表紙 > 孫呉 > 『呉書』巻2・呉主伝の後半;皇帝としての孫権

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黄龍年間;皇帝即位し、蜀漢と同盟する

かつて呉主伝は途中までやりました。その続編です。
孫権01) 曹操の方面司令官
孫権02) 208-217年、曹操への反抗期
孫権03) 魯粛と、孫権の皇帝即位
孫権04) 漢魏革命を祝うが、曹丕に叛く
孫権05) 曹丕の死までねばり、皇帝即位
皇帝即位の歳だけは重複して掲載。ただし、あまりにザツだったので、皇帝即位の歳も、加筆します。というか『三国志集解』をちゃんと拾ってなかったので。

229年、夏4月、皇帝に即位

黃龍元年春,公卿百司皆勸權正尊號。 夏四月,夏口、武昌並言黃龍、鳳凰見。丙申,南郊即皇帝位,

黄龍元年(229)春、孫権は皇帝即位を勧められた。夏4月、夏口と武昌に、黄龍と鳳凰があらわれた。4月丙申、南郊で皇帝に即位した。

この年は、曹魏の太和3年、蜀漢の建興7年、孫権は48歳。
胡綜伝はいう。黄武八年夏、夏口に黄龍がでた。孫権は皇帝に即位し、これを年号とした。
武昌城で即位した。趙一清はいう。『水経』江水注にある。武昌城の西に、郊壇を築いて、天につげた。『武昌紀』はいう。樊口の南に、大姥廟がある。孫権がここに狩猟にきて、大姥に「何を狩ったか」と問われた。孫権「豹1匹だ」、大姥「なぜ豹の尾を豎(た)てないか」と。大姥は忽然ときえた。孫権はこの事件に応じて、廟をたてた。ぼくは思う。「豹が尾をたてる」とは、帝位につくってこと?
ぼくは思う。孫権は「呉」の皇帝だけど、べつに呉郡で即位したのでない。それを言うなら、劉備の即位は漢中ではなくて成都、曹丕と司馬炎の即位は魏郡でなく洛陽周辺。べつに即位の場所は、国号と同じでなくても良い(というか国号と即位場所が一致する事例がない)のね。孫権が呉を号するなら、曹丕から封じられた呉王が手がかりか。けっきょく曹魏の影響下にあるらしい。


吳錄載權告天文曰「皇帝臣權敢用玄牡昭告于皇皇后帝。漢享國二十有四世、歷年四百三十有四、行氣數終、祿祚運盡、普天弛絕、率土分崩。孽臣曹丕遂奪神器、丕子叡繼世作慝、淫名亂制。權生於東南、遭值期運、承乾秉戎、志在平世、奉辭行罰、舉足爲民。羣臣將相、州郡百城、執事之人、咸以爲天意已去於漢、漢氏已絕祀於天、皇帝位虛、郊祀無主。休徵嘉瑞、前後雜沓、曆數在躬、不得不受。權畏天命、不敢不從、謹擇元日、登壇燎祭、卽皇帝位。惟爾有神饗之、左右有吳、永終天祿。」

『呉録』は孫権の告天文を載せる。

胡綜伝はいう。孫権が統事してより、文告や冊命、隣国の書符は、みな胡綜が作成した。ぼくは思う。孫呉の正統性を検討することと、「胡綜が考えた正統」を考えることは、接近する。まあ胡綜の文書がボツを食らわないという結果から、胡綜1人の独創でなく、集団の合意と見なすべきだけどね。まあ、胡綜が起草しなければ、なにに対して合意を形成すべきなのかもボヤけて、合意の形成が不可能だから、胡綜の役割はおおきいのだ。
ぼくは思う。胡綜が文書家として台頭したのと、孫権の皇帝即位が同時期であれば、「胡綜という文書家を得ることで、はじめて孫権は即位の正統性を獲得した」と言えそうだ。おもしろいかも!と思ったが、胡綜は185年生まれらしいので、ちょっとこの仮説はボツった。やはり胡綜への依頼ありきだろう。

皇帝たる臣・孫権は、皇皇たる后帝に報告します。漢室24世、期間434年(宋書では430年)、暦数が終わった。曹丕と曹叡が、漢室を奪って乱した。わたくし孫権は東南に生まれた。世を平らげる志がある。群臣や将相、州郡の百城はいう。「漢氏がすでに祀天を絶やした。皇帝の位が空く。祭祀者がいない。仕方がないから、わたくしが皇帝となり祀天しよう」と。

ぼくは思う。天に向かって喋るから、よく分からなくなる。天をネコになぞらえよう。「かわいいネコよ。きみの前の飼い主は、生活が苦しくなり、飼育権を手放した。飼育権を盗んだ者が、ネコを虐待している。みながネコが可哀想だという。私はネコを飼育するために、飼い主を自称する。ネコさん、よろしくね」と。天は返答してくれないが、ネコも返答してくれないところが、似ている。だからこんな比喩にした。
世を平らげる志のある者が、祀天するという諒解があるのねー。


是日大赦,改年。追尊父破虜將軍堅為武烈皇帝,母吳氏為武烈皇后,兄討逆將軍策為長沙桓王。吳王太子登為皇太子。將吏皆進爵加賞。初,興平中,吳中童謠曰:「黃金車,班蘭耳,闓昌門,出天子。」昌門,吳西郭門,夫差所作。五月,使校尉張剛、管篤之遼東。

昌門、吳西郭門、夫差所作。

同日に大赦して、改元した。父母と兄を追尊した。孫登を太子とした。将吏の爵位を進めて、賞を加えた。

ぼくは思う。全員を一律に上げたのだろうか。しかし一律にあげると、嬉しくない。爵位は、差異の体系だから、みんなが平行して上がったら、差異が生じない。いいや、曹魏に対抗するために、一律に上げるという方法もある。孫呉の全員を1ランクあげれば、平均が1ランクあがる。曹魏に対して1ランクあがる。

興平のとき、呉中に童謡があった。「闓昌門から、天子が出る」と。裴注はいう。昌門は、呉城の西郭門である。夫差がつくったと。

ぼくは思う。袁術のための童謡。興平は、194年と195年。時期は一致。
趙一清はいう。『寰宇記』巻91はいう。昌門とは、呉城の西門である。『郡国志』はいう。春秋呉は、西門から出陣して楚国を伐ち、破楚門と改称した。ぼくは思う。春秋呉や戦国呉の故事を意識して、建国している。意識しないはずがないが、漢末が春秋戦国と同じように理解されたという証拠の1つ。

5月、校尉の張剛と管篤を、遼東にゆかす。

ぼくは思う。盧弼の注釈、ここになし。


六月蜀遣衞尉陳震、慶權踐位。權、乃參分天下、豫青徐幽屬吳、兗冀幷涼屬蜀。其司州之土、以函谷關爲界。造爲盟曰「天降喪亂、皇綱失敘、逆臣乘釁、劫奪國柄。始於董卓、終於曹操、窮凶極惡、以覆四海、至令九州幅裂、普天無統、民神痛怨、靡所戾止。及操子丕、桀逆遺醜、荐作姦回、偷取天位。而叡么麼、尋丕凶蹟、阻兵盜土、未伏厥誅。昔、共工亂象而高辛行師、三苗干度而虞舜征焉。今日滅叡、禽其徒黨、非漢與吳、將復誰任。夫、討惡翦暴、必聲其罪、宜先分製、奪其土地、使士民之心各知所歸。是以春秋、晉侯伐衞、先分其田以畀宋人、斯其義也。且、古建大事、必先盟誓。故、周禮有司盟之官、尚書有告誓之文。漢之與吳、雖信由中。然、分土裂境、宜有盟約。諸葛丞相、德威遠著、翼戴本國、典戎在外、信感陰陽、誠動天地。重復結盟、廣誠約誓、使東西士民咸共聞知。故、立壇殺牲、昭告神明、再歃加書、副之天府。天高聽下、靈威棐諶、司慎司盟、羣神羣祀、莫不臨之。自今日漢吳既盟之後、戮力一心、同討魏賊、救危恤患、分災共慶、好惡齊之、無或攜貳。若有害漢、則吳伐之。若有害吳、則漢伐之。各守分土、無相侵犯。傳之後葉、克終若始。凡百之約、皆如載書。信言不豔、實居于好。有渝此盟、創禍先亂、違貳不協、慆慢天命、明神上帝、是討是督、山川百神、是糾是殛、俾墜其師、無克祚國。于爾大神、其明鑒之」

6月、蜀漢は衞尉の陳震を遣わし、孫権の踐位を慶した。孫権は、天下を蜀漢と共有する。豫青徐幽は孫呉に、兗冀幷涼は蜀漢に属させる。司州は函谷関を境界とする。盟文をつくる。

潘眉はいう。「参分」とあるが、これは3分でなく、「参酌」である。ぼくは思う。確かに3分ならば、曹魏の存在を認めていることになる。ダメだ。潘眉はいう。蜀漢は、魯王の劉永を甘陵王に、梁王の劉理を安平王にした。孫呉の領地からはずした。孫呉は、歩隲の冀州牧、朱然の兗州牧をはずした。しかし実態は、これらすべて曹魏の領土である。
ぼくは思う。本郷和人氏のいう「当為」と「現実」の対比である。いま呉蜀は「当為」の話をしている。だから実態が曹魏の領土であっても、それによってこの盟約の意義が損なわれることはない。
ぼくは思う。本郷和人氏を読む。当為と現実の区別が大切という話。当為とは「あるべき姿」かな。史料の記す当為を現実だと信じれば、実態を見失う。現実だけ見ては、個別事象がバラける。「当為があったという現実」は見ても良いか。現実から乖離した当為はないはず。現実が当為をつくり、当為が現実を引きよせる。当為と現実という2者があることを知り、頭の中を区切った上で、2者がどのような絡まり方をするか、絡まり方は何によって規定されるか、を考えつつ、史料を読もう。などw
胡三省は司州について詳しく注釈する。『蜀志』陳震伝を見よ。

盟文にいう。董卓から曹操まで、天下が切り裂かれた。

ぼくは思う。これが曹魏の文書だと「董卓から二袁まで」となる。董卓が基点であることには変わりないが、最後に曹操がくるかどうかが異なる。時代背景の確認なんて、どうせ定型文だ。その定型文に見られる、決定的な差異なのでおもしろい。
ぼくは思う。三国の各文が時代背景を述べるとき、184年を基点に、漢室の衰弱や天下の戦乱を語ることは少ない。ほぼない。霊帝の治世だし。ほぼ董卓が基点だ。黄巾に触れるにしても、張角ら兄弟との戦いより、190年代の継続的な戦闘への言及がおおい。ぼくら「物語の読者」は、184年に捕らわれすぎでは。

曹丕と曹叡が、天下をぬすんだ。むかし罪ある共工は、高辛に滅された。罪ある三苗は、虞舜に滅された。いま違法な曹叡を滅ぼすのは、孫呉と蜀漢しかない。曹叡を罰するには、まず彼の罪を宣言し、彼の領地の分配を決めて、彼の領地を奪い、士民に曹叡の罪を報せねばならない。『左伝』僖公28年で、晋侯が衛国を撃ったとき、先に衛国の領土を、宋国に分配した。これと同じことを呉蜀でやろう。

ぼくは思う。これを「天下二分の計」とか、ふざけた理解で片づけてはならない。彼らが戦っているのは「切りとり自由」の争奪戦ではない。まず孫呉は、曹叡の罪を宣言して、「曹叡を滅ぼす功績をたてたら、正しい労働の代償として、曹叡の領土をあげましょう」と約束する。つぎに蜀漢も、曹叡の罪を宣言して、「曹叡を滅ぼす功績をたてたら、正しい労働の代償として、曹叡の領土をあげましょう」という。
ぼくが思うに、上下関係は、当為において発生していないから、両者が両者に対する「命令者」であり「被命令者」である。両者を統合する何者か、例えば漢室の亡霊とか、「天」とか「法」とか、漠然としたもの。せめて、ぼくらが「分かるように」把握しようとすれば、呉蜀の関係性そのものが、両者の上位にある。というか、『左伝』などの故事に対する共通の理解こそが、上位にあるのか。

大事をやるには、盟約するのが良い。『尚書』は盟文を載せる。諸葛亮は優れた丞相である。

李光地はいう。呉人は、諸葛亮が孫権を慶賀してくれて嬉しいし、諸葛亮が信用できるので嬉しい。
何焯はいう。劉禅でなく諸葛亮と盟約したという形式をとるのは、適切でない。或る者はいう。胡綜の文書は、諸葛亮ばかりで劉禅が出てこない。張温の作成した上表と同じく、罪とするに足りる。誤りである。
ぼくは思う。諸葛亮が「劉禅を虐げて、蔑ろにした」ことが、孫呉という国外からの視線によって、かえって明らかになったのだろう。まあね、幼君を権臣がたすけるという構図は、珍しくはないので、いいじゃん。実際のところ、諸葛亮が死ぬまでは、諸葛亮の王朝だったのでしょ。『蜀書』を書くなら、劉備本紀、諸葛亮本紀、劉禅本紀、という3巻セットでどうでしょう。劉禅本紀は、諸葛亮の死後に始まるw

呉蜀は互いにたすけあおう。天の神に誓おう。

ぼくは思う。斎藤環『ひきこもりはなぜ治るのか?』を読みました。ひきこもりを直すとき、重要なのは、第三者を介入させること。つまり、命令も扶養もする親と、命令され扶養される子という、二者の身動きが取れない関係になると、ひきこもりは解除されない。親の兄弟であるおじさんとか、親も子も従うべき規則とかが有効だと。親を絶対権力にしない第三者が有効だという。ひきこもりの子に禁酒させるなら、親も禁酒せよと。
いま呉蜀が「大事をやるには、盟約が有効だ」といい、天の神を持ちだしたのは、これと同じだろう。呉蜀は均衡しており、というか棲み分けており、上下関係がない。だから、盟約により天を第三者として立ち会わせることで、両者の関係をトラブルなく回そうとした。
ぼくは思う。この盟約をもって「諸葛亮の天下統一の理想がくじけ、現実に妥協した」という感情論がある。ちがいますよ。「諸葛亮は理想を実現するために、孫呉に方便をつかい、協力を引き出した。北伐と並行して出兵することを強いた」と考え、さらに「孫権は諸葛亮とせっかく結んだ盟約に対して、不誠実だったから、ろくに粘らずに撤退した」ともいう。さらに「孫権がにくいぞ」となる。ちがいますよ。諸葛亮を親、孫権を子という構図で捉えると、こういう凝り固まった認識が出てくるんだろうが、そうじゃない。
ぼくは思う。諸葛亮と孫権は、天という第三者を媒介にした、流動的な関係をむすび、この関係が動かす「何か」に期待した。それが何なのか、どういう方法で曹魏を倒せるものなのか、きっと当事者もよく分かっていない。しかし状況を転がすという点で優れたアイディアだ。このアイディアは諸葛亮や孫権の独創でなく、『尚書』『春秋』に出てくる古代からの集合知なんだけど。ちょうど孫権たちも、「理由を説明しつくせないけど、そういうものなので」という発想法で、盟約を結ぶことになった。
ぼくは思う。諸葛亮を父として、孫権を子とする。さらに漢室の天を「祖父」とする。男系家族の一子相伝の発想をする人々は、けっこう多いと思う。呉蜀が同盟するとき、「もし呉蜀が曹魏を滅ぼしたら、そのあとどちらが天下を取るのかね」なんて議論を始める人が史料にも出てくる。まさに家父長制的な一元論の発想だと思う。
血筋に例えて、モデル化する。曹魏は天を殺した、悪者のあかの他人ということで。(1)天を祖父、諸葛亮を父、孫権を孫とする。孫権が孫なのは偶然です。祖父の仇敵を討つため、天に殉じる悲愴な諸葛亮と、諸葛亮との約束どおりに動けない不誠実な孫権が出てくる。孫権はひきこもりの子である。(2)天を父、諸葛亮と孫権をその子=兄弟とすれば、これは曹魏を滅ぼしたあとの「天下二分」である。フロイト的な「父殺し」に成功した兄弟は、父の座をめぐって殺し合いを始める。(3)いま呉蜀の同盟が、たとえ理論だけでも提示したのは、諸葛亮と孫権を従兄弟として、天を2人の伯父とする発想である。「父殺し」をしたくても、父が見落とされているから、争奪する対象がない。兄弟は、対立の関係にならない。これはリッパな発想だ。兄弟と伯父の3人住まいだったら、はぐらかされた関係が維持されそう。ただし兄弟が「伯父の地位がほしい」と言い出したら、途端に(2)のパターンに戻ってしまう。
ぼくは思う。頭の体操に過ぎないかも知れませんが、『白虎通』で「天子」という称号が、天の子に由来すると定められているから、親族の構造から理解する正統論というのも、ありだと思います。
(3)のパターンを、もう少し呉蜀に近づけよう。諸葛亮と孫権は従兄弟である。天は、諸葛亮の父で孫権の伯父か、孫権の父で諸葛亮の叔父なのか、判明しない。つまり天おじさんは、親戚のなかで手を付けまくって、おばさんを手当たり次第に孕ませるわけで。諸葛亮と孫権から見たら、正統を名のっている曹魏も、この「天おじさん」が外で作った子だ。少なくとも曹魏くんは、「ぼくの母さんは、天おじさんに孕まされたと言ってる」と言っている。呉蜀は、他人である曹魏を倒すときは、利害が一致する。しかし、曹魏を倒したあとは、天おじさんの地位を狙いたいが、まっすぐ上の父なのか、斜め上の おじなのか、よく分からないので、接し方がいまいち定まらず、両者とも闘争がはぐらかされる。こんな感じだ。戦闘を回避するための知恵かな。


秋九月、權遷都建業。因故府不改館。徵上大將軍陸遜、輔太子登、掌武昌留事。

9月、建業にうつる。故府を改めずに館とする。

趙一清はいう。孫策の故府である。『太康地記』では、太和宮とされる。
ぼくは思う。孫権の皇帝即位を慶賀して、諸葛亮が同盟の使者をだした。孫権の皇帝即位のトリガーは、蜀漢との同盟の見通しが立ったことかも知れない。孫権の皇位は、三国鼎立するためのものでなく、蜀漢と対等に外交するために必要だったもの。蜀漢の合意がなければ、不必要だったもの。そういえば孫権は、天地の祭祀にそれほど熱心でない。孫呉それ自体に、皇帝即位の要請がない。これにより、孫呉が何か有利になったことはない。諸葛亮が孫権に、皇帝即位を要請したのかも知れない。だとすれば、諸葛亮は文字どおり「天下三分」を成功させたことになる。
ぼくが、まったく蜀漢のファンじゃないのに、こういう推論に到ってしまったことに「説得力」が生じ、、ないかも知れないけど、可能性はあると思います。孫皓の時代になってから、孫呉の正統性が迷走するのも、これと関係があるか。迷走とは、曹魏の継承者を自認したり、天下統一に執着したりだ。この迷走の理由は、孫呉の皇帝が前提としていた、蜀漢の皇帝が消えてしまったからだ。
皇帝になると「あるべき論」にしばられるが、孫権がこれに縛られたとしたら、諸葛亮のマジックに、まんまと引っかかったことになる。強い者が皇帝になるのでなく、皇帝になり、その規定に縛られながらも勝った者が、天下を統一する。言葉による規定のほうが先なのだ。前漢の高帝、後漢の光武も同じパタンだ。
諸葛亮のように、自分の目上の者や、頼りになってくれねば困る同盟者に「皇帝即位がいいですよ」と進めて、積極的な行動にかきたてる。皇帝即位してしまえば、理念や当為のとおりに行動しなければならない。こわい権臣がいたものだ。
孫呉の群臣も「孫権を皇帝にする必然性がない」と同時に「孫権を皇帝にしない必然性がある」わけでもない。諸葛亮が「孫権に皇帝即位を勧めなさい」と、人脈をつかって働きかければ、コロッと同意することはあるだろう。
ぼくは思う。ぼくらは、諸葛亮は漢室を信じ、劉備と劉禅のみを、唯一の正統にする者だと思いこんでいる。しかし諸葛亮は、劉禅に成り代わる勢いで執政しているし、孫権に皇帝即位を勧めたりもする。こういう諸葛亮のほうが「すごい」んじゃないかしら。漢室の復興もいいけど、まずは曹魏を倒すという現実的な目標に定まっている。諸葛亮は学者として理論を練るんじゃなくて、軍事行動をやった人だし。

上大将軍の陸遜に、孫登と武昌を任す。陸遜は、太子の孫登をたすけ、武昌の留事を掌握する。

孫呉では大将軍の上に、また上大将軍をおく。ぼくは思う。官名がインフレしていくのは、皇帝権力の本質を表していると思う。孫呉のような後発の王朝だからこそ、インフレさせずにはいられない。『すべての経済はバブルに通ず』という本を読んだけど、『全ての皇帝権力は官爵バブルに通ず』という、三国志の本を書けるほどだ。


黄龍2年、衛温が海路を探索する

二年春正月、魏作合肥新城。詔、立都講祭酒、以教學諸子。

黄龍2年春正月、曹魏は合肥新城をつくる。

合肥新城は、『魏志』明帝紀の青龍2年、満寵伝にある。この年、孫呉は東興に堤防をつくる。諸葛恪伝にある。林国賛はいう。曹魏が合肥新城をつくったと呉主伝に記されるが、明帝紀には記述なし。この孫呉の黄龍2年は、曹魏では太和4年である。『魏志』満寵伝によると、合肥新城は青龍元年につくられた。この時点で、まだ合肥新城はない。

孫権は詔して、都講祭酒を立てさせ、諸子を教學した。

遣將軍衞溫諸葛直、將甲士萬人、浮海、求夷洲及亶洲。亶洲、在海中、長老傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海、求蓬萊神山及仙藥、止此洲、不還。世相承有數萬家、其上人民時有至會稽貨布。會稽東縣人海行、亦有遭風流移至亶洲者。所在絕遠、卒不可得至。但得夷洲數千人還。

將軍の衛温と諸葛直が、甲士1萬人をひきい、海路で夷洲や亶洲にゆく。亶洲は海中にある。長老は「始皇帝のとき、徐福が亶洲にいって帰らなかった」という。徐福が伴った人々の子孫が、数万家になるという。亶洲の人民が会稽にきて布を売買したり、会稽の東県の人が亶洲に漂着したりするという。

銭大昭はいう。東県とは、東冶である。『魏志』王朗伝。
『後漢書』東夷伝にある。沈瑩『臨海水土志』にもある。胡三省はいう。子孫が倭人となり、その地で徐福を祭るという。盧弼はいう。陸遜伝で、陸遜が孫権を諫めたが、孫権が強行した。

衛温らは、ただ夷洲から数千人だけ連れ帰った。

黄龍3年、孫布が王淩を阜陵にさそう

三年春二月遣太常潘濬、率衆五萬、討武陵蠻夷。衞溫、諸葛直、皆以違詔無功、下獄、誅。夏、有野蠶、成繭大如卵。由拳、野稻自生、改爲禾興縣。中郎將孫布、詐降以誘魏將王淩、淩以軍迎布。冬十月權、以大兵潛伏於阜陵俟之、淩覺而走。會稽南始平言、嘉禾生。十二月丁卯、大赦。改明年元也。

黄龍3年春2月、太常の潘濬が5万をひきい、武陵の蛮夷を討つ。

武陵の蛮夷は、『蜀志』先主伝の章武元年にある。

衛温と諸葛直は、功績がないので下獄され、誅された。

陸遜伝、全琮伝で、陸遜と全琮が諫める。或る者は、孫権が無益なものを求め、失敗したら無罪の衛温を殺したから、ひどいなあ!という。
ぼくは思う。孫権の「国際秩序」、理念、当為、を検討するのは、重要なこと。それと同時に「なぜこの理念を抱き、なぜこの当為を設けたのか」というのが、ぼくの取り組むべき問題だなあ。ただの示威行動じゃ!と、片づけるには、惜しい。だって、あまりにも不合理な政策だから。


夏、有野蠶、成繭大如卵。由拳、野稻自生、改爲禾興縣。中郎將孫布、詐降以誘魏將王淩、淩以軍迎布。冬十月權、以大兵潛伏於阜陵俟之、淩覺而走。會稽南始平言、嘉禾生。十二月丁卯、大赦。改明年元也。

夏、野蠶がタマゴの大きさのマユをつくる。由拳県で、野稻が自生した。自生した場所を、禾興県と改めた。

由拳は、孫策伝にある。赤烏5年に嘉興と改める。

中郎將の孫布が、いつわって降り、魏將の王淩を誘った。王淩は張布の軍を迎えた。冬10月、孫権は大兵で、ひそかに阜陵で待ち伏せた。王淩は気づいて逃げた。

阜陵は『魏志』袁渙伝にある。胡三省はいう。阜陵県は、漢代は九江郡に属した。魏代に九江を淮南郡と改めた。『晋書』はいう。阜陵県は、後漢の明帝のとき、麻湖に淪(しず)んだ。
この事件は満寵伝にある。

會稽の南始平で、嘉禾が生えたという。12月丁卯、大赦した。翌年に改元とした。

『元和志』はいう。南始平は、孫呉が章安県をわけて立てた。『寰宇記』はいう。孫呉がたてた県で、会稽に属する。『輿地広記』は、孫呉の臨海に属するという。『方輿紀要』はいう。漢代の章安であり、孫呉がわけて南始平をおいた。或る者は、後漢の興平四年に孫氏がおいたという。『呉志』虞翻伝にひく『会稽典録』の始平の注釈にある。ぼくは思う。興平って4年までないよね。

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嘉禾年間;公孫淵を燕王にし、曹魏と競合

嘉禾元年、南北の郊祀をことわる

嘉禾元年春正月、建昌侯慮卒。三月遣將軍周賀、校尉裴潛、乘海之遼東。秋九月魏將田豫、要擊、斬賀于成山。冬十月魏遼東太守公孫淵、遣校尉宿舒、閬中令孫綜、稱藩於權、幷獻貂馬。權大悅、加淵爵位。

嘉禾元年春正月、建昌侯の孫慮が卒した。

曹魏の太和6年、蜀漢の建興10年である。孫権51歳。
趙一清はいう。『御覧』巻176にひく『金陵地記』はいう。嘉禾元年、桂林の落星山に、重楼をつくった。落星楼という。『呉都賦』にも落星楼が謳われている。建業の東北10里にある。
孫慮は、孫登の弟。20歳である。

3月、將軍の周賀、校尉の裴潛を、海路から遼東につかわす。秋9月、魏將の田豫が、周賀と裴潛を要擊した。田豫が、周賀を成山で斬る。

このとき裴潛は2人いる。混同に注意せよ。
成山は、山東省にある。『魏志』田豫伝にある。

冬10月、曹魏の遼東太守たる公孫淵が、校尉の宿舒、閬中令の孫綜をつかわし、孫権に称藩した。貂馬を献じた。孫権は大悅し、公孫淵に爵位を加えた。

胡三省はいう。『晋書』はいう。王国には、郎中令をおく。公孫淵は王でないが、かってに置いた。当然だが『通鑑』で読んだ。
公孫淵から孫権への表は、『魏志』公孫淵伝にひく『呉書』にある。
ぼくは思う。さきに孫権が使者をおくる。曹魏にブロックされる。それでも公孫淵は使者をかえす。孫権は爵位をあげる。この順番をチェックする。
盧弼のおまけ。この年、陸遜は兵をひいて廬江にむかう。『魏志』満寵伝にある。


江表傳曰。是冬、羣臣以權未郊祀、奏議曰「頃者嘉瑞屢臻、遠國慕義、天意人事、前後備集、宜脩郊祀、以承天意。」權曰「郊祀當於土中、今非其所、於何施此?」重奏曰「普天之下、莫非王土。王者以天下爲家。昔周文、武郊於酆、鎬、非必土中。」權曰「武王伐紂、卽阼於鎬京、而郊其所也。文王未爲天子、立郊於酆、見何經典?」復書曰「伏見漢書郊祀志、匡衡奏徙甘泉河東、郊於長安、言文王郊於酆。」權曰「文王性謙讓、處諸侯之位、明未郊也。經傳無明文、匡衡俗儒意說、非典籍正義、不可用也。」

『江表伝』はいう。この冬に羣臣は、孫権ままだ郊祀しないので「瑞祥がでて、遠国が慕うので、郊祀して天意をうけろ」という。

林国賛はいう。呉主伝で孫権は、黄龍元年に南郊した。裴松之が注釈する場所を誤った。盧弼はいう。孫権は郊祀を修得していない。『宋書』礼志、五行志がその証拠である。林国賛が誤りで、裴松之は正しい。

孫権はいう。「郊祀は土中でやるものだ。いま私は土中にいない。なぜ郊祀するか」という。群臣は「天下はすべて王土であり、王者は天下を家とする。周文と周武は、土中でない場所で郊祀した」という。孫権「どこに書いてあるか」と。群臣「『漢書』郊祀志で、匡衡が成帝に上奏した文のなかに」と。 孫権「文王の性質は、謙譲であり、諸公の地位のまま郊祀しない。根拠となる経伝はない。匡衡は俗儒であり、経伝に基づかずに意見をいった。匡衡は参考にならない」と。

趙一清はいう。『宋書』五行志はいう。孫権は称帝して30年、ついに建業に七廟をつくらず。ただ孫堅の廟を、遠い長沙に立てただけ。礼を知らない。嘉禾のはじめ、群臣が郊祀を進めたが、やらなかった。末年に1回だけ南郊したが、北郊したと聞かない。かえって、羅陽の妖神に祈って、福助をもとめた。『宋書』礼志でも、孫権が郊祀に欠けたという。
孫権の死後、三嗣主の時代も、ついに行使しなかった。孫権は、配帝の礼を享けなかった。何焯はいう。孫権はかってに尊号そておき、天子として臣民に臨みながら、郊祀を修得しない。孫権の子らは、父に仕えない。まったく孫呉は「野」蛮だよ。
ぼくは思う。どうして孫権が、礼のコードを外したのか、興味があるなあ。つぎの裴注で判明するが、孫権の郊祀に関する認識は、誤っていた。それにしても、諸書を読みかじって、理解を試みた。郊祀というテーマがあることは分かっていた。だから学者に「郊祀を研究せよ」と言えば済んだ。そのくせ、やたら謙遜にこだわり、へりくだった。その結果、後世の学者たちにボコボコにけなされる羽目にあった。後世は勝手にすれば良いのだが、同時代において、孫権の態度に対する評価はどうだったんだろう。


志林曰。吳王糾駮郊祀之奏、追貶匡衡、謂之俗儒。凡在見者、莫不慨然以爲統盡物理、達於事宜。至於稽之典籍、乃更不通。毛氏之說云「堯見天因邰而生后稷、故國之於邰、命使事天。」故詩曰「后稷肇祀、庶無罪悔、以迄于今。」言自后稷以來皆得祭天、猶魯人郊祀也。是以棫樸之作、有積燎之薪。文王郊酆、經有明文、匡衡豈俗、而枉之哉?文王雖未爲天子、然三分天下而有其二、伐崇戡黎、祖伊奔告。天既棄殷、乃眷西顧、太伯三讓、以有天下。文王爲王、於義何疑?然則匡衡之奏、有所未盡。按世宗立甘泉、汾陰之祠、皆出方士之言、非據經典者也。方士以甘泉、汾陰黃帝祭天地之處、故孝武因之、遂立二畤。漢治長安、而甘泉在北、謂就乾位、而衡云「武帝居甘泉、祭于南宮」、此既誤矣。祭汾陰在水之脽、呼爲澤中、而衡云「東之少陽」、失其本意。此自吳事、於傳無非、恨無辨正之辭、故矯之云。脽、音誰、見漢書音義。

虞喜『志林』はいう。匡衡は俗儒という孫権の主張が通ったが、孫権の主張は典籍と異なり、誤りである。『詩経』では魯人のように自国で郊祀する(土中でないと郊祀できないという孫権の主張は誤りである)。また文王は天子でないが、天下の3分の2をもち、天子と同等である(ただの諸侯でなく、王者=天子として郊祀する資格がある)。孫権による匡衡の批判は『漢書』を誤読しており的確でない。

『漢書』武帝紀などに、長安の周辺で郊祀する記事がある。前漢の祭祀は、先行研究を読んだほうが分かるので、『三国志集解』の抄訳なし。上海古籍2944頁。

これは孫呉の事実であり、(孫権が経典を誤読して判断をしたという)歴史の記録としては妥当であるが、虞喜が誤りを正した。

この冷静さがいいね!


嘉禾2年、公孫淵に燕王と九錫を贈る

二年春正月、詔曰「朕以不德、肇受元命、夙夜兢兢、不遑假寢。思平世難、救濟黎庶、上答神祗、下慰民望。是以眷眷、勤求俊傑、將與戮力、共定海內、苟在同心、與之偕老。今使持節督幽州領青州牧遼東太守燕王、久脅賊虜、隔在一方。雖乃心於國、其路靡緣。今因天命、遠遣二使、款誠顯露、章表殷勤、朕之得此、何喜如之。雖湯遇伊尹、周獲呂望、世祖未定而得河右、方之今日、豈復是過。普天一統、於是定矣。書不云乎、一人有慶兆民賴之。其、大赦天下、與之更始。其明下州郡、咸使聞知。特下燕國、奉宣詔恩、令普天率土備聞斯慶」

嘉禾2年正月、孫権は詔した。「私は不徳だが元命を受けた。上は神祇に答え、下は民望を慰めたい。いま使持節、督幽州、領青州牧、遼東太守、燕王の公孫淵は、2人の使者をくれた。殷湯が伊尹を、周文が呂望を、光武が河右を得たときより、私は幸福である。普天の一統はここに定まる。『書経』呂刑は君主1人が慶べば、兆民がこれを頼るという。天下を大赦して、時代を更始しよう。

何焯はいう。孫権は大赦をして、気力が山のように湧いて迫る。孫権は尊号を自称したが、1つも見るべきがない。史家は孫権の皇帝としての発言を載せるが、これを醜(みにく)しとしてる。
ぼくは思う。孫権は神祇と民望をむすび、殷湯、周文、光武に自分をなぞらえ、「普天の一統」を宣言してる。こんなにやる気を出した孫権は他に知らない。魯粛が知ったら喜ぶだろう。これは皇帝という肩書が要請する、きわめて典型的で形式的な語法である。べつに孫権の人格が変わったのでない。確固たる人格なんて存在せず、わりに肩書の要請に屈するのが人間だ。何焯さん、許してあげてね。

州郡に私の大赦を報せろ。とくに公孫淵の燕国には、私の詔恩を報せろ。普天率土に、私の慶びを聞かせろ」と。

三月、遣舒綜、還。使太常張彌、執金吾許晏、將軍賀達等、將兵萬人、金寶珍貨、九錫備物、乘海授淵。

3月、舒綜を遼東に返した。太常の張彌、執金吾の許晏、將軍の賀達らに、兵1万をつけ、金寶や珍貨、九錫の備物を持たせ、海路から公孫淵に届ける。

何焯はいう。孫権は、曹魏から呉王に封じてもらうという恥があった。恥ある孫権が遼東に使者するにしても、人数は数百で充分だった。のちに朱然が柤中で勝ったとき、朱然が予め出しておいた戦勝を報告する表を、孫権は出さなかった。孫権はこの控えめさが優れている。
ぼくは思う。朱然が柤中で勝ったのは、いつだっけ。封じられる者であれば、封じる者に対して控えめに振る舞うことができ、封じる者であれば、封じられる者に対して示威的に散財しなければならない。これは人類学的な鉄則だ。何焯さんは、つねに「控えめが一番」という。部分だけを見て、全体を見てないなあ。


江表傳載權詔曰「故魏使持節車騎將軍遼東太守平樂侯。天地失序、皇極不建、元惡大憝、作害于民、海內分崩、羣生堙滅、雖周餘黎民、靡有孑遺、方之今日、亂有甚焉。朕受曆數、君臨萬國、夙夜戰戰、念在弭難、若涉淵水、罔知攸濟。是以把旄仗鉞、翦除凶虐、自東徂西、靡遑寧處、苟力所及、民無災害。雖賊虜遺種、未伏辜誅、猶繫囚枯木、待時而斃。惟將軍天姿特達、兼包文武、觀時覩變、審於去就、踰越險阻、顯致赤心、肇建大計、爲天下先、元勳巨績、侔於古人。雖昔竇融背棄隴右、卒占河西、以定光武、休名美實、豈復是過?欽嘉雅尚、朕實欣之。自古聖帝明王、建化垂統、以爵褒德、以祿報功。功大者祿厚、德盛者禮崇。故周公有夾輔之勞、太師有鷹揚之功、並啓土宇、兼受備物。今將軍規萬年之計、建不世之略、絕僭逆之虜、順天人之肅、濟成洪業、功無與比、齊魯之事、奚足言哉!詩不云乎、『無言不讎、無德不報』。

『江表伝』は孫権の詔を載せる。「もと曹魏の使持節、車騎將軍、遼東太守、平樂侯の公孫淵よ。いま天下は分崩した。

『魏志』明帝紀はいう。太和2年、公孫淵を遼東太守とした。太和4年、公孫淵を車騎将軍とした。また公孫度伝はいう。曹丕は公孫恭を平郭侯とした。公孫淵は公孫恭の地位をうばい、爵位も襲った。平郭は遼東郡に属する。いま『江表伝』は「平楽侯」とするが「平郭侯」とすべきだ。前漢で平楽県は山陽郡に属して、後漢に平楽県ははぶき、併合された。

わたし孫権は暦数を受けて戦ってきたが、淵水を渉るような苦労があった。いま公孫淵に武器をあげるから、孫呉のために平定をやれ。後漢初、竇融は隴右をすてて光武に従い、竇融が河西を占領したから、光武の事業は定まった。公孫淵が孫呉に従ったのは、竇融が光武に従ったよりも重要なことだ。古より聖帝、明王は、化を建て統を垂れ、爵を以て德を褒し、祿を以て功に報ゆ。功の大なる者は祿は厚く、德の盛なる者は禮は崇し。ゆえに周公は、太師の呂尚に、斉の領地と備物を与えた。公孫淵にも与える。

ぼくは思う。皇帝としての孫権のすごさを自己描写しながら、ちゃっかり「淵」の文字を混ぜる。孫権の戦歴は「淵水を渉るようなもの」と。淵の文字を使うことで、君臣関係を明らかにしてる!


今以幽、青二州十七郡[百]七十縣、封君爲燕王、使持節守太常張彌授君璽綬策書、金虎符第一至第五、竹使符第一至第十。錫君玄土、苴以白茅、爰契爾龜、用錫冢社。方有戎事、典統兵馬、以大將軍曲蓋麾幢、督幽州、青州牧遼東太守如故。今加君九錫、其敬聽後命。以君三世相承、保綏一方、寧集四郡、訓及異俗、民夷安業、無或攜貳、是用錫君大輅、戎輅、玄牡二駟。君務在勸農、嗇人成功、倉庫盈積、官民俱豐、是用錫君袞冕之服、赤舄副焉。君正化以德、敬下以禮、敦義崇謙、內外咸和、是用錫君軒縣之樂。君宣導休風、懷保邊遠、遠人迴面、莫不影附、是用錫君朱戶以居、君運其才略、官方任賢、顯直錯枉、羣善必舉、是用錫君虎賁之士百人。君戎馬整齊、威震遐方、糾虔天刑、彰厥有罪、是用錫君鈇鉞各一。君文和於內、武信於外、禽討逆節、折衝掩難、是用錫君彤弓一、彤矢百、玈弓十、玈矢千。君忠勤有效、溫恭爲德、明允篤誠、感于朕心、是用錫君秬鬯一卣、珪瓚副焉。欽哉!敬茲訓典、寅亮天工、相我國家、永終爾休。」

いま幽州と青州の2州=17郡=170県をもって、公孫淵を燕王とする。

潘眉はいう。70県という版本は誤りである。『郡国志』で幽州と青州の県を数えると、155県である。後漢末に新たな県が立てられた。70県でなく170県が正しい。

使持節、守太常の張彌に、璽綬と策書を持たせる。

ここに九錫の内容が記される。潘眉によると、九錫が8種しかない。1種たりないのは、史料が1行ぬけたからだろうと。献帝から曹操、曹丕から孫権、曹奐から司馬昭と司馬炎、南朝の斉高帝、梁武帝、陳武帝に贈られた九錫と比べても、孫権から公孫淵に贈った九錫の文が1種たりない。

以上の九錫をあげるから、孫呉のために働けよ」と。

舉朝大臣、自丞相雍已下皆、諫、以爲、淵未可信而寵待太厚、但可遣吏兵數百護送舒綜。權、終不聽。

臣松以爲權愎諫違衆、信淵意了、非有攻伐之規、重複之慮。宣達錫命、乃用萬人、是何不愛其民、昏虐之甚乎?此役也、非惟闇塞、實爲無道。

朝廷の大臣たちは、丞相を筆頭に、みな孫権を諫めた。「公孫淵は信頼できないが、待遇が厚すぎる。吏兵を数百だけ送り、舒綜を護衛すれば充分である」と。

張昭がつよく諫めた。『呉志』張昭伝を見よ。或る者はいう。孫権が兵を多数つけるから、公孫淵は猜疑したのでは。
ぼくは思う。この或る者さんの意見はおもしろい。孫権が、遼東を平定できるほどの軍勢を、海路から送りこんだから、公孫淵が孫呉を警戒して、せっかくの友好関係が乱れたと。なるほど。もし孫権が皇帝として君臨したいなら、無防備だが絢爛豪華な大量の使者をおくり、派手に散財しなければならない。身の安全のために軍隊を連れたせいで、かえって安全でなくなった。もし軍隊を連れるなら、戦争して遼東を平定できるだけ、大量の兵士が必要だ。「平和の使者にしては強固だが、平定の軍隊にしては貧弱」という、中途半端で最低なパタンだった。無防備な使者をおくるのは、「身体を限界まで追いこみ、却って生命を強める」みたいな逆説的な発想だから、保全を第一とする守成型の君主には難しい。
ところで斉の太公望の故事がよく出てくるのは、公孫淵に青州を与えるからなのね。中原から東の果てにあたる斉国を封じるのが故事で、海路から斉国を封じるのが今回。ベクトルの向きが違うから気づきにくい。

果たして孫権は聴かず。裴松之はいう。孫権は群臣の諫めを聴かず、公孫淵を信じた。九錫を届けるため、1万人も動員した。なんと民を愛さないことか。孫権は無道の君主である。

ぼくは思う。裴松之の意見は「きわめて正しい」と思う。この裴松之の意見をスタート地点として、どこまで柔軟に思考できるかが、解釈家の手腕を決めると思う。


淵、果斬彌等、送其首于魏、沒其兵資。權、大怒、欲自征淵。尚書僕射薛綜等、切諫、乃止。是歲、權向合肥新城。遣將軍全琮、征六安、皆不克還。

江表傳載權怒曰「朕年六十、世事難易、靡所不嘗、近爲鼠子所前卻、令人氣湧如山。不自載鼠子頭以擲于海、無顏復臨萬國。就令顛沛、不以爲恨。」

果たして公孫淵は、太常の張彌、執金吾の許晏、將軍の賀達らを斬って、孫権が持たせた兵資を没収した。孫権は大怒して「オレが公孫淵を征伐する」という。尚書僕射の薛綜らが切諫して、孫権は辞めた。

李光地はいう。孫権は、ろくに後悔せず、さらに大怒までした。孫権は醜い。
趙一清はいう。『世説』にひく列女伝はいう。趙姫は、桐郷令する虞韙の妻である。頴川の趙氏の娘である。すでに夫の虞韙が死んだ。孫権は趙姫の文才を愛し、宮省に入れた。趙姫は上疏して、孫権の遼東征伐を諫めた。『列女伝解』の趙母への注釈として、趙姫が孫権を諫めた賦を数十万言を載せる。趙姫は、赤烏6年に卒した。
陸遜、陸瑁も諫めた。列伝にある。

『江表伝』は孫権の怒ったセリフを載せる。「私は60年生き、公孫淵のような鼠子に騙された。公孫淵の頭を海にぶちこまないと、万国に向ける顔がない」と。

盧弼はいう。孫権は52歳だから、60年生きていない。胡三省はいう。公孫淵は称臣して、孫呉の使者を誘いながら、孫呉の使者を斬った。孫権はこれを怒った。
ぼくは思う。どうやって記録したんだよ。『江表伝』の作者が、調子にのって書いたとしか思えない。しかし前近代においては、君主の「個人的な」怒りが、すぐに戦争に結びつくのね。まあ近代の国民国家は、機構を複雑にしたけれど、中核にある単純さは同じなんだろうか。ちょっとした気分で、左右に大きく振れる大衆(マス)なんて、気性が激しい暴君と同じじゃないか。構造が同じで、ただ大きさが違うだけ。
劉備が「関羽の恨みを晴らすために、夷陵に出兵する」というロジックが、いろいろ理性的な批判を経験しながらも、いまだにぼくらのなかで真実味をもって受け止められるのは、人類のサガだからか。


是歲、權向合肥新城。遣將軍全琮、征六安、皆不克還。

この歳、孫権は合肥新城にむかう。孫権は、将軍の全琮をつかわし、六安を征める。孫権も全琮も勝てずに、撤退する。

孫権は合肥新城が川水から遠いから、あえて船を降りない。『魏志』満寵伝にある。胡三省はいう。太和6年、満寵は合肥新城を築いた。
六安県は、孫堅伝の廬江郡の注釈にある。


吳書曰。初、張彌、許晏等俱到襄平、官屬從者四百許人。淵欲圖彌、晏、先分其人衆、置遼東諸縣、以中使秦旦、張羣、杜德、黃疆等及吏兵六十人、置玄菟郡。玄菟郡在遼東北、相去二百里、太守王贊領戶二百、兼重可三四百人。旦等皆舍於民家、仰其飲食。積四十許日、旦與疆等議曰「吾人遠辱國命、自棄於此、與死亡何異?今觀此郡、形勢甚弱。若一旦同心、焚燒城郭、殺其長吏、爲國報恥、然後伏死、足以無恨。孰與偷生苟活長爲囚虜乎?」疆等然之。於是陰相約結、當用八月十九日夜發。其日中時、爲部中張松所告、贊便會士衆閉城門。旦、羣、德、疆等皆踰城得走。時羣病疽創著膝、不及輩旅、德常扶接與俱、崎嶇山谷。行六七百里、創益困、不復能前、臥草中、相守悲泣。羣曰「吾不幸創甚、死亡無日、卿諸人宜速進道、冀有所達。空相守、俱死於窮谷之中、何益也?」德曰「萬里流離、死生共之、不忍相委。」於是推旦、疆使前、德獨留守羣、捕菜果食之。旦、疆別數日、得達句驪(王宮)、因宣詔於句驪王宮及其主簿、詔言有賜爲遼東所攻奪。宮等大喜、卽受詔、命使人隨旦還迎羣、德。其年、宮遣皂衣二十五人送旦等還、奉表稱臣、貢貂皮千枚、鶡雞皮十具。旦等見權、悲喜不能自勝。權義之、皆拜校尉。閒一年、遣使者謝宏、中書陳恂拜宮爲單于、加賜衣物珍寶。恂等到安平口、先遣校尉陳奉前見宮、而宮受魏幽州刺史諷旨、令以吳使自效。奉聞之、倒還。宮遣主簿笮咨、帶固等出安平、與宏相見。宏卽縛得三十餘人質之、宮於是謝罪、上馬數百匹。宏乃遣咨、固奉詔書賜物與宮。是時宏船小、載馬八十匹而還。

『呉書』はいう。張弥と許晏らは、遼東の襄平につき、4百人だけ連れる。

襄平は、『魏志』明帝紀の景初元年にある。胡三省はいう。襄平県は、遼東の郡治である。公孫淵が都とした。

公孫淵は孫呉の使者を殺すため、孫呉の兵を遼東の諸県に分散した。孫権の中使である、秦旦、張羣、杜德、黃疆と吏兵60人は玄菟郡に置かれた。襄平と玄菟は20百里である。玄菟太守の王賛は、2百戸=4百人だけ領する。中使は「玄菟は弱小である。玄菟で時間を浪費するより、玄菟の城郭を焼き、玄菟の吏卒を殺して、脱出しよう」という。部下の張松がチクったので、玄菟太守に気づかれた。中使は、高句麗王の位宮のところに逃げた。

玄菟郡は、治所が高句麗である。これは高句麗国とは異なる場所である。ややこしい!『魏志』公孫度伝にある。中使が逃げたのは高句麗国であり、玄菟の郡治ではない。ややこしい!玄菟の郡治から、位宮の王都ににげた。
漢代の高句麗王は王宮であり、高句麗王の位宮は王宮の曽孫である。『魏志』高句麗伝にある。ややこしい!句読点がないと、中国の読書家たちも誤ったようだ。

孫権に救援を求めに帰還した使者は、校尉を拝した。1年後、孫権は使者の謝宏、中書の陳恂をつかわし、高句麗王の位宮を単于とした。だが位宮は、曹魏の幽州刺史に統制され、孫権からの使者に会わない。謝宏は、位宮の主簿である笮咨と帶固を人質にした。位宮は「孫権から単于を受けられず、御免ね」と謝宏にあやまった。謝宏は高句麗から、馬80匹だけもらって孫呉に還った。

『魏志』明帝紀はいう。青龍4年7月、高句麗王の位宮は、孫権の使者である胡衛らの首級を幽州にとどけた。これは孫呉の嘉禾5年にあたる。『呉志』は、高句麗が孫権の使者を斬ったと記さない。『魏志』明帝紀はいう。孫権は海路から高句麗に通じ、遼東を襲おうとした。つまり孫権は、ずっと遼東を忘れなかった。だが当時は航海術が足りないため、陸路から遼東に行ける曹魏に敵わなかった。


嘉禾3年、諸葛亮に連動して合肥を囲む

三年春正月、詔曰「兵久不輟、民困於役、歲或不登。其寬諸逋、勿復督課」夏五月權、遣陸遜諸葛瑾等屯江夏沔口、孫韶張承等向廣陵淮陽。權率大衆、圍合肥新城。 是時、蜀相諸葛亮出武功、權謂魏明帝不能遠出。而帝遣兵助司馬宣王拒亮、自率水軍東征。未至壽春、權退還、孫韶亦罷。

嘉禾3年春正月、詔した。「出兵がつづき、民は用役で困窮した。収穫が少ない。納税を催促するな」と。
夏5月、孫権は、陸遜と諸葛瑾を、江夏の沔口(夏口)に屯させる。孫韶と張承を廣陵の淮陽に向ける。孫権は大衆をひきい、合肥新城をかこむ。

沔口とは夏口である。『魏志』文聘伝にある。
『通鑑』では、淮陽でなく淮陰とする。曹魏の広陵は、治所が淮陰である。広陵の治所について注釈あり。上海古籍2951頁。はぶく。後漢末、陳登が広陵太守となると、射陽を治所として、淮陰に治所を移した。『方輿紀要』によると、淮陰は、前漢で臨淮郡に属し、後漢で下邳国に属し、晋代は広陵の郡治となる。『晋書』は西晋の太康のとき、広陵の治所が淮陰となると記すが、魏代から広陵の治所だよ、云々。
ともあれ徐州方面を攻めたのよ、と総括したら、元も子もない話。
『魏志』満寵伝はいう。青龍2年、孫権は10万と号して、合肥新城をかこむ。満寵は、孫権の弟の子・孫泰を射殺した。

このとき諸葛亮は武功に出兵する。孫権は、曹叡が遠征できないと考えた。だが曹叡は、諸葛亮を司馬懿に任せ、自ら水軍をひきいて東征してきた。曹叡が寿春に到る前に、孫権は撤退した。孫韶も撤退した。

武功は、『魏志』蘇則伝にある。この歳、諸葛亮が死んだ。
寿春は、『魏志』文帝紀の黄初5年にある。趙一清はいう。『晋書』地理志はいう。長江の西は、廬江と九江で或る。合肥から北、寿春までは、曹魏に属した。


秋八月、以諸葛恪爲丹楊太守、討山越。九月朔、隕霜傷穀。冬十一月太常潘濬、平武陵蠻夷、事畢、還武昌。詔、復曲阿爲雲陽、丹徒爲武進。廬陵賊李桓、羅厲等、爲亂。

秋8月、諸葛恪が丹楊太守となり、山越を討つ。

丹陽の治所は宛陵である。孫策伝にある。
呉増僅はいう。後漢で丹陽の治所は宛陵だった。建安8年に孫翊が丹陽太守となり、殺害されると、孫河が宛陵にゆくため、整合する。孫権が武昌にうつると、呂範を丹陽太守とした。呂範は建業を治所とした。これは黄武のはじめである。嘉禾3年、諸葛恪が丹陽太守となり、山越と戦った。丹陽の治所のそばまで、山越が接近したのだ。また孫休は虎林にいて、執政した諸葛恪が「諸王を、長江ぞいに置くな。兵馬の前線に置くな。孫休を丹陽に移そう」と言う。建業は長江に隣接しているから、丹陽の治所が建業でないと分かる。沈約『宋書』では、西晋の太康2年、丹陽をわけて宣城郡をつくる。宣城の治所は宛陵とし、丹陽の治所を建業に移した。以上から考えるに、嘉禾の初年には、丹陽の治所は宛陵に戻されていたのでは。
趙一清はいう。『晋書』地理志で、丹陽郡は11県をふくみ、建業県、秣陵県が含まれる。建業はもとは秣陵だが、孫氏が建業と改めた。西晋が平呉して、太康3年に秣陵の北を分割して、建業とした。また孫権はかつて丹陽を分けて、臨川郡をつくって、朱然を臨川太守とした。臨川の治所がわからない。諸葛恪が丹陽太守となると、臼陽の県長たる胡コウを斬った。臼陽は丹陽の属県なのだろうが、場所が分からない。
盧弼はいう。臨川の治所は南城である。朱然伝に解説がある。臼陽は、諸葛恪伝に解説がある。見てね。


九月朔、隕霜傷穀。冬十一月太常潘濬、平武陵蠻夷、事畢、還武昌。詔、復曲阿爲雲陽、丹徒爲武進。廬陵賊李桓、羅厲等、爲亂。

9月ついたち、霜が隕りて、穀を傷ねた。

趙一清はいう。『宋書』五行志はいう。このとき校事の呂壱が専横したせいで、霜が隕りた。前漢の元帝が、石顕を用いたときも、霜が隕りた。

冬11月、太常の潘濬が、武陵の蠻夷を平定して、武昌に還る。

黄龍3年、潘濬が討伐にいった。武昌に還り、武昌の留事(孫権がいないあいだの実務)をともにやった。潘濬伝にある。

孫権は詔した。「ふたたび曲阿を雲陽として、丹徒を武進とせよ」と。廬陵で賊の李桓と羅厲らが反乱した。

曲阿は孫策伝にある。丹徒も孫策伝にある。


嘉禾4年、曹魏が求めた宝を、孫権が気前よく出す

四年夏、遣呂岱討桓等。秋七月有雹。魏使、以馬求易、珠璣、翡翠、瑇瑁。權曰「此皆孤所不用、而可得馬。何苦而不聽其交易。」

嘉禾4年夏、呂岱らを遣わして、廬江の李桓らを討伐した。秋7月、雹がふる。

趙一清はいう。『宋書』五行志は、雹が雨(ふ)り、霜が隕りたとある。ときの呂壱が重臣を虐げたから、孫登より以下、みんなが患わされた。後漢の安帝が讒言を損じて、無罪の者を殺したときも、雹が雨った。
ぼくは思う。呂壱の件は、孫権が皇帝即位した直後であり、遼東に手を出したのとも同時期なのね。孫権の個人的なキャラでなく、皇帝という肩書が、呂壱のような校事の活躍を要請した。いかにも、そうだなあ!本紀に呂壱は出てこないが(出てくる資格を史家に認められなかろう)霜や雹として、呂壱の痕跡が登場する。

曹魏の使者がきて馬と、珠璣、翡翠、瑇瑁の交易を求めた。孫権は「(曹魏は珍宝を求めて威圧してくるが)私には不用の珍宝ばかり。馬と交換できるなら良いじゃん」という。

胡三省はいう。珠のうち、まるくないものを璣という。


嘉禾5年、5百銭を鋳し、張昭が死ぬ

五年春、鑄大錢、一當五百。詔、使吏民輸銅計銅畀直。設、盜鑄之科。二月武昌言、甘露降於禮賓殿。輔吳將軍張昭、卒。中郎將吾粲、獲李桓。將軍唐咨、獲羅厲等。自十月不雨至於夏。冬十月彗星見于東方。鄱陽賊彭旦等、爲亂。

嘉禾5年春、大錢を鋳造した。1枚で5百銭に値する。詔して吏民に銅を供出させ、貨幣の偽造に対する罰則・盜鑄之科をつくった。

杜佑はいう。孫権は嘉禾5年に大泉をつくる。「大泉五百」と刻む。直径は1寸3分である。重さは12シュである。『方輿紀要』巻20はいう。冶城は、江寧府の西、石頭城の内にある。もとは孫呉が鋳造した場所である。

2月、武昌から「甘露が禮賓殿に降った」と報告あり。輔吳將軍の張昭が卒した。

輔呉譙郡は、班亜三司(三公に準じる)。張昭は81歳だった。

中郎將の吾粲が、李桓を捕らえた。將軍の唐咨が、羅厲らを獲らえた。昨年10月から雨が降らずに、夏がきた。
冬10月、彗星が東方にでた。鄱陽で賊の彭旦らが反乱した。

嘉禾6年、親の喪でも、職務を離れたら死刑

六年春正月、詔曰「夫、三年之喪、天下之達制、人情之極痛也。賢者割哀以從禮、不肖者勉而致之。世治道泰上下無事、君子不奪人情、故三年不逮孝子之門。至於有事、則殺禮以從宜、要絰而處事。故、聖人制法、有禮無時、則不行。遭喪不奔、非古也、蓋隨時之宜、以義斷恩也。前故、設科長吏在官當須交代。而故犯之、雖隨糾坐、猶已廢曠。方事之殷、國家多難、凡在官司、宜各盡節、先公後私。而不恭承、甚非謂也。中外羣僚、其更平議、務令得中、詳爲節度」

嘉禾6年(曹魏の景初元年)春正月、孫権は詔した。「長吏は、もしも親が死んでも、代理者を立てるまで職務を離れるなと規則をつくった。だが規則が守られていない。職務は大切なのに、プライベートを優先しやがって。議論せよ」と。

顧譚、議、以爲「奔喪立科、輕則不足以禁孝子之情、重則本非應死之罪。雖嚴刑益設、違奪必少、若偶有犯者、加其刑則恩所不忍、有減則法廢不行。愚以爲、長吏在遠、苟不告語、勢不得知。比選代之間、若有傳者、必加大辟、則長吏無廢職之負、孝子無犯重之刑」
將軍胡綜、議、以爲「喪紀之禮、雖有典制、苟無其時、所不得行。方今戎事軍國異容、而長吏遭喪、知有科禁、公敢干突、苟念聞憂不奔之恥、不計爲臣犯禁之罪。此由科防本輕所致。忠節在國、孝道立家、出身爲臣、焉得兼之。故、爲忠臣不得爲孝子。宜定科文、示以大辟。若故違犯、有罪無赦。以殺止殺、行之一人、其後必絕」
丞相雍、奏從大辟。其後吳令孟宗、喪母奔赴、已而自拘於武昌、以聽刑。陸遜、陳其素行、因爲之請。權、乃減宗一等、後不得以爲比。因此遂絕。

顧譚はいう。「罰則が軽ければ、長吏は職務を離れる。罰則を重くするにも、死刑はひどい。死刑と定めながら、死刑を免除すれば、けっきょく規則が守られない。地方の長吏には、代理者が決まるまで、親の死を報せぬのが良い。親の死を知らねば、職務を離れることもない。代理者が決まる前に、親の死を長吏に伝えた者がいたら、そいつを死刑にすれば良い」と。
将軍の胡綜はいう。「職務を離れたら死刑。この原則だけで良い。1人を見せしめに死刑にすれば、違反者は出なくなる」と。丞相の顧雍はいう。「職務を離れたら死刑とする。この原則のみで決まりだ」と。

何焯と趙一清は、孫呉の風俗がひどいという。或る者(というか盧弼)は、顧譚の議論を児戯という。発言者たちは、礼に違い、天を滅する者である。ああ傷ましい。死刑は謀反者を殺すものであり、先王の定めた孝行の実践者を殺すものではない。

のちの呉県令の孟宗が、母の死に駆けつけた。自らを拘束して、孟宗は武昌に受刑にゆく。陸遜が弁護したので、孟宗は死刑を免れた。この孟宗を最後にして、もう死刑を猶予しないと定めた。職務を離れる者がいなくなった。

二月陸遜、討彭旦等、其年皆破之。冬十月遣衞將軍全琮、襲六安、不克。諸葛恪、平山越、事畢、北屯廬江。

2月陸遜が彭旦らを討ち、年内にすべて破った。冬10月、衞將軍の全琮が六安を襲ったが、勝たず。諸葛恪は、山越を平らげおわり、北して廬江に屯する。

嘉禾3年、諸葛恪は山越を討ちにいった。

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赤烏年間;連年の外征、荊州で司馬懿と対決

赤烏元年、呂壱が伏誅し、孫権が謝罪?する

赤烏元年春、鑄當千大錢。夏、呂岱討廬陵賊、畢、還陸口。秋八月武昌言、麒麟見。有司奏言、麒麟者太平之應、宜改年號。詔曰「閒者、赤烏集於殿前、朕所親見。若、神靈以爲嘉祥者、改年、宜以赤烏爲元」羣臣奏曰「昔、武王伐紂、有赤烏之祥、君臣觀之、遂有天下。聖人書策載述最詳者、以爲、近事既嘉、親見又明也」於是改年。步夫人卒、追贈皇后。

赤烏元年(238)春、額面が1千銭の大銭を鋳造した。

曹魏の景初2年、蜀漢の延熙元年、孫権が57歳である。
趙一清はいう。『晋書』食貨志はいう。孫権は1千銭の貨幣を鋳造した。まえに「呂蒙が荊州を平定したとき、1億銭を賜った」とあるが、額面が高額すぎる。名目だけだろう。人々は名目だけの賞与を患った。ぼくは思う。貨幣価値なんて、所詮は名目だけである。いかにも貨幣の本質をついており、おもしろい。貨幣は名目だけだからこそ、つまり貨幣そのものに価値がないからこそ流通する。趙一清は批判的だが、べつにぼくは孫権が誤っているわけじゃないと思う。ぼくは思う。身体性に優れて、地に足のついた孫策と、想像性に優れて、脳が宙にういた孫権。うまい対比だ。孫権はべつに「老害」ではなく、社会を形成する人類の王として、必然的な職務をこなしているだけ。ちょっと理念先行で、ムチャで過剰っぽいが、このムチャで過剰なところが、人類が人類たる所以だ。自然に密着した、きわめて実体的なことしなければ、人類以前の動物である。サルである。つまり孫策はサルである。
趙一清はいう。 永嘉の乱で東晋ができると、孫呉の旧銭をつかったが、重さがバラバラである。重いものは額面で流通し、中ぐらいの重さは「4文」という。何焯はいう。前年の5百銭も流通しないが、1千銭を鋳造した。孫呉は規制なく貨幣を造りすぎ。他史料でも、重さや文字面や縁取りがバラバラという。
ぼくは思う。高額の貨幣をつくり、威信を示す。曹魏に競う。孫権の「皇帝という病」は深刻だなあ。子供のとき罹っても軽い病気でも、大人になってから罹ると重くなるという。それと同じだ。

夏、呂岱が廬陵の賊を討ち、おわって陸口に還る。

嘉禾4年、呂岱が討ちにいった。
陸口は建安15年にある。嘉禾3年、呂岱は潘璋を領して、陸口に屯した。呂岱伝にある。もともと陸口にいて、いま廬江の賊をうち、陸口に還った。

秋8月、武昌から「麒麟がでた」と報告あり。有司「麒麟は太平に応じる獣だ。改元しろ」と。孫権「赤烏が殿前に集まったのを見た。赤烏と改元しては」と。群臣「周武が殷紂を伐つとき、赤烏がきた。孫権が直接に見たのだし、麒麟より赤烏がよい」という。赤烏と改元した。

『宋書』符瑞志はいう。白い麒麟が建業にいた。

歩夫人が卒した。皇后を追贈された。

弓をつかう練師である。なんのことだろう。


初、權信任校事呂壹。壹、性苛慘、用法深刻。太子登、數諫、權不納。大臣由是莫敢言。後、壹姦罪發露伏誅。權、引咎責躬、乃使中書郎袁禮、告謝諸大將。因問、時事所當損益。禮還、復有詔、責數諸葛瑾、步騭、朱然、呂岱等、曰「袁禮還云、與子瑜、子山、義封、定公相見。並以時事當有所先後、各自以不掌民事、不肯便有所陳、悉推之伯言、承明。伯言承明、見禮、泣涕懇惻、辭旨辛苦、至乃懷執危怖、有不自安之心。聞此、悵然深自刻怪。何者、夫惟聖人能無過行、明者能自見耳。人之舉措、何能悉中。獨當己有、以傷拒衆意、忽不自覺。故、諸君有嫌難耳。不爾、何緣乃至於此乎。

はじめ孫権は、校事の呂壱を信任した。孫登が諫めてもダメ。大臣はだまった。のちに呂壱の姦罪が發露して、呂壱は誅に伏した。孫権は、中書郎の袁礼をやり、諸大将に謝罪した。袁礼が孫権のもとにもどり(孫権が袁礼の報告を聞いてから)孫権は詔して、諸葛瑾、歩隲、朱然、呂岱らを責めた。「袁礼が訪問して、政事の優先順位について意見を求めても、諸葛瑾、歩隲、朱然、呂岱は返事しなかった。つぎに陸遜と潘濬に意見を求めたら、陸遜と潘濬は涕泣して、不安そうだった。

呂壱のことは、顧雍伝、潘濬伝、闞沢伝、孫休伝の永安元年にひく『襄陽記』。

聖人は過失がない。私は自分に過失がないと思いこみ(自分が聖人だと思い)臣下たちとの関係がくずれてしまった。

自孤興軍五十年、所役賦凡百皆出於民。天下未定、孽類猶存、士民勤苦、誠所貫知。然勞百姓、事不得已耳。與諸君從事、自少至長、髮有二色。以謂、表裏足以明露、公私分計、足用相保。盡言直諫、所望諸君。拾遺補闕、孤亦望之。昔、衞武公、年過志壯、勤求輔弼、每獨歎責。且、布衣韋帶、相與交結、分成好合、尚污垢不異。今日諸君與孤從事、雖君臣義存、猶謂骨肉不復是過。榮福喜戚、相與共之。忠不匿情、智無遺計、事統是非、諸君豈得從容而已哉。同船濟水、將誰與易。齊桓、諸侯之霸者耳。有善管子未嘗不歎、有過未嘗不諫。諫而不得、終諫不止。今孤自省、無桓公之德、而諸君諫諍未出於口、仍執嫌難。以此言之、孤於齊桓良優。未知、諸君於管子、何如耳。久不相見、因事當笑。共定大業、整齊天下、當復有誰。凡百事要、所當損益、樂聞異計、匡所不逮。」

孤(わたし)は軍を興して50年たち、50年も民に役賦を課した。

黄武元年に皇帝となり、孫権の自称は「朕」だった。なぜ「孤」にもどしたか。前後で一致しない。このとき孫権は57歳なので、50年も経過していない。

だが天下は平定されない。付きあいの長い諸君は、私を諫めてほしい。斉桓公は覇者だが、管仲に諫めてもらった。私は斉桓公ほどの徳がないのに、諸君は諫めてくれない。私が斉桓公より優れても、諸君は管仲ほど優れないと思うが、どうかな。ともに大業をやるため、思ったことは言ってくれ」と。

胡三省も何焯も、孫権を批判してる。ぼくは、孫権が斉桓公の故事をどのように活用したいのか分からない。重臣の諸君と仲直りしたいのか、重臣の諸君を責めているのか。ともあれ孫権は、挫折した。君主権力と「名士」のせめぎあいと解釈されても「仕方ない」状況である。呂壱の件は、いまいち消化できないので、後日もどる。宿題がここにあることは認識した。
胡三省はいう。下位者が上位者に対しては、上位者の命令に従わず、上位者の意思に従う。孫権は自分が斉桓より優れると言い、管仲をひきあいに臣下を責める。もし孫呉に管仲がいても、本音の言葉を尽くして、孫権を諫めないだろう。管仲がいなくても、諫めてくれる陸遜はいたのだが(陸遜は憤死する)。
何焯はいう。魏呉には校事がいた。奸悪であり、政事をやらず、摘発ばかりする。劉氏の漢室のように、平明な王朝になるものか。孫権は反省したようだが、トラブルの真因まで理解しない(校事のポストを省かない)。孫呉の政事が日増しにひどくなり、民が痩せ細るのもムリはないなあ。


赤烏2年、遼東で魏を破り、交州で反乱

二年、

江表傳載權正月詔曰「郎吏者、宿衞之臣、古之命士也。閒者所用頗非其人。自今選三署皆依四科、不得以虛辭相飾。」

赤烏2年、

趙一清はいう。『方輿紀要』巻27はいう。廬江県の西40里に、金牛山があり、その嶺に塔がある。孫呉の赤烏2年に作られた。曹魏は馬槽山に塁をつくった。魏呉の建造物が南北にある、お互いに見ることができた。

『江表伝』は孫権の正月の詔を載せる。「郎吏とは、宿衛の臣であり、古の命士である。最近は適任でない者が、郎吏をやる。三署にいる人材を四科によって選べ。虚名だけの人材を選ぶな」と。

ちくま訳によると「命士」とは、主君から直接の命令を受ける者である。ぼくが思うに孫権は、呂壱を手足として使ったが、その手足が群臣との関係を破壊したので、慎重になっている。すくなくとも慎重のポーズだけは見せている。


春三月遣使者羊衜、鄭冑、將軍孫怡、之遼東、擊魏守將張持、高慮等。虜得男女。零陵言、甘露降。夏五月、城沙羡。冬十月將軍蔣祕、南討夷賊。祕所領都督廖式、殺臨賀太守嚴綱等、自稱平南將軍、與弟潛、共攻零陵、桂陽。及搖動交州、蒼梧、鬱林諸郡。衆數萬人。遣將軍呂岱、唐咨、討之。歲餘、皆破。

春3月、使者の羊衜と鄭冑、將軍の孫怡を遼東にゆかせる。曹魏の守将である、張持や高慮らを撃つ。呉軍は、男女の捕虜を獲得した。


羊衜は『魏志』公孫淵伝にひく『漢晋春秋』にある。『呉志』孫覇伝にもある。
康発祥はいう。羊衜には列伝がなく、孫登伝、鍾離牧伝などにある。盧弼は補う。孫登伝にひく『呉録』『呉書』『江表伝』、鍾離牧伝にひく『会稽典録』にある。同時期に、2人の羊衜がいる。始興太守する孫呉の羊衜、上党太守する曹魏の羊衜である。曹魏の羊衜は、司馬師の舅である。羊衜は、羊祜と景献羊皇后の父となる。羊衜の妻、すなわち皇后の母にあたるのは、後漢の左中郎将の蔡邕の娘である。
『通鑑』はいう。夏4月、孫呉の督軍使者である羊衜が、遼東の守将を撃つ。人民を捕らえて去った。督軍使者は、漢官である。曹魏の黄初2年、督軍の官をやめた。だが孫呉は、漢官がのこる。
裴注『文士伝』で鄭冑の列伝が始まる。はぶく。ここに鄭冑の列伝がありますよ!『呉志』に立伝するほどでもないから、本紀に裴注で記載されていますよ!という、復元ポイントだけをここに作成する。鄭冑伝がある。これだけ鄭冑伝と書きまくれば、検索したらヒットするだろう。


零陵言、甘露降。夏五月、城沙羡。

零陵から「甘露が降った」と報告あり。

『宋書』符瑞志は、赤烏元年の春に甘露という。誤り。

夏5月、沙羡に築城した。

趙一清はいう。沙羨とは江夏である。黄武2年に築城して、いまふたたび築城した。『晋書』五行志はいう。赤烏2年5月、また地震あり。これを呂壱が専事したせいというが、呂壱は前年に死んでいる。呂壱のせいでない。


冬十月將軍蔣祕、南討夷賊。祕所領都督廖式、殺臨賀太守嚴綱等、自稱平南將軍、與弟潛、共攻零陵、桂陽。及搖動交州、蒼梧、鬱林諸郡。衆數萬人。遣將軍呂岱、唐咨、討之。歲餘、皆破。

冬10月、將軍の蔣祕が、南して夷賊を討つ。蒋秘が領するのは、都督の廖式である。廖式がそむき、臨賀太守の嚴綱らを殺して、平南將軍を自称した。廖式は、弟の廖潛とともに、零陵と桂陽を攻めた。

『郡国志』はいう。交州の蒼梧郡にある臨賀である。『晋書』地理志はいう。孫権は、蒼梧郡を分けて、臨賀郡をつくった。臨賀郡は広州に属した。
零陵の治所は泉陵である。桂陽の治所は林βである。『蜀志』先主伝の建安13年にある。

交州、蒼梧、鬱林の諸郡を、搖動させた。反乱軍は数万人となる。孫権は、將軍の呂岱や唐咨をつかわす。1年余で、みな破った。

蒼梧の郡治は、広信である。交州の州治でもある。『魏志』陶謙伝にある。『郡国志』はいう。交州の鬱林は、郡治が布山である。
この戦闘の詳細は、呂岱伝にある。


赤烏3年、農桑期の役事をやめさせる

三年春正月、詔曰「蓋、君非民不立、民非穀不生。頃者以來、民多征役、歲又水旱、年穀有損、而吏或不良、侵奪民時、以致饑困。自今以來、督軍郡守其謹察非法、當農桑時以役事擾民者、舉正以聞」夏四月大赦、詔諸郡縣、治城郭、起譙樓、穿塹發渠、以備盜賊。冬十一月民饑、詔、開倉廩以賑貧窮。

赤烏3年(曹魏の正始元年)春正月、詔した。「君は民に立たされ、民は穀で生かされる。督軍や郡守は、農桑の時期に、民を役事に駆りだす者がいないように取り締まれ」と。夏4月、大赦した。郡県に詔して、城郭を修繕させ、譙樓を起て、塹を穿ち、渠を發し、盗賊に備えさせた。
冬11月、民が饑えた。詔して、倉廩を開いて貧窮に賑した。

裴注はなく、盧弼もとくに注釈せず。曹魏では


赤烏4年、殷礼による天下平定の戦略

四年春正月大雪、平地深三尺、鳥獸死者大半。夏四月遣衞將軍全琮、略淮南、決芍陂、燒安城邸閣、收其人民。威北將軍諸葛恪、攻六安。琮、與魏將王淩、戰于芍陂。中郎將秦晃等、十餘人戰死。車騎將軍朱然、圍樊、大將軍諸葛瑾、取柤中。

赤烏4年春正月、大雪がふり、平地でも3尺つもる。鳥獸の大半が死んだ。

侯康はいう。『晋書』五行志下はいう。この年の夏、全琮ら4将軍が、淮南と襄陽を攻略して、1千余人が戦死した。孫権は敗戦に怒って、しばしば陸遜を責めたから、陸遜が死んだ。
ぼくは思う。二宮の件で死んだわけじゃないのかなあ。まあ「二宮の件で諫言が聞き届けられなくて、憤死する」というストーリーは、冷静になると、いまいちワケが分からない。敗戦で消沈したほうが死因として納得できる。

夏4月、衞將軍の全琮が、淮南を攻略し、芍陂を決壊させ、安城の邸閣を焼き、住民をつかまえる。威北將軍の諸葛恪が六安を攻める。全琮と、曹魏の王淩が芍陂で戦う。中郎將の秦晃ら、10余人が戦死した。

芍陂は、『魏志』武帝紀の建安14年に詳しい。
安城は寿春のそばにある。『魏志』王基伝にある。邸閣も王基伝にある。
洪飴孫はいう。威北将軍は定員1名。孫呉がおく。六安は呉主伝の嘉禾2年に。

車騎將軍の朱然が、樊城をかこむ。大將軍の諸葛瑾が、柤中をとる。

柤中は襄陽から150里にある。『魏志』斉王紀の正始2年にある。


漢晉春秋曰。零陵太守殷禮言於權曰「今天棄曹氏、喪誅累見、虎爭之際而幼童蒞事。陛下身自御戎、取亂侮亡、宜滌荊、揚之地、舉彊羸之數、使彊者執戟、羸者轉運、西命益州軍于隴右、授諸葛瑾、朱然大衆、指事襄陽、陸遜、朱桓別征壽春、大駕入淮陽、歷青、徐。襄陽、壽春困於受敵、長安以西務對蜀軍、許、洛之衆勢必分離。掎角瓦解、民必內應、將帥對向、或失便宜。一軍敗績、則三軍離心、便當秣馬脂車、陵蹈城邑、乘勝逐北、以定華夏。若不悉軍動衆、循前輕舉、則不足大用、易於屢退。民疲威消、時往力竭、非出兵之策也。」權弗能用之。

『漢晋春秋』はいう。零陵太守の殷礼が孫権にいう。

張温伝が載せる、孫権が張温を罪とする令において、殷禮が出てくる。顧邵では、雲陽の殷禮が出てくる。「禮」と「礼」は伝写のとき混同される。
ぼくは思う。これはインターネットのサイトなので、できるだけ「表示されやすい文字」を選んでいるつもりです。あくまで主観的に。画面でちょっと汚かったり、ATOKに機種依存だよと言われると、置換できないか考えてしまう。どうせぼくは、正字体を知らないので、開き直っています。

殷礼「いま天は曹氏を棄てた。曹魏の皇帝は天誅を受けた。群臣が競って、皇帝は幼い。西の益州から蜀漢を隴右へ進軍させ、諸葛瑾と朱然が襄陽をめざし、陸遜と朱桓が寿春をせめて、孫権の大駕は淮陽に入れ。

胡三省はいう。前漢の淮陽は、後漢の章帝のとき、陳郡に改められた。淮水の北という意味である。盧弼はいう。淮陽は呉主伝の嘉禾5年にある。
ぼくは思う。なき袁術サマが活躍したあたりです。殷礼によると孫権は、けっきょく袁術のルートを通って、天下の中心たる洛陽に行きたかったのだ。まあ孫権が袁術を模したというより、地形が然らしめるのだろうが。地形や言語は、ひとの思考を規定するから、あなどれない!自由な独創性なんて、ないからw

孫権は青州と徐州を通過せよ。襄陽と寿春は孫呉に攻撃され、長安は蜀漢に攻撃される。許昌や洛陽は分離する。中華をさだめろ」と。孫権は用う能わず。

ぼくは思う。孫権の軍事行動は、これに基づいたものだろう。殷礼ほど、未来を予測していなかったかも知れないが、ともあれ殷礼の言った、第一歩だった。蜀漢との連携は史料にないけど。孫権が判断して却下したのでなく、この戦略どおり進捗しなかっただけじゃないか。つまり、この進軍を止めた司馬懿は、諸葛亮の五丈原のときと同じくらい、防衛の功績がおおきいなあ!次に書いてある。


五月、太子登卒。是月、魏太傅司馬宣王、救樊。六月、軍還。閏月、大將軍瑾卒。秋八月陸遜、城邾。

5月、太子の孫登が卒した。この月、曹魏の太傅の司馬懿が樊城を救う。

ぼくは思う。司馬懿は「宣王」と書かれる。この規則を忘れると、前漢の宣帝?は?と、戸惑う。とくに仕事場で、漢文を盗み見ているとき、規則を忘れてしまって、は?は?と思うことがある。なぜ陳寿は、この調和を欠いた記述をしたか。もちろん晋氏を尊んで、歴史家の筆法を踏まえただけだろうが。事実に関する記述において、1人の官僚として完璧に溶けこんでいるのに、記述の方法だけは尊びまくる。尊ぶふりをして、逆に「司馬氏は簒奪したなあ。尊貴さは自明でないなあ」と気づかせる。読者が、いきなりの「宣王」にびっくりするたび、「ほらほら晋氏は悪いよね」と言外に伝える。
ぼくが思うに、これは陳寿が意識していなくても、歴史家の筆法による、制度的で全体的な悪巧みかも知れない。読者をつんのめらせ、そのたびに司馬氏が皇帝となることの法外さや意外さを、読者に確認させる。

6月、呉軍は樊城からひく。閏月、大將軍の諸葛瑾が卒した。秋8月、陸遜が邾に築城した。

『郡国志』はいう。荊州の江夏の邾県である。戦国楚の宣王が、邾国を滅ぼした。項羽は吳芮を衡山王として、邾県に都させた。『寰宇記』はいう。邾県は、はじめ曹魏に属したが、赤烏3年に陸遜が攻めとり、陸遜が3万で邾県を守った。
呉増僅はいう。はじめ邾県は、魏呉の境界にあった。赤烏4年に陸遜が築城してから、孫呉の領地となった。防御のための重鎮となった。
趙一清はいう。陸遜伝に載らない。『晋書』陶侃伝では、議者が「武昌の北岸に邾城があるから、兵を分けて守れ」という。陶侃は「長江の北に隔てられ、孫呉が3万で守った」という。
王先謙はいう。孫呉は邾県をキ春郡と改めた。『宋書』はいう。晋代にキ春郡は省かれ、邾県は武昌に合わされた。


赤烏5年、12年ごしで孫覇を魯王とする

五年春正月立子和、爲太子、大赦。改禾興、爲嘉興。百官奏、立皇后及四王。詔曰「今天下未定、民物勞瘁、且有功者或未錄、饑寒者尚未恤。猥割土壤以豐子弟、崇爵位以寵妃妾、孤甚不取。其釋此議」三月海鹽縣言、黃龍見。夏四月、禁進獻御、減太官膳。秋七月遣將軍聶友、校尉陸凱、以兵三萬、討珠崖、儋耳。是歲大疫、有司又奏、立后及諸王。八月立子霸、爲魯王。

赤烏5年春正月、孫和を太子に立て、大赦した。禾興を嘉興と改めた。

禾興は呉主伝の黄龍3年にある。

百官は「皇后と四王を立てろ」という。孫権は詔した。「天下が定まらない。まだ功績ある者を賞さず、飢えて寒い民に施していない。孫氏の子弟に土地をさき、妃妾に爵位をあげるのは順序がちがう」と。

趙一清はいう。『晋書』地理志はいう。孫権は赤烏5年、自国を「中州」とよび、諸王を封建した。孫呉の戸数は523千戸、男女240万口。
梁商鉅は『芸文類集』巻51封爵部にひく胡綜『請立諸王表』がある。はぶく。胡綜の文中に「12年たつのに諸王が封じられない」とある。孫権が黄龍元年に即位してから、12年である。つまりこの赤烏5年、胡綜が諸王を立てろと請うたが、孫権が断ったので、百官が諸王を立てろと言い、後者が呉主伝に記された。

3月、海鹽縣から「黄龍が現れた」と報告あり。

『漢書』地理志はいう。会稽郡の海塩県である。もと武原郷である。『郡国志』はいう。揚州の呉郡に属する県である。劉昭は注する。後漢の順帝のとき、県城が当湖(鸚鵡湖、東湖とも)に沈んだ。引き潮のとき、もと県城があったことが分かる。『水経』沔水注ははぶく。上海古籍2964頁。

夏4月、獻御を進ずることを禁じた。太官の膳を減じた。

『続百官志』はいう。太官令は1名。6百石。皇帝の御飲食を掌する。

秋7月、將軍の聶友、校尉の陸凱が、兵3万をひきい、珠崖と儋耳をうつ。

『漢書』武帝紀、地理志から、南方の地理について書いてある。諸説をひき、盧弼が「すべて均しく誤りである」という、どうしようもなさ。上海古籍2964頁。
陸凱伝で、陸凱は儋耳太守となる。けだし陸凱が珠崖郡を撃つから、儋耳太守という虚名を領したのだろう。

この歳、大疫あり。ふたたび有司が「皇后と諸王を立てろ」と奏した。

ぼくは思う。孫権は皇帝なのに、12年間も皇后と諸王を建てない。郊祀をやらず、廟をたてず、親の喪を軽んじる。どこまで漢代にイメージされる「皇帝」事業をやろうとしたのか、怪しいものだ。というか陳寿は孫権に本紀を立てないが、まさにそれで良いのでは。皇帝の要件なんて、あってないようなものだ。皇帝を自称したら皇帝というなら、確かに皇帝だが、、たまたま3世代続いたという以外に、とくに正統性が見当たらない。要件が動的に作り出されるべきものなら(というか、そうだよね)孫権は漢代からの定義をゆさぶる、驚異的な勢力である。儒教の常識をもつ批評家になって、孫権を糾弾するのはカンタンだが、それじゃあ意味がない。

8月、孫覇を魯王とした。

盧弼はいう。孫覇は孫和の弟であり、孫和と同じくらい寵愛された。是儀が諫めたが、孫権は従わず。是儀伝を見よ。
ぼくは思う。 これだけ立王をしぶった、つまり孫覇を厚遇することを延期したのに、なんで二宮に到るかなあ!というか孫権は「太子はこういうもの、諸王はこういうもの」という概念を持ってなかったか。太子は自分の後任だとしても、諸王の政策やビジョンがなかった。前漢、後漢、曹魏という前例があるが、選ぼうとしてない。 中央に置くか、地方に置くか。郡を与えるか、県を与えるか。官職に就けるか、あそばせるか。など。


赤烏6年、諸葛恪が司馬懿に敗れ、皖城を棄てる

六年春正月、新都言白虎見。諸葛恪、征六安、破魏將謝順營、收其民人。冬十一月丞相顧雍、卒。十二月扶南王范旃、遣使獻樂人及方物。是歲、司馬宣王、率軍入舒。諸葛恪、自皖、遷于柴桑。

赤烏6年春正月、新都が「白虎がいた」と報告した。

新都の郡治は始新である。建安13年にある。

諸葛恪は六安を征め、魏將の謝順の軍営をやぶり、民人を捕らえる。

六安は孫堅伝にある。胡三省はいう。前漢の六安国である。都は六県である。後漢は六安侯国となり、廬江郡に属した。晋代に六県となり、廬江郡に属した。
謝順って誰ですか。盧弼さんは注釈しない。

冬11月、丞相の顧雍が卒した。
12月、扶南王の范旃が、樂人と方物を献じた。

扶南について盧弼が注釈する。上海古籍2965頁。

この歲、司馬懿が軍をひきい、舒城に入る。諸葛恪が皖城より、柴桑にうつる。

漢末、廬江の郡治は舒県である。孫堅伝にある。胡三省はいう。舒城は、春秋の国だった。魏呉の境界にあるから、棄てられて耕作されない。皖城から近かった。
孫呉の廬江郡は、皖城を郡治とする。孫堅伝にある。柴桑は、黄初2年にある。
『晋書』宣帝紀はいう。正始4年9月、司馬懿は諸軍を督して、諸葛恪の軍を撃ち、舒県にゆく。諸葛恪は積聚を焼いて、城を棄てて遁げた。『呉志』諸葛恪伝はいう。司馬懿が諸葛恪を攻めようとした。望気者が「諸葛恪が不利だ」というから、皖城を棄てて柴桑に移った。
ぼくは思う。望気者は、司馬懿が皇帝を贈られることが見えたのかなー。
盧弼はいう。諸葛恪は安慶にいたが、九江に退いた。望気者の話は、敗戦を諱み、言葉を飾ったものだ。
ぼくは思う。諸葛恪の軍事キャリアは、丹陽の山越を平定したあと、孫権の存命中に、きちんと曹魏と戦っている。孫権の死後に、かってに暴走したのでない。


赤烏7年、歩隲と朱然が、蒋琬の消極を咎める

七年春正月、以上大將軍陸遜、爲丞相。秋、宛陵言嘉禾生。

赤烏7年春正月、上大將軍の陸遜を、丞相とした。秋、宛陵から「嘉禾が生えた」と報告あり。

ぼくは思う。陸遜は、顧雍の後任で丞相となった。


是歲、步騭、朱然等、各上疏云「自蜀還者咸言、欲背盟與魏交通、多作舟船、繕治城郭。又、蔣琬、守漢中、聞司馬懿南向、不出兵乘虛以掎角之、反委漢中、還近成都。事已彰灼、無所復疑。宜爲之備」權、揆其不然、曰「吾待蜀不薄、聘享盟誓、無所負之。何以致此。又司馬懿前來入舒、旬日便退。蜀在萬里、何知緩急而便出兵乎。昔、魏欲入漢川、此閒始嚴、亦未舉動、會聞魏還而止。蜀寧可復以此有疑邪。又、人家治國、舟船城郭、何得不護。今、此閒治軍、寧復欲以禦蜀邪。人言、苦不可信。朕爲諸君、破家保之」蜀竟自無謀、如權所籌。

この歳、歩隲と朱然らが、おのおの上疏した。「蜀漢から還った者は、魏蜀が交通するという。蜀漢は船をつくり、城郭をなおす。

ぼくは思う。蜀漢が滅亡したのち、益州で王濬が船をつくり、孫呉を平定した。「蜀漢と同盟せねば、孫呉は上流を取られる」は、すでに常識であり、現実的な脅威だろう。孫呉の皇帝即位が、蜀漢との同盟が前提であったことも理解できる。同盟は信じがたくても、諸葛亮がいる限り、彼が曹操と劉備の対立を持ち越すので、呉蜀の同盟はあり得ない。だから孫呉は、益州が敵にならないことを信じられた。

蒋琬は漢中にいる。前年に司馬懿が南下した(諸葛恪が破られた)が、蜀漢は隴右を攻めなかった。蒋琬は漢中を捨てて、成都に戻ったほどだ。信用できない。蜀漢に対する防備をすべきだ」と。

ぼくは思う。諸葛亮のとき「孫権は動きが悪いなあ!もっと早く動けよ!もっと粘れよ!」と思った読者が多いような気がする。しかし現在、諸葛亮期の裏返しが起きている。主語と目的語を隠したら、みんな蜀漢による発言だと思うだろう。

孫権は反論した。「蜀漢とは盟誓したのだ。司馬懿は舒県に入ったが、旬日で退いた。蜀漢は遠いから、すぐに隴西に出兵できない。むかし(太和四年に曹真が)漢川に入ろうとしたとき、わが孫呉が動く前に、曹魏が退いた。蜀漢の造船と修城に、他意はない。」と。ついに蜀漢には、孫呉を攻める意図がなかった。

ぼくは思う。孫権がこれを分かっているなら、呉蜀の連携した北伐が、虚構だと諒解された上で、呉蜀の同盟があることが分かる。インターネットで意思疎通ができる現代とは違って、三国時代は媒介物が多すぎて、ねっとりとしか情勢が動かせないことが、楽しいのだ。脳内で組み立てた正統論もぼちぼちで、それより地形に制約された戦略のほうがリヤルである。


江表傳載權詔曰「督將亡叛而殺其妻子、是使妻去夫、子棄父、甚傷義教、自今勿殺也。」

『江表伝』は孫権の詔を載せる。督将が、死んだり叛いたりすると、その妻子を殺す規則だった。この規則のせいで、督将の妻は去り、子は父を棄てる。だから妻子を殺す規則をやめろと。

ぼくは思う。どうしてこんな規則を作ったのか。この規則がないと、督将は前線に留まらず、敵国に降っちゃうのだろうか。「死んでもダメ」って、厳しい規則だ。生死は制御できないから、「それほど強烈な禁制やねんぞ」という念押しだろうか。
ぼくは思う。孫権は大人しいイメージがあるが、こんな禁令を設けるなどして、戦争をがんばってる。この数年、遼東に手を出し、交州を攻めて扶南に通じる。諸葛亮と公孫淵の死後、正始の変までの司馬懿は、ふつうに孫呉の対策に忙殺されていた。イメージ変わるなあ!孫権の戦歴をちゃんと年表にして、いま呉主伝を読んで抱いた印象を、他人に伝わるようにアレンジしなければ。孫権は、思考においてムチャをやり、軍事において外征をくり返す。きちんと「皇帝」事業をやってるよ。誰だよ、孫権が守成型、内政型みたいなイメージを広めたのは。ぼくが自爆と自縛により、孫権のイメージを枯らせただけ?
ぼくは思う。曹爽が内政、司馬懿が外鎮。いい棲み分けじゃん!というか、正始の変は、司馬懿が(わざわざ)洛陽にいないと起こらない。起こる必要がない。孫権が大人しくなり、司馬懿が中央に戻されるか。司馬師が洛陽でがんばってしまい、司馬懿を巻きこむか。などの要因がないと、司馬懿は外鎮の名将として、一貫性のある生涯を終えたのだろう。孫呉の方面では、たとえば鄧艾を使役して、孫呉を防ぎつづけ、寿命を迎える。


赤烏8年、陸遜が死に、陳勲が土木工事

八年春二月丞相陸遜、卒。夏、雷霆犯宮門柱、又擊南津大橋楹。茶陵縣、鴻水溢出、流漂居民二百餘家。秋七月將軍馬茂等、圖逆。夷三族。

赤烏8年春2月、丞相の陸遜が卒した。

陸遜伝はいう。陸遜は「魯王の孫覇は藩臣である」と主張したが、孫権が聴かない。孫権は中使をやって、陸遜を攻めた。陸遜は卒した。
ぼくは思う。荊州方面で曹魏を攻めたが、失敗したから、陸遜は失意だった。つまり、陸遜を殺したのは司馬懿である。老年になり、敗戦すると、がっかりして死ぬのは、曹仁や曹休があった。同じであろう。「司馬懿に敗れて失意になった」と「孫権が諫言を無視って失意になった」は、どちらが孫呉として名誉なのか、記録者として望ましいのか。これは価値観が分かれるなあ!ともあれぼくは「孫権は老害だ」という、個人のキャラで何でも片づけることに同意しないから、「司馬懿に敗れて失意になった」を支持します。
ぼくは思う。ツイッター用にまとめました。司馬懿は堅守することで、諸葛亮だけでなく、諸葛瑾と陸遜も「間接的に殺害」した。赤烏4年裴注で殷礼が揚荊益からの3面作戦を主張。朱然と諸葛瑾が荊州を進軍。司馬懿が樊城を防衛。閏6月、諸葛瑾が死んだ。8月、陸遜が邾城を築城して司馬懿に備える。赤烏6年、司馬懿が諸葛恪に皖城を放棄させる。赤烏8年2月、陸遜が死んだ。荊州を司馬懿が固めて、諸葛瑾と陸遜を失意に追いこんだのだろう。諸葛亮の連年の北伐を止めて、諸葛亮を疲弊させたのと同じタイムテーブル。

夏、雷霆が宮門の柱を犯した。また南津にある大橋(建業の朱雀門の南)の楹を撃った。長沙の茶陵縣で、鴻水があふれ、2百余家の民家を流した。
秋7月、將軍の馬茂らが反逆を図った。夷三族された。

吳歷曰。茂本淮南鍾離長、而爲王淩所失、叛歸吳、吳以爲征西將軍、九江太守、外部督、封侯、領千兵。權數出苑中、與公卿諸將射。茂與兼符節令朱貞、無難督虞欽、牙門將朱志等合計、伺權在苑中、公卿諸將在門未入、令貞持節稱詔、悉收縛之。茂引兵入苑擊權、分據宮中及石頭塢、遣人報魏。事覺、皆族之。

『呉歴』はいう。もとは馬茂は、淮南郡の鍾離の県長だった。

『郡国志』はいう。九江郡の鍾離は、侯国だ。『宋書』はいう。晋武帝の太康2年、ふたたび鍾離県が立てられた。つまり鍾離県は、三国期には廃されていた。洪亮吉はいう。『呉歴』によると、鍾離県は曹魏の中葉に廃されたのだろう。
趙一清はいう。『宋書』州郡志は、淮南太守の記事がある。
淮南太守,秦立為九江郡,兼得廬江豫章。漢高帝四年,更名淮南國,分立豫章郡,文帝又分為廬江郡。武帝元狩元年,複為九江郡,治壽春縣。後漢徙治陰陵縣。魏複曰淮南,徙治壽春。晉武帝太康元年,複立曆陽別見、當塗、逡道諸縣,二年,複立鐘離縣別見,並二漢舊縣也。三國時,江淮為戰爭之地,其間不居者各數百里,此諸縣並在江北淮南,虛其地,無複民戶。吳平,民各還本,故複立焉。あー楽しい!
盧弼はいう。九江とは淮南である。曹魏はすでに淮南を領有するから、孫呉は九江の名をつかった。『晋書』には淮南郡があるが、九江郡がない。

馬茂は王淩と対立して、孫呉に帰した。孫呉は馬房を、征西將軍、九江太守、外部督、封侯として、兵1千を領させた。

洪飴孫はいう。孫呉は長江に接した要地に、都督を置いた。権限の軽い者は「督」といった。盧弼はいう。無難督があとで出てくる。ぼくは思う。馬茂は孫呉に帰して、官爵が上がった。これはつかえる!忘れないでね。

馬茂は、符節令の朱貞、無難督の虞欽、牙門將の朱志とともに、孫権を殺して石頭塢にこもり、曹魏に連絡する計画をした。バレて族殺された。

八月大赦。遣校尉陳勳、將屯田及作士三萬人、鑿句容中道。自小其、至雲陽西城、通會巿、作邸閣。

8月、大赦した。校尉の陳勲に、屯田と作士3萬人をひきい、句容の中道を鑿たせた。陳勲は、小其から雲陽の西城まで、通じて市を会させ、邸閣をつくった。

『郡国志』はいう。丹陽郡の句容である。雲陽は曲阿であり、など地名の解説がある。上海古籍2968頁。『建康実録』赤烏8年は、校尉の陳勲による工事内容をくわしく書く。これを見るべきだなあ!はぶく。


赤烏9年、

九年春二月車騎將軍朱然、征魏柤中、斬獲千餘。夏四月武昌言、甘露降。秋九月、以驃騎步騭爲丞相、車騎朱然爲左大司馬、衞將軍全琮爲右大司馬、鎭南呂岱爲上大將軍、威北將軍諸葛恪爲大將軍。

赤烏9年春2月、車騎將軍の朱然は、曹魏の柤中を征して、1千餘を斬獲した。

柤中は襄陽から150里はなれる。『魏志』斉王紀の正始2年にある。

夏4月、武昌から「甘露が降った」と報告あり。
秋9月、驃騎将軍の步騭が丞相となる。車騎将軍の朱然が左大司馬となる。衞將軍の全琮が右大司馬となる。鎭南将軍の呂岱が上大將軍となる。威北將軍の諸葛恪が大將軍となる。

銭大昭はいう。この呉主伝は列伝だが、本紀のように他人に言及した。形式が整わない。呉主伝は「将軍」の2字をはぶく。三嗣主伝の太平元年、永安7年も「将軍」の2字をぬかす。盧弼はいう。『通鑑』では2字が補われる。
ぼくは思う。将軍の2字は、つけ足して抄訳しておいた。
呂岱伝はいう。孫権は武昌郡を2部に分けた。呂岱が右部を督し、武昌から遡って蒲キンまで。上大将軍に遷ったと。『通鑑』はいう。孫権は荊州を2部とした。呂岱を右部、諸葛恪を左部とした。諸葛恪は陸遜に代わり武昌に鎮した。趙一清はいう。『方輿紀要』巻76はいう。赤烏9年、武昌を2部に分けた。武昌から蒲キンまでを右部として、はじめて蒲キン県をおく。湖畔にカバが多いから、この名になった。
ぼくは思う。陸遜の死を受けて再編したのだ。陸遜の荊州の権限を2つに分けて、呂岱と諸葛恪で分けあった。なるほどー、おもしろいなあ!荊州の担当者は、三国読者の言うところの「大都督」周瑜、魯粛、呂蒙の後継者である。いま呂岱と諸葛恪がこれに列した。


江表傳曰。是歲、權詔曰「謝宏往日陳鑄大錢、云以廣貨、故聽之。今聞民意不以爲便、其省息之、鑄爲器物、官勿復出也。私家有者、敕以輸藏、計畀其直、勿有所枉也。」

『江表伝』はいう。この歳、孫権は詔した。「謝宏が流通しますというから、大銭をつくった。だが民意は、大銭が不便だという。大銭をやめて器物に鋳造しなおせ。大銭を私蔵する者には、等価の貨幣と交換させ、大銭を回収せよ」と。

ぼくは思う。校事の呂壱のあたりから、孫権の「皇帝という病」が寛解している。このまま二宮に、どのように突入するのか、それを楽しみに待ちましょう。空虚な威信を競うのでなく、実態に合わせた政策が増えてきた。つまらないなー。


赤烏10年、孫権が武昌の建材で、太初宮を改築

十年春正月、右大司馬全琮、卒。

赤烏10年春正月、右大司馬の全琮が卒した。

『呉志』全琮伝では、全琮は赤烏12年に死ぬ。どちらが正解か、盧弼には分からない。ぼくは思う。赤烏11年と12年に、全琮が活躍した記事がないから、判断できぬのだろう。


江表傳曰。是歲權遣諸葛壹偽叛以誘諸葛誕、誕以步騎一萬迎壹於高山。權出涂中、遂至高山、潛軍以待之。誕覺而退。

『江表伝』はいう。この歳、孫権は諸葛壹をいつわって孫呉に叛かせ、曹魏の諸葛誕を誘った。諸葛誕は歩騎1万をつれて高山にくる。孫権は涂中に出て、ついに高山に到る。兵をふせて諸葛誕を待った。諸葛誕は伏兵に気づいて退いた。

呉増僅はいう。高山の場所は分からないが、東城のそばか。謝鍾英はいう。高山は、盱眙と来安のあいだ。
盧弼はいう。塗中は、あとで赤烏13年の塗塘への注釈に出てくる。塗水には、六合県の瓦梁堰があり、『魏志』王淩伝にある。このとい魏呉の兵は、六合やジョ州のあいだにいた。謝鍾英のいう盱眙と来安のあいだまで、孫呉は進出していない。
ぼくは思う。王淩が死んだので、孫呉との国境を守るのは、諸葛誕に代わったのね。『呉志』を読んでいると、孫呉がわりと真剣に、中原に出る機会を伺っていたと思えてくる。呉主伝が本紀っぽい体裁だからか、現実にそうだからか。おそらく両方なのだ。


二月權、適南宮。三月改作太初宮、諸將及州郡皆義作。

2月、孫権は南宮にゆく。3月、太初宮を改築した。諸將と州郡は、みな義作(改築の手伝い)をした。

趙一清はいう。『方輿紀要』巻20はいう。南宮は、秦淮の上にある。孫呉の太子宮である。孫権が建業に遷都すると、武昌宮の建材をつかい、太初宮を修繕した。正殿を神龍という。中門を公車という、など名称がついた。上海古籍2971頁。左思『呉都賦』にも謳われる。はぶく。


江表傳載權詔曰「建業宮乃朕從京來所作將軍府寺耳、材柱率細、皆以腐朽、常恐損壞。今未復西、可徙武昌宮材瓦、更繕治之。」有司奏言曰「武昌宮已二十八歲、恐不堪用、宜下所在通更伐致。」權曰「大禹以卑宮爲美、今軍事未已、所在多賦、若更通伐、妨損農桑。徙武昌材瓦、自可用也。」

『江表伝』は孫権の詔を載せる。「建業宮は、私が京城(丹徒の県治)から来たとき作った、将軍府の役所である。もう私は建業に留まり、京城にもどらない。武昌の建材を運び、建業宮を修繕せよ」と。有司「武昌宮は、築28年である。恐らく建材はもう使えない」と。孫権「大禹は宮殿を卑しくして、美徳とされた。いま軍事がおおく、賦役がおおい。農桑を妨げぬように、武昌の建材を使いまわせ」と。

ぼくは思う。車騎将軍の府かなあ。
胡三省はいう。献帝の建安24年、孫権は武昌に都した。これまで28年である。朱邦衡はいう。孫権は黄武元年の1年前、公安から鄂県に都した。だから27年しか立たない。1年誤りである。ぼくは思う。朱邦衡のように、どうでも良い細かいことを、つっこむヤツって、いますよね。
或る者はいう。孫権は老いて遠志がないが、宮殿を節約した。ちょっとだけイイネ!


夏五月丞相步騭、卒。冬十月、赦死罪。

夏5月、丞相の步騭が卒した。冬10月、死罪を赦した。

『呉志』歩隲伝で、歩隲は赤烏11年に卒する。


赤烏11年、

十一年春正月、朱然、城江陵。二月、地仍震。

江表傳載權詔曰「朕以寡德、過奉先祀、蒞事不聰、獲譴靈祇、夙夜祗戒、若不終日。羣僚其各厲精、思朕過失、勿有所諱。」

赤烏11年春正月、朱然が江陵に築城した。2月、地震あり。

趙一清はいう。『晋書』五行志はいう。2月、江東で地震あり。このとき孫権は讒言をきき、朱虚を出して、廃太子をした。『晋書』天文志はいう。虹が日を貫いた。孫権は詔して、戒め懼れた。

『江表伝』は孫権の詔を載せる。「私は徳が少ないが、分限を過ぎて、天子の祭祀をやった。群僚ははげみ、私の過失にコメントをくれ」と。

ぼくは思う。天子がみずから「徳が少ないのに」というのは、定型句だろうか。後漢の盛時にも、この種類の謙遜がたくさん出ているのか、チェックせねば。


三月宮成。夏四月雨雹。雲陽言黃龍見。五月鄱陽言、白虎仁。詔曰「古者、聖王積行累善、脩身行道、以有天下。故、符瑞應之、所以表德也。朕以不明、何以臻茲。書云、雖休勿休。公卿百司、其勉脩所職、以匡不逮。」

3月、太初宮が完成した。夏4月、雹がふる。雲陽で「黃龍がいた」と報告あり。5月、で鄱陽「白虎仁がいた」と報告あり。

鄱陽は呉主伝の建安8年。「白虎仁」って何やねん、という検討がある。仁は衍字でなく、裴注『瑞応図』に瑞祥として説明される。瑞應圖曰。白虎仁者、王者不暴虐、則仁虎不害也。王者が暴虐しないと、危害をくわえない仁虎が出るんだとか。ふーん。

孫権は詔した。「聖王が善行すると、符瑞が応じた。だが私はバカである。『書経』呂刑にも、瑞祥があっても自分のおかげと思うなという一文がある。みな励もうね」と。

ぼくは思う。パラドキシカル!孫権が「皇帝という病」にかかり、外征や蕩尽をやると、皇帝としての仁徳が損なわれる。皇帝として威信を見せびらかさないと、仁徳だなあと符瑞がくる。しかし威信を示さないと、威信が膨らまない。追えば遠ざかり、追わねば少し近づく。手を伸ばして追いたくなるが、追えばさらに遠ざかる。皇帝としての威信は、ラカンのいう、対象aみたいだ。孫権は「いかにも興味がありません」という態度を装って、じつは興味がないはずがないのにね、皇帝の威信というものを欲望しなければならない。皇帝としての威信とは、欲望の対象でなく、欲望の原因なのだろう。
ぼくは思う。呉主伝を読むと「皇帝という病」がいかなる症例か分かってくる。「という病」で検索したら、いわゆる医学の対象でない病を診断した書名等として、私、意味、親子、健康、母、株式会社、女、愛、経済成長、ブロガー、中二、30女、韓国、などが出てきた。みんな「という病」を道具にした分析が大好き!


赤烏12年、2鳥がカササギをくわえ落下

十二年春三月左大司馬朱然、卒。四月、有兩烏、銜鵲、墮東館。丙寅、驃騎將軍朱據領丞相、燎鵲以祭。

赤烏12年(曹魏の嘉平元年)春3月、左大司馬の朱然が卒した。
4月、2羽の烏が鵲(カササギ)をくわえ、東館に墮ちた。4月丙寅、驃騎將軍の朱據が丞相を領して、その鵲を燎して祭った。

梁商鉅はいう。『晋書』五行志中はいう。このとき孫権は意気があふれたが、徳義は衰えた。讒言を信じて殺し、2子を危うくする。カササギを怪しまず燃やした。翌年に孫和が太子を廃され、魯王の孫覇が死ぬ。朱拠が左遷され、陸議は憂卒した。カササギはこれらに応じて現れた。


吳錄曰。六月戊戌、寶鼎出臨平湖。八月癸丑、白鳩見於章安。

『呉録』はいう。6月戊戌、寶鼎が臨平湖から出た。8月癸丑、白鳩が章安にいた。

洪亮吉はいう。塩官県に、臨平湖がある。『呉録』はいう。臨平湖は、漢末に草やゴミで埋もれた。孫呉の天璽元年、また湖が開いた。すぐに西晋に孫呉が平らげられた。謝鍾英はいう。孫皓伝の天璽元年、臨平湖が開いたとある。『水経』浙江など、はぶく。上海古籍2973頁。
章安は、呉主伝の黄武4年にある。趙一清はいう。『宋書』符瑞志はいう。宝鼎は東郡からも出た。孫権のとき、霊亀が会稽の章安から出た。


赤烏13年、火星が逆行し、二宮を始末する

十三年夏五月、日至、熒惑入南斗。秋七月、犯魁第二星而東。八月。丹楊、句容及故鄣、寧國諸山崩、鴻水溢。詔、原逋責、給貸種食。廢太子和、處故鄣。魯王霸賜死。

赤烏13年夏5月、日が至り(夏至のとき)、熒惑(火星)が南斗に入る。秋7月、熒惑(火星)が、魁の第二星を犯して、東に進んだ。

『魏志』王淩伝は、熒惑が南斗を守るとある。『宋書』天文志にある。趙一清が『晋書』天文志を見るに、熒惑が逆行し、3月に孫権が死んだ。熒惑の逆行は、主君の死を意味する。太元2年、孫権が薨じたのは、熒惑の逆行に応じたものだ。
ぼくは思う。惑星の逆行運動は、西洋の天文学者たちも説明にこまった。これを中国では、君主の死と同じだと思うのね。

8月、丹楊、句容、故鄣、寧國で、諸山が崩れた。鴻水が溢れた。孫権は詔して、税の未納をゆるし、種米や食糧を貸した。

これらの地名について、上海古籍2974頁。
趙一清はいう。『晋書』五行志では、山が崩れ、川が溢れたら、亡国の前兆だという。あと2年で孫権が死に、あと26年で孫呉は滅亡する。ぼくは思う。この2012年末のお正月休みのうちに、あと26年をやりきりたい。

太子の孫和を廃して、故鄣におく。魯王の孫霸に死を賜う。

孫和伝、孫覇伝を見よ。裴松之はいう。袁紹や劉表と同じだ。
ぼくは思う。もともと二宮を知りたくて、呉主伝を始めた。ツイッター上で、よく二宮が騒がれるから、どういう情勢なのかを知りたかった。「あの人の意見を知りたい」ではなく「あの人が知りたいものを知りたい」である。欲望は他人の欲望なのだ。ということは、アルファ三国志読者(死語たる「アルファブロガー」をもとに造語)になりたければ、ただ面白い発信をするだけではダメだ。「みなから面白いと思われている人だ」と認知されねば、自分の発信を誰かに面白がってもらうことができない。始原に遡ると、なんだか矛盾してる定義で、「この世にアルファ三国志読者はいない」という結論を導きそうだが、まあ細かいことはいいや。二宮、そのうちやります。
ぼくは思う。孫権が「漢代からの皇帝としての当為」「曹魏の規制を受けつつ、揚州で統治する現実」のあいだで、皇帝としての自己規定ができぬまま、迷走したような印象かなあ。大型免許がないのにトラックを運転して、そのトラックを大破させたような。


冬十月魏將文欽、偽叛以誘朱異。權、遣呂據、就異、以迎欽。異等持重、欽不敢進。十一月立子亮、爲太子。遣軍十萬、作堂邑涂塘、以淹北道。十二月魏大將軍王昶、圍南郡、荊州刺史王基、攻西陵。遣將軍戴烈、陸凱、往拒之、皆引還。

冬10月、魏將の文欽が、いつわって叛いて朱異を誘う。孫権は、呂拠をつかわし、朱異につけ、文欽を迎える。朱異は持重したので、文欽は敢えて進まず。

ぼくは補う。文欽の作戦は失敗したのでした。孫権がわざわざ使わした呂拠が、どれほど信頼がおける人物なのか、列伝から確かめたい。

11月、孫亮を太子とする。10万を使わし、堂邑の涂塘で、北道を淹った。

『郡国志』はいう。広陵の堂邑であり、もとは臨淮に属する。鉄を産出し、春秋期には堂国があった。胡三省はいう。堂邑は魏呉の境界なので、棄てられた。李賢はいう。堂邑とは、揚州の六合県である。杜佑はいう。曹魏は建業を窺い、孫権は老い、良将は死んだので、孫権は籠もって守るための道路をふさいだ。
『魏志』王淩伝はいう。嘉平3年冬、孫呉は塗水を塞いだ。など地形について、上海古籍2974頁。

12月、曹魏の大將軍の王昶が南郡をかこむ。荊州刺史の王基が西陵をせめる。將軍の戴烈と陸凱に拒ませ、魏軍をおい返す。

このとき王昶は征南将軍である。大将軍でない。『魏志』斉王紀と、王昶伝によって、征南将軍だと明らかである。
西陵とは夷陵である。宜都郡に属する。『魏志』文帝紀の黄初3年にある。
趙一清はいう。『晋書』戴若思伝はいう。戴若思は広陵の人である。祖父の戴烈は、孫呉の左将軍であった。
盧弼はいう。この戦役で、王昶は破られた。『魏志』斉王紀の嘉平2年の注釈と、王昶伝を見よ。


庾闡揚都賦注曰。烽火以炬置孤山頭、皆緣江相望、或百里、或五十、三十里、寇至則舉以相告、一夕可行萬里。孫權時合暮舉火於西陵、鼓三竟、達吳郡南沙。

庾闡『揚都賦』注はいう。烽火が、山頭に設置されていた。長江ぞいに、1百里などの間隔で設置される。孫権のとき、西陵で夕方に火をたけば、深夜には呉郡の南沙まで伝わった。

ぼくは思う。孫呉は長江沿いに横長だが、だいたい6時間で通信できた。すごいなあ!時間と地理により、人間の思考や活動は規制される。「孫呉の国土は6時間である」と表現して、いろいろ考えごとをするのも楽しそう。いま日本で東京と大阪は3時間弱であるなあとか。移動と通信は違うけど。
『晋書』文苑伝に、著者の庾闡の記述がある。
『宋書』州郡志はいう。晋陵太守と南沙令は、もとは孫呉の県である。司塩校尉の管轄であった。『隋書』地理志はいう。呉郡には常熟県がある。もとは南沙という。ぼくは思う。常熟には技術の会社ができて、Z調査で目を付けられたのだ。


是歲、神人授書、告以改年、立后。

この歲、神人が書を授け、改元と立后をせよという。121229

顧千里はいう。これはウソだ。事実を書けよ。事実でないなら、書いてはならない。
ぼくは思う。こういう神人による神託みたいなものこそ、「中国の史書に書くべき、史書的なリアリティ」だと思うんだけど。顧千里は、何を言っているんだろう。

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太元年間;孫権が死ぬまでの最期の2年

太元元年、神を羅陽王とし、南郊と孫堅を祭る

太元元年夏五月、立皇后潘氏、大赦、改年。初、臨海羅陽縣有神、自稱王表。周旋民閒、語言飲食與人無異、然不見其形。又有一婢、名紡績。是月、遣中書郎李崇、齎輔國將軍羅陽王印綬、迎表。表、隨崇俱出。與崇及所在郡守令長談論、崇等無以易。所歷山川、輒遣婢、與其神相聞。秋七月、崇與表至。權、於蒼龍門外爲立第舍、數使近臣、齎酒食往。表、說水旱小事、往往有驗。

太元元年、

曹魏の嘉平3年、孫権は70歳。
梁商鉅はいう。『芸文類集』巻99祥瑞部は『呉歴』をひく。孫権は神の王表のために、蒼龍門の外に立廟した。1本足のカラスが、カササギをくわえ、神書が「改元せよ」と伝えた。だから赤烏と改元したと。盧弼はいう。改元は5月であり、また王表を迎えたのは7月だから、『呉歴』は誤りである。
ぼくは思う。赤烏は古い年号で、太元になる。『呉紀』でたらめ!

夏5月、皇后に潘氏を立てて、大赦と改元をした。はじめ、臨海郡の羅陽縣に神がおり、王表と自称した。

裴注『呉録』はいう。羅陽とは、いまの安固県である。
臨海の郡治は章安である。呉主伝の黄武4年にある。趙一清はいう。はいう。『宋書』州郡志はいう。臨海太守は、もとは会稽の東部都尉だった。孫亮の太平2年に立てられた。まだ臨海郡はない。また永嘉太守は、5県を領する。安固令は、孫呉が立て、羅陽といった。孫皓が安陽と改めた。西晋の太康元年、改名された。
『寰宇記』で、羅陽県=安陽県=安固県は、瑞安県と記される。

王表は人間のように飲食したが、その姿形は見えなかった。この月、孫権は中書郎の李崇に、輔國將軍・羅陽王の印綬をもたせ、王表を迎えようとした。

ぼくは思う。魯王の孫覇を殺したつぎは、神を王にする!孫権の封王に対する政策は、わりに混乱している。

秋7月、李崇は王表を連れてきた。孫権は、蒼龍門(建業の東門)の外に、第舍を立てた。王表は、洪水は日照など小さな予言をして、わりに当たった。

周寿昌はいう。蜀漢が滅ぶとき、黄皓が鬼巫の邪説を信じた。曹叡が死ぬとき、寿春の農民が飲水で病気をいやした。曹叡には水が効かず。孫呉には王表がでた。孫権が死んで、孫呉が滅びる前兆である。亡国のとき、神がでるのは古代から同じ。孫策も于吉に殺された。
ぼくは思う。言うべきことを、周寿昌が言ってしまった。曹叡の死を以て曹魏の滅亡と見なし、あとは司馬氏の時代とみる歴史観があるのかなあ。三少帝は、きわめて人間的なパワーによって殺された。思うに王朝が滅亡するときは、彼岸との回路のようなものが起動するのだ。本来は王朝なんて不自然なもので、押さえつけているものが、表面に出てくる。それほど忌まなくても良いと思うんだけど。彼岸もひっくるめて、トータルで自然である。


秋八月朔、大風、江海涌溢、平地深八尺。吳高陵、松柏斯拔、郡城南門飛落。冬十一月大赦。權、祭南郊還、寢疾。十二月驛徵大將軍恪、拜爲太子太傅。詔、省徭役、減征賦、除民所患苦。

秋8月ついたち、大風がふき、江海があふれ、平地で8尺が浸水した。孫堅の高陵で、松柏がぬけ、呉郡の城の南門が飛落した。

孫堅の墓を高陵という。
侯康はいう。『晋書』五行志上はいう。孫権のとき、陸遜と孫和が不当に死んだ。後漢の安帝が、楊震の諫言を聞かず、太子を廃したのと同じだ。赤烏のとき、兵を用いない歳がない。百姓は疲弊した。赤烏8年、馬茂が謀反したのは、孫権の悪政に応じたものだ。
ぼくは思う。赤烏は、まさに孫権が「皇帝という病」に罹患して、症状がくっきり現れた時期だ。また期間が長いので、いかにも政権が安定した時期でもある。孫権の全盛期だな。いま太元に改元してからは、死ぬ準備である。
趙一清はいう。『宋書』五行志はいう。孫堅の墓で樹木がぬけると、華覈が「賦役が重いから」と封書した。翌年に孫権が薨じた。

冬11月、大赦した。孫権は、南郊を祭って還り、寢疾した。

侯康はいう。『宋書』礼志1はいう。孫権ははじめ武昌、つぎ建業に都したが、郊祀しない。いま太元元年11月に南郊を祭った。いまの秣陵県の南10余里である。『宋書』礼志3にもある。何承天はいう。孫権は建号して天を継承したくせに、郊祀しなかった。ダメである。末年に南郊したが、北郊はなかった。孫権は、父の孫堅を配天して「呉始祖」と尊号したというが、この南郊の時期だろう。
周寿昌はいう。『通典』42『礼』2注はいう。孫権は武昌で尊号したとき、南郊を祭って、黒牛で告天した。土中でないから完全な形式にせず。いま孫堅に尊号して「呉始祖」とした。環氏『呉紀』にもあるが、この歳のことである。
ぼくは思う。孫堅の陵墓で樹木が飛んだから、孫堅を祭り直したのだろうか。もし孫堅の陵墓が、小康状態を保っておれば、孫権は孫堅を祭る気がなかったのかも。孫権はほんとうに「礼」に疎い。ワザとやっているとしか思えない。
裴注『呉録』はいう。孫権は風疾を得た。

12月、驛して大將軍の諸葛恪を徴し、太子太傅を拝させた。詔して徭役をはぶき、征賦をへらし、民の患苦をのぞく。

太元2年、潘皇后と孫権が死ぬ

二年春正月、立故太子和、爲南陽王、居長沙。子奮、爲齊王、居武昌。子休、爲瑯邪王、居虎林。二月大赦。改元、爲神鳳。皇后潘氏薨。諸將吏、數詣王表、請福。表、亡去。夏四月、權薨、時年七十一、諡曰大皇帝。秋七月葬蔣陵。

太元2年春正月、

沈家本はいう。この歳、すでに神鳳元年と改元されていた。だが太元2年と書いてあり、記述があわない。
ぼくは思う。孫権が死んだので、改元もなかったことにされたか。1年ごとに改元するなんて、よほど孫呉が動揺していたのだ。「改元により孫権を回復させる」という期待は、改元には込められないはずだが。

もと太子の孫和を南陽王にして、長沙におく。孫奮を齊王にして、武昌におく。孫休を瑯邪王にして、虎林におく。

胡三省はいう。虎林は長江に接する。孫呉が督守をおく。のちに孫綝は、朱異を使わし、虎林から夏口を襲わせた。兵は武昌にいたる、夏口督の孫壱は曹魏ににげた。つまり虎林は、武昌の下流にあるのだ。
盧弼はいう。虎林督の朱熊は、孫綝伝にある。『一統志』はいう。孫休は虎林にいた。諸葛恪は諸王を長江ぞいの兵馬の地に置きたくない。孫休を丹陽にうつした。のちに陸胤と何遜は、どちらも虎林督となった。
盧弼はいう。何遜でなく何邈とすべきだ。『呉志』妃嬪伝の何姫伝にある。

2月、大赦して神鳳と改元した。皇后の潘氏が薨じた。

ぼくは思う。すぐに死んだ!孫呉に皇后がいた期間って、孫権の時期はトータルで1年に満たないだろう。歩夫人に追贈して、いま潘氏がすぐに死んだ。『呉志』妃嬪伝にくわしい。

將吏たちは、しばしば王表に詣でて、福を請うた。王表が去った。
夏4月、孫権が薨じた。71歳だった。大皇帝と諡した。秋7月、蔣陵に葬った。

銭大昕はいう。『蜀志』は、劉備を先主といい名を記さず、劉備の死を殂とする。陳寿は書き分けてる。
孫権は病困すると、諸葛恪、孫弘、滕胤、呂拠、孫峻に後事をまかせた。諸葛恪伝にある。沈約はいう「大」は『諡法』にない。
趙一清はいう。孫権が葬られたのは、もとは鍾山だったが、孫権の祖父の名なので、蒋山に改称された。上海古籍2978頁。


孫盛曰。盛聞國將興、聽於民。國將亡、聽於神。權年老志衰、讒臣在側、廢適立庶、以妾爲妻、可謂多涼德矣。而偽設符命、求福妖邪、將亡之兆、不亦顯乎!
傅子曰。孫策爲人明果獨斷、勇蓋天下、以父堅戰死、少而合其兵將以報讎、轉鬭千里、盡有江南之地、誅其名豪、威行鄰國。及權繼其業、有張子布以爲腹心、有陸議、諸葛瑾、步騭以爲股肱、有呂範、朱然以爲爪牙、分任授職、乘閒伺隙、兵不妄動、故戰少敗而江南安。

孫盛はいう。亡国のとき神がでる。孫権は衰え、讒臣をそばにおいて、嫡庶の区別がおかしい。符命を設けて、妖かしに福を求めた。亡国の前兆だなあ。
『傅子』はいう。孫策の死後、孫権は張昭を腹心とした。陸遜、諸葛瑾、歩隲を股肱とした。呂範、朱然を爪牙とした。任職が適切で、軍兵を妄動させないから、江南を安定させた。

評曰。孫權、屈身忍辱、任才尚計、有句踐之奇英、人之傑矣。故、能自擅江表成鼎峙之業。然、性多嫌忌、果於殺戮、暨臻末年、彌以滋甚。至于讒說殄行、胤嗣廢斃。豈所謂貽厥孫謀以燕翼子者哉。其後、葉陵遲、遂致覆國、未必不由此也。

評にいう。孫権は身を屈して忍辱した。呉王の句践のように優れた。

唐庚はいう。孫権が曹魏から呉王の爵位を受けたのは、劉備に攻められ、同時に曹魏にも攻められるのを恐れたからだ。また句践は呉国の爵位を受けない。陳寿は句践というが、おかしい。
ぼくは思う。くだらんツッコミするなよ。句践、調べねばなあ。
盧弼は句践と呉国のと関連を述べる。盧弼は、孫権と句践をくらべる陳寿に賛成である。どのように共通点があるかは、上海古籍2979頁。

だが孫権は晩年、殺戮を好んだ。讒言を好んで、君子の行いを絶やした。太子を廃した。孫呉の滅亡は、孫権によってセットされたと言えよう。

何焯はいう。殺戮をこのむのは、孫皓である。陳寿は、孫皓のルーツが、孫権にすでに見られたと言いたいのだろう。


臣松之以爲孫權橫廢無罪之子、雖爲兆亂、然國之傾覆、自由暴晧。若權不廢和、晧爲世適、終至滅亡、有何異哉?此則喪國由於昏虐、不在於廢黜也。設使亮保國祚、休不早死、則晧不得立。晧不得立、則吳不亡矣。

裴松之はいう。孫権が二宮をしなくても、もし孫和が皇帝となれば、つぎは孫皓だった。どうせ滅亡した。王朝が滅びる原因は、孫皓のような昏虐な君主である。孫権が二宮をやらないという仮定より、孫亮と孫休が皇位を維持できたらという仮定のほうが意味がある。121229

ぼくは思う。くだらない結果論であるw

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