表紙 > 和訳 > 『資治通鑑』巻77、256-261年を抄訳

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甘露元年(丙子,公元256年)

春、曹髦が創業者より復興者を貴ぶ

春,正月,漢姜維進位大將軍。
二月,丙辰,帝宴群臣於太極東堂,與諸儒論夏少康、漢高祖優劣,以少康為優。

春正月、姜維は大将軍にすすむ。
2月丙辰、曹髦は群臣と太極の東堂で宴する。諸儒とともに、夏少康と漢高祖の優劣を論じる。夏少康のほうが優れると結論した。

曹髦はいう。夏の少康は、夏が滅亡したあとに生まれたが、夏を復興した。漢の高祖は、ゼロから創業した。創業より復興して祖先の仁徳を広めるほうがすごい。
ぼくは思う。曹髦は創業者でなく、曹操の功業を嗣ぐものである。だから夏少康を指示したのかな。司馬氏にバレバレだなあ。いま司馬昭が専権するから、曹髦の認識では「曹魏は滅亡したも同然だから、復興すべきだ」である。


夏、曹髦が司馬望に追鋒車を賜い、勉強に呼ぶ

夏,四月,庚戌,賜大將軍昭袞冕之服,赤舄副焉。
丙辰,帝幸太學,與諸儒論《書》、《易》及《禮》,諸儒莫能及。帝常與中護軍 司馬望、侍中王沈、散騎常侍裴秀、黃門侍郎鐘會等講宴於東堂,並屬文論,特加禮異, 謂秀為儒林丈人,沈為文籍先生。帝性急,請召欲速,以望職在外,特給追鋒車、虎賁 五人,每有集會,輒奔馳而至。秀,潛之子也。
六月,丙午,改元。
姜維在鐘提,議者多以為維力已竭,未能更出。安西將軍鄧艾曰:「洮西之敗,非 小失也,士卒彫殘,倉廩空虛,百姓流離。(中略) 賊有黠計,其來必矣。」

夏4月庚戌、大將軍の司馬昭に、袞冕之服を賜い、赤舄を副とする。

胡三省はいう。九錫の手始めである。

4月丙辰、曹髦は太学にゆく。諸儒と『書』『易』『礼』を論じる。諸儒は曹髦に及ばない。

胡三省はいう。ときに博士の淳于俊は『易』を論じる。庾峻は『書』を論じる。馬照は『礼記』を論じる。彼ら儒者は、王粛と鄭玄の異同を論じるばかりで、君子の学をやらない。

曹髦はつねに、中護軍の司馬望、侍中の王沈、散騎常侍の裴秀、黃門侍郎の鐘會らと、東堂で講宴する。文論もやる。裴秀は儒林丈人、王沈は文籍先生と言われる。曹髦は性格が急なので、在外の職にある司馬望をすぐに召したい。追鋒車と虎賁5人を司馬望に与える。曹髦は、学問の友達をすぐに集められるようにした。裴秀は裴潛の子である。

胡三省はいう。ときに司馬望は中護軍であり、在外である。『傅子』や『晋書』が、車の仕様を記す。はぶく。また、裴潛は曹操に仕えた。代郡太守として名を著した。

6月丙午、甘露が降ったので、甘露と改元した。
姜維は鐘提にいる。議者は「姜維は力を使い尽くした」という。だが安西将軍の鄧艾は、また姜維が攻めてくると予想した。

秋、鄧艾が段谷で姜維を破り、孫綝が孫峻をつぐ

秋,七月,姜維復率眾出祁山,聞鄧艾已有備,乃回,從董亭趣南安;艾據武城山 以拒之。維與艾爭險不克,其夜,渡渭東行,緣山趣上邽。艾與戰於段谷,大破之。以 艾為鎮西將軍,都督隴右諸軍事。維與其鎮西大將軍胡濟期會上邽,濟失期,不至,故 敗,士卒星散,死者甚眾,蜀人由是怨維。維上書謝,求自貶黜;乃以衛將軍行大將軍 事。
八月,庚午,詔司馬昭加號大都督,奏事不名,假黃鉞。癸酉,以太尉司馬孚為太傅。九月,以司徒高柔為太尉。

秋7月、ふたたび姜維は祁山に出る。鄧艾は備えしたと聞き、董亭から南安にゆく。鄧艾は、武城山に拠って姜維を拒む。

『水経注』はいう。董亭は、南安郡の西南にある。谷水がその下を流れる。東北で渭水に注ぐ。
『水経注』渭水はゲン道(南安の郡治)の南を過ぎる。また渭水は東して、武城県の西をすぎる。武城にはいる。武城山という山の名をとって、県名にしたのだろう。酈道元は後魏の人である。武城県は、必ず後魏によって立てられた。魏收『地形志』に武城県はない。けだし廃止されたのだろう。

姜維は鄧艾に勝てず、渭水を渡って東する。山の縁をまわり、上邽にゆく。鄧艾は段谷で姜維を大破した。

『水経注』はいう。上邽の南に、段渓水がある。段渓水は、西南の馬門渓を出て、東北に流れ、籍水にあわさる。

鄧艾は鎮西將軍となり、隴右諸軍事を都督する。姜維と、蜀漢の鎮西大將軍の胡濟は、上邽で合流する予定だが、胡済が遅れたので、蜀漢の士卒が多く死んだ。蜀漢の人々は、姜維を怨んだ。姜維は、自らを降格して、衛將軍、行大將軍事とした。
8月庚午、司馬昭に大都督を加号し、奏事不名,假黃鉞とした。8月癸酉、太尉の司馬孚が太傅となる。9月、司徒の高柔が太尉となる。

文欽說吳人以伐魏之利,孫峻使欽與驃騎將軍呂擾及車騎將軍劉纂、鎮南將軍硃異、 前將軍唐咨自江都入淮、泗,以圖青、徐。峻餞之於石頭,遇暴疾,以後事付從父弟偏 將軍絲林。丁亥,峻卒。吳人以絲林為侍中、武衛將軍、都督中外諸軍事,召呂據等還。

文欽は孫呉に、伐魏之利を説いた。孫峻は文欽とともに、驃騎將軍の呂拠、車騎將軍の劉纂、鎮南將軍の硃異、 前將軍の唐咨を、江都(広陵)から淮水に、さらに淮水から泗水に入れる。青州と徐州をねらう。
孫峻は石頭で出陣を見送ったが、急病になった。孫峻は後事を、從父弟の偏將軍する孫綝に付託した。8月丁亥、孫峻は卒した。孫綝は侍中、武衛將軍となり、中外諸軍事を都督した。呂拠らを召して、伐魏を辞めた。

己丑,吳大司馬呂岱卒,年九十六。(後略)
呂據聞孫絲林代孫峻輔政,大怒,與諸督將連名共表薦滕胤為丞相;絲林更以胤為 大司馬,代呂岱駐武昌。據引兵還,使人報胤,欲共廢絲林。

秋8月己丑、孫呉の大司馬の呂岱が卒した。96歳だった。

司馬光は呂岱のエピソードを載せるが、はぶく。

呂拠は、孫綝が孫峻に代わって輔政すると聞き、大怒した。連名で、滕胤を丞相に推薦した。孫綝は、滕胤を大司馬にして、呂岱に代えて武昌に駐めた。呂拠は伐魏から還ると、滕胤に「孫綝を廃そう」と持ちかけた。

冬、孫綝が、滕胤と呂拠、孫憲を敗死させる

冬,十月,丁未,絲林遣從兄憲將兵逆據於江都,使中使敕文欽、劉纂、唐咨等共擊取據,又遣侍中左將軍華融、 中書丞丁晏告喻胤宜速去意。胤自以禍及,因留融、晏、勒兵自衛,召典軍楊崇、將軍 孫咨,告以絲林為亂,迫融等使作書難絲林。絲林不聽,表言胤反,許將軍劉丞以封爵, 使率兵騎攻圍胤。胤又劫融等使詐為詔發兵,融等不從,皆殺之。或勸胤引兵至蒼龍門: 「將士見公出,必委絲林就公。」時夜已半,胤恃與據期,又難舉兵向宮,乃約令部曲, 說呂侯兵已在近道,故皆為胤盡死,無離散者。胤顏色不變,談笑如常。時大風,比曉, 據不至,絲林兵大會,遂殺胤及將士數十人,夷胤三族。己酉,大赦,改元太平。或勸 呂據奔魏者,據曰:「吾恥為叛臣。」遂自殺。

冬10月丁未、孫綝は從兄の孫憲に、江都で呂拠を防がせる。中使敕の文欽、劉纂、唐咨らとともに、呂拠を撃つ。侍中で左將軍の華融、中書丞の丁晏は、滕胤に「去れ」と告げた。

胡三省はいう。魏晋では、中書に丞はない。孫呉が置いた。
胡三省はいう。滕胤に「速く武昌にゆかねば、誅伐される」と告げたのだ。

滕胤は文書で、乱を起こした孫綝を非難した。滕胤は呂拠と合流したいが、うまくゆかず、孫綝に夷三族された。

ぼくは思う。こまかい経緯は省いた。結果だけ。

10月己酉、大赦した。太平と改元した。呂拠に「曹魏へ逃げろ」と勧める者があったが、呂拠は「叛臣になりたくない」と言って自殺した。

胡三省はいう。呂拠の父は、呂範である。呂範は、孫策に自立を勧めた。子の呂拠が、孫呉に叛かなかったのは良い。ぼくは思う。『三国演義』で、袁術のもとで落ちこんだ孫策を励ますのも、呂範の役目だ。


以司空鄭沖為司徒,左僕射盧毓為司空。毓固讓驃騎將軍王昶、光祿大夫王觀、司 隸校尉琅邪王祥,詔不許。
祥性至孝,繼母硃氏遇之無道,祥愈恭謹。(中略) 母終,毀瘁,杖而後起。徐州刺史 呂虔檄為別駕,委以州事,州界清靜,政化大行。時人歌之曰:「海沂之康,實賴王祥; 邦國不空,別駕之功!」

司空の鄭沖が司徒となる。左僕射の盧毓が司空となる。盧毓は「驃騎將軍の王昶、光祿大夫の王觀、司隸校尉する琅邪の王祥、彼ら3人のほうが司空に適任だ」と言い張る。それでも盧毓は司空にされた。
王祥は至孝である。継母の朱氏が無道でも、よく仕えた。母の死後、杖でやっと立てるほどだ。徐州刺史の呂虔は、王祥を別駕にして、州事をゆだねた。州界は清靜となり、政化は大いに行われた。ときの人は「海沿いの徐州は、王祥のおかげで豊かだ」という。

十一月,吳孫絲林遷大將軍。絲林負貴倨傲,多行無禮。峻從弟憲嘗與誅諸葛恪, 峻厚遇之,官至右將軍、無難督,平九官事。絲林遇憲薄於峻時,憲怒,與將軍王惇謀 殺絲林。事洩,絲林殺惇,憲服藥死。

11月、孫綝は大将軍にうつる。孫綝は傲慢である。孫峻の従弟の孫憲は、かつて孫綝とともに諸葛恪を誅した。孫綝は孫憲を厚遇して、右將軍、無難督として、九官(九卿)事を平させた。

曹叡の太和2年、孫権は建業に還った。尚書と九卿を、武昌に置いてきた。ぼくは思う。皇帝と、尚書や九卿は、地理的に分離できるのか!知らなかった。孫呉が変則的なのか?ともあれ孫権の周囲には、不足を補う官僚機構ができたはず。呂壱とか?

孫憲は、孫峻から孫綝の執政になってから、待遇が薄くなった。将軍の王惇とともに、孫綝を殺そうとしたが、バレて自殺した。121115

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甘露二年(丁丑,公元257年)

春,三月,大梁成侯盧毓卒。

春3月、大梁成侯の盧毓が卒した。

夏、孫亮が親政を始め、諸葛誕が挙兵

夏,四月,吳主臨正殿,大赦,始親政事。孫絲林表奏,多見難問,又科兵子弟十 八已下,十五以上三千餘人,選大將子弟年少有勇力者,使將之,日於苑中教習,曰: 「吾立此軍,欲與之俱長。」又數出中書視大帝時舊事,問左右侍臣曰:「先帝數有特 制,今大將軍問事,但令我書可邪?」 (後略)

夏4月、孫亮は正殿に臨み、大赦した。親政を始めた。孫綝は、難問を上奏した。また少年兵を苑中で訓練して、孫亮は「私はこの兵とともに成長する」という。孫亮は、しばしば中書に出る。孫権の前例を見て、左右の侍臣に問う。「孫権はしばしば手書の詔を特別に出した。いま孫綝に伺いを立てねばならない。私が詔書を発行できないか」と。

ぼくは思う。孫亮の賢いエピソード、はぶく。
孫亮の自立心と聡明さが、大将軍の孫綝と衝突するという伏線だ。


征東大將軍諸葛誕素與夏侯玄、鄧颺等友善,玄等死,王凌、毌丘儉相繼誅滅,誕 內不自安,乃傾帑藏振施,曲赦有罪,以收眾心,畜養揚州輕俠數千人以為死士。因吳 人欲向徐堨,請十萬眾以守壽春,又求臨淮築城以備吳寇。司馬昭初秉政,長史賈充請 遣參佐慰勞四征,且觀其志。昭遣充至淮南,充見誕,論說時事,因曰:「洛中諸賢, 皆願禪代,君以為如何?」誕厲聲曰:「卿非賈豫州子乎?世受魏恩,豈可欲以社稷輸 人乎!右洛中有難,吾當死之。」充默然。還,言於昭曰:「諸葛誕再在揚州,得士眾 心。今召之,必不來,然反疾而禍小;不召,則反遲而禍大;不如召之。」昭從之。

征東大將軍の諸葛誕は、夏侯玄、鄧颺らと仲が良かった。王凌、毌丘儉が誅されたので、不安になった。諸葛誕は、帑藏を傾け、施を振るい、有罪を曲赦し、眾心を収めた。数千の死士を養った。

ぼくは思う。いいトレード!諸葛誕の戦略!

孫呉は、徐唐(東関の東)に向かう。諸葛誕は「孫呉を防ぐため、寿春に10万ほしい。臨淮に築城して、孫呉に備える」と申請した。司馬昭は執政すると、長史の賈充に、四征を慰労させた。

征東将軍は淮南、征南将軍は襄水や沔水のあたりで、孫呉に備える。征西将軍は関隴で、蜀漢に備える。征北将軍は幽州や并州で鮮卑に備える。司馬昭は賈充を送って、彼らの考えを探った。

賈充は淮南で諸葛誕に会い、諸葛誕が司馬昭の禅譲に反対だと知った。賈充は司馬昭に、諸葛誕を除けと提案した。

甲 子,詔以誕為司空,召赴京師。誕得詔書,愈恐,疑揚州刺史樂絲林間己,遂殺絲林, 斂淮南及淮北郡縣屯田口十餘萬官兵,揚州新附勝兵者四五萬人,聚谷足一年食,為閉 門自守之計。遣長史吳綱將小子靚至吳,稱臣請救,並請以牙門子弟為質。

4月甲子、諸葛誕を司空にして京師に召した。諸葛誕は恐れた。揚州刺史の楽綝を殺した。

胡三省はいう。征東将軍と揚州刺史は、どちらも寿春に治する。曹魏の四征将軍は、その州の刺史を儲師として、ひきいた。ゆえに諸葛誕と楽綝は、仲が悪い。
ぼくは思う。同じ場所に、権限が類似・重複した2者をおけば、当然ながら衝突する。まるで制度的に2者を対立して、専権を防いでいたかのようだ。あくどい制度設計だなあ。臣下を不幸にするよ!

諸葛誕は、淮南と淮北の郡県と屯田から10余万の官兵をあつめ、揚州の新附の兵4,5万をくわえ、1年の食糧をたくわえ、関所を攻めて淮南に籠もった。

曹魏の郡県には、みな屯田がある。屯田の人口は、すべて官兵である。ぼくは補う。魏晋革命のあと、この屯田が廃止される。あなどれない勢力なんだろう。司馬懿が曹爽にクーデターを起こしたときも、洛陽の周囲の屯田がカギだった。

長史の吳綱をつかわし、小子の諸葛靚を孫呉へ人質に出して、救援を請うた。牙門(諸将)の子弟も、孫呉の人質にした。

吳滕胤、呂據之妻,皆夏口督孫壹之妹也。六月,孫絲林使鎮南將軍硃異自虎林將 兵襲壹。異至武昌,壹將部曲來奔。乙巳,詔拜壹車騎將軍、交州牧,封吳侯,開府辟 召,儀同三司,袞冕赤舄,事從豐厚。
司馬昭奉帝及太后討諸葛誕。吳綱至吳,吳人大喜,使將軍全懌、全端、唐咨、王 祚將三萬眾,與文欽同救誕;以誕為左都護、假節、大司徒、驃騎將軍、青州牧,封壽 春侯。懌,琮之子;端,其從子也。

孫呉で、滕胤と呂據の妻は、どちらも夏口督の孫壹の妹である。

胡三省はいう。孫壹は、孫奐の庶子である。
ぼくは思う。さっき孫綝に敗れた、滕胤と呂拠は、義兄弟でもあった。

6月、孫綝は、鎮南將軍の硃異に、虎林から兵をひきい、孫壹を襲わせた。朱異はが武昌にいたると、孫壹は部曲をひきいて、曹魏に逃げこんだ。6月乙巳、孫壹は曹髦から、車騎將軍、交州牧,封吳侯,開府辟召,儀同三司にしてもらい、袞冕赤舄を賜り、厚遇された。
司馬昭は、曹髦と太后を奉じて、諸葛誕を討ちにゆく。 吳綱は、孫呉で歓迎された。孫呉は、将軍の全懌、全端、唐咨、王祚に3万をつけ、文欽とともに、諸葛誕を救いにゆく。諸葛誕は孫呉から、左都護、假節、大司徒、驃騎將軍、青州牧に任じられ、壽春侯に封じられた。

ぼくは思う。孫呉から曹魏に逃げた孫壹。曹魏から孫呉を頼った諸葛誕。どちらも、あまりも破格の待遇を受けている。孫壹なんて、九錫の一部をもらっている。諸葛誕だって、もし純粋な呉臣なら、孫綝のつぎに偉い。官位のポトラッチだなあ!

全懌は全琮の子である。全端は全琮の從子である。

六月,甲子,車駕次項,司馬昭督諸軍二十六萬進屯丘頭,以鎮南將軍王基行鎮東 將軍、都督揚豫諸軍事,與安東將軍陳騫等圍壽春。基始至,圍城未合,文欽、全懌等 從城東北因山乘險,得將其眾突入城。昭敕基斂軍堅壁。基累求進討,會吳硃異率三萬 人進屯安豐,為文欽外勢,詔基引諸軍轉據北山。

6月甲子、曹髦の車駕は項県にくる。司馬昭は諸軍26万を督し、丘頭にすすむ。

この戦役で、司馬昭は丘頭を武丘とした。武功を明らかにした。

鎮南將軍の王基を、行鎮東將軍、都督揚豫諸軍事とする。安東將軍の陳騫とともに、王基は寿春をかこむ。
はじめ王基がきたとき、まだ包囲が完成しておらず、孫呉からきた文欽や全懌らが、東北の険しい山から、寿春に入城しようとする。

胡三省はいう。寿春の城外には、東北にしか山がない。ただ北に八公山がある。ぼくは思う。袁術が寿春に入ったとき、汝南袁氏から8人の三公が出ており、、なんてことないか。数えてないけど。

司馬昭が王基に命じて、入城を防いだ。孫呉の朱異が、安豐にくる。文欽が、寿春を外から援助する。

胡三省はいう。安豊県は、漢代は廬江に属する。曹魏は分けて安豊郡とした。


基謂諸將曰:「今圍壘轉固,兵馬向 集,但當精修守備,以待越逸,而更移兵守險,使得放縱,雖有智者,不能善其後矣!」 遂守便宜,上疏曰:「今與賊家對敵,當不動如山,若遷移依險,人心搖蕩,於勢大損。 諸軍並據深溝高壘,眾心皆定,不可傾動,此御兵之要也。」書奏,報聽。 於是基等四 面合圍,表裡再重,塹壘甚峻。文欽等數出犯圍,逆擊,走之。司馬昭又使奮武將軍監 青州諸軍事石苞督兗州刺史州泰、徐州刺史胡質等簡銳卒為游軍,以備外寇。泰擊破硃 異於陽淵,異走,泰追之,殺傷二千人。

王基を、寿春の北山におく。王基は諸将に「堅守して北山で持久しよう」という。王基は堅守を上疏して、認められた。文欽に攻められても、追い返した。司馬昭は、奮武將軍で青州諸軍事を監する石苞に、兗州刺史の州泰、徐州刺史の胡質らを督させ、外寇に備えた。州泰は朱異を陽淵でやぶり、2千人を殺傷した。

秋、孫綝が寿春を救わず、降伏者が続出

秋,七月,吳大將軍絲林大發卒出屯鑊裡,復遣硃異帥將軍丁奉、黎斐等五人前解 壽春之圍。異留輜重於都陸,進屯黎漿,石苞、州泰又擊破之。太山太守胡烈以奇兵五 千襲都陸,盡焚異資糧,異將餘兵,食葛葉,走歸孫絲林。絲林使異更死戰,異以士卒 乏食,不從絲林命。絲林怒,九月,己巳,絲林斬異於鑊裡。辛未,引兵還建業,絲林 既不能拔出諸葛誕,而喪敗士眾,自戮名將,由是吳人莫不怨之。

秋7月、孫呉の大将軍の孫綝は、大兵を発して鑊裡にくる。

胡三省はいう。孫亮は孫峻に「湖にいて一歩も上陸しない」と責めた。鑊裡は巣県の境にある。

また朱異は、將軍の丁奉、黎斐ら5人をひきいて、寿春の包囲を解こうとする。朱異は輜重を都陸(黎漿の南)にとどめた。曹魏の石苞、州泰は、朱ヰを破った。太山太守の胡烈は、奇兵5千で都陸を襲い、朱異の輜重を焼いた。朱異は補給が続かない。9月己巳、孫綝は朱異を鑊裡で斬った。9月辛未、孫綝は建業にひく。諸葛誕を救えないので、孫綝は孫呉で怨まれた。

胡三省はいう。寿春の包囲は固い。周瑜、呂蒙、陸遜が生きていたとしても、包囲を解くのは難しい。もし孫綝が、荊州と揚州の兵をあげて、襄陽を出て、宛水や洛水にむかえば、曹魏は寿春の包囲を減らさざるを得ない。寿春にいる諸葛誕や文欽は、力戦するチャンスがあった。
胡三省はいう。この失敗は、孫綝が誅される原因となる。
ぼくは思う。結果論を言っても仕方がない。周瑜でもムリとする根拠もない。無責任なことを言わないでほしいものだ。笑


司馬昭曰:「異不得 至壽春,非其罪也,而吳人殺之,欲以謝壽春而堅誕意,使其猶望救耳。今當堅圍,備 其越逸,而多方以誤之。」乃縱反間,揚言「吳救方至,大軍乏食,分遣羸疾就谷淮北, 勢不能久」。誕等益寬恣食,俄而城中乏糧,外救不至。將軍蔣班、焦彝,皆誕腹心謀 主也,言於誕曰:「硃異等以大眾來而不能進,孫絲林殺異而歸江東,外以發兵為名, 內實坐須成敗。今宜及眾心尚固,士卒思用,並力決死,攻其一面,雖不能盡克,猶有 可全者;空坐守死,無為也。」文欽曰:「公今舉十餘萬之眾歸命於吳,而欽與全端等 皆同居死地,父兄子弟盡在江表,就孫絲林不欲來,主上及其親戚豈肯聽乎!且中國無 歲無事,軍民並疲,今守我一年,內變將起,奈何捨此,欲乘危徼幸乎!」班、彝固勸 之,欽怒。班、彝固勸之,欽怒。誕欲殺班、彝,二人懼,十一月,棄誕逾城來降。

司馬昭は言う。「朱異は寿春を救えずに殺された。だが朱異に罪はなかったのに。朱異が斬られ、諸葛誕は希望を失った」と。司馬昭は、諸葛誕と孫呉を分離するため、「孫呉はもう寿春を救えない」と揚言した。

ぼくは思う。孫綝が朱異を殺したことは、もとは「寿春を救えよ!この馬鹿」という衝動からで、寿春を救う強い気持ちから発した怒りだったんだろう。だが孫綝が朱異を殺した結果、孫綝から見ても、寿春を救えないような見通しが生じた。孫綝は、自分の行為によって、自分の意見にバイアスをかけた。
結果からすれば、孫綝は、寿春を救えないことで、孫亮に誅される。もう文字どおりに死ぬ覚悟で、寿春の包囲を崩す努力をすべきだったのだ。すべては孫綝が、脊髄反射的な判断ばかりすることが敗因であるなあ。

將軍の蔣班、焦彝は、諸葛誕の腹心謀主である。彼らは諸葛誕にいう。「朱異は進めず、孫綝に斬られた。孫綝は建業に還った。もう孫呉は救ってくれないので、最期の決戦を包囲軍に挑もう」と。文欽はいう。「諸葛誕は10余万をひきいて孫呉にくだれ。文欽と全端は、諸葛誕と命運をともにしよう。孫綝は、諸葛誕に孫呉へ来てほしくなかろうが、孫亮なら受け入れてくれる。曹魏の内乱があれば、また孫呉から曹魏に攻め込もう」と。

ぼくは思う。文欽は、まさにこの思考回路によって、まえの毋丘倹の反乱のとき、鄧艾にはばまれて、孫呉に投降したのだ。文欽は、また淮南で反乱がおこるか、もしくは司馬昭の謀反によって、曹魏が混乱するかを予想している。

諸葛誕の腹心である蔣班、焦彝は、孫呉に降りたくない。11月、寿春をすてて、司馬昭に降った。

全懌兄子輝、儀在建業, 與其家內爭訟,攜其母將部曲數十家來奔。於是懌與兄子靖及全端弟翩、緝皆將兵在壽 春城中,司馬昭用黃門侍郎鐘會策,密為輝、儀作書,使輝、儀所親信□入城告懌等, 說「吳中怒懌等不能拔壽春,欲盡誅諸將家,故逃來歸命」。十二月,懌等率其眾數千 人開門出降,城中震懼,不知所為。詔拜懌平東將軍,封臨湘侯;端等封拜各有差。

全懌の兄子である全輝と全儀は、建業にいる。

胡三省はいう。全輝と全儀は、全懌の兄・全緒の子である。

全氏は一族にトラブルがあり、全輝らは母と部曲の数十家をひきいて、曹魏に奔る。ここにおいて、全懌とその兄子の全靖と全端は、弟たちをひきいて、寿春の城内にいた。
司馬昭は、黄門侍郎の鍾会の策謀をつかい、全氏を分裂させた。12月、寿春城内から、全懌が数千をひきいて司馬昭にくだる。寿春の城内はおそれた。全懌は、曹魏の平東將軍となり、臨湘侯に封じられた。全端らも、それぞれ曹魏から封拜をもらう。

ぼくは思う。寿春は、孫呉で居場所がなくなった人が、逃げこむ場所でもあったのね。孫呉から曹魏に逃げる人はおおい。ぎゃくは少ない。文欽なんて特例である。というわけで寿春は、もとからの住民、孫呉から逃げた人、曹魏が新たに付けた開拓者、などが雑居している。辺境である。だから反乱が起きる。ただし雑居しているせいで、切り崩されやすい。そして曹魏は、降った者を、官位と爵位によって、曹魏の一員に歓迎する意志を示し、また再編する。


漢姜維聞魏分關中兵以赴淮南,欲乘虛向秦川,率數萬人出駱谷,至沈嶺。時長城 積穀甚多,而守兵少,征西將軍都督雍、涼諸軍事司馬望及安西將軍鄧艾進兵據之,以 拒維。維壁於芒水,數挑戰,望、艾不應。
是時,維數出兵,蜀人愁苦。中散大夫譙周作《仇國論》以諷之曰 (後略)。

姜維は、曹魏が関中の兵を淮南に割いたと聞いて、秦川に向かう。

胡三省はいう。秦地は四塞して固い。渭水がつらぬく。渭水の左右には、肥沃な土地が千里ある。

数万をひきい、駱谷をでて、沈嶺にゆく。ときに曹魏の長城には、穀物がおおいが守兵が少ない。征西將軍で雍涼諸軍事を都督する司馬望と、安西將軍の鄧艾は、姜維を拒んだ。姜維は、芒水を背にして、しばしば挑戦した。司馬望と鄧艾は応戦しない。

地形について、胡三省が書いてる。中華書局2440頁。

このとき、姜維が出兵を反復するので、中散大夫の譙周が『仇国論』を書いた。内容の要約がここにある。はぶく。121116

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甘露三年(戊寅,公元258年)

春、諸葛誕が文欽を殺し、寿春が陥落する

春,正月,文欽謂諸葛誕曰:「蔣班、焦彝謂我不能出而走,全端、全懌又率眾逆 降,此敵無備之時也,可以戰矣。」誕及唐咨等皆以為然,遂大為攻具,晝夜五六日攻 南圍,欲決圍而出。圍上諸軍臨高發石車火箭,逆燒破其攻具,矢石雨下,死傷蔽地, 血流盈塹,復不城。城內食轉竭,出降者數萬口。欽欲盡出北方人,省食,與吳人堅守, 誕不聽,由是爭恨。欽素與誕有隙,徒以計合,事急愈相疑。欽見誕計事,誕遂殺欽。

春正月、文欽は諸葛誕にいう。「蔣班と焦彝は、私が寿春から出られないと言った。全端と全懌は、司馬昭に降伏した。いまこそ敵が油断している。戦おう」と。諸葛誕と唐咨は、寿春城の南を包囲する軍を攻撃した。包囲軍に反撃された。城内に食糧がなく、数万口が降伏した。文欽は、北来の人を殺して、食糧を確保したい。諸葛誕はこれを許さず、文欽を爭恨した。諸葛誕は文欽を殺した。

ぼくは思う。文欽が殺せと言った北来の人とは、諸葛誕が率いてきた人だ。だから諸葛誕は起こったのだろう。文欽も、もとは曹魏の人間だったのに。いちど孫呉に亡命すると、孫呉の人のほうが大切になるのだ。諸葛誕は自分の手足を文欽にもがれるに等しいから、ぎゃくに文欽を殺した。ともあれ、北来にしろ南来にしろ、味方の兵を殺して食糧を確保しようなんて、末期だなあ。


欽子鴦、虎將兵在小城中,聞欽死,勒兵赴之;眾不為用,遂單走逾城出,自歸於司馬 昭。軍吏請誅之,昭曰:「欽之罪不容誅,其子固應就戮;然鴦、虎以窮歸命,且城未 拔,殺之是堅其心也。」乃赦鴦、虎,使將數百騎巡城,呼曰:「文欽之子猶不見殺, 其餘何懼!」又表鴦、虎皆為將軍,賜爵關內侯。城內皆喜,且日益饑困。司馬昭身自 臨圍,見城上持弓者不發,曰:「可攻矣!」乃四面進軍,同時鼓噪登城。

文欽の子である文鴦と文虎は、文欽が殺されたので、司馬昭に逃げた。司馬昭は、文鴦と文虎を救った。2人は将軍となり、関内侯を賜る。2人で寿春のまわりを駆けた。寿春の城内は「文欽の子ですら殺されない。私たちも殺されないだろう」と考えた。城内はさらに飢えた。司馬昭が包囲軍にのぞみ、四面から攻めた。

二月,乙酉, 克之。誕窘急,單馬將其麾下突小城欲出,司馬胡奮部兵擊斬之,夷其三族。誕麾下數 百人,皆拱手為列,不降,每斬一人,輒降之,卒不變,以至於盡。吳將於詮曰:「大 丈夫受命其主,以兵救人,既不能克,又束手於敵,吾弗取也。」乃免冑冒陳而死。唐 咨、王祚等皆降。吳兵萬眾,器仗山積。

2月乙酉、司馬昭は寿春をやぶった。諸葛誕は夷三族された。麾下の數百人は、1人ずつ斬られたが、諸葛誕への心を変えない。呉将の于詮は「手を縛って降伏などしない」といい、陣中で死んだ。唐咨と王祚らはくだる。呉兵は1万をかぞえ、軍資や山積みである。

春、司馬昭が諸葛誕の乱のあとしまつ

司馬昭初圍壽春,王基、石苞等皆欲急攻之,昭以為「壽春城固而眾多,攻之必力 屈;若有外寇,表裡受敵,此危道也。今三叛相聚於孤城之中,天其或者使同就戮,吾 當以全策縻之。但堅守三面,若吳賊陸道而來,軍糧必少;吾以游兵輕騎絕其轉輸,可 不戰而破也。吳賊破,欽等必成擒矣!」乃命諸軍按甲以守之,卒不煩攻而破。
議者又 以為「淮南仍為叛逆,吳兵室家在江南,不可縱,宜悉坑之。」昭曰:「古之用兵,全 國為上,戮其元惡而已。吳兵就得亡還,適可以示中國之大度耳。」一無所殺,分佈三 河近郡以安處之。拜唐咨安遠將軍,其餘裨將,鹹假位號,眾皆悅服,其淮南將士吏民 為誕所脅略者,皆赦之。聽文鴦兄弟收斂父喪。給其車牛,致葬舊墓。

はじめ司馬昭が寿春を囲んだとき、王基と石苞は、すぐに攻めたい。司馬昭はいう。「寿春は堅固だ。いま城内に、諸葛誕、文欽、唐咨がいる。包囲を固めていれば、3人で殺し合うだろう。孫呉の救援がきたら、補給を絶てばよい」と。司馬昭は、むやみに攻めなかった。
議者はいう。「呉兵を穴埋にしよう」と。司馬昭はいう。「古来より用兵とは、首謀者を殺すものだ。呉兵を許して、曹魏の度量を占めそう」と。1人も呉兵を殺さなかった。呉兵を、三河(河東、河南、河内)に分割して移住させた。呉兵は安らいだ。唐咨を安遠将軍として、他将にも官位を与えた。淮南の将士や吏民をゆるした。文鴦は、父の文欽の死体をおさめて、旧墓に葬った。

ぼくは思う。司馬昭は、気前よく与えるなあ!


昭遺王基書曰:「初議者雲雲,求移者甚眾,時未臨履,亦謂宜然。將軍深算利害, 獨秉固志,上違詔命,下拒眾議,終至制敵禽賊,雖古人所述,不是過也。」昭欲遣諸 軍輕兵深入,招迎唐咨等子弟,因釁有滅吳之勢。王基諫曰:「昔諸葛恪乘東關之勝, 竭江表之兵以圍新城,城既不拔,而眾死者太半。姜維因洮西之利,輕兵深入,糧餉不 繼,軍覆上邽。夫大捷之後,上下輕敵,輕敵則慮難不深。今賊新敗於外,又內患未弭, 是其修備設慮之時也。且兵出逾年,人有歸志,今俘馘十萬,罪人斯得,自歷代征伐, 未有全兵獨克如今之盛者也。武皇帝克袁紹於官渡,自以所獲已多,不復追奔,懼挫威 也。」昭乃止,以基為征東將軍、都督揚州諸軍事,進封東武侯。

司馬昭は王基に文書をだす。「さきの詔で、おおくの兵を寿春の北山に移動させた。王基は、北山の現地を検分する前から、この移動に賛成してくれた。王基の判断は素晴らしい」と。
司馬昭が軽兵を深入させ、唐咨らの子弟を誘おうとしたとき。王基は諫めた。「むかし(嘉平5年)、諸葛恪が東興で勝利したあと、北伐してきた。曹魏は合肥新城を守り抜き、諸葛誕の兵の大半が死んだ。 姜維は洮西で勝利したあと、上邽で曹魏に破れた(段谷の戦い)。いま孫峻が寿春の救援をやめたので、寿春の城内は動揺している。いま寿春を攻めるときでない。年をまたいでから攻めれば、諸葛誕を捕らえられるだろう。曹爽が袁紹を官渡で破って、おおくを獲得したのに、さらに追撃しなかったのは、せっかくの勝利の威勢がくじけるのを懼れたからである」と。

ぼくは思う。諸葛恪も姜維も、勝ちに乗じて進んだら、ぎゃくにダメージを受けた。司馬昭は、孫峻を退けた現在、勝ちに乗じている。司馬昭は、一気に突っこみたい。だが突っこめば、諸葛恪と姜維と同じ失敗をやる。だから王基は、司馬昭に進むなと言った。主語が、諸葛恪と姜維から、味方の司馬昭に変わっているから、ちょっと見落とした。反面教師なのね。

司馬昭は進まない。王基を征東將軍、都督揚州諸軍事として、東武侯に進めて封じた。

司馬光は習鑿歯をひく。司馬昭の戦い方は素晴らしいし、終わったあとの対処は、もっと素晴らしいよと。はぶく。


司馬昭之克壽春,鐘會謀畫居多;昭親待日隆,委以腹心之任,時人比之子房。
漢姜維聞諸葛誕死,退還成都,復拜大將軍。

司馬昭が寿春で勝ったとき、つねに鍾会がそばで策謀した。司馬昭は、日に日に鍾会を親待して、腹心之任をゆだねた。ときの人は「鍾会は張子房である」という。
姜維は、諸葛誕が死んだと聞き、成都にかえる。大将軍にもどる。

胡三省はいう。段谷で敗れてから、姜維は行大将軍事に降格されていた。いまもどった。ぼくは思う。姜維に何か功績があったのか?日薬がきいた?


夏、司馬昭が相国、晋公となる

夏,五月,詔以司馬昭為相國,封晉公,食邑八郡,加九錫;昭前後九讓,乃止。

夏5月、司馬昭は相国となり、晋公に封ぜられる。食邑は8郡。九錫を加える。司馬昭は、前後9回もことわった。見合わされた。

『漢書』百官表はいう。相国、丞相は、どちらも秦官。『漢書』蕭何伝によると、蕭何は丞相から相国になる。相国のほうが丞相よりも上位である。
『晋書』帝紀はいう。8郡とは、并州の太原、上党、西河、楽平、新興、雁門、司州の河東、平陽である。ぼくは思う。河東郡まで、あげちゃったのか!曹魏ファンからしたら、グロい絵図だな。


秋、全紀が秘密を母に話し、孫綝が孫亮を廃位

秋,七月,吳主封故齊王奮為章安侯。
八月,以驃騎將軍王昶為司空。 詔以關內侯王祥為三老,鄭小同為五更,帝率群臣幸太學,行養老乞言之禮。小同, 玄之孫也。

秋7月、孫亮は、もと齊王の孫奮を章安侯とする。
8月、驃騎將軍の王昶を司空とした。関内侯の王祥を三老とした。鄭小同を五更とした。曹髦は、群臣をひきいて太学にゆき、養老乞言之禮をおこなう。鄭小同とは、鄭玄の孫である。

胡三省は「養老」「乞言」について『記』を引用する。はぶく。鄭玄の注釈もつく。はぶく。
『鄭玄別伝』はいう。鄭玄の子は、孔融の吏になる。孝廉にあげられた。孔融が黄巾に包囲されると、挙主を助けに行き、賊軍に殺された。鄭玄の孫は、丁卯の日に生まれた。鄭玄は丁卯の歳に生まれた。ちょっと同じなので「小同」という名にした。


吳孫絲林以吳主親覽政事,多所難問,甚懼;返自鑊裡,遂稱疾不朝,使弟威遠將 軍據入倉龍門宿衛,武衛將軍恩、偏將軍干、長水校尉闓分屯諸營,欲以自固。吳主惡 之,乃推硃公主死意,全公主懼曰:「我實不知,皆硃據二子熊、損所白。」是時熊為 虎林督、損為外部督,吳主皆殺之。損妻,即孫峻妹也。絲林諫,不從,由是益懼。

孫綝は、孫亮が親政するので、懼れて鑊裡にひっこんだ。孫綝は朝廷にゆかず、威遠将軍する弟の孫拠らに防衛させた。孫亮は、孫綝が朱公主を殺したこと(正元2年)をせめた。孫綝と共犯の全公主は懼れて、「朱拠の2子、つまり朱熊と朱損が、朱公主を殺せと言ったのだ」とウソをついた。孫亮は、朱熊と朱損を殺した。朱損の妻は、孫峻の妹である。孫綝は「朱損を殺すな」と諫めたが、孫亮は聞かない。これにより孫綝は、ますます孫亮を懼れた。

ぼくは補う。朱公主を殺したのは、全公主と孫綝。だが全公主は、自分が罪から逃れたいから、朱損になすりつけた。朱損は、孫綝の親類である。つまり全公主は、盟友のはずの孫綝に、罪を間接的になすりつけてしまった。孫綝は、盟友の全公主に裏切られるし、朱公主を殺した罪を孫亮=呉帝から問われるかも知れないし、どうしようもない。


吳主陰與全公主及將軍劉丞謀誅絲林。全後父尚為太常、衛將軍,吳主謂尚子黃門 侍郎紀曰:「孫絲林專勢,輕小於孤。(中略) 卿宣詔卿父,勿令卿母知之;女人既不曉大事,且絲林同堂姊,邂 逅漏洩,誤孤非小也!」紀承詔以告尚。尚無遠慮,以語紀母,母使人密語絲林。

ひそかに孫亮は、全公主とともに、孫綝を殺したい。全公主の父の全尚は、太常、衛将軍である。孫亮は、全尚の子で黄門侍郎する全紀にいう。「孫綝を殺したいが、私は幼少である。全尚と全紀で、孫綝を殺してくれ」と。さらに孫亮はいう。「全紀は、父の全尚にこの話をしても良いが、母には言うな。全紀の母は、孫綝の同堂姉である。全紀の母は、孫綝に作戦をもらすだろう」と。だが全紀は、母に孫亮の作戦を言った。全紀の母から、孫綝に伝わった。

ぼくは思う。孫綝の同堂姉が「母」である、全尚と全紀の家に、孫綝の暗殺を持ちかけるなよ。これは、孫亮による人選が悪いよなあ。全紀は、板挟みにあって、むしろ可哀想。聞きたくもない作戦に、参加させられてしまった。


九月,戊午,絲林夜以兵襲尚,執之,遣弟恩殺劉承於蒼龍門外,比明,遂圍宮。 吳主大怒,上馬帶□建執弓欲出,曰:「孤大皇帝適子,在位已五年,誰敢不從者!」 侍中近臣及乳母共牽攀止之,不得出,歎吒不食,罵全後曰:「爾父憒憒,敗我大事!」 又遣呼紀,紀曰:「臣父奉詔不謹,負上,無面目復見。」因自殺。
絲林使光祿勳孟宗 告太廟,廢吳主為會稽王。召群臣議曰:「少帝荒病昏亂,不可以處大位,承宗廟,已 告先帝廢之。諸君若有不同者,下異議。」皆震怖,曰:「唯將軍令!」絲林遣中書郎 李崇奪吳主璽綬,以吳主罪班告遠近。尚書桓彝不肯署名,絲林怒,殺之。典國施正勸 絲林迎立琅邪王休,絲林從之。己未,絲林使宗正楷與中書郎董朝迎琅邪王於會稽。遣 將軍孫耽送會稽王亮之國,亮時年十六。徙全尚於零陵,尋追殺之,遷全公主於豫章。

9月戊午、孫綝は夜襲して、全尚を捕らえた。明け方、孫亮は宮殿を囲まれた。孫亮は「私は孫権の嫡子、すでに在位5年だ。みんな従え」という。侍中や近臣や乳母が、孫亮に出撃をとめる。孫亮は全皇后を罵った。「お前の父=全尚のせいで、私は失敗した」と。孫亮が全紀を責めたので、全紀は自殺した。 孫綝は、光祿勳の孟宗に太廟へ告げさせ、孫亮を会稽王とした。孫綝は、孫亮から天子の璽綬を奪わせた。瑯邪王の孫休を立てた。

胡三省はいう。建興元年、孫休は丹陽に移った。また会稽に移った。

9月己未、会稽に孫休を迎えにゆく。孫亮を会稽におくる。孫亮は16歳だった。全尚を零陵にうつし、追いかけて殺した。全公主を豫章にうつす。

ぼくは思う。固有名詞をいっぱい省いたけど。ともあれ、孫亮と孫綝が戦って、全氏を経由して秘密が漏れたので、孫亮が負けましたと。代わりに孫休が立った。孫亮は親政して君主権力を確立しようとしたけど、けっきょく外戚の全氏を頼るしかなかった。その全氏は、孫綝とも結びついていた。せまい朝廷と、濃厚な血縁関係のなかで、秘密の戦いをやろうとすることが、そもそも漏洩と背中あわせ。孫呉の中心部は、いちおう孫亮や孫休という皇帝がいるものの、実態は、相互に通婚した一連の人々が、入り乱れて戦っているだけ。『呉書』に本紀があるおかげで、「皇帝と権臣の争い」という体裁には感じられるけれど、『資治通鑑』のように編年にされると、カオスが暴露される。
ぼくは思う。天子なんてのは、本来的に「ごっこ遊び」だ(人類社会の役割分担はみな同じ)。漢魏のように、遊びのルールに従う者が多いと、遊びの虚構性が暴露されにくい。孫峻、孫綝、孫亮、孫休あたりの骨肉の潰しあいを見てると、「天子という遊びの虚構性」が浮かび上がる。このあたりの歴史を「天子による治世の乱れだ、嘆かわしい」とコメントしている者は、丸見えの虚構性から意図的に目を背けて、自分もごっこ遊びの参加者となり、孫呉の虚構に付き合ってあげているのと同じだ。中国古代の歴史家は無意識に参加するのだろうが、ぼくらは意識的に参加して楽しめばいいと思う。


冬、孫綝が孫休を即位させ、丞相となる

冬,十月,戊午,琅邪王行至曲阿,有老公遮王叩頭曰:「事久變生,天下喁喁, 願陛下速行!」王善之。是日,進及布塞亭。孫絲林以琅邪王未至,欲入居富中,召百 官會議,皆惶怖失色,徒唯唯而已。選曹郎虞汜曰:「明公為國伊、周,處將相之任, 擅廢立之威,將上安宗廟,下惠百姓,大小踴躍,自以伊、霍復見。今迎王未至而始入 宮,如是,群下搖蕩,眾聽疑惑,非所以永終忠孝,揚名後世也。」絲林不懌而止。汜, 翻之子也。
絲林命弟恩行丞相事,率百僚以乘輿法駕迎琅邪王於永昌亭。築宮,以武帳為便殿, 設御坐。己卯,王至便殿,止東廂。孫恩奉上璽符,王三讓,乃受。群臣以次奉引,王 就乘輿,百官陪位。絲林以兵千人迎於半野,拜於道側;王下車答拜。即日,御正殿, 大赦,改元永安。孫絲林稱「草莽臣」,詣闕上書,上印綬、節鉞,求避賢路。吳主引 見慰諭,下詔以絲林為丞相、荊州牧,增邑五縣;以恩為御史大夫、衛將軍、中軍督, 封縣侯。孫據、干、闓皆拜將軍,封侯。又以長水校尉張布為輔義將軍,封永康侯。

冬10月戊午、孫亮は曲阿(丹陽県)につく。孫綝は、孫休を迎えに行きたいが、怖くてできない。虞翻の子の虞汜が、孫綝に「伊尹や霍光のように、堂々と廃立を完成させなさい」というが、孫綝はできない。
孫綝は、弟の孫恩に行丞相事させ、孫休を迎えにゆかせる。孫休は三譲して、天子の璽符を受けた。大赦して、永安と改元した。孫綝は印綬と節鉞を返却したが、丞相、荊州牧となり、5県を增邑された。弟の孫恩は、衛將軍、中軍督となり、県侯に封じられた。長水校尉の張布は輔義將軍となり、永康侯に封じられた。

胡三省はいう。はじめ孫休が王のとき、張布は左右督となる。信愛された。孫休が即位すると、寵任された。張布がほしいままに孫皓を立てたのが、亡国の始まりである。宋伯はいう。赤烏8年、烏傷之上浦に、永康県をたてた。東陽郡に属した。


先是,丹楊太守李衡數以事侵琅邪王,其妻習氏諫之,衡不聽。琅邪王上書乞徙他 郡,詔徙會稽。及琅邪王即位,李衡憂懼,謂妻曰:「不用卿言,以至於此。吾欲奔魏, 何如?」妻曰:「不可。君本庶民耳,先帝相拔過重,既數作無禮,而復逆自猜嫌,逃 叛求活,以此北歸,何面目見中國人乎!」衡曰:「計何所出?」妻曰:「琅邪王素好 善慕名,方欲自顯於天下,終不以私嫌殺君明矣。可自囚詣獄,表列前失,顯求受罪。 如此,乃當逆見優饒,非但直活而已。」衡從之。吳主詔曰:「丹楊太守李衡,以往事 之嫌,自拘司敗。夫射鉤、斬祛,在君為君,其遣衡還郡,勿令自疑。」又如威遠將軍, 授以棨戟。

これより先、丹楊太守の李衡は、しばしば孫休を諫めた。妻の習氏が「やめときな」というが、李衡はやめない。孫休は、李衡がうるさいから、他郡に移りたい。会稽郡に移った。孫休が即位すると、李衡は「曹魏に逃げようか」と妻に言ったが、妻は「孫休はそんなにセコくない」と制止した。天子の孫休は、李衡に威遠將軍を加え、棨戟を授けた。

胡三省はいう。妻の習氏の見立てどおりだった。


冬、丁奉と張布が、孫綝を殺す

己丑,吳主封故南陽王和子皓為烏程侯。
群臣奏立皇後、太子,吳主曰:「朕以寡德,奉承洪業,蒞事日淺,恩澤未敷,後 妃之號,嗣子之位,非所急也。」有司固請,吳主不許。
孫絲林奉牛酒詣吳主,吳主不受,□詣左將軍張布。酒酣,出怨言曰:「初廢少主 時,多勸吾自為之者。吾以陛下賢明,故迎之。帝非我不立,今上禮見拒,是與凡臣無 異,當復改圖耳。」布以告吳主,吳主銜之,恐其有變,數加賞賜。戊戌,吳主詔曰: 「大將軍掌中外諸軍事,事統煩多,其加衛將軍、御史大夫恩侍中,與大將軍分省諸 事。」或有告絲林懷怨悔上,欲圖反者,吳主執以付絲林絲林殺之,由是益懼,因孟宗 求出屯武昌;吳主許之。絲林盡敕所督中營精兵萬餘人,皆令裝載,又取武庫兵器,吳 主鹹令給與。絲林求中書兩郎典知荊州諸軍事,主者奏中書不應外出,吳主特聽之。其 所請求,一無違者。
將軍魏邈說吳主曰:「絲林居外,必有變。」武衛士施朔又告絲林謀反。吳主將討 絲林,密問輔義將軍張布,布曰:「左將軍丁奉,雖不能吏書,而計略過人,能斷大 事。」吳主召奉告之,且問以計畫。奉曰:「丞相兄弟支黨甚盛,恐人心不同,不可卒 制;可因臘會有陛兵以誅之。」吳主從之。

10月己丑、孫休は、もと南陽王の孫和の子である、孫皓を烏程侯とする。

孫和が死んでも孫皓が生きたのは、嘉平5年にある。

群臣は皇后と太子を立てたい。孫休は「まだ」と許さず。
孫綝からの牛酒を、孫休が受けなかった。孫休は、左将軍の張布に牛酒を注いだ。孫綝は「私が即位させてやったのに」と怨んだ。張布は孫休に「まずいよ」と教えた。孫休は、孫綝に賞賜を加えた。10月戊戌、孫休は「大将軍は、中外諸軍事を担当するから忙しい。衛将軍、御史大夫の孫恩に侍中を加えて、大将軍とともに仕事を分担せよ」という。

胡三省はいう。大将軍の孫綝の権限を分割した。ぼくは思う。孫恩は、孫綝の弟である。孫休を迎えるとき、行丞相事もした。孫恩に分割しても、あまり孫綝の権限は削がれないんじゃないか?

或る者が「孫綝が孫休を殺す」というから、孫休は孫綝を殺そうと思った。孫綝は懼れて、武昌に出屯した。孫綝は武器と兵備をたっぷり運びたい。孫休は支給した。孫綝は「荊州諸軍事を典知したい。中書に奏し、外出に応じない」と願った。孫休は、孫綝の願いを全て許した。
将軍の魏邈は「孫綝が外にいたら、必ず異変がある」という。孫綝の謀反が報された。ひそかに輔義將軍の張布に問う。張布は答えた。「左將軍の丁奉は、吏書できないが、計略と決断はできる」と。丁奉は「丞相の孫綝と孫恩の兄弟は、支党が多いので、通常の兵では殺せない。天子の階下にいる宿衛の兵なら誅せる」という。孫休は丁奉に任せた。

十二月,丁卯,建業中謠言明會有變,絲林聞之,不悅。夜,大風,發屋揚沙,絲 林益懼。戊辰,臘會,絲林稱疾不至;吳主強起之,使者十餘輩,絲林不得已,將入, 眾止焉。絲林曰:「國家屢有命,不可辭。可豫整兵,令府內起火,因是可得速還。」 遂入,尋而火起,絲林求出,吳主曰:「外兵自多,不足煩丞相也。」絲林起離席,奉、 布目左右縛之。絲林叩頭曰:「願徙交州。」吳主曰:「卿何以不徙滕胤、呂據於交州 乎!」絲林復曰:「願沒為官奴。」吳主曰:「卿何不以胤、據為奴乎!」遂斬之。以 絲林首令其眾曰:「諸與絲林同謀者,皆赦之。」放仗者五千人。孫闓乘船欲降北,追 殺之。夷絲林三族,發孫峻棺,取其印綬,斫其木而埋之。
己巳,吳主以張布為中軍督。改葬諸葛恪、滕胤、呂據等,其罹恪等事遠徒者,一 切召還。朝臣有乞為諸葛恪立碑者,吳主詔曰:「盛夏出軍,士卒傷損,無尺寸之功, 不可謂能;受托孤之任,死於豎子之手,不可謂智。」遂寢。

12月戊辰、孫綝をムリに臘會に連れ出した。建業の府内で火事がおきた。孫綝が出ようとするが、孫休が「丞相を煩わせるまでもない」という。孫休が離席した。張布と丁奉が孫綝を縛った。孫綝が叩頭して「交州に行きたい、ダメなら官奴にされたい」という。孫休は「なぜ孫綝は、滕胤と呂拠を交州に徙さず、殺したのか。どうして滕胤を官奴にせず、殺したのか」と言い、孫綝を斬った。孫綝は夷三族され、孫峻の棺をあばき、印綬をうばって、棺を毀して埋めた。
12月己巳、孫休は、張布を中軍督とした。諸葛恪、滕胤、呂據らを改葬した。遠徒された者は、すべて召還した。諸葛恪の碑を立てたい者がいたが、孫休は「諸葛誕は盛夏に出陣して兵を損なった。功績がなかった。孫権から孤児を託されたのに、孺子に殺された。智者とは言えない」として、碑を許さなかった。

ぼくは思う。あんまり胡三省の注釈がない。ただ読み物として、混沌としていた。司馬光は、よくも登場人物や事件のツジツマがおかしくならないように、これをまとめたなあ。せっかくの司馬光の仕事を、ぼくはだいぶ省略してしまったが。通勤電車で、いちどは目を通したから、読みのときの書き込みはしてある。


姜維が、漢中から漢城と楽城に防衛を下げる

初,漢昭烈留魏延鎮漢中,皆實兵諸圍以御外敵,敵若來攻,使不得入。及興勢之 役,王平捍拒曹爽,皆承此制。及姜維用事,建議以為「錯守諸圍,適可御敵,不獲大 利。不若使聞敵至,諸圍皆斂兵聚谷,退就漢、樂二城,聽敵入平,重關頭鎮守以捍之, 令游軍旁出以伺其虛。敵攻關不克,野無散谷,千里運糧,自然疲乏;引退之日,然後 諸城並出,與游軍並力搏之,此殄敵之術也。」於是漢主令督漢中胡濟卻住漢壽,監軍 王含守樂城,護軍蔣斌守漢城。

はじめ劉備は、魏延を漢中に鎮させた(建安24年)。敵の侵入を防いだ。興勢之役で、王平が曹爽を拒んだ(正始5年)。みな劉備の配置を継承したものだ。姜維が軍事を担当すると、漢城と楽城に防衛を退いた,

胡三省はいう。漢寿と楽城は、諸葛誕が築城した。太和3年にある。

敵を侵入させてから、関所を遮断して疲れさせるよう、作戦を変更する。劉禅は、漢中の胡済を漢寿にゆかせる。監軍の王含を楽城にゆかせる。護軍の蒋斌に漢城を守らせる。121116

胡三省はいう。姜維は、せっかくの険しい要地を棄てた。蜀漢がほろびる原因をつくった。ぼくは思う。この戦略の妥当性については、ぼくの論じられる所ではないなあ。

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甘露四年(己卯,公元259年)

春、曹魏で黄龍が井中にあらわれる

春,正月,黃龍二見寧陵井中。先是,頓丘、冠軍、陽夏進中屢有龍見,群臣以為 吉祥,帝曰:「龍者,君德也,上不在天,下不在田,而數屈於井,非嘉兆也。」作 《潛龍詩》以自諷,司馬昭見而惡之。

春正月、黃龍2匹が、寧陵の井中にあらわれた。これより先に、頓丘、冠軍、陽夏でも、龍が目撃された。

陳寿『三国志』では、前年に青龍が、頓丘、冠軍、陽夏県の井中にいた。寧陵県は、前漢では陳留郡に属し、後漢と曹魏では梁国に属した。頓丘県は、漢代は東郡に属し、魏代では魏郡に属した。冠軍県は、南陽郡に属する。陽嘉県は、漢代は陳国に属し、魏代は梁国に属する。
ぼくは思う。どうしてこんなに、郡県の変遷が目まぐるしい場所ばかりで、龍が現れたのだろう。曹操のときの魏国のあたりということか。

群臣は吉祥としたが、曹髦は「龍は君徳である。天に登らず、耕地にもいない。井戸のなかに屈するとは、悪い兆しだ」と。曹髦は『潛龍詩』をつくり、自らを諷した。司馬昭はこれを知って悪んだ。

胡三省はいう。曹髦は司馬昭を誅する志がある。志が叶わない鬱憤が詩になった。司馬昭にバレてしまって、浅はかだなあ。


夏秋、劉禅が劉諶を封じ、陳祗が死ぬ

夏,六月,京陵穆侯王昶卒。
漢主封其子諶為北地王,恂為新興王,虔為上黨王。尚書令陳祗以巧佞有寵於漢主, 姜維雖位在祗上,而多率眾在外,希親朝政,權任不及祗。秋,八月,丙子,祗卒;漢 主以僕射義陽董厥為尚書令,尚書諸葛瞻為僕射。

夏6月、京陵穆侯の王昶が卒した。
劉禅は、子の劉諶を北地王に、劉恂を新興王に、劉虔を上黨王とした。尚書令の陳祗は、巧佞を以て、漢主に寵あり。姜維は陳祗よりも官位が上だが、兵をひきいて外にいることが多い。姜維は朝政に出られない。権任は、陳祗に及ばない。秋8月丙子、陳祗が卒した。劉禅は、僕射する義陽の董厥を尚書令とした。尚書の諸葛瞻を詔書僕射とした。

冬,十一月,車騎將軍孫壹為婢所殺。
是歲,以王基為征南將軍,都督荊州諸軍事。

冬11月、車騎將軍の孫壹が婢に殺された。

胡三省はいう。孫壹は、2年に曹魏に来降した。

この歲,王基が征南將軍となり、荊州諸軍事を都督する。121116

『晋書』文帝紀によると、ときに荊州には2都督がある。王基は新野に鎮して、州泰は襄陽に鎮する。

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景元元年(庚辰,公元260年)

春,正月,朔,日有食之。

春正月ついたち、日食あり。

夏、司馬昭が曹髦を殺す

夏,四月,詔有司率遵前命,復進大將軍昭位相國,封晉公,加九錫。
帝見威權日去,不勝其忿。五月,己丑,召侍中王沈、尚書王經、散騎常侍王業, 謂曰:「司馬昭之心,路人所知也。吾不能坐受廢辱,今日當與卿自出討之。」王經曰: 「昔魯昭公不忍季氏,敗走失國,為天下笑。今權在其門,為日久矣。朝廷四方皆為之 致死,不顧逆順之理,非一日也。且宿衛空闕,兵甲寡弱,陛下何所資用;而一旦如此, 無乃欲除疾而更深之邪!禍殆不測,宜見重詳。」帝乃出懷中黃素詔投地曰:「行之決 矣!正使死何懼,況不必死邪!」於是入白太后。

夏4月、有司に詔して、前命にしたがい、ふたたび大將軍の司馬昭に、相國と晉公と九錫をあたえる。
曹髦は、威權が日ごとに去る。5月己丑、侍中の王沈、尚書の王經、散騎常侍の王業を召していう。「司馬昭の心は、路人の知る所なり。屈辱に耐えられないから、ともに司馬昭を討とう」と。王経が止めたが、司馬昭は聞かない。曹髦は太后に申し入れた。

沈、業奔走告昭,呼經欲與俱,經不 從。帝遂拔劍升輦,率殿中宿衛蒼頭官僮鼓噪而出。昭弟屯騎校尉人由遇帝於東止車門, 左右呵之,人由眾奔走。中護軍賈充自外入,逆與帝戰於南闕下,帝自用劍。眾欲退, 騎督成人卒弟太子捨人濟問充曰:「事急矣,當雲何?」充曰;「司馬公畜養汝等,正 為今日。今日之事,無所問也!」濟即抽戈前刺帝,殞於車下。昭聞之,大驚,自投於 地。太傅孚奔往,枕帝股而哭,甚哀,曰;「殺陛下者,臣之罪也!」

王沈と王業は、司馬昭につたえた。曹髦が殿中の宿衛をひきいた。司馬昭の弟である、屯騎校尉の司馬伷が、曹髦をとめた。中護軍の賈充が南闕で曹髦と戦った。騎督の成済が、曹髦を殺した。太傅の司馬孚は、曹髦の死体を膝枕させて哀しんだ。「陛下を殺したのは、私の罪です」と。

ぼくは思う。こまかい描写は省く。思うのは、曹髦を止める者、殺す者、悼む者に、やたら司馬氏が登場すること。司馬氏の朝廷だったんだなあ、とつくづく感じる。司馬昭が曹髦を殺したのは事実としても、その前後で「司馬氏にも良心的な人がいた」ことを演出するために、手の込んだ「厚い記述」がなされている。「厚い記述」って、まったく意味と用法がちがうけど。


昭入殿中,召群臣會議。尚書左僕射陳泰不至,昭使其舅尚書荀顗召之,泰曰: 「世之論者以泰方於舅,今舅不如泰也。」子弟內外鹹共逼之,乃入,見昭,悲慟。昭 亦對之泣曰:「玄伯,卿何以處我?」泰曰:「獨有斬賈充,少可以謝天下耳。」昭久 之曰:「卿更思其次。」泰曰:「泰言惟有進於此,不知其次。」昭乃不復更言。顗, 彧之子也。

司馬昭は殿中に入り、群臣を召して会議した。尚書左僕射の陳泰が来ないので、陳泰の舅にあたる尚書の荀顗に召させた。陳泰はいう。「世の論者は、私=陳泰と、舅=荀顗を比べる。いま荀顗は司馬昭にへつらうから、陳泰より劣る」と。血縁者が揃って、陳泰に「司馬昭の召集に応じろ」という。
陳泰は司馬昭に会い、悲慟した。司馬昭は陳泰に「陳泰は私にどうしてほしいか」jと。陳泰は「賈充を斬って天下に謝れ。これ以外に要求はない」という。司馬昭は黙った。荀顗とは荀彧の子である。

『通鑑考異』はいう。『魏氏春秋』はいう。曹髦が崩じると、太傅の司馬孚、尚書右僕射の陳泰は、曹髦をひざまくらして哭した。司馬昭が禁中に入ると、陳泰は悲慟した。司馬昭も泣いた。陳泰は「賈充を斬れ」という。司馬昭が他の対処を質問するが、陳泰は「これ以外にことを言わせるのか(司馬昭に向かって、司馬昭を殺せなんて言えないだろ)」と言って、血を吐いて死んだ」と。裴松之はこれを事実ではないという。いま干宝『晋紀』の記述に基づき、司馬光は本文を書いた。


太后下令,罪狀高貴鄉公,廢為庶人,葬以民禮。收王經及其家屬付廷尉。經謝其 母,母顏色不變,笑而應曰:「人誰不死,正恐不得其所」以此並命,何恨之有!」及 就誅,故吏向雄哭,哀動一市。王沈以功封安平侯。庚寅,太傅孚等上言,請以王禮葬 高貴鄉公,太后許之。使中護軍司馬炎迎燕王宇之子常道鄉公璜於鄴,以為明帝嗣。炎, 昭之子也。
辛卿,群公奏太后自今令書皆稱詔制。 癸卿,司馬昭固讓相國、晉公、九錫之命,太后詔許之。 戊申,昭上言:「成濟兄弟大逆不道。」夷其族。

太后が令を下した。曹髦を庶人として、民礼で葬れと。王經とその家属を廷尉に付けた。

ぼくは補う。王経だけは、曹髦から計画を聞いていたのに、司馬昭に「きちんと」チクらなかった。王沈と王業は、司馬昭に「きちんと」チクった。同族なのに、王経だけが死ぬんだなあ。

王経が母に謝ると、母は「人は死ぬ。ただ死に場所を得ないことを恐れた。よい死に場所である」という。王経が誅され、故吏の向雄が哀動した。王沈は、功績によって安平侯に封じられた。5月庚寅、太傅の司馬孚が上言し、太后から曹髦を王禮で葬ることを許された。中護軍の司馬炎が、燕王の曹宇の子である常道鄉公の曹璜を鄴に迎えにゆく。曹璜が曹叡をつぐ。司馬炎は、司馬昭の子である。

常道郷について胡三省が注釈する。燕国のなか。
ぼくは思う。曹魏の最後の天子・曹奐は、曹叡を嗣いだ。曹芳と曹髦はなかったことにされた。曹奐は曹操の孫だから、曹叡の族弟。曹芳と曹髦を歴史から抹消したわりには、世代が揃わない。どういう理論が用意されたんだろう。
ぼくは思う。260年、曹髦が死んで、曹奐が「曹叡を嗣いだ」。曹叡の死後21年もたつ。この21年は、どういう時代と認識されたんだろう。天子の空位?まさかね。廟の操作で、曹芳と曹髦が「いなかったこと」できても、同時代人が実際に増えた年齢はリセットできない。どういう時間の感覚が「公式に」用意されたのだろうか。

5月辛卯、群公が奏して、太后がみずから令を書いた。詔制とよぶ。

胡三省はいう。群公とは、上公から、三公、従公までである。

5月癸卯、司馬昭は、相國、晉公、九錫之命を拒んでいたが、太后が拒否を許した。戊申、司馬昭は「成濟の兄弟は大逆不道だ」といい、成氏を夷其族した。

六月,癸丑,太后詔常道鄉公更名奐。甲寅,常道鄉公入洛陽,是日,即皇帝位, 年十五,大赦,改元。 丙辰,詔進司馬昭爵位九錫如前,昭固讓,乃止。 癸亥,以尚書左僕射王觀為司空。
吳都尉嚴密建議作浦裡塘,群臣皆以為難;唯衛將軍陳留濮陽興以為可成,遂會諸 軍民就作,功費不可勝數,士卒多死亡,民大愁怨。

6月癸丑、太后は曹璜を曹奐と改名させた。甲寅、曹奐が洛陽に入り、即日に皇帝即位した。15歳。景元と改元して大赦した。

ぼくは思う。司馬炎が曹奐を連れてくるのが、運命の皮肉。もしくは史家のアレンジ。司馬炎が、曹奐に天子をもたらして、曹奐が司馬炎に天子をもたらした。

丙辰、司馬昭に九錫と晋公を勧めたが、司馬昭は受けない。癸亥、尚書左僕射の王觀が司空となる。

冬、孫休が孫亮を殺し、王沈が忠諫をカネで買う

吳都尉嚴密建議作浦裡塘,群臣皆以為難;唯衛將軍陳留濮陽興以為可成,遂會諸 軍民就作,功費不可勝數,士卒多死亡,民大愁怨。
會稽郡謠言王亮當還為天子,而亮宮人告亮使巫禱祠,有惡言,有司以聞。吳主黜 亮為候官侯,遣之國;亮自殺,衛送者皆伏罪。

孫呉の都尉の嚴密は、浦裡塘をつくりたい。

『後漢書』方術伝はいう。浦裡塘は、丹陽郡の宛陵の県界にある。『三国志』濮陽興伝はいう。厳密は、丹陽湖に田をつくろうという。浦裡塘をつくった。

群臣は難しいから反対した。ただ衛將軍する陳留の濮陽興だけが「できる」と考え、作業員をつけた。費用がかかり、作業員が死んだので、民は愁怨した。
会稽郡で「孫亮が天子にもどる」と謠言がある。孫休は、孫亮を候官侯に貶めて、封国に行かせ、自殺させた。

『晋書』地理志はいう。建安郡は、秦代には閩中郡だった。漢高祖は閩越王を封じた。武帝が閩越王を滅ぼして、人口を移住させた。名を東冶とした。後漢は、侯官都尉とした。ぼくは思う。孫策が王朗を追いかけたとき、遠方にポツンと、東冶がある。地続きに開拓したのでなく、秦代から独立勢力の(おそらく城)があり、だから支配拠点となった。

冬,十月,陽鄉肅侯王觀卒。 十一月,詔尊燕王,待以殊禮。 十二月,甲午,以司隸校尉王祥為司空。

冬10月、陽郷肅侯の王觀が卒した。
11月、燕王の曹宇(天子の父)を、殊礼で待遇した。
12月甲午、司隷校尉の王祥が司空となる。

尚書王沈為豫州刺史。初到,下教敕屬城及士民曰:「若有能陳長吏可否,說百姓 所患者,給谷五百斛。若說刺史得失、朝政寬猛者,給谷千斛。」主簿陳廞、褚□入白 曰:「教旨思聞苦言,示以勸賞。竊恐拘介之士或憚賞而不言,貪昧之人將慕利而妄舉。 苛不合宜,賞不虛行,則遠聽者未知當否之所在,徒見言之不用,謂設而不行。愚以告 下之事可小須後。」沈又教曰:「夫興益於上,受分於下,斯乃君子之操,何不言之 有!」褚□復白曰:「堯、舜、周公所以能致忠諫者,以其款誠之心著也。冰炭不言而 冷熱之質自明者,以其有實也。若好忠直,如冰炭之自然,則諤諤之言將不求而自至。 若德不足以配唐、虞,明不足以並周公,實不可以同冰炭,是懸重賞,忠諫之言未可致 也。」沈乃止。

尚書の王沈が豫州刺史となる。着任して、属城および士民にいう。「長吏の可否をいえ。もし百姓を困らせる長吏を教えたら、5百石を与える。もし刺史の得失や朝廷の寛猛にコメントしたら、1千石を与える」と。主簿の陳廞と褚キンは、「意見に報酬をだせば、賢者がだまり、貪昧な人がウソを教える。報酬で釣るな」という。王沈は「上司にとって有益な意見には、報酬をだすべきだ」という。主簿は「堯舜や周公のころ、忠諫する者は、割に合わなくてもコメントした。いま王沈は、堯舜や周公に劣るのに、報酬でコメントを集めようとしたら、忠諫な意見はこない」と。王沈はやめた。121116

ぼくは思う。率直な意見や、善政の実績を、カネで買う。おもしろい発想!王沈は安直に見えるけれど、いま資本主義のもとでは、ふつうに実施されている。「アンケートに答えてくれたら、ポイントつけます」と。これでは、ポイント目当てで、信頼できない回答ばかり集まる。ほんとうにその企業を愛しているなら、利益を省みず、葉書を送るだろう。その対応は、ウザいけど、良品を製造するためには仕方がないかな。ほどほどなら。

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景元二年(辛巳,公元261年)

春、都督荊州の王基が、孫呉のウソ降伏を見ぬく

春,三月,襄陽太守胡烈表言:「吳將鄧由、李光等十八屯同謀歸化,遣使送質任, 欲令郡兵臨江迎拔。」詔王基部分諸軍徑造沮水以迎之。「若由等如期到者,便當因此 震盪江表。」基馳驛遺司馬昭書,說由等可疑之狀。(中略) 既而由等果不降。烈,奮之弟也。

春3月、襄陽太守の胡烈は上表した。「吳將の鄧由、李光らは、18屯で曹魏に降りたい。任子を送るそうだ。郡兵を長江に動かして、降伏者を迎えたい」と。

襄陽県は、漢代は南郡に属した。沈約はいう。曹操が荊州を平定すると、南郡を分けて、南郡の北部と、南陽の山都県とで、襄陽郡をつくった。ぼくは思う。なんの必然性があって、城陽郡を分けたんだろう。長江から南が、呉蜀に取られたから、国境を緻密に管理するためか。

詔して、王基に諸軍の兵をわけて、沮水にゆかせた。王基は、呉将のワナだと考えて、司馬昭に相談した。司馬昭は王基の判断を信じて、進軍を辞めさせた。果たして、呉将のワナだった。胡烈は胡奮の弟である。

ぼくは思う。いろいろ情勢をのべてある。はぶいた。王基は寿春で、司馬昭の正しい戦術を提案している。戦闘における判断をして、司馬昭をバックアップするのが、王基の役回り。はぶいたが、ここに王基と司馬昭の往復書簡の長文があったことは、王基の役回りを印象づける。


冬、董厥と諸葛瞻は、黄皓を矯正できない

秋,八月,甲寅,覆命司馬昭進爵位如前,不受。
冬,十月,漢主以董厥為輔國大將軍,諸葛瞻為都護、衛將軍,共平尚書事,以侍 中樊建為尚書令。時中常侍黃皓用事,厥、瞻皆不能矯正,士大夫多附之,唯建不與皓 往來。
秘書令郤正久在內職,與皓比屋,周旋三十餘年,澹然自守,以書自娛,既不為 皓所愛,亦不為皓所憎,故官不過六百石,而亦不罹其禍。漢主弟甘陵王永憎皓,皓譖 之,使十年不得朝見。

秋8月甲寅、また司馬昭は晋公や九錫をうけず。
冬10月、劉禅は、董厥を輔國大將軍に、諸葛瞻を都護、衛將軍にして、2人で平尚書事させた。侍中の樊建を尚書令とした。ときに中常侍に黄皓が用事する。董厥と諸葛瞻は、黄皓を矯正できない。士大夫は黄皓にへつらう。ただ樊建だけが、黄皓をボイコットした。
秘書令の郤正は、黄皓と家が近く、30年来の付き合いである。黄皓に悪まれて、6百石の官を越えられないが、殺されもしない。劉禅の弟・甘陵王の劉永は、黄皓を憎んだ。黄皓に悪まれ、10年も朝見できない。

吳主使五官中郎將薛珝聘於漢,及還,吳主問漢政得失,對曰: 「主暗而不知其過,臣下容身以求免罪,入其朝不聞直言,經其野民皆菜色。臣聞燕雀 處堂,子母相樂,自以為至安也,突決棟焚,而燕雀怡然不知禍之將及,其是之謂乎!」 珝,綜之子也。

孫休は、五官中郎將の薛珝を蜀漢にゆかせた。孫休が感想をきいた。「君主がバカで過失に気づかない。臣下は免罪を求め、入朝したら直言しない。まるで燕雀が建物の軒先に巣を作って、母子が安楽なことに似ている。建物が燃えているのに、燕雀は気づかない」と。

胡三省はいう。濮陽興と張布が、孫呉で用事している。浦里塘をつくり、民に怨まれる。韋昭や盛沖は、朝廷に活躍の場がない。いま感想を述べた薛珝は、孫呉もまた滅びそうだと思ったが、黙っていた。

薛珝は、薛綜の子である。

拓跋力微の子・沙漠汗が曹魏に入貢する

是歲,鮮卑索頭部大人拓跋力微,始遣其子沙漠汗入貢,因留為質。力微之先世居 北荒,不交南夏。至可汗毛,始強大,統國三十六,大姓九十九。後五世至可汗推寅, 南遷大澤。又七世至可汗鄰,使其兄弟七人及族人乙旃氏、車惃氏分統部眾為十族。鄰 老,以位授其子詰汾,使南遷,遂居匈奴故地。詰汾卒,力微立,復徙居定襄之盛樂, 部眾浸盛,諸部皆畏服之。

この歳、鮮卑の索頭部の大人である拓跋力微が、子の沙漠汗を入貢させて、任子とした。力微の祖先は、北の荒れ地にいた。統率と分裂をくり返して、南の匈奴がいた土地に入った。

ぼくは思う。このあたり、北魏の祖先の話だ。中華書局2459頁に詳しい。ていねいに書き写そうかと思ったけど、疲れたのでやめる。

拓跋力微は、定襄の盛楽(後漢の雲中郡、曹操が新興郡に再編して縮小)に移住した。拓跋氏が強盛なので、ほかの部族が服した。121116

胡三省はいう。鮮卑の軻比能は、曹魏と敵対した。軻比能が死んで、北辺はわりと静かになった。だが拓跋氏が盛んとなり、のちに北魏をつくった。
ぼくは思う。『後漢書』と『三国志』の交ぜ書きから、『三国志』と『晋書』の交ぜ書きになり、さらに『北魏書』まで混ざってくる。『資治通鑑』はこういうところがおもしろい。この記述のトリガーが、拓跋沙漠汗が入貢したこと。これがこの歳の事件。

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