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『尚書』夏書・禹貢 第六

あの禹貢をやっと読みます。地形と地名の説明は、はぶきます。

平凡はいう。帝禹が制定した、ミツギの法という意味である。帝禹が、「治水して人々の居住地を安定させた聖人」という諒解にもとづいて書かれる。周代には『詩経』小雅のごとく、「あの山は、禹が治めてくれた」という記述がある。『詩経』商頌にもある。
平凡はいう。この禹貢と、おなじ『尚書』舜典では、州制がことなる。舜典で12州であり、禹貢では9州である。戦国や秦漢では、地上を8方位で理解することがおおく、8方位に中央を加えたら9州となる。12州と9州の先後関係は、諸説ある。


冀州

禹別九州,隨山濬川,任土作貢。禹敷土,隨山刊木,奠高山大川。
冀州:既載壺口,治梁及岐。既修太原,至于岳陽;覃懷厎績,至于衡漳。厥土惟白壤,厥賦惟上上錯,厥田惟中中。恆、衛既從,大陸既作。島夷皮服,夾右碣石入于河。

帝禹が大地を開拓して、9州をつくった。
冀州の土質は白くて柔らかい。

平凡はいう。冀州は、九州の第1州。この九州制は、夏の制度であり、『周礼』の周制とはちがう。後漢の鄭玄は、「ときに夏室の都が冀州にあったので、ここから書き始めたのである」という。禹貢に、帝都の記述はない。春秋のとき、晋の領土だった。
ぼくは思う。光武帝は冀州から事業を始めて、袁紹は冀州をめざし、曹操は冀州牧から魏王になった。豊かだったという地理的条件もさることながら、冀州から帝業を始めるというのは、伝統的な理解だ。また、揚州から始めて天下を統一したのが、どうやら歴代で明(ミン)だけらしいが、揚州から天下をとるのが難しい。伝説には、何らかの理由がある。地勢と伝説があいまって、冀州から事業を始めた勢力が、天下を統一するのだ。曹操は、袁紹のアトガマとして冀州にいたのでなく、『尚書』も視野に入れて、冀州にいた。見苦しいほど、袁紹をパクるのが。曹操は、袁紹をパクったのでなく、袁紹も曹操も、禹貢を根拠にしていただけだ。
まとめる。冀州で始める事業。『尚書』禹貢は、冀州から九州を書き起こす。鄭玄いわく「夏王朝の帝都があったから」と。「伝説には合理的な背景がある」と考えるなら、冀州の地理的な条件が事業に有利か(揚州から天下統一した勢力はほぼゼロ)。光武帝、袁紹、曹操は、地利と伝説と前例を踏まえて戦略を立てた。
ぼくは思う。禹貢でつぎに記されるのは、兗州。曹操は、冀州は袁紹にとられたので、その次点として兗州にきた。やっぱり、理由のないことだろう。

賦は上上、ところによって上中。耕地の開墾は、中中。帝禹の治水により、恒水や衛河がうまく流れる。

平凡はいう。上中などは、9等級の分類。税率については『孟子』滕文公上にある。鄭玄の解釈によると、上上は9人分の収穫を税として、以下、等級がさがるごとに、1人分の収穫を逓減していった。
平凡はいう。開墾の等級は、鄭玄によると、耕地の高さを意味する。王粛によると、耕地の肥沃さを意味する。『管子』牧民で、土地がよく開墾されれば、人民は安定するという。ぼくは思う。そりゃそうじゃ。

島夷がミツギするようになった。

平凡はいう。『史記』夏本紀、『漢書』地理志では、「鳥夷」という。馬融は「東北の夷」といい、鄭玄は「鳥獣を食べるやつら」といい、王粛は「東北の夷の国名」という。『周礼』羽人の職に、山沢の農民が、鳥の羽をとって貢納させていた。平凡はいう。禹貢で「夷」の字は、東方だけに限定せずに使う。
ぼくは思う。馬融、鄭玄、王粛の意見が分かれたところを、リアルタイムで読めるなんて、幸せだなあ。漢魏の人々も、「どういう意味だろう」と頭を悩ませた。

帝禹は、海に出て、黄河の河口から遡り、兗州にゆく。

ぼくは思う。帝禹が順番にめぐりながら、各地を開墾していくという、物語じたてである。おもしろいなあ。そういう記述法があったのね。


兗州と青州

濟河惟兗州。九河既道,雷夏既澤,灉、沮會同。桑土既蠶,是降丘宅土。厥土黑墳,厥草惟繇,厥木惟條。厥田惟中下,厥賦貞,作十有三載乃同。厥貢漆絲,厥篚織文。浮于濟、漯,達于河。

済水と黄河のあいだを、兗州とする。

『真古文尚書集釈』によると、(サンズイ+允)水が、兗州の名の由来である。

養蚕が始められた。 兗州の土質は、黒くて肥えている。開墾は中下。賦は、作柄を見ながら決める。

兗州の税率については、九等、六等、などの諸説ある。
平凡はいう。兗州は、黄河の下流にあるので、水害をこうむることがおおい。回復には、年数を要する。だから税率がひくい。
ぼくは思う。冀州と兗州。『尚書』禹貢で、第1州の冀州の税率は、9段階で最高。第2州の兗州の税率は「作柄しだい」ないしは、9段階で最低。黄河の下流で洪水にあい、安定した収穫が期待できない。袁紹は冀州にいて、曹操は兗州でガマン。曹操は可哀想だが、それでも兗州は禹貢の9州において、「第2の州」扱いだから、名誉ではある。なにがどう名誉で、どういう利益があるのかは、うまく言えないけど。笑

13年後、一定の税率をさだめた。

平凡はいう。13年後に、他州と同じ税率とした、という解釈もある。治水が完了したら、いちいち作柄を見てあげなくなった。帝禹の治水は、鯀の9年と、禹の3年の合計12年という馬融の説と、『史記』のように禹1人で13年かけたという説がある。

ミツギは、漆や生糸とする。篚は、文(あや)織りの絹地とした。

平凡はいう。「篚」とは、竹カゴに入れて献上するものである。『儀礼』聘礼では、国君の使者が他国に聘問するとき、贈物をやった。「篚」とは、州の長官または国君が、君主の朝覲するとき、贈物を持参する、いれものだったか。ミツギのように、定期的に上納するものでは、なかったかも知れない。

禹貢は、済水から黄河にゆき、つぎの徐州にゆく。

海岱惟青州。嵎夷既略,濰、淄其道。厥土白墳,海濱廣斥。厥田惟上下,厥賦中上。厥貢鹽絺,海物惟錯。岱畎絲、枲、鉛、松、怪石。萊夷作牧。厥篚檿絲。浮于汶,達于濟。

東海と泰山のあいだを、青州とした。
青州の土質は、白色で肥える。海岸は塩をふくむ。耕地の開墾は、上下。賦は中上。ミツギは、塩・葛の繊維でおった布、魚や貝の海産物。萊夷の夷族もなつく。
帝禹は汶河をくだり、済水に達して、徐州にゆく。

徐州と揚州

海、岱及淮惟徐州。淮、沂其乂,蒙、羽其藝,大野既豬,東原厎平。厥土赤埴墳,草木漸包。厥田惟上中,厥賦中中。厥貢惟土五色,羽畎夏翟,嶧陽孤桐,泗濱浮磬,淮夷蠙珠暨魚。厥篚玄纖、縞。浮于淮、泗,達于河。

東は海に、北は泰山にいたり、南は淮河を境とする地域を、徐州とする。

平凡はいう。気象が寛舒だから、「徐」という説がある。この地方で、殷代に余(ジョ)、もしくは(余+おおざと)という国があったことが、名の由来か。

土質は、赤色の粘土質で、肥えている。開墾は上中、賦は中中。ミツギは五色の土とする。淮河にいる夷族がなつく。

天子が大地をまつる大社の壇には、四方ならびに中央の地を象徴する、五色の土でつくる。諸侯を封建するときは、その方向の色の土をあたえる。『韓詩外伝』にある。これに用いる土である。
ぼくは思う。徐州は東方だけど、全方向の土がとれたのね。ところで、各州で異なった土の色が書かれている。面白いから、省略せずに引いてきた。そんなに土の色が変わるものだろうか。これも、何かの思想的な意味があるのかな。

禹は、淮河、泗水をとおり、揚州にゆく。

淮海惟揚州。彭蠡既豬,陽鳥攸居。三江既入,震澤厎定。篠、簜既敷,厥草惟夭,厥木惟喬。厥土惟塗泥。厥田唯下下,厥賦下上,上錯。厥貢惟金三品,瑤、琨、篠、簜、齒、革、羽、毛惟木。鳥夷卉服。厥篚織貝,厥包橘柚,錫貢。沿于江、海,達于淮、泗。

淮河から東海までを、揚州とした。
揚州は、水分のおおいドロ地である。開墾は下下、賦は一般に下下、ところにより下中。ミツギは、金銀銅やギョク、木材など。鳥夷は、草服を着るようになり、草服をミツギとした。

平凡はいう。江南の住民は、気質が軽揚だから、揚州と名づけたとされる。むしろ、南方で、陽気が盛大なところ、という意味で揚州なのだろう。人ではなく、土地の性質である。
ぼくは思う。帝禹による開墾の返礼として、税とミツギが制定されるのがおもしろい。開墾ないしは服従と、中央へのツケトドケは、絶対に切り離せないセットである。

帝禹は長江をくだり、東海をめぐり、淮河をさかのぼり、泗水にでて、
つぎの荊州にゆく。

ぼくは思う。わりとムリした航路である。荊州と揚州は、陸で隣接しているけれど、帝禹は水路で遠回りした。揚州というのは、黄河の最下流域あたりのイメージであり、孫呉がウロウロする地域を指すのでない。
ぼくは思う。揚州と荊州。『尚書』禹貢で、禹が各州を順番にめぐり、開墾と平定をする(という伝説的記述がある)。揚州から荊州にいくため、長江をくだり、東海をめぐり、淮河をさかのぼり、泗水にでる。三国呉は揚州から荊州を陸続きで抑えているが、各州を「点」で把握した古代は、いちど東海に出るものだった。


荊州と豫州

荊及衡陽惟荊州。江、漢朝宗于海,九江孔殷,沱、潛既道,雲土、夢作乂。厥土惟塗泥,厥田惟下中,厥賦上下。厥貢羽、毛、齒、革惟金三品,杶、榦、栝、柏,礪、砥、砮、丹,惟菌、簵、楛;三邦厎貢厥名。包匭菁茅,厥篚玄纁璣組,九江納錫大龜。浮于江、沱、潛、漢,逾于洛,至于南河。

荊山から衡山の南を、荊州とした。
長江や漢水が、はげしく海まで注ぐので、諸流も盛んになった。荊州の土質は、水分のおおいドロ地である。開墾は下中、賦は上下。ミツギは、鳥羽など。
禹は舟で長江を遡り、漢水に入り、陸路で洛水に移り、南河に達する。

平凡はいう。「荊」には、つよいという意味がある。地方の民は、気性が強いので、荊州と言われた。春秋のとき、ここは楚の勢力圏だった。荊楚ともいう。この楚族から起こったのだろう。


荊河惟豫州。伊、洛、瀍、澗既入于河,滎波既豬。導菏澤,被孟豬。厥土惟壤,下土墳壚。厥田惟中上,厥賦錯上中。厥貢漆、枲,絺、紵,厥篚纖、纊,錫貢磬錯。浮于洛,達于河。

荊山から北へ、黄河にいたるまでを豫州とする。

ぼくは思う。豫州は、荊州の次にいくもの。洛陽に特別の意味がないから、洛陽のそばとしての豫州、という重要性の認識のされ方はしない。

土質は柔らかいが、低地は肥えて堅い。耕地の開墾は中上、賦は、ところによって上上、一般には上中。

ぼくは思う。こまかい記述を追っていない。不変の構成が把握できたからです。まず、川の流れが整って盛んになる、耕地ができる、税率を定める、ミツギを制定する、帝禹が立ち去る。この黄金パターン。まず帝禹が、その地域と接触する。治水という贈与を行い、耕地という贈物がとどく。税とミツギという返報を約束して、その地を立ち去る。こうやって、各地と帝禹が関係性を結んでいく。
ぼくは思う。帝禹は、立ち寄った地域で、何かをドカン!と提供して、盗賊のようにゴッソリ!持って帰ってくるのでない。治水と開墾という、わりに時間がかかる事業を手伝う。その返礼を、収穫や特産品など、これまた時間がかかるものに設定する。この「時間がかかること」が良いのだ。もし市場取引のように、等価物を即時決済してしまえば、帝禹と各州の関係はキレてしまう。いわゆる天下を統一している状態にならない。地方と中央が、時間のかかる、べったりしたお付き合いになるから、天下は統一が維持される。帝禹は偉大だなあ!

禹は舟で洛水をくだり、黄河に達した。

梁州と雍州

華陽、黑水惟梁州。岷、嶓既藝,沱、潛既道。蔡、蒙旅平,和夷厎績。厥土青黎,厥田惟下上,厥賦下中,三錯。厥貢璆、鐵、銀、鏤、砮磬、熊、羆、狐、狸、織皮,西傾因桓是來,浮于潛,逾于沔,入于渭,亂于河。

華陽から黒水までを、梁州とする。
梁州の土質は、青色で肥えている。開墾は下上。賦は、一般に下中、ところによって上下の3等級をまじえる。毛織物をまとう、西戎(羌族)がおとずれる。
帝禹は、沔水にでて、渭水にうつり、黄河を横断した。

黑水、西河惟雍州。弱水既西,涇屬渭汭,漆沮既從,灃水攸同。荊、岐既旅,終南、惇物,至于鳥鼠。原隰厎績,至于豬野。三危既宅,三苗丕敘。厥土惟黃壤,厥田惟上上,厥賦中下。厥貢惟球、琳、琅玕。浮于積石,至于龍門、西河,會于渭汭。織皮崐崘、析支、渠搜,西戎即敘。

西のはての黒水と、冀州の西境の西河とのあいだを、雍州とする。三苗が服従した。土質は黄色で、やわらかい。開墾は上上、賦は中下。西戎が服した。

山系を正し、水系を正す

導岍及岐,至于荊山,逾于河;壺口、雷首至于太岳;厎柱、析城至于王屋;太行、恆山至于碣石,入于海。 西傾、朱圉、鳥鼠至于太華;熊耳、外方、桐柏至于陪尾。 導嶓冢,至于荊山;內方,至于大別。 岷山之陽,至于衡山,過九江,至于敷淺原。

帝禹が山系を正した。

平凡はいう。帝禹が9州を経営するあいだに、諸山岳の脈絡を正したので、それを切り出して書いている。伝説では、帝禹と伯益とが『山海経』をつくる。山川の地理志を書いている文章であり、山川でとらえる世界観が、形成されていた。殷代の山岳信仰を、まとめたものか。

雍州の岍山と岐山とから山脈をたてて、荊山に達する。さらに西河をこえて、冀州の壺口山、雷首山をつらねて、太岳山に達するようにした。ここから分岐して、、

平凡はいう。地理の正確な描写になっている。へー。


導弱水,至于合黎,餘波入于流沙。 導黑水,至于三危,入于南海。 導河、積石,至于龍門;南至于華陰,東至于厎柱,又東至于孟津,東過洛汭,至于大伾;北過降水,至于大陸;又北,播為九河,同為逆河,入于海。 嶓冢導漾,東流為漢,又東,為滄浪之水,過三澨,至于大別,南入于江。東,匯澤為彭蠡,東,為北江,入于海。 岷山導江,東別為沱,又東至于澧;過九江,至于東陵,東迆北,會于匯;東為中江,入于海。 導沇水,東流為濟,入于河,溢為滎;東出于陶丘北,又東至于菏,又東北,會于汶,又北,東入于海。 導淮自桐柏,東會于泗、沂,東入于海。 導渭自鳥鼠同穴,東會于灃,又東會于涇,又東過漆沮,入于河。 導洛自熊耳,東北,會于澗、瀍;又東,會于伊,又東北,入于河。

帝禹が水系を正した。

平凡はいう。帝禹が、河川の流れる道を正したという。中国最初の河川の記録である。このあと、『史記』河渠書、『漢書』溝_志、『漢書』地理志ができる。漢代の桑欽『水経』と、『水経』に北魏に酈道元が注釈した『水経注』ができる。

弱水の流れもをみちびき、雍州の合黎山のところに出させ、その余勢が、沙漠のなかに入っていくようにした。黒水の流れを導き、三危山のところに出させ、そこから南海に入るようにした。黄河を雍州の積石山から導き、北を迂回して龍門に到達させ、そこから南流して、太華山の北に出て、屈折して東に流れて、冀州の、、

五服の制度を定め、治水を完了する

九州攸同,四隩既宅,九山刊旅,九川滌源,九澤既陂,四海會同。六府孔修,庶土交正,厎慎財賦,咸則三壤成賦。中邦錫土、姓,祗台德先,不距朕行。

9州は平和になり、四方のすみずみまで人間が居住できるようになった。山々は連なって鎮まり、河川はよく通じた。人民と物資が、四方から帝都にあつまった。土質は正しく測定され、産物を貢納するようになった。税率どおり徴収した。

ぼくは思う。「天下統一」の原始的な記憶やイメージは、この帝禹の伝説のようなものなんだなあ。曹操も、この帝禹のような発想で、自分の事業を思い描いていたのだろうか。

中国に諸侯をたてて、領土と姓をあたえた。帝禹は諸侯に「わたしが定めたルールを破らないように」と命じた。

平凡はいう。『尚書』禹貢は、諸侯を封建する制度を主張する。しかし封建は、天子が行うべきである。禹の治水事業は、帝舜の配下として行ったものであれば、時期がおかしい。
ぼくは思う。諸書で混乱しているから、ただ「禹」とあることを、うっかり「帝禹」と抄訳してきてしまった。封建を含んだ、このような大事業をやるのは、天子の事業だと、かってに思いこんでいたからだ。先走りだけど、わりにぼくの勘違いの仕方も悪くない(と言い訳して、修正の手間をはぶく)


五百里甸服:百里賦納總,二百里納銍,三百里納秸服,四百里粟,五百里米。 五百里侯服:百里采,二百里男邦,三百里諸侯。 五百里綏服:三百里揆文教,二百里奮武衛。 五百里要服:三百里夷,二百里蔡。 五百里荒服:三百里蠻,二百里流。

帝禹は、五服の制度を定めた。

平凡はいう。さきの『尚書』益稷に「五服の地を治めて、五千里の遠いところまで達した」に対応する。五服とは、朝廷に服従する度合に応じて区分された、天下の五分画である。殷代にも、殷王が直轄する畿内と、王室をたすける諸族の領土と、という区別があっただろう。方形の世界である。平凡095頁。
平凡はいう。『尚書』康誥に、五服の内容がある。内側から同心の方形に、侯、甸、男、采、衛である。『尚書』周官で、これに蛮を加えて六服とする。『周礼』は、夷、鎮、藩をくわえて、九服にする。

帝都から5百里以内を、甸服(でんふく)という。甸服の内側で、王城から1百里以内なら、賦としてワラごと穀物を治める。その外周の2百里の地域では、賦として穀物のクキつきの穂をおさめる。以下、同心の方形に、納めるものがちがう。
甸服の外周5百里を、侯服という。侯服には、王事に奉仕するものをおく。以下、5百里ごとに同心の方形がひろがる。つぎの綏服には、内側で文教をしき、外側で武術をさかんにする。要服には、内側で異民族を住まわせ、外側に罪人を追放する。つぎの荒服では、内側で未開民を住まわせ、外側で凶悪な罪人を追放する。

ぼくは思う。『尚書』康誥とは、服の名称がことなる。その異同について、平凡057頁にある。ともあれ、こういう世界観で、空間を捉えていましたよ、ということが分かった。


東漸于海,西被于流沙,朔南暨聲教訖于四海。禹錫玄圭,告厥成功。

こうして、東は東海、西は沙漠まで、南北にも教化がいきわたる。帝禹は黒い圭玉をささげて、治水の成功を天神に報告した。

ぼくは思う。儀礼や事業の最後には、かならず報告しなければならない。きっちりと、これで締めくくるのは、立派だなあ。
平凡はいう。黒い圭玉なのは、黒色が水徳だからである。
ぼくは思う。上で書いたばかりのことだが、重要な気づきだ!と思うので、再掲載する。帝禹の事業は、いかなるものか。まず、川の流れが整って盛んになる、耕地ができる、税率を定める、ミツギを制定する、帝禹が立ち去る。まず帝禹が、その地域と接触する。治水という贈与を行い、耕地という贈物がとどく。税とミツギという返報を約束して、その地を立ち去る。こうやって、各地と帝禹が関係性を結んでいく。帝禹は、立ち寄った地域で、何かをドカン!と提供して、盗賊のようにゴッソリ!持って帰ってくるのでない。治水と開墾という、わりに時間がかかる事業を手伝う。その返礼を、収穫や特産品など、これまた時間がかかるものに設定する。この「時間がかかること」が良いのだ。もし市場取引のように、等価物を即時決済してしまえば、帝禹と各州の関係はキレてしまう。いわゆる天下を統一している状態にならない。地方と中央が、時間のかかる、べったりしたお付き合いになるから、天下は統一が維持される。

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『尚書』夏書・甘誓 第七

啟與有扈戰于甘之野,作《甘誓》。 大戰于甘,乃召六卿。

夏の啓王が、甘の野で有扈と戦うとき、『甘誓』をやる。

平凡はいう。「甘」という地での誓い。以下に、商の湯誓、周の牧誓、魯の費誓に引き継がれる。はじめて世襲王朝をたてた夏室による征伐の記事によせて、征伐とは天命を奉行することという、本来の意味を明らかにしたのだろう。
平凡はいう。馬融によると『尚書』では、軍隊の戒めを「誓」とする。だが「誓」の本来の意味は、王が、征伐の意図を、天帝に承認してもらうこと。殷王は、天帝の承認がなければ、罪人を罰することができなかった。甲骨などにある。
平凡はいう。『詩経』大雅の大明に、周が牧野に進軍したとき、天帝が周王にアドバイスする。『左氏伝』成公16年にも「誓」がある。『礼記』王制にもある。『墨子』明鬼にもある。戦国時代の伝説をとりこんだものか。
ぼくは思う。王から諸侯への約束ではなく、王から天帝への約束なのね。たしかにそれが「誓」の本来の意味という感じがする。「合理化」の結果、天が前景化されなくなり、あたかも人間同士で約束しているかのような見え方をするようになった。市場取引が、富を生み出していると錯覚するようなもの。

夏の啓王が、

平凡はいう。帝禹が禅譲を受けたのち、子の啓に継承させて、世襲王朝をはじめたというのは、戦国以来の伝承。『史記』に夏本紀をおき、系図を記す。『竹書紀年』にも、同じような系図がつくれる。
平凡はいう。夏室は、伝説をあたかも歴史時代のように編纂したものであり、実在したとは考えにくい。本紀の途中で、伝説上の人物が出てくるから。

甘で戦う。

平凡はいう。『尚書』本文には、禹王が戦ったと書いてない。だが、『墨子』明鬼、『荘子』人間世、『呂氏春秋』召類、『説苑』政理では、啓王が有扈と戦ったとする。
平凡はいう。啓王に関する伝説から考えるに。啓王は、もとは社神として、石をまつる風習があった。帝禹による平定後、石の裂け目から泉がほとばしるように、地気が上昇して、農業がさかえ、歌舞するという説話ができた。擬人化され、啓王となった。啓王は音楽にふけって、家を乱したという伝説がある。『墨子』非楽、『山海経』海外西経、『楚辞』離騒、『逸周書』嘗麦解。説話から転化したものだろう。
啓王が益をうち、即位したという伝説もある。『戦国策』燕策、『竹書紀年』。
『孟子』万章上によると、帝舜の死後、人民が禹に従った。帝舜の子に従わない。帝禹の死後、人民が禹の子に従った。世襲の王朝が始まった!という。『史記』はこの伝説を採用した。
ぼくは思う。世襲の始まりを、絶対に読まねばならない!
平凡はいう。甘いとは、『呂氏春秋』先己で、甘沢とある。

六卿を召した。

平凡はいう。偽孔伝はいう。天子は6車である。その将は、天子から直接に任命された、卿であると。6将軍といわず、6卿というのは、平時の卿が、戦時には将軍に転じるからである。『尚書大伝』は、6人の名を、后稷、司徒、秩宗、司馬、作士、共工とするが、定かでない。『管子』では、べつの6名をあげる。
平凡はいう。金文の史料によると、周代には、行政官とはべつに、宗周の6師、成周の8師という常備軍があった。春秋時代の晋は、3軍3行(『左氏伝』僖公27年、28年)のように、将軍がかえって行政の卿をかねた。


王曰:「嗟!六事之人,予誓告汝:有扈氏威侮五行,怠棄三正,天用剿絕其命,今予惟恭行天之罰。左不攻于左,汝不恭命;右不攻于右,汝不恭命;御非其馬之正,汝不恭命。用命,賞于祖;弗用命,戮于社,予則孥戮汝。」

啓王はいう。「6事よ。神に誓って、きみたちに告げる。

平凡はいう。6卿を6事というのは、鄭玄によると、軍吏から士卒まで含むからである。ぼくは思う。6卿の個人に呼びかけているのでなく、軍の全体に言っている。
ぼくは思う。王の行動は、ちくいち神に誓われていた。この誓いのスパンが長くなり、報告がときどき良くなるのが、人間が神の権威をのっとっていくプロセスである。でも戦争のような重要なときは、やはり神頼みが残り続けるのかな。

有扈氏が五行をないがしろにして、三正をやぶった。

平凡はいう。有扈氏とは、夏と同姓の国。『淮南子』では、啓王の庶兄の国である。だから啓王に逆らった。
平凡はいう。五行は、平凡099頁。なかなか確定しない。「三正」は、ふつうなら、夏殷周の暦法をさすが、ここでは不適切。天地人のまつりごとか。

天が有扈氏の国運を断絶させた。わたしは、天の刑罰を代行する。もし、きみたちの戦車上での戦いがうまくいかないなら、きみたちが天命に逆らっているのだ。もしきみたちが、わたしの命令に従うのなら、祖廟で賞してやる。もし命令に逆らえば、社で罰して、奴隷に落としてやる」と。

平凡はいう。国家を建てるとき、宗廟で祖先をまつる。社稷で国土の神をまつる。社のほうが古いのだが、社が国家にとって諸神をまつると考えられる。国土の神を祭ることになると、宗廟が分離した。
平凡はいう。『墨子』はいう。祖先の廟で賞するのは、命を分けるのが均等になるように。社で罰するのは、罪が公平になるように。偽孔伝はいう。社は土神であり、陰だから、殺戮の陰事をつかさどる。祖廟は陽だから、慶賞の陽事をつかさどる。
平凡はいう。実際には、慶賞は人事で、王者が先王のときから神に委託されていることを行うため、先王のいる宗廟でやる。殺戮は、神が直接に支配している生命に関わるから、裁きを待つ。刑罰は神の意志によると考えた。
平凡はいう。奴隷という文言と解釈は、『尚書孔伝参正』にある。『墨子』にない。『墨子』のほうが正しいだろう。著者が、6卿への戒めを厳しくするために、ここに追記したか。偽孔伝は「奴隷に落とす」でなく、「子孫まで辱める」と解釈する。


ぼくは思う。「誓」のメインテーマである、天と禹王の関係性について、いろいろヒントがある篇だったと思います。よく検討しなくちゃ。120920

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『尚書』夏書・五子之歌 第八/未訳

偽古文尚書にしかないので、後日。

太康失邦,昆弟五人須于洛汭,作《五子之歌》。 太康尸位,以逸豫滅厥德,黎民咸貳,乃盤遊無度,畋于有洛之表,十旬弗反。有窮后羿因民弗忍,距于河,厥弟五人御其母以從,徯于洛之汭。五子咸怨,述大禹之戒以作歌。 其一曰:「皇祖有訓,民可近,不可下,民惟邦本,本固邦寧。予視天下愚夫愚婦一能勝予,一人三失,怨豈在明,不見是圖。予臨兆民,懍乎若朽索之馭六馬,為人上者,柰何不敬?」 其二曰:「訓有之,內作色荒,外作禽荒。甘酒嗜音,峻宇彫牆。有一于此,未或不亡。」 其三曰:「惟彼陶唐,有此冀方。今失厥道,亂其紀綱,乃厎滅亡。」 其四曰:「明明我祖,萬邦之君。有典有則,貽厥子孫。關石和鈞,王府則有。荒墜厥緒,覆宗絕祀!」 其五曰:「嗚呼曷歸?予懷之悲。萬姓仇予,予將疇依?郁陶乎予心,顏厚有忸怩。弗慎厥德,雖悔可追?」

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『尚書』夏書・胤征 第九/未訳

偽古文尚書にしかないので、後日。

羲和湎淫,廢時亂日,胤往征之,作《胤征》。 惟仲康肇位四海,胤侯命掌六師。羲和廢厥職,酒荒于厥邑,胤后承王命徂征。告于眾曰:「嗟予有眾,聖有謨訓,明徵定保,先王克謹天戒,臣人克有常憲,百官修輔,厥后惟明明,每歲孟春,遒人以木鐸徇于路,官師相規,工執藝事以諫,其或不恭,邦有常刑。」「惟時羲和顛覆厥德,沈亂于酒,畔官離次,俶擾天紀,遐棄厥司,乃季秋月朔,辰弗集于房,瞽奏鼓,嗇夫馳,庶人走,羲和尸厥官罔聞知,昏迷于天象,以干先王之誅,《政典》曰:『先時者殺無赦,不及時者殺無赦。』今予以爾有眾,奉將天罰。爾眾士同力王室,尚弼予欽承天子威命。火炎崑岡,玉石俱焚。天吏逸德,烈于猛火。殲厥渠魁,脅從罔治,舊染污俗,咸與維新。嗚呼!威克厥愛,允濟;愛克厥威,允罔功。其爾眾士懋戒哉!」 自契至于成湯八遷,湯始居亳,從先王居。作《帝告》、《釐沃》。 湯征諸侯,葛伯不祀,湯始征之,作《湯征》。 伊尹去亳適夏,既丑有夏,復歸于亳。入自北門,乃遇汝鳩、汝方。作《汝鳩》、《汝方》。

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