表紙 > 読書録 > 大室幹雄『桃源の夢想_古代中国の反劇場都市』

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01章 都市の解体学

地の文は、大室氏をぼくが抜粋したものです。

野人・董卓の死と、都市

初平3年4月、董卓が殺された。董卓の死骸は、へそに芯を刺して燃やされた。食人する時代なので、死体を加工するノウハウがあったのだろう。董卓の死体の陵辱は、驚くべきことだ。王莽の最期も驚くべきことだ。悪において特異を発揮したから、死体を特異に扱われた。
董卓の逸脱は、3世紀から6世紀末にいたる、都市の破壊と再建の過程にながれる、力学をさきどりする。首都の破壊、皇帝の恣意的な廃立、大量の人民虐殺と掠奪、財宝の蓄蔵、要塞化した住居の築造である。
董卓は隴西の人。農耕するシナ人と対立する。034年、光武帝が来歙を羌族と戦わせた。和帝の100年、焼当羌を鎮圧し、降伏した6千人を強制移住させた。漢陽、安定、隴西におく。

董卓は、羌族のために耕牛を殺して「投機」した。董卓は農業経営に従事した。「後帰耕於野」とある。「野」とは何か。都市を中心とするトポグラフィによれば、「城」とよばれた都市の周壁の外部である。耕作地からなる野原である。戦争を「攻城野戦」というように、都市のあいだに広がる野原で攻防した。土地を、城=都市、野=耕作地という指標で感知した。董卓は、都市の外部にいる「野」人だった。野人は、反都市性をもつ。董卓は「土中」洛陽を破壊した。_010

ぼくは思う。やっと出てきました。城と野、都市と耕作地。この二項対立で、しばらく読み解かれます。この二項対立が、どのように変遷するのか(もしくは変遷しないのか)に着目です。


都市・洛陽に守られる天子

長安と比べると、洛陽は『周礼』考工記に述べられた、古代中国の宇宙論的な理念都市に近づいている。張衡「東京賦」は、洛陽を描写する。『礼記』月令篇が要請する世界を、いちおう具現化していた。和帝紀では、月令篇に接近した行事が見られる。

010頁代は、洛陽の詳細が描写されている。転記しないけど、おもしろい。

飢饉でカニバリズムに陥ると、洛陽から校猟して、窮民を救済した。しかし儀礼をやれたのは3代章帝までで、和帝から縮小した。天子の生命力が衰弱した。秩序が混乱した。短命の皇帝がつづき、桓帝と霊帝が儒教の規範を逸脱した。天子は、宇宙論的な世界を象徴した消費=儀礼をやらなくなった。たんなる遊戯で気を紛らわした。

ぼくは思う。消費でも、2つあるらしい。儒教にかない、宇宙論にむすびついた儀礼は、消費には違いないが、秩序をたもつ。桓帝は仏教や音楽を好んだ。儒教にかなわない儀礼は、意味のない消費であり、秩序をこわす。都市で行われるのは、たいてい後者のしょーもない消費である。という話ですね。

皇帝の儀礼がおとろえると、天候不順、イナゴによる飢饉、疫病。反乱勢力、食人。辺境の異民族の反乱。皇帝の生理的、宇宙論的かつ社会的な生命が衰弱したので、統治すべき世界が没落した。_027

なぜ和帝から衰弱した後漢が、1世紀も維持できたか。天子が洛陽に住んでいたからである。物理的にも、心理的にも、高い城壁に囲まれた。官僚機構のなかにいた。聖俗を維持する、特殊な機構に守られた。
官僚機構は、危険な争いをした。争いは、当事者のどれかが完全に撲滅されないかぎり、停止しない。高級官僚、宦官、外戚の竇氏や梁氏などが、皇帝のまわりで輪舞した。

033頁に図がある。皇帝をめぐり、輪を描いてかこむ。陰で内官は宦官、陰で内朝は皇太后、陽で外官は高級官吏、陽で外朝は外戚。この危険な輪舞が、ぐるぐる回るうちは、後漢は存続するという。


ポトラッチで名誉を得る、洛陽周辺の人々

官僚は学者として、言語で勝負した。「八俊」などを形成して、自分たちの優越性を確信した。法や文書による政治をにぎった。儒教をすることが、選挙される要件だった。儒教は、礼の体系だった。父母だけでなく、故吏、門生、友人にも拡張した。桓鸞など。孝や廉で、過剰な演出があった。許武など。_042

礼のコードを過剰にまもるのは、他者からの視線のなかで際立つことを目指すことだから、虚無におちる。礼とは、生産から分離する階層が、固有の過剰な生のエネルギーを、身体演技によって、非生産的な目的(名望という虚無の獲得)に向かって、消費するシステムである。自他を「分異」することが目的である。
他人を凌駕して、より自分が多くの浪費をしたい。絶対的な蕩尽を演じたい。生のエネルギーのポトラッチである。演じる者にも、観る者にも重大事であり、愉しい見世物であるが、それじたいは虚無である。_043
許武の孫・許荊もポトラッチした。復讐もまた、競争的交換にもとづくエネルギーの浪費によって、名誉を獲得・増大できた。復讐は、最高に劇的な演技である。蘇不韋は、父の仇敵に復讐した。親の怨恨を、子が私的にすすぐのは、後漢では厳禁された。しかし、許荊の過剰な演技は評価された。

名望を獲得するには、官の招聘を断ること、経済的に援助することがある。_047
名声があるけれども招聘を断れば、招く者が熱心になる。少なくとも、そのふりをしなければならない。他人に、財貨と金旋を与えるのは、おおいほど名誉である。報いる側も、物質的か精神的に反対給付する。消費は蕩尽へとすすむ。

これら、孝行、廉譲、復讐、辟召拒絶、援助報恩にあらわれる高潔を、存続させる場について、考えるべきである。
蘇不韋には、観客がいた。観客は、風貌、言表、行動、態度を読みとる。
人物を批評する郭泰は、これを読みとる名人だった。郭泰は政争に首を突っこまない。首都の外周で戯れた。人物評価とは、自分に近い者と遠い者を弁別し、党派を形成することである。
許劭の月旦は、遊戯である。遊戯とは、遊びの主体が「消費する者」である。遊びは非生産的で、虚無になる。孔融の言葉あそびも、虚無にむかった。_054
これら遊戯する人々の背後には、実利的な欲望と、実現への努力がある。端的には、名望とは任官に手段だった。選挙されるための手段だった。遊戯する人物は、陳留、汝南、頴川、南陽、江夏である。洛陽に近いので、経済や文化の先進地帯である。太学で学びやすく、私塾がおおい。しかし人口がおおいから、選挙がきびしい。荀淑、陳蕃、李膺、符融たちは、社会的欲求の実現、儒教理念の実現にむけて、結束した。次章、董卓にもどる。

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02章 野人の行動学

名士のナンバリングによる団結

学者-官人集団は、延熹9年に粛正された。歴史書をつくる学者-官人は、自分を粛正する勢力を怨んだ。焚書坑儒や濁流を怨んだ。太学生が、宦官に抗議した。陳蕃や李膺をいただき、言論の分野で抵抗した。太学生を導いてくれる「名士」を賞賛した。
名士をナンバリングした。初めから、3や8という分類があり、そこに当てはめた。ナンバリングの本質は、命名と区分と排除である。世界のうち、諒解可能な部分をきりとり、内部の秩序によって分類する。名士は、敵と友に分類され、友をつよく結びつける。_072

霊帝は、儒教でない文芸を教えて、名士に対抗した。「党人」という政治言語で対抗した。宦官の王甫は、陳蕃の言論に競り負けて、党錮が解けた。以上のような洛陽の輪舞のまわりで、反乱や疫病が全土でおきた。梁鴻は、洛陽の背後で、悲惨がうごめいていることを呪詛の歌で表現した。黄巾の乱が起きた。

反都市の賊、黄巾の張角

反乱者「賊」は、都市の離脱者で、都市を攻撃する。都市は体制権力の結晶だからだ。賊は、山賊と海賊にわかれる。山か海で武力をたくわえ、都市を攻略する。賊には、困窮した農民、体制をはみだした官吏、零落した士人や豪族、都市細民、非漢人がいる。特異な呪術で結びついた。赤眉のように。_079
赤眉は連勝しても、王朝をたてない。腹がふくれれば良かった。都市を陥落させても、継続的に占領しない。王権奪還を明確にめざす光武帝にまけた。赤眉にくらべると、張角は王権奪取を明確にめざした。

大室氏はいう。多田狷介氏によると、後漢の反乱は3段階にわかれる。和帝から順帝まで、関東から黄河下流域。順帝から桓帝まで、関東から長江北、淮水。桓帝から霊帝まで、江南まであふれて原住民もくわわる。147年、陳留の李堅が皇帝を号した。張角はこれらの流れを横目で観察した。

張角には、生活救済という理念・志向があった。霊帝は仏教との混淆を、個人的に遊戯した。いっぽうで張角は、民衆を救済するために、シャーマニズムと混淆した。治療した。張角の信徒は、後漢とは異なる世界をつくった。黄色のターバンは、宇宙論的かつ歴史的な象徴性を表現した。_086
ユダである唐周が出現した。五斗米道は、黄巾のように玉砕しなかった。柔軟で屈折し、曹操や劉備などの世俗権力と戦った。

野人の董卓が、都市を破壊する

董卓は、下賜された品を手許に留めない「健侠」である。董卓は、涼州の反乱にも関わらず愉快なことばかりやる霊帝を、河東で観察した。霊帝は官位を売ったが、価値が下落した。官位の世襲を認めて、値段をさげた。

大室幹雄氏が根拠としてあげるのは、『後漢書』霊帝紀注引『山陽公載記』、『後漢書』皇后紀、宦者列伝、郭杜孔張廉王蘇羊賈陸列伝、崔駰列伝。世襲の記事はどこだろう。官位の世襲って「聞き捨てならない」なあ。おもしろそう!

霊帝の死後、学者-官人の名門である袁紹が、宦官を殺した。董卓が、天子をつかまえて洛陽に入った。董卓は、自由に操作できる象徴がほしくて、廃立をした。世界の中心・洛陽を破壊した。
洛陽を徹底的に破壊したのは、野人としての生の根源に根ざす。董卓の都市破壊は、はじめてでない。陽城の2月の祭りで、殺人をした。反都市=遊牧民の文化に染まって育ってきた。_094
霊帝が「野人」しか使用しないはずの驢馬を乗り回した時点で、董卓に洛陽を破壊される兆候をつくった。霊帝と董卓は呼応した。帝王が驢馬に興ずると、賢者と愚者が転倒し、執政者が驢馬のようになり、後漢の滅亡が準備された。

ツイートした。驢馬を使うのは「野人」のみ。野人とは都市(洛陽などの城)の外部にいる者。霊帝は驢馬を使い、野人・董卓に洛陽を破壊される伏線を張った(大室幹雄氏)。ぼくは思う。驢馬を使えば、反都市=野人ならば、諸葛瑾を用いた孫権も野人だ。彼は諸葛瑾を揶揄し、自分も野人=皇帝の不適格者だと自白した。

霊帝の驢馬が秩序を転倒させたので、都市と周縁のバランスがくずれた。

ぼくは思う。大室氏は「雌鳥が雄鳥に」のような、儒教の秩序がくずれた記述を含めて、これまでの構造が崩れたことをいう。都市の中心に皇帝がいて、その周りに動的な輪舞があり、矛盾をはらみながらも後漢が維持される。霊帝があまりに愚かであり、また輪舞の参加者が脱落していくことで、都市と周縁のバランスがくずれる。周縁からきた野人の董卓が、都市の皇帝を廃立して、都市を破壊する。そういう話。
よく分かるんだけど、儒教における秩序と、都市-周縁という大室氏のモデルを、ぐちゃっ!と結合させて良いのか、ちょっと保留です。


董卓は都市の人間でない。董卓が遷都した長安は、赤眉に破壊された場所である。董卓は長安に住まなかった。長安に城壁がないし、董卓を怨む人がおおい。董卓にとって都市は、危険な場所だった。郿塢をつくった。王允と士孫端が、都市・長安で謀略をねり、長安の流言飛語は董卓の暗殺をほのめかしたが、董卓は感知しなかった。_097
都市が破壊されても、都市的なものは残る。洛陽から移住した人は、都市を再建した。再建の予祝のために、人身供犠が必要だった。だから董卓は殺されて、へそに芯を刺された。
董卓の没後、献帝は曹操に拉致された。宗廟を再建しようとした人々は、殺された。袁術は天子につき、飢饉とカニバリズムをやった。郭泰の言うとおり「天の廃する」後漢は、滅亡した。

ぼくは思う。大室幹雄氏によると、曹操が献帝を拉致し(建安元年)、袁術が皇帝即位した建安二年春、「事実上、後漢帝国は滅亡した」と。郭泰の洞察「天の廃するところは支えるべからず」が成就されたと。大室氏は、時代区分論をやる意図はないかも知れないが、『夢想』100頁にこの記述あり。

仲長統はエッセイで批判した。「都市に人口がいなくなり、哀しいなあ」と。孫呉の胡綜が、呉質にかわって偽作した「降文」でも、都市の人口が減ったと書いてある。洛陽は壊滅し、帝国は滅亡した。しかし、世界そのもの、コスモス、文明圏としての「中国」は、分裂しつつ残存した。121022

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03章 反都市の倫理学

司馬遷が描いた農村のイメージ

賢者は村=都市に住む。都市に英知が集まる。「上林賦」は長安を賛美した。都市は王侯や貴顕が、消費する地である。農村のように自給できない。「選挙」制度を通じて、都市は農村の頭脳を吸い上げる。収奪する。
都市は、狡猾、優雅、汚濁、複雑、永遠の退廃である。農村は、純朴、簡素、清澄、単純、季節ごと日ごとの新生である。都市には悪醜偽があふれ、農村には真善美がある。この農村のイメージが、漢末から隋唐まで喚起力を持った。
司馬遷が前漢の文帝期を叙述した。「鶏が鳴き、狗が吠え、炊事の煙がたなびく」という「和楽」のイメージである。『老子』80篇の小国寡民の情景である。平等な社会の観念である。_109
子供も老人も「市井」にゆかない。市井とは都市である。井戸があり、売買、詐欺、誘惑、窃盗などをする場所。都市は危険である。交換を促進するが、それ以上に欲望を刺激する。土地を買収して商人となり、蕩尽=投機しるリスクがある。_112

ぼくは思う。中沢新一『大阪アースダイバー』では、権力に凝り固まった洪積土(かたい土、台地)と、権力から自由な沖積土(中州など)が対置された。前者は上下関係がきびしく、動かない。後者は上下よりも水平関係で、商業が盛んで、じゆうに人口が移動したと。
いま大室氏は、都市を権力かつ商業の場所にして、農村をこれに対置した。
中沢氏、大室氏とも、空間を2つに分類する。しかし、商業をエネルギッシュにプラスに捉える中沢氏と、商業を蕩尽の場として警戒する大室氏は、見かけ上は結論が異なる。まあ、構造は同じだから、だいたい同じことを言っているのだろうが。


農村は、都市の経済に浸蝕される

じっさいの農村は、司馬遷の理念的イメージと異なる。前漢初、劉邦のときにカニバリズムがあった。賈誼と晁錯が商業を抑制した。農民は、課税と労働で落ち着けない。農村の「野人」は、収奪する都市に対して「反都市」の理念をいだく。董卓が洛陽を破壊した。
支配機構において、太守、県令、丞、尉、有秩、嗇夫、遊徼が、上から下(都市から農村)にかぶさる。下からは三老が上に働きかけるが、上から下が強い。三老は赤眉のとき、反乱をひきいた。_122
湖南省の馬王堆から出土した地図では、山岳や河川を戦術に利用したと分かる。地図には「人なし」「反らず」がある。前者は人口が消滅して、後者は一時的に退避した場所。漢族と非漢族が雑居したこともわかる。_126
実際の農村は、司馬遷のイメージから遠い。農村の宗族は、ポトラッチで名声をえて、都市で俸給生活者になった。陶淵明は、都市に行きながら、農村の懐かしさを詩に読んだ。農村から都市に出つつも、農村に帰る可能性をもつ人が「反都市」のイメージを愛好した。_129

ぼくは思う。媒介者だなあ!どちらか片方に属するだけでは、差異を認識できない。矢野主税氏のように都市に従属しつつも、


農村に残って、経営する者もあった。崔寔『四民月令』の世界である。崔寔は、光禄勲の楊賜、太僕の袁逢、少府の段熲の消費に染まった。都市の蕩尽を、農村に持ちこんだことを批判された。
『四民月令』では、四季に応じた生産活動のほかに、商業の記述がある。名声を得るために財産を蕩尽するな、盗賊に気をつけろ、などの記述がある。自然だけでなく、社会的かつ経済的原理からの発想がある。価格が高騰する作物をつくれという指導がある。
「産業」家で代表的なのは、後漢初の樊重。光武帝と通婚した。新野の陰氏も、産業と通婚をやり、都市貴族に上昇した。_140
奴隷は人口の1%しかおらず、高額だった。崔寔は、小作民をつかい、穀物をつくる。紡織で儲けた。『四民月令』には零細農民がおおく登場する。博徒に転落するしかなかった。_148

干害、水害、戦乱により、市場経済の秩序が崩れると、まっさきに小農民の生活が破綻した。妻子を売り、自身を売り、移住するか流浪した。ついに反乱した。破壊するためにエネルギーをつかう。史料において、天下が飢饉になることと、群盗が現れることは、接続詞の必要もないほど自明のことである。穀物は高騰する。_151
李傕と郭汜のいる長安では、掠奪と食人をやった。袁術と曹操が戦った江淮で、食人をやった。曹操と呂布の戦った兗州、公孫瓚のいる幽州で飢饉が起きた。イナゴがきた。

頻発するカニバリズム

人間が人間を食うことが、人間が植物やほかの動物を食うことと、区別されなくなった。食人は複雑なことでない。カニバリズムは、中国で頻発した。八王の乱のとき、張方が攻めた洛陽で食人があった。公孫淵は司馬懿に囲まれて、食人をやった。臧洪の食人はほめられた。

食人は、都市だけでなく農村にも起こる。献帝のとき、長安の郊外で、鮑出の一家は食べられそうになった。彭城の劉平は、食べられそうになった。「義」を見せつけて、食べられずにすんだ。沛国の趙孝は弟が食べられそうになった。など、食人はおおい。儒教の「孝」「悌」「義」を見せることで、食べられずにすむが、儒教は食人を否定しない。食物と非食物の境界線がゆるかった。
食べられそうになり、過激な儒教的行動をとり(ポトラッチ)名声を得ることがあった。_163
西晋末から隋唐まで、食人の例はおおい。なぜか。まず天候不順である。農村の食糧がへり、市場経済に影響し、穀物の価格があがり、皇帝の奢侈があり、戦乱がおき、馬が人を生むような超自然現象がおき、盗賊や妖賊がでて、疫病や流民があり、餓死する。このなかで生き残るために、食人をやる。

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04章 流民と匪賊の生態学

天に二日なく、土に二王なし

董卓が洛陽を破壊して、天下の中心がなくなった。皇帝の存在は、宇宙論的かつ歴史的に、二重の呪力を天下に放射した。「天に二日なく、土に二王なし」という哲学的な観念がある。天下の中心がなくなっても、この観念は維持された。
たとえば、諸葛恪は、この観念を実現するために、むりな北伐をした。劉備の死後、鄧芝はこの観念を孫権の前で語った。益州の雍闓は「中国に三王がいる」と、諸葛亮をからかった。_178
天子について観念があるが、これを実現するのは経済力である。劉禅や孫亮などの子供が、天子として実効支配できるはずがない。しかし、観念と呪力を強調した。「中国人は現実的である」という日本人による思いこみは誤りである。空論に違いないが、歩隲、張角、袁術らは天子の理論を主張した。_184

城郭=都市を去り、山にいく人々

世界の中心が喪失すると、都市だけでなく、農村も混乱する。統率者がいないと、群盗や盗賊となる。カニバリズムをする匪賊となる。
いっぽうで混乱は、ロシア帝国が崩壊したときと同じく「自由」をもたらす。曹操は自由を喜んだ。民衆は「城郭を去る」を選んだ。前漢の哀帝のとき、鮑宣がいう。成帝のとき、翟方進は「皇帝が悪政をするから、盗賊がおおい」という。城郭がカラッポになる。馬王堆の「反らず」となる。東晋の孝武帝のときも、城郭を捨てる者がある。後漢末の李敏もにげた。厳白虎は「処々に屯聚して」孫策から逃げた。黒山や白波などは、逃げて山にこもった。孫策の死後、「群盗は山に満ち」た。_193

城郭と対立するのは、山である。城郭は顕在意識、山は潜在意識の領域である。都市が共工すると、山ににげこむ。黄巾のとき、程昱のまわりで民衆や山に逃げた。毋丘倹と文欽が敗れると、寿春の住民は山ににげた。後漢の順帝のとき、広陵の張嬰は、平地に要塞を築いたが、これは官僚の統治に耐えられないから。張嬰と同じ土地に、莽新末に呂母がいたが、呪術的な力をもつ。_204
文化、意識、都市。潜在意識、集合無意識、山地、要塞。後者は、前者を掠奪した。しかし後者は、前者が官権による軍隊を形成すると、勝てなかった。匪賊の戦闘は弱かった。

ぼくは思う。中沢『大阪アースダイバー』で、大阪の都市民が、つねに政治権力に負けるから「負けるが勝ちや」という詭弁のような価値観を身につけたのと似ている。政治権力と対置されるほうは、秩序を破壊するパワーがあると思いきや、秩序に敗北して吸収されてしまうという。


山地の匪賊は、儒教のコードを守る

張嬰を帰順させた張綱は、反乱の原因が後漢にもあることを知っていたから、張嬰を帰順させることができた。同じように、劉備は、馬秦を帰順させて、民籍にもどした。孫呉の山越も同じである。_208
山地の匪賊とは、平地の暴力によって郷里を破壊された、農村の民である。統帥をいただき、山地にこもる。曹魏の牽招に関わった。匪賊たちは、儒教の礼のコードを守っているから、牽招に感じ入って助けてくれた。匪賊のなかにも、平地の文化の枠組みが残っていた。孝、悌、義をまもった。

ぼくは思う。都市と農村は、相互に変換が可能である。農村から流れて、山地や要塞に入るけれども、べつに同じ人間が移動するだけ。山地には、漢族と非漢族が雑居しているけど、これも相互に変換が可能である。史料に見える「賊」というと、悪の宇宙人のようであるが、もとの都市民、もとの農村民であると。

『史記』『老子』が描いた「和楽」の農村の理想、反都市の理念をもちつつ、山地や要塞のこもった。121023

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05章 塢堡と桃源の地勢学

劉備は山地にこもる流民

劉備は、流民の典型である。孫権から荊州の返還を求められて、「山林に帰す」という。隠者になるという。劉備は、都市=平地を去って、山地に入るという。
この流民のような劉備を皇帝にしたのは、諸葛亮のおかげ。諸葛亮は耕作の経験がある。山地で難民を指揮して開墾し、耕作して、自給をできる。諸葛亮は、劉備を掠奪の集団でなくした。_220

避難する豪族や士人たち

避難するのは、農村民だけでない。 莽新末、南陽の樊宏は「営塹」をつくった。更始帝に荒らされた長安には、おおくの「営」ができた。
譙国の許褚はこもった。荀彧、任峻、甘寧は、豪族であるが、生き残るために土地を移動した。王粲は荊州ににげた。何夔もにげてカニバリズムを回避したが、袁術に監禁された。_226
司馬芝は、荊州にいくとき、自衛力がないから殺されかけた。魯粛は、自衛力があるから、周瑜に帰することができた。汝南の許靖は南に逃げた。_229

流民の統率者は「塢主」とよばれた。范陽の祖逖が典型例である。後漢末の常林、田畴も山地に共同体を作った。平地の中都市なみの社会をつくり、秩序をつくる。劉虞のカタキをとるために求心した。田畴は平地の権力から警戒され、袁紹や曹操からかにを働きかけられた。西晋末の庾袞も同じである。彼らは共同体の「主」に選ばれたが、人柄を買われてのことだ。

人工的につくった山地「塢壁」

「塢壁」とは、土を盛り上げたもの。囲まれた居住地。山地に限らず、平地にも作られた。董卓の郿塢の事例がある。劉馥がつくった合肥も、同じような塢である。塢とは、地勢が険阻で、起伏があり、河流にかこまれ、防御しやすい山地につくられる。しかも、開墾して耕作できる土地、水源のある山中の平原、水源の平坦地につくられる。_240
西晋末の河内の郭黙、汝陰太守の李矩、建業ににげる司馬睿など。塢壁をつくって、平地の侵略者に対抗した。

初期の塢壁は、友愛、自治、平等があった。しかし、豪族の塢主が「土に二王なし」という理念により、支配をすることになる。とはいえ、田畴のように「和楽」のイメージを具現した、反都市的な塢堡があった。掠奪をふせぎ、自給自足して、平地から隔たり、山地を愛した。エキ山を愛した、郗鑑のように。_244
岩石と洞窟ばかりで、耕地がないけれど、苦難にみちた生活をした。平地の腐敗した権力に対して、山地で「仁徳」のある塢主を頂いた。このイメージが、袁山松『宜都記』、陶淵明『桃花源記』となる。武陵の桃源郷である。神話的なユートピアになった。_254
桃源郷には、塢主による支配や独占がない。友愛がある。『史記』や『老子』の世界観を描写したものである。反都市を表現したものである。_258

塢堡に入りこむ、都市の理念

しかし塢壁でも「土に二王なし」の理念が入りこんだ。祖逖の塢堡で観察できる。都市を離脱したつもりが、山地にも、平地の理念を持ちこんでしまう。周瑜は、曹操を追い返す自由さをもつが、孫権の皇帝権力に接近して通婚した。魯粛も、天下を語った。都市の理念は、戦国時代以来、伝統的なものなので、反都市の共同体のなかにも「土に二王なし」が入りこむ。
山地などの塢堡に逃れてきた者も、もとは都市民だったから。そういう意味で、「和楽」を徹底した桃源郷の描写は、めずらしいものである。

ぼくは思う。都市と農村、都市と山地、都市と塢堡は、対立するものであるが、決定的に断絶するのでない。相互作用をおよぼすし、相互に交流するし、同じメンバーが移動する。大室氏は書いていないが、都市のなかにも、反都市の要素があるはずだ。そして、周瑜や魯粛が皇帝権力をつくったように、反都市にも都市が入りこんでいる。「ごちゃごちゃで、ワケが分からない」のでなく、対極にあるものを見つけて、それが混ざりあうさまを観察すればいいのだ。これは「何も言っていない」ことにならない。とても多くの指摘している。見通しを良くしてくれている。大室氏においては、対極であると設定されたものが、都市と反都市なわけで。

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06章 隠者の社会学

ひきこもる董卓と袁閎

匪賊の山塞、難民の塢堡は、流民が城郭から山谷ににげて形成された。いっぽう、反都市の価値観を表明して、山林に「隠遁」した人がいる。もとは、伯夷と叔斉がいる。ハイキングでなく、生き残るギリギリで、山林にもぐる。_272

董卓の郿塢は、隠遁である。郿塢におもちゃを囲いこんだが、皇甫嵩にぶっこわされた。董卓は、都市の曹操と対照的である。曹操は、戦略家、軍事指導者、政治家、学者、詩人、放蕩児である。洗練された都市民である。だが董卓は、反都市だった。公孫瓚も反都市であるから、易京にこもった。_277
董卓も公孫瓚も、メルヘンの子供部屋にこもって、支持を失った。周囲がカニバリズムしているのに、自分だけ逃げ隠れた。囲いこみをできるのは個人だけであり、集団を囲いこめない。_282
四合院の住宅に籠もったのは、汝南の袁閎である。外界をシャットアウトした「狂生」である。都市が支配する平地の世界を去って、山林の自然に逃げかくれ、自分を囲いこむことが、袁閎の願望だった。_290

ぼくは思う。だいたい大室氏の概念の提出が終わったので、消化試合のようになってきた。都市と、それに対立するもの、というナイフを用意して、史料を切り分けてゆくのだ。どんな史料でも「同じ話」になる。


後漢の隠者は、史書のコードを外れる

後漢の章帝のとき、都市を批判した梁鴻も隠者である。主人のもとを、ぷいと立ち去った。色黒の年増の女と結婚した。戴良も奇抜だった。光武帝期の厳光も珍しかった。山林に潜った。焦先も珍しかった。_302

ぼくは思う。このあたり、いかに珍しいか、列伝の紹介がつづく。はぶく。みんな反都市の理念をもち、都市のルールをやぶり、服装や儀礼がおかしくて、山林に入ってゆく。

みずからも隠者の皇甫謐が『高士伝』で、焦先を記録した。隠者とは、反都市性である。河間の劉淑も隠者である。隠者は、私塾にいる。私塾にいたのは、撃剣する徐庶である。徐庶も、反都市性がある。_308

なぜ私塾にいると「隠者」なのか。歴史記述「史」は、列伝のコードに従って書かれる。このコードを外れた者が、処士や隠士である。コードを外れたら、人間ないし士人でない。歴史とは現実でなく、列伝の形式によって現実を解釈することである。

ぼくは思う。都市の権力について、「歴史書の叙述形態」が出てきた。これはおもしろい。森田真生氏がランダムネスについて言っていた。数直線上にある数は無限である。数直線の目盛のように、きちんと書ける数は少ない。それ以外の数はランダムネスであると。このように、目盛として拾い上げることができないランダムネスが、農村や山地や塢堡や隠者なんだなあ。列伝は、宇宙のすべてを描いているようで、ほんの少しの非ランダムを記述しているに過ぎない。
ぼくは思う。「権力」としての歴史記述、というものがある。べつに歴史書で、正統だなあ!とか卑劣だなあ!とか、そういう評価を加えることは、たいした権力じゃない。そうじゃなく、紀伝体という形式で、宇宙を表現してしまうことが「権力」的なのだ。暴力なのだ。都市的なのだ。「土に二王なし」の観念なのだ。ちょっと油断すると、せっかく形成した塢堡の共同体のなかにも、入りこんできてしまう権力なのだ。そもそも「祖逖伝」とかが立伝されている時点で、王の権力に搦め取られているのだ。でも、搦め取られてくれないと、ぼくら後世人は存在を認識できない。ジレンマだ。このネジレから、何かを言えそうだなあ!


皇帝に仕えないというゲーム

隠者は、皇帝に仕えないから隠者である。皇帝に使えれば、官僚になる。隠者は山林で生命を終えるから、隠者である。隠者は、戴良伝のように、辟召などを断り続けるものである。帝堯に帝位を譲られそうになったとき、許由は耳を洗った。このような道化をやるのが隠者である。_311
厳光は、気違いのふりをして、光武帝の誘いを断った。光武帝は不機嫌になったが、第三者から笑われた。_316

隠士が仕官を断るのは、責任重大なゲームである。皇帝は、すべての人に統治を補佐させねばならない。名望は、遊びの一部である。月旦評による仲間ぼめ、異質者の排除、早熟な神童、わが家の千里の駒、過剰な期間の服喪、門生による過剰な復讐、惜しみない財産の分与などは、ゲームに勝つためのワザである。_318
党錮も、ゲームの一例である。
党錮とは、ゲームが最高に過熱したものである。宦官は、皇帝の心理を結合させるのが得意だった。官僚は、名望と宣伝という言語をワザに使った。名望のためにポトラッチが発生した。宦官と官僚の戦いは、社会体制を変革したり、政策を決定したりする政治闘争でない。権力や官位をどれだけ占めるかの競争である。政治でなく遊戯である。皇帝が官僚を任命するというルールのなかで、そのルールのなかでいかに勝負を争うか、技量を工夫したものである。

皇帝と処士の遊戯は、処士が先手をとる。まず処士が、郷里で名望をあげる。皇帝は、孝廉によって反撃する。すぐに孝廉に応じたら、勝負がついて遊びにならない。拒絶しなければならない。しきりに辟して、みな就かず、とする。劉備と諸葛亮の招聘ゲームと同じである。_320
魯陽の樊英は、皇帝とゲームした。就かないことを貫くには、技量が必要だった。不屈によって勝てるのが、隠者だった。_322

ぼくは思う。すごいなあ!しかし、いまいち消化不良のまま、この話は先に進んでしまう。もうちょい「やる余地」を残してもらったので、後進のぼくにとっては、嬉しいのですが。

皇帝がゲームに勝っても、官僚として優秀とは限らない。誰が見ても優秀な人材は少ないから、ゲームで探索するしかなかった。このゲームに勝ち抜けるのが隠者だった。益州は隠者の文化があり、前漢のとき秦宓は仕官しなかった。また、豫章の徐稚も仕官しない。_330

仕官しない=反都市的である

隠者には、月旦する婆娑羅の郭泰がいた。隠者のあそびは、士人と共通である。士人がポトラッチしてしまう名望を高める遊びである。つまり、都市の文化の一貫である。郭泰は仕官せず、郷里に隠居したから、郭泰も隠者である。
隠者もまた、政治的ナンバリングで分類される。徐稚、姜肱、袁閎などが羅列された。この遊びは成熟して、晋代には、文芸、絵画、音楽、造園、哲学や宗教と結合した。陳蕃は桓帝に質問されて、「都市に生まれた袁閎よりも、農村にちかい徐稚が優れる」と答えた。都市よりも、自然にちかい農村のほうが、賢者が生まれるという、反都市の理念が伏在している。121023

ぼくは思う。隠者というのは、けっして農村や山林に隠れない。都市のなかにいる。洛陽にいたり、郷里にいたりする。塢堡が「ポータブル山林」だったように、袁閎のカクレガ的な邸宅とか、隠者のカクレガ的な処世術は、都市のなかの「ポータブル山林」である。地形や距離に頼って物理的に離れるか、建物の体裁や行動で態度によって孤立するか、物理的にはオモテに出てくるのだけど、皇帝との交渉をブロックするか。階層や手段は異なるけれど、ともあれ、皇帝を中心とした都市から距離をおいている。反都市的である。という理解でいいのかな。
反都市性がハンパだと、民衆は山林から平地にひきずり出され、引きこもりの四合院を家宅捜索され、隠士は官位に就かされる。けっきょく、「土に二王なし」の権力に巻きこまれてしまうと。単なる官僚になっちゃうのね。

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07章 囲いこみの心理学

逃亡して自己を囲いこむ者

城郭を去るのは、反都市である。去る者は、平地の都市に脅威をあたえた。だが山地に去っても、心理は複雑である。不安である。

さきどる。山林に去っても、けっして積極的な思想があるわけじゃない。「とりあえず都市を去りましたが」という虚無感と戦わなければならない。容易に都市にホームシックになる。山地の塢堡なのに、平地の観念「土に二王なし」を再現してしまう。なんとなく退廃してしまう。そういう「心理学」の話。
ぼくは思う。なぜ人間は、山林での生活に落ち着かないか。これは問いの立て方がおかしい。ぎゃくである。人間が安らげるように発明したものが都市である。「なぜ都市が安らぐか」は愚問である。安らぐために作った空間を、都市と呼ぶのだ。
大室氏を逸脱して、ぼくが妄想すると。森の中にすむ類人猿は、自然に翻弄されるのに耐えきれず、木を降りて、壁をかこって肉食動物から身を守り、都市をつくるようになった。というか、山を降りたサルを人間というのだから、人間が山に居心地がわるく、都市に惹かれるのは当然である。「なぜキリンは首が長いか」ではなく「首が長い種類をキリンとよぶ」というのが本当である。もちろん、あのキリンと呼んでいるものが、なぜあの形態になったのかは、つぎの段階において興味がある問題だけどね。同型の議論は、「都市をつくるのが人間だという定義を受け入れた上で、なぜ人間が都市をつくるのかは興味がある問題だけどね」である。
秩序をつくり、交易を活発にやり、観念に突っ走ってポトラッチのような破壊をやり、見栄を張りあうのが都市である。都市に入りこみすぎると、自然=農村から交渉が途絶えて、人間は生物的に死ぬ。これが大室氏による西晋滅亡の理解。しかし、自然=農村からの断絶が、人間にとっての理想である。
養老孟司氏の言ってたようなイメージで語れば 。できれば自然=農村から断絶して、まるで流線型の宇宙船のなかで、不死身の銀色のロボットとして暮らすことをあこがれるのが人間である。都市であり、脳であり、理性であり、理屈であり、観念であり、近代科学であり、非身体である。宇宙船のなかでは、排泄物も垢も死体も出てこないことが理想である。
よく「農村に帰れ」「身体性を取り戻せ」「野生を忘れるな」という言説は出てくる。しかし「農村を出よ」「身体性を忘れよ」「野生をこわせ」という言説は出てこない。人間はほうっておいても、後者をやるからだ。それをやるのが人間なのだ。農村にいて、身体性と向き合い、野生に分け入ると、不安になる。そういう「心理学」が大室氏のこの章で言っていること。

山地に逃げた者は、都市が支配する平地の世界を、直接に否定しない。平地の権力に呼びもどされた。塢堡のなかで盟主を選んだ。友愛と平等の『老子』とは異なる。_340
隠者は、都市的世界を、山林に逃げた者よりは明確に否定した。山林に逃げた者は、生き残るためにやむなく逃げた。陶淵明は、都市を去って、田園で高揚した。劉備が「山林に帰す」と口走ったように、都市と村落のまわりに山地があることは、生活空間として諒解されていた。山地は、桃源郷や「大同」のイメージが投影された。
山林に逃げた者は、生き残るために物理的に身体を囲いこむ。隠者は、精神的に自己を囲いこむ。袁閎のように籠もった。籠もることで再生へのエネルギーを蓄えたいが、むずかしい。桓帝のとき趙岐は、逃げて自己を囲いこみ、宦官から逃げた。張昭は、孫権との対立で家に籠もった。張昭は、陶謙の茂才を断ったときも、自己を囲いこんだ。_351

都市の中心で、自己を囲いこむ天子

曹叡は、母を殺され、吃音になり、父を不和である。後宮の女性のなかに籠もった。農村を顧みず、都市に建築しまくり、蕩尽した。そのくせ、天下三分して天子の生命力が弱まっているので、実子がない。曹芳の放蕩、曹髦の無謀も、天子の生命力が弱まっていることの証拠。現実逃避して自己を囲いこんだ。
劉禅が後宮におぼれ、孫皓が愚かなのも、天子の生命力の弱まりと、都市のなかでの現実逃避=蕩尽である。司馬衷が無能であり、賈皇后が無茶するのも、天子の生命力の弱まり。天子が籠もったので、中原は異民族にとられた。天子の生命力を再生するには、江南に行かねばならなかった。

ぼくは思う。都市の中心にいる天子が、中心で生命力を放出できなくなり、まるで隠者になる。女性や建築や虐待など「自分のカラ」に籠もる。中心にいるくせに、バリケードを作るのだから、矛盾しているように見える。しかし、べつに矛盾していない。大室氏において、生命力の源は農村=自然である。都市は、農村が産出したものを消費=蕩尽する場所である。ゆえに、都市の中心にいる天子が、いちはやく蕩尽して、カラに籠もるのは道理である。
ぼくが思うに天子は、『四民月令』に見られたように、天地を祭祀することで、儒教の秩序のもとで、生命力を得ているはずだった。しかし、「祭祀で生命力を得られる」というのは、あくまで理屈である。というか、祭祀では生命力を得られないから、それが分かっているから、儒教は祭祀を細かく規定して、生命力を得る手順を整備しようとしたのだ。しかし皮肉なことに、整備すればするほど、生命力からは遠ざかる。だから後漢の皇帝が、『四民月令』どおりに祭祀せず、簡略化した類似物でごまかしていた。これぐらいが「ちょうどいい」のだ。天子は農村に行けないが、農村=天地から断絶するのは好ましくない。だから、中途半端な儀礼によって宙づりになることで、都市と農村の開いた関係性を維持する。儀礼をカンペキに仕上げてしまえば、それは人為であり、天地からエネルギーをもらえない。
天子がもっとも生命から遠い。初代天子は、農村や山地にもリンクしているが、代を経るごとに都市に閉じ籠もって、生命力が弱くなる。王朝の盛衰の説明になっているなあ。日本の天皇がなぜ違うか、、という話にも繋げられるのかな。言わない約束か。中沢新一『悪党的思考』を最近読みました。

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08章 権力の経済学

中国人の礼儀はしばしば贈物の形をとる。これは、受けとる者に「面子」を与えるのだ。A・H・スミス。だそうです。_370

八王の乱は、都市の蕩尽

八王の乱で王族がせめぎあう。宇宙論的、哲学的な意味を付与して保持していた世界の中心が失われる直前に、中心そのものがどれほど紛乱し懦弱化していたかを見ることができる。_379
西晋の恵帝のもと、5幕の芝居があったが、退屈である。英雄がおらず、平板だからである。権力をほしがるが、人民を安定させる理念に欠ける。自身の権力を、いかに維持するかすら考えていない。政治でなく政事であり、ただの遊戯=ゲームにすぎない。権力が経済価値に変成した。奢侈と浪費を美徳とした。高価なものを破壊することで、威信が高まると信じた。ポトラッチをした。破壊を見せびらかせた者が屈辱をあじわった。_383

ぼくは思う。ポトラッチだと総括してしまうのは、乱暴だけどおもしろいと思う。ただし大室氏がモース『贈与論』に付け加えているのが、ポトラッチをするのが都市であるという指摘だ。モースはポトラッチを分析したが、べつに都市と農村の対比で捉えなかった。大室氏は、こういう破壊を通じて威信を高める蕩尽が、都市=洛陽=天子で行われるという見通しをたてて、モースをバージョンアップした。

この遊戯をおもしろく遊ぶ技量とは、誘拐、幽閉、暗殺、市街戦などの暴力をうまく発動すること。この大人の遊びが高まってしまい、浪費がいきすぎた。外部からきた、非漢族に滅ぼされた。_385

ここから、非漢族の王朝について説明がある。非漢族というのは、農村=自然との交渉を維持したものとして位置づけられる。また彼らは、漢族の教養を身につけている。「農村と都市をバランスよく結ぶもの、媒介するもの」が勝者となる。そういう構図だから、非漢族が勝ったことが説明される。


西晋末の戦乱で、都市の中心である洛陽も壊された。張方、王弥、劉曜たちが破壊した。このころの清談も奢侈も、都市における蕩尽である。石崇と王戎など。まるい銭に四角い穴があるのは、天円地方である。銭とは「泉」であり、わき出してくるものである。銭が力をもって天下を駆け巡るという貨幣哲学がつくれた。
以上のように都市は蕩尽してしまった。司馬睿が江南に「園林都市」をつくることで、漢族は生命力をとりもどす。121023

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