全章
開閉
- 景元三年(壬午,公元262年)
春と夏に記事がない。いきなり秋から。
冬、姜維を閻宇に代えず、濮陽興と張布が執政
秋,八月,乙酉,吳主立皇後硃氏,硃公主之女也。戊子,立子□為太子。
漢大將軍姜維將出軍,右車騎將軍廖化曰:「兵不戢,必自焚,伯約之謂也。智不 出敵而力少於寇,用之無厭,將何以存!」冬,十月,維入寇洮陽,鄧艾與戰於侯和, 破之,維退住沓中。初,維以羈旅依漢,身受重任,興兵累年,功績不立。黃皓用事於 中,與右大將軍閻宇親善,陰欲廢維樹宇。維知之,言於漢主曰:「皓奸巧專恣,將敗 國家,請殺之!」漢主曰:「皓趨走小臣耳,往董允每切齒,吾常恨之,君何足介意!」 維見皓枝附葉連,懼於失言,遜辭而出,漢主敕皓詣維陳謝。維由是自疑懼,返自洮陽, 因求種麥沓中,不敢歸成都。秋8月乙酉、孫休は朱氏を皇后とした。朱公主の娘である。戊子、太子の孫湾を太子とした
ぼくは思う。朱公主は、孫魯育。つまり孫権の娘。孫休は孫権の子。孫休は、めいを皇后にしたのだ。近いなあ。まるで初期の曹氏と夏侯氏のように、ほぼ同族になるくらいに通婚して、結束力を高めようとしている。創業期のようだ。天下に秩序を示す、天子の一族らしくない。レヴィ=ストロースがいうように、女性が贈物であるなら、孫氏は退蔵しまくっている。せっかく朱氏に娘を贈与したのに、それを1世代で返してもらった。ケチだよなあ。
皇太子の名は、ご存知のとおりです。文字が出ない。
大将軍の姜維が出陣しようとすると、右車騎将軍の廖化はいう。「姜維は、兵が戦わなければ、自分の身を焼くという。だが、智恵が曹魏よりも劣り、兵力も曹魏より小さいのに、出陣しても仕方がない」と。
冬10月、姜維は洮陽を寇した。胡三省はいう。洮陽とは、洮水の陽(北)である。洮水の陰(南)には、曹魏は郡県をおかない。だから姜維は、洮水を北渡して攻め込んだ。姜維は、鄧艾を破り、沓中にとどまる。姜維は出兵をくり返すが、功績がない。黄皓が用事し、右大將軍の閻宇と親善する。ひそかに姜維を廃して、閻宇を立てようとした。姜維は抗議したが、劉禅が黄皓を除かないので、洮陽から返ると、沓中にムギを植えた。成都に帰らない。
吳主以濮陽興為丞相,廷尉丁密、光祿勳孟宗為左右御史大夫。初,興為會稽太守, 吳主在會稽,興遇之厚;左將軍張布嘗為會稽王左右督將,故吳主即位,二人皆貴寵用 事;布典宮省,興關軍國,以佞巧更相表裡,吳人失望。孫休は、濮陽興を丞相にして、廷尉の丁密、光祿勳の孟宗を、左右の御史大夫とした。
前漢の成帝の綏和元年、御史大夫をやめて、大司空をおく。光武帝も大司空をおく。献帝の建安13年、司空をやめて、御史大夫にもどす。だが左右に分かれない。けだし孫呉が、御史大夫を左右に分けた。はじめ濮陽興が会稽太守のとき、孫休は会稽にいて、濮陽興と親しかった。左將軍の張布は、かつて孫休が瑯邪王として会稽にいるとき、王府で左右督將だった。ゆえに孫休は、濮陽興と張布をもちいた。張布は宮省を典し、濮陽興は軍國を関した。佞巧で、表ウラがあったので、呉人は失望した。
吳主喜讀書,欲與博士祭酒韋 昭、博士盛沖講論,張布以昭、沖切直,恐其入侍,言己陰過,固諫止之。吳主曰: 「孤之涉學,群書略遍,但欲與昭等講習舊聞,亦何所損!君特當恐昭等道臣下奸慝, 故不欲令入耳。如此之事,孤已自備之,不須昭等然後乃解也。」布惶恐陳謝,且言懼 妨政事。吳主曰:「王務、學業,其流各異,不相妨也。此無所為非,而君以為不宜, 是以孤有所及耳。不圖君今日在事更行此於孤也,良甚不取!」布拜表叩頭。吳主曰: 「聊相開悟耳,何至叩頭乎!如君之忠誠,遠近所知,吾今日之巍巍,皆君之功也。 《詩》雲:『靡不有初,鮮克有終。』終之實難,君其終之!」然吳主恐布疑懼,卒如 布意,廢其講業,不復使昭等入。孫休は読書を喜ぶ。博士祭酒の韋昭、博士の盛沖と議論したい。張布は2人が切直で、政事に介入すると思ったので、孫休に「勉強するな」という。
前漢の五経博士には、僕射が1人いる。後漢は僕射を祭酒とした。胡広はいう。官名の祭酒とは、第一の長官である。古礼で賓客がもてなされるとき、さきに長老が酒を地に祭った。沈約はいう。前漢の呉王の劉ビは、劉氏の祭酒であった。これは祭祀における酒が揺らいで、長者のことである。漢代は侍中がいて、曹魏は散騎常侍のうち功績が高い者に、祭酒の称号をくわえた。孫休はいう。「王務と學業は、妨げあわない」と。『詩』から引用して、学業の必要性を説いた。これを聞いた張布は、叩頭した。孫休は、張布が疑懼しないように、学業をやめてしまった。韋昭らは、孫休のもとに出入しない。
ぼくは思う。孫休は学習の成果を見せたかと思いきや、けっきょくは会稽にいた頃からの腹心を大切にした。まあね、たしかに勉強は好きなだろう。息子の名前をむずかしい漢字にいじくるぐらいだ。だが皇帝権力を確立するためには、旧縁のない韋昭よりも、旧縁がある張布が大切なんだ。濮陽興や張布が、ウラ表があるとは、彼らが不誠実なのでなく、それだけ権限が強いということだ。状況が変われば、結論がかわる。この判断をみずから行使するほど、権限を委譲されている。
なんだか、孫休とその周辺が、ろくに勉強もせず、馴れあって政事をしているように見えるけれど。それが実態で、それで良いのだ。きっと史書は批判的なタッチなんだろうが、これが実態で、当たり前のことなんだ。
竹林の七賢・嵆康が、司馬昭と鍾会に殺さる
譙郡嵇康,文辭壯麗,好言老、莊而尚奇任俠,與陳留阮籍、籍兄子鹹、河內山濤、 河南向秀、琅邪王戎、沛人劉伶特相友善,號竹林七賢。皆崇尚虛無,輕蔑禮法,縱酒 昏酣,遺落世事。
阮籍為步兵校尉,其母卒,籍方與人圍棋,對者求止,籍留與決賭。既而飲酒二鬥, 舉聲一號,吐血數升,毀瘠骨立。居喪,飲酒無異平日。司隸校尉何曾惡之,面質籍於 司馬昭座曰:「卿縱情、背禮、敗俗之人,今忠賢執政、綜核名實,若卿之曹,不可長 也!」因謂昭曰:「公方以孝治天下,而聽阮籍以重哀飲酒食肉於公座,何以訓人!宜 擯之四裔,無令污染華夏。」昭愛籍才,常擁護之。曾,夔之子也。
阮鹹素幸姑婢;姑 將婢去,鹹方對客,遽借客馬而追之,累騎而還。劉伶嗜酒,常乘鹿車,攜一壺酒,使 人荷鍤隨之,曰:「死便埋我。」當時士大夫皆以為賢,爭慕效之,謂之放達。譙郡の嵇康は、老荘をこのむ。陳留の阮籍、阮籍の兄子の阮咸、河內の山濤、河南の向秀、琅邪の王戎、沛人の劉伶と友善して、竹林七賢とよばれる。虚無をとうとび、禮法を軽蔑した。
阮籍が步兵校尉となると、母が死んだ。阮籍は、囲碁をやめない。酒を2斗飲み、血を吐いた。肉がそげ、骨だけで立つ。普段どおり飲酒する。司隸校尉の何曾は、阮籍が服喪しないので悪んだ。司馬昭は、阮籍の悲しみ方に理解をしめした。何曾は、何夔の子である。
阮籍は姑婢と仲が良い。姑婢が去ると、馬で連れ戻した。
劉伶は酒を飲み、作業者をしたがえ「私が死んだら、すぐ埋めろ」という。
鐘會方 有寵於司馬昭,聞嵇康名而造之,康箕踞而鍛,不為之禮。會將去,康曰:「何所聞而 來,何所見而去?」會曰:「聞所聞而來,見所見而去!」遂深銜之。山濤為吏部郎, 舉康自代。康與濤書,自說不堪流俗,而非薄湯、武。昭聞而怒之。康與東平呂安親善, 安兄巽誣安不孝,康為證其不然。會因譖「康嘗欲助毌丘儉,且安、康有盛名於世,而 言論放蕩,害時亂教,宜因此除之。」昭遂殺安及康。康嘗詣隱者汲郡孫登,登曰: 「子才多識寡,難乎免於今之世矣!」鍾会は司馬昭に寵用された。嵆康の名を聞き、鍾会が嵆康を連れにきた。作業中の嵆康に無視をされて、鍾会はムカついた。
山濤は吏部郎となり、嵆康を自分の後任にしようとした。嵆康は山濤に文書をおくって、断った。「私は流俗に堪えられない。殷湯や周武のように薄情ではない」と。司馬昭は怒った。
曹魏の尚書郎は、定員23。吏部はその1つ。鍾会は「嵆康は毋丘倹を助けようとした」とチクった。司馬昭は、嵆康を殺した。
鍾会が関中を督して、蜀漢を伐つ準備
司馬昭患姜維數為寇,官騎路遺求為刺客入蜀,從事中郎荀勖曰:「明公為天下宰, 宜杖正義以伐違貳,而以刺客除賊,非所以刑於四海也。」昭善之。勖,爽之曾孫也。
昭欲大舉伐漢,朝臣多以為不可,獨司隸校尉鐘會勸之。昭諭眾曰:「自定壽春已 來,息役六年,治兵繕甲,以擬二虜。今吳地廣大而下濕,攻之用功差難,不如先定巴 蜀,三年之後,因順流之勢,水陸並進,此滅虢取虞之勢也。計蜀戰士九萬,居守成都 及備他境不下四萬,然則餘眾不過五萬。今絆姜維於沓中,使不得東顧,直指駱谷,出 其空虛之地以襲漢中,以劉禪之暗,而邊城外破,士女內震,其亡可知也。」乃以鐘會 為鎮西將軍,都督關中。征西將軍鄧艾以為蜀未有釁,屢陳異議;昭使主簿師纂為艾司 馬以諭之,艾乃奉命。司馬昭は刺客で姜維を殺したい。從事中郎の荀勖がいう。「司馬昭は天下の宰相だ。正義をたてて逆賊を討伐すべきだ。刺客は、四海の刑でない」と。司馬昭は刺客をやめた。荀勖は荀爽の曽孫である。
ぼくは思う。荀彧の系統は司馬氏にへつらうが、荀爽の系統は、こんな「正しい」人物がいる。べつに父子の性格が似るとは限らないが。荀彧の子たちの行動を見ていると、「果たして荀彧は、漢の忠臣なのか」と疑問が再燃する。けっこう曹操にへつらい、へつらい損ねて最後は死んだんじゃないか。司馬昭は大軍で蜀漢を伐ちたい。みな反対したが、司隷校尉の鍾会だけが賛成した。「諸葛誕を寿春で定めてから、6年も休んだ。孫呉は湿った気候が攻めづらい。まず蜀漢をとり、3年後に上流から攻めれば、孫呉も下せる。姜維は外にいるから、蜀漢を救えない」と。
鍾会を鎮西將軍として、関中を都督させた。征西將軍の鄧艾は、まだ蜀漢を滅ぼすタイミングでないと反対した。司馬昭は、主簿の師纂を鄧艾の司馬につけて、鄧艾を説得した。鄧艾は司馬昭に従った。
姜維表漢主:「聞鐘會治兵關中,欲規進取,宜並遣左右車騎張翼、廖化,督諸軍 分護陽安關口及陰平之橋頭,以防未然。」黃皓信巫鬼,謂敵終不自致,啟漢主寢其事, 群臣莫知。姜維は「鍾会が関中にきた。攻めたい。左車騎将軍の張翼と、右車騎将軍の廖化に、陽平関を守らせたい。また陰平に橋頭に、防御がない」という。黄皓のせいで、この提案は通らず。121116
ぼくは思う。蜀漢が滅亡するという、たった1つの結末にむけて、関係のある情報だけ抜いてるだろ、これ。そう思えるほど、ツジツマがあう。もともと史書が編纂されるとき、かなり整理される。『資治通鑑』はさらにそれを整理するから、ツルツルになる。閉じる
- 景元四年(癸未,公元263年)
春夏、交趾で長官と査察官が殺され、伐蜀が開始
春,二月,覆命司馬昭進爵位如前,又辭不受。
吳交趾太守孫言胥貪暴,為百姓所患;會吳主遣察戰鄧荀至交趾,荀擅調孔爵三十 頭送建業,民憚遠役,因謀作亂。夏,五月,郡吏呂興等殺言胥及荀,遣使來請太守及 兵,九真、日南皆應之。春2月、また司馬昭に晋公を勧めるが、受けず。
孫呉の交趾太守の孫ショは貪暴で、百姓を患わす。孫休は、察戰の鄧荀を交趾につかわす。
裴松之はいう。察戦は、呉官である。戦巷を査察する。鄧荀は、交趾から建業に30人を送ろうとするが、遠路をきらって30人が反乱した。夏5月、郡吏の呂興らが、太守の孫ショと察戰の鄧荀を殺した。九真と日南の太守は、この反乱に応じた。
ぼくは思う。長官がひどいから、査察官がゆくが、査察官もひどいので、長官も査察官も殺された。そして反乱して、周囲の郡を巻きこんだ。おお!最低!
詔諸軍大舉伐漢,遣征西將軍鄧艾督三萬餘人自狄道趣甘松、沓中,以連綴姜維; 雍州刺史諸葛緒督三萬餘人自祁山趣武街橋頭,絕維歸路;鐘會統十餘萬眾分從斜谷、 駱谷、子午谷趣漢中。以廷尉衛瓘持節監艾、會軍事,行鎮西軍司。瓘,覬之子也。
會過幽州刺史王雄之孫戎,問「計將安出?」戎曰:「道家有言,『為而不恃。』 非成功難,保之難也。」或以問參相國軍事平原劉寔曰:「鐘、鄧其平蜀乎?」寔曰: 「破蜀必矣,而皆不還。」客問其故,寔笑而不答。征西將軍の鄧艾は3万余を督して、狄道から甘松、沓中にゆく。姜維とぶつかる。
頻出する地名に、胡三省の注釈がある。はぶく。雍州刺史の諸葛緒は、3万余を督して、祁山から武街、橋頭にゆく。羌路の帰路を絶つ。鐘會は、10余万を分けて、斜谷、駱谷、子午谷から漢中にむかう。廷尉の衛瓘は持節して、鄧艾と鍾会の軍事監する。衛瓘は行鎮西軍司である。衛覬の子である。
胡三省はいう。ときに鍾会は鎮西将軍である。衛瓘は、鄧艾と鍾会を監しつつも、鍾会の軍事を代行した。衛覬は、曹操から曹叡まで仕えた。鍾会は、幽州刺史の王雄の孫・王戎に聞いた。「蜀漢を討伐できるかな」と。王戎はいう。「道家は、なして恃まずという。成功は難しくないが、保持が難しい」と。
或る者が、相國軍事に参ずる平原の劉寔にきく。「鍾会と鄧艾は、蜀漢を平定するかな」と。劉寔はいう。「蜀漢を破るが、どちらも還れない」と。劉寔は笑って理由を答えなかった。
秋、
秋,八月,軍發洛陽,大賚將士,陳師誓眾。將軍鄧敦謂蜀未可討,司馬昭斬以徇。
漢人聞魏兵且至,乃遣廖化將兵詣沓中,為姜維繼援,張翼、董厥等詣陽安關口, 為諸圍外助。大赦,改元炎興。敕諸圍皆不得戰,退保漢、樂二城,城中各有兵五千人。 翼、厥北至陰平,聞諸葛緒將向建威,留住月餘待之。鐘會率諸軍平行至漢中。
九月, 鐘會使前將軍李輔統萬人圍王含於樂城,護軍荀愷圍蔣斌於漢城。會徑過西趣陽安口, 遺人祭諸葛亮墓。秋8月、軍が洛陽を発した。賞賜にたくさん賜与があり、蜀漢の平定を誓った。將軍の鄧敦が「まだ蜀を討てない」というから、司馬昭はこれを斬った。
ぼくは思う。蜀漢を攻めるか決まる前は、議論ができるが。いちど決まったあとは、空気が読めない反対者は「いけにえ」である。孫呉を攻めるときの賈充も「いけにえ」になるべきだった。蜀漢は魏軍がくると聞いて、大赦して炎興と改元した。漢城と樂城に退いて守る。鍾会が漢中に到達した。9月、前將軍の李輔が1万で楽城の王含をかこむ。護軍の荀愷は、漢城の蔣斌をかこむ。鍾会は陽平関にゆき、(沔陽にある) 諸葛亮の墓を祭らせる。
初,漢武興督蔣舒在事無稱,漢朝令人代之,使助將軍傅歛守關口,舒由是恨。鐘 會使護軍胡烈為前鋒,攻關口。舒詭謂歛曰:「今賊至不擊而閉城自守,非良圖也。」 歛曰:「受命保城,惟全為功;今違命出戰,若喪師負國,死無益矣。」舒曰:「子以 保城獲全為功,我以出戰克敵為功,請各行其志。」遂率其眾出。歛謂其戰也,不設備。 舒率其眾迎降胡烈,烈乘虛襲城,歛格鬥而死,歛,肜之子也。鐘會聞關口已下,長驅 而前,大得庫藏積穀。蜀漢の武興(武都の沮県)督の蔣舒は、誰にも評価されない。劉禅は蒋舒を交代させたい。將軍の傅歛が關口を守り、蒋舒を助けさせた。蒋舒は恨んだ。鍾会が護軍の胡烈を前鋒にして、關口を攻めた。蒋舒は傅歛にいう。「城門を閉ざして守るのは良くない」と。傅歛はいう。「命令どおり守るのが良い。出撃したらムダ死にする」と。蒋舒は「でも私は出撃する。それぞれ志どおりやろう」という。傅歛は「命令に違反して出撃すれば、守城の任務を果たせないリスクが高まる」と考えた。
ついに蒋舒は、胡烈を迎え撃つ。胡烈は、蒋舒と傅歛の方針のちがいに乗じて、城をおとした。傅歛は格闘して死んだ。傅歛とは傅肜の子である。鍾会は、關口がおちたと聞き、長駆して庫藏・積穀をえた。
ぼくは思う。評価されない蒋舒が、危機のときに奮起して、名誉を獲得する話かと思った。ちがった。関口の前任者と後任者が対立して、ただでさえ少ない兵力を分散して、胡烈と鍾会に軍資をさしだす話だった。
鄧艾遣天水太守王頎直攻姜維營,隴西太守牽弘邀其前,金城太守楊欣趣甘松。維 聞鐘會諸軍已入漢中,引兵還。欣等追躡於強川口,大戰,維敗走。聞諸葛緒已塞道屯 橋頭,乃從孔函谷入北道,欲出緒後;緒聞之,卻還三十裡。維入北道三十餘里,聞緒 軍卻,尋還,從橋頭還,緒趣截維,較一日不及。維遂還至陰平,合集士眾,欲赴關城; 未到,聞其已破,退趣白水,遇廖化、張翼、董厥等,合兵守劍閣以拒會。
安國元侯高柔卒。鄧艾は、天水太守の王頎に姜維を直攻させた。隴西太守の牽弘が前にいて、金城太守の楊欣は甘松にいく。姜維は、鍾会がすでに漢中に入ったと聞き、兵をかえす。楊欣らは、姜維を追って強川口でやぶる。諸葛緒がすでに橋頭を塞ぐので、姜維は孔函谷から北道に入り、諸葛緒の後ろに出ようとする。諸葛緒が移動して、姜維は1日遅れで追いかける。
姜維は陰平で兵をあわせ、關城にゆく。姜維がつくまえに関城がやぶれた。姜維は白水にゆく。廖化、張翼、董厥とあわさり、剣閣で鍾会をこばむ。
ぼくは思う。姜維、ひとつも有効な戦闘をしてない。戦って負けたのでなく、索敵に失敗して、移動のコストばかり食っている。胡三省が地名をいろいろ注釈してるけど、地図を見ずにこの話を仕方ないので、はぶく。安國元侯の高柔が卒した。
冬、鄧艾が劉禅を降し、行驃騎將軍とする
冬,十月,漢人告急於吳。甲申,吳主使大將軍丁奉督諸軍向壽春;將軍留平就施 績於南郡,議兵所向;將軍丁封、孫異如沔中,以救漢。
詔以征蜀諸將獻捷交至,覆命大將軍昭進位,爵賜一如前詔,昭乃受命。
昭辟任城魏舒為相國參軍。初,舒少時遲鈍質樸,不為鄉親所重,從叔父事部郎衡, 有名當世,亦不知之,使守水碓,每歎曰;「舒堪數百戶長,我願畢矣!」舒亦不以介 意,不為皎厲之事。唯太原王乂謂舒曰:「卿終當為台輔。」常振其匱乏,舒受而不辭。 年四十餘,郡舉上計掾,察孝廉。宗黨以舒無學業,勸令不就,可以為高。舒曰:「若 試而不中,其負在我,安可虛竊不就之高以為己榮乎!」於是自課,百日習一經,因而 對策升第,累遷後將軍鐘毓長史。毓每與參佐射,舒常為畫籌而已;後遇朋人不足,以 舒滿數,舒容範閒雅,發無不中,舉坐愕然,莫有敵者。毓歎而謝曰:「吾之不足以盡 卿才,有如此射矣,豈一事哉!」及為相國參軍,府朝碎務,未嘗見是非;至於廢興大 事,眾人莫能斷者,舒徐為籌之,多出眾議之表。昭深器重之。
癸卯,立皇後卞氏,昭烈將軍秉之孫也。冬10月、蜀漢は孫呉に、緊急をつげる。10月甲申、孫休は、大將軍の丁奉が、諸軍を督して寿春にむかう。將軍の留平は、施績について南郡にゆく。兵を向けるべき場所を議論した。將軍の丁封、孫異は「沔中にゆき、蜀漢をすくえ」という。
胡三省はいう。沔中とは、魏呉の境界である。孫呉は、沔中まで到達できない。孫呉に属する巫県や秭歸は、長江の北にあり、曹魏の新城郡と境界を接する。孫呉から蜀漢にゆくには、巫県や秭歸から、沔中を発して、長江をさかのぼる。曹奐は「諸将が蜀漢に勝利した報告がどんどん届く。司馬昭を大将軍、晋公、九錫にする」という。
司馬昭は、任城の魏舒を辟して、相國の參軍とする。はじめ魏舒は遲鈍で質樸だから、郷里や叔父の吏部郎する魏衡にも評価されず、水碓の見張りをした。魏舒は「数百戸(小邑)の長官にしかなれないか」と歎じた。太原の王乂だけが「魏舒は台輔(三公の補佐)になれる」という。40余歳で孝廉に挙げられたが、儒教の教養がない。100日で1経を学習して、試験に合格した。後将軍の鍾毓の長史となる。魏舒は、投壺の釈算のゲームが上手くて、鍾毓を驚かせた。相国の参軍になる。ぼくは思う。文化資本! 魏舒は、いいネタ!魏舒は、雑務はするが、政治に意見したことがない。だが廃興の大事(魏晋革命) について、だれも意見を言えないとき、魏舒は意見を述べることができた。司馬昭は魏舒を重んじた。
10月癸卯、皇后に卞氏を立てた。昭烈將軍の卞秉の孫である。
ぼくは思う。曹魏の皇后は、最後まで卞氏なのね。後漢の献帝の皇后・伏氏は、光武帝につかえた伏湛の子孫だった。こういうことって、あるんですねえ。
鄧艾進至陰平,簡選精銳,欲與諸葛緒自江油趣成都。緒以本受節度邀姜維,西行 非本詔,遂引軍向白水,與鐘會合。會欲專軍勢,密白緒畏懦不進,檻車征還,軍悉屬 會。
姜維列營守險,會攻之,不能克;糧道險遠,軍食乏,欲引還。鄧艾上言:「賊已 摧折,宜遂乘之。若從陰平由邪徑經漢德陽亭趣涪,出劍閣西百裡,去成都三百餘里, 奇兵沖其腹心,出其不意,劍閣之守必還赴涪,則會方軌而進,劍閣之軍不還,則應涪 之兵寡矣。」遂自陰平行無人之地七百餘里,鑿山通道,造作橋閣。山高谷深,至為艱 險,又糧運將匱,瀕於危殆。艾以氈自裹,推轉而下。將士皆攀木緣崖,魚貫而進。先 登至江油,蜀守將馬邈降。諸葛瞻督諸軍拒艾,至涪,停住不進。尚書郎黃崇,權之子 也,屢勸瞻宜速行據險,無令敵得入平地,瞻猶豫未納;崇再三言之,至於流涕,瞻不 能從。艾遂長驅而前,擊破瞻前鋒,瞻退往綿竹。艾以書誘瞻曰:「若降者,必表為琅 邪王。」瞻怒,斬艾使,列陣以待艾。艾遣子惠唐亭候忠等出其右,司馬師纂等出其左。 忠、纂戰不利,並引還,曰:「賊未可擊!」艾怒曰:「存亡之分,在此一舉,何不可 之有!」叱忠、纂等,將斬之。忠、纂馳還更戰,大破,斬瞻及黃崇。瞻子尚歎曰: 「父子荷國重恩,不早斬黃皓,使敗國殄民,用生何為!」策馬冒陣而死。鄧艾は陰平にすすみ、精鋭をえらぶ。諸葛緒とともに、江油から成都に行きたい。だが諸葛緒は、姜維と戦えという命令を受けており、鄧艾の言うように西に行けば命令違反だから、白水関にゆき鍾会とあわさる。鍾会は、諸葛緒を檻車で送り返し、諸葛緒の軍を自分にあわせた。
鍾会は姜維の防衛をくずせない。鄧艾は、「陰平から德陽亭、涪県にゆき、劍閣の西に出れば成都にゆける」という。鄧艾は、橋をかけ、毛氈で転がり、江油につく。守將の馬邈がくだる。諸葛瞻が鄧艾をふせぐ。尚書郎する黄崇(黄権の子)は、諸葛瞻に「険地で鄧艾の侵入を防げ」と流涕して提案するが、諸葛緒は納れない。
胡三省はいう。黄権は、劉璋に用いられ、劉備が孫呉に破れたとき、長江にいたため、曹魏にくだった。ぼくは思う。黄崇の見通しが正しくて、諸葛瞻は戦局を見誤った。諸葛亮の子なのになあ。もしくは、諸葛亮の子だからか。諸葛瞻が、どういう判断をしたのか推測すると楽しそう。列伝にあるのかな。鄧艾が諸葛瞻の前鋒をやぶり、諸葛瞻は緜竹にひく。鄧艾は諸葛瞻に「降伏したら瑯邪王にする」という。諸葛瞻は鄧艾の使者を斬った。鄧艾は、子の鄧忠を右に、司馬の師纂を左におき、諸葛瞻を攻める。勝てない。「存亡之分は、この一挙にあり」といい、鄧忠と師纂を叱った。諸葛瞻と黄崇を斬った。諸葛瞻の子・諸葛尚は「早く黄皓を斬らないばかりに」と歎じて、敵軍に突入して死んだ。
漢人不意魏兵卒至,不為城守調度;聞艾已入平土,百姓擾擾,皆迸山野,不可禁 制。漢主使群臣會議,或以為蜀之與吳,本為與國,宜可奔吳;或以為南中七郡,阻險 斗絕,易以自守,宜可奔南。光祿大夫譙周以為 (中略)「南 方遠夷之地,平常無所供為,猶數反叛,自丞相亮以兵威逼之,窮乃率從。今若至南, 外當拒敵,內供服御,費用張廣,他無所取,耗損諸夷,其叛必矣!」漢主乃遣侍中張 紹等奉璽綬以降於艾。
北地王諶怒曰:「若理窮力屈,禍敗將及,便當父子君臣背城一 戰,同死社稷,以見先帝可也,奈何降乎!」漢主不聽。是日,諶哭於昭烈之廟,先殺 妻子,而後自殺。蜀漢は、不意に魏兵がきたから、対処できない。群臣は「孫呉にゆこう」「南中7郡に拠ろう」という。光禄大夫の譙周はいう。「南中は、諸葛亮が軍事力で従えただけ。もし南中に逃げても、防戦のために異民族にコストを負担させる。劉禅は異民族に叛かれる」と。
ぼくは思う。蜀漢が何をしてきたのか、簡潔に言い立てた!侍中の張紹らが、天子の璽綬を鄧艾にわたした。北地王の劉諶は、劉備の廟に哭して、自殺した。
張紹等見鄧艾於雒,艾大喜,報書褒納。漢主遣太僕蔣顯別敕姜維使降鐘會,又遣 尚書郎李虎送士民簿於艾,戶二十八萬,口九十四萬,甲士十萬二千,吏四萬人。艾至 成都城北,漢主率太子諸王及群臣六十餘人,面縛輿櫬詣軍門。艾持節解縛焚櫬,延請 相見;檢御將士,無得虜略,綏納降附,使復舊業;輒依鄧禹故事,承製拜漢主禪行驃 騎將軍,太子奉車、諸王駙馬都尉,漢群司各隨高下拜為王官,或領艾官屬;以師纂領 益州刺史,隴西太守牽弘等領蜀中諸郡。艾聞黃皓奸險,收閉,將殺之,皓賂艾左右, 卒以得免。
姜維等聞諸葛瞻敗,未知漢主所向,乃引軍東入於巴。鐘會進軍至涪,遣胡烈等追 維。維至郪,得漢主敕命,乃令兵悉放仗,送節傳於胡烈,自從東道與廖化、張翼、董 厥等同詣會降。將士鹹怒,拔刀斫石。於是諸郡縣圍守皆被漢主敕罷兵降。鍾會厚待姜 維等,皆權還其印綬節蓋。
吳人聞蜀已亡,乃罷丁奉等兵。吳中書丞吳郡華覈詣宮門上 表曰:「伏聞成都不守,臣主播越,社稷傾覆,失委附之土,棄貢獻之國,臣以草芥, 竊懷不寧。陛下聖仁,恩澤遠撫,卒聞如此,必垂哀悼。臣不勝忡悵之情,謹拜表以 聞!」鄧艾は降伏を納れた。太僕の蔣顯が、姜維に「鍾会に降れ」と命じた。尚書郎の李虎が鄧艾に、士民の記録を提出した。28万戸、人口94万、兵士10万2千、吏4万。劉禅は面縛した。鄧艾は承制して、鄧禹の故事により、劉禅を行驃騎將軍,太子奉車とした。諸王を駙馬都尉とした。蜀漢の官僚は、王官もしくは鄧艾の官属になった。
ぼくは思う。鄧艾が自分の部下にしちゃうのか!すげ!天子にせよ長官にせよ、トップとその下という構造は同じ。魏蜀でも同じ。だから、あたかも劉禅の場所に、鄧艾が代わりに滑りこむ。もちろん鄧艾は皇帝ではないが、蜀漢の皇帝と同じ位置にたった。
胡三省はいう。鄧禹が承制して、隗囂に官爵をさずけた故事である。
師纂が益州刺史を領した。隴西太守の牽弘らが、蜀中の諸郡を領した。黄皓は鄧艾の左右に賄賂をおくり、死なずにすんだ。
姜維は、諸葛瞻が敗れたと聞き、劉禅のことが分からないので、東して巴郡にゆく。姜維は、劉禅の勅命をうけ、胡烈に節傳を送った。廖化、張翼、董厥らと、鍾会にくだった。諸郡県の兵は、劉禅の勅により降った。鍾会は姜維を厚遇して、もとの印綬や節蓋を返却した。
孫呉は、蜀漢が滅びたと聞き、丁奉らに撤退させた。孫呉の中書丞する吳郡の華覈は、宮殿までゆき上表した。「同盟国が滅びたのだから、孫呉も危ないよ」と。
胡三省はいう。『左伝』で、楚国が江国をほろぼしたとき、秦伯が警告した。華覈はこれを踏まえた。だが孫休はバカだから、華覈の警告を活かさせなかった。
孫呉の武陵太守・鍾離牧が、夷族を平定
魏之伐蜀也,吳人或謂襄陽張悌曰:「司馬氏得政以來,大難屢作,百姓未服,今 又勞力遠征,敗於不暇,何以能克!」悌曰:「不然。曹操雖功蓋中夏,民畏其威而不 懷其德也。丕、睿承之,刑繁役重,東西驅馳,無有寧歲。司馬懿父子累有大功,除其 煩苛而布其平惠,為之謀主而救其疾苦,民心歸之亦已久矣。(中略) 噫!彼之得志,我之憂也。」吳人笑其言,至是乃服。
蜀漢が滅びると、呉人は襄陽の張悌にいう。「司馬氏が執政してから、百姓が服さない。遠征すれば、曹魏に勝てるのでは」と。張悌はいう。「勝てない。曹操から曹叡まで、刑が繁く、役は重い。司馬懿から司馬昭まで、曹氏の煩苛な政治を是正した。司馬氏が志を得るのを、私は憂うのだ」と。呉人は笑ったが、のちに服した。
ぼくは思う。曹氏の政治のまずさと、司馬氏のウリを端的に表現してある。同時代にも、こういう認識があったのね。中略したところで、「淮南の三叛、曹髦の起兵があっても、司馬氏は揺らがなかった」と言っている。司馬氏がバンザイだなあ。ただし、張悌が特徴的な少数意見だったから、記録されたことに注意。また、司馬氏に都合が良かったから、記録がのこったことに注意。
吳人以武陵五溪夷與蜀接界,蜀亡,懼其叛亂,乃以越騎校尉鐘離牧領武陵太守。 魏已遣漢葭縣長郭純試守武陵太守,率涪陵民入遷陵界,屯於赤沙,誘動諸夷進攻酉陽, 郡中震懼。牧問朝吏曰:「西蜀傾覆,邊境見侵,何以御之?」皆對曰:「今二縣山險, 諸夷阻兵,不可以軍驚擾,驚擾則諸夷盤結;宜以漸安,可遣恩信吏宣教慰勞。」牧曰: 「不然。外境內侵,誑誘人民,當及其根柢未深而撲取之,此救火貴速之勢也。」敕外 趣嚴。撫夷將軍高尚謂牧曰:「昔淵太常督兵五萬,然後討五溪夷。是時劉氏連和,諸 夷率化。今既無往日之援,而郭純已據遷陵,而明府欲以三千兵深入,尚未見其利也。」 牧曰:「非常之事,何得循舊!」即率所領晨夜進道,緣山險行垂二千里,斬惡民懷異 心者魁帥百餘人,及其支黨凡千餘級。純等散走,五溪皆平。孫呉は、武陵の五溪夷が、蜀漢と境界を接するので、五谿蛮がそむくことを懼れた。越騎校尉の鐘離牧に武陵太守を領させた。曹魏はすでに、漢葭縣長の郭純を、試みに武陵太守とした。郭純は、涪陵の民をひきいて、遷陵県に移動させる。郭純は諸夷族をさそい、孫呉のいる酉陽を攻めた。
鍾離牧は朝吏に「どうしよう」と聞く。みな「2県は山が険しいので、戦えない。ゆっくり孫呉に懐かせよう」という。だが鍾離牧は「すぐ攻めるべきだ」という。撫夷将軍の高尚は「むかし(太和五年)、太常の潘濬が五谿夷をなつけた。このときは蜀漢の協力があった。いま郭純が敵対するから、戦っても五谿を懐けられない」という。鍾離牧は「非常時に前例を参照してどうする」といい、夜襲して諸夷族の魁帥1百余人を斬り、郭純を敗走させた。五溪は平らいだ。
ぼくは思う。「平らぐ」というけど、これは孫呉の目線。曹魏の目線では、武陵が支配領域からこぼれた。いや、武陵の人口が、把握の対象からもれた。
ぼくは思う。潘濬の武陵平定は、呉蜀の関係が前提だった。呉蜀は、武陵の山地があるおかげで、自然と国境ができた。地理的には、荊州は、孫呉に属するほうが「自然」である。でもまあ、人間による統治というのは、所与の条件に逆らったことをしてナンボなので、蜀漢が荊州を治めても文句はないけど。関羽が劉備から半独立ぽかったのは、関羽の人格だけでなく、地理的な条件にもよるなあ。
太尉の鄧艾が、司徒の鍾会に敗れる
十二月,庚戌,以司徒鄭沖為太保。 壬子,分益州為梁州。 癸丑,特赦益州士民,復除租稅之半五年。 乙卯,以鄧艾為太尉,增邑二萬戶;鍾會為司徒,增邑萬戶。 皇太后郭氏殂。12月庚戌、司徒の鄭沖が太保となる。壬子、益州を分けて梁州をつくる。
胡三省はいう。益州は、蜀郡、犍為、汶山、漢嘉、江陽、朱提、越巂、ショウ何。梁州は、漢中、梓潼、広漢、涪陵、巴郡、巴西、巴東である。梁とは古名である。癸丑、益州の士民に特赦して、租稅を5年間は半分にする。 乙卯、鄧艾を太尉として、2萬戶を增邑する。鍾会を司徒とし、1萬戶を增邑する。 皇太后の郭氏が殂した。
ぼくは思う。蜀漢が滅びたことも大きいが、明帝の郭太后が死んだのが、もっと大きい。この郭太后の名で、いままで司馬氏が政治をしてきたから。
鄧艾在成都,頗自矜伐,謂蜀士大夫曰:「諸君賴遭艾,故得有今日耳。如遇吳漢 之徒,已殄滅矣。」艾以書言於晉公昭曰:「兵有先聲而後實者,今因平蜀之勢以乘吳, 吳人震恐,席捲之時也。然大舉之後,將士疲勞,不可使用,且徐緩之。留隴右兵二萬 人、蜀兵二萬人,煮鹽興冶,為軍農要用,並作舟船,豫為順流之事。然後發使告以利 害,吳必歸化,可不征而定也。今宜厚劉禪以致孫休,封禪為扶風王,錫其資財,供其 左右,郡有董卓塢,為之宮捨,爵其子為公侯,食郡內縣,以顯歸命之寵;開廣陵、城 陽以待吳人,則畏威懷德,望風而從矣!」
昭使監軍衛瓘諭艾:「事當須報,不宜輒 行。」艾重言曰:「銜命征行,奉指授之策,元惡既服,至於承製拜假,以安初附,謂 合權宜。今蜀舉眾歸命,地盡南海,東接吳、會,宜早鎮定。若待國命,往覆道途,延 引日月。《春秋》之義,『大夫出疆,有可以安社稷、利國家,專之可也。』今吳未賓, 勢與蜀連,不可拘常,以失事機。《兵法》:『進不求名,退不避罪。』艾雖無古人之 節,終不自嫌以損國家計也!」鄧艾は成都でおごった。「もし私ではなく、後漢初の呉漢が成都を征服したら、君たちは殺されていた」と。鄧艾は司馬昭にいう。「蜀攻めで疲れた。すぐに将士を使えない。隴右に2万、蜀郡に2万をおき、塩と鉄を産出し、軍を農につかおう。
胡三省が益州の鉱物をいう。はぶく。中華書局2477頁。船をつくり、孫呉に利害を説けば、孫呉は降伏するはず。劉禅を厚遇して、孫休を釣ろう。劉禅を扶風王に封じて、財産をいあげろ。董卓の郿塢に住ませろ。広陵(徐州)と城陽(青州)あたりで、孫休を住まわせてあげよう」と。
ぼくは思う。扶風王の劉禅。鄧艾は「劉禅を厚遇して扶風王とし、董卓の郿塢に住ませてあげよう。孫休は羨ましくて降伏するはず」という。後漢を破壊した董卓が隠居するための城で、漢室復興に失敗した劉禅が隠居して、董卓の希望を叶える。神話の記号変換の大系として、おもしろい構図。少しズラして一周まわる。
ぼくは思う。「劉禅は雍州の扶風王となり、孫休は徐州の広陵王となる」鄧艾の描いた天下統一後の絵図。呉蜀の領土と同じ方向だが、ちょっと中原に引っこめた場所で飼い殺す。衛瓘は認めないが、キレイな絵図だ。漢代の広陵は、海に開かれた廃城。かつてこの辺りで活躍した孫策を想起して、老後を過ごす孫休。いい!司馬昭は、冠軍の衛尉に「すぐ命令を出すから、ちょっと待て」という。鄧艾は再説した。「私の提案どおり、早く孫呉に対処すべきだ」と。
鐘會內有異志,姜維知之,欲構成擾亂,乃說會曰:「聞君自淮南已來,算無遺策, 晉道克昌,皆君之力。今復定蜀,威德振世,民高其功,主畏其謀,欲以此安歸乎!何 不法陶硃公泛舟絕跡,全功保身邪!」會曰:「君言遠矣,我不能行。且為今之道,或 未盡於此也。」維曰:「其他則君智力之所能,無煩於老夫矣。」由是情好歡甚,出則 同輿,坐則同席,會因鄧艾承製專事,乃與衛瓘密白艾有反狀。會善效人書,於劍閣要 艾章表、白事,皆易其言,令辭指悖傲,多自矜伐;又毀晉公昭報書,手作以疑之。鍾会は異志がある。姜維はこれを知り、協力を申し出た。鍾会は、鄧艾が承制しているので、衛瓘に鄧艾の罪状をつくらせた。鍾会は他人の筆跡をまねられる。鄧艾の章表を書き換えた。軍功をほこり、司馬昭をけなす内容にした。
ぼくは思う。教養があると、こういう作戦もとれる!閉じる
- 鹹熙元年(甲申,公元264年)
春、胡烈と衛瓘が、鍾会と姜維を平定する
春,正月,壬辰,詔以檻車征鄧艾。晉公昭恐艾不從命,敕鐘會進軍成都,又遣賈 充將兵入斜谷。昭自將大軍從帝幸長安,以諸王公皆在鄴,乃以山濤為行軍司馬,鎮鄴。
初,鐘會以才能見任,昭夫人王氏言於昭曰:「會見利忘義,好為事端,寵過必亂, 不可大任。」及會將伐漢,西曹屬邵悌言於晉公曰:「今遣鐘會率十萬餘眾伐蜀,愚謂 令單身無任,不若使餘人行也。」晉公笑曰:「我寧不知此邪!蜀數為邊寇,師老民疲, 我今伐之,如指掌耳,而眾方蜀不可伐。夫人心豫怯則智勇並竭,智勇並竭而強使之, 適所以為敵禽耳。惟鐘會與人意同,今遣會伐蜀,蜀必可滅。滅蜀之後,就如卿慮,何 憂其不能辦邪?夫蜀已破亡,遺民震恐,不足與共圖事;中國將士各自思歸,不肯與同 也。會若作惡,只自滅族耳。卿不須憂此,慎勿使人聞也!」
及晉公將之長安,悌復曰: 「鐘會所統兵五六倍於鄧艾,但可敕會取艾,不須自行。」晉公曰:「卿忘前言邪,而 雲不須行乎?雖然,所言不可宣也。我要自當以信意待人,但人不當負我耳,我豈可先 人生心哉!近日賈護軍問我:『頗疑鐘會不?』還答言:『如今遣卿行,寧可復疑卿 邪?』賈亦無以易我語也。我到長安,則自了矣。」春正月壬辰、鄧艾を檻車でめした。司馬昭は、鄧艾が従わないことを恐れた。鍾会を成都に進軍させ、賈充を斜谷に入れる。司馬昭は長安にゆく。曹魏の諸王公は鄴県にいる。山濤を行軍司馬として、鄴県に鎮させた。
はじめ鍾会は才能によって司馬昭に任じられたが、夫人の王氏は「鍾会は利を見て、恩を忘れる。大任をさせるな」という。鍾会が蜀漢をぬくと、西曹屬の邵悌は司馬昭にいう。「鍾会は単身者なので人質をとれない。蜀漢には余人を行かせろ」と。司馬昭は「鍾会ほどの適任者がいない」という。
ぼくは思う。鍾会は、これまで諸葛亮や姜維の防衛にたずさわらない。むしろ淮南に従軍していた。パッと担当して、サッと蜀漢を降したから立派だ。蜀漢にいく軍の長官に、横から滑ってきて、この地方に関する蓄積がないのに成功するのは、さすが官僚の家。また、姜維と旧縁がないから、協力することになったのだろう。
ぼくは思う。姜維は、天水郡のシタッパだったから、鍾会と付き合えて良かったな!蜀漢に仕えるという経験を通じて、社会的な身分を上昇させたじゃないか。いま司馬昭が長安にゆくとき、張悌はまたいう。「鍾会は鄧艾の5,6倍の兵をもつ。鍾会に鄧艾を捕らえさせろ」と。鍾会はいう。「張悌は前言を忘れたか。鍾会を信頼できない。近日、中護軍の賈充に、鍾会を疑っているかと聞かれた。だから私はこう答えた。いま私は賈充を斜谷に行かせるが、私は賈充も疑ったほうが良いのかと。私は鄧艾と鍾会の問題を、自分で片づける」と。
鐘會遣衛瓘先至成都收鄧艾,會以瓘兵少,欲令艾殺瓘,因以為艾罪。瓘知其意, 然不可得距,乃夜至成都,檄艾所統諸將,稱:「奉詔收艾,其餘一無所問;若來赴官 軍,爵賞如先;敢有不出,誅及三族!」比至雞鳴,悉來赴瓘,唯艾帳內在焉。平旦, 開門,瓘乘使者車,逕入至艾所居;艾尚臥未起,遂執艾父子,置艾於檻車。諸將圖欲 劫艾,整仗趣瓘營;瓘輕出迎之,偽作表草,將申明艾事,諸將信之而止。
丙子,會至成都,送艾赴京師。會所憚惟艾,艾父子既禽,會獨統大眾,威震西土, 遂決意謀反。會欲使姜維將五萬人出斜谷為前驅,會自將大眾隨其後,既至長安,令騎 士從陸道,步兵從水道,順流浮渭入河,以為五日可到孟津,與騎兵會洛陽,一旦天下 可定也。會得晉公書雲:「恐鄧艾或不就征,今遣中護軍賈充將步騎萬人徑入斜谷,屯 樂城,吾自將十萬屯長安,相見在近。」會得書驚,呼所親語之曰:「但取鄧艾,相國 知我獨辦之;今來大重,必覺我異矣,便當速發。事成,可得天下;不成,退保蜀、漢, 不失作劉備也!」鍾会は、衛瓘をさきに成都にゆかせ、鄧艾を捕らえた。鍾会は、衛瓘の兵が少ないから、鄧艾が衛瓘を殺し、罪を犯すことを期待した。衛瓘は鍾会の期待を知るが、こばめない。
胡三省はいう。衛瓘は、鄧艾と鍾会の軍を監した。だからその職分によって、鍾会は衛瓘に、鄧艾を捕らえさせる。ゆえに衛瓘は、この役割を拒否れない。衛瓘は鄧艾の配下の諸将に「鄧艾を捕らえろという詔がある。質問は禁止だ。官軍がこれば、蜀漢を平定した功績はきちんと褒賞される。もし逆らえば、夷三族である」と。諸将は衛瓘についた。鄧艾は朝寝しているところを捕らわれた。衛瓘の軍営が整然としており、鄧艾を奪い返す者はいない。衛瓘は、諸将に偽作した表章を見せて「鄧艾を捕らえる詔はホントだ」とアピった。
ぼくは思う。いちばん冷や冷やしているのは、衛瓘である。監軍って、もっと権限が強くて、執行を保障されていると思いきや。わりに身体を張る。これは、監軍の制度が未整備なのか、鍾会がイジワルしているせいなのか。丙子、鍾会は成都にきて、鄧艾を京師におくった。鍾会は姜維に5万をつけ、斜谷から長安を攻めさせたい。鍾会は後ろをゆく。長安から、水陸で洛陽にゆき、洛陽を定めたい。水軍は長安から5日で孟津にゆき、騎兵と洛陽であわさると。
鍾会は司馬昭の文書を受けとった。「賈充は斜谷から、(諸葛亮が建てた)楽城にゆく。私は長安にいる」と。鍾会はおどろき、「バレた。蜀郡や漢中に退保して、劉備くらいにはなろう」という。
丁丑,會番請護軍、郡守、牙門騎督以上及蜀之故官,為太后發哀於蜀朝堂,矯太 後遺詔,使會起兵廢司馬昭,皆班示坐上人,使下議訖,書版署置,更使所親信代領諸 軍;所請群官,番閉著益州諸曹屋中,城門宮門皆閉,嚴兵圍守。衛瓘詐稱疾篤,出就 外廨。會信之,無所復憚。
姜維欲使會盡殺北來諸將,己因殺會,盡坑魏兵,復立漢主,密書與劉禪曰:「願 陛下忍數日之辱,臣欲使社稷危而復安,日月幽而復明。」會欲從維言誅諸將,猶豫未 決。
會帳下督丘建本屬胡烈,會愛信之。建愍烈獨坐,啟會,使聽內一親兵出取飲食, 諸牙門隨例各內一人。烈紿語親兵及疏與其子淵曰:「丘建密說消息,會已作大坑,白 棓數千,欲悉呼外兵入,人賜白□□,拜散將,以次棓殺,內坑中。」諸牙門親兵亦鹹 說此語,一夜,轉相告,皆遍。己卯,日中,胡淵率其父兵雷鼓出門,(中略) 眾格斬維,爭前殺會。會將士死者數百人,殺漢太子璿及姜維妻子, 軍眾鈔略,死喪狼藉。衛瓘部分諸將,數日乃定。正月丁丑、鍾会は、護軍、郡守、牙門騎督より以上、および蜀漢の故官に、朝堂で郭太后の喪をさせた。郭太后の遺詔だと偽り、司馬昭を廃するため起兵した。
ぼくは思う。郭太后は死んでもなお、名義がつかわれる!鍾会が信任できる人物に、もと蜀軍の長官を代えた。鍾会に協力を求められた蜀漢の群官は、閉門して籠もった。衛瓘も籠もった。
姜維は、鍾会に北来の諸将を殺させ、さらに自分で鍾会を殺し、魏兵を穴埋にして、劉禅を立てたい。「数日の辛抱です」と言ってある。鍾会は曹魏の諸将を殺す決心がつかない。
ぼくは思う。鍾会は、曹魏の諸将を殺せば、権力を握れるが、仲間であった洛陽の官僚を敵に回すし、姜維に殺されるリスクもある。まあ鍾会が諸将を殺さなかったのは、正解なんじゃないか。そのために鍾会が、殺されるんだけど。仕方ない。鍾会の帳下督の丘建は、もとは胡烈に属した。丘建は、もと上官の胡烈が独座するのをあわれみ、親兵と食事させた。胡烈は紿(あざむ)いて、親兵やわが子の胡淵にいう。「鍾会が大穴をつくった。我ら魏兵を埋めるつもりだ」と。己卯の日中、魏兵が混乱した。鍾会と姜維が殺された。鍾会の将士は、数百人が死んだ。劉禅の太子の劉璿や、姜維の妻子は、魏軍に鈔略された。衛瓘が諸将を部して、成都の戦いは数日で定まった。
『通鑑考異』はいう。衛瓘伝では、鍾会が衛瓘を謀議にとどめ、「胡烈らを殺したい」という文書を見せた。衛瓘はこれを許さず、鍾会と衛瓘は対立した。衛瓘が厠所にいくと、胡烈のもと給使がいた。衛瓘は給使に「鍾会がハンする」と教えた。など、記述が異なる。『華陽国志』では、鍾会が諸将に郭太后の喪を発し、司馬昭を誅殺しようと言った。諸将の半数が入ったとき、南安太守の胡烈が謀議を知って、成都の東門を焼き、鍾会と姜維を殺した。いまは『三国志』に従って『資治通鑑』を書いた。
胡三省はいう。『世語』で姜維の死体をバラすと、1斗のキモが出たという。人体には1斗の容量がない。1升と記すべきではないか。ぼくは思う。マジメか?!
@mikirif9 さんはいう。漢末の一斗は今で言う日本の一升とほぼ同じ大きさであった、と陳舜臣さんのエッセイで読んだ覚えがあります。あるいは..?
@goushuouji さんはいう。これは胡注ではなく司馬光『資治通鑑考異』が引用されてる部分なので、これを考証したのは司馬光本人ですw ちなみに「斗」と「升」は崩し字だと非常によく似てるという話は聞いたことがあります。
ぼくはいう。『通鑑考異』からの引用は、「今従魏志」までだと思ってました。『通鑑考異』は、どの史料に依拠するかの結論を述べて終わることが多いような印象があります(あくまで他と比べた印象ですが)。史料のあいだで事実の異同を検討しますが、字句の検討はマレな気がしまして。
@goushuouji さんはいう。確かに私もぱっと見た感じではどこまで『考異』か確信が持てなかったので、CD-ROM版四庫全書所収の『考異』で確認しましたw
ぼくはいう。『通鑑考異』にそれを書く司馬光はマメですが(大筋の事実を取捨しながら、この手の細かい矛盾への気持ち悪さが鬱積したのでしょう)、それを省略せずに引用する胡三省も、マメですね。誇張表現なら、どっちでもいいじゃん、と思ってしまいます。
鄧艾本營將士追出艾於檻車,迎還。衛瓘自以與會共陷艾,恐其為變,乃遣護軍田 續等將兵襲艾,遇於綿竹西,斬艾父子。艾之入江油也,田續不進,艾欲斬續,既而捨 之。及瓘遣續,謂曰:「可以報江油之辱矣。」鎮西長史杜預言於眾曰:「伯玉其不免 乎?身為名士,位望已高,既無德音,又不御下以正,將何以堪其責乎!」瓘聞之,不 候駕而謝預。預,恕之子也。鄧艾餘子在洛陽者悉伏誅。徙其妻及孫於西城。
鐘會兄毓嘗密言於晉公曰:「會挾術難保,不可專任。」及會反,毓已卒,晉公思 鐘繇之勳與毓之賢,特原毓子峻、迪,官爵如故。會功曹向雄收葬會屍,晉公召而責之 曰:「往者王經之死,卿哭於東市而我不問;鐘會躬為叛逆,又輒收葬,若復相容,當 如王法何!」雄曰 (中略) 。晉 公悅,與宴談而遣之。鄧艾の本営の将士は、鍾会の死後、鄧艾を取り戻したい。だが衛瓘は、鄧艾を捕らえたのが自分だから、護軍の田続に鄧艾を追わせ、緜竹で鄧艾を殺した。蜀漢を平定する前、鄧艾が江油に入ったとき、田続は進軍できず、鄧艾に斬られそうになった。だから衛瓘は「江油の辱に報いてこい」という。鎮西長史の杜預はみなにいう。
胡三省はいう。衛瓘は行鎮西将軍である。ゆえに杜預は、鎮西長史である。つまり衛瓘と杜預は同僚である。だが軍事は、衛瓘が権限を持っている。「衛瓘の発言はおかしい。私怨を公務で晴らせなんて」と。衛瓘はこれを聞き、杜預に謝った。杜預は杜恕の子である。鄧艾の余子は、洛陽で誅された。妻と孫を西城(魏興)に徙した。
ぼくは思う。妻子が洛陽にいるのは、例の人質?鍾会の兄は鍾毓である。鍾毓は司馬昭に「鍾会に専任させるな」という。鍾会が反したとき、すでに鍾毓は死んでいた。司馬昭は、鍾繇が関中を定めた功績があるため、鍾毓の子らの官職をもとのままとした。
鍾会の功曹の向雄は、鍾会の死骸を埋葬したい。司馬昭は向雄を責めた。「かつて(景元元年) 王経が死んだら、向雄は東市で哭したが、不問にした。向雄は反逆した鍾会を埋葬したいと言うが、王法に照らしてどうかな」と。向雄の説明に、司馬昭は納得した。
春、司馬昭が晋王に、劉禅が安楽公になる
二月,丙辰,車駕還洛陽。 庚申,葬明元皇後。
初,劉禪使巴東太守襄陽羅憲將兵二千人守永安,聞成都敗,吏民驚擾,憲斬稱成 都亂者一人,百姓乃定。及得禪手敕,乃帥所統臨於都亭三日。吳聞蜀敗,起兵西上, 外托救援,內欲襲憲。憲曰:「本朝傾覆,吳為脣齒,不恤我難而背盟徼利,不義甚矣。 且漢已亡,吳何得久?我寧能為吳降虜乎!」保城繕甲,告誓將士,厲以節義,莫不憤 激。吳人聞鐘、鄧敗,百城無主,有兼蜀之志,而巴東固守,兵不得過,乃使撫軍步協 率眾而西。憲力弱不能御,遣參軍楊宗突圍北出,告急於安東將軍陳騫,又送文武印綬、 任子詣晉公。協攻永安,憲與戰,大破之。吳主怒,復遣鎮軍陸抗等帥眾三萬人增憲之 圍。2月丙辰、車駕は洛陽に還る。
ぼくは思う。これって司馬昭の車駕?曹奐?2月庚申、明元皇後を葬った。
はじめ劉禅は、巴東太守する襄陽の羅憲に兵2千をつけて、永安を守らせる。孫呉が長江を遡ってくると、羅憲は、呉軍を叱った。鍾会と鄧艾が敗れると、孫呉は空き巣にくる。羅憲が巴東をかためて、呉軍は進めない。撫軍将軍の歩協が西した。羅憲は防げないので、参軍の楊宗に北の包囲を突破させ、安東将軍の陳騫に救いを求めた。文武の印綬と任子を司馬昭にわたした。歩協が永安を攻めた、羅憲は守りぬいた。孫休はいかり、鎮軍将軍の陸抗(西陵に鎮す) に3万をつけ、羅憲への包囲を増やした。
三月,丁丑,以司空王祥為太尉,征北將軍何曾為司徒,左僕射荀顗為司空。
己卯,進晉公爵為王,增封十郡。王祥、何曾、荀顗共詣晉王,顗謂祥曰:「相王 尊重,何侯與一朝之臣皆已盡敬,今日便當相率而拜,無所疑也。」祥曰:「相國雖尊, 要是魏之宰相,吾等魏之三公,王、公相去一階而已,安有天子三公可輒拜人者!損魏 朝之望,虧晉王之德,君子愛人以禮,我不為也。」及入,顗遂拜,而祥獨長揖。王謂 祥曰:「今日然後知君見顧之重也!」3月丁丑、司空の王祥が太尉に、征北將軍の何曾が司徒に、左僕射の荀顗が司空となる。
己卯、司馬昭を晋王に進めた。10郡を增封した。
胡三省はいう。甘露3年、晋公ははじめ8郡をもらう。景元3年、同州の弘農と雍州の馮翊をプラスして、10郡となる。いまさらに10郡を増やして、20郡である。三公となった王祥、何曾、荀顗は、ともに司馬昭に詣でる。荀顗が王祥にいう。「晋王の司馬昭は尊い。何曾は魏臣でもっとも尊敬されている。私と王祥が、司馬昭に拝そう=頭を下げよう」と。王祥はいう。「相国の司馬昭は、尊いけれど、曹魏の宰相である。我らは曹魏の三公である。王と公は1段階しか違わない。魏帝がいるのに、三公が司馬昭に拝してしまっては、魏室にも晋室にもケチがつく。私はやらない」と。司馬昭に会うと、荀顗は司馬昭に拝したが、王祥は長揖しただけ。司馬昭は王祥にいう。「王祥の見顧之重を知った」と。
ちゃんと理解せずに書いてます。すみません。
劉禪舉家東遷洛陽,時擾攘倉卒,禪之大臣無從行者,惟秘書令郤正及殿中督汝南 張通捨妻子單身隨禪,禪賴正相導宜適,舉動無闕,乃慨然歎息,恨知正之晚。
初,漢建棕太守霍弋都督南中,聞魏兵至,欲赴成都,劉禪以備敵既定,不聽。成 都不守,弋素服大臨三日。諸將鹹勸弋宜速降,弋曰:「今道路隔塞,未詳主之安危, 去就大故,不可苟也。若魏以禮遇主上,則保境而降不晚也。若萬一危辱,吾將以死拒 之,何論遲速邪!」得禪東遷之問,始率六郡將守上表曰:「臣聞人生在三,事之如一, 惟難所在,則致其命。今臣國敗主附,守死無所,是以委質,不敢有貳。」晉王善之, 拜南中都尉,委以本任。
劉禅は洛陽に移動した。大臣は誰も同行しない。秘書令の郤正と、殿中督する汝南の張通が、妻子を捨てて単身で劉禅にしたがう。
胡三省はいう。姜維、張翼、廖化、董厥は、成都の乱兵のなかで死んでしまった。劉禅は郤正を頼った。郤正の挙動は完璧だった。劉禅は嘆息した。「郤正のことを知るのが遅かった」と。
はじめ劉禅は、建寧太守の霍弋に南中を都督させた。魏兵がきたので成都にゆきたいが、劉禅が「成都の守備は充分だ」と許さず。成都が陥ちると、霍弋は素服で大臨3日した。諸将は霍弋に「曹魏に降伏しろ」という。霍弋は「劉禅の安否が分からない。もし曹魏が劉禅を礼遇したなら、それから降っても遅くない。もし劉禅が危なければ、戦って死ぬ」という。司馬昭は霍弋を善として、南中都尉にした。任務はもとのまま。
丁亥,封劉禪為安樂公,子孫及群臣封侯者五十餘人。晉王與禪宴,為之作故蜀伎, 旁人皆為之感愴,而禪喜笑自若。王謂賈充曰:「人之無情,乃至於是!雖使諸葛亮在, 不能輔之久全,況姜維邪!」他日,王問禪曰:「頗思蜀否?」禪曰:「此間樂,不思 蜀也。」郤正聞之,謂禪曰:「若正後問,宜泣而答:『先人墳墓,遠在岷、蜀,乃心 西悲,無日不思。」因閉其目。」會王復問,祥對如前,王曰:「何乃似郤正語邪!」 禪驚視曰:「誠如尊命。」左右皆笑。3月丁亥、劉禅は安樂(燕国)公に封じられる。子孫と群臣は、50余人が侯爵に封じられる。司馬昭が劉禅と宴会した。蜀楽を演奏しても、劉禅が喜笑する。司馬昭は賈充に「諸葛亮がいても、あの劉禅じゃムリだ。まして姜維じゃ」という。他日、詩ベイそうは「蜀が懐かしくないか」という。劉禅は「ここが楽しい」という。郤正が答えを教え、劉禅がそのとおり答えた。司馬昭に「郤正の言葉と同じだ」と言われると、「そのとおり」と劉禅はいう。左右は笑った。
ぼくは思う。よく「笑」うなあ!良い意味でも悪い意味でも「もう笑うしかない」のだろう。深刻な事態があったら、マジメに対処するのも良いが、ぜんぜん違うものを結びつけて、笑ってしまうのが良い。呪いに対抗する手段とは、茶化して笑うことだし。
夏、司馬昭が五等爵を設置する
夏,四月,新附督王稚浮海入吳句章,略其長吏及男女二百餘口而還。
五月,庚申,晉王奏復五等爵,封騎督以上六百餘人。 甲戌,改元。 癸未,追命舞陽主理侯懿為晉宣王,忠武侯師為景王。
夏4月、新附督の王稚は、海路から孫呉の句章に入る。その地の長吏および男女2百餘口を掠奪して、還る。
胡三省はいう。新附督とは、けだし孫呉に新附した者には、わけて一部として管轄され、督が領したのだろう。句章県は、会稽郡に属する。5月庚申、司馬昭は五等爵を復せと上奏した。騎督以上の6百餘人を封じた。
胡三省はいう。平蜀の功績を賞したのである。周制では、列爵は5等である。公侯は地方1百里、伯は70里、子男は50里である。秦代に五等爵が拝された。漢の列侯は戸数に階差をもうける。建安20年、曹操が名号侯をおいて軍功を賞する。虚封がこれより始まる。いま五等爵を復したが、また虚封である。5月甲戌、咸煕と改元した。5月癸未、舞陽文宣侯の司馬懿を宣王に、忠武侯師の司馬師を景王とした。
ぼくは思う。司馬懿と司馬師の、最終的な爵位が分かって嬉しい。2人の爵位はちがうけど、2人のあいだで継承はないのか? それとも司馬師は、「舞陽忠武侯」が正式な爵位で、省略されている?
秋、羅憲が歩協に勝ち、孫皓が孫休を嗣ぐ
羅憲被攻凡六月,救援不到,城中疾病太半。或說憲棄城走,憲曰:「吾為城主, 百姓所仰。危不能安,急而棄之,君子不為也,畢命於此矣!」陳騫言於晉王,遣荊州 刺史胡烈將步騎二萬攻西陵以救憲。秋,七月,吳師退。晉王使憲因仍舊任,加陵江將 軍,封萬年亭侯。
晉王奏使司空荀顗定禮儀,中護軍賈充正法律,尚書僕射裴秀議官制,太保鄭沖總 而裁焉。
吳分交州置廣州。羅憲は6ヶ月攻められたが、曹魏の陳騫から救援がない。或る者は「城を捨てろ」という。陳騫は司馬昭にたのみ、荊州刺史の胡烈に步騎2万をつけ、西陵を攻めた。
ぼくは思う。西陵は、歩協の根拠地。胡烈は、羅憲の城をそのまま救うのでなく、羅憲を包囲する軍の根拠地を攻めることで、包囲を解かせた。なんとかっていう兵法。秋7月、呉軍がひく。司馬昭は羅憲を旧任のままとし、陵江將軍をくわえ、萬年亭侯とする。
沈約は、曹魏が陵江将軍をおくとする。40号のはじめである。長江の流れを凌駕したい将軍である。呉郡や会稽を平定するための将軍。ぼくは思う。これが40号の第1なのか? はじめにおく必然性がサッパリ見えない。
ぼくは思う。羅憲が陳騫に助けてくれと言ってから、わりとすぐに対応したのだろう。『通鑑』だけ読むと、司馬昭が羅憲を放置していたように見えるが、これは羅憲伝を分割して載せたからだろう。益州は空き家なので、羅憲が破れると、曹魏にとっても困るはずなのだ。羅憲にイジワルしている余裕はない。司馬昭は、司空の荀顗に禮儀を、中護軍の賈充に法律を、尚書僕射の裴秀に官制を検討させて、太保の鄭沖がとりまとめた。
孫呉が、交州をわけて広州をおく。
胡三省はいう。前漢の武帝の元鼎6年、百越をひらいて、交趾州刺史をおく。龍編を治所とする。後漢の建安8年、交州と改める。蒼梧の広信県を治所とする。建安16年、南海の番禺県に治所をうつす。いま2州に分割したので、広州は番禺を州治とし、交州は龍編を治所とした。へえ!
ぼくは思う。交趾が反乱して手が付けられない。だから「せめて支配が届く場所まででも、州として区切ろう」という、後ろ向きな政策である。交州が反乱して、1州を失ったというのは、たとえ事実でも、堪えられない。だから交州から、支配の及ぶ範囲だけを広州として切りとった。
吳主寢疾,口不能言,乃手書呼丞相濮陽興入,令子□出拜之。休把興臂,把□以 托之。癸未,吳主殂,謚曰景帝。群臣尊硃皇後為皇太后。
吳人以蜀初亡,交趾攜叛,國內恐懼,欲得長君。左典軍萬嘗為烏程令,與烏程侯 皓相善,稱「皓才識明斷,長沙桓王之儔也;又加之好學,奉遵法度。」屢言之於丞相 興、左將軍布,興、布說硃太后,欲以皓為嗣。硃後曰:「我寡婦人,安知社稷之慮, 苟吳國無隕,宗廟有賴,可矣。」於是遂迎立皓,改元元興,大赦。孫休が病気で口をきけない。手書で、丞相の濮陽興をよびいれ、太子の孫湾をよぶ。濮陽興の腕をとり、孫湾を指ささせ、孫湾を託した。癸未、孫休は殂した。景帝。群臣は朱皇后を皇太后とする。
胡三省はいう。歳30であった。ぼくは思う。わりに若くない。孫呉は、蜀漢が滅び、交趾が叛き、国内は恐れた。年長の君主がいい。左典軍の万彧は、かつて烏程令となり、烏程侯の孫皓と仲がよい。「孫皓は孫策に似ている」という。これを丞相の濮陽興、左将軍の張布にいう。朱太后に説いて、孫皓を継嗣とした。朱太后は「宗廟のためになるなら、孫皓にする」という。孫皓をむかえ、元興と改元して大赦した。
八月,庚寅,命中撫軍司馬炎副貳相國事。
初,鐘會之伐漢也,辛憲英謂其夫之從子羊祜曰:「會在事縱恣,非持久處下之道, 吾畏其有他志也。」會請其子郎中琇為參軍,憲英憂曰:「他日吾為國憂,今日難至吾 家矣。」琇固請於晉王,王不聽。憲英謂琇曰:「行矣,戒之,軍旅之間,可以濟者, 其惟仁恕乎!」琇竟以全歸。癸巳,詔以琇嘗諫會反,賜爵關內侯。
九月,戊午,以司馬炎為撫軍大將軍。8月庚寅、中撫軍の司馬炎を相国の副官とする。
胡三省はいう。五官将=曹丕の故事である。はじめ鍾会が蜀漢を攻めるとき、辛憲英は、夫の從子・羊祜にいう。「鍾会が他志があるのを畏れる」と。辛憲英の子は、郎中の羊琇である。鍾会は「羊琇を参軍にしたい」という。辛憲英は、羊琇が鍾会に巻きこまれるのを恐れた。羊琇は「鍾会の参軍になりたくない」というが、司馬昭はゆるさず。辛憲英は羊琇に「仁恕によって自軍を救え」という。羊琇の軍は、ぶじ帰れた。癸巳、かつて羊琇が鍾会の反乱を諫めたのため、關內侯を賜る。
9月戊午、司馬炎を撫軍大將軍とする。
辛未,詔以呂興為安南將軍,都督交州諸軍事,以南中監軍霍弋遙領交州刺史,得 以便宜選用長吏。弋表遣建寧爨谷為交趾太守,率牙門董元、毛炅、孟幹、孟通、爨能、 李松、王素等將兵助興。未至,興為其功曹李統所殺。
吳主貶硃太后為景皇後,追謚父和曰文皇帝,尊母何氏為太后。9月辛未、呂興を安南將軍として、交州諸軍事を都督させた。南中監軍の霍弋は、交州刺史を遙領した。長吏を選用する権限をもらう。
ぼくは思う。曹魏は益州を得た。だから、いま孫呉に反乱がおきる交州を、曹魏が平定にきた。すごい!新しい展開! 荊州は孫呉が治めるから、益州の南部から回りこみ、交州を平定するつもりだ。霍弋は上表して、建寧の爨谷を交趾太守として、牙門の董元、毛炅、孟幹、孟通、爨能、李松、王素らをひきいて、都督交州諸軍事の呂興を助けさせる。霍弋の援軍がくる前に、呂興は功曹の李統に殺された。
すごい!曹魏において、四安将軍、都督州軍事のなかで、最弱?孫皓は、朱太后を景皇後に降格した。父の孫和を文皇帝、母の何氏を太后と追謚した。
冬、司馬炎が世子となり、孫皓が濮陽興を殺す
冬,十月,丁亥,詔以壽春所獲吳相國參軍事徐紹為散騎常侍,水曹掾孫彧為給事 黃門侍郎,以使於吳,其家人在此者悉聽自隨,不必使還,以開廣大信。晉王因政書吳 主,諭以禍福。
初,晉王娶王肅之女,生炎及攸,以攸繼景王后。攸性孝友,多材藝,清和平允, 名聞過於炎。晉王愛之,常曰:「天下者,景王之天下也,吾攝居相位,百年之後,大 業宜歸攸。」炎立發委地,手垂過膝,嘗從容問裴秀曰:「人有相否?」因以異相示之。 秀由是歸心。羊琇與炎善,為炎畫策,察時政所宜損益,皆令炎豫記之,以備晉王訪問。 晉王欲以攸為世子,山濤曰:「廢長立少,違禮不祥。」賈充曰:「中撫軍有君人之德, 不可易也。」何曾、裴秀曰:「中撫軍聰明神武,有超世之才,人望既茂,天表如此, 固非人臣之相也。」晉王由是意定,丙午,立炎為世子。冬10月丁亥、曹魏は、壽春でつかまれた、孫呉の相國參軍事の徐紹を散騎常侍とした。孫呉の水曹掾の孫彧を給事黃門侍郎とした。徐紹と孫彧を、孫呉の使者にした。
胡三省はいう。孫呉に相国はいない。丞相参軍事だろう。徐紹と孫彧の家人が孫呉にいるなら、すべてを曹魏に連れて還ることを許した。もし家人が孫呉から曹魏にこなくても、曹魏の度量と威信を示すことができると考えた。司馬昭は孫皓に、禍福をさとした。
ぼくは思う。つまり「新任の皇帝である孫皓は、曹魏というか、晋王に降伏せよ」と。他国の天子が代わったとき、軍事的に攻撃するのが、度量の小さな君主。孫権とか。曹丕も似たようなもの。いま司馬昭は、孫皓に懐の深さを見せた。「徐紹の家人ですら歓迎するなら、孫皓の家人も大歓迎だよ」と言ったのだ。
ぼくは思う。『通鑑』を読んで思った。司馬昭、おもしろい!好きになりそう!重点的に史料をやりたくなってきた。司馬懿はただの有能な高官。司馬師はただの有能な権力者。司馬炎はただの有能な継嗣。しかし司馬昭は、贈与論的な人心の機微を知り尽くした、人類学的な首長。研究してみよう!五等爵も司馬昭だしね。
ぼくは思う。「この人物はこうだ」と演繹的に推測するのと、個別の史料を読み、帰納的に人物像を練り上げてエピソードを膨らますのと。演繹(上から下)と帰納(下から上)は、永久に交わらない。交わらないと知ってもなお、両方を続ける。人物を知るってそんなん。司馬昭に着目する!読むべきものが多くて嬉しい。はじめ司馬昭は、王粛の娘をめとる。司馬炎と司馬攸をうむ。司馬攸は、司馬師をつぐ。司馬攸の名声は、司馬炎にまさる。司馬昭は司馬攸を愛して「天下は司馬師の天下だ。わたしは攝居相位するだけ。百年ののち、大業は司馬攸に帰すのがよい」という。
ぼくは思う。孫権の二宮の変はくだらないけど、司馬炎と司馬攸の話はおもしろそう。やってる次元は同じなのに。自分でもうまく理由を言語化できないが、好き嫌いの問題なのか。ただし比較のためには、二宮の勉強も必要だなあ。史料がおおいけど、ごっそり曲筆されていそうで、おもしろい。永嘉の乱につながる問題だし。かつて司馬炎は、従容として裴秀にきく。「天子になれる顔かな」と。裴秀は司馬炎が異相であると示した。裴秀は司馬炎に心をよせた。
羊琇と司馬炎は仲が良い。司馬炎のために画策した。司馬炎のセリフを羊琇がプロデュースして、司馬昭を訪問した。司馬昭は司馬攸を世子にしたい。山濤が「長男がよい」といい、賈充が「司馬炎には君人の徳がある」という。何曾と裴秀も、司馬炎がいいという。そこで司馬昭は、10月丙午に司馬炎を世子に立てた。
胡三省はいう。司馬炎と司馬攸の対立はここから。
吳主封太子□及其三弟皆為王,立妃滕氏為皇後。
初,吳主之立,發優詔,恤士民,開倉廩,振貧乏,科出宮女以配無妻者,禽獸養 於苑中者皆放之。當時翕然稱為明主。及既得志,粗暴矣盈,多忌諱,好酒色,大小失 望,濮陽興、張布竊悔之。或譖諸吳主,十一月,朔,興、布入朝,吳主執之,徙於廣 州,道殺之,夷三族。以後父滕牧為衛將軍,錄尚書事。牧,胤之族人也。
是歲,罷屯田官。孫皓は、太子の孫湾と3弟を王とした。滕氏の皇后を立てる。
はじめ孫皓は有能な政治家だった。だが奢るようになった。濮陽興と張布は、ひそかに後悔した。11月ついたち、濮陽興と張布はとらわれ、広州に徙され、道中で殺された。夷三族。皇后の父の滕牧を、衛將軍、錄尚書事とする。滕牧は滕胤と同族である。
この歳、屯田の官をやめた。121118
閉じる