表紙 > 孫呉 > 『呉書』巻3・三嗣主伝の抄訳;孫亮、孫休、孫晧

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孫亮:建興と五鳳年間、諸葛恪と孫峻

建興元年、孫亮が即位、諸葛恪が太傅

孫亮、字子明、權少子也。權春秋高、而亮最少、故尤留意。姊、全公主、嘗譖太子和子母、心不自安。因倚權意、欲豫自結、數稱述全尚女、勸爲亮納。赤烏十三年、和廢、權遂立亮爲太子、以全氏爲妃。

孫亮は、あざなを子明。孫権の少子である。孫権は高齢で、孫亮が最年少なので、気に入られた。姉の全公主が、かつて太子の孫和の母をそしり、全公主は不安である。孫権が孫亮を気に入るので、全公主は、孫亮と結ぼうと思った。しばしば全尚の娘をほめ、孫権に全尚の娘をすすめ、孫亮の妻にさせた。赤烏13年、孫和が太子を廃され、孫亮がたつ。全尚の娘は、太子妃となる。

ぼくは思う。全公主、全尚らは、また後日やる。


太元元年夏、亮母潘氏、立爲皇后。冬、權寢疾、徵大將軍諸葛恪爲太子太傅、會稽太守滕胤爲太常、並受詔輔太子。明年四月、權薨、太子卽尊號、大赦、改。是歲、於魏嘉平四年也。

太元元年の夏、孫亮の母・潘氏が皇后となった。同年冬に孫権が寢疾した。大將軍の諸葛恪を徴して、太子太傅とした。會稽太守の滕胤を太常とした。諸葛恪と滕胤に詔し、孫亮を輔けさす。明年4月、孫権が薨じた。孫亮が尊号し、大赦と改元した。この歳は、曹魏の嘉平4年(252)である。

胡三省はいう。孫亮は10歳である。


閏月、以恪爲帝太傅、胤爲衞將軍領尚書事、上大將軍呂岱爲大司馬。諸文武在位、皆進爵班賞、宂官加等。

閏月、

何焯はいう。「建興元年」という年号が抜けてる。のちに「永安元年」も抜ける。銭大昕も同じことをいう。
李龍官はいう。孫亮が改元してないから、年号を書かないのは記述のルールである。ぼくは補う。改元後に遡って、この閏月が「建興元年」だったことになるのだ。
潘眉はいう。諸葛恪は建興元年に東興堤をつくる。陸抗は建興元年に奮威将軍を拝する。趙一清はいう。『晋書』五行志に、建興元年9月の記事がある。『鼎録』はいう。孫亮の建興元年、武昌で1鼎を鋳造した。など建興という年号の記述がある。

諸葛恪が太傅となる。滕胤が衞將軍となり尚書事を領する。上大將軍の呂岱を大司馬とする。文官と武官の在職者は、みな爵と賞をもらう。他の官人も等級をあげてもらう。

冬十月太傅恪率軍、遏巢湖、城東興。使將軍全端守西城、都尉留略守東城。十二月朔丙申、大風雷電、魏使將軍諸葛誕、胡遵等、步騎七萬、圍東興。將軍王昶攻南郡、毌丘儉向武昌。甲寅、恪以大兵、赴敵。戊午、兵及東興、交戰、大破魏軍、殺將軍韓綜、桓嘉等。是月、雷雨天災武昌端門。改作端門、又災內殿。

冬10月、諸葛恪が軍をひきい、巢湖をふさぎ、東興に築城する。將軍の全端に、東興の西城を守らせる。都尉の留略に、東興の東城を守らせる。

巣湖は、『魏志』武帝紀の建安22年、明帝紀の青龍2年にある。潘眉はいう。『郡県志』によると、巣湖から南すると、東関口で合肥と境界を接する、など。上海古籍2982頁。
東興は、濡須の北である。『魏志』斉王紀の嘉平4年にある。
胡三省はいう。留氏は『姓譜』によると、衛国の大夫たる留封人の後裔である。漢末に会稽ににげてきた。東陽に居住して、郡豪族となった。ぼくは思う。留略は「郡豪族」の出自です。

12月ついたち丙申、大風と雷電あり。曹魏は、諸葛誕と胡遵らに歩騎7千をつけ、東興をかこむ。將軍の王昶が南郡をかこむ。毌丘儉が武昌にむかう。12月甲寅、諸葛恪は敵にむかう。12月戊午、東興で交戦して、おおいに諸葛恪が魏軍をやぶる。將軍の韓綜や桓嘉らを殺した。

この東興の戦役は、『魏志』斉王紀の嘉平4年、そこにひく『漢晋春秋』、『呉志』諸葛恪伝にある。韓綜のことは、呉主伝の黄武6年と、『呉志』韓当伝にある。ぼくは思う。裏切り者!

この月、雷雨があり、落雷により、武昌の端門が火災した。端門を改築した。內殿も落雷で火災した。

侯康はいう。『晋書』五行志上はいう。門は号令がでるところ。殿は君主が政事を聴くところ。このとき諸葛恪が執政して奢り、のちに孫綝が暴政するから、落雷があった。武昌は孫氏が尊号を始めたところ。諸葛恪が殺され、孫綝が孫亮を廃することが予告された。或る者はいう。孫権は武昌を解体して、建業の太初宮をつくった。諸葛恪は再遷都して、武昌を再建しようとした。時宜を得ないから、武昌に落雷した。
ぼくは思う。役割を終えて、建材を除かれた場所に、再び遷都する。まるで董卓である。董卓が、前漢の都だった長安に、わざわざ移動するようなものだ。「道理がなく浪費しまくる」ことで権力の所在が明らかになる。権力がないと、これができないから。諸葛恪の示威は、わりに悪くない。しかし道理なく浪費すると、経済的にも徳望的にもリソースがつきて、権力が維持できなくなる。逆説的だなあ。


臣松之案。孫權赤烏十年、詔徙武昌宮材瓦、以繕治建康宮、而此猶有端門內殿。
吳錄云。諸葛恪有遷都意、更起武昌宮。今所災者恪所新作。

裴松之は考える。孫権の赤烏10年、武昌の材瓦をうつして、建康宮を繕治した。だが端門と内殿だけは残っていたのだ。
『呉録』はいう。諸葛恪は武昌に遷都したかったから、武昌宮を再建した。いま火災したのは、孫権が残した建材でなく、諸葛恪が新築したものだ。

ぼくは思う。なんとかして「合理的」な解釈を試みている。前近代における合理性とは、なにか。ぼくらが近代ぶくみで把握する「合理性」から、どの部分を除けば、前近代の合理性となるのか。むずかしい課題。だれか思想家を軸にして理解しないと、扱いきれる問題じゃないなあ!


建興2年、諸葛恪が王昶を破り、新城で敗れる

二年春正月丙寅、立皇后全氏、大赦。庚午、王昶等皆退。二月軍還自東興、大行封賞。三月恪率軍伐魏。夏四月圍新城。大疫、兵卒死者大半。秋八月恪引軍還。

建興2年、

趙一清はいう。『刀剣録』はいう。孫亮は建興2年、1つの剣を鋳した。「流光」と小篆書できざんだ。『寰宇記』巻112はいう。鳳棲山が武昌県の西北225里にある。孫呉の建興のとき、鳳凰が降りた。山には石鼓がなり、鳳凰がなくと雨が降った。

春正月丙寅、全氏を皇后に立てた。大赦した。正月庚午、王昶ら曹魏の全軍が撤退した。2月、呉軍は東興に撤退して、おおいに封賞する。
3月、諸葛恪は軍をひきいて、曹魏を伐つ。夏4月、合肥新城をかこむ。大疫して、兵卒の死者は大半である。秋8月、諸葛恪は軍をひいて還る。

詳細は『呉志』諸葛恪伝を見よ。


冬十月大饗。武衞將軍孫峻、伏兵殺恪於殿堂。大赦。以峻爲丞相、封富春侯。十一月、有大鳥五、見于春申。明年改元。

冬10月、大饗した。

ちくま訳はいう。大饗とは、先王の祭祀である。ぼくは思う。孫呉は、あんまり祭祀をやらない。この祭祀は、誰を祭ったものか。

武衞將軍の孫峻が、兵を伏せて殿堂で諸葛恪を殺した。大赦した。孫峻が丞相となり、富春侯となる。

ぼくは思う。諸葛恪は、孫権が死んだときにあとを任された。その翌年のうちに、曹魏に勝ち、曹魏に敗れ、孫峻に殺された。すべて建興2年のうちである。忙しい人だった。諸葛恪のおもな活躍時期は、孫権の存命中だったのかあ。
富春は孫堅伝にある。

11月、大鳥が5羽いて、春申に現れた。翌年、改元した。

趙一清はいう。『史記』春申君伝はいう。黄歇が淮北12県に封じられ、春申君となる。のちに江夏に封じられ、もと春申君がいた呉城(蘇州)は廃されて、都邑となった。趙一清はいう。春申とは、もとは蘄春である。
陳景雲はいう。黄龍2年、会稽に嘉禾が生じて、翌年に改元した。孫晧の建衡3年、西苑に鳳凰があつまり、翌年に改元した。同じパタンである。


五鳳元年、呉侯の孫英が、孫峻を廃せず自殺

五鳳元年夏、大水。

五鳳元年、夏に大水あり。

曹魏の正元元年である。
趙一清はいう。『晋書』五行志はいう。夏に大水があった。孫亮は即位4年目に、孫権の廟を立てた。孫呉を通じて、祖宗の号をつかわず、厳父の礼を修めなかった。孫呉の儀礼は不備である。孫亮、孫休、孫晧は、南北の二郊を廃した。宗廟と祭祀をやらないから、陰陽がみだれて、孫峻が専政したのだ。
ぼくは思う。孫呉はもはや確信犯として、漢魏のような体裁のある国家を作ろうとしていない。不備というよりは、「漢魏のとおり、やる必要はない」という意思表明だと思う。「だから孫呉は王朝じゃない」と言うのか、「孫呉は新しいタイプの王朝である」というのかは、論者の好みだと思うけど。ぼくは、曹魏という「正統」があるのだから、孫呉の祭祀が足りなくても良いと思う。「祭祀が足りない」ことによって、三国の一角に役割を持っている。曹魏を引き立てている。


秋、吳侯英、謀殺峻、覺、英自殺。冬十一月、星茀于斗牛。

江表傳曰。是歲交阯稗草化爲稻。

秋、吳侯の孫英が、孫峻を謀殺しようとした。発覚して、孫英が自殺した。

孫英は、孫登の次子。呉侯に封じられた。司馬の桓慮が、孫峻を謀殺して、孫英を立てようとした。発覚して殺された。孫登伝にひく『呉歴』にある。
ぼくは思う。漢代には「漢王」はいない。蜀漢には劉備のほかに「漢中王」はいない。曹魏には曹操のほかに「魏公」「魏王」はいない。しかし孫呉には「呉侯」がいる。2世皇帝の孫休のとき、呉侯の孫英が自殺した。孫英は、廃太子の孫登の次子。呉帝と呉侯が並立するのは、アリだったのか。
@AkaNisin さんはいう。「魏」と「漢中」がなくて「呉侯」がある理由としては、「呉」だけが県単位の地名でもあるからだろうと思います。
ぼくはいう。呉侯の孫英は、廃太子の孫登の次子です。孫登が死に、孫和が廃され、孫覇が誅され、少子の孫亮が皇帝ですが、孫英がもっとも「血筋が正しい」感じがします。だから国号と一致する県に封じられたかも、と感じます。孫呉の後継争いの迷走に対する、反省を感じますw

冬11月、星茀が、斗や牛にある。

趙一清はいう。これが王粛が「シユウの旗」と言ったものだ。占験は、『魏志』正元元年にある。

『江表伝』はいう。この歳、交趾で稗草が稻に変化した。

『晋書』五行志は6月とする。むかし三苗が滅びるとき、五穀の種がかわった。これは草の妖かしである。稲に化けたため、のちに孫亮が廃された。


五鳳2年、文欽を降し、督徐州諸軍事をおく

二年春正月、魏鎭東大將軍毌丘儉、前將軍文欽、以淮南之衆、西入、戰于樂嘉。閏月壬辰、峻及驃騎將軍呂據、左將軍留贊、率兵、襲壽春。軍及東興、聞欽等敗。壬寅、兵進于橐皋、欽詣峻降、淮南餘衆數萬口來奔。魏諸葛誕、入壽春、峻引軍還。
二月、及魏將軍曹珍遇于高亭、交戰、珍敗績。留贊、爲誕別將蔣班、所敗于菰陂。贊及將軍孫楞、蔣脩等、皆遇害。三月使鎭南將軍朱異、襲安豐、不克。

五鳳2年春正月、曹魏の鎭東大將軍の毌丘儉、前將軍の文欽が、淮南の兵をつれ、西に入る。樂嘉で呉軍と戦った。

楽嘉は『魏志』高貴郷公紀の正元2年にある。

閏月壬辰、孫峻と、驃騎將軍の呂據、左將軍の留贊が、兵をひきいて壽春をおそう。孫峻らが東興にきて、文欽らが呉軍に敗れたと聞いた。
閏月壬寅、孫峻は橐皋にすすむ。文欽が孫峻にくだる。(文欽が孫呉に降ってしまったので、残された魏軍の)淮南の餘衆たる數萬口は、來奔した。諸葛誕が壽春に入ると、孫峻は軍を還した。

胡三省はいう。橐皋とは、廬江郡の居巣県である。謝鍾英はいう。橐皋は、漢代には県になっておらず、魏呉の境界にある土地だった。

2月、孫峻は、曹魏の將軍・曹珍と、高亭で遭遇して交戰した。曹珍は敗績した。留贊は、諸葛誕の別將・蔣班と戦い、菰陂で敗れた。留賛と、將軍の孫楞や蔣脩らは、みな魏軍に殺害された。

謝鍾英はいう。高亭は橐皋に近い。
留賛は、孫峻伝にひく『呉書』、『魏志』諸葛誕伝にある。

3月、鎭南將軍の朱異に、安豐を襲わせた。勝たず。

安豊は、『魏志』斉王紀の嘉平5年、王基伝、毋丘倹伝にある。


秋七月將軍孫儀、張怡、林恂等、謀殺峻、發覺、儀自殺、恂等伏辜。陽羨離里山大石、自立。使衞尉馮朝、城廣陵。拜將軍吳穰爲廣陵太守、留略爲東海太守。是歲大旱。十二月作太廟。以馮朝、爲監軍使者、督徐州諸軍事。民饑、軍士怨畔。

秋7月、將軍の孫儀、張怡、林恂らが、孫峻を謀殺しようとしたが、発覚して死んだ。陽羨の離里山で、大石が自立した。

陽羨の離里山は、孫権伝の巻首、孫晧伝の天璽元年にある。趙一清はいう。『宋書』五行志にひく『京房易伝』はいう。庶士が天子になる前兆である。山で石が立てば、いまの天子と同姓者が天子となる。平地で石が立てば、異姓者が天子となる。山で石が立ったので、孫晧もしくは孫休の前兆である。

衞尉の馮朝が、廣陵で築城した。

馮朝の子は、馮純である。妃嬪伝の何姫伝にひく『江表伝』にある。胡三省はいう。曹魏の広陵は、郡治が淮陰である。漢代の広陵は、廃されて使えない。
趙一清はいう。孫峻伝はいう。孫峻は広陵に築城したいが、朝臣はムリだと思う。だが朝臣は反対できない。ただ滕胤が孫峻を諫めた。以後、また広陵の場所の話。上海古籍2986頁。

將軍の吳穰が廣陵太守となる。留略が東海太守となる。

趙一清はいう。孫晧伝では、南海太守となっている。だが東海太守が正しい。盧弼はいう。孫亮伝では「東海太守の劉略」、孫晧伝では「南海太守の劉略」になっている。2ヶ所ちがう。
ぼくは思う。徐州の太守を2人も任じた。進出の意欲か?

この歳、大旱あり。12月太廟をつくる。

『通鑑』はいう。はじめ孫権の太廟をつくらない。孫堅が長沙太守だったから、臨湘に立廟しただけ。長沙太守に孫堅を祭らせた。冬12月、太廟を建業につくった。呉大帝の孫権を、太祖という。胡三省はいう。孫権は父の孫堅を武烈皇帝とした。長沙の郡治は臨湘県である。

馮朝を監軍使者として、督徐州諸軍事させる。民が飢えて、軍士は怨畔した。121229

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孫亮:太平;孫綝の執政、諸葛誕の反乱

太平元年、孫綝が立ち、呂拠と滕胤を滅ぼす

太平元年春、二月朔、建業火。峻、用征北大將軍文欽計、將征魏。八月、先遣欽及驃騎呂據、車騎劉纂、鎭南朱異、前將軍唐咨、軍自江都、入淮泗。九月丁亥、峻卒。以從弟偏將軍綝、爲侍中、武衞將軍、領中外諸軍事。召還據等。聞綝代峻、大怒。己丑、大司馬呂岱卒。壬辰、太白犯南斗。據欽咨等、表薦衞將軍滕胤爲丞相。綝、不聽。癸卯、更以胤爲大司馬、代呂岱駐武昌。據、引兵還、欲討綝。綝、遣使以詔書告喻欽咨等、使取據。

太平元年春、

曹魏の甘露元年である。 裴注:吳歷曰。正月、爲權立廟、稱太祖廟。『呉歴』はいう。太平元年の正月、孫権のために立廟して、太祖廟とした。
何焯はいう。『呉歴』は孫鍾のために立廟したという。孫堅の父の名として『宋書』にある。盧弼はいう。孫堅を「始祖」としたから、孫堅の父を太祖にしないはずだ。

2月ついたち、建業で出火した。孫峻は、征北大將軍の文欽の計略をもちい、曹魏を征めようとした。8月、さきに文欽、驃騎将軍の呂據、車騎将軍の劉纂、鎭南将軍の朱異、前將軍の唐咨を、江都から淮泗に入らせる。

ぼくは思う。文欽も、曹魏から孫呉に移動して、官職があがっている。つかえる!孫権を暗殺しようとした、馬茂とともに好例だなあ!
江都は孫策伝にある。胡三省はいう。江都は、広陵郡に属する。カン溝から淮水に入る。淮水から泗水に入るというルートである。


九月丁亥、峻卒。以從弟偏將軍綝、爲侍中、武衞將軍、領中外諸軍事。召還據等。聞綝代峻、大怒。己丑、大司馬呂岱卒。壬辰、太白犯南斗。據欽咨等、表薦衞將軍滕胤爲丞相。綝、不聽。癸卯、更以胤爲大司馬、代呂岱駐武昌。據、引兵還、欲討綝。綝、遣使以詔書告喻欽咨等、使取據。

9月丁亥、孫峻が卒した。從弟の偏將軍・孫綝が、侍中、武衞將軍となり、中外諸軍事を領した。呂拠らを召し還した。(呂拠は)孫綝が孫峻に代わったと聞いて、大怒した。

呂拠は、という主語を補えというのは、陳浩、趙一清、盧弼である。『通鑑』も呂拠が大怒したと、主語を補ってある。
ぼくは思う。孫峻は「平和」に退場した。頭を整理しよう。

9月己丑、大司馬の呂岱が卒した。9月壬辰、太白が南斗を犯した。呂拠、文欽、唐咨らは「衛将軍の滕胤を丞相とせよ」と推薦した。孫綝は聴さず。9月癸卯、「滕胤を大司馬として、呂拠の代わりに武昌に駐屯させよ」と推薦した。呂拠は兵を建業に還して、孫綝を討ちたい。孫綝は詔書により「文欽と唐咨は、呂拠を捕らえよ」と命じた。

康発祥はいう。孫綝伝では、従兄の孫慮に兵をつけ、江都で呂拠を迎撃させる。呂拠は1人で滕胤を推薦し、孫綝に対抗したのであり、仲間とつるんだのではない。また孫慮は嘉禾元年に卒したから、孫憲とすべきだ。


冬十月丁未、遣孫憲及丁奉、施寬等、以舟兵、逆據於江都。遣將軍劉丞、督步騎、攻胤。胤兵敗、夷滅。己酉、大赦、改年。辛亥、獲呂據於新州。十一月以綝爲大將軍、假節、封永康侯。孫憲、與將軍王惇、謀殺綝。事覺、綝殺惇、迫憲令自殺。十二月、使五官中郎將刁玄、告亂于蜀。

冬10月丁未(孫綝の命令により)孫憲、丁奉、施寬らが水軍をひきい、江都で呂拠を迎撃する。將軍の劉丞は步騎を督して、滕胤を攻めた。滕胤は敗れ、夷滅された。10月己酉、大赦と改元した。
10月辛亥、呂拠を新州(京口の西の近く)で捕らえた。

沈家本はいう。呂拠伝で、呂拠は自殺する。記述が異なる。盧弼はいう。さきに呂拠は捕らえられ、あとで自殺したのだろう。ぼくは思う。盧弼は合理的だなあ!

11月、孫綝が大將軍となり、假節、永康侯に封じられた。

潘眉はいう。永寧侯とすべきだ。ときに張布が永康侯であり、重複する。永康は孫呉が新立した。永寧は漢代の旧県である。孫呉の臨海郡に属する。ぼくは思う。漢代の旧県のほうが、由緒があるから、孫綝は永寧侯だろう。

孫憲と王惇は、孫綝を殺そうとしたが、発覚して死んだ。12月、五官中郎將の刁玄が、蜀漢に乱を告げにゆく。

刁玄は、孫晧伝の建衡3年にある。
ぼくは思う。刁玄が伝えたのは「孫峻が死んで、孫綝が代わる。呂拠が孫綝に反対し、孫綝でなく滕胤に執政させたがるから、孫綝が呂拠と滕胤を殺した。孫綝に味方して、呂拠を殺した孫憲までもが、孫綝に叛いた。だから孫憲を殺した」となるか。複雑だなあ!だから記憶が新鮮なうちにまとめた。


太平2年、孫亮が親政し、諸葛誕を救援する

二年春二月甲寅、大雨、震電。乙卯、雪、大寒。以長沙東部爲湘東郡、西部爲衡陽郡、會稽東部爲臨海郡、豫章東部爲臨川郡。

太平2年春2月甲寅、大雨と震電あり。2月乙卯、雪がふり大寒あり。

侯康はいう。『晋書』五行志は、この異常気象を、孫綝が孫亮を廃する前兆とする。孫亮は前兆に気づけなかった。これは春秋期の魯陰公と同じである。

長沙東部都尉を湘東郡として、長沙西部都尉を衡陽郡として、會稽東部都尉を臨海郡として、豫章東部都尉を臨川郡とした。

長沙の郡治は臨湘である。孫堅伝にある。『晋書』地理志はいう。湘東の郡治はジュである。『宋書』州郡志はいう。湘東太守は、孫亮の太平2年に立てられ、長沙東部都尉から分かれた。衡陽内史は、長沙西部都尉から分けて立てられた。
ぼくは思う。「衡陽郡」でなく「衡陽内史」なのか?
会稽は郡治が山陰である。孫堅伝にある。臨海は郡治が章安である。呉主伝の黄武4年、太元元年にある。
豫章は、郡治が南昌である。孫策伝にある。『宋書』州郡志はいう。臨川内史は、孫亮の太平2年に豫章東部都尉から分けて立てられた。洪亮吉はいう。臨川の郡治は南城である。呉増僅はいう。朱然伝、周魴伝にて、臨川が出てくるが、同名の異地である。朱然伝、周魴伝を見よ。
ぼくは思う。どうしてこの時期に、郡を新設しまくったのだろう? 孫綝が王朝の体裁を整えるために、ちょっとムリをしたか。


夏四月、亮臨正殿、大赦、始親政事。綝所表奏、多見難問。又科兵子弟、年十八已下十五已上、得三千餘人。選大將子弟、年少有勇力者、爲之將帥。亮曰「吾立此軍、欲與之俱長」日於苑中習焉。

夏4月、孫亮が正殿にのぞむ。大赦して親政を始めた。孫綝の表奏に、孫亮がきつい質問をした。兵の子弟を試験して、15歳から18歳の3千余人を集めた。大將の子弟のうち、年少だが勇力ある者を、將帥とした。孫亮はいう。「私はこの軍を新設した。私とともに成長する」と。苑中で演習した。

裴注『呉歴』はいう。孫亮は、孫権が親政した時代について調べた。また黄門が、梅蜜にネズミの糞を入れたと見ぬいた。『江表伝』はいう。黄門が、甘蔗糖にネズミの糞を入れたことを見ぬいた。裴松之は前者より後者が、信頼できる記事だという。
ぼくは思う。孫亮が聡明だったことを、ほかの説話から引用しているのだろう。はぶく。孫亮や曹髦など、早熟な君主が、賢明すぎて権臣に倒され、「もしその君主が成長していれば、王朝は安泰だったのに」と嘆くパタンである。失われて初めて、貴重だったことになる。貴重さに気づくのでなく、事後的に貴重さが形成される。「未遂の名君」は、人間の思考パタンの典型なんだろう。よく分かるもん。


五月、魏征東大將軍諸葛誕、以淮南之衆、保壽春城。遣將軍朱成、稱臣上疏、又遣子靚、長史吳綱、諸牙門子弟、爲質。六月使文欽、唐咨、全端等、步騎三萬、救誕。朱異、自虎林、率衆、襲夏口。夏口督孫壹、奔魏。秋七月綝、率衆救壽春、次于鑊里、朱異至自夏口。綝、使異爲前部督、與丁奉等、將介士五萬、解圍。

5月、征東大將軍の諸葛誕が、淮南の衆をつれて、寿春にこもる。將軍の朱成を使わし、孫呉に稱臣して上疏する。子の諸葛靚、長史の吳綱、牙門諸将の子弟を、人質にだす。
6月、孫呉は、文欽、唐咨、全端らに歩騎3万をつけ、諸葛誕を救わせる。朱異は虎林から衆をひきい、夏口を襲う。夏口督の孫壹は、曹魏に奔る。

虎林は、呉主伝の太元2年にある。
夏口とは漢口である。『魏志』武帝紀の建安13年にある。赤壁!
ぼくは思う。諸葛誕は魏から呉、孫壱は呉から魏に降った。同時期である!

秋7月、孫綝は衆をひきいて寿春をすくう。鑊里にくる。朱異が夏口からくる。孫綝は、朱異を前部督として、丁奉らと5万をひきいて、寿春の包囲を解かせる。

胡三省はいう。孫亮は、孫綝が湖中に留まり、上陸しないことを責めた。すなわち鑊里とは、巣県の境界にあり、上陸の手前である。『方輿紀』はいう。巣県の西北に、焦湖がある。


八月會稽南部反、殺都尉。鄱陽、新都、民爲亂。廷尉丁密、步兵校尉鄭冑、將軍鍾離牧、率軍討之。朱異、以軍士乏食、引還。綝大怒、九月朔己巳、殺異於鑊里。辛未、綝自鑊里還建業。甲申、大赦。十一月全緒子禕、儀、以其母奔魏。十二月全端、懌等、自壽春城、詣司馬文王。

8月、會稽南部がそむき、会稽南部都尉を殺した。鄱陽と新都で、民が反乱した。

鄱陽の郡治は鄱陽である。孫権伝の建安8年にある。新都の郡治は始新である。孫権伝の建安13年と赤烏6年にある。新都郡は、鄱陽郡の東にあり、境界を接する。
鍾離牧伝はいう。建安、鄱陽、新都の3郡で、山民が乱した。
ぼくは思う。孫呉の執政者は、孫権、諸葛恪、孫綝など、みな曹魏との戦いによって、勢力が浮沈する。さすがに孫権が失脚することはないが、失脚に近いレベルのダメージを被る。それは、諸葛恪や孫綝が死んだことから証明される。曹魏との関係で執政者の可否が決まるほど、孫呉は中原への働きかけを重んじた。孫呉は江東で自閉するイメージがあるが、ぜったいに違う。四方への出陣を絶やさない、戦闘的な王朝だ。べつに諸葛亮や姜維が、異常値を刻んだのではなさそうだ。

廷尉の丁密、步兵校尉の鄭冑、將軍の鍾離牧が、軍をひきいて討った。

鍾離牧伝を見よ。ぼくは思う。諸葛誕を救うつもりが、背後がガタガタになった。さっき都尉を郡に昇格したことと、関係があるのか。国内の規制力に不安があったから、体制を名前だけでも強化したのか。「背後の山越がうるさいから、中原に打って出られなかった」という決めつけも、こういう個別の事象、たとえば諸葛誕との共闘の場合などを検討して、具体的に論じないとなあ。とりあえず鍾離牧伝ですね。

朱異は軍糧がないから還った。孫綝は朱異に大怒した。9月ついたち己巳、朱異を鑊里で殺した。9月辛未、孫綝は鑊里から建業に還る。

胡三省はいう。寿春の包囲は固い。周瑜、呂蒙、陸遜が生きていたとしても、包囲を解くのは難しい。もし孫綝が、荊州と揚州の兵をあげて、襄陽を出て、宛水や洛水にむかえば、曹魏は寿春の包囲を減らさざるを得ない。寿春にいる諸葛誕や文欽は、力戦するチャンスがあった。
盧弼はいう。孫綝伝はいう。孫綝は諸葛誕を救えず、自軍の名将=朱異を殺したから、みなが孫綝を怨んだ。

9月甲申、大赦した。
11月、全緒の子たる全禕と全儀は、母を以て曹魏に奔った。

『魏志』鍾会伝にある、らしい。よく分からんので見よう。ちくま訳では「母を連れて」と書いてある。それで良さそうだが、なんで母を特記したのか? 全氏の政治的な立場と関係ある? いかん。わからん。

12月、全端と全懌らは、寿春城から司馬昭に詣でた。

太元3年、孫綝が、孫亮を会稽王とする

三年春正月、諸葛誕殺文欽。三月司馬文王、克壽春。誕及左右戰死、將吏已下皆降。秋七月封故齊王奮、爲章安侯。詔州郡、伐宮材。自八月、沈陰不雨四十餘日。亮、以綝專恣、與太常全尚將軍劉丞、謀誅綝。九月戊午。綝、以兵取尚、遣弟恩攻殺丞於蒼龍門外、召大臣會宮門、黜亮爲會稽王、時年十六。

太元3年春正月、諸葛誕が文欽を殺した。司馬昭は寿春をつぶす。諸葛誕とその左右は戦死した。將吏はすでに司馬昭にくだる。

ぼくは思う。どちらが「魏軍」なのか、よく分からんよ。陳寿も、諸葛誕と「司馬文王」の戦いとしている。ふざけて図式化するなら、孫呉の孫綝、曹魏の諸葛誕、西晋の司馬昭の三つ巴である。ちがうけどねw
っていうか、諸葛誕の最期が、なぜ『呉志』の本紀のようなものに書いてあるのだろう。これは曹魏の内戦というより、孫呉も参加者だという認識なのね。このあたり、陳寿の扱いが微妙でおもしろい。

秋7月、もと齊王の孫奮を、章安侯に封じた。

ぼくは思う。封じる単位が、郡なのか県なのか、孫呉の域内か域外か、王なのか侯なのか、などを誰かがまとめているんだろうなあ。斉王は、郡レベルの王だが域外、章安侯は県レベルの侯だが域内である。後者のほうが地味だけど実効性がある。さっきの「呉県侯の孫英」にも絡めて、気になる。
封王侯は「血縁者をどう考えるか」「人材をどう考えるか」「地方統治をどう考えるか」など、王朝として根幹の政策に、関連が深いから、試金石!
章安は、孫権伝の黄武4年にある。

州郡に詔して、宮殿の材木を伐らせた。8月から40余日も雨ふらず。孫亮は、孫綝が専恣するから、太常の全尚、將軍の劉丞とともに、孫綝を謀殺しようとした。9月戊午、孫綝の兵が、全尚をとらえた。孫綝の弟の孫恩が、劉丞を蒼龍門の外で殺した。孫綝は、大臣を宮門に召し、孫亮を会稽王に黜した。孫亮は16歳だった。121229

孫綝伝にくわしい。孫亮は在位7年。即位したときは10歳だった。孫亮は会稽王になって2年で、侯官侯に廃されて自殺した。18歳だった。皇帝にならねば、こんな若死にしなかった。哀しむべきかな。

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孫休:永安;孫綝を殺し、定型文の善政

永安元年、帝位をねらう孫綝が、捕縛される

孫休、字子烈、權第六子。年十三、從中書郎射慈、郎中盛沖、受學。太元二年正月、封琅邪王、居虎林。四月、權薨、休弟亮承統、諸葛恪秉政。不欲諸王在濱江兵馬之地、徙休於丹楊郡。太守李衡、數以事侵休。休、上書乞徙他郡、詔徙會稽。居數歲、夢、乘龍上天、顧不見尾、覺而異之。孫亮廢、己未、孫綝、使宗正孫楷與中書郎董朝、迎休。休、初聞問、意疑、楷朝具述、綝等所以奉迎本意。留一日二夜、遂發。

孫休は、あざなを子烈。孫権の第6子。

孫権には7子いる。孫登、孫慮、孫和、孫覇、孫奮、孫休、孫亮。孫休の母は、南陽の王夫人。

孫休は13歳のとき、從中書郎の射慈、郎中の盛沖から学問を受けた。

陳景雲はいう。射慈は謝慈だろうか。孫奮伝の裴注にある。李慈銘はいう。『経典釈文序録』、斉王の孫奮伝にある。盧弼はいう。『蜀志』先主伝の建安24年の注釈にもある。謝慈は孫奮を諫めて殺された。上海古籍2992頁。
孫休は永安7年に30歳で死んだ。だから嘉禾4年に生まれた。13歳で学問を受けたとき、赤烏10年である。太元2年、瑯邪王になるとき18歳である。即位のとき24歳である。
ぼくは思う。孫亮は10歳で即位したが、すぐ上の兄・孫休は24歳で即位した。12歳も年長な皇帝を迎えたのだから、若すぎるという問題はない。

太元二年正月、琅邪王に封じられ、虎林にいる。同年4月、孫権が薨じた。弟の孫亮が皇帝となり、諸葛恪が秉政した。諸王を、長江ぞいの兵馬之地に置きたくないから、孫休は丹楊郡に徙された。丹陽太守の李衡に干渉されたので、孫休は「他郡に移りたい」と上書し、会稽に移る。数年して夢を見た。龍に乗るが、振り返ると尾がなくて驚く夢だ。
孫亮が廃された。9月己未、孫綝は、宗正の孫楷と中書郎の董朝に孫休を迎えさせた。孫休が疑い、孫楷が孫綝の意図を説明した。1日2夜とどまり、ついに会稽を出発した。

虎林は孫権伝にある。 胡三省はいう。孫楷は皇帝と同姓だから、宗正となった。中書郎とは、晋代の中書侍郎の職分である。


十月戊寅、行至曲阿、有老公、干休叩頭、曰「事久變生、天下喁喁。願、陛下速行」休、善之、是日進及布塞亭。武衞將軍恩、行丞相事、率百僚、以乘輿法駕、迎於永昌亭。築宮、以武帳、爲便殿、設御座。己卯、休至、望便殿止住、使孫楷先見恩。楷還、休乘輦進、羣臣再拜稱臣。休升便殿、謙不卽御坐、止東廂。戶曹尚書、前、卽階下讚奏。丞相、奉璽符。休、三讓、羣臣三請。休曰「將相諸侯、咸推寡人。寡人敢不承受璽符」羣臣、以次、奉引。休、就乘輿、百官陪位。綝、以兵千人迎於半野、拜于道側。休、下車答拜。卽日、御正殿、大赦、改元。是歲於魏、甘露三年也。

10月戊寅、曲阿にゆく。老公が叩頭して「天下に変事が起きる。孫休は速くゆけ」という。同日に孫休は布塞亭にゆく。武衞將軍の孫恩は、丞相事を行し、百僚をひきい、乘輿と法駕をもち、永昌亭に孫休を迎える。築宮し武帳を以て便殿とし、御座を設ける。

曲阿を孫呉では雲陽という。孫策伝にある。
康発祥はいう。いま老いた閹人=宦官を、老公という。由来はここか。
盧弼はいう。孫綝は孫亮を廃したとき、多くの者が「孫綝が自ら皇位につけ」と勧めた。老公がいう変事とはこれである。孫綝伝で、孫綝は入宮するとき、不軌=皇帝即位を図った。虞翻伝の注釈にある。孫綝の皇帝即位を避けるため、孫休を急がせた。

10月己卯、孫休は望便殿にきて留まる。孫楷はさきに孫恩にあう。孫楷が還ると、孫休は輦に乗ってすすむ。羣臣は再拜して、孫休に対して稱臣する。孫休は便殿にのぼり、謙遜して御座につかず、東廂でとまる。戶曹尚書が、御座につけと勧めた。丞相は、璽符を奉る。孫休は三譲し、群臣は三請した。孫休は群臣の要請をうけて、乗輿した。百官は陪位した。
孫綝は、兵1千を半野におき、道のよこで孫休と会った。孫休は下車して、孫綝に答拜した。同日に孫休は正殿にゆき、大赦と改元をした。

趙一清はいう。『太平寰宇記』によると、山に巌石がなく、林木と台観があって、娯遊するところを半野という。
ぼくは思う。孫綝の兵が不穏だなあ!孫休も、孫綝に警戒している。孫休が孫綝を殺すまで、孫呉は安定しない。時代を区切るなら、孫権が死んでも、諸葛恪の死までは、孫権の描いた路線だから、時期が区切れなかろう。孫権の最後の太元と、孫亮の最初の建興は、セットでよい。諸葛恪が殺されて、孫峻と孫綝の執政期になり、五鳳と改元されてから今まで、ひとまとめ。皇帝の交替はあまり意味がない。

この歳、曹魏の甘露3年(蜀漢の景耀元年)である。

永安元年冬十月壬午、詔曰「夫、褒德賞功、古今通義。其以大將軍綝、爲丞相、荊州牧、增食五縣。武衞將軍恩、爲御史大夫、衞將軍、中軍督、封縣侯。威遠將軍、授爲右將軍、縣侯。偏將軍幹、雜號將軍、亭侯。長水校尉張布、輔導勤勞、以布爲、輔義將軍、封永康侯。董朝、親迎、封爲鄉侯」

永安元年、

周寿昌はいう。劉備が永安宮で死んだのに、永安を年号にしてしまった。劉備の死は、敵国たる孫呉に秘密にされており、劉備の死に場所を孫呉は知らなかったのでは。

冬10月壬午、孫休は詔した。「德を褒め、功を賞すのは、古今の通義である。大將軍の孫綝を、丞相、荊州牧とし、食邑5県をふやす。

孫綝伝は、より詳しい詔を載せる。胡三省はいう。孫綝は大将軍にうつり、永寧侯となる。いま孫休を立てた功績により、永寧侯として増邑された。

武衞將軍の孫恩を、御史大夫、衞將軍、中軍督とし、県侯に封じる。

銭大昭はいう。孫権のとき、御史大夫はない。孫休のとき特設された。孫恩を特別に重んじるからだ。永安5年、廷尉の丁密は左御史大夫に、光禄勲の孟宗は右御史大夫になった。

威遠將軍の孫拠を、右將軍、県侯とする。偏將軍の孫幹を、雜號將軍、亭侯とする。

孫綝は5人兄弟である。孫綝、孫恩、孫拠、孫幹、孫闓である。みな禁兵を典した。孫綝伝にある。ぼくは補う。ここまで、孫綝の兄弟の官爵をあげる詔書である。

長水校尉の張布は、私を輔導したので、輔義將軍、永康侯とする。

『宋書』はいう。東陽太守、永康令は、どちらも赤烏8年に、烏傷、上浦から分けて立てた。ぼくは思う。烏傷、上浦ってなんだろう。

董朝は私を迎えてくれたので、郷侯とする」と。

又詔曰「丹陽太守李衡、以往事之嫌、自拘有司。夫、射鉤斬袪、在君爲君。遣衡、還郡、勿令自疑」己丑、封孫晧、爲烏程侯。晧弟德、錢唐侯。謙、永安侯。

また詔した。「丹陽太守の李衡は、かつて私と対立したから、みずから有司に拘束されたが、斉桓公のバックルを射た管仲の前例もあるのだから、帰郷してよい」と。

王応麟はいう。孫休が李衡と和解したのは、高帝の風度がある。孫呉の賢君である。
ぼくは思う。裴注『襄陽記』などで李衡の列伝、李衡伝がはじまる。はぶく。重要な人物で、裴松之が「列伝があっても不思議でないほど、影響度とエピソードがある人物」と見なしたようだ。後日。上海古籍2994頁。ちくま訳178頁。
孫休の人となりを語るなら、李衡伝が参考になるなあ!

10月己丑、孫晧を烏程侯に封じた。孫晧の弟の孫德を錢唐侯に、孫謙を永安侯に封じた。

烏程と銭唐は、どちらも孫堅伝にある。『宋書』はいう。永安は、呉郡の烏程と余杭の2県を分けて立てられた。謝鍾英はいう。『呉興記』はいう。興平2年、呉郡太守の許貢は上奏して、烏程を分けて永安とした。『寰宇記』はいう。烏程の余不郷を分けて、武康県をたてた。


江表傳曰。羣臣奏立皇后、太子、詔曰「朕以寡德、奉承洪業、蒞事日淺、恩澤未敷、加后妃之號、嗣子之位、非所急也。」有司又固請、休謙虛不許。

『江表伝』はいう。群臣は「皇后と太子を立てろ」と上奏するが、孫休は「私は寡徳のくせに、洪業をついだ。即位して日が浅く、私は恩沢をしかない。いそいで皇后と嗣子をおく資格がない」という。有司はきつく勧めたが、孫休は辞した。

ぼくは思う。もう24歳だから、妻子はいるだろう。皇后と太子という、称号をつけることを拒んでいるのね。ちなみに孫晧は23歳で即位して、同年に皇后を立てる。


◆孫綝を尊び、孫綝を滅ぼす

十一月甲午、風四轉五復、蒙霧連日。綝、一門五侯皆典禁兵、權傾人主。有所陳述、敬而不違、於是益恣。休、恐其有變、數加賞賜。丙申、詔曰「大將軍、忠款內發、首建大計、以安社稷。卿士內外、咸贊其議、並有勳勞。昔、霍光定計、百僚同心、無復是過。亟案前日、與議定策、告廟人名、依故事應、加爵位者、促施行之」

11月甲午、旋風が4轉5復した。蒙霧が連日である。孫綝は1門から5侯をだし、禁兵を典する。孫休は変事をおそれ、しばしば孫綝の兄弟に賞賜を加える。

恐れるからこそ、賞賜を加える。イイネ!
後漢の桓帝が、梁冀を恐れるからこそ、たくさんの賞賜を加えて、出仕しなくて良い特権をあたえた。宮城谷『三国志』では、梁冀の顔を見なくて良いから安心した、という理解がなされてた気がする。そんなもんじゃ、ないだろうw

11月丙申、詔した。「大将軍の孫綝は、霍光より功績がおおきい。私の即位を手伝った者のリストをあげよ。爵位を加えるべき者に、爵位を加えよう」と。

ぼくは思う。曹爽と孫綝は似てる。孫休伝「綝一門五侯皆典禁兵」とある。皇帝と同姓だが、皇帝になれるほど近くない。兄弟がみな高位になり、禁兵を典する。曹爽は司馬懿に殺され、孫綝は張布に殺される。両者が同じ構造だと仮定すると、司馬懿は張布の位置だ。司馬氏は曹髦と曹奐を、張布は孫晧を即位させるなあ。
ぼくは思う。孫晧は「張布らに簒奪されるのでは」というリスクが、1%くらいはあった。孫晧が、即位した直後に、自分を推薦した三公らを迫害するのは、理由のないことではない。いや、やはり無謀かなあ。


戊戌、詔曰「大將軍、掌中外諸軍事、事統煩多。其、加衞將軍御史大夫恩。侍中。與大將軍、分省諸事」壬子、詔曰「諸吏家、有五人三人、兼重爲役。父兄在都、子弟給郡縣吏。既出限米、軍出又從、至於家事、無經護者。朕、甚愍之。其、有五人三人爲役、聽其父兄所欲留、爲留一人除其米限軍出不從」又曰「諸將吏、奉迎陪位在永昌亭者、皆加位一級」頃之、休聞、綝逆謀。陰與張布、圖計。十二月戊辰、臘、百僚朝賀、公卿升殿。詔、武士縛綝、卽日伏誅。己巳、詔、以左將軍張布討姦臣、加布爲中軍督、封布弟惇爲都亭侯、給兵三百人、惇弟恂爲校尉。

11月戊戌、孫休は詔した。「大將軍の孫綝は、中外諸軍事を掌握して、仕事がおおい。衞將軍、御史大夫の孫恩に、侍中を加える。孫綝と孫恩で、仕事を分担せよ」と。

胡三省はいう。孫綝の権限を分割したのだ。ぼくは思う。孫綝の兄弟のあいだで分割することに、意味があるのだろうか。孫綝と孫恩が対立するような予兆はない。

11月壬子、詔した。「官吏の家では、兄弟が5人いれば、3人が公務にある。父と兄が中央で、子と弟が郡県で、役務をやる。家事の運営に支障がある。5人兄弟のうち3人が公務にあれば、米税を減らし、軍務を免じる」と。

ぼくは思う。兄弟みなが高官につく、孫綝へのあてつけ!

詔「私の即位に同行し、永昌亭にきた将吏は、爵位1級をくわえる」

孫綝たちの爵位が、またあがりました!

孫休は、孫綝が逆謀すると聞く。ひそかに張布と、孫綝をのぞく計画をした。

康発祥はいう。『呉志』丁奉伝によると、孫綝を倒したのは、張布でなく丁奉である。丁奉の功績として記録されるべきだ。
孫綝の最期は、孫綝伝にある。王応麟はいう。孫休が孫綝をうったのは、叔孫昭子のような決断があった。趙一清はいう。『晋書』五行志は、12月丁卯夜に大風があり、木が発して砂が揚がったという。翌日に孫綝が殺された。
ぼくは思う。『晋書』五行志、『宋書』礼志などは、孫呉の記事がおおい!
ぼくは思う。諸葛恪、孫峻、孫綝により、政事がのっとられたのは、けっきょく孫亮1代きりだった。孫綝が孫亮を廃する目的は、やはり自分が皇位につくためだろう。孫亮よりも年長の孫休がきたのでは、孫綝に有利でない。孫休が即位できてしまった時点で、孫綝はわりと敗北が濃厚だったか。孫綝伝を読まないと分からないが、孫休が即位できるか否かは、かなり際どかったはず。

12月戊辰、臘=祭祀のとき、孫綝を縛り、同日に誅した。12月己巳、左將軍の張布が姦臣を討ったので、中軍督を加えた。張布の弟・張惇を都亭侯とし、兵3百人をたまう。張惇の弟・張恂を校尉とする。

詔曰「古者建國、教學爲先、所以道世治性、爲時養器也。自建興以來、時事多故、吏民頗以目前趨務、去本就末、不循古道。夫、所尚不惇、則傷化敗俗。其、案古置學官、立五經博士、核取應選、加其寵祿。科見吏之中及將吏子弟有志好者、各令就業。一歲課試、差其品第、加以位賞。使見之者樂其榮、聞之者羨其譽。以敦王化、以隆風俗。」

詔した。「古代より建国したら、まず教育を優先した。孫亮が即位した建興より、教育がなおざりだ。学官をおき、五経博士をおく。将吏の子弟のうち学びたい者は、教育を受けろ。1年で試験をしてランクをつけ、官位や賞賜をあげる」と。

ぼくは思う。官位や賞賜で「つる」わけね。
ぼくは思う。孫休は「孫亮の時期から」というが、孫権のときも、儒教に熱心だったと思われない。孫休は、言外に孫権の時代も批判していると思う。それにしても孫呉に五経博士なんて、おかしいなあ!


永安2年、優れた定型文の詔をだす

二年春正月、震電。三月、備九卿官。詔曰「朕以不德、託于王公之上、夙夜戰戰、忘寢與食。今、欲偃武修文、以崇大化。推此之道、當由士民之贍、必須農桑。管子有言『倉廩實、知禮節。衣食足、知榮辱』夫、一夫不耕有受其饑、一婦不織有受其寒。饑寒並至而民不爲非者、未之有也。自頃年已來、州郡吏民及諸營兵、多違此業、皆浮船長江、賈作上下。良田漸廢、見穀日少。欲求大定、豈可得哉。亦、由租入過重農人利薄、使之然乎。今、欲廣開田業、輕其賦稅、差科彊羸、課其田畝、務令優均。官私得所、使家給戶贍足相供養、則愛身重命不犯科法。然後、刑罰不用、風俗可整。以羣僚之忠賢、若盡心於時、雖太古盛化未可卒致、漢文升平庶幾可及。及之、則臣主俱榮。不及、則損削侵辱。何可從容俯仰而已。諸卿尚書、可共咨度、務取便佳。田桑已至、不可後時。事定施行、稱朕意焉。」

永安2年春正月、震電あり。3月、九卿の官を整備した。詔した。
武事より文事をやろう。農桑を重んじて、飢餓をふせごう。州郡の吏民、軍営の兵が、本来の職務でないのに、長江に船をうかべて商売をやる。良田はすたれ、穀物はへる。租税が重くて、農民は利益が少ない。いま田地をひらき、賦税をかるくし、耕地の等級ごとに課税しよう。群僚は正しく勤務せよ。前漢の文帝の時代にならぶだろう。最優先は農桑だからね」と。

或る者はいう。これこそ本来、皇帝がだすべき詔である。孫権が皇帝即位してから、このような詔が1度もなかったよね。ぼくは補う。この「或る者」のコメント以外に『三国志集解』は注釈がない。あまりに定型文だからだろう。
ぼくは思う。孫休は、典籍からコピペしているだろうが。定型文のコピペこそ、政事をうまくやる秘訣である。人間社会で行われることなんて、95%が定型文なんだから。オリジナリティを追求すると、おかしなことになる。孫休のようにコピペしていれば、名君になるのだ。「定型文のスピーチで、人を感動させる」のがプロである。らしい。
ぼくは思う。孫休のようなコピペ名君が、蜀漢の滅亡とともに、重圧を受けて死んでしまうのは、残念なことだ。強国と向き合った弱国の前例をしらべて、定型文を濫発してくれれば、孫呉は治まったものを。


永安3年、廃帝の孫亮をころす

三年春三月西陵言、赤烏見。秋、用都尉嚴密議、作浦里塘。會稽郡謠言、王亮當還爲天子。而亮宮人告、亮使巫禱祠有惡言。有司以聞、黜爲候官侯、遣之國。道自殺、衞送者伏罪。以會稽南部、爲建安郡。分宜都、置建平郡。

永安3年春3月、西陵から「赤烏がいた」と報告あり。

西陵は夷陵である。『魏志』文帝紀の黄初3年にある。
『晋書』五行志中はいう。孫休の永安3年、武将や太守の人質を遊ばせていると、小さな子が「三公鋤、司馬如。私は人でない。熒惑である」といい、釣られたように上昇し、消えてしまった。干宝はいう。三公鋤とは、魏呉蜀の滅亡であり、司馬氏に帰服することを意味する。あと4年で蜀漢、あと6年で曹魏、あと21年で孫呉がほろびる。
孫晧伝末にある『捜神記』にも同じ話がある。

秋、都尉の厳密の議論をもちい、浦里塘をつくる。

胡三省はいう。『後漢書』方術伝によると、浦里塘は丹陽郡の宛陵県の境界にある。『呉志』濮陽興伝はいう。厳密は丹陽湖に、浦里塘をつくった。

會稽郡で謠言があった。「会稽王の孫亮が、天子にもどる」と。孫休が、皇帝にもどるため祈祷するともいう。有司は、孫亮を候官侯にした。赴任させる途中、孫亮は自殺した。 孫亮を護衛する者は、自殺を止められなかったので、罪に伏した。

裴注『呉録』はいう。孫休は鴆殺されたともいう。西晋の太康のとき、もと孫呉の少府した丹陽の戴顒が、孫亮の死体を迎えて、頼郷に葬った。

會稽南部都尉を、建安郡とした。宜都郡をわけて、建平郡をおく。

会稽南部都尉は、孫亮伝の太平2年にある。建安郡は孫権伝の赤烏2年にひく『文士伝』にある。
宜都郡は、『蜀志』先主伝の章武2年の注釈にある。建平の郡治は巫県である。『水経』江水注にある。巫県は『蜀志』先主伝の章武元年にある。建平は、孫晧伝の天紀4年にひく干宝『晋紀』にもある。


吳歷曰。是歲得大鼎於建德縣。

『呉歴』はいう。この歳、大鼎が建徳県で得られた。

『宋書』州郡志はいう。呉郡のもとに建徳令がある。孫呉が富春県をわけて立てた。『元和志』はいう。建徳は、もとは漢代の富春県である。孫呉の黄武4年、建徳県がわかれた。


永安4年、光禄大夫が各地を巡察する

四年夏五月、大雨、水泉涌溢。秋八月遣光祿大夫周奕、石偉、巡行風俗、察將吏清濁、民所疾苦。爲黜陟之詔。九月布山言、白龍見。是歲、安吳民陳焦死、埋之、六日更生、穿土中出。

永安4年夏5月、大雨があり、水泉があふれた。

趙一清はいう。『宋書』五行志はいう。浦里塘をつくったが、費用ばかりかかり、使い物にならず。工事で士卒が死んだので、百姓が怨んだ。その陰気が大雨をまねいた。

秋8月、光祿大夫の周奕と石偉に詔した。風俗を巡行させ、將吏の清濁を調査させ、民を疾苦させる将吏を黜陟した。

裴注『楚国先賢伝』で石偉の列伝、石偉伝がある。はぶく。
ぼくは思う。孫休の代になり、やっと後漢に似た記事がでてきた。王朝の体裁が整ってきたのだろう。孫権の時期は、名前が先行だった。その意味では曹操の時期に似ている。曹丕や曹叡にならないと、王朝の体裁が整えない。蜀漢は、諸葛亮が1人で全部やり、体裁が整うこともなく、徐々に崩れて滅亡にいたる。

9月、鬱林の郡治たる布山で、白龍がいたと報告あり。この歳、安吳県の民・陳焦が死んだが、埋めて6日で蘇生して、出てきた。

『宋書』州郡志はいう。宣城太守は、晋武帝の太康元年に、丹陽から分けて立てられた。宣城太守のしたに安呉令がある。安呉令は孫呉が立てた。
『呉志』程普伝はいう。宣城、涇、安呉、陵陽、春穀の諸族を討った。
周寿昌は、死者が蘇生する記事をのせる。上海古籍3001頁。はぶく。


永安5年、丞相の濮陽興、左將軍の張布を重用

五年春二月、白虎門北樓災。秋七月始新言、黃龍見。八月壬午、大雨震電、水泉涌溢。乙酉、立皇后朱氏。戊子、立子湾爲太子、大赦。冬十月以衞將軍濮陽興、爲丞相。廷尉丁密、光祿勳孟宗、爲左右御史大夫。休、以丞相興及左將軍張布、有舊恩、委之以事。布、典宮省。興、關軍國。

永安5年春2月、白虎門(城の西門)の北樓が災えた。秋7月、始新で「黃龍がいた」と報告あり。

始新は、孫権伝の建安13年にある。

8月壬午、大雨と震電あり。水泉があふれた。8月乙酉、皇后に朱氏を立てる。8月戊子、孫湾を太子とする。大赦した。

朱氏とは朱公主の娘である。
裴注『呉録』で、孫休が子の名前をむずかしい漢字にした記事がある。裴松之による批判もある。はぶく。裴松之は「字をいじくってるから、孫休の死後、妻子も殺された」とひどいことをいう。

冬10月、衞將軍の濮陽興を丞相とする。廷尉の丁密、光祿勳の孟宗を、左右の御史大夫とする。

『陳留風俗伝』はいう。漢代に、長沙太守の濮陽逸がいる。孫休が会稽にいるとき、濮陽興は会稽太守となる。張布とともに重用された。
丁密は、孫亮伝の太平2年にある。孫晧伝の元興元年にひく『呉歴』にある。また虞翻伝にひく『会稽典録』にある。
孟宗は、孫権伝の嘉禾6年、孫晧伝の建衡3年にひく『呉録』にある。
盧弼はいう。いま孫休伝で御史大夫は左右に分かれる。孫晧伝の建衡3年、左右御史大夫の丁固と孟仁を、司徒と司空とする。丁固とは丁密であり、孟仁とは孟宗である。ぼくは思う。2人とも名前ちがうじゃん。

孫休は、丞相の濮陽興、左將軍の張布とは、舊恩があるから政治を委任した。張布は宮省を典した。濮陽興は軍國を関した。

濮陽興伝はいう。濮陽興が丞相となり、孫休の朝臣・張布とともに表裏をにぎると、国内は失望した。ぼくは思う。わざわざ濮陽興伝に書かなくなっていいじゃないかw


休、銳意於典籍、欲畢覽百家之言。尤好射雉、春夏之間常晨出夜還、唯此時舍書。休、欲與博士祭酒韋曜、博士盛沖、講論道藝。(中略)初、休爲王時。布、爲左右將督、素見信愛。及至踐阼、厚加寵待、專擅國勢、多行無禮。自嫌瑕短、懼曜沖言之、故尤患忌。休、雖解此旨、心不能悅。更恐、其疑懼、竟如布意、廢其講業、不復使沖等入。是歲使察戰、到交阯、調孔爵、大豬。

孫休は、典籍に銳意である。百家之言を読破したい。

何焯はいう。南朝斉、南朝梁の君主は、みな孫休の類いである。しかし学んだことの要点が、分からないままだったようだ。
ぼくは思う。学問する皇帝の孫休。孫休伝で「孫休は、百家の言を読破したい」とある。何焯は「南朝斉、南朝梁の君主は、みな孫休の類いである」という。南朝梁の武帝にてピークがくる、文化資本をまとった皇帝は、孫休から始まるのか。なるほど!東晋には学問の皇帝がいたっけ。すぐに思いつかない。調べねば。

孫休は、博士祭酒の韋曜、博士の盛沖と議論をした。中略。

ここに孫休と張布の会話があるが、つぎの文で結果がまとめられている。だから中略した。孫休は「学問と政治は別だ。張布は、自分の悪事が韋曜からモレるのを恐れるようだが、韋曜から聞かなくても、オレは張布の悪事を知ってる」という。孫休は、なまじ賢いだけに、臣下の体面をつぶすw

孫休が王のとき、張布は左右將督であり、信愛された。孫休が皇帝即位すると、国政をかたむけ、無礼がおおい。韋曜や盛沖から、自分の無礼がモレるのを嫌った。孫休は張布の態度をよろこばないが、張布との摩擦をさけ、盛沖と韋曜を遠ざけた。

韋曜伝はいう。孫休は韋曜を侍講にしたいが、左将軍の張布は、韋曜が孫休に近づくのを嫌った。孫休は、ふかく張布を怨んだ。

この歳、察戦を交趾にゆかせ、孔爵と大豬を調達させた。

察戦と交趾は、どちらも『魏志』陳留王紀の咸煕元年にある。『呉志』孫奮伝にひく『江表伝』で、察戦が人名のように見えるが、これは誤写であり、官名である。『江表伝』では察戦の鄧荀とすべきで、『晋書』陶璜伝でもウラがとれる。
汪継熊はいう。孫呉の察戦とは、中使のことである。孫奮伝の注釈と、『晋書』五行志にある。奄宦がこれにあたる。ぼくは思う。皇帝の使者として、取締などをやる官職か。


永安6年、曹魏が蜀漢をほろぼす

六年夏四月泉陵言、黃龍見。五月交阯郡吏呂興等反、殺太守孫諝。諝、先是、科郡上手工千餘人送建業。而察戰至、恐復見取、故興等因此扇動兵民、招誘諸夷也。

永安6年夏4月、零陵の治所・泉陵から黃龍がいたと報告あり。

泉陵は、『蜀志』先主伝の建安13年にある。

5月、交阯の郡吏・呂興らが反乱する。交趾太守の孫諝を殺す。

呂興は、『魏志』陳留王紀の咸煕元年にある。
梁商鉅はいう。殺された太守は、『晋書』陶璜伝では孫諝、『華陽国志』では孫靖であろう。『通鑑』は孫諝である。

これより先に孫諝は、郡内の技術者1千余人を、建業におくった。いま察戦が中央からきて、また技術者が徴発されると思い、呂興は夷族をまねいて反乱した。

冬十月蜀以魏見伐、來告。癸未、建業石頭小城火、燒西南百八十丈。甲申、使大將軍丁奉、督諸軍、向魏壽春。將軍留平、別詣施績於南郡。議兵所向、將軍丁封、孫異、如沔中、皆救蜀。蜀主劉禪降魏、問至、然後罷。呂興、既殺孫諝、使使如魏、請太守及兵。丞相興、建取屯田萬人以爲兵。分武陵、爲天門郡。

冬10月、曹魏が蜀漢を伐つと報告あり。10月癸未、建業の石頭小城で火があり、西南180丈が燃えた。

侯康はいう。『晋書』五行志上はいう。張布が国政をかたむけ、無礼である。韋曜と盛沖は用いられない。察戦らが内史となり、州郡を驚かし、交趾で呂興が反乱した。これらの咎として、火災があった。

10月甲申、大將軍の丁奉が、諸軍を督して、寿春にむかう。將軍の留平は、わかれて南郡の施績を詣でる。將軍の丁封と孫異は、沔中にゆき、どちらも蜀漢を救いにゆく。進軍の方向を議論した。劉禅が曹魏に降ったので、進軍をやめる。

胡三省はいう。胡三省はいう。沔中とは、魏呉の境界である。孫呉は、沔中まで到達できない。孫呉に属する巫県や秭歸は、長江の北にあり、曹魏の新城郡と境界を接する。孫呉から蜀漢にゆくには、巫県や秭歸から、沔中を発して、長江をさかのぼる。
『呉志』華覈伝はいう。蜀漢が併合され、華覈は宮門に詣でて上表した。
ぼくは思う。孫権が言ったとおり、呉蜀は同盟していても、情報にタイムラグがあるので、機敏に援軍を出せない。裏返せば、機敏に隙を突けない。益州を守れないし、曹魏の別方面を攻められない。けっきょく孫呉は、亡蜀にあたって何もしてない。

交趾の反乱者の呂興は、交趾太守の孫諝を殺して、曹魏に使者をだして、太守の赴任と援兵を要請する。

梁商鉅はいう。『晋書』陶璜伝はいう。司馬昭は呂興を安南将軍、交趾太守とした。盧弼はいう。呂興は下人に殺された。『魏志』陳留王紀の咸熙元年にある。
この歳、武陵太守の鍾離牧が、五谿を平らげた。鍾離牧伝にある。

丞相の濮陽興は、屯田の1萬人を取りたて、孫呉の中央兵にすることを提案した。武陵を分けて、天門郡をつくれと提案した。

ぼくは思う。屯田兵を取りたてたのは、曹魏を警戒するため?
武陵は先主伝の建安13年にある。『晋書』地理志はいう。天門は、郡治が零陽であり、5県を統べる。零陽、漊中、充、臨ホウ、ホウ陽である。充県にある松梁山が、天にとどく門とされ、天門郡という。


吳歷曰。是歲青龍見於長沙、白燕見於慈胡、赤雀見於豫章。

『呉歴』はいう。この歳、青龍が長沙にいた。白燕が慈胡にいた。赤雀が豫章にいた。

盧弼が慈胡について注釈する。上海古籍3007頁。


永安7年、曹魏と海賊により、シニフィエが暴れる

七年春正月、大赦。二月鎭軍陸抗、撫軍步協、征西將軍留平、建平太守盛曼、率衆、圍蜀巴東守將羅憲。夏四月魏將新附督王稚、浮海、入句章、略長吏賞林及男女二百餘口。將軍孫越、徼、得一船、獲三十人。

永安7年春正月、大赦した。2月、鎭軍将軍の陸抗、撫軍将軍の步協、征西將軍の留平、建平太守の盛曼は、蜀漢の巴東守將・羅憲をかこむ。

陸抗伝はいう。永安2年、陸抗は鎮軍将軍を拝して、西陵を都督する。歩隲伝はいう。赤烏11年、歩隲の子・歩協が、撫軍将軍を加えられる。
留平のことは、『呉志』王蕃伝にある。建平郡は永安3年になる。羅憲のことは、『蜀志』霍峻伝にひく『襄陽記』にある。

夏4月、魏將の新附督の王稚が、海路から句章に入り、長吏の賞林と男女2百餘口をうばう。

胡三省はいう。新附督とは、けだし孫呉から曹魏に、新たに付いた者を部する官職で、長官は督である。
句章は孫堅伝にある。ぼくは思う。曹魏が、海路から攻めてくるなんて!

將軍の孫越は、王稚と戦い、1船と30人を奪回する。

秋七月海賊破海鹽、殺司鹽校尉駱秀。使中書郎劉川、發兵廬陵。豫章民張節等、爲亂、衆萬餘人。魏、使將軍胡烈、步騎二萬、侵西陵、以救羅憲。陸抗等、引軍退。復分交州、置廣州。壬午、大赦。癸未、休薨。時年三十、諡曰景皇帝。

秋7月、海賊が海鹽県をやぶり、司塩校尉の駱秀を殺す。

海塩は孫権伝の赤烏5年にある。洪飴孫はいう。司塩校尉は、定員1名、孫呉がおく。海塩を治所とする。ぼくは思う。海賊がでるなんて。孫呉は海沿いを守りきれない。曹魏もくるわ、海賊もくるわ。

中書郎の劉川に、廬陵から兵を徴発させる。豫章の民・張節らが反乱して、1万余人にふくらむ。曹魏は、將軍の胡烈に歩騎2万をつけ、西陵に侵攻させ、羅憲をすくう。陸抗らは軍をひく。

西陵は『魏志』文帝紀の黄初3年にある。
ぼくは思う。孫呉は、曹魏と被支配者(民衆や海賊)に叛かれまくっている。ひとえに蜀漢が潰れた動揺だろう。学問と秩序がだいすきな孫休は、こういう自然がえりした事態が、とても苦手だろう。孫休の死因は、既存の秩序の崩壊だなあ。蜀漢が滅びたので、まったく情勢が読めない。

交州を分けて、広州をおく。

ぼくは思う。州の数を増やして、曹魏に対抗するのか。曹魏は益州が増えたから。また、海沿いの統治を、名目だけでも細かくしたい。州治を設置しても、べつに州兵が地から湧いてくるわけじゃない。
孫権伝はいう。黄武5年、交州をわけて広州をおく。にわかに撤回する。いま孫休のとき、広州を置き直した。

7月壬午、大赦した。7月癸未、孫休が薨じた。30歳。景皇帝と諡された。

江表傳曰。休寢疾、口不能言、乃手書呼丞相濮陽興入、令子𩅦出拜之。休把興臂、而指𩅦以託之。

『江表伝』はいう。孫休は口が聞けないので、手書で丞相の濮陽興をよぶ。濮陽興の手をとり、太子の孫湾を指ささせ、孫湾を託した。

盧弼はいう。曹叡は司馬懿の手をとり、曹芳を託したが、曹芳は10余年で廃された。孫休は濮陽興の手をとり、孫湾を託したが、孫湾は皇帝にならなかった。諸葛亮は劉禅を支えたから、すごいなあ。
ぼくは思う。孫休は「ゆきすぎた都市の住民」だったのだろう。現実と理論がぶつかる、政治の実務は、しんどかった。だから濮陽興と張布が、無礼をやると知っても、彼らに丸投げした。すでに「百家の言」として、情報に加工済のものを、記号の操作だけしているのが好きだった。百家を読むことは、たしかに難しいし、才能と訓練が必要だが、しょせんは記号の操作である。記号とは、操作しやすいように作成されたものだから、それを操作することは簡単である。「食べにくい料理」だって、料理されている時点で、すでに食べられるように加工が施されているのだから、食べるのが根本的に困難ということはない。同語反復だけど、そういうもんだと思う。
来年からのぼくの決算業務も、そんな感じだと思ってるけど、どうかなあ。難しいのは、現実から記号に変換する瞬間であって、記号どうしの突合は、ママゴトだと思う。
言語論的転回をへたほうの歴史学も、ママゴトである。ここにこう書いてある、あそこにああ書いてある。おしまい。シニフィアンをいじくるのは、手堅いけれど、おもしろくない(と感じる人間が多いのだと思う)。無謀を承知で、ラカンに抹消符号を付けられても、シニフィエを味わいたい。孫休はシニフィアンに過剰に傾倒した人だったから、孫休はシニフィエに食われてしまった。つまり、言語に指示されているようで、じつは言語では指示しきれない、泥のような現実に圧死させられた。


葛洪抱朴子曰。吳景帝時、戍將於廣陵掘諸冢、取版以治城、所壞甚多。復發一大冢、內有重閣、戶扇皆樞轉可開閉、四周爲徼道通車、其高可以乘馬。又鑄銅爲人數十枚、長五尺、皆大冠朱衣、執劍列侍靈座、皆刻銅人背後石壁、言殿中將軍、或言侍郎、常侍。似公主之冢。破其棺、棺中有人、髮已班白、衣冠鮮明、面體如生人。棺中雲母厚尺許、以白玉璧三十枚藉尸。兵人輩共舉出死人、以倚冢壁。有一玉長一尺許、形似冬瓜、從死人懷中透出墮地。兩耳及鼻孔中、皆有黃金如棗許大、此則骸骨有假物而不朽之效也。

葛洪『抱朴子』はいう。孫呉の景帝のとき、広陵で墓を掘ったら、玉や黄金によって、死後も身体が腐らない人々がでてきた。

『晋書』葛洪伝、『抱朴子』について上海古籍3009頁。
何焯がクレームをつけるとおり、とくに何の注釈ということもない。盧弼が解説するとおり、孫休の時代のことだから、ひろく記事を裴松之がくっつけた。

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孫晧:元興と甘露;魏晋革命への対応

元興元年、濮陽興、張布、孫休を殺す

孫晧、字元宗、權孫、和子也。一名彭祖、字晧宗。孫休立、封晧爲烏程侯、遣就國。西湖民景養、相晧、當大貴。晧、陰喜而不敢泄。休薨、是時蜀初亡、而交阯攜叛、國內震懼。貪得長君。左典軍萬彧、昔爲烏程令、與晧相善、稱、晧才識明斷、是長沙桓王之疇也、又加之好學、奉遵法度、屢言之於丞相濮陽興左將軍張布。興布說休妃太后朱、欲以晧爲嗣。朱曰「我、寡婦人、安知社稷之慮。苟吳國無損宗廟有賴、可矣」於是、遂迎立晧、時年二十三。改元、大赦。是歲於魏、咸熙元年也。

孫晧は、あざなを元宗という。孫権の孫、孫和の子。1名を彭祖、あざなを晧宗。孫休が立つと、烏程侯となり、烏程にゆく。西湖の民・景養が「孫晧の人相が貴い」といい、孫晧は喜んでも他言しない。
孫休が死に、蜀漢が滅び、呂興が交趾で叛くから、国内は震懼して、年長の君主を期待する。左典軍の萬彧は、むかし烏程令のとき、孫晧と知りあい、孫策と同類だと思った。万彧は、丞相の濮陽興、左將軍の張布に、孫晧を薦めた。

孫呉には、中典軍、左典軍、右典軍がいる。『呉志』張昭伝では、張休が3典軍事を平したとある。

濮陽興と張布は、朱太后の許可をとり、孫晧を迎えた。孫晧が立つとき、23歳である。改元、大赦した。これは曹魏の咸熙元年である。

潘眉は25歳というが、盧弼は23歳で良いという。


元興元年八月。以上大將軍施績、大將軍丁奉、爲左右大司馬。張布爲驃騎將軍、加侍中。諸增位班賞、一皆如舊。九月、貶太后爲景皇后、追諡父和曰文皇帝、尊母何爲太后。

元興元年8月、上大將軍の施績、大將軍の丁奉を、左右大司馬とした。張布を驃騎將軍として、侍中を加えた。旧例どおり、それぞれに位を増し、賞を班った。

この旧例は、孫休なのか? それとも漢代?

9月、朱太后をおとしめ、景皇后とした。孫和を文皇帝として、母を何太后とした。

何焯はいう。朱太后を貶めたが、濮陽興と張布は反対しなかった。2人は死んでも仕方ない。孫晧は明世宗のようである。
検索した。明世宗とは、嘉靖帝である。明朝第12代の皇帝。在位1521‐66年。孝宗の弟である興献王の長子。父のあとをついで湖北の安陸州の藩王であったが、武宗が子をもうけずに没したため、皇位を継いだ。
孫和の嫡妃は、張承の娘である。孫和が新都で死ぬと、張妃も殺された。何姫は孫晧を生んだと、妃嬪伝にある。『呉録』はいう。孫晧は孫和をとうとび、昭献皇帝としたが、にわかに文皇帝と改めた。
盧弼はいう。孫晧は実母のみ尊び、嫡妃に諡せず。


江表傳曰。晧初立、發優詔、恤士民、開倉稟、振貧乏、科出宮女以配無妻、禽獸擾於苑者皆放之。當時翕然稱爲明主。

『江表伝』孫晧が即位すると、詔した。士民のために倉庫をひらき、宮女を独身者にあたえ、御苑の禽獣をにがした。名君だなあと言われた。

ぼくは思う。どのように孫晧が「壊れて」いくのか、観察しましょう。


十月封休太子𩅦爲豫章王、次子汝南王、次子梁王、次子陳王、立皇后滕氏。晧、既得志、麤暴驕盈、多忌諱、好酒色、大小失望。興布、竊悔之。或以譖晧、十一月誅興布。十二月孫休、葬定陵。封后父滕牧、爲高密侯、舅何洪等三人皆列侯。是歲、魏置交阯太守之郡。晉文帝、爲魏相國、遣昔吳壽春城降將徐紹、孫彧、銜命齎書、陳事勢利害、以申喻晧。

10月、太子の孫湾を豫章王に封じ、次子を汝南王、次子を梁王、次子を陳王に封じ、皇后に滕氏を立てた。

盧弼はいう。なぜ汝南王より以下に、名を記さないのか。なぜ陳寿の記述に統一性がないのか。理由が分からない。ぼくは思う。孫休の子たちは、漢字が難しいからでは?

孫晧が皇帝になると、おごって酒色を好んだので、みな失望して、孫晧を選んだことを悔いた。或る者が孫晧にそしったので、11月に濮陽興と張布を誅した。

ぼくは思う。「おごって酒色を好み」なんて、抽象的な理由で、孫晧の行動を描写されても、こまる。どうせ、濮陽興たちを殺した理由を、適当に書いたのだろう。全体的な印象で書かれてもねえ。
盧弼はいう。孫晧は張布を誅したのち、また張布の娘を美人とした。妃嬪伝の何姫伝にひく『江表伝』にある。
ぼくは思う。孫休は「平和」的に死んだから、孫晧は孫休の体制を、批判的に継承する必要はない。濮陽興と張布は、おそらく孫休の時代と同じく、皇帝をさしおき(皇帝には学問をさせておき)自分たちが仕切ろうとした。だから親政に意欲がある孫晧とぶつかったのだろう。孫晧は、権臣なしで政治をやれないので、血縁者を中心にもってきた。まだ孫晧がおごったかどうか、分からない。

12月、孫休を定陵に葬る。皇后の父・滕牧を高密侯とした。舅の何洪ら3人を列侯とした。

定陵の場所について、上海古籍3014頁。
滕牧は、滕胤の族人である。滕胤は孫綝に殺された。
吳歷曰。牧本名密、避丁密、改名牧、丁密避牧、改名爲固。
裴注『呉歴』はいう。滕牧は、本名を滕密という。丁密をさけて、滕牧に改名した。丁密は、滕牧をさけて、丁固に改名した。
梁商鉅はいう。虞翻伝にひく『会稽典録』はいう。丁覧の子・丁固は、あざなを子賤。本名は丁密である。なぜ2人は避けあったか。滕牧は、じぶんが高密侯に封じられたから改めた、丁固は滕氏を避けたのでは。沈家本はいう。丁密が避けたのも高密という封地の名では。だが古代より、封爵により、改名した者はいない。

この歳、曹魏は交趾太守をおき、赴任させる。

『晋書』陶璜伝はいう。
孫晧時,交阯太守孫諝貪暴,為百姓所患。會察戰鄧荀至,擅調孔雀三千頭,遣送秣陵,既苦遠役,鹹思為亂。郡吏呂興殺諝及荀,以郡內附。武帝拜興安南將軍、交阯太守。尋為其功曹李統所殺,帝更以建甯爨穀為交阯太守,谷又死,更遣巴西馬融代之。融病卒,南中監軍霍弋又遣犍為楊稷代融,與將軍毛炅,九真太守董元,牙門孟幹、孟通、李松、王業、爨能等,自蜀出交阯,破吳軍於古城,斬大都督修則、交州刺史劉俊。など。
『華陽国志』4はいう。霍弋は上表して、爨穀を交趾太守とした。泰始元年、爨穀は郡にいたり、なつけて初めて曹魏に付かせる。すぐに爨穀は卒した。西晋は、馬忠の子・馬融を、爨穀の後任とした。馬融が卒すと、犍為の楊稷が代わった。
盧弼はいう。『晋書』『華陽国志』によると、いま『呉志』孫晧伝で交趾太守をおいて郡に赴任させたというのは、爨谷である。蜀方面を経由して、交趾に入ったのだ。

司馬昭は相国となる。司馬昭は、寿春で孫呉から曹魏に降った徐紹、孫彧に文書を持たせ、孫晧に諭した。

くわしくは『魏志』陳留王紀の咸熙元年。
ぼくは思う。裴注『漢晋春秋』で、司馬昭の文書を載せる。なにも新しい情報がなくて、明らかにアトヅケである。大意は。君臣には上下の秩序がある。いま曹魏が君であり上である。わたし司馬昭は曹魏の宰相である。蜀漢を無傷で平定した。孫呉を滅ぼす兵備があるが、魏帝は綿竹でのダメージに心を痛めて、伐呉を保留している。孫呉は曹魏に併呑されてほしい。
漢晉春秋載晉文王與晧書曰「聖人稱有君臣然後有上下禮義、是故大必字小、小必事大、然後上下安服、羣生獲所。逮至末塗、純德既毀、剿民之命、以爭彊於天下、違禮順之至理、則仁者弗由也。方今主上聖明、覆幬無外、僕備位宰輔、屬當國重。唯華夏乖殊、方隅圮裂、六十餘載、金革亟動、無年不戰、暴骸喪元、困悴罔定、每用悼心、坐以待旦。將欲止戈興仁、爲百姓請命、故分命偏師、平定蜀漢、役未經年、全軍獨克。于時猛將謀夫、朝臣庶士、咸以奉天時之宜、就既征之軍、藉吞敵之勢、宜遂回旗東指、以臨吳境。舟師泛江、順流而下、陸軍南轅、取徑四郡、兼成都之械、漕巴漢之粟、然後以中軍整旅、三方雲會、未及浹辰、可使江表厎平、南夏順軌。然國朝深惟伐蜀之舉、雖有靜難之功、亦悼蜀民獨罹其害、戰於緜竹者、自元帥以下並受斬戮、伏尸蔽地、血流丹野。一之於前、猶追恨不忍、況重之於後乎?是故旋師按甲、思與南邦共全百姓之命。夫料力忖勢、度資量險、遠考古昔廢興之理、近鑒西蜀安危之效、隆德保祚、去危卽順、屈己以寧四海者、仁哲之高致也。履危偷安、隕德覆祚、而不稱於後世者、非智者之所居也。今朝廷遣徐紹、孫彧獻書喻懷、若書御於前、必少留意、回慮革算、結歡弭兵、共爲一家、惠矜吳會、施及中土、豈不泰哉!此昭心之大願也、敢不承受。若不獲命、則普天率土、期於大同、雖重干戈、固不獲已也。」
潘眉はいう。『晋書』孫楚伝にある、司馬昭から孫晧への文書と、裴注『漢晋春秋』は異なる。上の小字が『漢晋春秋』、下の小字が孫楚伝。
蓋見機而作,《周易》所貴;小不事大,《春秋》所誅。此乃吉凶之萌兆,榮辱所由生也。是故許、鄭以銜璧全國,曹譚以無禮取滅。載藉既記其成敗,古今又著其愚智,不復廣引譬類,崇飾浮辭。苟以誇大為名,更喪忠告之實。今粗論事要,以相覺悟。
昔炎精幽昧,歷數將終,恆、靈失德,災釁並興,豺狼抗爪牙之毒,生靈罹塗炭之難。由是九州絕貫,王綱解紐,四海蕭條,非複漢有。太祖承運,神武應期,征討暴亂,克甯區夏;協建靈符,天命既集,遂廓弘基,奄有魏域。土則神州中嶽,器則九鼎猶存,世載淑美,重光相襲,故知四隩之攸同,帝者之壯觀也。昔公孫氏承藉父兄,世居東裔,擁帶燕胡,憑陵險遠,講武遊盤,不供職貢,內傲帝命,外通南國,乘桴滄海,交酬貨賄,葛越布於朔土,貂馬延于吳會;自以控弦十萬,奔走之力,信能右折燕、齊,左震扶桑,輮轢沙漠,南面稱王。宣王薄伐,猛銳長驅,師次遼陽,而城池不守;枹鼓暫鳴,而元兇折首。於是遠近疆埸,列郡大荒,收離聚散,大安其居,眾庶悅服,殊俗款附。自茲以降,九野清泰,東夷獻其樂器,肅慎貢其楛矢,曠世不羈,應化而至,巍巍蕩蕩,想所具聞也。
吳之先祖,起自荊、楚,遭時擾攘,潛播江表。劉備震懼,亦逃巴、岷。遂因山陵積石之固,三江五湖浩汗無涯,假氣遊魂,迄茲四紀。兩邦合從,東西唱和,互相扇動,距捍中國。自謂三分鼎足之勢,可與泰山共相終始也。相國晉王輔相帝室,文武桓桓,志厲秋霜,廟勝之算,應變無窮,獨見之鑒,與眾絕慮。主上欽明,委以萬機,長轡遠禦,妙略潛授,偏師同心,上下用力,陵威奮伐,罙入其阻,并敵一向,奪其膽氣。小戰江由,則成都自潰;曜兵劍閣,則姜維面縛。開地六千,領郡三十。兵不逾時,梁、益肅清,使竊號之雄,稽顙絳闕,球琳重錦,充於府庫。夫韓並魏徙,虢滅虞亡,此皆前鑒,後事之表。又南中呂興,深睹天命蟬蛻內附,願為臣妾。外失輔車脣齒之援,內有羽毛零落之漸,而徘徊危國,冀延日月,此由魏武侯卻指山河,自以為強,殊不知物有興亡,則所美非其地也。
方今百僚濟濟,俊乂盈朝,武臣猛將,折沖萬里,國富兵強,六軍精練,思複翰飛,飲馬南海。自頃國家整修器械,興造舟楫,簡習水戰,樓船萬艘,千里相望,刳木已來,舟車之用未有如今之殷盛者也。驍勇百萬,畜力待時。役不再舉,今日之師也。然主相眷眷未便電發者,猶以為愛人治國,道家所尚,崇城遂卑,文王退舍,故先開大信,喻以存亡,殷勤之指,往使所究也。若能審勢安危,自求多福,蹶然改容,祗承往錫,追慕南越,嬰齊入侍,北面稱臣,伏聽告策,則世祚江表,永為魏籓,豐功顯報,隆於今日矣。若猶侮慢,未順王命,然後謀力雲合,指麾從風,雍、梁二州,順流而東,青、徐戰士,列江而西,荊、揚兗、豫,爭驅八沖,征東甲卒,武步秣陵,爾乃王輿整駕,六戎徐征,羽校燭日,旌旗星流,龍游曜路,歌吹盈耳,士卒奔邁,其會如林,煙塵俱起,震天駭地,渴賞之士,鋒鏑爭先,忽然一旦,身首橫分,宗祀淪覆,取戒萬世,引領南望,良助寒心!夫療膏肓之疾者,必進苦口之藥;決狐疑之慮者,亦告逆耳之言。如其猶豫,迷而不反,恐俞附見其已死,扁鵲知其無功矣。勉思良圖,惟所去就。

盧弼はいう。孫楚伝で、将軍の石苞が、孫楚に文書を孫晧あての文書を作らせた。これは石苞が依頼者であり、司馬昭の代筆でない。『文選』にも同文がのる。潘眉は誤りである。
ぼくは思う。せっかく潘眉に釣られて、『晋書』孫楚伝をコピペしたのに、意味がなくなった!『漢晋春秋』が食い違って、ほらみた見たことか、と思ったんだけど。
盧弼はいう。『晋書』荀勗伝によると、ときに司馬昭は孫晧への文書を、荀勗に書かせた。司馬昭は荀勗に「きみの文書は、孫晧の心を解かした。10万の軍に勝る」という。代筆者は荀勗であり、潘眉は誤りである。司馬昭が荀勗に書かせた文書はおだやかで、石苞が孫楚に書かせた文書は憤激する。前者が届き、後者が届かなかったのは、内容のタッチによるか。
ぼくは思う。ともあれ孫晧の心が解けたことで、司馬氏は「天下をなつけた」という名目を手に入れて、禅譲を決行する。孫晧がなついた!という事実は、科学的にはどうあれ、政治的には重要なのだ。即位した直後の孫晧は、司馬昭の文書に反発しないこと、ただそれだけで、曹魏を滅ぼすことに成功した。以後は「曹魏の正統性の継承者」という正統性なども創出しながら、割拠してゆきます。後漢の継承者たる孫権から孫休と、曹魏の継承者たる孫皓は、ちょっとべつの王朝である。


甘露元年、魏末に使者し、孫和の妻子を殺す

甘露元年三月晧、遣使隨紹彧、報書曰「知、以高世之才、處宰輔之任。漸導之功、勤亦至矣。孤以不德、階承統緒、思與賢良、共濟世道。而以壅隔、未有所緣、嘉意允著、深用依依。今、遣光祿大夫紀陟、五官中郎將弘璆、宣明至懷」紹、行到濡須、召還殺之、徙其家屬建安。始有白紹稱美中國者故也。

甘露元年、

盧弼はいう。曹髦のとき、甘露の年号があった。孫呉はどうして知らないものか。
ぼくは思う。劉備が死んだ永安とぶつけたり、孫呉の年号は、わりに他国をパクる。甘露とは、曹髦が殺されて終了した年号だ。他国の不吉な年号をつかい、他国を食らうつもりなのか。

3月、孫晧は、徐紹万彧を曹魏にゆかせ、司馬昭に返書した。「連絡が通じて嬉しい。光祿大夫の紀陟、五官中郎將の弘璆をつかわし、私の意思を伝える」と。

裴注『江表伝』、『呉録』ははぶく。『呉録』は紀陟伝なので。

徐紹は、濡須で召し還され、殺された。家族は建安に徙された。「徐紹が曹魏を称美する」いう者があるからだ。

吳錄曰。晧以諸父與和相連及者、家屬皆徙東冶、唯陟以有密旨、特封子孚都亭侯。孚弟瞻、字思遠、入仕晉驃騎將軍。弘璆、曲阿人、弘咨之孫、權外甥也。璆後至中書令、太子少傅。
裴注『呉録』はいう。孫晧は諸父のうち、孫和の関係者を東冶にうつす。ただ紀陟だけは密旨があり、とくに子の紀浮を都亭侯に封じた。紀浮の弟は、紀瞻といい、西晋で驃騎将軍となる。弘璆は曲阿の人、弘咨の孫で、孫権の外甥である。弘璆は中書令、太子少傅となる。
諸葛瑾伝はいう。弘咨は孫権の姉婿である。趙一清はいう。弘璆がもし孫権の外甥なら、弘璆は弘咨の子であるはずだ。盧弼はいう。「外孫」が正しいね。


干寶晉紀曰。陟、璆奉使如魏、入境而問諱、入國而問俗。壽春將王布示之馬射、既而問之曰「吳之君子亦能斯乎?」陟曰「此軍人騎士肄業所及、士大夫君子未有爲之者矣。」布大慚。既至、魏帝見之、使儐問曰「來時吳王何如?」陟對曰「來時皇帝臨軒、百寮陪位、御膳無恙。」晉文王饗之、百寮畢會、使儐者告曰「某者安樂公也、某者匈奴單于也。」陟曰「西主失土、爲君王所禮、位同三代、莫不感義、匈奴邊塞難羈之國、君王懷之、親在坐席、此誠威恩遠著。」又問「吳之戍備幾何?」對曰「自西陵以至江都、五千七百里。」又問曰「道里甚遠、難爲堅固?」對曰「疆界雖遠、而其險要必爭之地、不過數四、猶人雖有八尺之軀靡不受患、其護風寒亦數處耳。」文王善之、厚爲之禮。
臣松之以爲人有八尺之體靡不受患、防護風寒豈唯數處?取譬若此、未足稱能。若曰譬如金城萬雉、所急防者四門而已。方陟此對、不猶愈乎!

干宝『晋紀』はいう。紀陟と弘璆が、曹魏にゆく。発言を諱むべき字と、風俗をきく。寿春の守将・王布 が騎射を見せて、「孫呉の人もできるか」という。紀陟は「君子は騎射などしない」と、やりこめる。

『周礼』地官の保氏はいう。騎射は六芸に含まれる。『礼記』射義もある。盧弼はいう。騎射も儒教のりっぱな科目なのに、紀陟は騎射を野蛮な武人のスキルだと思った。紀陟は、”礼”を分かっていない。

魏帝の曹奐が「孫晧はどんなふうか」という。紀陟は「軒に臨んで、百官と交流してる」という。

ぼくは思う。曹奐が孫晧をあなどったのか。それとも「孫晧は親政していて、いいなあ。オレは司馬昭の傀儡だから、ちっとも面白くない」という思いが籠もったのかも。同業他社に転職した、かつての同期入社者の近況は、気になるものですw

司馬昭が、孫呉の使者を饗応して、「あれが安楽公の劉禅、あれが匈奴の単于」と説明した。紀陟「劉禅を礼遇する、曹魏はすごいなあ」と。司馬昭「孫呉の防備は」、紀陟「西陵から江都まで5700里」、司馬昭「長距離を守れないのでは」、紀陟「守るべき要所は4つに過ぎない。8尺の人体でも、風邪の侵入を防ぐには4箇所だけ守ればよい」と。司馬昭は礼を厚くした。
裴松之はいう。人体でなく、城壁に例えたほうが良い。「4門だけ守ればよい」と。

ぼくは思う。国土の防衛を、城壁の防衛に例えるのは、あまりうまくない。比喩は、異なるものを結びつけるからおもしろい。国土と城壁は、ちょっと似ている。それより「王者の身体」を守るという比喩のほうが、ぼくはおもしろいと思う。
ぼくは思う。この答弁だけで「紀陟伝」を立ててもよいほど、キャラが立っている。孫呉で、歴代の外交がうまい人たちに、列すれば良いよなあ。趙咨、沈珩とか。
この宴席では、曹奐が主催者かと思いきや、司馬昭ばかりがしゃべる。ともあれ司馬昭は、この応対によって、「天下をなつけたから、受禅して良いよ」という資格を得た。


夏四月蔣陵言、甘露降。於是、改年大赦。秋七月晧逼殺景后朱氏。亡不在正殿、於苑中小屋治喪、衆知其非疾病、莫不痛切。又、送休四子於吳小城、尋復追殺大者二人。

夏4月、孫権の蔣陵に、甘露が降ると報告あり。改年、大赦した。
秋7月、孫晧は景后の朱氏に迫って殺した。朱皇后は正殿で死なず、葬礼が苑中の小屋で行われた。朱皇后が孫晧に殺されたと感知し、みな痛切した。孫休の4子を、呉郡の小城におき、年長2子を殺した。

ぼくは思う。孫休の妻子を殺したのは、孫晧じしんの立場を固めるためだ。孫湾という太子がいるのに、わざわざ孫晧を招いたのは、濮陽興と張布である。2人は、責任をもって孫晧の立場を固める責任があったが、孫休期にのさばった楽しさが忘れられず、孫晧と対立した。2人は孫晧に殺された。孫晧は、独力で自分の立場を保証せねばならなくなった。まあ君主のマキャベリズムとして、ありなんだと思う。これで孫晧の時代、孫呉が繁栄すれが「必要な手続だった」という解釈になるだろう。
ぼくは孫晧が「名君」というつもりはない。だが「暴君」に積極的に加担するつもりもない。どこで「壊れる」のか、その原因と時期を見計らっているだけ。


九月、從西陵督步闡表、徙都武昌。御史大夫丁固、右將軍諸葛靚、鎭建業。陟璆至洛、遇晉文帝崩、十一月乃遣還。晧、至武昌、又大赦。以零陵南部、爲始安郡。桂陽南部、爲始興郡。十二月晉受禪。

9月、西陵督の步闡から上表があり、武昌に遷都する。御史大夫の丁固、右將軍の諸葛靚が、建業に鎮する。

諸葛靚は、諸葛誕の小子である。『魏志』諸葛誕伝にある。注引『晋紀』にある。
ぼくは思う。諸葛恪も、建業より武昌に遷都したがった。武昌は、孫権が皇帝即位した場所。呉という国号だから、いちおう建業にいるが、王朝の権威を高めたければ、武昌にゆくのが宜しい。また地理的にも、武昌は領域の中心にちかい。
ぼくは思う。漢魏のとき、防衛に弱点があっても、天下の中心たる洛陽に都したように。孫呉も、防衛に弱点があっても、武昌に都したいのだろう。歩闡はのちに裏切るが、まだその気配はない。孫晧を、じぶんのいる荊州に連れてきて、距離をちぢめた。
この時点で孫晧は、皇帝権力を強める動き、自分を安定させる動きをしている。まだ壊れていない。むしろ順調に、階段を上っているような印象だ。西晋との外交も、口頭で洛陽の百官を感心させるなど、うまくいっている。

紀陟と徐璆が洛陽につくと、たまたま司馬昭が崩じた。11月、紀陟らが還った。孫晧は武昌にきて、大赦した。零陵南部都尉を、 始安郡とした。桂陽南部都尉を始興郡とした。

零陵と桂陽は、『蜀志』先主伝の建安13年。始安の郡治は始安である。謝鍾英はいう。『宋書』で孫呉は、始安郡を広州に属させるが、『晋書』で始安郡は荊州に属する。始安は零陵から分けたのだから、広州でなく荊州だろう。

12月、西晋が受禅した。121231

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孫晧:宝鼎と建衡;西晋と外交、交州平定

宝鼎元年、施但を鎮圧し、呉興郡を立てる

寶鼎元年正月遣大鴻臚張儼、五官中郎將丁忠、弔祭晉文帝。及還、儼、道病死。忠說晧曰「北方守戰之具不設。弋陽可襲而取」晧、訪羣臣、鎭西大將軍陸凱曰「夫、兵不得已而用之耳。且、三國鼎立已來、更相侵伐、無歲寧居。今、彊敵新幷巴蜀、有兼土之實、而遣使求親、欲息兵役。不可謂、其求援於我。今敵形勢方彊、而欲徼幸求勝。未見其利也」車騎將軍劉纂曰「天生五才、誰能去兵。譎詐相雄、有自來矣。若其有闕、庸可棄乎。宜遣閒諜、以觀其勢」晧、陰納纂言。且以蜀新平、故不行、然遂自絕。

宝鼎元年正月、大鴻臚の張儼、五官中郎將の丁忠をやり、晉文帝を弔祭させる。洛陽から還る途中で、張𠑊は病死した。

裴注;吳錄曰。儼字子節、吳人也。弱冠知名、歷顯位、以博聞多識、拜大鴻臚。使於晉、晧謂儼曰「今南北通好、以君爲有出境之才、故相屈行。」對曰「皇皇者華、蒙其榮耀、無古人延譽之美、磨厲鋒鍔、思不辱命。」既至、車騎將軍賈充、尚書令裴秀、侍中荀勖等欲慠以所不知而不能屈。尚書僕射羊祜、尚書何楨並結縞帶之好。『呉録』はいう。張𠑊は、車騎将軍の賈充、尚書令の裴秀、侍中の荀勖に、やりこめられず。尚書僕射の羊祜、尚書の何楨と、縞帶之好(『左伝』襄公29年より)を結んだ。
趙一清はいう。『晋書』武帝紀の泰始2年3月戊戌、呉人が弔祭にきた。『隋書』経籍志に、『張𠑊集』1巻がある。盧弼はいう。丁忠が西晋から帰国すると、孫晧は群臣と大会した。王蕃が酔って斬られた。『呉志』王蕃伝にある。

丁忠は孫晧にいう。「西晋は防備があまい。弋陽を襲えばとれる」と。
鎭西大將軍の陸凱はいう。「三国が鼎立して、1年も戦役がない歳がない。いま西晋が使者を交換するのは(防備があまくなって)孫呉に救援を求めるからでない。つよい西晋に手を出すな」と。

弋陽は『魏志』楚王の曹彪伝にある。胡三省はいう。弋陽県は、漢代は汝南郡に属した。魏文帝が、弋陽郡に分立させた。

車騎將軍の劉纂はいう。「手段は使い尽くせばよい。とにかく西晋の防備を探ってみては」と。孫晧は西晋を探りたいが、西晋は蜀漢を併合して強くなったことは分かっており、西晋を探らないで終わった。

ぼくは思う。鼎立のバランスがくずれた。孫晧は、和平と戦闘をおりまぜ、突破口をさぐっている。シニフィァンの過剰愛好者たる孫休には、できなかったことだ。この情勢に耐えて、報告に耳を塞がないのだから、孫晧はリッパだ。このように、西晋との関係が流動的なうちは、孫晧が滞留して腐ることがない。孫晧が暴君になるはずがない。


八月所在言、得大鼎。於是、改年、大赦。以陸凱爲左丞相、常侍萬彧爲右丞相。冬十月永安山賊施但等、聚衆數千人、劫晧庶弟永安侯謙、出烏程、取孫和陵上鼓吹曲蓋。比至建業、衆萬餘人。丁固、諸葛靚、逆之於牛屯、大戰。但等敗走、獲謙。謙自殺。

8月、大鼎がでたと報告があるので、改年と大赦した。陸凱を左丞相、常侍の萬彧を右丞相とした。
冬10月、永安の山賊・施但らが、数千人をあつめた。

永安は、孫休伝の永安元年にある。
裴注『呉録』はいう。永安は、いまの武康県である。『宋書』はいう。晋武帝の太康元年、武康と改名して、呉興郡に属させた。宋白はいう。永安県は、もとは漢代の烏程県のもとの余不郷である。

施但は、孫晧の庶弟・永安侯の孫謙をおどして、烏程にゆかせる。孫謙の父・孫和の陵上にある、鼓吹と曲蓋をうばう。孫謙をつれた施但が、建業にきたとき、1万余人となる。丁固と諸葛靚は、牛屯で迎撃した。施但は敗走して、孫謙は自殺した。

胡三省はいう。『呉歴』によると、牛屯は建業から21里である。
この事件は、『呉志』孫和伝にひく『呉歴』にある。
裴注;漢晉春秋曰。初望氣者云荊州有王氣破揚州而建業宮不利、故晧徙武昌、遣使者發民掘荊州界大臣名家冢與山岡連者以厭之。既聞但反、自以爲徙土得計也。使數百人鼓譟入建業、殺但妻子、云天子使荊州兵來破揚州賊、以厭前氣。 『漢晋春秋』はいう。望気者は、荊州の王気が、揚州を征圧するという。孫晧が、施但と庶弟の孫謙を征圧したことにあり、望気者の言うとおりになった。孫晧は喜んだ。盧弼はいう。孫晧の喜びは、児戯じゃ。
ぼくは思う。人間の活動は、すべての起源が「ごっこ遊び」なんだと思う。皇帝だって、ごっこ遊びだ。みんなが尊ぶから皇帝は皇帝になるのであり、皇帝が皇帝だからみんなから尊ばれるのでない。だから児戯で良いのだ。むしろ起源に忠実な、皇帝として正しい振る舞いなのだ。盧弼は「児戯」と言って、批判したかも知れないが、孫晧は皇帝権力の本質を知って「遊戯」をしてる。


分會稽、爲東陽郡。分吳、丹楊、爲吳興郡。以零陵北部、爲邵陵郡。十二月晧、還都建業。衞將軍滕牧、留鎭武昌。

會稽を分けて、東陽郡をつくる。吳郡と丹楊を分けて、吳興郡をつくる。零陵北部都尉を分けて、邵陵郡をつくる。

郡県の異同、治所の特定は、上海古籍3021頁。
ぼくは思う。曹魏が蜀漢をあわせて後、孫呉は州郡をふやす。濫立する。この時期に急速に支配が浸透して、大きな城市の建築ラッシュがあったのでなかろう。思うに、曹魏(西晋)に張りあったのだろう。曹魏が州郡の数を増やした。もともと劣勢で均衡していたのに、さらに不利になった。だから数量だけでも対抗した。こういう遊戯とも言えそうな対抗は、バカバカしく思えるが、じつは重要なんだと思う。
ツイッター用まとめ。望気者を信じた孫晧の活動を、盧弼は「児戯」という。ぼくは皇帝の本質をごっこ遊びだと思う。みなが尊ぶから皇帝は尊い。皇帝が尊いから、みなに尊ばれるのでない。図讖を信じ、望気者に従い、州郡の数をかせぐ児戯が、皇帝権力の本質だと思う。孫晧は、本質をディフォルメして可視化する。好きです。
ぼくは思う。孫晧のごっこ遊びが、破綻したときに、孫晧の遊戯が終わる。いかにして終わるのか。続きが楽しみです。目処なしで読んでます。

12月、孫晧は建業に還都する。衞將軍の滕牧が、武昌を留鎮する。

晧詔曰「古者分土建國、所以褒賞賢能、廣樹藩屏。秦毀五等爲三十六郡、漢室初興、闓立乃至百王、因事制宜、蓋無常數也。今吳郡陽羨、永安、餘杭、臨水及丹楊故鄣、安吉、原鄉、於潛諸縣、地勢水流之便、悉注烏程、既宜立郡以鎭山越、且以藩衞明陵、奉承大祭、不亦可乎!其亟分此九縣爲吳興郡、治烏程。」

郡を増やすとき、孫晧は詔した。「古代より、土地を分けて建国するのは、賢能を褒賞し、藩屏を廣樹するためである。秦制は5等爵を36郡に切りかえ、漢制は100王を建てた。地方統治の制度は、定数があるのでなく、必要性に応じ定めるものだ。いま呉郡の陽羨、永安、餘杭、臨水と、丹楊の故鄣、安吉、原郷、於潛の諸県は、地勢と水流の便が、すべて烏程にあつまる。

永安は、永安元年に孫謙が自死して、国から県に戻った。
臨水県は『呉志』賀斉伝にある。建安16年、賀斉は余杭を分けて、臨水を立てた。『呉録』はいう。臨水は、晋武帝の太康元年、臨安に改められた。
安吉県。『宋書』はいう。呉興太守、安吉令は、漢霊帝の中平2年、故鄣から分けて立った。『郡国志』に劉昭がひく『呉興記』はいう。中平のとき、故鄣県を分けて、南に安吉県をおく。光和末、張角が反乱したとき、安吉の郷守が国を助けたので、後漢が安吉を県に昇格してくれた。中平2年、原郷県が分けて立った。など。

烏程を治所に、呉興郡を立てれば、山越を鎮圧でき、孫休の明陵を藩衛でき、孫休の大祭も継続できる。9県で呉興郡をつくれ」と。

ぼくは思う。こんなふうに、郡の創設には、もっともらしい理由づけがあったのだろう。面白い。もともと郡なんて、人間が管理する便宜のために、つくるものだ。だから新立する理由も、便宜的なものであり、実態を伴うような、伴わないようなもの。虚しさの吹き抜けるペーパーワーク!いいなあ!


宝鼎2年、顕明宮を新築し、陸凱が諫める

二年春、大赦。右丞相萬彧、上鎭巴丘。夏六月起顯明宮。冬十二月晧、移居之。是歲、分豫章、廬陵、長沙、爲安成郡。

宝鼎2年春、大赦した。右丞相の萬彧が、長江をのぼって巴丘に鎮する。夏6月、顯明宮を新築した。冬12月、孫晧は顕明宮にうつる。この歳、豫章、廬陵、長沙を切りとり、安成郡をつくる。

万彧が鎮した巴丘は、『魏志』武帝紀の建安13年にある。
『晋書』はいう。孫晧は、長沙を分けて、安成郡をつくる。治所は平都。『宋書』はいう、、など。上海古籍3023頁。


太康三年地記曰。吳有太初宮、方三百丈、權所起也。昭明宮方五百丈、晧所作也。避晉諱、故曰顯明。 吳歷云。顯明在太初之東。
江表傳曰。晧營新宮、二千石以下皆自入山督攝伐木。又破壞諸營、大開園囿、起土山樓觀、窮極伎巧、功役之費以億萬計。陸凱固諫、不從。

『太康三年地記』はいう。孫呉には、孫権がつくった太初宮、四方3百丈があった。いま孫晧がつくった昭明宮は、四方5百丈あった。司馬昭を諱んで、顕明宮という。『呉歴』はいう。顕明宮は、太初宮の東にあった。

『太康三年地記』は、『魏志』陳郡伝の注釈にもある。この本の情報については、上海古籍3023頁。
ぼくは補う。太初宮は、孫権の赤烏10年につくった。もとの京城がボロいから、武昌の建材を運んで改築した。つまり孫晧は、建業において、孫権に対抗するように、おおきな宮殿をつくった。

『江表伝』はいう。孫晧の新築のため、二千石より以下、みな入山して、材木の伐採を監督した。工事と費用が膨大なので、陸凱が諫めたが、孫晧は従わず。

華覈も上疏した。『呉志』華覈伝にある。


宝鼎3年、合肥で丁奉、交趾で劉俊が敗れる

三年春二月以左右御史大夫丁固、孟仁、爲司徒、司空。秋九月晧出東關、丁奉至合肥。

宝鼎3年春2月、左御史大夫の丁固を司徒、右御史大夫の孟仁を司空とした。

丁固と孟仁は、孫休伝の永安5年にある。
裴注;吳書曰。初、固爲尚書、夢松樹生其腹上、謂人曰「松字十八公也、後十八歲、吾其爲公乎!」卒如夢焉。丁固が三公になる予兆の夢。

秋9月、孫晧は東關にでる。丁奉は合肥にいたる。

東関は『魏志』斉王紀の嘉平4年。
『晋書』武帝紀はいう。泰始4年11月、丁奉が芍陂にでる。安東将軍の司馬駿と、司馬望が丁奉を撃って走らせた。『晋書校文』はいう。晋軍は芍陂を救えなかったが、丁奉は退いた。『晋書』司馬望伝にある。司馬駿の戦勝はウソである。
盧弼はいう。『呉志』丁奉伝では、丁奉は、晋将の石苞に文書を与えた。石苞は中央に召還された。ぼくは思う。『通鑑』でも、石苞が孫呉との内通を疑われて、任地を離れる話があった。


是歲、遣交州刺史劉俊、前部督脩則等、入擊交阯。爲晉將毛炅等、所破、皆死。兵散、還合浦。

この歳、交州刺史の劉俊、前部督の脩則らは、交趾に入って撃つ。晋将の毛炅らに破られて死んだ。呉兵は散って、合浦に還る。

合浦は、『魏志』陳留王紀の咸熙元年にある。
趙一清はいう。『晋書』武帝紀では、呉将の顧容が鬱林を寇して、西晋の鬱林太守の毛炅が顧容をやぶる。毛炅は、交州刺史の劉俊、将軍の脩則を斬る。『晋書』顧和伝はいう。顧和の祖父の顧容は、孫呉の荊州刺史だった。
『読史挙正』はいう。『晋書』陶璜伝によると、交趾太守の楊稷、将軍の毛炅らは、交趾にでて、孫呉の古城を破り、劉俊と脩則を斬る。『通鑑』もおなじ。劉俊、脩則、顧容の3人は、交趾を攻めた。楊稷が3人を防いで破る。鬱林、九真も楊稷につく。楊稷は、毛炅と董元に合浦を攻めさせ、古城で戦い、脩則を殺す。楊稷は上表して、毛炅を鬱林太守とする。董元を九真太守とする。脩則が死んだのは、合浦であり鬱林でない。顧容が鬱林を攻めたのは、このときでない。毛炅はまだ太守でない。
ぼくは思う。よくまとまってる!
盧弼はいう。『通鑑』は『華陽国志』にもとづく。晋呉が並立し、記述が異なる。
盧弼はいう。『晋書』武帝紀はいう。泰始4年冬10月、呉将の施績が江夏に入り、万彧は襄陽を寇した。太尉の司馬望が龍陂に屯し、荊州刺史の胡烈が万彧をやぶった。『呉志』に載らない!


建衡元年、陸凱が死に、2路で交趾を攻む

建衡元年春正月、立子瑾爲太子、及淮陽、東平王。冬十月改年、大赦。十一月左丞相陸凱卒。遣監軍虞汜、威南將軍薛珝、蒼梧太守陶璜、由荊州、監軍李勖、督軍徐存、從建安海道。皆就合浦、擊交阯。

建衡元年春正月、孫瑾を太子に立てる。ほかの子を、淮陽王と東平王に封じる。

杭世駿はいう。『古今刀剣録』はいう。孫晧が建興元年に1つ剣をつくり「皇帝呉王」と小篆書で刻んだと。
ぼくは思う。なんだこれ。孫呉の皇帝でありながら、曹魏の呉王ですよ、という意味か。例の「孫呉は曹魏の正統を継承・吸収した」という見解によって生まれた肩書か。呉帝は、口に出さないけれど、後漢を継いだと自称する「皇帝」と、曹魏からもらった「呉王」を並存させていたのなら、おもしろい。建業にいるときは、呉王。領域の中心たる武昌にいるときは、皇帝。2つの都を持ち、2つの称号のあいだを往復する。武昌で南郊を祭ったきり、建業では祭らない。なぜなら天地を祭れるのは皇帝であって、呉王ではないから。とか、ないなw

冬10月、建衡と改年し、大赦した。11月、左丞相の陸凱が卒した。

『呉志』陸凱伝はいう。陸凱は孫晧を諫めたので、家属は建安に徙された。
ぼくは思う。末尾の陸機『弁亡論』では、陸凱と陸抗が死んで「忠臣がいなくなり、孫呉は滅亡にむかった」という歴史観が記される。陸抗はまだ生きてるが、陸凱の死をキッカケに、どこか孫晧の統治がゆがむのか、さあ!お立ち会い!

監軍の虞汜、威南將軍の薛珝、蒼梧太守の陶璜を、荊州にゆかせる。
監軍の李勖、督軍の徐存を、建安から海路にゆかせる。
2路から合浦にゆき、晋軍のいる交趾を撃つ。

虞汜は、虞翻の第4子だ。虞翻伝と、注引『会稽典録』にある。
洪飴孫はいう。威南将軍は、孫呉がおく。定員1名。
蒼梧は、陶謙伝にある。蒼梧郡について、上海古籍3025頁。
建安は、孫権伝の赤烏二年にひく『文士伝』にある。
ぼくは思う。交趾に2路から攻め寄せる。孫晧は、前年の敗北により、交趾を放棄する意図がない。交趾を回復しようとしている。孫晧はまだ壊れてない!


建衡2年、海路で交趾に行けず、孫秀が降伏

二年春、萬彧還建業。李勖、以建安道不通利、殺導將馮斐、引軍還。三月天火燒萬餘家、死者七百人。夏四月左大司馬施績卒。殿中列將何定曰「少府李勖、枉殺馮斐、擅徹軍退還」勖及徐存家屬、皆伏誅。秋九月何定、將兵五千人、上夏口、獵。都督孫秀、奔晉。是歲大赦。

建衡2年春、

趙一清はいう。『歴代帝紀』によると、孫呉の建衡2年、神人が白鹿に載って、神人山(武昌県)から出てきた。
『晋書』武帝紀はいう。泰始6年春正月、呉将の丁奉が渦口に入る。揚州刺史の牽宏がやぶる。『晋書校文』はいう。丁奉が攻めたのは、この歳でない。孫晧伝にも記述がない。ただ丁奉は、前年に西晋の穀陽を攻めた。
盧弼はいう。『通鑑考異』はいう。『呉志』丁奉伝では、建興元年に、西晋の穀陽を攻める。『晋書』本紀に載らない。丁法伝では渦口に入ると書かない。分からない。

萬彧は、巴丘から建業に還る。李勖は、建安からの海路で交趾に行けないので、道案内する馮斐を殺して還る。
3月、天火により、1万余家が焼け、7百人が死んだ。

『晋書』五行志上はいう。孫晧のせいである。或る者はいう。天火=雷は「災」という。人火は「火」という。ここは天火でなく「大火」とすべきか。
ぼくは思う。個別に見れば厳しすぎる処置もあるかも知れないが。孫晧が「前近代の君主」としての典型を踏み外したとは、この時点では思えない。五行志による批判は、ほかの君主に対しても均等に行われるから、これも典型の内側か。

夏4月、左大司馬の施績が卒した。

陸抗伝はいう。施績が卒すと、陸抗は、信陵、西陵、夷道、楽郷、公安の諸軍事を都督した。

殿中の列將・何定はいう。「少府の李勖は、交趾を攻めるべきを、馮斐を枉殺して帰還した」と。李勖と徐存の家属は、みな伏誅した。秋9月、何定は将兵5千をひきい、夏口にさかのぼり、校猟をする。

定のことは、のちの鳳凰元年の注釈にある。

都督の孫秀が、西晋に奔った。

何孫秀は、孫権の弟・孫匡の孫である。孫匡伝にある。

この歳、大赦した。

建衡3年、孫晧が華里にゆき、交州は平定

三年春正月晦。晧、舉大衆、出華里。晧母及妃妾、皆行。東觀令華覈等、固爭、乃還。

建衡3年春正月つごもり、孫晧は大衆をあげて、華里にでる。

胡三省はいう。華里は、建業の西である。
『晋書』武帝紀はいう。泰始7年3月、孫晧は寿陽にゆく。大司馬の司馬望は、淮北で孫晧をふせぐ。3月、孫秀の部将・何崇が、5千をひきいて来降する。
ぼくは思う。西晋から見ると、これは孫晧による盛大な親政なんだろうか。孫呉の朝廷を、まるごと洛陽に移転するようなものだから。

孫晧の母も妃妾も、みな同行する。東觀令の華覈が、かたく諫めたので還る。

胡三省はいう。東観令は、図書と記述の典校を令する。『通鑑』では、華覈が諫めたけれど、孫晧は還ってくれない。
ぼくは思う。母を連れていくのは、建業より軍中のほうが安全だからか、建業を棄てるつもりだからか。前者は疑わしいし、後者は宮殿がもったいない。孫晧を不安にする要因といえば、交趾が西晋に奪われたぐらいだが、まだ建業から出るほどではない。なにか積極的な政策なだろうが。
この進軍に意味を見出さないと「孫晧は無謀に狂った」という解釈に同意することになる。幸い、つぎに裴注があるからヒントになるかなあ。


江表傳曰。初丹楊刁玄使蜀、得司馬徽與劉廙論運命曆數事。玄詐增其文以誑國人曰「黃旗紫蓋見於東南、終有天下者、荊、揚之君乎!」又得中國降人、言壽春下有童謠曰「吳天子當上」。晧聞之、喜曰「此天命也。」卽載其母妻子及後宮數千人、從牛渚陸道西上、云青蓋入洛陽、以順天命。行遇大雪、道塗陷壞、兵士被甲持仗、百人共引一車、寒凍殆死。兵人不堪、皆曰「若遇敵便當倒戈耳。」晧聞之、乃還。

『江表伝』はいう。はじめ丹陽の刁玄は、蜀漢に使者する。

刁玄が蜀漢にいったのは、孫亮伝の太平2年。刁玄は『呉志』孫登伝にある。

刁玄は、司馬徽と劉廙と、運命と曆數のことを議論できた。刁玄はこのときの議論を持ち帰り、「荊揚の君が天下をとる」という。、「寿春の城下で、孫呉の天子がのぼると童謡がある」という。孫晧は「天命だ」と喜び、後宮の数千をつれて、牛渚から陸路で西する。「洛陽にわたしの青蓋が入る」という。大雪で進めない。

ぼくは思う。x軸とy軸に、現実と仮想をもってくる。(10,0)は、統治機構を整備するが、とくに思想的な正統性の裏づけを用意しない支配となる。いま孫晧は、やや理念が先行した(2,5)ぐらいの平時から、(2,10)くらいに振り切って、暴発したのだろう。仮想的な思考は、ちょっとした刺激で、何倍にもなって弾ける。この思考の爆発的な推進力で、いっきに孫晧が天下をとるか、もしくは滅亡するか、という事態もありえた。兵士という「身体性」によって、孫晧の思考は押しとどめられた。

呉兵が「もし晋軍に遭遇したら、わたしは呉軍を攻める」といい、孫晧に叛きそうなので、建業に還った。

胡三省はいう。殷紂と周武が牧野で戦ったとき、殷紂の前軍は、殷紂の後軍を攻撃した。殷紂は敗れた。
ぼくは思う。孫晧を殷紂になぞられているが、このなぞらえの巧妙さによって、かえって兵士のセリフの虚構性がバレる。孫晧が進軍できず、帰還したまではホントウだろう。だが兵士が「オレは晋軍の先鋒になるもんね」と言ったかは、分からない、とするのが、手堅い立場だろう。


是歲、汜、璜、破交阯。禽殺晉所置守將。九真、日南、皆還屬。

この歳、虞汜と陶璜らは、西晋の交趾をやぶる。西晋の守将をとらえる。九真、日南は、どちらも孫呉に属した。

『晋書』武帝紀はいう。泰始7年夏4月、九真太守の董元は、呉将の虞汜に攻められて死んだ。
『通鑑』はいう。夏4月、孫呉の交州刺史の陶璜は、九真太守の董元を殺した。西晋が交趾においた楊稷は、その部将の王素を九真太守とした。
『通鑑考異』はいう。『晋書』陶璜伝では、敵軍に不意をついて、交趾までゆくという。董元は九真太守であり、交趾にいない。『華陽国志』はいう。董元は病没した。楊稷は王素を代わりにしたと。『晋書』武帝紀では、4月に九真太守の董元が、呉将の虞汜に敗死したという。董元は病死でない。けだし楊稷は、王素を董元の後任にしようと思ったが、王素が九真に到着する前に、董元が死んだのだろう。
趙一清はいう。『晋書』陶璜伝では、察戦に孔雀を調達させたのが孫晧だが、孫休である。また『晋書』解系伝にいる解系は、董元に殺された者ではない。
潘眉はいう。孫呉は西晋の守将を、とらえ殺した。毛炅をころし、楊稷、孟幹、□能、李松らをとらえた。盧弼はいう。孟幹は洛陽に逃げ帰ったから、潘眉は誤りである。
九真と日南は、『魏志』陳留王紀の咸熙元年。上海古籍3029頁。


漢晉春秋曰。初霍弋遣楊稷、毛炅等戍、與之誓曰「若賊圍城、未百日而降者、家屬誅。若過百日而城沒者、刺史受其罪。」稷等日未滿而糧盡、乞降於璜。璜不許、而給糧使守。吳人並諫、璜曰「霍弋已死、無能來者、可須其糧盡、然後乃受、使彼來無罪、而我取有義、內訓吾民、外懷鄰國、不亦可乎!」稷、炅糧盡、救不至、乃納之。
華陽國志曰。稷、犍爲人。炅、建寧人。稷等城中食盡、死亡者半、將軍王約反降、吳人得入城、獲稷、炅、皆囚之。孫晧使送稷下都、稷至合浦、歐血死。晉追贈交州刺史。初、毛炅與吳軍戰、殺前部督脩則。陶璜等以炅壯勇、欲赦之。而則子允固求殺炅、炅亦不爲璜等屈、璜等怒、面縛炅詰之、曰「晉(兵)賊!」晉賊 從趙一清說炅厲聲曰「吳狗、何等爲賊?」吳人生剖其腹、允割其心肝、罵曰「庸復作賊?」炅猶罵不止、曰「尚欲斬汝孫晧、汝父何死狗也!」乃斬之。晉武帝聞而哀矜、卽詔使炅長子襲爵、餘三子皆關內侯。此與漢晉春秋所說不同。

『漢晋春秋』はいう。はじめ霍弋は、楊稷と毛炅「孫呉に攻められ、100日以内に降伏したら、家属を誅する。100日を耐えたら、降伏してよい。救援が遅れた刺史の責任とする」という。晋将の楊稷が100日未満で呉将の陶璜に降伏すると、陶璜は「100日は耐えとけ」と、食糧を差し入れた。100日がたつが晋軍の救援がこない。楊稷と毛炅は、西晋において無罪のまま、孫呉に降伏した。陶璜の処置は、内外から感心された。
『華陽国志』はいう。犍為の楊稷と、建寧の毛炅は、晋将として籠城したが、呉将の陶璜に敗れた。楊稷は合浦で吐血して死に、西晋の交州刺史を追贈された。毛炅は陶璜を罵って死んだ。西晋は、毛炅の子に爵位を継がせた。
裴松之はいう。『漢晋春秋』と『華陽国志』は異なる。

ぼくは思う。陶璜が知恵をきかせて、晋将を心服させて、降伏を入れたか。陶璜がふつうに力戦して、晋将を強引にひきずりだし、無惨に死なせたか。これが異なる。
司馬光は『漢晋春秋』のほうが素晴らしい。だが孫晧のように疑いぶかい君主のもと、陶璜が、食糧を敵城に差し入れたと思われないから、『華陽国志』を採用する。
裴松之が引用した『華陽国志』はちょっと違う。上海古籍3030頁に『華陽国志』が載っている。はぶく。後日、『華陽国志』を読まねばなあ、と気に留めておきます。ともあれ孫呉が、交州を奪回した。


大赦。分交阯、爲新昌郡。諸將、破扶嚴、置武平郡。以武昌督范慎、爲太尉。右大司馬丁奉、司空孟仁、卒。西苑言、鳳凰集。改明年元。

大赦した。交阯を分け、新昌郡をつくる。諸將が扶厳をやぶり、武平郡をおく。

『晋書』地理志はいう。交州の新昌郡は、孫呉がおく。6県を領する。郡治は麋泠。
潘眉はいう。ときに梁奇が、扶厳のために賊帥となる。『晋書』陶璜伝にある。ぼくは思う。『華陽国志』と『晋書』陶璜伝は、突合して読まねばならない。ひとつのパッケージングされた宿題が固まった。
『晋書』地理志はいう。広州の武平郡は、孫呉がおく。7県を領する。郡治は武寧。なんか上海古籍3031頁にたくさん書いてある。そんなにモメなくてもいいのに。

武昌督の范慎を太尉とする。右大司馬の丁奉が卒した。司空の孟仁が卒した。西苑から「鳳凰がつどう」と報告あり。翌年、鳳凰と改元する。121231

范慎は、孫登伝とその注引『呉録』。『呉録』では范慎を、武昌左部督とする。孫呉では、長江ぞいの要地には都督をおく。
『通鑑』はいう。9月、孫呉の司空の孟仁が卒した。12月、右将軍司馬の丁奉が卒した。胡三省はいう。『呉志』丁奉伝によると、丁奉が死んだときの官位は「右大司馬・左軍師」と書くべきだ。
裴注『呉録』で、孟仁の列伝、孟仁伝がある。裴注『楚国先賢伝』で、孟仁=孟宗の母がタケノコを食べたい話がある。上海古籍3027頁。はぶく。

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孫晧:鳳凰と天紀;祥瑞の濫出と滅亡

鳳凰元年、西陵督の歩闡が、陸抗に敗れる

鳳皇元年秋八月、徵西陵督步闡。闡、不應、據城降晉。遣樂鄉都督陸抗、圍取闡、闡衆悉降。闡及同計數十人、皆夷三族。大赦。是歲、右丞相萬彧、被譴、憂死。徙其子弟、於廬陵。

鳳皇元年秋8月、西陵督の步闡を徴した。歩闡を応じず、西陵の城ごと西晋にくだる。楽郷都督の陸抗が、歩闡をくだす。歩闡と数十人は、夷三族された。孫晧は、大赦した。

西陵は宜都郡に属する。『魏志』文帝紀の黄初3年。
『呉志』歩闡伝、『水経』江水注にある。『呉志』陸抗伝にある。
楽郷について。『晋書』杜預伝はいう。太康元年、杜預は奇兵8百で、楽郷を夜襲した。旗幟をたて、巴山に火をたく。孫呉の楽郷督の孫歆は、江陵督の任延に文書を与えた。晋軍がきたから長江をすぐに渡れと。宋白はいう。楽郷は春秋期の郡国である。陸抗が築城して、松滋県の境界にある。つづきは上海古籍3034頁。
あとで孫晧伝にひく『晋紀』で、陸抗が勝つと、孫晧は天下統一を占わせる。

この歳、右丞相の萬彧が、譴責され憂死した。その子弟は、廬陵に徙された。

潘眉はいう。鳳凰2年から天紀2年まで、丞相の名がない。孫呉『禅国山碑』には、天璽元年に丞相の「サンズイに允」がいる。しかし姓が分からず、史書にもない。分からない。ほかに、『真誥』にひく『許長史世譜』はいう。孫呉の丞相は、許晏である。あざなは孝然。長史の4世の族祖である。だが許晏は孫呉につかえ、執金吾になるが、丞相にならない。嘉禾2年、許晏は遼東に使者して、公孫淵に斬られた。同時期、丞相は顧雍である。許晏でない。


江表傳曰。初晧游華里、彧與丁奉、留平密謀曰「此行不急、若至華里不歸、社稷事重、不得不自還。」此語頗泄。晧聞知、以彧等舊臣、且以計忍而陰銜之。後因會、以毒酒飲彧、傳酒人私減之。又飲留平、平覺之、服他藥以解、得不死。彧自殺。平憂懣、月餘亦死。

『江表伝』孫晧が華里にゆくと、万彧、丁奉、留平は密謀した。「この北行は、緊急性がない。もし孫晧が、華里より先に進むなら、社稷のために(孫晧をかってに北行させて)私たちは、建業に帰ろう」と。孫晧は、万彧と留平に飲ませた。2人とも毒殺を免れたが、自殺した。

趙一清はいう。陸凱伝にひく『呉録』で、留平と丁奉は仲が悪い。いっしょに密謀しない。『江表伝』はウソである。
盧弼はいう。陸凱伝にひく『呉録』がいうのは、宝鼎元年、孫晧が謁廟したときだ。孫晧伝にひく『江表伝』がいうのは、いま建衡3年、孫晧が華里にときだ。前者は陸凱が首謀で、後者は万彧が首謀で、丁奉と留平が共謀だ。『通鑑考異』はいう。陸凱は忠臣だから、前者のように孫晧を裏切らない。まして孫晧は残酷で猜疑し、留平は庸人である。留平が陸凱の謀略を聞いたら、漏洩させてしまう。ただ陸凱の家属を建安に徙し、万彧の子弟を廬陵に徙したというのは、似ている。前者と後者が、混同されたか。また盧弼が考えるに、留平は王蕃を諫め殺したから、留平は庸人でない。『通鑑考異』も正しくない。
沈家本はいう。丁奉に毒殺がゆかないのは、丁奉が先に死んだからだ。『呉志』丁奉伝はいう。建衡3年、或る者が丁奉をそしって、丁奉の家属は臨川に徙された。丁奉伝は、そしる内容を記さないが、華里の謀略が原因であろう。


何定、姦穢發聞、伏誅。晧、以其惡似張布、追改定名、爲布。

江表傳曰。定、汝南人、本孫權給使也、後出補吏。定佞邪僭媚、自表先帝舊人、求還內侍、晧以爲樓下都尉、典知酤糴事、專爲威福。而晧信任、委以衆事。定爲子求少府李勖女、不許。定挾忿譖勖於晧、晧尺口誅之、焚其尸。定又使諸將各上好犬、皆千里遠求、一犬至直數千匹。御犬率具纓、直錢一萬。一犬一兵、養以捕兔供廚。所獲無幾。吳人皆歸罪於定、而皓以爲忠勤、賜爵列侯。

何定は、姦穢がバレて、伏誅した。孫晧は、何定の悪事が、張布の悪事と似ているので「何布」と追って改名させた。
『江表伝』はいう。何定は汝南の人。もとは孫権の給使で、のちに出て吏となる。君主に媚びる。孫晧は何定を樓下都尉として、酒食の購買をした。何定の子に、少府の李勖の娘を嫁がせたいが、李勖が許さないので、孫晧に李勖を殺させ、死体を焼いた。

李勖の死は、建衡2年にある。

イヌを買いつけ、価格が高騰した。イヌ1匹を、兵1人がみた。イヌのエサのため、ウサギが乱獲された。経済の混乱は、みな何定が原因と思われた。だが孫晧は、何定を列侯とした。

『呉志』陸凱伝で、陸凱が何定をとがめる。『呉志』賀邵伝で、賀邵も何定をとがめる。ぼくは思う。何定伝を再編集したい!!


吳歷曰。中書郎奚熙譖宛陵令賀惠。惠、劭弟也。遣使者徐粲訊治、熙又譖粲顧護不卽決斷。晧遣使就宛陵斬粲、收惠付獄。會赦得免。

『呉歴』はいう。中書令の奚熙は、宛陵令の賀恵をそしった。賀恵は賀邵の弟である。使者の徐粲が確かめたが、奚熙は「徐粲と賀恵が、政治を遅らせる」とそしる。孫晧は、徐粲を斬って、賀恵を獄に付した。賀恵は大赦された。

趙一清はいう。この裴注は、ほんとうは建衡3年に付けるべきだ。建衡3年に奚熙が死んだのだから。盧弼はいう。建衡3年、奚熙は臨海太守となる。『呉歴』は奚熙が中書郎という。官職がちがうから、時期がちがう。裴注の位置は、ここで良いかも。
ぼくは思う。趙一清が危ぶむように、この裴注は位置に必然性がない。


鳳凰2年、魯淑が敗れ、陳声が斬られる

二年春三月以陸抗爲、大司馬。司徒丁固卒。秋九月、改封淮陽爲魯、東平爲齊。又、封陳留、章陵等、九王。凡十一王、王給三千兵。大赦。晧愛妾或使人至市、劫奪百姓財物。司市中郎將陳聲、素晧幸臣也、恃晧寵遇、繩之以法。妾以愬晧、晧大怒、假他事燒鋸斷聲頭、投其身於四望之下。是歲、太尉范慎卒。

鳳凰2年春3月、陸抗を大司馬とした。司徒の丁固が卒した。

趙一清はいう。『世説』にひく『会稽後賢記』はいう。丁潭は、あざなを世康という。山陰の人。孫呉の司徒・丁固の曽孫である。孔愉と名望がひとしい。光禄大夫までなる。『晋陽秋』はいう。孔愉(孔敬康)と丁潭(丁世康)は、どちらも著名で、あざなから「会稽の三康」とよばれた。『寰宇記』巻94は丁固の墓所を記す。
以下、同年の記事。
趙一清はいう。『晋書』武帝紀はいう。泰始9年7月、呉将の魯淑が、弋陽を囲んだ。征虜将軍の王渾が、魯淑を撃破した。この勝利は王渾伝にもある。

秋9月、淮陽王を魯王に、東平王を齊王に、改封した。また、陳留王、章陵王ら9王を封じて、全部で11王とする。王には兵3千を給う。大赦した。

胡三省はいう。11王の名は、史料にない。

孫晧の愛妾が、人をつかい、市場で百姓の財物を奪わせた。司市中郎將の陳声が、愛妾を取り締まったので、孫晧が怒って、陳声の首級を焼鋸できり、身体を四望山にバラした。

洪飴孫はいう。司市中郎将は、定員1名、孫呉がおく。
胡三省はいう。『晋書』温嶠伝によると、温嶠が蘇峻を石塔でうち、四望磯に結塁する。『南史』にもある。

この歳、太尉の范慎が卒した。

鳳凰3年、孫奮が即位するウワサ

三年、會稽妖言、章安侯奮、當爲天子。臨海太守奚熙、與會稽太守郭誕書、非論國政。誕、但白熙書、不白妖言、送付建安、作船。遣三郡督何植、收熙。熙、發兵自衞、斷絕海道。熙部曲殺熙、送首建業、夷三族。

鳳凰3年、會稽で妖言がある。「章安侯の孫奮が、天子になる」という。

太平3年、もと斉王の孫奮を、章安侯とした。孫亮伝にある。章安は、『呉志』孫権伝の黄武4年にある。孫奮は、孫権の第5子である。ぼくは思う。孫晧のおじ。

臨海太守の奚熙は、會稽太守の郭誕に文書をおくり、国政を非難した。郭誕は、奚熙の文書は報告したが、会稽の妖言を報告しないので、建安で造船(の労務刑)させられた。

臨安の郡治は章安である。孫権伝の太元元年にある。
建安は、孫権伝の赤烏2年にある。宋白はいう。孫呉は侯官の地を分割して、建安県を立てた。また曲郍都尉を立てた。刑徒に造船させるのを管理した。
趙一清はいう。『宋書』州郡志はいう。晋安太守は、晋武帝が建安から分けて立てた。原豊県令を統べた。太康3年、建安を省き、典船校尉をたてた。温麻県令は、太康4年に温真の船屯に立てた。また永嘉太守は、横陽県令を領したが、太康4年に横□船屯を、始陽とした。これらは造船の拠点を、県治に転じたものだ。
裴注『会稽邵氏家伝』は、郭誕の功曹である邵畴の列伝、邵畴伝を載せる。はぶく。上海古籍3036頁。邵畴が命をかけて、郭誕を申し開いてくれた。孫晧は、邵畴の画像を郡県に描かせた。あまり注釈をふくらますと、孫晧が見えにくくなるから、やらない。

三郡督の何植が、奚熙を捕らえにゆく。

胡三省はいう。『江表伝』は何植を、備海督とする。けだし臨海、建安、会稽の3郡を督したのだろう。
孫奮伝はいう。孫奮とその5子が誅された。国が除かれた。孫和の何姫伝にひく『江表伝』はいう。孫晧の舅子は、何都である。何都は孫晧に似ていた。何都が皇帝になると言われた。臨海太守の奚熙は、これを信じて兵をあげ、何都を殺そうとした。何都の叔父・何信は、ときに備海督である。何信は、奚熙を殺して夷三族した。など。
盧弼はいう。『江表伝』は奚熙が兵事をおこした。孫晧伝とちがう。『江表伝』では何信とし、孫晧伝は何植とする。またちがう。
銭大昕はいう。孫奮が誅され、孫奮の5子も誅された。これは孫晧伝に書くべき。
ぼくは思う。奚熙も、列伝を再編集すべきだなあ!!

奚熙は自衛して、海路を断絶させる。奚熙の部曲が、奚熙を殺した。奚熙の首級は建業におくられ、夷三族された。

秋七月遣使者二十五人、分至州郡、科出亡叛。大司馬陸抗、卒。自改年及是歲、連大疫。分鬱林、爲桂林郡。

秋7月、使者25人をつかわし、州郡にゆき、亡叛する者に刑罰を科した。大司馬の陸抗が、卒した。改元してから今年まで、大疫がつづく。鬱林郡を分けて、桂林郡とする。

大疫は、鳳凰元年から3年までだ。
鬱林は、孫権伝の赤烏2年にある。『宋書』州郡志、『晋書』など。


天冊元年、天から冊書がくだる

天冊元年吳郡言、掘地得銀、長一尺、廣三分、刻上有年月字。於是大赦、改年。

天冊元年(275)、呉郡で銀が掘り出され、年月などが刻まれる。
大赦、改元した。

沈家本はいう。鳳凰3年甲午の翌年は、天冊元年乙未である。梁商鉅は、鳳凰3年が、天冊元年になったとするが、誤りである。盧弼はいう。この歳は、晋武帝の咸寧元年である。
ぼくは思う。天冊の年号は、1年で改元されて「失われた1年」みたいになっている。『資治通鑑』で出来事をおぎなう。夏6月、鮮卑の拓跋力微は、ふたたび子の沙漠汗を入貢させた。沙漠汗が還るとき、幽州刺史の衛瓘が留めた。鮮卑の諸部を買収して、離間させた。冬12月丁亥、司馬懿の廟を高祖とする。司馬師を世宗、司馬昭を太祖とする。など。西晋も事件が少なかった。
『晋書』武帝紀はいう。咸寧元年6月、呉人が江夏を寇した。


天璽元年、祥瑞が出まくり、3連続の改元

天璽元年、吳郡言。臨平湖、自漢末草穢壅塞、今更開通。長老相傳、此湖塞、天下亂、此湖開、天下平。又、於湖邊得石函、中有小石、青白色、長四寸、廣二寸餘、刻上作皇帝字。於是改年、大赦。會稽太守車浚、湘東太守張詠、不出算緡。就、在所斬之、徇首諸郡。

天璽元年、呉郡で「臨平湖は漢末に草穢で塞がれたが、開通した」と報告あり。天下が平らぐサインである。

趙一清はいう。『晋書』芸術伝はいう。陳訓は、孫晧のとき奉禁都尉となる。陳訓は孫晧の末路を予感するが、言わない。銭唐湖が開いたとき、「青蓋が洛陽に入る。孫呉が滅びるぞ」と友に予言した。西晋で諌議大夫となった。
趙一清はいう。『続漢書』輿服志はいう。皇子が王になるとき、青蓋にのる。孫晧は皇帝だが、青蓋で洛陽にゆくとは、皇帝から降格するという意味だろう。

また臨平の湖辺で「皇帝」と刻んだ小石が出てきた。改元、大赦。

ぼくは思う。天から冊書をもらって、天冊元年。天から小石をもらって、天璽元年。国山で封禅して、天紀元年。3年連続で「天」から始まる年号に改元した。275年、276年、277年である。この天頼み、改元の権限の濫行が、孫晧らしくて良い。後漢は董卓に強制終了させられ、曹魏は円滑に西晋に以降、蜀漢は鄧艾に強制終了させられた。「いかに王朝を終えるか」という点で、孫晧はいい典型を見せてくれる。西晋も強制終了だから、孫呉でしか、この断末魔の政策を見ることができない。

會稽太守の車浚、湘東太守の張詠は、税額の算出が正しくないので、斬られて、首級が諸郡をまわされた。

江表傳曰。浚在公清忠、值郡荒旱、民無資糧、表求振貸。晧謂浚欲樹私恩、遣人梟首。又尚書熊睦見晧酷虐、微有所諫、晧使人以刀環撞殺之、身無完肌。

『江表伝』はいう。車浚は、飢饉のとき民に穀物を貸した。孫晧は、車浚が私恩をたてたとして、車浚を梟首した。尚書の熊睦は、孫晧の酷虐を諫めたが、完膚なきまで、刀環で叩き殺された。

秋八月京下督孫楷、降晉。鄱陽言、歷陽山石、文理成字、凡二十、云「楚九州渚、吳九州都。揚州士作天子、四世治太平始」又、吳興陽羨山、有空石、長十餘丈、名曰石室、在所表爲大瑞。乃遣兼司徒董朝、兼太常周處、至陽羨縣、封襌國山。明年改元、大赦、以協石文。

秋8月、京下督の孫楷が西晋にくだる。

孫楷は、孫韶伝にある。『晋書』武帝紀は、6月に孫楷が降ったという。

鄱陽から「歷陽の山石に、呉楚を祝う20字がでた」と報告あり。

鄱陽は、孫権伝の建安8年。歴陽は孫策伝にある。胡三省はいう。『晋書』地理志で、鄱陽郡には歴陽県がない。歴陵県ならある。趙一清や梁商鉅をはぶき、、盧弼はいう。『呉志』呂範伝でも、歴陵県とすべきを、歴陽県と誤る。呂範伝に、呉増僅のコメントあるよ。
『江表伝』が、祥瑞の誤解を載せる。上海古籍3039頁、ちくま訳219頁。

呉興山の陽羨山にも、祥瑞がでた。司徒の董朝、兼太常の周處は、陽羨県にゆき、國山を封襌する。明年に改元、大赦した。改元は、石に現れた文字に合わせたものだ。

ぼくは思う。封禅するんだなあ。盧弼は、周処について、どの官職と太常を兼ねているのか、書いてくれない。
国山は、孫権伝の陽羨の注釈、孫亮伝の五鳳2年にある。
ここから盧弼は『集古録』などで、祥瑞とその解釈、伝承の異同などを書き始める。超!! ながい。上海古籍3041頁。はぶきます。孫呉に限らず、漢魏、魏晋の碑文について、ひろく言及しているみたい。後日。なんと3頁にも及びます。
ぼくは思う。孫呉の末期は、祥瑞が出まくる。これを確認できたので、とても満足しました。孫晧は、交州、広州、荊州、揚州などの戦線への現実の対応と、祥瑞がでまくる観念の構築が、ほどよく交差している。孫晧論は、もうちょっと練らないと分からんなあ。「めでたい祥瑞が濫発され、かえって衰退する」という、メビウスの輪的なところが、おもしろい!


天紀元年、夏口督の孫慎は、江夏と汝南を攻撃

天紀元年夏。夏口督孫慎、出江夏、汝南、燒略居民。初、騶子張俶、多所譖白、累遷爲司直中郎將、封侯、甚見寵愛、是歲姦情發聞、伏誅。

天紀元年夏、夏口督の孫慎は、江夏と汝南に出て、居民を焼略した。

西晋の咸寧3年である。
孫慎のことは、孫桓伝にひく『呉書』にある。『晋書』武帝紀はいう。咸寧3年夏5月、呉将の邵凱と夏祥は、7千余人をひきいて来降する。12月、呉将の孫慎が、江夏と汝南に入り、1千余家を略して去る。これだ! 『通鑑』も同じだ。
胡三省はいう。江夏郡は荊州に属する。汝南郡は豫州に属する。両者はとおい。沈約『宋書』はいう。江夏太守は汝南県を治所とする。もとは沙羨を治所としたが、西晋末に汝南の郡民が夏口にながれこみ、汝南を立てた。すなわち江夏は、まだ汝南県を郡治としない。後世の地名を、史書が反映したから、距離感がおかしくなった。
『晋書』羊祜伝はいう。呉人は、弋陽と江夏を寇して、戸口を略した。詔して「羊祜はなぜ呉軍を追撃しないか」となじる。羊祜はいう。「江夏は襄陽から8百里ある。呉軍の侵攻を知ってから動いても、間に合わない」と。
ぼくは思う。羊祜も、言い訳するのね。

はじめ、騶子の張俶は、おおく譖白して、司直中郎將に昇り、封侯となる。孫晧に寵愛されたが、姦情がバレて伏誅した。

ちくまは「騶子」をうまかいとする。洪飴孫はいう。司直中郎将は、定員1名、孫呉がおく。非法な者の弾劾をつかさどる。
ぼくは思う。皇帝権力を強めようとすると、どうしても取締と裁判をやることになる。取締や裁判をやる者は、皇帝を代行するのだが、かならず腐敗する。なぜ腐敗するか。皇帝が恣意的な決定をするのは、皇帝の権能として公認されている。しかし、代行者が恣意的な決定をするのは、皇帝と同じことをしたにも関わらず(いや、皇帝と同じことをしたからこそ、不遜だと思われ)腐敗として受けとられ、怨まれる。しかし代行者は、代行者なのだから、皇帝と同じことをせねばならない。違うことをしたら、代行にならない。ゆえに代行者は、必然的に腐敗する。不幸な構造!!


江表傳曰。俶父、會稽山陰縣卒也、知俶不良、上表云「若用俶爲司直、有罪乞不從坐。」晧許之。俶表立彈曲二十人、專糾司不法、於是愛惡相攻、互相謗告。彈曲承言、收繫囹圄、聽訟失理、獄以賄成。人民窮困、無所措手足。俶奢淫無厭、取小妻三十餘人、擅殺無辜、衆姦並發、父子俱見車裂。

『江表伝』はいう。張俶の父は、会稽の山陰県で卒をやる。父は「もし張俶が司直となり、罪を犯しても、私を連坐させないで」と上表し、孫晧に認められた。張俶は、弾曲20人を設置し、裁判を活発にした。判決は賄賂で決めた。小妻30余人をとった。張俶の悪事が発覚すると、張俶の父も車裂にされた。

ぼくは思う。父は、わが子の悪い性格を知っていたが、けっきょく連坐を免れなかった。結果は煮えきらないが、「子を善導するのも、親の役目。子の罪から、親はフリーになれない」という教訓なのか。


天紀2年、11王に兵3千ずつ付ける

二年秋七月、立成紀、宣威等十一王。王給三千兵、大赦。

天紀2年秋7月、成紀王、宣威王ら、11王を立てた。王たちは兵3千を給う。

ぼくは思う。これで孫晧を「藩屏」する体制が完成した。兵数も少なくない。西晋と同じような発想なのだろうか。残念ながら、孫呉の滅亡まで2年しかなく、封王の展開を確認できない。

大赦した。

『晋書』武帝紀はいう。咸寧4年11月、孫呉の昭武将軍の劉翻、厲武将軍の祖始が来降した。
『通鑑』はいう。呉人は、皖城で大いに佃し、入寇をはかる。都督揚州諸軍事の王渾は、揚州刺史の應綽に皖城のもとを攻めさせ、5千級を斬り、穀物の備蓄180余万斛を焼く。稻田4千餘頃をつぶす。船6百餘艘をこわす。
『通鑑』はいう。この歳、羊祜が疾篤なので、杜預が代わった。11月辛卯、杜預を鎮南大將軍、都督荊州諸軍事とした。杜預が鎮所にくると、精鋭をえらび、孫呉の西陵督の張政をやぶった。


天紀3年、広州の郭馬、西晋の平呉軍に挟まる

三年夏、郭馬反。馬、本合浦太守脩允部曲督。允、轉桂林太守、疾病、住廣州、先遣馬、將五百兵、至郡安、撫諸夷。允死、兵、當分給。馬等、累世舊軍、不樂離別。晧、時又科、實廣州戶口。馬、與部曲將何典、王族、吳述、殷興等、因此恐動兵民、合聚人衆、攻殺廣州督虞授。馬、自號都督交廣二州諸軍事、安南將軍。興、廣州刺史。述、南海太守。典、攻蒼梧。族、攻始興。

天紀3年夏、郭馬が反した。郭馬は、合浦太守の脩允のもとで部曲督だった。脩允が桂林太守の転じたが発病して、廣州にとどまる。脩允は、さきに郭馬に将兵5百をつけ、郡内を安んじ、諸夷を撫させた。脩允が死ぬと、郭馬らの兵は分割される。郭馬は分割をこばみ、反したのだ。

合浦は、『魏志』陳留王紀の咸熙元年にある。脩允のことは、『呉志』孫晧伝の建衡3年の注釈にある。部曲督は、『魏志』明帝紀の太和2年にある。
桂林は、『呉志』孫晧伝の鳳凰3年にある。広州は『呉志』孫休伝の永安7年にある。いま「広州督」が殺されたが、孫呉の要地には督が置かれる。

孫晧が広州の戸口を再調査しようとしたの。郭馬は、何典、王族、吳述、殷興とともに、戸口の再調査を材料にして、兵民をおどかした。郭馬は広州督の虞授を殺した。郭馬は、みずから都督交広二州諸軍事、安南將軍を称した。殷興は廣州刺史、呉述は南海太守を称した。何典は蒼梧を攻めた。王族は始興を攻めた。

『郡国志』はいう。南海の郡治は番禺である。『蜀志』劉焉伝の交趾牧にある。蒼梧は『魏志』陶謙伝にある。始興は『呉志』孫晧伝の甘露元年にある。
王蕃と、王蕃の家属たる王蕃の2弟は、郭馬に協力しないから、郭馬に殺された。『呉志』王蕃伝にある。


漢晉春秋曰。先是、吳有說讖著曰「吳之敗、兵起南裔、亡吳者公孫也。」晧聞之、文武職位至于卒伍有姓公孫者、皆徙於廣州、不令停江邊。及聞馬反、大懼曰「此天亡也。」

『漢晋春秋』はいう。孫晧は「孫呉が滅びるとき、兵が南裔に起こる。孫呉を亡ぼすのは、公孫である」という。孫晧は、卒伍のように低位の者まで、公孫の姓の者を、広州に移住させた。郭馬の離叛を聞き、孫晧は「天が孫呉を亡ぼす」と言った。

ぼくは思う。南はあってるが、「公孫」はどこに?
ぼくは思う。「孫晧がどの時期、なんの理由で壊れるか」という問題の立て方が、誤りだった気がする。これは孫晧以外のものが安定して静止しており、孫晧1人が故障するイメージが前提となった、発問だった。孫晧の時代、孫呉はとても流動的だ。領土が拡縮する。孫権のほうが安定していた。孫晧は、益州から交州に手をつっこまれ、広州で郭馬の反乱がおき、荊州では相次いで西晋への降伏があり、揚州の魏晋との戦線の難しさは同じ。これだけの外乱があるのだから、孫晧がいかに壊れるもなにも、孫呉が倒れないように、駆け抜けるので必死だ。孫晧1人を悠長に観察している場合じゃない。
孫晧期の戦乱を年表にしたい。前代までは、曹魏とだけ競っていれば良かったが、いま有象無象の敵がわいてくる。孫晧は、ボケているヒマはない!
ぼくは思う。西晋も、蜀漢を滅ぼしたことにより、涼州と秦州に戦線を抱えてしまい、軍事が大変になった。後漢のように1国が統一しているほうが安定するが、さもなくば3国で鼎立するのは、結果論とはいえ、とても安定的なかたちだった。蜀漢はしょぼかったが、後漢すら解決できなかった、羌族との衝突を、小康状態に持っていった。蜀漢は羌族に頼らないと、曹魏に対抗できないから、羌族を重んじたのだろうが、回り回って全体最適だった。


八月以軍師張悌、爲丞相。牛渚都督何植、爲司徒。執金吾滕循、爲司空、未拜、轉鎭南將軍、假節領廣州牧、率萬人、從東道、討馬。與族遇于始興、未得前。馬、殺南海太守劉略、逐廣州刺史徐旗。晧、又遣徐陵督陶濬、將七千人、從西道。命交州牧陶璜、部伍所領及合浦、鬱林諸郡兵、當與東西軍、共擊馬。

8月、孫呉の軍師の張悌が丞相となる。牛渚都督の何植が司徒となる。執金吾の滕循が司空となる。

趙一清はいう。滕循は「滕脩」とすべきだ。『晋書』滕脩伝がある。見なさい。
呉士鑑はいう。呂岱伝にひく王隠『交広記』は滕脩とする。文字が紛らわしいのは、『後漢書』袁紹伝で呉循なのに、『魏志』袁紹伝で呉脩となり、費禕の殺害者が郭循や郭脩になるのと同じである。盧弼はいう。『通鑑』は滕脩とする。

滕循は司空を拝命する前に、鎮南将軍に転じ、仮節して廣州牧を領する。滕循は、1万をひきいて東道から郭馬を討つ。滕循は、王族と始興でぶつかり、前進できない。郭馬は、南海太守の劉略を殺し、廣州刺史の徐旗を追いはらう。
孫皓は、徐陵督の陶浚に7千をつけ、西道からゆく。交州牧の陶璜は、部伍の州兵と、合浦と鬱林の郡兵を領して、東西の2軍をあわせ、ともに郭馬を討つ。

趙一清はいう。劉略とは、留賛の子である。『呉志』孫亮伝にある。盧弼はいう。孫亮伝では、五鳳2年、留略は(東海)南海太守となる。留賛には2子がある。留略と留平である。どちらも大将となる。孫峻伝にひく『呉書』にある。留平は、鳳凰元年にひく『江表伝』、王蕃伝にある。しかしどこにも留略が、南海太守となると書いてない。 どうやら殺された南海太守の劉略を、留賛の子の劉略とするのは、難しいのでは。
また盧弼はいう。『晋書』武帝紀の太康元年、孫呉の西陵都督である留憲が殺されるが、杜預伝の注釈では劉憲とされる。王濬伝では留憲とされる。「留」「劉」は似ているから、混ざりやすい。
『広韻18尤』はいう。留氏は、会稽の出身である。もとは衛国の大夫、留封人の後裔である。後漢末、会稽ににげ、東陽に住んで、郡豪族となった。これによると留賛は会稽の人だから、劉氏でなく留氏でよいのだ。
ぼくは思う。留氏は重要そうだが、ぼくのなかで像を結んでいない。やろう。そして留略であることを否認された、南海太守の劉略は、まったく素性が分からなくなって、浮いてしまった。もう留賛の子でいいじゃん! という気もするw
徐陵は『呉志』孫権伝の黄武元年、鬱林は赤烏2年にある。


有鬼目菜、生工人黃耈家、依緣棗樹、長丈餘、莖廣四寸、厚三分。又有買菜、生工人吳平家、高四尺、厚三分、如枇杷形、上廣尺八寸、下莖廣五寸、兩邊生葉綠色。東觀、案圖。名鬼目、作芝草。買菜、作平慮草。遂、以耈爲侍芝郎、平爲平慮郎、皆銀印青綬。

めでたい草が生えた家に、銀印青綬をあげた。

上海古籍3047頁に、『晋書』『宋書』五行志の話あり。
銀印青綬は、漢制では中2千石である。


◆冬、西晋が伐呉の軍をだす

冬。晉、命鎭東大將軍司馬伷、向涂中。安東將軍王渾、揚州刺史周浚、向牛渚。建威將軍王戎、向武昌。平南將軍胡奮、向夏口。鎭南將軍杜預、向江陵。龍驤將軍王濬、廣武將軍唐彬、浮江東下。太尉賈充、爲大都督、量宜處要、盡軍勢之中。陶濬、至武昌、聞北軍大出、停駐、不前。

冬、西晋の鎭東大將軍の司馬伷は、涂中にむかう。

胡三省はいう。孫権が堂邑をつくったのが、涂中である。
盧弼はいう。堂邑も涂中も、呉主伝の赤烏13年にある。司馬伷のことは、『魏志』高貴郷公紀の甘露5年にひく『漢晋春秋』にある。『晋書』司馬伷伝がある。

安東將軍の王渾、揚州刺史の周浚は、牛渚にむかう。

王渾は『魏志』王昶伝とその注釈にある。『晋書』周浚伝がある。

建威將軍の王戎は、武昌にむかう。平南將軍の胡奮は、夏口にむかう。鎭南將軍の杜預は、江陵にむかう。
龍驤將軍の王濬、廣武將軍の唐彬は、長江から東下する。

王戎は『魏志』崔林伝の注釈にある。胡奮は『魏志』鍾会伝にひく『晋諸公賛』、『晋書』胡奮伝にある。杜預は『魏志』杜畿伝と注引『杜氏新書』にある。『晋書』杜畿伝がある。
『宋書』百官志によると、龍驤将軍は、はじめ晋武帝が王濬に任じた。『晋書』王濬伝がある。見なさい。
ぼくは思う。『晋書』の列伝がある者は読めばよいだけ。『三国志』のなかで、どこに詳述されているか、『三国志集解』から教わるために、ここを引用してます。
梁商鉅はいう。『宋書』五行志はいう。孫晧の天紀のとき、童謡がある。「阿童よ、阿童よ。長江から上陸した虎は畏れないが、長江にひそむ龍を畏れる」という。晋武帝はこれを聞き、王濬を龍驤将軍とした。王濬が最初に秣陵を定めた。
『晋書』羊祜伝で、羊祜は童謡を聞いて、王濬の名が「阿童」だから、王濬が水軍で功績をたてると思い、王濬を監益州諸軍事とした。ぼくは思う。敗れた孫晧だけでなく、勝った西晋もまた、童謡に頼っている。孫晧が童謡などに傾倒したことを以て、孫晧を批判するのは、まったくハズレ。
広武将軍は曹魏がおく。『晋書』唐彬伝がある。

太尉の賈充は、大都督となる。賈充は要所を見きわめ、軍勢の中枢をもつ。

賈充は『魏志』賈逵伝とその注釈にある。『宋書』はいう。魏明帝の太和4年、司馬懿が征蜀するとき、大都督をくわえた。『晋書』武帝紀はいう。行冠軍将軍の楊済を、賈充の副官とした。
『文館詞林』662は、伐呉の詔を載せる。長すぎるから、盧弼は『三国志集解』に引用しない。 おお! 見てみたい。後日、調べる。

呉将の陶濬は武昌にいたが、西晋の大軍がきたと聞き、広州にゆかない。

やばいよ!陶濬、はやく帰ってきて!


初、晧每宴會羣臣、無不咸令沈醉。置黃門郎十人、特不與酒、侍立終日、爲司過之吏。宴罷之後、各奏其闕失、迕視之咎、謬言之愆、罔有不舉。大者卽加威刑、小者輒以爲罪。後宮數千、而採擇無已。又、激水入宮、宮人有不合意者、輒殺流之。或剝人之面、或鑿人之眼。岑昬、險諛貴幸、致位九列、好興功役衆所患苦。是以、上下離心、莫爲晧盡力。蓋積惡已極、不復堪命故也。

孫晧は宴会のとき、黄門郎10人に過失を監視させ、処罰した。後宮を増やした。気に入らない宮人を、宮中の川水に流した。顔面や眼球をはぐ。岑昏は九卿になり、功役で民衆を苦しめた。孫晧のために尽力する者がない。

周寿昌はいう。『初学記』にひく環済『呉紀』はいう。天紀2年、衛尉の岑氏が上表して、百府を修繕せよという。
『通鑑』はいう。賈充が「眼球をぬき、面皮を剥いだのは、なんの刑罰か」ときく。孫皓は「賈充が曹髦を殺したように、 弑君する者を罰したのだ」という。賈充は恥じたが、孫皓は顔色を変えない。
趙一清はいう。『晋書』王済伝で、司馬炎と王済は奕棋をやる。孫晧がそばにいた。司馬炎「どんな者の顔面を剥いだか」と。孫晧「王済のように、無礼な姿勢の者を」と。


吳平後、晉侍中庾峻等問晧侍中李仁曰「聞吳主披人面、刖人足、有諸乎?」仁曰「以告者過也。君子惡居下流、天下之惡皆歸焉。蓋此事也、若信有之、亦不足怪。昔唐、虞五刑、三代七辟、肉刑之制、未爲酷虐。晧爲一國之主、秉殺生之柄、罪人陷法、加之以懲、何足多罪!夫受堯誅者不能無怨、受桀賞者不能無慕、此人情也。」又問曰「云歸命侯乃惡人橫睛逆視、皆鑿其眼、有諸乎?」仁曰「亦無此事、傳之者謬耳。曲禮曰視天子由袷以下、視諸侯由頤以下、視大夫由衡、視士則平面、得游目五步之內。視上於衡則傲、下於帶則憂、旁則邪。以禮視瞻、高下不可不慎、況人君乎哉?視人君相迕、是乃禮所謂傲慢。傲慢則無禮、無禮則不臣、不臣則犯罪、犯罪則陷不測矣。正使有之、將有何失?」凡仁所答、峻等皆善之、文多不悉載。

平呉ののち、西晋の侍中・庾峻らが、孫呉の侍中・李仁にきく。

庾峻のことは、『魏志』高貴郷公紀の甘露元年、『魏志』管寧伝にひく『庾氏譜』にある。ぼくは思う。こういう情報がうれしい。

庾峻「孫晧が、顔面や人足を切ったのはなぜ」と。李仁「肉刑そのものが悪事でない。堯舜も夏殷周も肉刑した。ただ敗北した君主は、『論語』に言うように、彼の刑罰が悪事にされる」と。庾峻「孫晧は視線をにくみ、視線を逸らし、睨み返す者の眼球をえぐった。なぜか」と。李仁「『礼記』曲礼篇は、下位者から上位者への視線の向けかたを定める。これに違反した者を罰した」と。庾峻らは善しとした。

盧弼は『礼記』曲礼篇をひく。上海古籍3051頁。
ぼくは思う。わざわざ、ぼくらが孫晧を擁護しなくても、李仁が全てを言い尽くしている。「彼らは、残虐な悪事をしなかった。ただ彼らに悪事があったとすれば、ただ敗北したことだ。敗北したことによって、どの勢力でもやっている通常の行為が、特別に残虐な悪事として登録されてしまう。彼らが勝利すれば、善行とはで言わなくても、必要悪として納得されたはずだ」と。どこかで聞いた論法であるw


天紀4年、孫晧が王濬に降伏する

四年春。立中山、代等、十一王。大赦。濬、彬所至、則土崩瓦解、靡有禦者。預、又斬江陵督伍延。渾、復斬丞相張悌、丹楊太守沈瑩等。所在戰克。

天紀4年春、中山王、代王ら、11王を立てる。

西晋の太康元年である。というか西暦280年である!
封王がたくさんいるので、藩屏は万全!
ぼくは思う。こうして滅亡直前になっても、「言葉あそび」を辞めないのは、すばらしい。孫晧は、皇帝のなかの皇帝だなあ。中山も代王も、遠すぎて、まったく赴任できないことが明白である! ぼくが思うに孫晧は、現実への身体的な対応と、思想への観念的な遊戯の、両方をバランスよくやれた皇帝だった。実数軸と虚数軸の平面を、きっちり見渡すことができた。これは最大級の賛辞だ。名君だよなあ!

大赦した。王濬と唐彬がくると、だれにも瓦解を止められない。

『晋書』王濬伝にくわしい。そちらを読め。

杜預もまた、江陵督の伍延を斬る。王渾もまた、丞相の張悌、丹楊太守の沈瑩らを斬る。西晋が戦えば、孫呉が敗れた。

『晋書』杜預伝、『晋書』王渾伝、『晋書』武帝紀を見よ。
ここから裴注で、丞相の張悌の列伝、張悌伝がはじまる。干宝『晋紀』、『襄陽記』、『呉録』、『捜神記』がある。はぶく。とうか、この孫晧伝を2012年のうちに完成させたいので、張悌伝をひねり出している時間がない。絶対に後日、というか来年2013年にやろう。あと4時間で今年が終わる!


三月丙寅。殿中親近數百人、叩頭請晧、殺岑昬。晧、惶憒從之。

干寶晉紀曰。晧殿中親近數百人叩頭請晧曰「北軍日近、而兵不舉刃、陛下將如之何!」晧曰「何故?」對曰「坐岑昬。」晧獨言「若爾、當以奴謝百姓。」衆因曰「唯!」遂並起收昬。晧駱驛追止、已屠之也。

3月丙寅、孫晧は殿中で、親近する数百人にあう。数百人は叩頭して「岑昏を殺してくれ」という。孫晧はおそれて、岑昏を殺した。
干宝『晋紀』はいう。数百人「だれも晋軍と戦わない」、孫晧「なぜだ」、数百人「岑昏のせいだ」、孫晧「岑昏を斬り、百姓にわびる」、数百人「お願いします」と。孫晧は駱驛して(相次いで人をやり)岑昏を助命しようとしたが、岑昏は斬られた。

ぼくは思う。岑昏はスケープゴートなのだ。岑昏は「皇帝でないが、皇帝と同じことをする」という役割だ。皇帝の意思を受けて、皇帝と同じことをするから、権限が絶大であり、皇帝に愛される。だが皇帝でないから、皇帝と同じことをしたことを怨まれる。皇帝は、こういう矛盾した装置=媒介者を、制度的に1段階かませて、自分の身を守ったのね。ほんとうは数百人が、孫晧を斬るべき場面だよ。
ぼくは思う。孫晧が相次いで岑昏を助けようとしたのは、「自分の身体」を守るためだ。生物として当然の防衛反応なんだ。身代わりが死ぬとは、自分が死ぬに等しい。物理的に死ななくても、象徴的に死ぬのだ、孫晧は。岑昏の死後の孫晧は、抜け殻だから、王濬に降伏しようが関係ない。


戊辰。陶濬、從武昌還、卽引見。問水軍消息、對曰「蜀船皆小。今得二萬兵、乘大船戰、自足擊之」於是、合衆、授濬節鉞。明日當發、其夜衆悉逃走。
而王濬、順流將至。司馬伷、王渾、皆臨近境。晧、用光祿勳薛瑩、中書令胡沖等計、分遣使奉書於濬、伷、渾曰「昔、漢室失統、九州皆分裂。先人因時、略有江南、遂分阻山川、與魏乖隔。今、大晉龍興、德覆四海。闇劣偷安、未喻天命。至于今者、猥煩六軍、衡蓋路次、遠臨江渚。舉國震惶、假息漏刻。敢緣天朝含夕光大、謹遣私署太常張夔等、奉所佩印綬、委質請命。惟垂信納、以濟元元。」

戊辰、広州の平定にむかった陶濬が、武昌から還る。孫晧「晋軍の蜀地からの水軍はどんなか」、陶濬「小さい船ばかりだから、呉軍2万と大船がいれば勝てる」と。陶濬は全軍をもらい、節鉞をさずかる。出陣の前夜、呉兵が逃走した。
王濬は長江からくだり、司馬伷と王渾も近づく。孫晧は、光祿勳の薛瑩、中書令の胡沖らの計略をもちい、王濬、司馬伷、王渾に文書を届けた。

胡三省はいう。小舟の件。孫呉の諜報は、終わってる。
『晋書』王濬伝では、「呉郡の孫晧、叩頭して死罪」の2語のみ。

孫晧の降伏文書はいう。「漢末に九州が分裂したとき、江南に割拠して、曹魏と隔たった。いま大晋が龍興した。私は天命がわからず、大晋の6軍を煩わせた。私署した太常の張夔らを使者にする。印綬を提出する。降伏を受納してね」

江表傳載晧將敗與舅何植書曰「昔大皇帝以神武之略、奮三千之卒、割據江南、席卷交、廣、開拓洪基、欲祚之萬世。至孤末德、嗣守成緒、不能懷集黎元、多爲咎闕、以違天度。闇昧之變、反謂之祥、致使南蠻逆亂、征討未克。聞晉大衆、遠來臨江、庶竭勞瘁、衆皆摧退、而張悌不反、喪軍過半。孤甚愧悵、于今無聊。得陶濬表云武昌以西、並復不守。不守者、非糧不足、非城不固、兵將背戰耳。兵之背戰、豈怨兵邪?孤之罪也。天文縣變於上、士民憤嘆於下、觀此事勢、危如累卵、吳祚終訖、何其局哉!天匪亡吳、孤所招也。瞑目黃壤、當復何顏見四帝乎!公其勖勉奇謨、飛筆以聞。」

『江表伝』は孫晧が敗北する直前、舅の何植に与えた文書を載せる。孫権は神武之略により、割拠した。私は凶兆を吉兆と思いこみ、南蛮が反乱し、鎮圧する前に晋軍がきた。丞相の張悌は還らない。陶濬によると、武昌より西は戦意がないという。城壁も軍糧もあるのに、私のせいで戦意がないらしい。私は4帝にあわす顔がない。どうしよう。奇謀=良案がないかな」

盧弼はいう。4帝には1人たりない。孫権、孫亮、孫休と、、孫和か。盧弼はいう。亡国するのに、奇謀なんて出てくるかよ。


晧又遺羣臣書曰「孤以不德、忝繼先軌。處位歷年、政教凶勃、遂令百姓久困塗炭、至使一朝歸命有道、社稷傾覆、宗廟無主、慚愧山積、沒有餘罪。自惟空薄、過偷尊號、才瑣質穢、任重王公、故周易有折鼎之誡、詩人有彼其之譏。自居宮室。仍抱篤疾、計有不足、思慮失中、多所荒替。邊側小人、因生酷虐、虐毒橫流、忠順被害。闇昧不覺、尋其壅蔽、孤負諸君、事已難圖、覆水不可收也。今大晉平治四海、勞心務於擢賢、誠是英俊展節之秋也。管仲極讐、桓公用之、良、平去楚、入爲漢臣、舍亂就理、非不忠也。莫以移朝改朔、用損厥志。嘉勖休尚、愛敬動靜。夫復何言、投筆而已!」

孫晧は群臣にも文書をだした。『周易』鼎はいう。能力のない者が、王公の重任につくと、鼎の足が折れると。『詩経』曹風の候人 は、徳の薄い者が、尊い服を着ても釣りあわないという。私の計略は足りず、思慮は外れた。小人を近づけ、忠順な者に害を被らせた。斉の管仲、楚の張良と陳平は、2君に仕えたが不忠でない。呉臣たちも晋臣となれ。これ以上、何を言うものか。筆を投げるよ」と。

壬申。王濬、最先到。於是、受晧之降、解縛焚櫬、延請相見。伷、以晧致印綬於己、遣使送晧。晧、舉家西遷、以太康元年五月丁亥、集于京邑。四月甲申、詔曰「孫晧、窮迫歸降。前詔、待之以不死。今晧垂至、意猶愍之。其、賜號爲歸命侯、進給衣服車乘、田三十頃、歲給穀五千斛、錢五十萬、絹五百匹、緜五百斤」

3月壬申、王濬が先に到達した。孫晧の降伏を受けた。

盧弼はいう。王濬と王渾が、戦功を競ったが、王濬のほうが早かったことは明確である。
『晋書』武帝紀、『晋書』王濬伝にある。
潘眉はいう。この歳の3月は戊子ついたつだから、丙寅、戊辰、壬申がない。『晋書』王濬伝の日付は誤りである。丙寅を丙申、戊辰を戊戌、壬申を壬寅と読み換えよ。ぼくは思う。3つともズラしたら、信憑性もなにも、あったものではない。

司馬伷が孫晧の印綬を受け、司馬伷が孫晧を洛陽におくる。孫晧は家属をあげて、西する。太康元年5月丁亥、孫晧の家属は京師につどう。4月甲申、司馬炎は詔した。「孫晧を帰命侯とする。衣服と車乘、田30頃を与える。1年ごとに、穀5千斛、錢50萬、絹5百匹、緜5百斤を与える」と。

『晋書』武帝紀、王濬伝では、王濬が孫晧を洛陽におくる。
5月丁亥に洛陽にきた。4月甲申の詔よりあとである。記述の順序がおかしい。ぼくは思う。孫皓の身柄がどこにあろうが、詔のみが出ちゃった?
『晋書』武帝紀はいう。五月辛亥,封孫晧為歸命侯,拜其太子為中郎,諸子為郎中。吳之舊望,隨才擢敘。孫氏大將戰亡之家徙于壽陽,將吏渡江複十年,百姓及百工複二十年と。
『世説』排調篇はいう。晋武帝は孫晧に「なんじ」という言葉を入った歌を謳わせた。孫晧のほうが、上手だった。
『通鑑考異』はいう。『呉志』孫晧伝、『晋書』武帝紀、王濬伝、『三十国春秋』、『晋陽秋』では、月日が異なる。


晉陽秋曰。濬收其圖籍、領州四、郡四十三、縣三百一十三、戶五十二萬三千、吏三萬二千、兵二十三萬、男女口二百三十萬、米穀二百八十萬斛、舟船五千餘艘、後宮五千餘人。

『晋陽秋』はいう。王濬が入手した戸籍は、4州、43郡、313県、52万3千戸、吏32千人、兵23万人、男女230万口、米穀280万石、舟船5千余艘、後宮5千余人だ。

3州とは、荊州、揚州、交州と、孫呉が分けた広州である。潘眉は郢州を含めるが、誤りである。
趙一清はいう。劉昭『補志』はいう。正始5年、揚武将軍の朱照日が報告したとき、孫呉は93万2千戸であり、蜀漢より人口が少ないという。蜀漢が滅びたとき、94万3千戸、537万口だった。
ぼくは思う。蜀漢の半分弱しか、戸数と人口がいないのか?


干寶晉紀曰。王濬治船於蜀、吾彥取其流柹以呈孫晧、曰「晉必有攻吳之計、宜增建平兵。建平不下、終不敢渡江。」晧弗從。陸抗之克步闡、晧意張大、乃使尚廣筮幷天下、遇同人之頤、對曰「吉。庚子歲、青蓋當入洛陽。」故晧不脩其政、而恆有窺上國之志。是歲也實在庚子。

干宝『晋紀』はいう。王濬が蜀地で造船すると、吾彦は孫晧に「建平の守兵を増やせ」という。孫晧は従わず。

『晋書』吾彦伝がある。見なさい。
建平は、孫休伝の永安3年にある。胡三省はいう。建平郡は、漢代の南郡の巫県を、孫権が分けて宜都郡とし、さらに孫休が宜都郡を分けて建平郡としたものだ。治所は秭歸である。謝鍾英はいう。孫呉は長江ぞいに守をおく。上流のもっとも重要な拠点が、建平=秭歸である。

陸抗が歩闡を破ると、孫晧は、尚広に天下統一を占わせた。「庚子の歳、青蓋が洛陽に入る」という。孫晧は政治をおさめず、つねに上国之志を窺った。孫呉が滅亡したのは、庚子の歳だった。

裴注『捜神記』があるが、はぶく。「3人の公が鉞をつかい、司馬氏がゆく」と。魏呉蜀が司馬氏の西晋に合わさる予言を児童がした。


晧太子瑾、拜中郎。諸子爲王者、拜郎中。五年、晧死于洛陽。

太子の孫瑾は、中郎を拝した。庶子で王だった者は、郎中を拝した。太康5年、孫晧は洛陽で死んだ。121231

裴注;吳錄曰。晧以四年十二月死、時年四十二、葬河南縣界。孫晧は太康4年12月に死んだ。42歳だった。河南の県界に葬られた。
盧弼はいう。本文に「5年」とあるのは、孫呉の年号ではない。ただし陳寿は太康5年というが、裴注『呉録』と『通鑑』は太康4年とする。あわない。
李清植はいう。『蜀志』後主伝は、安楽公は泰始7年に洛陽で薨じたと記す。孫晧は爵位でなく、名で記す。これは史書の筆法である。
潘眉はいう。『続漢書考異』にひく『世紀』で、孫晧は赤烏5年壬戌に生まれ、太康4年癸卯に死に、在位は23年とする。『呉録』のいう4年というのは、やはり孫呉の年号でなく、西晋の太康4年だろう。
趙一清はいう。『寰宇記』巻3はいう。北芒山は、河南県の北10里にある。孫晧と劉禅は、この北芒山に葬られた。『鼎録』はいう。孫晧は1鼎を蒋山=孫権の陵墓で、鋳造した。孫呉の暦数と、8分書?が記された。韋続は、9品の下中(8ばんめ)に、孫晧の事績を記録した。

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陳寿の評、陸機の『弁亡論』

陳寿の評、孫盛のコメント

評曰。孫亮、童孺而無賢輔、其替位不終、必然之勢也。休、以舊愛宿恩、任用興布、不能拔進良才、改絃易張。雖志善好學、何益救亂乎。又、使既廢之亮不得其死、友于之義薄矣。

陳寿は評する。孫亮は幼く、賢臣がたすけない。廃位されたのは当然である。孫休は、したしい濮陽興と張布に任せて、良才を抜擢しない。いくら孫休が学問を好きでも、役に立たない。弟の孫亮を死から救えなかったから、孫休には義がうすい。

晧之淫刑所濫、隕斃流黜者、蓋不可勝數。是以、羣下人人惴恐、皆日日以冀、朝不謀夕。其、熒惑巫祝、交致祥瑞、以爲至急。 昔、舜禹、躬稼、至聖之德。猶或、矢誓衆臣、予違女弼。或、拜昌言。常若不及。況晧、凶頑、肆行殘暴、忠諫者誅、讒諛者進、虐用其民、窮淫極侈。宜腰首分離以謝百姓。既蒙不死之詔、復加歸命之寵。豈非曠蕩之恩、過厚之澤也哉。

孫皓は刑罰しまくる。火星は、孫呉の危急をつたえた。 舜禹は臣下の諫言を聞いたが、孫皓は諫言を聞かず、正しい者を虐げた。西晋の帰命侯となったが、孫皓ごときを厚遇しすぎだ。

孫盛曰。夫古之立君、所以司牧羣黎、故必仰協乾坤、覆燾萬物。若乃淫虐是縱、酷被羣生、則天殛之、剿絕其祚、奪其南面之尊、加其獨夫之戮。是故湯、武抗鉞、不犯不順之譏。漢高奮劍、而無失節之議。何者?誠四海之酷讐、而人神之所擯故也。況晧罪爲逋寇、虐過辛、癸、梟首素旗、猶不足以謝寃魂、洿室荐社、未足以紀暴迹、而乃優以顯命、寵錫仍加、豈龔行天罰、伐罪弔民之義乎?是以知僭逆之不懲、而凶酷之莫戒。詩云「取彼譖人、投畀豺虎。」聊譖猶然、矧僭虐乎?且神旗電掃、兵臨偽窟、理窮勢迫、然後請命、不赦之罪既彰、三驅之義又塞、極之權道、亦無取焉。

西晋は、暴虐な孫皓を赦すなよ。孫皓の罪は、殷紂や夏桀よりひどい。

ぼくは思う。『三国志集解』にあまり注釈がついてない。『史記』殷本紀とか、『詩経』などの出典を明かすだけ。そしてロジックに、なんのひねりもない。つまらん!


陸機『弁亡論』が、滅呉の原因を論じる

◆陸機『弁亡論』上;孫氏の功績

陸機著辨亡論、言吳之所以亡、其上篇曰「昔漢氏失御、奸臣竊命、禍基京畿、毒徧宇內、皇綱弛紊、王室遂卑。於是羣雄蜂駭、義兵四合、吳武烈皇帝慷慨下國、電發荊南、權略紛紜、忠勇伯世。威稜則夷羿震蕩、兵交則醜虜授馘、遂掃清宗祊、蒸禋皇祖。於時雲興之將帶州、飆起之師跨邑、哮闞之羣風驅、熊羆之族霧集、雖兵以義合、同盟戮力、然皆包藏禍心、阻兵怙亂、或師無謀律、喪威稔寇、忠規武節、未有若此其著者也。

陸機は『弁亡論』を著した。上篇はいう。

『晋書』陸機伝にある。
陸機,字士衡,吳郡人也。祖遜,吳丞相。父抗,吳大司馬。機身長七尺,其聲如鐘。少有異才,文章冠世,伏膺儒術,非禮不動。抗卒,領父兵為牙門將。年二十而吳滅,退居舊裏,閉門勤學,積有十年。以孫氏在吳,而祖父世為將相,有大勳于江表,深慨孫皓舉而棄之,乃論權所以得,皓所以亡,又欲述其祖父功業,遂作《辯亡論》二篇。など。
『晋書』陸機伝にも、『弁亡論』が引用されているのか!

漢室がかたむき、董卓があばれた。武烈皇帝の孫堅は、荊南で挙兵し、董卓をやぶった。豪傑がつぶしあうが、忠規と武節において孫堅がもっとも優れた。

武烈既沒、長沙桓王逸才命世。弱冠秀發、招攬遺老、與之述業。神兵東驅、奮寡犯衆、攻無堅城之將、戰無交鋒之虜。誅叛柔服而江外厎定、飭法修師而威德翕赫、賓禮名賢而張昭爲之雄、交御豪俊而周瑜爲之傑。 彼二君子、皆弘敏而多奇、雅達而聰哲、故同方者以類附、等契者以氣集、而江東蓋多士矣。將北伐諸華、誅鉏干紀、旋皇輿於夷庚、反帝座于紫闥、挾天子以令諸侯、清天步而歸舊物。戎車既次、羣凶側目、大業未就、中世而隕。

孫堅の死後、長沙桓王の孫策が、連戦連勝した。張昭をむかえ、周瑜とまじわる。張昭と周瑜を中核に、江東の多士があつまる。天子をたすけて、諸侯に号令しようとしたが、死んだ。

用集我大皇帝、以奇蹤襲於逸軌、叡心發乎令圖、從政咨於故實、播憲稽乎遺風、而加之以篤固、申之以節儉、疇咨俊茂、好謀善斷、東帛旅於丘園、旌命交于塗巷。故豪彥尋聲而響臻、志士希光而影騖、異人輻輳、猛士如林。於是張昭爲師傅、周瑜、陸公、魯肅、呂蒙之疇入爲腹心、出作股肱。甘寧、淩統、程普、賀齊、朱桓、朱然之徒奮其威、韓當、潘璋、黃蓋、蔣欽、周泰之屬宣其力。風雅則諸葛瑾、張承、步騭以聲名光國、政事則顧雍、潘濬、呂範、呂岱以器任幹職、奇偉則虞翻、陸績、張溫、張惇以諷議舉正、奉使則趙咨、沈珩以敏達延譽、術數則吳範、趙達以禨祥協德、董襲、陳武殺身以衞主、駱統、劉基彊諫以補過、謀無遺算、舉不失策。故遂割據山川、跨制荊、吳、而與天下爭衡矣。

孫策の死後、孫権は人材をまねいた。張昭を師傅にした。周瑜、陸遜、魯粛、呂蒙を腹心、股肱とした。

陸機は陸遜の孫だから「陸公」とする。また記述の順序において、陸遜を前だしする。呂蒙のあとに置かないのね。

甘寧、淩統、程普、賀齊、朱桓、朱然は、威をふるう。韓當、潘璋、黃蓋、蔣欽、周泰は、力をのべる。
風雅において、諸葛瑾、張承、步騭は、国の名声をたかめる。政事において、顧雍、潘濬、呂範、呂岱は、要職にある。奇偉において、虞翻、陸績、張温、張惇は、諷議で舉正する。使者として、趙咨、沈珩は、外交がうまい。術數において、吳範、趙達は、祥瑞がよめた。董襲、陳武は、身を殺して主君をまもる。駱統、劉基は、孫権の過ちを諫めた。ゆえに孫権は、荊州と揚州をえた。

魏氏嘗藉戰勝之威、率百萬之師、浮鄧塞之舟、下漢陰之衆、羽楫萬計、龍躍順流、銳騎千旅、虎步原隰、謀臣盈室、武將連衡、喟然有吞江滸之志、一宇宙之氣。而周瑜驅我偏師、黜之赤壁、喪旗亂轍、僅而獲免、收迹遠遁。漢王亦馮帝王之號、率巴、漢之民、乘危騁變、結壘千里、志報關羽之敗、圖收湘西之地。而我陸公亦挫之西陵、覆師敗績、困而後濟、絕命永安。續以灞須之寇、臨川摧銳、蓬籠之戰、孑輪不反。由是二邦之將、喪氣摧鋒、勢衂財匱、而吳藐然坐乘其弊、故魏人請好、漢氏乞盟、遂躋天號、鼎峙而立。

赤壁で曹操、夷陵で劉備、濡須で曹丕をくじいた。孫権は皇帝に即位した。

西屠庸蜀之郊、北裂淮漢之涘、東苞百越之地、南括羣蠻之表。於是講八代之禮、蒐三王之樂、告類上帝、拱揖羣后。虎臣毅卒、循江而守、長戟勁鎩、望飆而奮。庶尹盡規於上、四民展業于下、化協殊裔、風衍遐圻。乃俾一介行人、撫巡外域、臣象逸駿、擾於外閑、明珠瑋寶、輝於內府、珍瑰重跡而至、奇玩應響而赴、輶軒騁於南荒、衝輣息於朔野、齊民免干戈之患、戎馬無晨服之虞、而帝業固矣。

西は庸蜀、北は淮漢、東は百越、南は群蛮から、領土をきりとる。8代(3皇5帝)の礼を講じて、3王(夏殷周)の楽をあつめ、上帝に皇帝即位を報告した。四方から珍宝があつまった。

ぼくは思う。孫権までは、国が栄える一方という「模造記憶」「公式見解」が共有されていた。陸機が言っているのは、「西晋において孫呉をどう認識するか」である。「実際はどうであったか」ではない。陸機がどのように「誤解」しているか、調べるとおもしろいと思う。歴史の物語、という定型に回収されていくよ。いかに回収されるかを考えよう。


大皇既歿、幼主蒞朝、奸回肆虐。景皇聿興、虔修遺憲、政無大闕、守文之良主也。降及歸命之初、典刑未滅、故老猶存。大司馬陸公以文武熙朝、左丞相陸凱以謇諤盡規、而施績、范慎以威重顯、丁奉、鍾離斐以武毅稱、孟宗、丁固之徒爲公卿、樓玄、賀劭之屬掌機事、元首雖病、股肱猶良。爰及末葉、羣公既喪、然後黔首有瓦解之志、皇家有土崩之釁、曆命應化而微、王師躡運而發、卒散於陳、民奔于邑、城池無藩籬之固、山川無溝阜之勢、非有工輸雲梯之械、智伯灌激之害、楚子築室之圍、燕子濟西之隊、軍未浹辰而社稷夷矣。雖忠臣孤憤、烈士死節、將奚救哉?夫曹、劉之將非一世之選、向時之師無曩日之衆、戰守之道抑有前符、險阻之利俄然未改、而成敗貿理、古今詭趣、何哉?彼此之化殊、授任之才異也。」

孫権が死に、孫亮のとき奸者が虐したが、孫休は欠陥なし。孫皓の初期は、大司馬の陸抗、左丞相の陸凱 、施績と范慎が威で、丁奉と鐘離斐が武で、孟宗と丁固が公卿として、楼玄と賀邵が機事して、わるい孫皓を支えた。しかし孫皓は、国家を自壊させた。

ぼくは思う。陸抗と陸凱は、陸機の血縁だから、重要視される。彼らが退場してから、孫呉が傾いたという解釈である。まあ血縁者の色目があるかも知れないが、おおむね共有された歴史観なんだろう。


◆『弁亡論』下篇;陸遜と陸機の功績

其下篇曰「昔三方之王也、魏人據中夏、漢氏有岷、益、吳制荊、揚而奄交、廣。曹氏雖功濟諸華、虐亦深矣、其民怨矣。劉公因險飾智、功已薄矣、其俗陋矣。吳桓王基之以武、太祖成之以德、聰明睿達、懿度深遠矣。其求賢如不及、恤民如稚子、接士盡盛德之容、親仁罄丹府之愛。拔呂蒙於戎行、識潘濬于係虜。推誠信士、不恤人之我欺。量能授器、不患權之我逼。執鞭鞠躬、以重陸公之威。悉委武衞、以濟周瑜之師。卑宮菲食、以豐功臣之賞。披懷虛己、以納謨士之算。故魯肅一面而自託、士燮蒙險而效命。高張公之德而省游田之娛、賢諸葛之言而割情欲之歡、感陸公之規而除刑政之煩、奇劉基之議而作三爵之誓、屏氣跼蹐以伺子明之疾、分滋損甘以育淩統之孤、登壇慷慨歸魯肅之功、削投惡言信子瑜之節。是以忠臣競盡其謀、志士咸得肆力、洪規遠略、固不厭夫區區者也。故百官苟合、庶務未遑。

下篇はいう。曹魏、蜀漢、孫呉が鼎立した。曹魏は中原を平定した功績があるが、民を虐げた。蜀漢は辺境に閉じこもり、功績が薄い。
いっぽうで、孫権は良政した。呂蒙と潘濬をとりたてた。みずから出かけて陸遜をむかえ、周瑜に全権をゆだねた。魯粛は身をあずけ、士燮は遠くからきた。張昭と諸葛瑾の知恵をとうとぶ。陸遜の発言で刑罰をかるくし、劉基の発言で酔った命令を無効にした。呂蒙を見まい、凌統の子をやしない、登壇を魯粛の功績とし、諸葛瑾の悪口を信じない。

ぼくは思う。天子は百官を通じて、政事をやるから。百官と良好な関係を築くことが、間接的な民衆にむけて良政をすることになる。


初都建業、羣臣請備禮秩、天子辭而不許、曰『天下其謂朕何!』宮室輿服、蓋慊如也。爰及中葉、天人之分既定、百度之缺粗修、雖醲化懿綱、未齒乎上代、抑其體國經民之具、亦足以爲政矣。地方幾萬里、帶甲將百萬、其野沃、其民練、其財豐、其器利、東負滄海、西阻險塞、長江制其區宇、峻山帶其封域、國家之利、未見有弘於茲者矣。借使中才守之以道、善人御之有術、敦率遺憲、勤民謹政、循定策、守常險、則可以長世永年、未有危亡之患。

はじめ建業に都したとき、群臣は「礼秩を整備せよ」というが、孫権は「整備したら、天下は私をどう言うか」と、宮室や輿服を整備しなかった。孫権の中期になると統治の制度は、上代ほど整備されないが、現実的な政治ができる水準に達した。

ぼくは思う。礼制が充分でないことが、孫呉の欠点である。それを陸機は、「現実的に必要なレベルには整備された。これ以上は虚飾である。整備しなかった孫権は、過剰な礼制への準拠をさけた。謙遜した名君である」と理解した。
ぼくは思う。じっさいに政治はできるかも知れないが。礼制の本質は、ムダや虚飾だからなあ。孔子集団が、礼制を押し売りしたときから、礼制は虚飾だったのだ。前漢の高帝も、ながらく礼制を整備せず、儒者をジャマがった。「皇帝の尊さ」が虚飾によって生まれるのを知って、あきれたエピソードがあるほどだ。ムダなことを、わざわざやるから、権力があるのだと事後的(というか同時的)に判明する。ムダな行為を通じて、権力が生成される。権力があるからムダをやるのでなく、ムダをやるから権力があるのでなく、ムダと権力は同時に発生するのだ。
孫権が、何を整備して、何を整備しなかったか。どこまで礼制のあるべき姿を知った上で、どれだけ自覚的に割り引いたか。このあたりの加減を見るとおもしろそう。盧弼が引用する論者のように「孫権は礼制にうとい」と咎めても、陸機のように「孫権は必要な礼制は整備した」と褒めても、発展性がない。

孫権のもとで、領土と兵力が充実した。

或曰、吳、蜀脣齒之國、蜀滅則吳亡、理則然矣、夫蜀蓋藩援之與國、而非吳人之存亡也。何則?其郊境之接、重山積險、陸無長轂之徑。川阨流迅、水有驚波之艱。雖有銳師百萬、啓行不過千夫。軸艫千里、前驅不過百艦。故劉氏之伐、陸公喻之長虵、其勢然也。昔
蜀之初亡、朝臣異謀、或欲積石以險其流、或欲機械以御其變。天子總羣議而諮之大司馬陸公、陸公以四瀆天地之所以節宣其氣、固無可遏之理、而機械則彼我之所共、彼若棄長技以就所屈、卽荊、楊而爭舟楫之用、是天贊我也、將謹守峽口以待禽耳。逮步闡之亂、憑保城以延彊寇、重資幣以誘羣蠻。于時大邦之衆、雲翔電發、縣旌江介、築壘遵渚、襟帶要害、以止吳人之西、而巴漢舟師、沿江東下。陸公以偏師三萬、北據東坑、深溝高壘、案甲養威。反虜踠跡待戮、而不敢北闚生路、彊寇敗績宵遁、喪師大半、分命銳師五千、西禦水軍、東西同捷、獻俘萬計。信哉賢人之謀、豈欺我哉!自是烽燧罕警、封域寡虞。

或る者は「呉蜀は唇歯の関係である。蜀漢が滅びたら、孫呉も滅びる」という。ちがう。呉蜀のあいだは、地形が険しく、兵器も騎馬も艦隊も通れない。だから陸遜は劉備を防げだ。
蜀漢が滅びたとき、大司馬の陸抗は「峡口を固めれば、晋軍は怖くない」と答えたのだ。歩闡が孫呉にそむき、西晋についても、陸抗が歩闡を平定した。

ぼくは思う。陸遜と陸抗の功績を言うために、「呉蜀は唇歯じゃない」と主張した。たしかに陸遜と陸抗のおかげで、益州からの影響はシャットアウトできた。因果関係はあやしいが、相関関係がありそうではある。陸抗は、西晋の羊祜を負かしたのだが、それすら西晋のなかで陸機が誇ってしまうw
つぎ、陸抗が死ぬ話なのだが。陸機『弁亡論』では、主要人物の死が、歴史を新展開に導くという筆法がとられる。はじめは孫堅、孫策、孫権にこの区切が使われたが、つぎは陸抗が区切る。前半は孫氏による時代の区切で、後半は陸氏による時代の区切。前半と後半で、同じことを2回言いました。という構成である。後半は家族の歴史。「陸抗が死んだから、孫呉が滅びた」という論法。すげえ。


陸公沒而潛謀兆、吳釁深而六師駭。夫太康之役、衆未盛乎曩日之師、廣州之亂、禍有愈乎向時之難、而邦家顛覆、宗廟爲墟。嗚呼!人之云亡、邦國殄瘁、不其然與!易曰『湯武革命順乎天』、玄曰『亂不極則治不形』、言帝王之因天時也。古人有言、曰『天時不如地利』、易曰『王侯設險以守其國』、言爲國之恃險也。又曰『地利不如人和』、『在德不在險』、言守險之由人也。吳之興也、參而由焉、孫卿所謂合其參者也。及其亡也、恃險而已、又孫卿所謂舍其參者也。

陸抗の没後、孫呉は動揺した。西晋の伐呉も、広州の(郭馬の)反乱も、必ずしも規模が大きかったのでない。だが孫呉のなかに、滅亡の原因があった。賢者がおらず、天地人をすべて活かさないからだ。

夫四州之氓非無衆也、大江之南非乏俊也、山川之險易守也、勁利之器易用也、先政之業易循也、功不興而禍遘者何哉?所以用之者失也。故先王達經國之長規、審存亡之至數、恭己以安百姓、敦惠以致人和、寬沖以誘俊乂之謀、慈和以給士民之愛。是以其安也、則黎元與之同慶。及其危也、則兆庶與之共患。安與衆同慶、則其危不可得也。危與下共患、則其難不足卹也。夫然、故能保其社稷而固其土宇、麥秀無悲殷之思、黍離無愍周之感矣。」

孫呉の4州は人口がおおく、地形が険しく、武器も備わっていた。だが孫皓が、人材を用いず、民衆を愛さないから、孫呉は滅びてしまったのだ。

ぼくは思う。陸抗が死んだなら、その子である陸機が、がんばって孫皓を導けよ!と思わないでもない。でも陸機は、あたかも第三者として論評する。なんだかズルいけど。孫氏の名誉を守るより、陸氏が西晋で出世するために、これが書かれたという感じがする。わざわざ「現代史」を書く者は、わりに打算にまみれるものだ。これは陸機だけじゃないなあ。陸機は文人のわりには、わりに『弁亡論』は平易な文章だったのかも。

というわけで『呉志』本紀のようなもの、終了です。2012年のうちに終了させることができた。23:25 2012/12/31

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