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- 1. 中沢新一『大阪アースダイバー』 open
ナカノシマ大学で、中沢新一先生の話を聞いてきました。121013と121014の両日です。初日は、心斎橋での出版記念イベントに参加して、トークを聞いてきて、サインを頂戴してきました。ファンです。
中沢先生の『カイエ・ソバージュ』に記された、純粋贈与-贈与-交換という概念で、『後漢書』や『三国志』を読み解こうと思っています。この話は込みいるので、また後日です。今日は、アースダイバーの話だけにします。先生の大阪アースダイバーを聞いて、大阪の地図を見ていて、ぼくは気づきました。「これは『三国志』ではないか」と。つまり、『三国志』でも同じことが言えると”直観”したのでした。この”直観”を確認するために、このページを書きます。
『大阪アースダイバー』は、大阪の地形をさぐり、地形に規定されて営まれた歴史や文化をさぐることで、大阪のこと、ひいては人類のことが理解できます。同じように、三国の地形をさぐり、地形に規定されて営まれた歴史や文化をさぐることで、三国のこと、ひいては人類のことが理解できるのではないか。そういう試みです。
前半に、大阪で聞いてきたことのノートを転記します。後半で、三国でも同じことが言えないかという試論をやります。「アースダイバー」とは何か。という話は、あとで出てきます。これから、ぼくがマネようとする思考方法が「アースダイバー」的思考です。以下、聞いた話の自分用メモです。三国志の話は、つぎのブロックから始めます。適宜、飛んでください。
本屋のサインイベント
以下、地の文は中沢先生いわく。
アースダイバーをしているとき、外見ではよく分からない。自転車に乗って、「ふーん」と納得しながら、現地を回る。事前に調査するが、地形を見るときは、頭から追いだす。古老はウソツキだから、1960年以前のことを調査したければ、地形を回りながら、自分の「勘」に頼ったほうが正しい。土地への記憶の残り方を調べる。
都市は、水中から現れた砂州に作られるもの。セーヌ川の砂州はパリになり、テムズ川の砂州はロンドンになった。大阪は、淀川と大和川の砂州である。都市とは、砂州のような柔らかい地面に作られるのが一般的で、東京のように硬い土地の上に都市ができるのは珍しい。
(中沢先生の)叔父の網野善彦は、自分の思いついたことに興奮し、他人を置き去りにして、ひとりで突っ走った。
補います。このように、他人を置き去りにするのが、中沢先生でもあり、ぼくの目指すところでもあります。アースダイバー的思考とは「シャレ」である。レベルの違うものを、音が似ているから、くっつける。すると、なかったものが、新たに立ち上がる。瞬間につなぐ。交差させる。これが織田作之助のいう二流である。
どうしたら二流の思想を作れるか。この理論編が『野生の科学』である。野生の科学とは、卑猥な科学である。警察権力と反社会勢力のように、異なるものを交差して結合させることで、野生が生まれる。二流となる。補います。『野生の科学』は、今年出版された本で、既読です。ここに出てくる「二流」は、とても良い意味で使われてます。中沢先生は、自ら「二流を目指してきた」と言っていました。ぼくも、三国志のサイト作成者として、二流を目指しています。「大阪アースダイバーと、三国志が同じである」と言い始める時点で、それなりに二流に近づけていると思います。どのように「同じ」なのか、説明はのちほど。
先生のトークの抜き書きなので、これだけでは意味不明であることは、ぼくがいちばんよく分かっています。のちほど、『三国志』に関係する部分は、ていねいに書きます。
大学1限目:ダイバーの定義と背景
こちらも、地の文は中沢先生いわく。
「アースダイバー」とは、アメリカのインディアンの神話に出てくる動物。まだ地球に陸地がないころ、動物たちは、海に潜水=ダイブして、海底の泥をとりにゆき、陸地を作ろうとした。呼吸が続かないなか、命がけで土をつかみ、陸地をつくった動物がいた。命を捨てて他者のために、がんばりぬく。これが原義のアースダイバー。
いま地球では、経済・カネの洪水によって、陸地がないも同然。ココロが水没している。ゆえに、特徴ある地形、すなわち民族の心が見えなくなっている。だから、命がけで海底にもぐり(資本主義を相対化して)ココロを取り戻すのが、中沢先生が用いるところの、アースダイバー。
(中沢先生が)子供のころ「なぜ土地は私有できるか」「なぜ土地を貨幣価値で測定できるか」「なぜ土地を売買できるか」が疑問だった。資本主義以前は、土地を通じて、住居や食物を、動植物とともに共有するのが人類だった。気温や食糧は、自然からの贈物だった。人間は、自然の環境を整える「庭師」だった。なぜなら、ほかの動物よりも、環境を整えることが上手だったからだ。
最近の2百年、商品が生まれ、私有が生まれ、贈物であることが見落とされるようになった。商品でないものが、社会に1つもなくなった。上の世代は、これを「進化」と捉えた。だが、3・11以後の日本は「進化」だけでは社会が成立しないと、気づいている。近代の言葉づかいにおける「退化」も必要だろう。
第一次産業は、もっとも自然からの贈与を受ける。土、水、空気、太陽は、すべて贈物である。生産活動において人間は、庭師として振る舞うのみ。第一次産業は、すべてをカネで換算したら不利である。しかし、「カネにならないから、第一次産業を辞める」はおかしい。人間と自然を交差の関係におき、贈与の関係をむすぶ。産業を作り替え、そういう経済のシステムをつくることが必要ではないか。
人間と景観、土地との関係を探るのが、アースダイバー。
東京は坂やガケがおおい。洪積地であり、地形を改変できない。縄文時代の聖地が、今日そのまま聖地となり、皇居や東京タワーがある。地形が、人間の思考を決定している。
大阪は、温暖と寒冷のサイクルのなか、もとは干潟や海だった。人間は、もともと水のあった場所を「水界」と理解する。水界に相応しい、土地の使い方をする。三陸では、神社の足許まで津波がきたが、神社は水没しなかった。縄文の海、古代人の考えた空間の構造は、現在までつづく。
大学1限目:海民が渡来した大阪
東京のつぎ、なぜ大阪でアースダイバーをするか。
京都は盆地で、川の流れが形成した。長らく権力の中枢にあった。だが本来の都市とは、権力と折りあわないもの。 市場の商人が形成するのが、都市である。
京都は、中国の都城をマネたもの。南北軸がメインの条里制である。最北に、権力=内裏がある。中国の都城は、場所を選ばない。都城は、どこにでも作れる。広大な大地に、ポツンと都城が表れる。地形との密接な関係がない。
大阪は、堺や平野の自治があったように、農業のコメを基準としたものである。近世権力が築いた天守閣とは異質である。商業がセットされており、コメが集まり、貨幣が流通する。中州に集まる自由民が、大阪をつくった。瀬戸内海から舟で到来した。人類学のいう「人類」がつくった都市であり、野生をもつ自然な歴史をもつのが、大阪である。
大阪で水没しないのは、生駒山と上町台地のみ。山城から淀川が、奈良から大和川が流れこむ。河内潟を湖にかえて、干上がり、河内国となった。縄文は生駒に狩猟採集民がおり、弥生のときに河内潟となり、海民が三韓や福建からおとずれた。重層的に住みついた。
大阪を形成したのは海民である。大阪は、瀬戸内海の行き止まりである。大阪(日本)に住みついた人を知るには、アフリカからアジアに、どのように人類が渡ってきたかを知る必要がある。日本には、インドシナのスンダランドから航海した海民、中国南部からの移住者、中国北部から陸続のオホーツクを歩いてきた者がある。6世紀以前、南朝鮮から大阪までを含む、海民による伽耶世界があった。土地を私有せず、浮かび上がった中州に住みついた人々である。
「ナニワ」とは、古代朝鮮語で太陽を意味する「ナル」の庭、ナルニワが語源だとしたい。海民は、太陽と星座を重んじる。これはエジプトをはじめとした、人類に共通の特徴。大阪は、エジプトだけでなく、インドにも近い。
大学2限目:東西の軸を重んじる大阪
政治が危険なのは、政治家と大衆が乖離して、社会が沈滞したとき。政治家は、大衆がいやがることをする。中国やロシアでは、革命が起きる。日本は革命を好まない。政治家と大衆の通路をつくるのが理想。水戸黄門のように、上から降りてきて、膠着をやぶる。成り上がり者が、下から昇って世襲をやぶる。
東京は上下の分断に陥りがちだが、大阪の構造は、上下に通路がある。政治家と庶民に通路がある。芸能人が知事になる土地柄である。秀吉も成り上がり者だから、豊国神社で熱狂的に祭られた。絵図がのこる。当時の徳川権力に抗議するほど、熱狂的だった。
社会も個人も、マクベスのいう「キレイは汚い、汚いはキレイ」という通路があれば健全である。「キレイはキレイ、汚いは汚い」が分離・固着すると、健全でなくなる。キレイと汚いに、区別がないのではない。区別はあるが、通路をつくれ。
人間の心は矛盾したものだが、矛盾を認めて利用するのがよい。自分の汚い部分を認めないと、隣人に転嫁して、隣人を攻撃して謝罪を求めることになる。キレイな自分ばかりに着目する宗教は良くない。
大阪でのアースダイバーは、汚いこと、自然なことに、接続できる。東京のように均質な空間では、大地の声が聞こえないから、大阪のような成果があがらない。「ええかっこしい」でないのが大阪の特徴。「ええかっこしい」をしない構造を抽出するのが、大阪アースダイバーである。
大阪には2つの軸がある。
南北には、アポロン軸がある。これは、秩序、文化、変化しにくい、プランナーが脳内で描く、長安のような、京都のような、軸である。東西には、ディオニュソス軸がある。海と山を結ぶ、自然の、野生の、変化する、脳内でない、軸である。
中国の都城は、不動の北極星を重んじ、南北のアポロン軸を重んじる都市をつくる。長安は、平原のなかに忽然と表れる。自然の運行よりも、人間が抽象化した「北」という概念を重んじる。キレイと汚いを分断する都市である。脳内の都市である。都城は、地形に規定されないから、世界のどこにでもつくれる。
世界のどこでも同じ都市をつくるのは、中国のほかに、ローマとアメリカである。ローマは、競技場と風呂場をかならず作らせる。アメリカは、コカコーラとマクドナルドを作らせる。ソビエトの末期、マクドナルドができた。
長安型の都市を突きつめると、脳と脳がピシピシと直接つながり、現実世界に影響を与えるようになる。電算でうごくニューヨークの相場が、人々の生活を直撃する。独裁政治も同じであり、独裁者の脳が、社会に影響を与える社会。グローバル資本主義も同じであり、貿易障壁=関税を撤廃し、国民経済を壊す。
むかしは脳は、媒介を通じてしか世界に影響を与えなかった。言語というクッションを経た。代官がいっぱいいた。
文化とは、脳のニューロンが現実にそのまま影響しないように、障害物をおくこと。もし脳が「進化」して、脳の全域が活性化すると、統合失調症となり、人格が破壊される。脳があまり活性化しないよう、障害物をおくことで、人格が形成される。
長安型の南北のアポロン軸とはちがい、大阪は東西のディオニュソス軸を重んじる。東西の道を「通り」といい、南北の道「筋」よりも重んじる。これは京都と逆である。
東西のディオニュソス軸は、自然、生死が一体となって結びあう軸である。東の生駒山から日が昇り、西の瀬戸内海に日が沈む。太陽は、誕生から死を毎日演じる。四季の変化、生命の循環をふくむ。
大学2限目:負けるが勝ちや
四天王寺は、日本初の本格的な仏教寺院。聖徳太子がつくった。物部氏を供養するためのもの。
大阪の河内潟には、天皇家よりも早く物部氏がいた。奈良の大和から出てきた天皇家が、物部氏の財力を奪った。外来=レディガガ=仏教と、土着=小林幸子=神道が対決して、レディガガの呪術が勝利したのが、蘇我と物部の戦い。理不尽な戦いで物部氏を滅ぼしたので、聖徳太子は四天王寺をつくった。
聖徳太子は「私は物部守屋であり、物部守屋は私。だから私は、物部守屋を殲滅できない」という。物部と戦いながらも、物部と一体である。矛盾を矛盾のまま認め、動的な秩序をつくる。動的な秩序から、生命力を得る。不変の秩序たる文化と、変動する自然とを合体させるが、聖徳太子である。
アポロン軸に対するディオニュクス軸、天皇家に対する物部氏、資本主義に対する贈与交換、東京に対する大阪は、政治闘争に必ず負ける。だから大阪には「負けるが勝ちや」という言葉ができた。
補います。これは卑屈ではない。大阪は、東京がやりたがるようなルールの闘争においては負けるけれど、必ずしもそれで終わりでなく、べつのルールの闘争においては勝っている(こともある)と。そういうわけで、「負けるが勝ち」というのは、矛盾した言葉を並べているのでなく、複素数平面における、べつの軸での話をしている。
ぼくなりに例えるなら、AさんとBさんの体格を比べたとき、AさんはBさんより「体重は軽いけど、体重が重い」でなく、「体重は軽いけど、背が高い」と言っている。前者は単なる矛盾だが、後者は矛盾ではない。自然とともに生産を行う民は、大戦争では軍事的に敗れるが、全面的な敗北ではない。大戦争に勝利した大帝国も、いつかは敗れる。大唐帝国が清末に浸蝕されたように。大戦争に敗北しても、生き延びられる。
大学3限目:大阪は二流の世界市民
一流であれば、人間の弱さを表面に出さない。緻密で、破綻なく、異質を混ぜず、キレイはキレイで、汚いは汚い。対する二流は、一流をつまらないと感じた。均質でなく、異質で、セレブが珍重しないものを好む。千利休は、李朝の百姓がつかう飯茶碗に価値をみつけた。未完成で、大地と人間の結びつきがのこり、単一原理でないものを重んじた。これも「負けるが勝ち」である。
利休どころか、日本人が、もともと大陸で競り負けて渡ってきた人々。海民である。敗北のなかに価値を見つける。二流の世界市民が、大阪に流れ着いた。
西洋は一流をめざす。キリスト教は、単純・抽象である神を投影して、学問や小説をつくる。神学と同型でないと、学問も小説も認められない。完全は完全、矛盾がない、ことが求められる。五島列島の隠れキリシタンのように、聖書をマリアとキリストの近親相姦の物語に改変してはならない。
(中沢先生は)「的確かも知れないが根拠がないこと」を言い当てたい。立証せよと言われれば立証できるが、つまらない。二流をめざしてきた。
「アホと煙は高いところが好き」という。神には2種類いる。天からくる、ツングース系の神。水平におとなう、民主的な神。日本は、もとは水平の神がいたが、6世紀に「ええかっこしい」をやり、水平の神を否定した。『日本書紀』をつくった。
笑いの歴史は、旧石器時代に遡る。言語芸術のはじまりは、謎かけである。「目があるが、見えないものは」「ジャガイモ」という謎かけは、世界中にある。異質なものが接近すると、人間は笑う。生と死、生者と死骸が接近する通夜(英語では寝ずのwake)では、笑わなければならない。ハッハッハ!
つぎから、中沢先生の『大阪アースダイバー』の講演と書籍を参考にして、三国志を理解しようとします。異質なものを、あべこべに接近させて、そこから生命力=アイディアを引き出そうとします。二流だなあ!ハッハッハ!
よく巨大掲示板等に、このサイトがデタラメだと批判を受けますが。異質なものを接近させ、思わぬ方向に転がっていくのを楽しむのが、このサイトのコンセプトです。ゆえに、キリスト教の神学に基づく縦軸「歴史学」から見れば、いかにもインチキです。しかし交差を楽しみたいので、今回のような記事も書きます。ただし、縦軸を失ってしまえば、単なる三流なので、一流へのアクセスも怠らないように注意します。「ちゃんとした」論文を投稿できるよう、準備してます。閉じる
- 2. 魏呉蜀と京阪神は相似形である open
ここから、地の文は、ぼくが考えたことです。
後漢の領域は、京阪神の20倍
ぼくたち現代日本人は、アースダイバー的な思考をすることで、「三国志は、ぼくらにも理解できる物語だ」という確信を持てるようになると思います。今以上に、自分にひきつけて三国志を理解できるようになると思います。今回の三国志アースダイバーは、これを狙います。
三国志を自分ごととして捉えるとき、障害になるのが、舞台となった場所が違うことです。たとえば、中華人民共和国の面積は、日本国の25倍のようです。この数字を見てしまうと、ちょっと尻込みをします。しかし、ぼくが捏造した三国志アースダイバーの地図をつかえば、日本の関西地方を20倍に拡大したものが、後漢末に群雄が戦った領域に似ているなあと、こじつけて理解することができます。
中国大陸の地図を、南北にひっくり返すと、大阪平野になります。地図は、準備中です。後日、きちんとアップします。
大阪から京都のあいだは、がんばれば1日で歩けます。これがただちに「後漢末の領域は、20日で踏破できる」を意味するわけではありません。おおくの障害があるでしょう。しかし、身の丈で理解できる関西地方を、たった20倍するだけで、後漢末を捉えることができるのだとすれば、なかなか「見通しがよくなる」思考実験だと思います。
『楚辞』天問によると、むかし中国大陸では、天を支える4本のハシラが壊されたので、天は西北に、地は東南に陥没しました。この地形は、西に瀬戸内海があって、東に生駒山がある大阪平野に似ています。大阪平野をひっくり返して、20倍に拡大したのが中原です。
大阪アースダイバーで中沢先生は、大阪には重層的に移民が訪れたと説明されていました。福建省(後漢の会稽郡)や朝鮮半島からの移民は、西から東にむかい、瀬戸内海をぬけて、大阪に上陸し、生駒山を目指しました。この過程を反転させたのが、中国大陸です。中原の人々は、東から西に向かい、山から平原、海岸から海にでました。大阪の緯度は、後漢の徐州と同じくらいですが、海を挟んで、サイズの違う左右対称の地形が向かい合っていたことになります。
アポロン軸とディオニュソス軸、三角形
大阪アースダイバーの言うとおり、大阪には縦にアポロン軸があり、権力や秩序を表します。横にディオニュソス軸があり、自然や野生を表します。
後漢にも、縦にアポロン軸があり、横にディオニュソス軸があります。三国時代、魏呉蜀の3つに分かれます。音素の三角形、料理の三角形のように、鼎立しました。北にあるのが曹魏で、南には孫呉と蜀漢がありました。
まず縦のアポロン軸を見てみます。
北方の中原を抑えた曹魏が、もっとも国家体制が盤石でした。後漢の献帝を奉戴したので、前代の秩序を継承し、制度史的な発展をとげました。つぎの西晋も、曹魏の体制をアレンジして天下を統一しました。
(その西晋は、外部からきた自然=異民族にすぐに滅ぼされますが)
南方には、前代までの価値観で捉えれば、異端な国家が立ちました。
孫呉は、とくに正統性を支える思想や制度もなく、いわば地形に守られることによって建国しました。地形とは自然の筆頭です。政治や文学に才能を発揮した、魏の初代皇帝・曹丕は、統制のとれた大軍を率いながらも、長江を目の前にして、何度も引き返さざるを得ませんでした。
蜀漢は、1州の地方政権が、正統性を強弁しただけの「野蛮な」国家です。曹魏が制度において後漢を継承するいっぽうで、蜀漢は血のつながりによる祭祀を、正統性の中心に据えました。支配領域がせまく、制度は曹魏よりも簡潔なものにならざるを得ませんが、「血」に根拠づけられて、60年も存続しました。「血」は、皮膚のすぐ下を流れているにもかかわらず、人間が目を背けたがる自然に属するものです。
横のディオニュソス軸は、東で海沿の孫呉と、西で山岳の蜀漢とのあいだの差異として、出現します。北の曹魏は、東から西まで領域が及んでおり、曹魏だけでディオニュソス軸のつくりだす差異を観察することは困難です。いちおう補足すると、曹魏の東の海沿には、遼東・燕の公孫氏がおり、曹魏の西の山岳には、羌族がいます。公孫氏と羌族についても、同型の議論ができますが、今日は主役である三国にしぼって検討します。海沿の孫呉は、「言っていることが、コロコロ変わる」国家です。孫権のとき、曹操から官位を受納しておきながら、赤壁の戦いのときに、いきなり牙を剥く。劉備と結んだかと思いきや、曹操と結んで関羽を殺す。劉備と戦うとき曹丕と結びながら、曹丕に攻められると、蜀漢と結ぶ。
主義主張を設定して、一貫した国是を持っていたのなら、この変わり身はあり得ません。孫権の野生の「外交」によって、秩序に親しんだ人間たちは、孫権の「予想外の裏切り」にあい、憤死させられました。曹休のような、体制内において「優秀」な人間は、孫呉の周魴の謀略にかかって病死しました。孫権に裏切ったという自覚はないかも知れませんが、不変の秩序に親しみすぎた人間にとって、孫権を理解することは困難だったようです。
歴史書は、基本的には秩序を愛好する人間が構築するものです。ゆえに歴史書において、孫権はあまり芳しくありません。これは孫権が劣った政治家だったことを意味するのでなく(劣っていれば皇帝になれません)歴史書というメディアが、孫権の生き様に似合わないだけだと思います。まるで、「冗談ばかり言う大阪人に付き合いきれず、血圧をあげてしまう東京人」のようなことが、孫権をめぐって、繰り広げられました。日本の三国志マンガで、孫呉の人物を関西弁に設定するものがありますが、海民としての大阪商人と、孫呉のコミュニケーション的な位置づけが似ていることを、感覚的につかみとっているのだと思います。三国時代におけるコミュニケ-ションとは、おもに戦争のことですが。
山岳の蜀漢は、「言っていることが頑固なまでに変わらない」国家です。成都は、標高が500メートルの盆地にあります。「くらげなす」孫呉と異なり、成都という都に集まるのは、カッチリとした秩序を希求する人たちでした。漢室はとっくに滅亡したのに、「血」を継承したと自己暗示をかけて、まったく軍事的にも経済的にも採算のあわない北伐をしてしまうのが、蜀漢です。
なぜ蜀漢は北伐をするか。これは、今日の歴史学者にとっても、おおきな謎だと思います。丞相たる諸葛亮のパーソナリティに帰する理解が、いまでも一般的でしょうか。もしくは、「蜀漢の正統性は、曹魏にNOを突きつけることである。曹魏への北伐を辞めたら、蜀漢の存在価値がなくなり、求心力がうすれ、国家を維持できなくなる。だから蜀漢は、こりずに北伐した」とも言います。この理屈が、成り立たないこともありませんが、やはり理屈にすぎません。
盆地に閉じ籠もった人々が、集団で地勢の呪いにかかり、北伐という熱病に冒されたように、ぼくには見えます。
不変・不動の価値観というと、アポロン軸の北にある「充実した国家制度に基づく秩序」を連想しますが、蜀漢はちがいます。蜀漢は、アポロン軸の南にあるので、国家制度はズサンです。超人的なパフォーマンスをする宰相(諸葛亮)に頼り切っています。諸葛亮は、歴史書では「法家の政治家」のように記されますが、後世の集合記憶の改変のなかで、神仙術に長けた「魔術王」に変化します。こちらのほうが、より本質に肉薄しているのかも知れません。
歴史書の世界観ではどうあれ、少なくともぼくたちの意識に届いてくる三国志において蜀漢は、諸葛亮という「魔術王」に導かれ、北伐によって、滅亡した漢室に「供犠」する集団です。北伐は失敗して死者を出すことに意味があるのです。
まるで、
諏訪の御柱祭と同じです。祭祀には供犠が必要です。中沢先生いわく、生命のギリギリに挑戦して、死者が出ると「いい祭りだった」ことになる。蜀漢の北伐は、こういう人類学的な意義を持っている「山の祭り」なのかも知れません。蜀漢の人々は、命を犠牲にして、4百年も続いた漢室の供養をしていたのかも知れません。
(北の曹魏は、もっとクールな計算に基づいて戦略を立てます)
三国鼎立は、とくにぼくの連想=飛躍を介在させることなく、「三角形」に到達することができます。この三角形には、レヴィ=ストロースらが見たように、縦軸と横軸が背景に設定されており、縦軸の頂点で1つに収束する構造でした。三国志においても同じでした。理由は分かりませんが、ともあれ一致します。
魏呉蜀は、京阪神である
魏呉蜀を、アポロン軸とディオニュソス軸のうえの三角形であると、こじつけたところで、大阪平野の地図と、三国の地図を重ね合わせてみようと思います。
大阪平野は中原であり、本願寺=大阪城が洛陽にあたります。大阪港があるのは青州や徐州です。泉佐野につくられた関西国際空港は、王者が封禅して、天に語りかけるべき泰山です。航空機は、海沿を離陸して、天に接近するものです。
奈良盆地は、長安のある関中です。大阪アースダイバーにおいて、奈良盆地から出てきた天皇家が、河内潟にいた物部氏を征服しました。まるで、始皇帝の秦が、関中から出てきて中原の諸侯を征服したかのようです。
中原から隔たり、盆地のなかに浮かび上がった京都が、蜀漢の成都です。海民の系統にも属する桓武天皇が、天皇家の仕切り直しのために新造した京都は、蜀漢に似ています。
海沿をたどっていくと、神戸に到達します。大阪平野から、海上の交通が活発です。いっとき、平清盛が福原(神戸)に遷都を試みたことがありました。神戸が、孫呉の建業です。三国志アースダイバーの牽強付会を以てしても、さすがに「全てが一致」とはゆかず、海岸線のカーブが、神戸と建業では逆向きになっています。アースダイバーのゴーグルには、歪んだレンズが嵌まっているのでしょう。ごめんなさい。
(異民族に滅ぼされた西晋は、建業=神戸に逃げて再建国しました)
厳密にいうと、魏呉蜀は「阪神京」であるという順序になります。タイトルは、語呂を良くするために京阪神と言いましたが、ちょっとちがいます。おまけです。
大阪と神戸のあいだには、池田があります。交通の要衝であり、産業が発達しました。近代には大学ができ、阪急の小林一三が住みました。ここは、長江の北にある揚州府=寿春にあたるような気がします。前漢に淮南王の劉安が『淮南子』を作ったのもここでした。
池田の古名は「くれは」です。漢字で「呉服」と書きます。他ならぬ三国の孫呉から、渡来した民が、日本に機織技術を伝えたとされます。今日も呉服神社が祭られています。被服の「ごふく」の語源だそうです。孫呉と繋がりをもち、海口から少し遡ったところにある町という意味で、池田は淮南に違いありません。
以上により、魏呉蜀と京阪神の「比定」ができました。次からは、細かい地形の詳細について、論じていきます。ひどいコジツケであることは、自覚していますが、宜しければお付き合いください。
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- 3. 曹魏と大阪の共通点(作成中) open
権力の中枢、上町台地=三河地方
『史記』貨殖列伝によると、堯は河東に都し、殷は河内に都し、周は河南の洛邑に都しました。洛陽=洛邑は、後漢の都であり、天下の中心だと認識されていました。『白虎通』京師に規定があります。
大阪平野で同じ役割を果たしたのが、中世に本願寺があり、近世に大阪城が建てられた、上町台地の岬の先端です。ここは大阪平野の中心として、権力者たちを引きつけました。
以下、つづきます。
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