に、機械的に従うだけでは、戦略を習得できない。

「二重のゲーム戦略」がある。規則に従っている雰囲気をとりながら、しかし規則と一致せずに利益をめざすこと。

この対立したものを同居させる表現が、心地よい。

ブルデューはいう。_066
社会的ゲームは、規則化されている。それは、規則性の場にある。物事は、規則正しくなされる。豊かな相続者は、豊かな年下の女性と、規正的に結婚する。ただし、豊かな相続者が、豊かな年下の女性と結婚するのは、規則でない。

戦略に基づいて、利益が出るように結婚しているのだと。

規則に拘束された構造主義をつきぬけ、プラチック理論を開拓した。

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1-2章 象徴権力論 ★★ open

権力論が問題とされる位置_069

ブルデューがやった権力論の分野は、国家や政府機関にない「力の諸関連」にたいする意味形成という、象徴的な水準において、切り拓かれる。
「力の諸関連」とは、階級的な権力関係でない。社会集団の総意でない。権力や総意の深層にある、「象徴的-文化的」な場の、階級のあいだで相互の等質な力のあり方。自然の不可避な意味をもつ「力」と、人為的な「権力」を区別する。「諸関連」と「諸関係」を区別する。

ブルデューは、『再生産』でいう。
象徴暴力を遂行する、あらゆる権力、すなわち諸々の意味を押しつける。かつ自らの力の根基である、力の諸関連を隠蔽する。押しつけと隠蔽により、それらの意味を正統なものとする権力は、そうした力の諸関連のうえに加えて、さらにその固有の力、つまり本来的に象徴的である力を加える。

分からせようと思って書いているのかなあ。ギリギリ、分からなくもないのだが。

鍵概念は、「意味(作用)」「力の諸関連」「おしつけ」である。

ブルデューの権力論は、マルクスの「階級支配」、デュルケームの「社会的拘束」とは違う。マルクスらは、権力の外在性、外在的な把握を論じた。マルクスらは「社会の政治権力」を論じた。対して、ブルデューは、権力の内在性、「文化の政治権力」を論じた。ヴェーバーの「正統性」という表象作用をひきつぐ。ただしヴェーバーは、社会的諸関連において遂行されている、統合機能を抽出しなかった。ブルデューは、ヴェーバーを不充分とする。_071

「正統」という術語について吟味したいので、ヴェーバーも読まなきゃなあ。どうしてこの訳語がついたか、という観点から読むことになりそうだ。


いま山本氏が「内在性」と言ったが、これを「権力の遂行と永続化をはかる、象徴的効果」の問題と言い換えられる。「ある選ばれた意味」を押しつけるだけでなく、正統的なものがなんであるかを意味形成する。この「押しつけ」それ自体をも、正統なものであると「押しつけ」る。ここから、形成された意味を、正統な真理とする効果をだす。_071
この「押しつけ」により、根源にある「力の諸関連」は隠蔽される。権力は恣意的なものとして、実在する。 一方、正統化された意味の「客観的真理」が、人々に受け止められる。
つまり、権力そのものの力関係は「恣意的なもの」として表象する。一方、文化の恣意的なものは、「恣意的でない唯一の真理である」と誤認される。この〈恣意性〉の反転により、力の諸関連は見えにくくなる。客観的真理の正統性が強化され、「意味作用」は、象徴的効果を有効に働かせる。文化のなかで、政治権力が、社会的作用として働いていく。_071

政治権力は、「権力者のゴリ押しだな」と、ロコツにバレる。しかし「こういう文化のセンスが、良いものザンス」という流行の押しつけは、「デザイナーのゴリ押しだな」と、バレにくい。デザイナーが流行を恣意的に決めて、発信するという「権力」の行使は、見えにくくなる。

『再生産』が論じる力の諸関連は、生産の社会的諸関係に還元されない。諸個人間の社会的諸関係に還元されない。「諸関係」のなかの「諸関連」を考察の対象にせよ。力(単数)は、意味作用・伝達・教育において、典型的に隠されている。
権力に組み敷かれる側は、階級関係を「否認」したつもりで、文化的恣意性を真理として「誤認」してしまい、正統性を「再認」する。これにより、「否認=誤認」が完遂される。
この文化的な権力(象徴システム)は、集団全体が生産するときと、専門家集団が生産するときがある。専門家集団は、生産者を生産する。_074
ものを見させたり信じさせたり、世界観を確固とさせたり変容させたりする。これが象徴権力である。「言い表す」ことで、意味化することで、所与のものを構成する権力である。権力として自覚されない。恣意的なものとして誤認されるような「関係」において、作用する。

「象徴権力について」読解_075

かつては、目の前の権力が近すぎて、権力を認めようとしない。いまは、到るところに権力を見すぎて、権力の問題は、拡散・霧消する。
ブルデューは「もっとも見えにくく、もっとも完全に誤認され、ゆえに再認=承認されているところに、権力をあぶり出せという。権力を従属する人が「従属していない」といい、権力を行使する人も「行使していない」という。従属者と行使者が共犯することで、権力が成立する。

象徴権力に関する4つのこと

 ①構造化する構造としての〈象徴システム〉芸術・宗教・言語
 ②構造化された構造としての〈象徴システム〉構造分析が適用できるもの
 ③支配の手段としての象徴生産
 ④構造化されているがゆえ、構造化する支配の手段であるイデオロギーシステムは、正統イデオロギーの独占をめざす闘争によって、しかもまたその闘争のために、専門家によって生産されるものである。だが、このイデオロギー・システムは、イデオロギー生産の領域と、社会諸階級の領域との相同を媒介にして、社会諸階級の領域の構造を、それとして認識されない(誤認された)形式のもとに、再生産すること。_078

ちっとも箇条書きになってない!4つめ、長いなあ。 本の079頁に、いまの話が模式図になっている。模式図にしても、なお分かりにくい。
ここで言い訳をしておきますと(言い訳をしたいパワーが、指に溜まってきたのだ)、このサイトの抜粋だけで、ひとつの理解できる話として、成立しているとは思ってません。抜粋して散らかした、メモに過ぎません。興味をお持ちの方は、本そのものにあたって下さい。やはり一筋縄ではない文章ですが。
以下、①から④の解説が始まる。


4つのことの詳細-1

①構造化する構造としての〈象徴システム〉
ものの世界を認識し、構成するうえでの手段が、象徴システムである。
②構造化された構造としての〈象徴システム〉
象徴生産のそれぞれに内在する構造は、いかにあるか。例えば構造論者は、なされた仕事、構造化された構造のほう(構造化の産物)を重視する。ソシュールのラングが代表的。_080

構造論者と対決するために、ブルデューは「第1のジンテーゼ」をする。_080
①構造化する象徴システムは「認識の手段」であり、②構造化された構造としての象徴システムは「コミュニケーションの手段」である。この①②を統合する。
「①認識と②コミュニケーションの手段としての象徴システムは、構造化されているがゆえに、はじめて構造化する権力を、行使することができる」と。つまり「象徴権力とは、現実を構築する権力であり、直観論理的秩序を編制しようとする権力である」と。
諸々の象徴は、①認識と②コミュニケ-ションの手段として、社会世界の意味にかんするコンセンサスを可能にする。このコンセンサスが、根本的に、社会秩序の再生産に貢献する。つまり、〈論理的〉統合は〈倫理的〉統合の条件をなす。
①構造化する構造と、②構造化された構造とを、社会統合の「意味=合意=ドクサ」として総合した。

③支配の手段としての象徴生産_082
ブルデューはいう。マルクス主義は、象徴システムの政治的機能に重きをおきすぎて、その論理的構造や、直観論理的機能を軽んじている。

象徴システムの政治的機能に関して、マルクスが論じなかった観点は、どんなことだろうか。いわゆる一般的な「政治」というやつが、マルクスからも、ブルデューからも、モレていないか。世界史の授業なんかで、ふつうに「政治史」として習う分野の話が抜けていないか。
象徴システムの政治機能のうち、マルクスが論じなかった観点を、ブルデューの分析手法で見ていけば、何が言えるだろうか。というアイディアがあって、ここを抜粋している。

ブルデューはいう。マルクス主義の機能論は、象徴生産を、支配階級の利益に関連づけて議論している。つまり、集団的に生産・領有される神話とちがい、マルクスのいう諸々のイデオロギーは、ある特定の利益に奉仕する。しかもその利益を、集団全体に共通の普遍的利益であるというように表現する。_082

よく分かる話!

マルクスを、言い換える。
支配文化は、支配階級の全構成員のあいだの直接的コミュニケーションを保証する。他の諸階級から、それをハッキリ区別する。これにより支配文化は、支配階級の現実的統合に寄与する。
また支配文化は、社会をその正体において虚構的に統合し、したがって、被支配階級が身動きを取れないようにすること(虚偽意識を与えて呪うこと)に寄与する。

支配文化は、支配階級がもうけて、被支配階級をしばる。「呪う」という括弧書きは、ぼくが勝手に付け足したけれど。つまりは、そういうことだよなあ。

支配文化は、諸々の区別(階層序列)を確立することにより、既存の秩序を正統化する。それらの区別を正統化する。

ブルデューは、支配階級による統合を「正統化」の論理において捉える。ディスタンクシオン=区別の編制と、その正統化において把握している。
この正統化は「イデオロギー効果」と結びつく。このようなイデオロギー効果を、支配文化は、コミュニケ-ションの機能のもとに隠蔽することで、分割の機能を生み出す。どういうことか。統合させる文化(コミュニケ-ションの媒体)は、同時に、分離する文化(区別の手段)でもある。下位とされる文化は、支配文化との隔たりによって、強制的に決められる。支配文化は、諸々の区別を正統化する文化でもある。統合しつつ、分離する。

支配文化は、自分とちがう文化を、下位文化として位置づける。
支配文化と下位文化は、その優劣(というより、正統か非正統化)を比較検討される。比較検討されるとは、コミュニケーションの回路が開かれているってことだ。統合されているということだ。まったく隔絶した文化なら、比較検討できない。
ただし支配文化は、下位文化に「お前は劣悪だ、非正統だ」という決めつけをする。この点で、下位文化は、賤しい地位に貶められる。支配文化とは、一線を引かれてしまう。これが分離。ディスタンクシオン。 統合しつつ、分離する。楽しいなあ。そして、この統合しつつ分離するという、その行為(機能かな)そのものが、支配という行為(機能かな)そのものである。自分と異なる文化を、統合・分離することにより、その文化は支配文化となる。
先後関係とか、因果関係とか、そんなで把握できないんだろなあ。


4つのことの詳細-2

上述マルクスを把握するため、ブルデューは「第2のジンテーゼ」をする。_083
①②と③をあわせ「象徴暴力」の位置を確定する。マルクスとは、ちょっとズレる。このズレをつかまないと「象徴生産」「文化生産」「象徴資本」「文化資本」をめぐる、「象徴権力」の理論的な意味を、つぎの④で正確につかめない。
ズラすため、ブルデューはヴェーバーをつかう。
まず、インターアクショニズムを批判する。力の諸関係を、コミュニケ-ション関係に還元してはいけない。 ただし、コミュニケーション関係を、つねに「権力関係」であると言ってみても充分でない。
ここでいう「権力関係」とは、形式・内容において、その権力関係に参与させられている行為の主体・諸制度が蓄積した、象徴権力あるいは物質権力に依存するものである。贈与やポトラッチのように、象徴権力を蓄積することを可能にするものだ。マルクス主義的な支配-支配でもない。

話が複雑だなあ。まず象徴権力は、②コミュニケーションの関係だけでない。②コミュニケーションの関係だけでは足りない。この足りないものとしての②コミュニケーションの関係は、①象徴権力を蓄積するものである。 つまり、①象徴権力を蓄積するものとしての、②コミュニケーションの関係だけでは、象徴権力を言い尽くすことができない。
否定文ばかりでモヤモヤする。つぎに、肯定文の表現がある。

ブルデューはいう。_084
諸々の〈象徴システム〉が、押しつけたり、支配を正統化したりする手段として、政治的機能をまっとうするのは、どういう場合か。コミュニケーションと認識の、①構造化されかつ②構造化する手段として機能した場合である。
つまり、諸々の②手段は、その基礎の力関係をおいているが、その力関係が、さらに自らの力を加えて増強するものである。ヴェーバーのいう「被支配者の飼いならし」に役立つことにより、あるひとつの階級が、他の1つの階級を支配する。これをブルデューは〈象徴暴力〉という。
『再生産』で補足する。_084
象徴暴力とは、力の諸関係を基礎としながら、この力の諸関係を増強し、かつ、その力の諸関係があることを隠蔽する。それが、1つの階級が、他の階級を「見えない仕方で」確実に支配することである。
象徴闘争とは、自らの利益を最大化するため、「社会生活とはこういうもの」という定義を押しつけるための争いである。社会的な地位の領域を、変形した形式で再生産するイデオロギー的な地位の奪いあいである。
マルクス主義の単純な「支配階級」の振る舞いと同じでない。階層序列化をめぐる、象徴闘争にしかない固有な領域を見落としてはならない。『ディスタンクシオン』に詳しい。自らに有利な位置を確保してくれる階層序列化の原理を、他の原理よりも優位におこうと争いあっている。

実用的な趣味の庶民と、抽象的な趣味の社長。庶民は「社長の抽象的な趣味より、わたしの実用的な趣味のほうが良い」という仕方で、社長に戦いを挑んでいるのでない。「そもそも原理において、実用的な趣味は、抽象的な趣味より優れている」という仕方で、社長に戦いを挑んでいる。この原理を認めさせたあと、三段論法のように「実用的な趣味が優れていること、ご納得いただいてありがとう。ところでわたしは、実用的な趣味を持っている。わたしが社長より優れているということで、宜しいですな」と主張する。
単純な優劣の争いじゃなく、原理や価値観をめぐって争っている。ひとつ次元のたかい、メタな趣味の論争なのだ。


④構造化されているがゆえ、構造化する支配の手段であるイデオロギーシステムは、正統イデオロギーの独占をめざす闘争によって、しかもまたその闘争のために、専門家によって生産されるものである。だが、このイデオロギー・システムは、イデオロギー生産の領域と、社会諸階級の領域との相同を媒介にして、社会諸階級の領域の構造を、それとして認識されない(誤認された)形式のもとに、再生産すること。

再録しました。やはり、長いなあ。

社会階級関係を隠し、権力関係を隠してしまう、象徴権力のポイントについて。
〈象徴システム〉は、2つに区別される。
1つ、集団全体によって生産され、その集団全体に適合するあり方。2つ、限られた専門家集団によって生産され、相対的に自律性を持った生産・流通の領域をともなうあり方。集団全体と、専門家との関係が問題になる。
ブルデューは近代以降、後者の専門家が重要だとする。神話が宗教(イデオロギー)に変容を遂げていく歴史は、宗教的ディスクールや宗教的儀礼をつかさどる、専門的な生産者の集団が構成されていく歴史と、密接である。
社会的労働の分業がすすむ過程である。階級文化の進行過程でもある。結果「俗人から、象徴生産の手段が奪われてしまう」と。_087
正統教義と異端教義のあいだで、闘争が出現する。正統も異端も、自らのドクサを通そうとする。

ブルデューはいう。イデオロギーはつねに、二重に決定づけられる。1つ、もとの固有な諸特徴。2つ、そのイデオロギーてを生産する階級・集団の固有の利益。
イデオロギーは、この2つの性質を持ちながら(折衷するのでなく)、機能する。階級利害とイデオロギー生産とが関係し合っている、「象徴生産-象徴闘争」の場に他ならない。イデオロギー生産の領域で、イデオロギー的な機能が、自律的な運動をしている。 言い換えると、階級間の政治的・経済的闘争が、イデオロギーの闘争に婉曲化される。_088

イデオロギーを生産する構造から、階級闘争の構造への対応関係のなかで、支配的ディスクール(構造化され、かつ構造化する媒体)の、イデオロギー的な機能が果たされる。この、構造から構造へ、システムからシステムへの対応関係が、ブルデューの問題領域である。「分類システム」「政治的分類」の関係である。

この章のまとめ

象徴権力は、象徴システムのなかに「表現されざる力」という形式で存在しているのでない。「象徴権力は、権力の行使者と従属者のあいだの、一定の関係内部に、またその関係によって、決定づけられる。つまり、信仰(信用)が生産・再生産される、場の構造そのものの中において、決定づけられている。
たとえば、権力の象徴である衣服や笏杖は、客体化された象徴資本にすぎない。それらの象徴の有効性が発揮されるためには、関係の場に置かれなければならない。〈関係プラチック〉において、象徴権力を把握せよ。

ブルデューはまとめる。_090
従属化される権力である象徴権力は、権力その他の諸形式が、変形を受け、正統化され、それとして認められないように変容された一形式である。だから、以下のように課題設定すべきだ。
諸種の資本を、象徴資本に変質させる変容(変換)法則を、明らかにせよ。
力の諸関係が、客観的にナイフ押している暴力を、誤認=再認させる。力の諸関係を、エネルギーのはっきりした消費もなしに、現実効果を生み出しうる、象徴権力に変容させる。こういう、隠蔽と変形の差御(ひとことで言えば婉曲化)を、明らかにせよ。

ブルデューは、誤認=再認によって力の諸関係を有効に隠蔽し、すぐれた統合機能を発揮する、象徴権力の本性に迫ろうとする。ただしブルデューは、統合論者でない。象徴権力を成立させうる〈関係〉の場は、雁字がらめでない。
ブルデューはいう。_091
誤認に基礎をおく、象徴的な押しつけ権力を破壊するには、恣意的であるとの意識を獲得せよ。すなわち、客観的真理の暴露と、信仰(信用)の無化が、前提となる。異端教義のディスクールが、動員と転覆の象徴権力、つまり支配される諸階級の潜在権力を活性化するパワーを内包するのは、そのディスクールが、ドクサの虚構的復権にほかならない正統教義虚偽の自明性を破壊し、そして、正統教義がもっている身動きとれなくさせる権力を不能化することによって、なのである。

ほんとに、理解させようと思って書いているのか、疑問になるなあ。ここはアレンジせずに、本の訳文を写しました。ともあれ、これは漢室のことだなーと思うわけです。

つづきは、また書きます。120520

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1-3章 言語交換のエコノミー論 open

ブルデューは「プラチック言語論」。言語使用(ランガージュ)の社会性・歴史性を、「言語交換のエコノミー」とする。チョムスキーやオースチンを批判する。
既存の言語科学による「客観化」を客観化する。ブルデューは、構造言語学の概念(ラング/パロール)や、チョムスキーの言語学(力能/運用)の、社会学的効果を問い返す。_094

わかりやすくいう。
話者は、自分の語り(ディスクール)が、ある市場でどのように受け止められるか、その事情を見積もる。利潤と裁可を予測する。市場にふさわし、適切な抑揚・音韻・語りを採用する。言葉を学ぶとき、自分の言葉が容認される諸条件も、合わせて学びとる。聴者は、喜んでい聞く受信者であらなければならない。
言語が交換される市場として働いていることが必要。話者の価値がそこで賭けられる、経済関係である。「うまく喋った。だから正しい」という判定が起きている。

「市場」という比喩は、理解しやすくて嬉しい。話者は売り手で、聴者は買い手である。言葉が通じる、内容が信じられる、というのは、取引が成立するということだ。


ブルデューは言語学の範疇を、3つ書き換える。_095
①文法性にかわり、容認可能性とする。または、ラングにかわり、正統言語の概念を導入する。
②コミュニケ-ション諸関連にかわり、象徴的力の諸関連とする。ディスクールの意味の問題にかわり、ディスクールの価値と権力の問題を設定する。
③言語学的な意味での言語力能にかわり、社会構造内部における、話者の立場と切り離し得ない象徴資本の概念を導入する。
以上3つは、言語の実際的な使用、社会性・歴史性を、プラチックに解き明かすことが目的だ。

ブルデューの論文「言語交換のエコノミー」は、9項ある。広義の力能。言語生産諸関連。権威ある言語使用。資本と市場。価格形成と利潤の先取。検閲と形式化。再認と認知。言語資本と身体。結論。である。_097

言語交換のエコノミー/理論編_098

広義の力能

言語学者がいう、力能(話者の能力)は、抽象的である。
 ・文法的に適合して発話する能力
 ・正しく的確に文を産出する力量
 ・無数の文を一貫性をもって使用する力能
ブルデューはこれを「言語経済学」における生産能力とする。

言語生産諸関連

言語の基本的な意味(市場における価値)とは、なにか。市場が変化しても、相対的に不変なまま保たれる、相対的な意味である。この基本的な意味と、市場との関係性によって、価値が決定する。文脈の数だけ市場があり、無数に価値がある。

価格は市場が決定する。生産の原価は一定だし、生産されたモノは一定だが、その価格は場合によって異なる。それこそ、無数の種類の価格がある。よくある話だなあ。ブルデューの「創見」だとぼくが感じるのは、言語交換を「市場取引」の比喩で捉えたこと。


権威あるランガージュ/正統的なモノの関連性

言語の容認可能性は、相手に自分の話を聞かせる力能で決まる。ラングは、権力の手段である。
人は得体の知れぬ相手に、話しかけない。正統な発信者が、正統な受信者に話しかける。両者が互いに、相手の正統性を承認しあっている。

「この商品の価値を、ホントウにお分かり頂ける、セレブの皆さまだけに、お売りしているのですよ。値引なんていたしません。そういう会員制の販売店でございますのよ」ということだ。

規則にて適合した「文法性」がある。話者は、受けとられるであろう価格(利潤とサンクション)を予期して、市場にいたる。話者は、容認可能性 を予期して、言葉を使う。言葉づかいは、固有の検閲と妥協した結果により決まる。文法体系を、主体的に論述するのでない。

市場で買ってもらえるであろう商品を、製造する。その商品が売れるように価格を決めるし、その価格未満に原価を抑える。売り手は、市場のニーズに「検閲」されて、商売をする。製造したいもの、販売したいものを、市場に落としただけでは、売れ残る。すなわち「話を聞いてもらえない」のだ。


資本と市場_102

言語能力は、市場と関係を結ぶことによってのみ「言語資本」として機能する。
市場を維持するため、生産者と消費者を、再生産せねばならない。教育は「市場の再生産」を独占する。
言語の価値は、文化的な力の諸関連の内部で生じた、権力・権威の価値に等しい。文法や発音方法(声の位置・なまり・アクセント)は、象徴財である。

三流メーカーのブランドロゴをつけているようじゃ、買ってもらえない。もしくは、買い叩かれる。


価格形成と利潤の先取

言語が支配的/正統なものと確立する、社会条件について。話者が言語戦略を、ハビトゥスをもっていかにディスポジシオン(配置換え)していくか。その方法に関する議論。
自分の言葉遣いに気を配る、言葉遣いを正す。これは、監視と強制を内面化したもの。「言葉が伝達できる」という利潤を求め、自己確信や自己放棄をしてゆく。ディスポジシオンとは、本棚のなかで配置換えをするように、自分の枠を壊さずに、内部で配置換えをすること。言葉についても、同じことをやる。

検閲と形式化_106

場に応じた話し方をする。表現の価値を高めるのは「言語投資」である。標準語をしゃべる、フォーマルにしゃべる、話題を選ぶ、などは検閲の結果である。

再認と認知

言語を訂正する「緊張度」は、階級によって異なる。
小ブルジョアは、上昇志向が強いので、精神的集中・言語的監視・検閲がつよい。訂正しすぎて、何を言っているか、分からなくなるほどだ。庶民は、あけすけに話すか、沈黙するかする。

なお言語資本は、象徴資本の1つの形態である。身体化されたもの、文化財、学歴のように制度化されたもの、という3つの形態をとる。

言語交換のエコノミー/歴史篇

社会構成における公共利益=支配利益と、言語との結びつきが、隠されている。公用語を定めることで、政治的に統一する。

よくネットにある話。「あの人気アイドルグループは、あの大手広告代理店が仕立てたもの。陰謀だ」と。大手広告代理店は、何を消費すべきかを、消費者に強制する。何を賞賛すべきかを、鑑賞者に強制する。しかし、きわめて巧妙?にやるので、広告代理店の「権力」は、見えにくい。ある日ネットを見て、アイドルのファンが「陰謀」を発見し、ガッカリする。そういう仕組みである。
かつて流行った「ステマ」という用語だって、被支配者なりに、支配者の権力を前景化するための術語であった。事情を知っている人からすれば、「今さら、何をか騒ぐことやある」という状況だ。だが被支配者は、ブルデューの言うように、権力を隠されているので、「ステマ」を「大発見」してしまうのだ。


表現手段の資本(=生産手段の生産)がある。図書館、書物、とくに古典、文法、辞書である。文法学者、教師、文学者である。_120
ことばと権力は、等しい。外からの権力が、言葉を抑圧しているのでない。言葉の使用そのもの、言葉を語り書くという、社会的プラチックそのものが権力である。言語使用は、社会的・政治的な編制を内在する。

社会理論の範式としてのブルデュー言語論_124

諸個人の行為が展開される、社会的文脈と、その「場」がある。ブルデューは「場」「市場」「ゲーム」という。そこに独自の「資本」の概念を導入する。

「場」「市場」「ゲーム」は、同じ意味なのね。

物質的富である経済資本は、貨幣、ストック、シェア、財産などの形態で示される。経済資本とは別に、文化資本がある。知識、技能、教育資格、技術資格である。ほかに、特権や名誉などの象徴資本がある。社会的縁故や知己関係などの社会関係資本がある。
言語市場においても、これらの資本が機能する。
この市場で、利潤の最大化をめざす経済的プラチックがある。

経済と非経済という二分法は成立しない。象徴資本の「誤認」「再認」「認知」といった認識行為の社会的現実を、再生産/生産との関連からつかむ。
贈与・互酬性の関係性のなかにおける、信頼、疑い、義務、個人的尊厳、互助性、あわれみ等に、象徴暴力・象徴権力の働きをみる。教育システムの教える行為のなかに、文化的恣意性を正統化する、象徴暴力・象徴権力の概念をみる。
政治権力や国家権力とちがい人と人との相互関係のなかで、社会的・歴史的に働きかけてくる「力」の作用のあり方を、人々がプラチックに行使したときに構成されるある方としてとらえる、日常的な力の働きである。

政治権力や国家権力のあり方とは「物理的な暴力で従わせる」と同義だろうか。しかし、政治権力や国家権力だって、つねに物理的に暴力を振るっているわけじゃない。政治権力や国家権力を「人々がプラチックに行使したとき」に、市場の原理が働くのではないか。ぼくの着想は、ここだなあ。進めていけそうな気がする。


プラチックの経済論理と象徴権力は、マルクス主義的な建築のメタファー(土台と上部構造)に対応しない。市場のなかの制度メカニズムにおいて、日々のプラチックに内在している諸関係の、複雑なあり方を客観化するもの。正統化/誤認/再認のタームを媒介にして、結びつけられる。受信者と発信者の、行為と利害のなかに、相互的に関与する。
ブルデューのいう「階級」は、マルクスと異なる。「プラチック」の位置を示す。「支配」とは、経済決定や階級支配の構造化でない。階級ハビトゥスのプラチックなあり方である。プラチックは戦略だが、当事者がそれと知らずに行使している戦略である。

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1-4章 文化理論/歴史理論の地平と間隙 open

プラチック研究における〈領有〉概念の意味_146

領有は、獲得/所有と区別される。
平田清明『経済学と歴史認識』はいう。領有とは一般に、共同に利用される社会的な生産力およびその所産としての社会的生産物の、私的=排他的な獲得である。特殊には、他人の利用可能性または所有の剥奪である。剥奪する側にとって領有としてあらわれるものは、剥奪される側にとっては、所有剥奪であり、疎外である。
平田は領有を「資本家の支配につながる」という思考回路で設定した。

フーコーの「社会的領有」_153

フーコーはいう。ディスクールに対する統御は、3群ある。
1つ、ディスクールの力を統御する。禁止、分割と拒否、真理の意思。これらを外側から行使され、排除のシステムとして作用し、力と欲望を働かす。
2つ、ディスクールにおける内的な手続。「出来事」の「偶然性」を払いのけるための、注釈、作者、ディシプリン。
3つ、ディスクールの活動の諸条件を設定し、ディスクールを有する諸個人に規制を課して、万人を近づかせない統御として、パロールの儀礼化、ディスクールの社交世界、ディスクールの社会的領有、ドクトリン集団がある。

わからん。引用して損した。

ディスクールは、閉じられた仲間内だけで流通する。

ブルデューの〈象徴的領有〉_155

〈領有〉とは、人間の意思の側から「所有」されるものでない。文化的産物やディスクールといった、対象そのものに内在する意図をいう。対象物のほうから、所有する人間に働きかけてくることを、ブルデューは〈領有〉という。

ここが要点だな!

贅沢財(とくに文化的産物)は、社会的差異をあらわす。ディスタンクシオンの関係が、贅沢材に客観的に書き込まれている。ある消費行動をするたび、気づくまいが望むまいが、消費のために必要となる経済的・文化的領有手段をつうじて、ディスポジシオンがはっきり現れる。文化的対象物そのものに、意図が内在する。

このロジックは、あちこち使えるなあ。「ここに住むということは」「ここに勤めるには」「この大学に入るには」「この役職につくには」と。

ロールスロイスそのものが所有する価値がある。ブルデューは、ロールスロイスの使用者・所有者と、ロールスロイスとの関係を捉えようとした。_156

象徴的領有とは、特権を排除する逆説的領有である。排他的専有性である。つまり、物質的領有(排除を現実的に肯定する領有)とは異なる。
例えばゴッホを買い取って所有する「物質的領有」と異なる次元に、「ゴッホはルノアールより良い」という、「象徴的領有」がある。文化物が希少価値をもつのは、自らの経済力ゆえだと信じこみつつ、しかし文化物は誰もが近づき得る、みんなの財である。これが、文化物の象徴的領有手段である。

ゴッホの絵を「物質的に領有」している人でも、買値の10倍のカネを積まれれば、ゴッホを手放すだろう。そういう意味で、ゴッホは「みんなの財」なのかな。「物質的に領有」している人は、そのとき、たまたまカネを出しただけ。その人に価値があるのでない。ゴッホの絵にこそ、価値がある。


リクール解釈学の「領有」_159

リクールはいう。領有とは「適用(適合)」と同じである。人は物語ることで、また物語を読むことで、自分が誰であるかを確認する。「物語的自己同一性」を、領有=適合とする。
テクスト世界と、主体の世界との連結点を、必然的に布置するのが読解理論である。これは、さまざまなディスクールの領有である。つまり、そうしたディスクールが読者に影響を及ぼし、あらたな自己理解および世界理解の形成へと導く仕方を、理解することができる。

シャルチエの「領有」_160

「読者」とは、固有の能力を身につけ、その地位やディスポジシオンによって特定される。読むというプラチックによって、特徴づけられる。
「テクスト」とは、その意味作用はそれ自体のディスクールと形式の装置(印刷されたテクストの場合であるなら「印刷装置」)につねに依存している。
このような、「読者-テクスト」の交差点に、解釈の構築過程を定めるべきである。読者のテクストへの「適合」という関係は、可動的で差異化されている。テクストそれ自体の同時的な変異、もしくは別個の様々な変異、テクストを読めるようにする印刷化、テクスト読解の様態(黙読か音読か、神聖か世俗か、初心者か名人芸か、民衆か教養人か)に依存する。
シャルチエの「領有」とは、読む行為者の創造的自由(規制化された自由)を読みとる。慣用・解釈は、社会的・制度的・文化的な諸限定に結びつけられる。かつ、それらを生産する特定のプラチックに、印こまれる。

まとめ_164

〈領有〉とは、実在的な場でない。象徴的な領域として、問題構成される場である。「文化物そのもののなかの意図」というように、ないものを実定化するものである。歴史的・時間的に形成されてきたものが、構造化されている場が、一方にある。人為によって創造的に関与され構成され、内在・潜在の外化として、モノ・対象へ内在化されたものの場が、もう一方にある。2つの場が、重なる。
〈領有〉は、観察者・分析者の問題の立て方によって、構成されるものである。ゆえに、その恣意性に大きく左右される。だから、理論的な問題設定が、もっとも強く問われる、問題の領域なのだ。
すなわち、経済学的に「我有化」「所有化」と、わかった風に表現してはならない。経済理論上の論争を踏まえた上で、経済学とは別に、〈領有〉を検証すべきである。

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2-1章 客観的客観主義と、主観的人間主義の超克 open

ブルデューを理解するには、『実践感覚』を理解せよ。
 1部:理論理性の批判
 2部:プラチックの論理

理論的関与の客観化、、客観化を客観化する手法

構造主義では、ソシュールの「無意識」、ストロースの「モデル」を否定する。実存主義では、サルトルとパスカルを批判する。実践、つまり目的意識的実践(目的を立てて意識的に実践すること)が、批判の対象となる。_174
ソシュールは、「ラングという言語の体系がある」と客観化する。だがブルデューはいう。実際に喋られる言語は、ラングにもパロールにも還元できない。実際に喋られていること、実際的なものそれ自体を、問題とせよ。具体的・社会的な諸条件を考えなければならない。
「目的をもった言語の体系」を、ブルデューは否定する。言語の体系が、どういう学校制度(象徴暴力)のなかで生まれたか、考えよ。学校制度を暗黙の前提にするな。学校関係者たちが思考していないモデルを取りだして分析せよ。これにより、主観(学校関係者の意図)と、客観(言語の体系)を越えた、言語の分析ができる。
「身体に構造化された状態」が構造化するあり方として、規則性の中で自由にしうること。これがディスポジシオンである。主体的に配置換えするものである。揺るぎなく決定されていない。ただし規制されている。
ディスポジシオンに規制された体系が、ハビトゥスである。
思考可能なのはどこまでで、どこからが思考不可能なのか。これを、観察者がおのずと客観化する。

ハビトゥスとプラチック

「プラチックの理論」は、それ自体がプラチックである。
同理論は、客観主義の実証主義唯物論にたいしては、「認識の対象は、構成化される。受け身的に記録されるのでない」という。同理論は、主観主義の主知主義観念論にたいしては、「構造化され、構造化する諸々のディスタンクシオンのシステム、プラチックのなかで構成され、つねにプラチックな諸機能に方向づけられているシステム」が構築原理である。という。_182

よく分からないなー。折衷じゃなく、止揚なんだろうが。

構造の実在論から逃れる。社会世界の必然性の説明を欠く、主観主義から逃れる。これは、プラチックに立ち戻ること。「史的プラチックが客体化された生産物」と「身体化された生産物」との、諸構造とハビトゥスの弁証法の場である、プラチックに立ち返ること。

うっすら分かるが「理解」というより「感得」レベルだ。


生存のための諸条件のうち、ある特殊なクラスに結びついた条件づけが、ハビトゥスを生産する。そしてハビトゥスとは、持続性があり、転移が可能なディスポジシオンのシステムである。そういう配置換えのシステムである。
そして、構造化する構造として、つまりプラチックと表象を産出する、組織の原理として機能する。そういう性格をもつ「構造化された構造」がある。
規定され、構造化された構造が、固定しているのでない。そのなかで、構造化する構造という、実際の行為と、それを表出していく原理として、動いていくものがある。

わかる。構造主義のように、構造を固定して、なんでも決定論にしたいのでない。構造化する構造が構造化されており、その構造がふたたび構造化されており、その構造もまた、ふたたび構造化されており。
動的に問題設定の次数があがっていくのだ。


ハビトゥスの行動形態は、身体化されている。身体化を分析せねば、文化というものが見えない。_182
プラチックと表象というのは、それらが向かう目標に、客観的に適用させられ得る。だが、目的の意識的な志向や、目的を達成するために必要な操作を、明白なかたちで会得しているのでない。
プラチックと表象は、客観的に規制されている。規則をつくるかたちで動く。規則として決まっているが、同時に規則を作るような、あり方で動きうる指揮官のいないオーケストラのようなかたちで、集合的にうごく。_183

歴史の産物であるハビトゥスは、個人的・集団的プラチックを、歴史が生み出した図式にそって生産する。過去の経験の、ポジティブな出現を保証する。過去の経験が沈殿して、どんな規則よりも、過去の経験がプラチックを規則する。「外部の内化」「内部の外化」「外部の内在性」「内在化したものの外在化」といえる。
産出する上で、すでに獲得されたシステムがある。無限でありながら、厳格な限界をもった産出能力たる、ハビトゥスがある。

決定論でもなく、自由でもない。条件づけだけでないし、創造性だけでない。意識だけでなく、無意識だけでない。個人だけでも、社会だけでもない。二者択一にならぬところで、ハビトゥスは産出能力として動いている。ディスポジシオン=配置換えがなされる。_185

プラチック戦略の客観図式化_187

「プラチックの論理」のポイント。
観察者が外から分析し、そこにひとつの科学的なプラチックをほどこすとき、いったい何が起きているのかという問題がある。当事者が当事者として、戯れてゲームするとき、実際にどう考えて、どう行為しているか。観察者と当事者に、どんなズレがあるか。そのズレを、きちんと自覚して、物事を考えましょうと。
「何をしてるの」「講義してる」と言えば、ほかの行為がすべて抜ける。眼鏡をかけ直す、上を向く、考えごとをする、などがモレる。こういう不確実性や曖昧さ、首尾一貫のなさ、世界のダイナミズム、輪郭のぼやけ、全体がつかめない、、を自覚しなさいと。_188

ブルデューは、論文「規則から戦略へ」でいう。モデルを立てて理解してしまう、構造主義から手を切れ。「戦略」から物事をとらえよ。戦略がどういうかたちで展開されているか。戦略の世界を、全体化する方法をつくろう。_189
競技者や贈与者は、どういう動きをしているか。どういうルールか。相手のウラをかくため、予測をさらに予測して、フェイントする。競技者や贈与者は、客観的な確率におうじて、つまり潜在的生成に捉えられている、敵の総体と味方の総体とについての、包括的かつ瞬間的な評価に応じて、決断をくだす。
その場で即座に、目配せするわずかのあいだに、行為に熱中しながら、ひとつの行為をやりきる。_190

わかりやすくまとめると!_190
行為する当事者は、時間をちゃんと考慮にいれて、リズム・テンポ・方向性を頭に入れて動いている。観察する分析者は、時間を全部はずし、排除してはじめて、ひとつの科学的プラチックが可能になる。
つまり、分析者の分析は、可逆的なものとして、プラチックの実態をおさえる。当事者は、不可逆的なものとして、実際の行為をする。
プラチックは、時間・テンポを戦略的につかう。プラチックは、時間のなかで、初めて演じられる。ゲームの時間、1日の時間、1年の時間、一生の時間。分析者は、別次元にたつ。プラチックを脱時間化してはじめて、科学的叙述が可能となる。
正弦曲線で、戦略の周期をえがける。_195

この正弦曲線は、マジでがっかりした。


時間の戦略プラチック_196

時間的に順序をたどる。AのつぎB、BのつぎC、という順序で意味をつくる。不確実性につきまとわれるから。
例えば、ある贈与をした。贈与でなく、発話でも挑戦でも同じ。反撃する場合と、反撃しない場合がある。反撃しない場合、拒否あるは無能力だ。拒否ならば、軽蔑して反撃しないってこと。無能力ならば、不名誉というかたちで反撃しない。反撃しないのは、戦略的になすこと。_197
対抗贈与について。対抗贈与は返礼であり、貸付-返済とは異なる
貸付なら、百万円を貸与したら、百万円を返済される。猶予期間(返済期間)が決まっており、利率も、すべて計算可能。
貸付に対して、贈与と対抗贈与は、あいだに時間の隔たりがある。時間の隔たりが、おおきな戦略の意味をもつ。百万円かりて、10分後に返したら、「何のためだ、礼儀知らずめ」となる。百万円かりて、20年も返さなければ、「恩知らずめ」となる。対抗贈与するとき、いろいろな象徴的物事がおきる。

10分の話、20年の話。おもしろいなあ!

贈与を、戦略的なものに転換しなければならない。
贈与されて恩恵を受けたなら、返礼するまで、義務を負わされている。義務を負わされることに意味がある。恩人に感謝の意をあらわす。敬意や気配りがいる。武器が通じない。
待機する、延期する、不意をうつ、奇襲する、機先を制する。これ見よがしに時間を与える。時間を拒否して、時間を割いてやらない。_198
贈与して、同じものが帰ってこれば、それは侮辱である。拒否である。お前がくれた物には、意味がないという意味である。
名誉とは相手にたいして等価なものが返ってこなければならない。自分と相手が対等にならねばならない。戦略をこめて、対等なものを返す。返礼により、返礼してきた相手の質が決まり、返された自分の質も決まる。このような戦略が、日常的に行われる。

「公認化戦略」がある。ぎゃくに規則にかなったプラチックをおこなうことで、政治的な行為においては、利己的・私的・個別的な利益を、無私の利益に転化させることができる。私的な利益を公共に普遍化する。公的な利益を、法的に専有できる。田中角栄のように。_200
計算や推論、規則や原則を含まないかたちで、非常に緊急な行為のなかで、状況の意味・方向をさぐる。ただちに的確な判断をうみだせる。非常に不確実な状況でも、瞬間的に対処できるプラチックを、私たちは身につけている。

「象徴的なもの」のプラチック、象徴資本へ_200

象徴資本、象徴権力、象徴暴力、象徴利益、象徴的労働、象徴財。既存の概念に、ブルデューは「象徴」という語をつける。ブルデューは「象徴」をつけて、プラチック論で何を狙ったか。
客観主義的にプラチックの状態を考えると、経済至上主義におちいりがち。社会物理学をやりがち。客観的なものを、統計的な関係として、分析してしまう傾向がある。他方、実際のプラチックを社会現象学的にとらえるなら、個別の具体的な事象をとりあげ、差異化・微分化するだけである。客観化できない。
客観主義的、社会現象学的、のいずれを越えよ。_201

主観的なものの客観性をとりあげる位置に「象徴」という領域がつながる。認識論的にいうと「象徴」は、主観的なものが客観的な物として現れてくる領域である。

実際的な世界をつかう上で、その世界からも、ある意味では別の領域に編成されているかのような、象徴的な領域を考えたい。たとえば、贈与交換に現れる戦略は、見こみを立てて、自分の利益になるように行動する。だが、本人も「利益のため」と思っていない、「利益を出すために贈与の戦略を」と思っていない領域をつかむべし。_201
戦略というのは、贈与者のおもてに出てこない計算がある。受納者のおもてにも出てこない計算がある。贈与者がおもてに出さない計算をするとき、受納者のおもてに出てきていない計算を勘定に入れる。贈与者は、受納者の要求がなんであるかを知らないような顔をしながら、相手を満足させる
贈与交換にかぎらず、相互コミュニケ-ションのなかで、つねに行われること。相互関係性をつかむのが、戦略を考える上での問題である。_202

いいなあ。蛍光マーカーをひくべき箇所だ。
この「おもてに出ない」が、「象徴」ということか。あっ、ちがう?

ところが、相互の戦略のあいだには、独特の象徴的な領域がある。自然に設立されているがゆえに、耐久性をもつような関係がある。これをブルデューが「象徴的な働き」という。
一方では経済的なものの再生産を可能にする。同時に、集団が集団として存在していくときに、不可欠なものが再生産されねばならない。具体的には、祭祀・訪問・礼儀・婚姻といった領域である。直接に経済的なものでない領域を、再生産していくことが問題となる。

経済上の利害と、計算のゲームがありながらも、それを隠蔽するようなメカニズムがある。「計算だかい知性」に対立するものとして、「まだ口の聞けない子供」がおこなうもの。見返りを期待しない、報酬を期待しない関係性である。経済至上主義でなく、象徴的な問題としてとらえよ。
象徴的とは「具体的、物質的な効果を欠いたもの。無料の、利益を離れた、役に立たぬもの」である。否定的に、象徴的なものというかたちで、構成されている。金銭の利害から否定的な位置にある。

「象徴的なもの」は、一見すると「損するもの」である。

危機のときこそ、象徴資本がはたらく。8時から17時まで働くという就業規則がある。その規則は、地震のときも、無償で関与してくる。規則が否認されてこそ、その経済的に否定的世界(就業規則)が、よく発揮される。地震のとき、給料をもらわずとも、会社の存立のために、社員は力を尽くしてしまうものだ。
就業規則のような象徴資本は、つね日頃つくられる。日常の機会と、非日常の機会のあいだで、作られねばならない。あるいは、定期的な必要と、例外的な必要とのあいだの、対立のなかでつくられる。

当たり前の業務と、当たり前でない業務。当たり前だけでは、ダレる。また、当たり前ばかりでは、ほんとうに規則が、社員をしばっているのか分からない。ぎゃくに、いつも当たり前でないと、規則は通用しない。毎日「倒産するかも」という危機では、その会社には、だれも残らない。ほぼ当たり前の業務をしつつ、たまに倒産しそうになるから、がんばれるのだ。


象徴資本をあらわす言葉は、名誉と威信、誓約と恩義、権利と義務、信用と信じこみがある。危機のとき、例外のとき、非日常的なとき、などを通じて、調整されてゆく。象徴資本は、日常的な世界では否認されるが、対立のなかで不断に形成される。

サービス残業は御免だが、「いま頑張らないと給料なし」なら、がんばる。

たとえば現金を一銭も払わずに、有利な取引の契約を結べることがある。富はないが、名誉・評判による信頼資本をつかい、市場で買い物ができる。貸され、借りられもしないような関係性に入ってくる、 取引を可能にする。ながい蓄積があって初めて、可能となる。
象徴資本の「相続の戦略」がある。象徴資本の、投資・備蓄の戦略もある。

言語資本、教育資本、学校資本は、象徴資本である。
象徴資本は、経済資本ではないが(経済資本でないものを象徴資本というのだ)、経済資本と相互関係があって初めて機能できる。経済資本がなければ、象徴資本は形成されない。転化がある。_206

『ディスタンクシオン』より前に『実践感覚』で、「名士」論がもちいたロジックを書いてある。20世紀のフランスを分析した、象徴資本の応用編たる『ディスタンクシオン』よりも、理論書である『実践感覚』のほうが、参考文献としては適切かも。


「支配」を受け入れるプラチック、おだやかな暴力

支配の様式について。「支配」とは、支配が実際に承認されることのあり方である。支配が再認されるためには、支配があることが見えないようにすべき。支配というものが、取り違えられるべき。利害関係があるのに、利害関係がないように思わせる。暴力による支配は、むしろ弱い支配。_208
人格的な忠誠、贈与、負債、感謝、あわれみには、暴力がある。名誉の道徳がたたえる、すべての美徳の暴力が働けば、公然と暴力を振るわなくても支配できる。
表面にあらわれない暴力は、相互の転換をする。権威ある人が、権威を守るために身体をはる。権威が、権威ある人に対して、暴力を振るっているも同然である。

負債と債務という対立が共存しつつ、ハビトゥスの生産が確保される。そういう社会的なメカニズムがある。秩序が再生産されるとき、おだやかな暴力がはたらく。制度のなかに、獲得物の永続性と累積性を保証するかたちで、客観化され、蓄積されるものがある。行為者が、すべて再創造しなくても、制度が制度をつくって固定化する。
制度がつくる制度が、地位をつくる。_210
地位とは、タイトル、資格、不動産、威信、職務、特権として現れる財産。学歴、卒業証書。文化資本が身体化された身体。地位は貨幣と同じく、時間的な変動をまぬがれる。

後漢の皇帝という「象徴資本」を論じたいなあ。

クラス分け、分類、区分けは、実際の構造化された規則性において、ディスタンクシオンの象徴論理を打ちだす。_212

制度が制度をつくり、地位をつくる。その地位に入れる人と、入れない人を区別する。その区別する論理が、ディスタンクシオンの象徴論理である。


誤認のプラチック_212

誤認とはなにか。自分が再認しているものを、自分が生産していると知らない。自らの対象、自らのカリスマの、もっとも本質的な魅力をなすものが、信用の操作の、それによって行為者たちが対象に自分たちの従っている権力を与える無数の信用操作の産物でしかないという事実を知ろうとしない物-認識である。

ひどい文だ。筆写してる。ぼくは悪くない。笑

東大卒には実質的な権威がない。だが東大卒にとって、付随する出来事が、いかにも東大卒が権威であるかのようなかたちで、自覚・認識しない でいる状態。これが誤認である。

わからんなあ。構文が。

誤認は、荒唐無稽や虚構でない。誤認もまた、プラチックのなかで機能する。実際的なプラチックである。

後漢の幼帝には、執政能力がない。だが実際に、幼帝でも後漢は滅びない。幼帝を成り立たせているのは、臣下が信用操作をして「幼帝は執政能力がある」と思いこんだ結果である。幼帝が、この事実を知ろうとしないとき、これは誤認である。ただし誤認であっても、幼帝の執政を成立させているので、実際的なプラチックである。
そうなのか?『実践感覚』を読みましょう。

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2-2章 ディスタンクシオン論、好み/判断の理論 open

ブルデューのポイント。主体の非決定性を、社会的規定性においていかに引き受けているか。主観と客観の区分を消滅させるところで、制約と自由度との相互関係の問題構成はいかにあるか。_217
主観の側からの客観的規則性を、いかに踏まえるか。これが『ディスタンクシオン』である。いっぽう、客観の側に、主観的関与がいかになされるか。かつ、客観の側に主観がいかに関与し、客観が主観を規制しているか。これが『実践感覚』である。
2書により、マルクス階級/資本論を書き換える。

社会学的エコノミーの論理_219

文化資本、文化財という、金銭経済とは異なるエコノミーがある。
文化は、自然の賜物でない。教育の産物である。ゆえに趣味や好みは、階級をしめす指標となる。
1つ、個人的趣味は、社会的なものである。2つ、芸術作品は、社会的に階層づけられ、人々に好まれる。3つ、作品の良し悪しの判断に、社会的判断が介入する。_221

作品のコードがある。諸概念によって領有されない限り、人は作品を好きにならない。理解できない。眼は歴史の産物である。作品を支配することはできない。

この章は、『ディスタンクシオン』の日本語訳の訳語を批判する。ハビトゥスとか、プラチックとか。フランス語の語感を、日本語訳はうまく掬えていないと。そうだとは思うが、なかなかねえ。
本の内容は、先日に(まさに批判されているところの)日本語訳で読んだこととと重複すると思うので、はぶく。っていうか、日本語訳による理解を、この章で更新することがなかったぼくは、この章を「正しく読めていない」ことになるのだが。まあ、議論のテーブルが同じことを確認した。

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2-3章 3つのプラチック階級論 open

ブルデューの基本理論世界_257

『ディスタンクシオン』の結論で、ブルデューは5ついう。
1つ、構築原理がある。
2つ、分割原理、境界感覚は、プラチックになされる。
3つ、関与性の原理において、自らを割り当てる原理が働く。
4つ、分割原理をめぐり、分類化の闘争がある。
5つ、表象=再現をめぐり、分類しあう相互関係がある。

分類をめぐる「プラチックな論理」のあり方。マルクス主義的な客観主義との断絶。主観主義的な現象学との断絶。
マルクス主義者は、社会的な場を、経済的な場に還元する。社会世界内部の、象徴闘争を無視する。これに対してブルデューは、経済資本と象徴資本の相互交換可能性が、どれくらい置換できて、どれくらい置換できない機能を果たしているか、考える。
現象学的知識は、実体験や主観性の権利にもとづき、科学をつくるだけ。これに対してブルデューは、客観的構造と、構造化されたディスポジシオンとのあいだに、弁証法的な関係の科学をつくる。_258

再生産戦略と、再変換戦略がある。
再生産戦略とは、ポジションの維持・改善をするように企図される、一連のプラチック。相続法、労働市場、教育システムに依拠する。再変換戦略とは、社会空間の内部の動きに対応する戦略である。みずから保持する資本しだいで、上下に移動する。経済資本を教育資本に再変換するのは、この典型的なケースである。
再認、正統性、資本への接近、を目的とする。

今週ずっとブルデューやってるけど、疲れてきた。というか、飽きてきた。なんか、同じ話を、ずっとグルグルやっているような気がしてきた。


「領有と所有」のディスタンクシオン_271

「物質的領有と象徴的領有の適合は、贅沢財の所有に、正統性と同時に、二次秩序の希少性を与える」と。
贅沢で繊細で稀少なものを持つことが、賢明で洗練され、特色をひきだす。

領有と、獲得/所有のちがい。自然(花鳥風月)を領有することは、古い伝統をもった人々の特権である、文化・教養が前提となる。だが、豪邸を所有することは、たんにお金の問題である。だが実際は、お金で所有するだけの場合でも、豪邸を文化的に領有しなければならない
つまり、高額なワインを楽しむ(文化を領有する)から、ワイン蔵をもつ(ものを所有する)のだ。田舎に豪邸を所有するなら、庭いじりの文化を領有しなければならない。_272

倫理的・禁欲的なディスポジシオンがある。_273
大学教授は、禁欲的な貴族主義である。美術館を訪れるという、もっとも安上がりで控えめなレジャーをする。厳格で文化的なプラチックをやる。経済資本より、文化資本により「キャラ立ち」する。
時間によるディスタンクシオンがある。新参者と古参者の対立。_274

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総括 〈階級=分類化〉論 open

「主観的なものの客観性」と表象。_297
ブルデューの階級論とは、社会的な象徴分類論である。階級の実態でなく、階級をめぐる分類化と、階級という概念とが、階級闘争の賭金であると考える。

その階級がどのような生活をしているか、という実在主義?な議論でない。階級のあいだには、どういう固定的な関係があるか、という構造主義?の議論でもない。いかに階級が形成されるか。そもそも階級とは何か。そういう「ポスト構造主義」の議論である。もちろん、これを「ポスト構造主義」とくくると、四方八方から「バカヤロウ」と言われそうだが。ともあれ、構造の構造を問題にする。


諸集団、とくに系統学的基盤となる、諸々の統一体が、規則性と制度化された拘束との、客観的現実性のなかに存在する。同時に、諸々の統一体は、リプリゼンテーションを修正することにおいて、現実を修正しようとする、取引、ネゴ、はったり等の戦略のなかにも存在する。
家族、氏族、部族等の系統学的基盤となる、諸集団から抽出した論理が、われわれ社会のもっとも典型的な諸集団である、諸階級の名で示されているものにあてはまる。_298

表象=再現の現実。現実の表象=再現。これを明らかに深めたものである。
資本が分配されている、確立された秩序とは。象徴的効果によって、固有のものとして存続している。物質的にのみ存続しているのでない。象徴的所有は、測定できない。相互関係のなかで知覚され、評定される。ディスタンクティフな所有だ。_299

所有とすべきフラ語を、邦訳は「属性」とする。だが、物質的な「特性」であり「固有性」であり、すなわち「所有」であることを、「属性」とすると、ブルデューの意図を誤る。_300
結論する。
社会物理学と社会現象学の対立を乗り越えるには、所有の物質である「規則性」と「ハビトゥスの分類化図式」のあいだに設定される、弁証法的関係に身をおけ。

でました、結論。スルメすべし。

これは「階級条件」と「階級感覚」とのあいだの弁証法である。「客観的諸条件」と「構造化するディスポジシオン」とのあいだの弁証法でもある。
「あいだ」とは、実態的・物質的な「条件」と、感覚的・知覚的な「ハビトゥス」である。「あいだ」が、論述のコンテクストにより、種別的にいろいろな用語に対応させられる。弁証法的な関係を把握すべきである。

分配の連続秩序構造が、変容され誤認されうる形式のもとで、ヒエラルキー化された生活スタイルの非連続秩序構造のなかで完成される。また、その真理が誤認される再認のプラチックと表象=再現のなかで完成される。そのあり方を把握せよ。_300

大切なところなので、わりにマメに筆写する。

「所有」とは、ハビトゥスの諸カテゴリーにしたがって知覚される、ハビトゥスの表現である。「所有」は、領域の差異力量を象徴化する。つまり、資本と社会権力を象徴化するものである。ディスタンクシオンの正と負の利潤を保証する、象徴資本として機能する。

読んで理解できなかったから、書いたら理解できるかと思った。書いても、理解できなかった。

所有は、領有と象徴化という、2つの次元で考えられる。物理的実態としての所有概念でない。「属性」でなく「主要なもの」たる資本なのだ。

分配の本源は闘争である。_303
闘争とは、①稀少財の領有、②正統な作法の押しつけ、③表象=再現の押しつけである。分類化が、階級闘争のカナメになったのは、なぜか。分類化と階級概念とが、構造化する諸精神の一致をメカニズムに加えることにより、分配を決定する。その再生産を保証する、客観的メカニズムの有効性を増大させる。社会階級の生存に寄与した。以上の理由による。

まるで『聖書』を読むようだなー。ちがうかなあ。

社会科学の対象とは、あらゆる闘争をふくむ現実である。それは、現実を守ろうとするか、変えようとするかの、個人的/集団的な闘争である。現実の正統な定義の押しつけを家系金とする。既成秩序(つまり現実)の、保守ないし転覆に寄与しうる、象徴的に固有の有効性をもった闘争である。

いっこうに分かりにくいのだが。同じところを、グルグル回っていることは、分かってきた。「ここがどこだか分からないが、とにかく同じところにいる」という感覚は、不合理でなく、非現実的でないはずだ。


闘争がもつ5つの性質_303

こうした「社会科学の対象」となる、「現実の知覚」「現実の表象=再現」「現実の定義」をめぐる闘争とは、どんなものとして描かれるか。
1つ。上位に近づき、下位から自分を切りはなそうとする、ディスタンクティフな区別・品位をめぐるものだ。
2つ。客観的な最小距離が、主観的な最大距離となる近接者をめぐる、境界域が大きな問題となる。

近親憎悪というやつ。

3つ。地位を誇示することが許されて、序列が認められるよう、象徴戦略をとる。
4つ。行為者がみずから領有でき、主体のプレテンシオンとして信用価値を考慮する。
5つ。ディスタンクシオンが自然のモノとして、身体化される。

以上5つにより、「機械的客観主義」「客観的経済主義」に対峙する。象徴諸形式の論理と有効性をとらえる。分配のなかの客観的諸条件にたいして、相対的に自立した象徴論理(=象徴資本)をとらえる。
「主観主義」にも対峙する。社会秩序が、個人秩序の機械的総和によって、形成されるのでないと示す。_304

ディスタンクシオンの金利

所有の統計的分配によって記録される差異が、自然なディスタンクシオンの記号として理解される。恣意的な差異が、客観的諸構造に客観的に整合した知覚・評価の図式の体系に応じて、把握される。正統なものとして再認されるときでしかない。
誤認こそが関係の真理の構成要素となることが、客観的認識としては重要である。差異の希少性が高いほど、大きなディスタンクシオンの金利を保証する象徴資本として、ディスタンクシオンの記号は機能する。
所有の価値となるのは、プラチックや財の内在的性格でない。多様化と流布にともなって低下する「周縁価値」のほうである。
行為者は、直接の上位にある集団と同一化しようとして、直接の下位にある集団からディスタンクシオンしようとして、たえず闘争する。闘争して、象徴資本と肩書とを守ろうとする。

差異が減少すれば、社会エネルギーである階級闘争も減少するというが、これは誤りである。
熱力学的世界観、水平化する考えは、誤りである。なぜか。知覚された差異が、客観的差異でないからだ。近接した場所(差異が物理的にもっとも小さい場所)で、もっとも緊張があるからだ。社会空間内部の客観的最小距離が、主観的な最大距離と一致する。もっとも近接した者が、差異をおびやかす。分類の境界は、物理とは異なる性質をもつ。

遠いほど緊張がゆるく、近いほど緊張がつよいのは、物理法則と逆である。物理は、温度がぜんぜん違うものを合わせると爆発する。社会では、温度がちかいものを合わせると、爆発する!?


ブルデューはいう。マルクス主義的な階級闘争は、分類化=階級化を再認する闘争でしかない。
ブルデューの象徴的闘争とは、隣接者に対して一線を画す闘争である。部分革命でしかない。公式に再認され、コード化され、保証されているディスタンクシオン記号のなかで、公式・公的にディスタンクシオンを誇示することは、何を意味するか。
序列において、地位の重要性を誇示することが許されているのだ。象徴的所有を使いながら、序列を守る戦略だ。みずからが稀有な位置を占めていることを、準自然的で正統的なものにする戦略だ。つまり、支配階級の自己認識なのだ。
特権集団は、統一と分類という、基礎的2操作を用いて、集団の象徴的価値の増大・減少を生じさせる。ディスタンクシオンの戦略に「制度的でコード化された形式」を与える。
衣服や住居のような、象徴的な富のディスタンクシオン記号をもって、序列を表示する。正統権威の標章である、社会的再認の表徴を活用し、規制化して、差異を目に見えるようにする。序列を表示する。現実的な交換においても、序列を表示する。婚姻・贈与交換・宴席の交換・商取引をおこなう。_306
支配階級による象徴闘争とは、ディスタンクシオンの制度化された戦略である。

カネ持ちは、カネを転がして、利子で収入を稼ぐ。カネ持ちほど、肥え太る。象徴資本も同じ。もともと象徴資本を持っている人は、「これがツウざんす」という価値観を提示し、また価値が高いものを持って「あなたとは違うんです」と誇示し、ますます象徴資本を独占する。金利みたいなものだなあ。


移行する社会のける、信用価値_306

信用価値をめぐる、高すぎも低すぎもしない、ちょうど良い高さを占める戦略について。象徴戦略が増大する、社会の移行がある。集団同士の境界が、法的境界となる。固定した社会(差異の表示を奢侈性の規則が支配している)から、信用価値が非決定の社会への移行である。

信用価値という言葉の使われ方、よく分からない。

「信用価値」とは、みずからに認められており、かつみずからに課されているものを定める原理のこと。信用価値が客観的に非決定なものになると、どうなるか。主体が「みずからを再認する価値」と「公式に主体に再認されている価値」とのあいだにズレが生じる。そこに「意図」が作用する。意図は、自己実現をめざして、ハッタリ戦略をとる。ハッタリが権威づけられ、有用に作用する社会である。

だめだ。信用価値について、よく分からなかった。


今週は、ブルデューやったなあ。終わり。120524

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