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- 青龍三年(乙卯,公元235年)
春、楊儀が自殺する
春,正月,戊子,以大將軍司馬懿為太尉。 丁巳,皇太后郭氏殂。帝數問甄後死狀於太后,由是太后以憂殂。三月,庚寅,葬文德皇後。春正月戊子、大将軍の司馬懿を太尉とした。
正月丁巳、皇太后の郭氏が殂じた。曹叡は、母親の最期を郭太后に問いつめたので、太后は憂殂した。
胡三省はいう。曹叡の母親の死は、文帝の黄初2年にある。3月庚寅、郭太后を葬った。
漢楊儀既殺魏延,自以為有大功,宜代諸葛亮秉政;而亮平生密指,以儀狷狹,意 在蔣琬。儀至成都,拜中軍師,無所統領,從容而已。初,儀事昭烈帝為尚書,琬時為 尚書郎。後雖俱為丞相參軍、長史,儀每從行,當其勞劇;自謂年宦先琬,才能逾之, 於是怨憤形於聲色,歎吒之音發於五內,時人畏其言語不節,莫敢從也。惟後軍師費禕 往慰省之,儀對禕恨望,前後雲雲。又語禕曰:「往者丞相亡沒之際,吾若舉軍以就魏 氏,處世寧當落度如此邪!令人追悔,不可復及!」禕密表其言。漢主廢儀為民,徙漢 嘉郡。儀至徙所,復上書誹謗。,辭指激切。遂下郡收儀,儀自殺。魏延を殺した楊儀は、諸葛亮の後任になりたい。楊儀は成都にきて、中軍師となるが、なにも統領しない。蒋琬に先を越された楊儀は、費禕にグチった。費禕がチクったので、楊儀は民におとされ、漢嘉郡に徙された。楊儀は自殺した。
胡三省はいう。漢嘉県とは、もとの青衣である。後漢の順帝の陽嘉2年、漢嘉に改められた。蜀郡属国都尉に属する県だった。安帝の延光元年に置かれた。蜀漢は、漢嘉県を郡に昇格させた。
ぼくは思う。まだやってるよ!と呆れたから、はぶく。ほんとは、3月の記事の前に置かれていたけど、まとまりが悪いので、楊儀の話を春の末尾にうつしてしまった。
夏、曹叡の建築を、陳羣と楊阜
夏,四月,漢主以蔣琬為大將軍、錄尚書事;費禕代琬為尚書令。帝好土功,既作 許昌宮,又治洛陽宮,起昭陽太極殿,築總章觀,高十餘丈。力役不已,農桑失業。司 空陳群上疏 (中略)。帝答曰:「王業、宮室,亦宜並立。滅賊之 後,但當罷守禦耳,豈可復興役邪!是固君之職,蕭何之大略也。」群曰 (中略)。帝乃為之少有減省。夏4月、劉禅は、蒋琬を大将軍、録尚書事とした。費禕を蒋琬のかわりに尚書令とした。
ぼくは思う。諸葛亮の死後の体制は、魏延が死ぬだけでなく、楊儀が死ぬことによって定まる。蒋琬と費禕の昇格は、これを表しているのだろう。もはや、諸葛亮の遺言が「蒋琬と費禕だけ」だったのか、蒋琬と費禕だけが権力闘争に勝ったから、諸葛亮の遺言が簡潔だとされたのか、判定できないレベルだなあ。諸葛亮も死んでしまえば、ただの政争の道具だ。「むかし諸葛亮に言われたんですよ」と関係性を主張することで、政治的に有利になる。それ以上でも以下でもない。曹叡が土木工事をこのむ。許昌宮をつくり(太和6年)、洛陽宮をなおし、新たに昭陽の太極殿をつくり、總章觀をきずく。高さは10余丈である。
『水経注』はいう。明帝は、法の太極をとうとび、洛陽の南宮に、大極殿をつくる。すなわち、漢代の崇徳殿の場所である。胡三省はいう。帝舜には「總章之訪」があった。この伝承の建物は、明堂のことである。總章観は、けだし大極殿の前にあった。司空の陳羣が上疏した。曹叡は「蕭何の大略をやるから良いんだよ」と、陳羣に口ごたえした。
胡三省はいう。これは蕭何が未央宮を建てたことをいう。まずは立派な建造物により、王朝を権威づけて、外敵を威圧する。目先の経営資源を確保するよりも、まずはドカンとシンボリックなものを作ってしまおうという作戦。その成否の判定はむずかしい。福原先生の本を読めば、詳しく論じられているので、建設の問題については、ここでは詳細に訳出しません。陳羣がクドいので、曹叡はすこし建設を減らした。
帝耽於內寵,婦 官秩石擬百官之數,自貴人以下至掖庭灑掃者,凡數千人,選女子知書可付信者六人, 以為女尚書,使典省外奏事,處當畫可。廷尉高柔上疏曰 (中略)。是時獵法嚴峻,殺禁地鹿者身死,財產沒官,有能覺告者,厚加賞賜。柔復上疏 曰 (中略)。帝又欲平北芒,令於 其上作台觀,望見孟津。衛尉辛毘諫曰 (中略)。帝乃止。少府楊阜上疏曰(後略)。散騎常侍蔣濟上疏曰(後略)。中書侍郎東萊王基上疏曰(後略)。帝皆不聽。曹叡は、内寵にふける。婦人の官秩を、国家の官僚のように膨らました。このころ曹叡は、法令を恣意的に運用した。鹿を殺しても死罪である。財産を蓄えたら、官位を没収する。いっぽう、曹叡が気に入れば、厚く賞賜した。廷尉の高柔が上疏した。また曹叡は、北芒を平らかにして、宮殿をつくり、孟津を眺めたい。衛尉の辛毗が反対した。曹叡はやめた。
ぼくは思う。典型的な「君主」だなあ。善も悪もないよ。
はぶきまくって、すみません。発言者の名前だけは、省略していないので、明帝紀もしくは各列伝を読めば、リンクするはず。少府の楊阜が上疏した。散騎常侍の蒋済が上疏した。中書侍郎する東萊の王基が上疏した。曹叡は、どれも聞かない。
殿中監督役,擅收蘭台令史,右僕射衛臻奏案之。詔曰:「殿捨不成,吾所留心, 卿推之,何也?」臻曰:「古制侵官之法,非惡其勤事也,誠以所益者小,所墮者大也。 臣每察校事,類皆如此,若又縱之,懼群司將遂越職,以至陵夷矣。」
尚書涿郡孫禮固請罷役,帝詔曰:「欽納讜言。」促遣民作;監作者復奏留一月, 有所成訖。禮徑至作所,不復重奏,稱詔罷民,帝奇其意而不責。帝雖不能盡用群臣直 諫之言,然皆優容之。殿中監は建設の労役を監督し、蘭台令史をほしいままに収めた。
胡三省はいう。この殿中監は、曹魏においては、宮室の建造を管理し、殿中の工事のみを監督した。唐代の殿中監の官位とは異なる。のちに「校事」と呼ばれる官職である。『晋書』輿服志によると、左に殿中御史、右に殿中監がいる。蘭台令史とは、御史台に属する。漢代には、御史台を蘭台といった。右僕射の衛臻は上奏して、この職掌の件を案じた。
曹叡は詔した。「殿舎が完成しなければ、私は気になる。なぜ衛臻は、殿中監の権限を制限せよというのか」
ぼくは思う。殿中監の権限が大きければ、工事が円滑なのかなあ。衛臻はいう。官職の分担をやぶるのは良くない。
尚書する涿郡の孫禮は、労役への人民の動員に抵抗した。曹叡は、孫礼の主張を認めて、孫礼を責めなかった。曹叡は、群臣の直諫を全て用いられなかったが、きちんと耳を傾けた。ぼくは思う。曹叡が聞いてくれないと、こんなに直諫の記録が、曹魏の朝廷に残らないよなあ。直諫した高官が、生き延びないはず。そういう意味で曹叡は「名君」なのか。いや、そんな評価に意味はない。ともあれ、ムチャを臣下に強制して権威を見せびらかし、さらに直諫の正しすぎる指導までも、鄭重に退けることによって、大国の体裁が整うのだ。曹叡は、福原先生が着目された君主だが、捉え方がむずかしい。
ぼくたちは「民主的で合理的で友愛的で聞き分けのよい首長」を、評価しがちである。しかし、そんな首長は、皇帝としては失格なわけで。曹叡は、良くも悪くも典型的な皇帝だったんだと思う。父祖から嗣いだだけ、教養はある、人格は悪くないが聖人でもない、内憂も外患もある、後継者に問題がある、土木工事をやりまくる。こういう曹叡を「自分勝手だ」と否定するなら、皇帝制そのものを誤読&否定することになる。『三国志』を読めない。
秋、曹叡が九龍殿を建て、王粛が反対する
秋,七月,洛陽崇華殿災。帝問侍中領太史令泰山高堂隆曰:「此何咎也?於禮寧 有祈禳之義乎?」對曰 (中略)。
八月,庚午,立皇子芳為齊王,詢為秦王。帝無子,養二王為子,宮省事秘,莫有 知其所由來者。或雲:芳,任城王楷之子也。 丁巳,帝還洛陽。秋7月、洛陽の崇華殿が火災。曹叡は、侍中して太史令を領する泰山の高堂隆に、「火災はなんの咎めか」と聞いた。高堂隆は、曹叡の建設を批判した。
胡三省はいう。太史令は、太常に属する。漢代に、高堂生という儒者がいる。高堂隆は、その子孫である。魯の人である。『姓譜』はいう。高堂氏は、斉の公族である。
ぼくは思う。高堂隆の回答ははぶく。8月庚午、皇子の曹芳を齊王にして、曹詢を秦王とした。2子の血筋はわからないが、曹芳は任城王の曹楷(曹宇の子)の子ともいう。
8月丁巳、曹叡は洛陽にかえる。
詔復立崇華殿,更名曰九龍。通引穀水過九龍殿前,為玉井綺欄,蟾蜍含受,神龍 吐出。使博士扶風馬鈞作司南車,水轉百戲。陵霄闕始構,有鵲巢其上,帝以問高堂隆, 對曰 (中略)。帝性嚴急,其督修 宮室有稽限者,帝親召問,言猶在口,身首已分。
散騎常侍領秘書監王肅上疏曰 (中略)詔して、火災にあった崇華殿を復旧し、九龍殿と改名した。博士する扶風の馬釣に、指南車をつくらせて遊んだ。カササギが巣をつくったので、高堂隆に解釈をきいた。 曹叡は厳急な性格なので、工事の期限を切って、完成を催促した。
散騎常侍して秘書監を領する王粛が上疏した。
このあたりは、王粛伝かな。ながい。中華書局2312頁。
中山恭王兗疾病,令官屬曰:「男子不死於婦人之手,亟以時營東堂。」堂成,輿 疾往居之。又令世子曰:「汝幼為人君,知樂不知苦,必將以驕奢為失者也。兄弟有不 良之行,當造膝諫之,諫之不從,流涕喻之,喻之不改,乃白其母,猶不改,當以奏聞, 並辭國土。與其守寵罹禍,不若貧賤全身也。此亦謂大罪惡耳,其微過細故,當掩覆 之。」冬,十月,己酉,袞卒。
十一月,丁酉,帝行如許昌。中山恭王の曹兗が疾病した。官属に令した。「男子は婦人の手のなかで死なない。私が死ぬときは、東堂をつくれ」と。東堂で余生を過ごした。世子に訓戒を垂れた。冬10月己酉、曹袞は死んだ。
ぼくは思う。この訓戒の内容を、司馬光が「読者」に見せたいと思ったから、この記事が入りこんだのね。「婦人の手で」というのは、胡三省によると『喪大記』にある。11月丁酉、曹叡は許昌にゆく。
王雄が軻比能を殺し、曹叡が南貨を求める
是歲,幽州刺史王雄使勇士韓龍刺殺鮮卑軻比能。自是種落離散,互相侵伐,強者 遠遁,弱者請服,邊陲遂安。
張掖柳谷口水溢湧,寶石負圖,狀象靈龜,立於川西,有石馬七及鳳皇、麒麟、白 虎、犧牛、璜玦、八卦、列宿、孛彗之象,又有文曰「大討曹」。詔書班天下,以為嘉 瑞。任令於綽連□以問巨鹿張□,□密謂綽曰:「夫神以知來,不追已往,祥兆先見, 而後廢興從之。今漢已久亡,魏已得之,何所追興祥兆乎!此石,當今之變異而將來之 符瑞也。」この歳、幽州刺史の王雄は、勇士の韓龍をつかい、鮮卑の軻比能を殺した。鮮卑は散らかった。
ぼくは思う。三国の争いで、あまり暗殺が局面を進めることがない。せいぜい費禕が殺されたくらいか。ガードがかたい。軻比能が、あれだけ強かったのに、コロっと殺されたことからも、ガードの硬さが際立つ。刺史だから、おおきな権限があるが、暗殺で用事がすむなら、それがベストである。張掖の柳谷口で、水が溢れて湧いた。画像のついた石があらわれた。「大討曹」と書いてある。
胡三省はいう。『魏志春秋』『漢晋春秋』に、この不思議な現象が書いてある。石の画像は、けだし天意を明らかにしている。任県令の于綽は、鉅鹿の張セン(至存)に画像の意味をきいた。「魏が漢に代わって久しい。何者かが魏に代わるかもね」といった。
胡三省はいう。魏晋革命の前兆である。画像のなかで、馬のつぎに牛があったのは、司馬睿(牛氏)が、西晋を継ぐことをあらわす。
帝使人以馬易珠璣、悲翠、玳瑁於吳,吳主曰:「此皆孤所不用,而可以得馬,孤 何愛焉。」皆以與之。曹叡は、孫呉に馬を与えるかわりに、南方の珍品を要求した。孫権は「珍品くらい差し出しとけ」と応じた。121106
ぼくは思う。大室幹雄が言っていた「北朝はウマぐらいしか名産がなく、南方は文物が豊富である。南貨という」というのが、三国のときも該当することが、よくわかる。この記事をもって、「曹叡は孫権に、文化が劣ることを気に病んでいた」とは言えないと思うけど。言えるはずがないけど。南北朝時代とはちがう。閉じる
- 青龍四年(丙辰,公元236年)
春夏秋、張昭が死に、劉禅が遊ぶ
春,吳人鑄大錢,一當五百。 三月,吳張昭卒,年八十一。昭容貌矜嚴,有威風,吳主以下,舉邦憚之。
夏,四月,漢主至湔,登觀阪,觀汶水之流,旬日而還。 武都氐王符健請降於漢;其弟不從,將四百戶來降。 五月,乙卯,樂平定侯董昭卒。春、孫呉は大銭を鋳造した。1枚で5百銭である。
胡三省はいう。杜佑はいう。孫権は、嘉平5年、大泉を鋳造した。1枚で5百銭。表面には「大泉5百」と刻まれた。1寸3分、重さは12シュ。3月、孫呉で張昭が死んだ。81歳。張昭は、国をあげて憚られた。
夏4月、劉禅は湔氐道(蜀郡)にゆく。汶水の流れをみる。10日ほどで劉禅は成都に還る。
胡三省はいう。汶水とは、ビン江水である。ビン江は、氐道の西からでて、ビン山の西をとおる。東に流れて、都安県をとおる。沈約はいう。都安県は、蜀漢がたてた。胡三省はいう。諸葛亮の死後、だれも劉禅の遊びを制止しない。武都にいる氐王の符健が、蜀漢に降伏を請うた。符健の弟は従わないが、氐族4百戸が蜀漢にくだった。
胡三省はいう。符氏は、氐族の姓であることがわかる。蒲堅が改姓して、五胡十六国の符堅になるというが、それ以前から符姓がある。
杜佑はいう。氐族とは、西戎の別種である。前漢の武帝が武都郡をおき、原住民を排除した。原住民は、上禄や黄河や隴水あたりにまぎれた。曹操は夏侯淵に、氐族の阿責や千万をうった。のちに漢中の氐族をぬいた。武都うつり、秦川にいた氐族を楊氐という。符堅の先祖である符氐は、略陽で楊氐と通婚してきた。
ぼくは思う。諸葛亮が死んでも、武都のあたりで、曹魏から蜀漢への人口の移動がある。諸葛亮の死で、蜀漢の関中への働きかけが、ぱたっと中断するのではない。5月乙卯、樂平定侯の董昭が卒した。
『諡法』はいう。おおいに民を静めるを慮るを「定」という。巡行にして不爽たるを「定」という。ぼくは思う。『諡法』はもういいかな。
冬、陳羣が死に、王昶が訓戒をたれる
冬,十月,己卯,帝還洛陽宮。
甲申,有星孛於大辰,又勃於東方。高堂隆上疏曰 (中略)。隆數切諫, 帝頗不悅。侍中盧毓進曰:「臣聞君明則臣直,古之聖王惟恐不聞其過,此乃臣等所以 不及隆也。」帝乃解。毓,植之子也。冬10月己卯、曹叡は洛陽宮に還る。
10月甲申、星孛が大辰にある。『公羊伝』はいう。大辰とはなにか。大火である。何休は、、はぶく。
高堂隆がたくさんしゃべりますが、はぶく。また曹叡への諫言。なんども高堂隆が上疏した。曹叡はすこぶる気分がわるい。侍中の盧毓がとりなした。「古代の聖王は、諫言してもらえないことを恐れました」と。盧毓は、盧植の子である。
十二月,癸巳,穎陰靖侯陳群卒。群前後數陳得失,每上封事,輒削其草,時人及 其子弟莫能知也。論者或譏群居位拱默;正始中,詔撰群臣上書以為《名臣奏議》,朝 士乃見群諫事,皆歎息焉。
乙未,帝行如許昌。 詔公卿舉才德兼備者各一人,司馬懿以兗州刺史太原王昶應選。昶為人謹厚,名其 兄子曰默,曰沈,名其子曰渾,曰深,為書戒之曰 (後略)。12月癸巳、穎陰靖侯の陳群が卒した。陳羣は、いつも得失を封印して提出した。草稿を残さないので、子弟すら内容を知らない。陳羣はそしられても、言い返さない。正始のとき、群臣の上書を『名臣奏議』に編纂して、みなが陳羣の諫事をみた。みなは嘆息した。
司馬光は、袁子の論をひく。諫言を明らかにする少府の楊阜よりも、諫言を隠した陳羣のほうが長者である。ぼくは思う。ビジネス書でも「ほめるとき、みんなの前で。しかるとき、別室によんで」と書いてある。まあ、別室に呼ぶことが、なにを意味するかバレたとしても、公然と叱られるよりは、顔がつぶれないのだ。12月乙未、曹叡は許昌にゆく。
曹叡は詔して、公卿に才德兼備な者を1名ずつ挙げさせた。司馬懿は、兗州刺史する太原の王昶を、曹叡に応じて選んだ。王昶は、兄の子を、王黙、王沈という。王昶の子を、王渾、王深という。従子たちに戒書をあたえた。つつしめと。
胡三省はいう。王昶の訓戒にもかかわらず。曹髦の難において、王沈は司馬氏にへつらった。平呉の役において、王渾は、王濬と功績をあらそった。伏波将軍の馬援の訓戒が活かされないように、王昶の訓戒もムダだった。
ぼくは思う。魏末晋初の王氏をまとめて読みたい。出身地もいろいろある。太原の王氏だけじゃなく、、ええと、忘れた。というわけで、整理せねば。閉じる
- 景初元年(丁巳,公元237年)
春夏、景初歴を定め、不毀の3廟を定める
春,正月,壬辰,山茌縣言黃龍見。高堂隆以為:「魏得土德,故其瑞黃龍見,宜 改正朔,易服色,以神明其政,變民耳目。」帝從其議。三月,下詔改元,以是月為孟 夏四月,服色尚黃,犧牲用白,從地正也。更名《太和歷》曰《景初歷》。春正月壬辰、山茌縣(泰山)に黄龍があらわれた。高堂隆はいう。「曹魏は土徳である。ゆえに黄龍はめでたい。正朔をあらため、服色をかえよ。神にその政事を明らかにし、民の耳目を変じよ」と。曹叡は高堂隆をみとめ、3月に改元した。この春3月を、孟夏4月とした。服色は黄色をとうとび、犧牲には白色をもちい、地正に従った。《太和歷》を《景初歷》に改名した。
胡三省はいう。殷は「地正」である。12月を年初とする。黄色をとうとぶのは、魏が火徳の漢にかわるから。犠牲に白をもちいるのは、殷に従うから。
ぼくは思う。いま禅譲を受けたならまだしも、どうして曹叡の末期に、「王朝が始まりましたキャンペーン」みたいのを張るのだろう。これを以て、曹魏の建国が完成!という意味だろうか。服色は、いままでは赤色を着ていた?まさかね。
五月,己巳,帝還洛陽。 己丑,大赦。 六月,戊申,京都地震。 己亥,以尚書令陳矯為司徒,左僕射衛臻為司空。 有司奏以武皇帝為魏太祖,文皇帝為魏高祖,帝為魏烈祖;三祖之廟,萬世不毀。5月己巳、曹叡は洛陽にもどる。5月己丑、大赦した。6月戊申,京都で地震あり。6月己亥、尚書令の陳矯を司徒とした。左僕射の衛臻を司空とした。
『晋書』はいう。尚書僕射は、もとは漢代に1人おかれた。献帝の建安4年、執金吾の滎郃を、尚書左僕射とした。僕射を左右に分けるのは、ここに始まる。西晋から東晋まで、設置と廃止はコロコロかわる。もし2人おけば、左右僕射とした。2人おかねば、ただ尚書僕射とよぶ。片方だけならば左僕射だけおき、左右あるなら左僕射が上位である。有司が上奏して、曹操を太祖、曹丕を高祖、曹叡を烈祖とした。三祖之廟を、萬世不毀とした。
沈約はいう。このとき群公や有司は、七廟之制を議論した。曹叡は、まだ生きているが自分の廟号を定めた。これは礼をはずれる。司馬光は孫盛をひく。曹叡はおかしい。だから曹魏がかたむく。
秋、毋丘倹が遼東を攻めそこね、毛皇后が死ぬ
秋,七月,丁卯,東鄉貞侯陳矯卒。
公孫淵數對國中賓客出惡言,帝欲討之,以荊州刺史河東毌丘儉為幽州刺史。儉上 疏曰:「陛下即位已來,未有可書。吳、蜀恃險,未可卒平,聊可以此方無用之士克定 遼東。」光祿大夫衛臻曰:「儉所陳皆戰國細術,非王者之事也。吳頻歲稱兵,寇亂邊 境,而猶按甲養士,未果致討者,誠以百姓疲勞故也。淵生長海表,相承三世,外撫戎 夷,內修戰射,而儉欲以偏軍長驅,朝至夕卷,知其妄矣。」帝不聽,使儉率諸軍及鮮 卑、烏桓屯遼東南界,璽書征淵。淵前發兵反,逆儉於遼隧。會天雨十餘日,遼水大漲, 儉與戰不利,引軍還右北平。淵因自立為燕王,改元紹漢,置百官,遣使假鮮卑單于璽, 封拜邊民,誘呼鮮卑以侵擾北方。秋7月丁卯、東鄉貞侯の陳矯が卒した。
しばしば公孫淵は、賓客たちに曹魏を悪くいう。曹叡は、荊州刺史する河東の毋丘倹を、幽州刺史とした。毋丘倹は遼東を攻めたい。光祿大夫の衛臻は、毋丘倹を制止した。だが曹叡は、毋丘倹をいかせた。 毋丘倹は、曹魏の諸軍と、鮮卑や烏丸をひきいて、遼東の南の境界に屯した。公孫淵は、遼水で毋丘倹をふせぐ。たまたま雨が10余日ふり、遼水があふれた。毋丘倹は、右北平ににげる。
公孫淵は、自立して燕王を名のり、「紹漢」と改元する。百官をおく。鮮卑の単于に、璽を仮した。辺境の民に爵位をあたえた。公孫淵は、鮮卑をさそって、曹魏の北方をおびやかす。
ぼくは思う。公孫淵の最大勢力&影響力を見積もってみると楽しい。わりと異民族とつながっているし、軍事的にも強い。遼東の公孫淵は、遼水を境界にして、わりと曹魏にはりあう。魏呉から、りっぱな爵位をもらう。毋丘倹を敗走させる。司馬懿が曹叡に答えた戦略も、遼水の扱いがポイント。遼東にとっての遼水は、孫呉にとっての長江と同じような感じか。川水でクッションをおかれると、統一戦を仕掛ける側が手こずる。陸続してたら、「長躯」してすぐに滅ぼせるのに。夏侯淵が勇壮なイメージ、曹仁が堅実なイメージなのは、前者が陸地で、後者は水辺で戦ったからか。
漢張後殂。
九月,冀、兗、徐、豫大水。 西平郭夫人有寵於帝,毛後愛弛。帝游後園,曲宴極樂。郭夫人請延皇後,帝弗許, 因禁左右使不得宣。後知之,明日,謂帝曰:「昨日游宴北園,樂乎?」帝以左右洩之, 所殺十餘人。庚辰,賜後死,然猶加謚曰悼。癸丑,葬愍陵。遷其弟曾為散騎常侍。劉禅の張皇后が殂じた。
ぼくは思う。『資治通鑑』は、蜀漢を「漢」と記す。ここで唐突に「漢張後殂」とあり、ぼくは献帝の周囲を脳内を検索してしまった。劉禅の皇后、張飛の娘だ。蜀漢を「漢」とするのは「正確」な表記に違いない。だが陳寿が『蜀書』と名づけたせいで、成都政権を「漢」と呼ぶだけで、贔屓をしているように見える。9月、冀、兗、徐、豫州で大水あり。
西平の郭夫人が、曹叡に寵愛された。曹叡は、9月庚辰、毛皇后を殺して「悼」と諡した。毛皇后の弟・毛曾を、散騎常侍とした。
ぼくは思う。例の「郭氏と遊んでいるのを、毛皇后にチクられて」という話。
冬、洛陽に円丘をつくり、諸葛恪が山越を徴発
冬,十月,帝用高堂隆之議,營洛陽南委傑山為圓丘,詔曰:「昔漢氏之初,承秦 滅學之後,採摭殘缺,以備郊祀,四百餘年,廢無禘禮。曹氏世系出自有虞,今祀皇皇 帝天於圓丘,以始祖虞舜配;祭皇皇後地於方丘,以舜妃伊氏配;祀皇天之神於南郊, 以武帝配;祭皇地之祇於北郊,以武宣皇後配。」冬10月、曹叡は高堂隆の議論をもちいて、洛陽の南に円丘をつくる。詔した。「漢初から4百年、郊祀がすたれる。曹氏の祖先である虞舜、唐堯の娘で虞舜の妻となった伊氏、曹操と卞太后をまつれ」と。
廬江主薄呂習密使人請兵於吳,欲開門為內應。吳主使衛將軍全琮督前將軍硃桓等 赴之,既至,事露,吳軍還。
諸葛恪至丹楊,移書四部屬城長吏,令各保其疆界,明立部伍;其從化平民,悉令 屯居。(中略) 恪自領萬人, 餘分給諸將。吳主嘉其功,拜恪威北將軍,封都鄉侯,徙屯廬江皖口。曹魏で廬江の主薄する呂習は、ひそかに孫呉に使者をだして、「内応する」と連絡した。孫権は、衛將軍の全琮に、前将軍の朱桓を督させて、廬江にゆく。呂習のワナを察知して、呉軍は還った。
ぼくは思う。孫呉から曹魏ににげる者は多いから、いつわりの降伏の作戦がつかえる。だが、曹魏から孫呉ににげる者は、少ないだろう。だから、作戦がウソくさい。よくも、こんな恥ずかしい作戦を立てたよ、廬江太守の郡府は。諸葛恪は丹陽にゆき、周囲の4郡の長吏に文書をまわして、境界を固めさせた。諸葛恪は、1万人の兵を徴発して、諸将に分配した。諸葛恪は、威北將軍となり、都鄉侯に封じられた。廬江の皖口に屯した。
ぼくは思う。諸葛瑾が心配したけど、ぶじに山越から兵を徴発したと。胡三省はいう。威北将軍とは、孫呉がはじめておく。
諫めの高堂隆が死に、人事考課を論ずる
是歲,徙長安鐘虡、橐佗、銅人、承露盤於洛陽。盤折,聲聞數十裡。銅人重,不 可致,留於霸城。(中略) 司徒軍議掾董尋上疏諫曰 (中略)。帝曰:「董 尋不畏死邪!」主者奏收尋,有詔勿問。太子捨人沛國張茂上書諫曰 (中略)。帝不聽。
高堂隆上疏曰 (中略)。帝覽之,謂中書監、令曰:「觀隆此奏,使朕懼哉!」
尚書衛覬上疏曰 (中略) 。
高堂隆疾篤,口占上疏曰 (中略)。帝手詔深慰勞之。未幾而卒。この歳、長安の銅人らを洛陽に運ぶ。司徒軍議掾の董尋がいさめた。董尋は、死刑だけは赦してもらった。
胡三省はいう。漢代の三公府には、軍議掾がいない。曹魏がおいた。高堂隆、尚書の衛覬も上疏して、曹叡をいさめた。太子舎人する沛國の張茂も上書して、曹叡をいさめた。曹叡はきかない。
高堂隆は病気になっても諫言した。曹叡が慰労した。高堂隆は死んだ。
ぼくは思う。『資治通鑑』は、よく分からないけど、高堂隆のお祭りだった。『三国志』に諫言が豊富に載っているから、使いやすかったのだろう。曹叡のハデさと、対になっているのが『資治通鑑』においては高堂隆である。他の者は、ときどき登場するけど、頻度も字数も少なかった。
いま省いたが、司馬光は、陳寿による高堂隆伝の評まで引用する。
帝深疾浮華之士,詔吏部尚書盧毓曰:「選舉莫取有名,名如畫地作餅,不可啖 也。」毓對曰:「名不足以致異人而可以得常士:常士畏教慕善,然後有名,非所當疾 也。愚臣既不足以識異人,又主者正以循名案常為職,但當有以驗其後耳。古者敷奏以 言,明試以功;今考績之法廢,而以毀譽相進退,故真偽渾雜,虛實相蒙。」帝納其言。 詔散騎常侍劉邵作考課法。卲作《都官考課法》七十二條,又作《說略》一篇,詔下百 官議。曹叡は、浮華之士をにくむ。(人事官の) 吏部尚書の盧毓に、曹叡は「名声で人材を採用するな。名声は画餅であり、画餅は食えない」という。盧毓は「人事考課の制度が良くないから、名声による判断が行われるのだ」と説明した。曹叡は、散騎常侍の劉邵に、人事考課の制度をつくらせた。『都官考課法』ができた。
司隸校尉崔林曰 (中略)。 黃門侍郎杜恕曰 (中略)。司空掾北地 傅嘏曰 (中略)。 議久之不決,事竟不行。
初,右僕射衛臻典選舉,中護軍蔣濟遺臻書曰:「漢祖遇亡虜為上將,周武拔漁父 為太師,布衣廝養,可登王公,何必守文,試而後用!」臻曰:「不然。子欲同牧野於 成、康,喻斷蛇於文、景,好不經之舉,開拔奇之津,將使天下馳騁而起矣!」盧毓論 人及選舉,皆先性行而後言才,黃門郎馮翊李豐嘗以問毓,毓曰:「才所以為善也,故 大才成大善,小才成小善。今稱之有才而不能為善,是才不中器也!」豐服其言。司隸校尉の崔林、黃門侍郎の杜恕、司空掾する北地の傅嘏らが、人事考課について提言した。結論がでなかった。
ぼくは思う。ここは、ハデに省いているので、必要に応じて見返さねば。司馬光が「或るひと曰く」と、いろんな人事考課についての議論を載せている。これも、必要に応じてあとで見る。はじめ右僕射の衛臻は、選挙を典した。中護軍の蔣濟は、衛臻に文書をのこした。
胡三省はいう。蒋済は、すでに中護軍から護軍将軍に昇格した。ここに中護軍と書かれているので、以前の話だろう。
ぼくは思う。司馬光は、人事考課のテーマで縛って、ひっぱってきた。時系列ではなく、テーマ別である。『資治通鑑』の編年体は、メッセージを「読者」たる皇帝伝える手段である。『資治通鑑』の目的は、このように説教を垂れることである。人事考課のあるべき姿について、論じずにはいられない。「劉邦は降った韓信をつかい、周武は釣する呂望をつかう。まず採用してから、実力を確かめればよい」と。衛臻はいう。「創業期であれば、さきに採用すればいい。だがいま安定期だから、採用を慎重にすべきだ」と。
盧毓が人材を論じて選挙するときは、さきに性質をのべ、つぎに才能をのべた。黄門侍郎する馮翊の李豊がその理由を聞いた。盧毓は答えた。「才能は、性質によって規定される。善人なら有能になる」と。李豊はその説明に服した。121107
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