表紙 > 読書録 > 大室幹雄『園林都市_中世中国の世界像』

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序-05章 環境、敷地、気分

地の文は、大室氏をぼくが抜粋したものです。

前回=昨日とおなじく、初読からこのページ完成までを、会社にいく平日の1日以内にやりました。具体例はかなり省略していますし、ひどく誤読していると思います。しかし、大室氏の頭のなかにある構想を、ぼくなりに解凍して再現してみました、、という仕上がりです。言うまでもありませんが、大室氏の古代中国史にご関心を持たれましたら、原書にあたって頂きますよう、お願いします。


序章 歴史の不幸について_環境1

王粲は戦乱の悲しさを詩に読んだ。西晋末、中原が非漢族にとられると、漢族は江南に避難した。「土に二王なし」の状況が崩れた。祖逖は石勒と戦った。南朝の中心権力は弱く、戦乱がつづいた。東晋のあと、禅譲が頻発した。

ぼくは思う。いきなり結論めいたことから。
大室幹雄「園林都市」という術語は、対立する概念をくっつけたもの。園林は皇帝権力の外部、都市は皇帝権力の内部。端的には南朝の建康を指す。地理も環境も歴史も皇帝権力の外部にあった場所に、南朝の皇帝権力が都する。両者が接合する。洛陽の「劇場都市」は皇帝権力の内部+内部を示すから、「園林都市」の半反対語。つまり、劇場と園林は反対語だけど、都市と都市は同義語(当然だけど)。そういう意味で、ぼくは半反対語といった。
南朝の皇帝権力が弱いのは、建康に城壁がないため。防御ができない。洛陽にように、カッチリとした皇帝権力の要請に基づいた都市でない。都市のなかに、自然が入りこむ。周囲には、自然にあふれた観光地(園林)がある。だから、地形に規定されて、皇帝権力は弱くならざるを得ない。こういう「土地決定論」が、大室氏の議論。やっと見えてきた。
皇帝権力の内部と外部を、生産手段に投影して捉えれば、マルクス主義的な歴史を論じられる。(文化や社会関係まで含めた)資本に投影して捉えれば、渡邉先生の「名士」論になる。大室氏のように、景観とか空間とか地形とか、これら都市をとりまく環境に投影して捉えれば、一連の都市論になる。
まるで、つかみどころのない哲学的命題としての「時間」を、時計の秒針の回転角度に写しとって理解することに似ている。つかみどころのない物理的概念としての「温度」を、水銀が膨張した体積に写しとって理解することに似ている。
「皇帝権力」というのは、当たり前に使う言葉だけれど、ふと真剣に定義しようとすると、それ単体を純粋に計測できる道具がない。だから、なにかに投影しなければならない。その方法論をめぐる試行錯誤なのです。大室氏は、皇帝権力-中間物-非皇帝権力を、都市-園林-山林、という地形に写しとった。というわけかなあ。
この投影は、至るところで行われている。経済活動の優劣を、貨幣に写しとる。満足した度合を、アンケートによって数値化する。キリがないのだ。


東晋の治世は、門閥政治、世族政治などという。皇帝のまわりで、有力な官僚がいる。この構図は、南朝のあいだ保たれた。天下の中心が、1人の天子に帰することがなかった。西晋末に洛陽が破壊されたことによって、この状況が生まれた。_023

ぼくは思う。洛陽は、後漢によって完成された、「皇帝権力を都市設計におとしこんだ具体物」だった。これが物理的に壊されると、抽象物としての皇帝権力もつぶされる。皇帝権力と劇場都市は、相互に生成的である。だから、片方がなくなると、もう片方も早晩になくなる。大室氏は、これを言っていると思う。

洛陽を破壊したのは、王弥だった。王弥は漢族で「家世二千石」の家柄である。だが王弥が洛陽で掠奪すると、異民族の劉曜に抑止された。漢族-皇帝-官僚-都市-洛陽という文脈にいるはずの王弥が、むしろその文脈から外れるはずの劉曜に抑止された。倒錯が起きている。

また結論を先どる。会社の帰りの電車で一読した直後、これを書き始めているから、見通しを書いておかないと忘れる。ぼくなりの要約。
都市=洛陽をうしなった漢族は、建康に遷都した。建康では、自然と折衷した都市がつくられた。自然との折衷のなかで、儒教の秩序から自由な文化が生まれた。梁武帝みずから、仏教をした。いずれも、皇帝=都市のなかにあって、反皇帝=反都市の性質のものである。この折衷が、南朝の都=建業の特徴。園林都市である。
つまり建業は、自然と人造権力を折衷したものである。
この折衷物=中間物に対して、両極からの揺さぶりがかかる。まずは、純粋な自然=野生から、侯景の反乱が襲った。守備の軍事拠点たるべき都市のはずが、建康には城壁がないので、あっさり陥落する。自然=侯景は、自然+都市を破壊しても、そこを原野に戻すことはない。「徹底的な殲滅作戦」というのは、不自然な人造権力が得意なことだ。建康は保たれ、南朝の最後の王朝、陳に代わった。
そのあと、皇帝の人造権力のサイドから、北魏から生じた隋が、攻めかかる。人造権力=隋は、自然+都市を破壊した。権力は、いつでも破壊力をもつ。軍事的につよい。というわけで、南朝の都=建康は滅ぼされて、隋唐による天下統一が成りました。ちゃんちゃん。ちょっと詰めこみ過ぎた。


02章 天地の自明性について_環境2

西晋末の漢族の移動は、南部を漢化した。王導らの移動は、異民族との接点をつくり、あちこちで悲劇をうんだ。
歩隲は孫権に「天子は、天を父とし、地を母とする。百官は、天体の運行をしめす」という。これを「自明」とするから、統一に向けて戦いが起きた。人間は、自然によって与えられた形質に依存して生きているくせに、生への「過剰」な理念をいだく。だから戦いが多かった。_064

03章 自然を愛して開いた都市_敷地

長安や洛陽という都市は、漢代のバロックである。漢代のバロックとは、繁茂、豊富、充満、奇怪、異様、尊大、豪奢、大言壮語、過剰と捉えられる。だが辺境の建康は、漢代のバロックと異なり、「自然を愛して開いた都市」である。

ぼくは思う。章のタイトルで、すべて言い尽くされてしまった。戦国から説き起こし、孫呉の話をして、、と約束の手順を踏んであるのだが、そんなこと、もういいじゃんという気がする。こまかく引用しない。

都市とは、象徴性、機能性、遊戯性をもつ。しかし建康は、象徴性を欠き(そのままの自然が入りこんでおり)、機能性と遊戯性だけに依存した。あいまいで胡散くさい首都である。
長江三角州の形成の地図。_100
建康には城壁がない。都市の定義からして逆らう。_116

04章 風と景(ひかり)_気分1

建康は、もと孫権が虎を狩ったところであり、水路が街中まで入りこんでいて、風景の美しいところだなあ!という紹介。文字どおりの観光案内。

05章 トポフィリアの条件_気分2

トポフィリア=場所への愛(ウィキペディアより)
江南を描いた漢詩、江南で育つ植物など。
避難地だが「安楽の地」という認識も生まれた。

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06-11章 設計、宴遊、意想

06章 首都の動揺と愛の定着_設計1

建康への愛着と、いっとき回復した洛陽との比較など。建康のまわりは川がながれ、中国歴代の王朝において、都市の位置が変化した。南朝の皇帝権力は弱いので、強固な城壁を築けなかった。ほかの貴族よりも相対的に強いだけの、弱い皇帝によって、仮設されたような簡潔な都市だった。咸陽、長安、洛陽のように、壮大なマンダラの中心にあって、蕩尽が行われるような首都でなかった。

07章 ランドマークの文化と自然_設計2

建康のまわりの情景、地図、写真。動物像、仏像。

ぼくは思う。動物も仏像も、皇帝権力-都市に対置されるもの。人間は「私たちは、そこらの動物とは違うんです」と自己認識することで、社会を形成してきた。動物を、森の友人と見なくなった。「恐れおおくも、生きるために必要な最小限の肉を頂戴する」という観念を廃止した。ただ飼育や食糧として見た。キリスト教的なイメージ。人間は神の似姿だが、動物は下等ですよと。
また仏教は、一神教的な世界を相対化する。「宗教に関する宗教」メタ宗教と言われるほど、ぼやぼやする。だから皇帝権力と相性がわるい。あとで梁武帝が仏教に狂ったという話が出てくるが。これは個人的な趣味であり、「鎮護国家」でない。支配を強化するための思想装置でない。仏像の遺跡がたくさんあるということは、儒教の皇帝権力が徹底していない証拠。


王家の園林だけでも、30を越える。古代の首都にないほど、自然をモチーフにした建造をして、また建造物に自然を入りこませた。_283
こういう首都を、大室氏は園林都市とよぶ。

やっと出てきました。本のタイトルになっている術語。だいたい300頁。このサイトでは、はじめに見通しだけ先取してしまったので、かなり乱暴な感じになりましたが。イラストや写真や史料で、これでもか!というほど、園林が紹介されてます。


08章 牛車とおしゃべり分化の残照_宴遊1

貴族が牛車に乗るようになった。牛車に乗りつつ、清談した。牛車とは、野生である。清談とは、都市である。野生と都市が結合した。また、人物評によって、人を自然物にたとえた。玉、神仙、竜、松、柏、鶴、狗など。

ぼくは思う。対称性人類学!

自然と都市が重なったのが、江南貴族の生活である。

09章 烏衣の遊び、園芸的世界_宴遊2

謝安と王導たちの振る舞い。
田舎くさい闊達と、都会らしい洗練。
古代の動物的な生命力の沸騰と熱気は、もう遥か過去にきえた。人口が減った。だが、文明の創造力は衰えない。謝安が精魂をこめて、烏衣巷の遊びを管理した。庭園のなかに、動物や植物の自然をやしなって、そのなかで遊べるようにした。古代文化の抑圧から解放されて、身体の拘束(=礼)から逸脱した。

ぼくは思う。個別のエピソードは、ざっくり省略しているが。読めば、それと分かるようなもの。理屈はカンタンである。だからカンタンな理屈のみ、カンタンに抜粋している。


10章 菖蒲と皇帝、ロココの雅び_宴遊3

梁武帝は、菖蒲のような美少年に予祝されて誕生した。ますます園林化した建康のなかで、動物や植物にかこまれて文化を身につけた。

渡邉義浩先生の『三国政権の構造と「名士」』の序章で、梁武帝が出てくる。貴族が育んだ文化資本を、梁武帝という皇帝権力が再編成にきた、という位置づけ。梁武帝は、とても文化に造詣が深い。これを渡邉先生のように、梁武帝から貴族への浸蝕や対抗と見るのか。もしくは、大室氏のようにちょっと複雑な理論の構図を維持しつつ、梁武帝にこそ、貴族の文化資本と、皇帝権力とが、うまく融合して同居していると捉えるのか。どちらにせよ、密接に相互に関係することは、どちらも結論が同じわけで。
大室氏は、建康という、自然と権力が融合した舞台のうえで捉えたいから、梁武帝を融合したものとする。当然の帰結。渡邉氏は、三国政権の本では、「名士」と皇帝権力のせめぎあいの話をしていたので、融合というよりは対立という側面を強調する。
ともあれ、しばらく大室氏は、梁武帝の話ばかりする。梁武帝は、侯景の乱で意気消沈して、あとは小国の陳が建って、この790頁の本がおわる。梁武帝は、論じがいのあるテーマなんだなあ!

漢代バロックに対比して、南朝ロココと呼びたい。現象の細部を注視して、その一瞬の美に顕現する生の永遠を感受する。清綺、浮艶、軽華と形容できる。

梁武帝が「菖蒲に予祝された」ことが、大室氏にとって、よほど重要なことみたい。可憐だし、植物だし、自然だし。儒教的な秩序で、カッチリと儀礼的に行われる出産とは、まるでちがう。


11章、桃花緑水、秋月春風の下、園林的世界像

都市の周囲にも、遊びの空間を拡げる人たち。はぶく。

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12-終章 仕掛、荒廃、移植

12章 郊居、園田居、山居_仕掛1

副題は、文化と自然の配景画法(シノグラフィ)。
都市-郊外-田園-原野。
邸宅・園林-郊居-園田居-盧山-山居。
文化から自然への同心円的なひろがり。_478

ぼくは思う。この図で、すべてが言い表されている。あとは、史料を「解釈」することによって、この図が正しいことを論証している。


13章 陶淵明と謝霊運、中景の成立_仕掛2

彼らの作品を読み解くことで、都市と原野のあいだの風景「中景」が発見される。飲酒することで、境界線の景色を見ることができる。微妙な洞察をしてくれる。

ぼくは思う。なんというか、「つまらなくなってきた」のです。自然と人工が、どちらも表れることは、まあ文学作品を読んでいれば、いくらでも出てきそうな話。だから「ほら、これも当てはまるよ!」と見せられても、なんだか当然のような気がしてしまう。
ぼくらが自明にしている文学観とは、西洋からきたもの。東洋のことは分からないが。東洋の文学において、自然と人工がどちらも程よく出てくるのは、画期的なことかも知れない。これまでは、蕩尽する都市をハデに描くか、儒教的にカチカチの形式描写をするか、だけだった。ここにきて、古代の足枷がはずれて、柔軟な中間物を把握できるようになった。漢詩がそれを掴みとった。という話かも知れない。しかし、そういう「文学史」が妥当なのか、ぼくには分からない。漢詩、読めないし。ともあれ、大筋の結論は誤っていないつもり。


14章 隠者の山洞、隠逸文化の庭園化_仕掛3

洞窟には神話的なイメージがある。西王母も、洞窟にいた。この洞窟に貴族もいくようになり、生命や母性に触れるようになった。隠者は、洞窟にいくが、伯夷や叔斉のように都市に対抗して餓死するほどでない。都市と洞窟を往復する野遊びをするようになった。首都の中心部で、洞窟ごもりする人々もいた。

15章 園林王の群、ロココの滑稽と残酷_荒廃1

王侯は、文化をやりつつも、王族を殺す。奢侈をする。酒宴で殺人をやる。道楽で仏教をやる。自然と権力のバランスがくずれて、都市の蕩尽にかたむいた。

ぼくは思う。どれだけ強い弓から放たれた矢も、遠くでは布を貫けない。大室氏の理論は、前漢で確立し、後漢末をうまく裁いた。しかし南朝までくると、ちょっと退屈になる。1つの理論で全てを説明できるということは、それだけ射程の長い理論だから、すばらしいのだが、同時に飽きるんだよなー。抽象と具体のバランスがむずかしい。


16章 自然の都市侵犯_荒廃2

梁武帝は「私人」として仏教に帰依して捨身した。高額で俗世に買い戻された。老年で衰弱した梁武帝は、仏教に傾倒した。父なる天帝を裏切った。

ぼくは思う。都市-皇帝権力が、みずからを否定した。

自然=侯景により、城壁のない建康は陥落させられた。86歳の梁武帝は、がっかりして死んだ。以降の皇帝は、文化に傾倒して、学問にはまり、国力を弱らせた。

終章 精神的治平の拡張と深化_移植

南朝の皇帝は、梁武帝をマネして、仏教に捨身した。南朝最後、陳の後主は、園林の漢詩を読んだ。後宮におぼれた。子宮のなかにいたかった。隋に攻められると、井戸のなかに籠もった。現実逃避した。
南朝は、都市-皇帝-儒教による、隋軍に滅ぼされた。121025

ぼくは思う。このページの前半で、わりとまとめてしまったので、後半はザツになった。付箋を貼りながら読んだので、付箋のあるところだけは、引用していったつもり。まあ、全体的な構図をつかむことができたので、まあいいや。つかれた!
790頁の本を、帰りの電車+帰ってからしばらくの時間で、まとめてしまうのは、やはり乱暴だったかなあ。もう大室氏のつぎの本を読む気がしないかも。それよりも『桃源の夢想』を、詳細に検討したい。後漢末から西晋末が対象なので。

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