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巻34・輿地1の総叙:州郡の改廃

転写しつつ、気が向いたら抄訳しつつです。

年代順がバラバラなので、並び替えます。単純に出典をコピペするだけかと思いきや、思いのほか順序がバラバラなので、この作業に意味が出てきた。


曹操による改廃

建安3年、瑯邪郡、東海郡、北海郡から分けて、城陽郡、利城郡、昌慮郡とした。建安11年、東海郡の襄賁県、郯県、戚県をさいて、瑯邪郡に益した。昌慮郡をはぶいた。

建安九年(204)曹操は、鄴を陥落させた。曹操は、冀州牧を領した。ある人が説いた。「古代の九州制に戻せ。冀州の領域が広大となる」と。荀彧が言った。 「もし九州制に戻せば、冀州は、河東、馮翊、扶風、西河を吸収する。幽州や并州でも、領地を奪われる人が多く、兵を集めて曹操に対抗する。関中の諸将は、函谷関を閉じ、袁尚は生き延び、袁譚は曹操に二心を抱く」と。荀彧伝。

楊氏はいう。建安17年、荀彧が薨じたので、九州制をやる。
『晋書』石勒載記はいう。曹操は冀州の境界を復した。南は盟津、西は龍門、東は黄河、北は塞垣。
盧毓『冀州論』で、東は黄河の上、西は黄河の東、南は黄河の北、北は易水を、冀州の境界とする。『初学記』に引かれている。常山、魏郡、房子、河内、真定、中山の名産をのせる。『芸文類集』『北堂書鈔』『太平御覧』にひかれる。


建安17年、割河內之蕩陰、朝歌、林慮,東郡之衛國、頓丘、東武陽、發干,鉅鹿之廮陶、曲周、南和,廣平之任城,趙之襄國、邯鄲、易陽以益魏郡。

河内から県を割いて、魏郡にくわえた。蕩陰、朝歌、林慮である。東郡から県を割いて、魏郡にくわえた。衛國、頓丘、東武陽、發干である。鉅鹿から県を割いて、魏郡にくわえた。廮陶、曲周、南和である。廣平から県を割いて、魏郡にくわえた。任城である。趙国から県を割いて、魏郡にくわえた。襄國、邯鄲、易陽である。魏郡をふやした。

建安18年春正月、詔書并十四 州,復為九州。

『後漢書』献帝紀はいう。建安18年春正月庚寅、禹貢の9州にもどした。兗州、豫州、青州、徐州、揚州、冀州、益州、荊州、雍州の9州である。
章懐は『献帝春秋』をひく。幽州と并州をはぶき、冀州にあわせた。司隷校尉と雍州をはぶき、雍州にあわせた。交州をはぶき、荊州と益州にあわせた。益州はなくて、梁州がある。
『続百官志』に注する劉昭は『献帝起居注』をひく。建安18年3月庚寅、州郡を再編した。冀州は32郡ある。魏郡、安平、鉅鹿、河間、清河、博陵、常山、趙国、渤海、甘陵、平原、太原、上党、西河、安嚢、雁門、雲中、五原、朔方、河東、河内、涿郡、漁陽、広陽、右北平、上谷、代郡、遼東、遼東属国、遼西、玄菟、楽浪。同じように雍州もひろがり、22郡。はぶく。兗州と雍州は、増減なし。
胡三省はいう。司隷の河東、河内、馮翊、扶風は冀州となる。京兆は涼州となる。弘農、河南は豫州となる。曹操は冀州牧として、広くを治め、天下を制した。

また司隷をはぶき、司州をおく。『魏武集』選挙令にある。

建安18年、魏郡を分けて、東部都尉と西部都尉をおく。
建安19年、安東郡をはぶき、永陽郡をはぶく。
建安20年春正月、雲中、定襄、五原、朔方郡をはぶき、郡置一縣領其民,合以為新興郡。
建安20年秋、漢寧郡を漢中郡にもどした。漢中の、安陽と西城を分けて、西城郡として太守を置いた。錫県と上庸県をわけて、上庸(郡)都尉をおいた。

潘眉はいう。安陽、錫、襄陽は、みな漢中郡の属県である。曹操は、安陽県と西城県の2県をわけて、西城郡とした。錫県と上庸県の2県をわけて、都尉をおいた。上庸は郡でないから、本文を「錫県と上庸郡をわけて」と読んではならない。銭氏『通異』はいう。上庸太守の申耽がいた。上庸にも太守がいた。潘眉が考えるに、劉封伝にひく『魏略』で、進退は曹操から上庸都尉にしてもらう。申耽は、はじめは上庸都尉だったが、のちに上庸太守になったのではないか。劉備も申耽を上庸太守にしている。蜀漢でも上庸太守という認識であった。黄初元年、新城をあわせた。太和2年、また立てた。太和4年、はぶかれた。景初元年、また立てられた。甘露4年、新城郡をわけて、また上庸郡をおいた。以上が曹魏の廃置の全てである。
盧弼はいう。『郡国志』では、辺境には都尉をおくが、治民は太守と同じようにやったと。この理解でよい。錫県は『左氏伝』文公11年に出てくる。

同年9月、巴の七姓たる夷王_朴胡と、賨邑侯_杜濩は、巴夷、賨民をあげて、曹操についた。巴郡をわけて、胡県を巴東太守とし、濩県を巴西太守とした。

曹丕と曹叡による改廃

黄初元年、以潁陰之繁陽亭為繁昌縣。郡国と県邑は、多く改易する所となる。文帝紀。

楊氏はいう。文帝が王位につくと、初めて涼州が置かれた。張既伝はいう。ときに三輔から西域は距離がへだたり、みな雍州に属したと。践祚=漢魏革命におよび、また并州がおかれた。

黄初2年、許県を許昌県とあらためた。魏郡東部(都尉)を陽平郡、魏軍西部(都尉)を広平郡とした。『魏略』はいう。長安、譙、許昌、鄴、洛陽を、5都とした。立石表,西界宜陽,北循太行,東北界陽平,南循魯陽,東界郯,為中都之地。

楊氏はいう。天下に、5年以内の移住を許した。『魏略』では曹植が令する。咸陽は魏の西都であり、伊洛は魏の東京であると。

黄初3年5月、荊州、揚州、江表の8郡を、荊州とした。孫権を、もとのまま荊州牧とした。 もとの荊州のうち、長江の北にある諸郡を、郢州とした。10月、孫権がそむいた。郢州を荊州にもどす。

太和元年、江夏の南部を分ける。太和2年、分新城之上庸、武陵、巫縣為上庸郡,錫 縣為錫郡。明帝紀。

新城郡を、上庸郡と錫郡にわけた。上庸郡に属する県は、上庸、武陵、巫縣である。錫郡に属する県は、錫県である。

太和4年6月、上庸郡をはぶく。
青龍元年、改摩陂為龍陂。
青龍3年正月己亥,復置朔方郡。明帝紀。
景初元年6月丁未,分魏興之魏陽、錫郡之安富、上庸為上庸郡。省錫郡,以錫縣屬魏興郡。12月丁巳,分襄陽臨 沮、宜城、旍陽、邔四縣,置襄陽南部都尉。分 襄陽郡之鄀葉縣屬義陽郡。
景初2年4月、壬寅,分沛國蕭、相、竹邑、符離、蘄、銍、龍亢、山桑、洨、虹十縣為汝陰郡。宋縣、陳郡苦縣皆屬譙郡。以沛、杼秋、公丘、彭城豐國、廣戚,并五縣 為沛王國。
景初2年6月、省漁陽郡之狐奴縣,復置安樂縣。

楊氏はいう。明帝の景初3年、遼東が平らいだ。平州をおき、のちに幽州に合わされた。『典略』にある。
杜恕伝はいう。いま曹魏には10州ある。荊州、揚州、青州、徐州、幽州、并州、雍州、涼州である。辺縁の諸州には、みな兵がある。内に府庫を充たし、外に四夷を制して、恃む所は、ただ兗州、豫州、司州、冀州のみ。


三少帝による改廃

正始元年2月、北豐縣民流徙渡海,規齊郡之西安、臨菑、昌國縣界為新汶、南豐縣,以居流民。
正始5年9月、鮮卑內附,置遼東屬國,立昌黎縣以居之。11月己酉,復秦國為京兆郡。
正始8年、夏5月,分河東之汾北十縣為平陽郡。
嘉平3年2月、南郡の夷陵県に、居を以て降附をおく。曹芳紀。
嘉平5年、自帝即位至于是歲,郡國縣道多所置省,俄或還復,不可勝紀。えー!曹芳ひどいなあ。

甘露3年春2月,大將軍司馬文王陷壽春城,斬諸葛誕。三月,詔曰:「古者克敵,收其屍以為京觀,所以懲昏逆而章武功也。漢孝武元鼎中,改桐鄉為聞喜,新鄉為獲嘉,以著南越之亡。大將軍親總六戎,營據丘頭,內夷羣凶,外殄寇虜,功濟兆民,聲振四海。克敵之地,宜有令名,其改丘頭為武丘,明以武平亂,後世不忘,亦京觀二邑之義也。」

司馬昭が諸葛誕を斬ったことを記念して、前漢の武帝の故事にならって、地名を「丘頭」から「武丘」に改めた。

甘露4年、冬十月丙寅,分新城郡,復置上庸郡。

景元4年(263)、益州を分けて、梁州とする。曹奐紀。
天紀4年(280)3月、王濬が孫皓の投降を受けた。王濬は、孫呉の図籍をおさめた。図籍によると孫呉は、4州、43郡、313県、52万3千戸を領した。孫皓伝にひく『晋陽秋』より。

孫呉による改廃

建安10年(205)、孫権は賀斉をやり、上饒を討って、建平県(鄱陽)をつくる。
建安13年、賀斉が黟、歙を討った。歙を分割して、始新県、新定県をおいた。孫権は6県から寄せあつめて、新都郡をつくった。『呉録』はいう。晉は、休陽を海寧と改めた。
建安十五年(210)、豫章を分けて、鄱陽郡をつくる。長沙をわけて漢昌郡をつくる。魯粛を、漢昌太守とし、陸口に屯せしむ。
建安十六年(211)、孫権は秣陵にうつる。翌年、石頭に城をきずき、秣陵を建業と改める。

黄初2年4月,劉備稱帝於蜀。權自公安都鄂,改名武昌,以武昌、下雉、尋陽、陽新、柴桑、沙羨六縣為武昌郡。八月,城武昌。
黄武元年、夷陵を西陵とあらためる。 黄武5年、分三郡惡地十縣置東安郡。吳錄曰:郡治富春也。是歲,分交州置廣州,俄復舊。
黄武7年、東安郡をやめる。この歳、合浦をあらため、珠崖郡とする。

黄龍元年6月,蜀遣衞尉陳震慶權踐位。權乃參分天下,豫、青、徐、幽屬吳,兗、冀、并、涼屬蜀。其司州之土,以 函谷關為界。
黄龍3年夏、由拳野稻自生,改為禾興縣。
嘉禾3年、詔復曲阿為雲陽,丹徒為武進。
赤烏5年、禾興を嘉興とあらためる。以上、孫権伝。

孫亮の太平2年、以長沙東部為湘東郡,西部為衡陽郡, 會稽東部為臨海郡,豫章東部為臨川郡。
孫休の永安3年、以會稽南部為建安郡,分宜都置建平郡。
永安6年、武陵をわけて天門郡とする。永安7年、また交州をわけ、広州をおく。

楊氏はいう。交州、合浦を分けて、北に広州を置いた。旋罷した。孫休が、ふたたび広州をおいた。


孫皓の甘露元年、零陵の南部を始安郡とする。桂陽の南部を、始興郡とする。
宝鼎元年、分會稽為東陽郡,分吳、丹楊為吳興郡。

裴注:晧詔曰:「古者分土建國,所以褒賞賢能,廣樹藩屏。秦毀五等為三十六郡,漢室初興,闓立乃至百王,因事制宜, 蓋無常數也。今吳郡陽羨、永安、餘杭、臨水及丹楊故鄣、安吉、原鄉、於潛諸縣,地勢水流之便,悉注烏程,既宜 立郡以鎮山越,且以藩衞明陵,奉承大祭,不亦可乎!其亟分此九縣為吳興郡,治烏程。」

以零陵北部為邵陵郡。
宝鼎2年、是歲,分豫章、廬陵、長沙為安成郡。
建衡3年、分交阯為新昌郡。諸將破扶嚴,置武平郡。鳳凰3年、分鬱林為桂林郡。以上、孫皓伝より。

蜀漢による改廃

周瑜が南郡太守となると、南岸の地を分けて、劉備に給した。劉備は別れて油江口に立営して、公安と改名した。先主伝にひく『江表伝』によると、建安13年である。
建安20年、與權連和,分荊州、江夏、長沙、桂陽東屬,南郡、 零陵、武陵西屬,引軍還江州。
章武2年、魚復県を、永安と改めた。

建寧3年、改益州郡為建寧郡,分建寧、永昌郡為雲南郡,又分建寧、牂牁為興古郡。後主伝より。

楊氏はいう。後主の建興3年、諸葛亮が南征して、4郡を平らげた。来降都督をおき、南7郡を統率させた。のちに、武都、陰平に、蜀漢の涼州刺史をおいた。

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