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- ラカン『テレヴィジオン』抜粋
はじめに
なぜだか類書に遠回りしていたが、ついに読み始めました。ラカンの翻訳。まずは短い『テレヴィジオン』から。訳書は、フランス語のわかる読者のために、カタカナで原語が書いてあるけれど。ぼくはフランス語がサッパリ分からないので、ぎゃくに読みにくい。というわけで、自分ように日本語のみの抜粋版をつくります。
なぜ『テレヴィジオン』からか。少なくともテレビの視聴者として、ぼくのような人間が相手に想定されて、ラカンがしゃべったから。「どうせ難解すぎて理解できない」のは、ラカンだから仕方がない。しかしラカンは、テレビの前にいる大衆が、この感想を抱くことを予期しながら(しかし決してそれを言明しなかろうが)講義したにちがいない。
「わたしに問いかける者は、わたしを読む術を知っている」
ジャック・ラカン
私はつねに真理を語る
私はつねに真理を語る。真理の全てを語るのでない。なぜなら真理の全てを語るのは、素材的に不可能だから。なぜなら言葉が不足するから。真理が現実界に由来する理由は、「言葉で語り尽くせないから」です。
ぼくが理解しやすいように、ラカンの翻訳の意義をくずさない範囲で、ぼくなりにリライトしてます。なんだか、テンポがわかってきた。私は、真理の全てを語ることに失敗した。「テレビの前にいる白痴に、理解してもらえるように話す」には失敗した。だがテレビの前にいる人々が、白痴でない(少なくとも私の普段の聴講生と同レベル)と想定すれば、私は話し始めることができる。
私が教えている精神分析家は、たとえ私の話を理解しなくても、精神分析家として役割を果たすことがある。テレビの視聴者もまた、私の話が理解できなくても、テレビの視聴者としての役割を果たせるだろう。
私は分析家や視聴者に向けて、話しかけているのでない。私は、分析家や視聴者について話しているのだ。「に向けて」と「について」の違いが、あなたたちに理解できなくても、私がねらった暗示の効果は果たせると思っている。
ただし暗示が意味をもたない場合がある。私の話を聞いた分析家が、彼の欠如を、小文字の他者から得ている場合である。この小文字の他者とは、分析家がパス(認定試験)まで進むことで獲得したものであり、パスは分析家であることを、分析家じしんが自認するためのパスである。
ぼくは思う。パスのくだり、意味不明!虚構としてのパス(認定試験)を、未完成の教育と見なしてもらえるのなら、幸いです。未完成と見なしてもらえれば、希望が残るからです。
無意識、きわめて精確なるもの
フロイトが「無意識」という術語をつかったのは、ほかに適当な言葉がなかったから。「無」という否定型なので、「どこにもない」と同時に「どこにでもある」という意味を含んでしまった。
しかし「無意識」の意味は、きわめて精確です。
語る存在しか、無意識を持っていない。語らない存在は、現実界に留まっている。現実界にいるくせに、名づけられることで存在できる(存在に気づいてもらえる)ものだ。語らず、無意識を持たない存在については、今日はテーマにしない。
無意識とは、話すものである。無意識は話すものであるから、無意識はランガージュに依存する。意識して発せられる言語は、言語学で研究される。無意識のなかの言語を研究するものとして、私は「原言語学」を提唱する。だが「原言語学」は、あまり受容されていない。言語学とは、ララングに携わる科学であるはずだ。
言語学の対象であるララングは、卓越している。なぜ卓越するか。
主体についてのアリストテレス的な概念が、もっとも正当にに、このララングという対象に還元されるから。このことが、魂に対する、もうひとつの主体の外在によって、無意識を制定することを可能にするからだ。
ここにいう魂とは、身体に対する無意識の機能を総計したものとして、いま仮設したものを指します。
なんだか、きゅうに吹っ飛んだ。無意識の主体は、身体を媒介にして、つまり身体に思考を導き入れることによって、初めて魂に触れる。アリストテレスは「魂で考える」というが、私は「身体を媒介にして(魂に触れて)考える」と思う。思考とは、魂と身体の関係性において、外在的な関係しかもたない(思考するとき、魂と身体は混ざりあわない)。
人間は、ランガージュの構造が、身体を切り分けることによって思考する。この構造とは、解剖学とはなんの関係もない。
きゅうに分かりやすくなった!ここに着地してくれるなら、アリストテレスを否定するという、迂回路もガマンした甲斐があった。思考は、魂とは調和しないものだ。ギリシャでは「魂が世界の責任者」という発想があるが、これはひとつの思考を支える幻想にすぎにあ。「魂が世界の責任者」という幻想も、「現実」と言えるかも知れないが、現実界とは違うものだ。現実界に、ちょっと似ているだけだ。
ギリシャ風の象徴界のつくりかたであって、現実界ではない。
治癒とは、身体や思考を病んだ人から発せられる「要求」です。治癒とは欲求であり、医学はその欲求にたいする応答でした。
無意識がフロイトによって発見される前でも、医学は病んだ人を治していた。治療行為がうまくゆくのには、(フロイト等によって)開明される必要はないのです。
無意識が関わっている限り、ランガージュという構造は、2つの側面を持っている。
意味の側面。患者を「性の船」に乗せるために、分析家が意味を浴びせると、皆さんは思っているかも知れない。この意味が無意味に帰着する、つまり性的関係が無意味に帰着するのは、きわめて明白です。
意味のなかには、良識や常識だと思われているものもある。良識は暗示を再現する。喜劇は笑いを再現する。良識と喜劇が相容れないというだけでなく、この2つで充分ということなのか。この「2つで充分か」問題の前に、私たちは行きづまる。精神療法が利益をもたらさないのでなく、精神療法の利益が、最悪の結果を招くのだ。
無意識とは、欲望が姿を現す執拗さ、あるいは欲求の反復である。フロイトが発見した無意識は、この執拗や反復のことだと思います。
つまりララングにおいて、ランガージュを構成していると認められる構造が、もしも無意識を支配している(無意識を気づかせる)なら。無意識が気づかせてくれるのは、意味の側面であるが、これに対してランガージュの研究は、記号の側面を置くということです。
なお意味の側面が、パロールにおいて私たちを魅了しており、このおかげで存在がこのパロールの前に立ちはだかる。
わからん。。どうして(分析家のいう)症候ですら、その私心を与えることがないのか。フロイトが、ヒステリー患者を観察し、夢や言い誤りを、暗号文を解読するように分析するまで、そのような事態(意味と記号の別テーマ化?)は避けられなかった。
フロイトの著書を読めば、これらの問題は、シニフィアンの解読の問題でしかないことが、よく分かるはずだ。すなわち、これらの現象の「1」は、ありのままに分節=言語化されている。ありのままというのは、日常で素直につかわれる、ララングの用法に従っているということです。多義、隠喩、換喩による織物のなかを突き進んで、フロイトはリビドー(流動=霊的神話)を呼びだした。
フロイトを熟読すれば、フロイトは翻訳をしているだけだと分かる。
むかしストア派が唱えたことだが。シニフィアンとシニフィエを区別するだけでよい。そうすれば、等価現象のの外観が把握される。(シニフィアンとシニフィエを区別すれば)フロイトが、等価現象がエネルギー理論の装置を描くことができたことに、納得がゆくはずだ。
言語学をつくるのは、シニフィアンについて思考する努力が必要だ。私は、シーニュ(シニフィアンとシニフィエ)がの側面について、それがシニフィアンによる連合であることを強調するため、テレビでお話しました。しかし、シニフィアンの対が、すでにララングのなかで与えられているという点において、シニフィアンはシーニュとは異なっている。
ララングにおけるシニフィアンの対は、意味の暗号しか提供しない。それぞれの言葉は、文脈に応じて、莫大な意味に広がりをもつ。辞書を調べると、言葉の意味に、統一性のなさや不規則さがあることを確認できる。
構成された文章の、個々の構成要素も同じように、意味が散らかる。
文法がエクリチュールの支え台になっており、ひとつの現実を証言する。しかしこの現実とは、分析において、疑似-性的な原動力が浮上しないかぎり、謎のままです。相手を欺くことしかできないまま、精神病によって自らを刻印している現実界なのです。
現実界は、性的な原動力もしくは言語による隠喩という処理を経ないと、謎のままである。現実界のままであれば、相手をあざむくしかない。処理を経ない現実界は、精神病として現れるしかない。フロイトの言うように、「私は彼を愛さない」という言葉は、反射逆転しながら、その系列のなかで、べつの意味になる。音素から文章にいたるまで、あらゆるシニフィアンが、暗号化されたメッセージの役割を果たす。ゆえに、シニフィアンは対象として解放される。だからこそ、語る存在の世界において、まず「1」がある。まず要素がある。これを成立させているのが、シニフィアンであることが発見される。
知ることとは、一定の隠喩を導くことである。だがフロイトは、「知っていることすべてに、性的な隠喩ができる」とは言わない。症候を成り立たせているのは、シニフィアンの結び目ですが、この結び目を実際に解けるようにするのは、現実界なのです。
「結ぶ」「解く」というのは、隠喩ではない。シニフィアンという素材で鎖をつくることにより、現実に構築される結び目のことを、私は言っている。この鎖とは、「意味の鎖」ではなく、「享受された意味の鎖」だからだ。この用語は、「シニフィアンは多義的に使える」という規則にしたがって、好きな言葉で表せば良いでしょう。
私はこのテレビ番組で、精神分析という正当な手段に、ちまたの流布している混乱とは異なる、ひとつの別の説明を与えたと考えます。
聖人であること
精神科医は、悲惨な患者を引き受けることで、悲惨さを条件づけているディスクールのなかに入ってゆく。 その条件づけを批判しつつも、なかに入ってゆく。
いかなる人であれ、精神医療に携わる者、荷役に専念している者は、協力しなければならない。「協力すべき」と知らなくても、じつは協力している。このディスクールという考え方は、判断を決定しているものに帰着させるためには、好都合であると考え、私(ラカン)に反論しても、それは下手くそである。人は主知主義である。誰が正しいのかを知るのが大切であるので、私に反論しても意味がない。
この悲惨さを、資本家のディスクールに関連づけることで、私はこのディスクールを告発している。私に反撃を許している時点で、この反論の仕方は下手である。
ただし私は、本気で資本家のディスクールを告発できない。なぜなら私が告発すれば、私はそのディスクールを、規範=完璧なものにしてしまう。その結果、私は、私に反論してきたディスクールを、かえって助けてしまう。
私はディスクールという考え方を、無意識の外在の上に立てない。私は、無意識のほうを、ディスクールに外在する限りにおいて、位置づけた。
ヒステリー症者のディスクールのなかでしか、無意識は明確に証明されない。そのゆえに無意識は、ディスクールによって外在する。分析のディスクールにおいても、ディスクールの栽培が行われているが、ディスクールは接ぎ木しか認められない。
ディスクールとは。「書かれたこと」や「言われたこと」といった、言語で表現された内容の総体を意味する概念である。英語では "discourse" が相当し、日本語では意訳して言説(げんせつ)の語を当てることが多い。
無意識は「人がそれを聴いている」ことを必然的に意味します。しかし無意識を外在させるディスクールがなければ、人は無意識を思考・計算・判断できない。ただし、思考・計算・判断されなくても、無意識は働くことができる。これは、理想的な労働者なのです。マルクスは、この理想的な労働者が、主人のディスクールを継承するところを見たいと願った。この労働者を、資本主義の「華」とした。この継承は、予期せぬかたちで実現した。無意識のなせるわざだった。
私が「分析の」というディスクールとは、分析の実践によって決定される、社会的なキズナのことです。そのキズナは、現在では、家族的な「国際協会」に成り下がり、私を追放してしまいましたが。
国際協会は、自分たちを条件づけているディスクールについて、何も知ろうとしない。しかし、だからといって、彼らがディスクールから追放されない。むしろ彼らは、分析家として機能している。国際協会のなかには、自分たちを使って、自分たちを分析している者がいる。
したがって、たとえディスクールの効果が、国際協会に無視されていても、彼らはディスクールを果たしていることになる。彼らは良い慎重さをもっている。いずれにせよ、リスクがあるのは国際協会のほうです(ラカンにリスクはない)。
本題にもどる。精神分析家を客観的に位置づけるなら、「聖人である」と呼ばれた仕方が良い。聖人とは、一生をつうじて、人々に尊敬されるようなことはしない。誰にも気に留められない。聖人は慈悲をほどこさない。クズでありたがる。つまり慈悲を奪う。聖人は、具体化された対象aです。構造が強要していることを実現するため、無意識の主体に、「聖人は私の欲望の原因である」と気づかせるためです。 問題の主体が、構造のなかでの自分の位置をするチャンスは、欲望の原因=聖人を、棄却するときです。聖人には面白くないことだが、こういった聖人の行動に、視聴者は心当たりがあると思う。
全員が、享受されたものに、享楽の意味を見出すはずだ。ただ聖人のみが、享楽の意味を見出さない。聖人は、享楽の残りカスなのです。
聖人は交替することがある。しかしほかの人よりも満足することはない。聖人だった者でも享楽はするが、そのあいだ聖人としては機能しない。
聖人は、配分的正義に興味がないので、報酬を奪いあわない。自分に道徳があるとも思わない。聖人には道徳がないの出なく、自覚がないのだ。周囲の人は、道徳を自覚しない聖人が、どうなってしまうのか心配する。私は聖人にはなれないが、聖人が現れてほしいと思う。
聖人はよく笑う。笑うことが、資本主義的ディスクールの出口です。もし聖人の性質が、ほんの少人数にしか広まらねば、進歩は起きないでしょう。
どうせ分からないから、開き直って、筆写モードに入った。
ラカンの反対者がとる、曖昧な態度
私は「無意識はランガージュ(言語活動)として構造化される」と提唱した。結果、言葉が関わらない者について、どう考えるのかという質問を受けた。情動や欲動について、どうなっているのかと。
「自然エネルギーや生命力が、ダムで利用され、消費される」というなら、粗雑な隠喩です。エネルギーは実体ではないから、利用も消費もされない。
物理学は計算式によって、自然エネルギーを研究した。しかし「計算式が自然エネルギーを実証した」と認められるためは、人々が受け入れる必要がある。これは(物理という科学でなく)精神的経験です。数学だけで記述できるなら、その数式が示したものが孤立しているだけの可能性もある(真理からほど遠い)。
フロイトが1次過程として分節しているものは、暗号化ではなく、暗号の解読です。私は暗号の解読を、享楽そのものだと考える。その場合、享楽はエネルギーだとは認識されない。
フロイトによる、第2の局所論の図式、たとえばニワトリの卵は、女性器である。もし「父」を分析するのなら、卵と性器という図式は、分析を生むだろう。ところで私は、現実的「父」を分析することは除外する。想像的「父」を分析するなら、ノアの外套がより優れている思う。?
私は科学のディスクールと、ヒステリーのディスクールを区別するものについて自問する。ヒステリーの分析において、フロイトの仕事はすごい。なぜならフロイトが発明したのは、思考せず、計算せず、判断もしないことだから。
私は、科学のディスクールと、ヒステリーのディスクールは、同じ構造だと結論する。
ぼくは思う。現実界/象徴界/更なる象徴界、という3層で見たときに。フロイトは、ヒステリー/精神分析/熱力学、という3層を想定した。しかし、物理学や熱力学は3階ではなくて、2階に過ぎませんよと。精神分析と物理学は、同じ階のお隣さんであって、上下関係はない。ラカンは、これを言っているに違いない。フロイトは彼の死後、「無意識を説明できる熱力学が出てくる」と期待した。だがこのフロイトの期待は過ちである。フロイトの死後75年がたつが、そのような熱力学は、出てくる気配がない。
情動も同じだ。ただし、もし情動がランガージュの構造でないなら、反対者たちは情動をどのように説明するのか。アドレナリンが身体の調和を崩したのが、情動だというのか。しかしアドレナリンを分泌させたのは(言語のような構造をもつ)思考である。魂でもない。またそもそも世界に、調和したものなどない。
「とにかく情動があるんだよ」以外のことを、言ってみなさい。
私は、1915年のフロイトの抑圧に関する論文を再現したにすぎない。つまり情動は、(言語活動のように)表象され、置き換えられる。もし私に反対するなら、情動について、もっと上手な説明をしてみなさい。反対者にむけて、神学や哲学を引用しながら、反論がつづく。65頁に飛びます。
反対者は、私のディスクールから身を守るため、曖昧な態度をとる。しかし反対者が、私のいう「欲動」を理解するのは余計なことだ(反対していいよ)。私の11回のセミネールを聴き、なぜ「欲動」を本能と言い換えないのか、フロイトに即して自分なりに理解してみるべきです。
科学の実験というものを構成している「1」によって、位置決めできる定数としてのエネルギーと、確かに享楽ではあるが身体の縁からしか自分の永続性を得ることができない欲動の「衝迫」もしくは「心迫」とのあいだに、違いを感じとってもらえるはずだ。この永続性は、4重の審級のみで構成され、その構成のなかの各々の欲動は、他の3つの欲動と共存することによって維持されている。4つの欲動は、パートナーとなる異性だけでは不充分な人々に対し、潜在的な勢力としてのみ、備えられるべき解離へとみちびく。
サッパリわからん。メガネこわれたし。私は、神経症、倒錯、精神病が、それぞれ区別できるようには、欲動を説明していない。私は別のところで説明した。無意識が自らの足跡をたどりなおすための道(を切り開くための迂回路)以外には、決して従わないように説明した。そこでハンス少年は、フロイトと自分の父親を歩き回らせていた。私がそのことを示して以来、同じところで、分析家たちは恐れを抱いている(から私を排除する)のです。
私たちの享楽の迷い
質問者より。「私たちが享楽できないのは、性に対する抑制があるから。第1に過程、第2に社会、とりわけ資本主義にその責任がある」という。ラカンは、この問題を検討してほしい。
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