表紙 > 読書録 > 羅三洋『夢断三国』袁紹簒位陰謀破産記を抄訳

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序編:1つの歴史の見方の側面

◆曹魏に偏重する史書
袁紹は、いち時代の主催者である。曹操から、清末の袁世凱まで、袁紹の影響のもとにある。袁紹なくば、三国鼎立はなかった。
史書のなかで、勝利者は美化され、敗北者は醜化される。袁紹は敗北者である。史書の記録では、実態が分からない。
研究に値する史料のうち、早期に成立したのは、『漢名臣奏』で、内容は真実だが、範囲がせまい。『三国志』は簡略である。東晋末の『後漢紀』がある。南朝宋に『後漢書』ができた。南朝梁の劉昭、唐代の李憲、清代の恵棟らが注釈した。『後漢書』には「志」がないので、司馬彪『続漢書』から参入された。内容が、范曄の紀伝体と矛盾することがある。 _002
これらの史料は、矛盾することがある。権威に順位をつけるなら、『三国志』、『後漢紀』、『後漢書』の順番である。裴松之の注釈も重要である。だが史書は曹魏に偏重しており、内容には矛盾がおおい。
『三国志』と『後漢書』は矛盾する。『三国演義』が学界と民間で、巨大な成功をおさめたのは、正史に不満があったからだ。『三国演義』ばかりが読まれて、大量のおかしな見方がつくられた。_003

最後に失敗した袁氏の兄弟(袁紹と袁術)は、史書のなかで曹操の引き立て役になった。陳寿と范曄によれば、曹操にとって最も困難とされるなのは、袁紹との戦いである。袁紹の強大さが強調される。董卓、呂布、劉表、袁術、劉備らの強大さは、ここまで強調されない。
官渡ののち、曹操には、南下と北上の2つの選択肢があった。南方には、劉表、劉備、孫権がいたが、曹操の敵ではない。曹操の謀士は、みな袁紹がいるので、南征をとめた。袁紹の死後、曹操は5年の北伐をした。このあいだに、孫権は統治をかため、劉備は諸葛亮をえた。赤壁に帰結した。だが袁紹の遺産をついだので、曹操は、赤壁、襄陽、漢中で敗れても、優勢な地位がゆらがない。袁紹の強大さがわかる。
史書のなかで、官渡の曹操は1万未満というが、黄巾30万を吸収し、呂布を10万で討ったので、矛盾する。袁紹の強さを強調した。
曹操は青年時代から、袁紹の意図のもとで行動してきた。許県に献帝を迎えてから、曹操は袁紹の控制をはなれた。曹魏の史家は、曹操がずっと袁紹から独立したように、偽装しようとした。だが偽装が完善でないので、私たちは後漢末の歴史を再編成できる。
「曹操現象」は、普遍的である。劉備と孫権は、どちらも袁紹と袁術のもとにあった。配下の多数は、濃厚に袁氏の影響を受ける。もし袁紹が官渡で勝てば、三国とその臣下は、恐れて袁紹の王朝に仕えただろう。三国の鼎立は、袁紹と袁術の兄弟内戦が、延続したものである。曹氏、劉氏、孫氏の争奪は、後漢の遺産ではなく、袁家の遺産である。

◆袁家の冷たい史書
ただし疑問が1つ出現する。後漢は高度に発達した、集権統治である。なぜ袁家は、かくも巨大となれたか。後漢に対抗するほどの政治資源を得たのか。なぜ袁家は、貴族と百姓から擁戴されたか。後漢が衰退と分裂をしたとき、なぜ袁家は責任を負わされたか。
史書で、袁家の事績は散らかって信用できない。イギリスの歴史家が「歴史は勝利者によるもの」と言うとおりだ。魏晋の歴史家は、袁氏につめたい。だから大量に虚偽の史料をつくった。百年の宰相の家柄だから、袁氏の内部には、史料にない秘密が多かろう。正史は紀伝体の形式をとることで、敢えて袁家の歴史をはっきり書かなかった。もしくは書けなかった。

◆袁紹と袁術の名とあざな
古代中国では、名とあざなを重視した。家族の志向を反映した。劉備は「封」「禅」と子に名づけて、天下統一の大志を織りこんだ。だが劉封を殺したので「禅」だけがのこり、「帝位を禅譲する」の意味になった。譙周が予言するとおり、蜀漢は劉禅のとき滅びた。
袁術の「公路」は平凡に見えるが、じつは「封」「禅」よりも特徴がある。『詩経』魏風では、「公行」「公族」が並列される。最初は官名だが、やがて世襲貴族の代称となる。袁術は、輝かしい家庭の背景を、あざなで強調したのだ。
後漢末には「漢に代わるは当塗高」という。公路も当塗高も「大路」の意味があり、互訓できる。袁家が、後漢に代わる意向が見える。袁術は死ぬまで、この予言を信じた。晩年に皇帝を称したのは、この信念の結果である。

あざなをつける段階で、袁術は後漢に代わることを、意識してた(と考える)のね。たしかに、「190年代になって、思いついた」である必要はない。潜在的に、フロイト的な言いまちがいのレベルでは、革命を考えていたのかもなあ。


袁紹の「本初」は、さらに複雑で敏感である。
中国古代では、名とあざなは、避諱された。同じ王朝の帝国の年号もまた、もっとも特殊に忌避された。唐代の「貞観」「開元」を、名やあざなにする人はいない。だが袁紹は、後漢の質帝の年号=本初元年(146)とかぶっている。
袁紹の「紹」は、『爾雅』釈詁によると、「継ぐこと」である。『逸周書』諡法解では、疎遠な者が継位することを「紹」という。袁紹のもとの地位は低い。嫡兄の袁基、嫡弟の袁術は、宗法のなかで地位がたかい。最終的に、袁家の主導権は、袁基や袁術でなく、袁紹のもとに移動する。「紹」という名は、袁術が袁紹を痛恨に思った原因のひとつだろう。

袁紹が名のるたびに、袁術は地位を脅かされるのだ。袁術から袁紹への皇位継承は、「当塗高」の遵守および実践とおなじく、言葉の呪術にかなったものだった。

年号は、前漢の武帝のとき「建元」が設定された。紀元前140年である。6年ごとに改元する。漢代の名やあざなで常用される、伯、仲、叔、季、孟、子、卿、公らは避けられた。
『世説新語』排調では、司馬師、司馬昭、陳泰、鍾毓が、父親の名を言いあう笑い話がある。西晋の恵帝が「永康」を年号にすると、呉興郡にある永康県は、武康県にあらためた。
なぜ袁紹は、ルールをやぶってまで、本初をあざなとしたか。人生にどんな影響があったか。(本初元年に生まれた、が原書の仮説です)

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1章:袁安と袁湯の時代

袁氏と馬氏の婚姻

だいたい140年前後、洛陽で注目された婚礼があった。九卿の袁湯の子・袁隗。名儒の馬融の娘・馬倫。新郎と新婦が寝室に入ったら、『後漢書』列女伝に載るような会話がおこなわれた。

後漢の中央政府の核心は皇帝である。その下に「上公」がいる。だいたい空位の太傅である。太傅のもとに、大将軍、太尉、司徒、司空がいる。以上の5つが「宰相」である。独立した幕僚を「開府」する。

官制について書いてある。1万戸以上が県令とか。はぶく。

太僕の袁湯は、九卿の1つ。南陽太守の馬融は、荊州刺史のした。秦漢の官職の高低は、俸禄に相関する。貨幣経済が未発達なので、俸禄は糧食の計算につかわれた。太僕は中2千石で、月ごとに180石。太守は2千石で、月ごとに120石。これだけ収入があれば、邸宅を購入し、妻妾をもち、十数人の子女を養える。
同等の一族の結婚は、よくある。だが、袁隗と馬倫の婚姻は、開国の元勲の子孫(馬氏)と、新興の貴族(袁氏)の婚姻である。両家とも名声は天下にある。両家が結婚する、政治と文化の意図は、はかりしれない。

馬氏と袁氏は、異種の結婚なのね!


◆後漢における馬氏
馬融は、馬援の子孫である。馬援の娘は、明帝の皇后である。馬氏は、光武帝の母の樊氏、妻の郭氏と陰氏とともに、「外戚四姓」である。子孫は侯爵を世襲したので、「4世小侯」と総称する。

ぼくは思う。袁氏と後漢の皇帝は、2次の隔たり(ミルグラムの用語より)。袁紹のおじの袁隗は、馬融の娘・馬倫と結婚した。馬氏は、明帝の後漢の明帝の皇后を出した、「外戚4姓」です。袁氏は劉氏の外戚ではないが、外戚の姻族ではある。

羌族の問題で、馬融と兄の馬続、族弟の馬賢は、西北の防備をやる。

袁安が匈奴の問題に口をだすが。まあ後漢の政治のメインテーマなので、異民族の問題に、袁氏と馬氏のつながりを見出すのは、やりすぎだ。


馬融は名儒である。順帝のとき、軍事に成果は出ないが、儒学に成果はでた。馬融は、班昭の学生である。張衡、王符、崔瑗、許慎ととも、学者で交際した。孔子と同じく、馬融の門徒は数千人いる。馬家には、4百余人がいた。直接に馬融から講義を受けられるのは、50余人のみ。北海の鄭玄は、馬融に教わりにきた。
2千石の俸給だけでは、馬融の物質的な要求にたりない。ゆえに収賄した。馬続の娘婿である趙岐は、馬続と絶好した。趙岐は『孟子』の学者で、『孟子章句』をつくった。のちに袁紹と公孫瓚を和解させたのは、この趙岐である。
収賄しても、学術の成果により、馬融は後漢で権威ある地位が揺らがない。

「馬氏」の列伝を続けて読み、馬氏のつながりをまとめたら、すごい勢力図ができそう。いちおう末席には馬超もくるw

後漢末の馬日磾、馬騰、馬超も、馬融の親戚である。馬融の学生には、盧植と鄭玄がいる。劉備と公孫瓚もつながる。崔瑗、程秉、国淵は、鄭玄の学生である。まさに「門生は天下にあまねし」である。

袁安のこと

袁家は開国の元勲ではない。ただ家族の成員から、三公を出し続けただけ。袁湯は光禄勲の袁彭の弟である。司空の袁敞のおいである。侍中の袁京の子である。司徒の袁安の孫である。後漢後期は、依然として「下品に士族なく、上品に寒門なし」が社会の秩序である。もし強大な家族(馬氏)の後ろ盾がないと、官職を上昇させることは難しい。

袁家は、虞舜の子孫である。春秋期、陳国の主要な貴族となった。陳国の版図のなかに住んだ。19世紀末に、袁世凱がでた。故郷はそれほど遠くない。袁安の祖父の袁良は『孟子易』の研究を成就させた。後漢にほめられ、家を興した。
『孟子易』は、孟喜が『易経』を撰写したもの。戦国期におきた陰陽学、天文学、暦法学の知識を、伝統的な『周易』の理論に結合させた。『易経』の新たな学派である。玄妙な「卦気」の領域である。孟喜は特別に、4正卦、12月卦、6日7分らの理論をつくる。神秘思想が混在して、両漢に流行した図讖とむすびつく。天象の異常から、人事を予測する。

図讖とも結びつくのねー。後漢の正統性を「かためる」段階で、袁氏は協力したわけだ。馬援は武力で後漢を建国し、袁氏は理論で後漢を強固にした。

袁京は30余万字の『難記』を記した。
袁紹の堂兄弟(祖父が同じ、父が違う)の袁満来は、わずか15歳で病没したが、蔡邕から「易学に明るく(知性が)海のように流れる」と賞賛された。蔡邕『袁満来碑』(『蔡邕集』より)。

@yunishio さんはいう。袁隗さんの息子みたいですね。蔡邕が碑文を書いてるのは知りませんでした。

のちに袁紹と袁術は、『易経』なんて信じるから、歴史の悲劇を演じる。袁氏が『易経』に惑わされているのは、袁京や袁満来のことからもわかる。

そっちに結論をおとすのか!


袁家の発展は、後漢の時勢にも関係する。
漢代の民は惇朴である。貴族も平民も、争いを厳しく戒めて、長者(厚道な者)が栄えた。袁安は典型的な長者である。県の衛門にいるとき、賄賂を拒絶した。雪が積もったら、「みな飢えてるから」と引きこもった。「袁安困雪」は、節操を堅守する人物の逸話である。
これにより袁安は、孝廉にあがる。もし、もう数日、県令が袁安を視察するのが遅れたら、袁安は餓死していた。6世のちに、袁紹と袁術が天下を競うことがなかった。

そういうことって、あるんですよね。


◆楚王の大逆事件、三公へ
060年前後、明帝のときから、中央アジアに仏教が伝わる。道家の著作に助けられ、中国化した。早期において、仏教と道教はほめあう。釈迦は晩年に秦国にゆき、老子になったとされる。明帝の弟の楚王は、中国でもっとも早い、仏教徒かつ道教徒である。楚王の劉英は、安寧と幸福を願うだけでなく、070年に謀反を疑われ、王爵をうばわれ、自殺した。「楚王事件」は拡大した。仏教徒、道教徒、開国元勲、知識分子をまきこむ。
袁安は楚郡太守となり、4百余家の声明をすくった。
083年、太僕となる。皇宮のなかの車馬を管理する。太僕は、皇帝の馬車に同乗する。ほかに同乗できるのは、大将軍だけである。漢代の人は、病気でもなければ、馬車に乗れない。大将軍と太僕だけが、皇帝と3人で同乗できる。

知らなかった!袁安が「ひとりだけ」政策を主張するとき、皇帝の意図をくみとって(もしくは、直接聞いて)発言していたのかも知れないなあ。ほかの太僕も疑うべきだ。

袁安は機密にふれる。袁安の意見が、国政に影響する。太僕の袁安は、車馬の制御がうまくて、人となりは忠実で、機密を漏洩しないから、皇帝に信頼された。

こんなこと、『後漢書』袁安伝になかったよなあ。この本は、ちゃんと出典を示さずに話を進んでいく。「正史類が出典だから自分で探してね。ただし想像で内容を膨らますから、照合たのむよ。安易に引用したら、恥をかくよ」というところか。

匈奴の政策のとき、袁安だけが章帝と意見を一致させ、和平を主張した。086年、司空となった。のちに司徒となった。三公となると、特権がふえた。服飾において、特権は見えやすい。

011頁で服飾の説明がはいる。とばす。

服制のほかにも、袁安は「開府」の特権をもらう。自己の独立した衛門である。48名から71名の幕僚をもてる。周瑜の高祖父である周栄が、もっとも袁安に信任された。

周栄から周瑜に、きちんと系図がつながるんだっけ。

袁安に追随した故吏(老下級)のなかでは、魯恭が力をもつ。袁安のもとで、相互に政治のつながりを形成する。

匈奴への政策で、袁氏は長期にわたって、北方の遊牧民族から支持された。だが代価も支払った。089年、外戚である車騎将軍の竇憲と対立した。竇憲から、袁安の人脈は命をねらわれた。
092年、袁安は死んだ。2ヶ月後、竇憲がほろびた。袁安の3子は官爵をもらう。世代をかさねる。

袁湯のこと

袁安-袁京-袁湯である。袁湯は幸福なので、嫉妬された。順帝のとき太僕となり、三公まであと一歩。袁湯は前後で12人の子がいる。ただ史書に名があるのは、4人である。袁平、袁成、袁逢、袁隗である。袁平は夭折したので、歴史の舞台に出てこない。
袁氏と馬氏の婚礼は、豪門が連合するための政略結婚である。隋唐では、盛大に挙式された。だが秦漢では、婚礼の文化が異なる。『礼記』と『儀礼』の規定によると、安静かつ短暫に挙式する。どちらも儒者だから、規定を破るわけにはいかない。
黄昏のとき、新郎の袁隗は、黒い馬車にのり、馬家にゆく。_012

ここから、『礼記』か『儀礼』にのっとり、袁隗と馬倫の婚礼について、描写されている。はぶく。間違ってないんだろうが、べつにいま抄訳しなくても。

『後漢書』列女伝は、新郎の袁隗と、新婦の馬倫の会話を載せる。
袁隗「たくさん金銀を持ってきましたね」
馬倫「父母の愛を拒みきれず。もし、高士である鮑宣や梁鴻の風格がすきなら、私は彼らの妻のように振る舞いましょう」など。列女伝は、また別の機会に、ちゃんと読みます。和訳が出てるので。_013
馬倫の教養は、袁隗を圧倒した。

袁隗たちの会話から、兄弟の順に結婚する規則だとわかる。袁隗の兄である、袁成と袁逢は、すでに結婚している。袁湯の3子は、すでに終身の大事を完成させている。三世三公の偉業を達成した。

2世紀中葉の後漢の政局

和帝は、雄才と大略のある君主だった。匈奴、西域、嶺南、氐羌を征圧した。後漢は、最大の版図をえた。だが「尊尊親親」の儒家思想のもと、外戚が主導権をもつ。
後漢は、矛盾が激化する。外朝と中朝の対立、外戚と宦官の対立、農民の大量な破産である。_016

このあたり、べつに「この本に説明してもらわなくても」という内容なので、はぶきます。

政治は反復する。皇帝が死ぬ。皇后と大将軍と宦官が、みなで年少の皇帝をたてる。外戚が専制する。皇帝が成年に達する。皇帝と宦官が、外戚を殺す。宦官が専制する。皇帝が新たな皇后をたて、外戚集団ができる。外戚が宦官から権力をうばう。皇帝が死ぬ。

ぼくは2つの問題を立てたい。「なぜ同じくり返しをするか、どんな構造か」もしくは「なぜ反復に見えるか、反復と捉えられてしまうか」と。この問題は、両立しないなあ。

寒冷化の時代で、生産もおちる。
これらの矛盾は、建康元年(146)に集中して、体現した。年号はめえたいが、後漢を没落させる1年であった。

三統五行の理論の影響、「黄色革命」

光武帝のとき、「漢に代わるのは当塗高」といわれた。当塗県の高氏という百姓が、淮河の流域に出現して、 後漢の政権に取って代わるといった。淮南の地域が混乱した。
同じころ、袁氏の父子は「五徳終始」の理論に照らして、袁氏もまた、劉氏の黄色の土徳に代われると考えた。

◆江淮に当塗高が出現するか
144年7月丙午、清河王の劉延平が死んだ。延平というのは、殤帝の劉隆のときの年号。延平は1年だけで、106年である。年号と同じ名という意味で、袁紹の本初と同じである。
劉延平の生没年について、検証する。_017
劉延平は、106年に生まれた可能性がたかい。

なんか、ゴチャゴチャ検証してるけど、あんまり信憑性がない。


劉延平が死んでから数日で、馬勉と范容が、江淮の流域でそむいた。順帝の劉保は、御史中丞の馮赦に鎮圧させた。江淮は、よく反乱がおこる。陳勝と項羽、韓信と英布、呉楚七国の乱。衡山諸王の反乱。
順帝の時代、後漢が江淮の地域で起きた反乱が、爆発的に広がるのではないかと不安を抱えた理由は、『春秋讖』で漢に代わるのは当塗高というからだ。当塗県は、江淮の地域にある県である。光武帝はこの予言を否定した。
漢代の人々は、五徳終始説を信じた。始皇帝の万世一系は実現せず、「有徳者は之に居る」が実現した。『逸周書』太子晋解は「天下を2度とった姓はない」という。五徳や五行は循環するのだから。
後漢の当塗県は、九江郡にある。地理的に曹操の故郷に近いので、「当塗高は魏である」という解釈もされた。こじつけだが。
当塗高の予言に、みな振り回された。袁紹と袁術が、こういった予言の、最大の被害者である。_018

ぼくは原書のこの態度に、まったく同意できないなあ。


馬勉が起兵する10年前、馬融の友で学者の張衡は、朝廷に「図讖を封印しろ、禁止しろ」という。図讖とは、哀帝や平帝のとき、簒奪のために偽造したものである。だから後漢は、図讖を使うなと張衡はいった。

後漢も図讖に基づいて正統化してる。張衡の意見が、聞かれなかったことは、よくわかる。

後漢は、ちゃんと張衡の意見を聞かないから、天下の混乱をまねいた。

うそだあ。


馮赦が洛陽から離れると、順帝は死んだ。沖帝が即位した。梁太后は、大将軍の梁冀、太傅の趙峻、太尉の李固に「録尚書事」させた。
順帝はカネがないので、生前に自分の陵墓を作っていなかった。順帝の遺体は葬られず、腐ってきた。梁太后は、洛陽の西郊の地質がよいので、平民の墳墓をおしのけて、順帝の墳墓をそこに作った。洛陽の百姓が怒った。尚書の栾巴が百姓を代弁したので、梁太后は栾巴を殺そうとした。
この栾巴は、かわった人物だ。いちど宦官となるが、「陽気がとおった」ので、男性にもどって結婚して、子をつくった。

ここから宦官の「つくりかた」の説明が始まる。_019
栾巴は、出典はどこなんだろう。

「前太監」の栾巴を死牢におくってから、順帝の陵墓は半月で完成した。順帝を9月丙午にほうむったが、その日に地震があった。梁冀は天譴をおそれて、栾巴を釈放した。

梁冀は、段熲を登用した。144年に孝廉となり、武威太守となる。孝廉とは、儒教の徳目をみたす人をあげるのが原則だが、大族の子孫を登用する手段となった。劉備が袁譚を茂才にあげたのと同じだ。段熲の場合、実力で孝廉にあがった。

ぼくのツイートより。さきに抄訳をした。
桓帝の親政期は、郭氏、馬氏、袁氏、楊氏のような、開国の元勲の子孫や、世代を重ねた官僚を用いない。新たな才能を抜擢した。軍事では、外戚の鄧氏、馬氏、耿氏、竇氏を用いない。皇甫規、張奐、段熲を用いた。 #夢断三国 桓帝は、順帝と梁冀までに固定された階層化をシャッフルした政権かな。
流動性の低い社会では、上昇志向をもつ人が少なく、権力闘争も少なめ。桓帝は、建国の功臣(外戚かつ西北の将軍)や、世代を重ねる官僚(袁氏や楊氏)を遠ざけた。大学を充実させ、宦官の子弟を用いた。流動性があがり、上昇志向をもつ者が権力闘争した。党錮は、この風潮の、必然かつ正当な副産物か。


「当塗高」の信者は、東南で戦う。9月、雍州刺史の尹燿、九江太守の鄧顕が范容に殺された。反乱者の馬勉は追撃して、合浦をくだした。江淮から、中華をふるわす。陳勝・呉広の乱を思い出して、おそれた。

これは袁術の「当塗高」伝説の、前哨戦という位置づけ。

沖帝が死ぬと、「当塗高」の信者は勇気づけられた。九江郡だけでなく、廬江郡、広陵郡も群起した。3月、馬勉は当塗県を占領した。黄色の服で、馬勉は「黄帝」を称して、百官を封じた。_020

そこまでいったんだ!

三公は、北海の滕撫を九江都尉におした。馬勉を斬った。
馬勉の死後、反乱軍は三統の理論にもとづき、馬勉「土行」のつぎの、「水行」黒帝を称した。滕撫がこれもやぶった。朝廷は、本初元年と改元した。_022

聖人もしくは魔鬼(袁紹)の誕生

淮南の勝利に酔って、梁冀は2つの誤りをした。ひとつは質帝の殺害。ふたつは、梁太后による太学の拡大。
袁湯は梁冀に付和して、桓帝をたてた。三公となった。

本初元年(146)は、滕撫が淮南で勝利したので、平静にはじまった。4月、梁太后は太学を拡大した。毎年、3月と9月に試験を実施した。太学には14科目に博士が置かれ、成績が良い生徒は「高才生」といわれる。古文『尚書』、『毛詩』、『穀梁伝』、『左氏伝』などを継続して学習した。_023
太学の設置は、漢武帝にさかのぼる。科挙の先がけ。

後漢の初年、人材の選抜は多様化した。太学生は「品学兼優」だけでは登用されない。「儀状端正」で、見た目が良くなくてはならない。累代にわたり容貌のすぐれた袁家は、自然と官途につけたが、容貌のわるい曹操は苦労した。_023
子弟を太学におくるという風潮は、太僕の袁湯にも影響した。3人の子のうち、袁成はすでに左中郎将もしくは五官中郎将である。次子の袁逢は、袁基が生まれたばかり。袁基は、袁湯の長孫である。末子の袁隗は、馬倫と結婚したばかり。袁逢と袁隗は、おおむね20歳未満である。成年の冠礼をせず、官職もない。袁逢と袁隗は、太学に行っただろう。
すでに中郎将の袁成は、太学にいく必要がない。袁成には子がない。娘はいたらしく、蜀郡太守の高躬にとついで、高幹を生んだ。

ぼくは思う。袁成(袁紹のおじ、のちに袁紹が家をつぐ)には娘がおり、蜀郡太守の高躬にとつぐ( #夢断三国 )。高躬の子が高幹である。高幹は袁成の義孫にあたる。袁紹が、河北4州の刺史を子に分担させるとき、異姓の高幹が混じるのは不思議だったが、「袁成の血統」の一員ゆえの特別待遇か。
ぼくは思う。高幹もまた、世代的には、袁譚や袁尚と同じである。
袁紹は、汝南袁氏のなかで、どういう血統の者として、自己を位置づけたか。「袁成家」なんだろう。高幹を抜擢したことから窺える。袁術は「袁逢家」だ。つまり、兄弟の後継者争いでなく、従兄弟の主導権争いだ。袁熙と袁尚、曹丕と曹植、劉琦と劉琮などとは、対立の構造がちがう。袁成には子がないから、「袁成家」の後継者は袁紹しかない。袁基が死んだので、「袁逢家」の後継者は袁術でよい。兄弟の対立は起きていないのだ。

高幹は、袁紹の「外甥」である。

史書で、袁紹の父は特定できない。『魏書』『英雄記』では、袁紹は袁逢の庶子である。袁基の異母弟である。袁術の異母兄である。

ぼくは思う。ぜんぜん関係がなさそうなものでも、あいだに1つ、べつのものを噛ませると、共通点が見えてくるものってある。史料に事績のない袁基は、袁紹と袁術をつなぐための、その媒介者なんだろう。どういうキャラが、袁基にふさわしいのか、よく分からないけど。「ぼくたちの二袁論は、袁基の性格を創造的に確定するところから始まる」という感じかなあ。
たとえば、書籍とネットの長所と短所を比較するとき、どうも比較の視座が定まらない。そのとき、キンドルなどの「電子書籍」をあいだに持ってくることで、視座が定まる。書籍と電子書籍をくらべ、電子書籍とネットをくらべ、、とやる。もっと良い例がほしいな。たとえば、現代日本と三国時代を比べようとしても、比較の視座が定まらない。そこで、現代中国をあいだに持ってくる。すると、視座が定まる。ような気がする。
昨日やった。橋爪大三郎他『おどろきの中国』抜粋
袁基というのは、そういう存在ではないか。
袁術と袁紹を比較する困難さ。曹丕と曹植なら、同父同母の兄弟で、要素(兄弟順での位置づけ)が1つズレるだけだから、比べやすい。しかし、袁紹と袁術は、兄弟順での位置づけが違い、血統(母、もしくは父=相続した家)が違うから、比べにくい。現代日本と三国時代を比べる厄介に似ている。そこで、袁基をもってくる。袁基と袁術は、血統=父母が同じで、兄弟順がちがう(袁基は家長の資格があり、袁術は「部屋住み」の弟である)。袁基と袁紹は、血統が違うが、兄弟順がおなじ(ともに家長の資格がある;袁基は袁逢家、袁紹は袁成家)ので同じ。比べられる。
突然ですが、いま『漢辞海』が届いた。
辞書をひきました。
【袁紹】霊帝の死後、宦官の専横を抑圧し、董卓を追放して、曹操の勢力と対立。官渡で敗れた。以上『漢辞海』より。なるほど、袁紹は董卓を「追放」していたのか。辞書は、先行研究の解釈のかたまりなので、おもしろい。大量の情報を、短文で書かねばならないから、かえって価値判断が見えやすくなる。

『後漢書』では、袁成の子である。『三国志』では袁紹の父を書かない。袁術は公孫瓚に「あいつは袁氏の子でない」という。以上から袁紹は、3つの父親を想定できる。袁成、袁逢、無名。
袁紹を「無名」の子とするのは、袁術だけでない。公孫瓚が192年に朝廷に、袁紹の10の罪を上奏した。そのとき、袁紹は母が賤しいというが、袁逢が父(袁紹は袁術の同母異父兄)と確定しているようだ。公孫瓚は、袁紹をけなす目的でこれをいうが、袁術の言論と比べても、信頼度はそこそこ高いと思われる。
袁紹の「紹」は、継承の意味である。もし袁成に子がなくとも、弟(袁逢)から後嗣をもらうことは、古代に例がない。
ただし、『英雄記』には、袁紹の父(袁成)が死んだので、袁逢と袁隗が袁紹を愛したという記述もある。本初元年、袁成が突然に世を去ったので、袁成を「紹封」するため袁逢が自子を送りこんだのか。朝廷では、貴族が死んで、直系の子孫がないとき、親族から1人をだして「過継」させる制度がある。

袁紹が生まれたとき、突発的に袁成が死んだので、袁成家の権益を守るために、袁逢が子を送りこんだ。わからなくもない。袁基は嫡子なので、あげられない。袁術は、まだ生まれていない。
ぼくは思う。なんだか分からないが、納得するために、袁成が146年に殺されてしまった。つじつまが合うなら、いいか。

袁成の葬儀のとき、むつきのなかで袁紹は大泣きして、周囲を感動させた。天性の孝子である。

まじかよw


◆蔡邕さんのこと
葬列には、15歳の蔡邕がいた。蔡邕はちいさいとき、母親が3年も重病した。蔡邕は70日も眠らずに看病した。すでに袁湯の人脈にくわわる。袁成のために碑文をかいた。袁紹が泣きまくるのを見て、「呱呱孤嗣、含哀長慟」と書いた。『昭明文選・曹植王仲宣誄』にひく蔡邕『袁成碑』にある。蔡邕のもっとも早い文章である。

ツイッター用まとめ。赤子の袁紹を蔡邕が描写する。15歳の蔡邕は、袁成の葬儀に出席し「呱呱孤嗣、含哀長慟」と書いた。『昭明文選・曹植王仲宣誄』にひく蔡邕『袁成碑』より。泣きまくる継嗣の赤子が袁紹である。袁成が死ぬと袁逢は、袁成の爵位を絶やさぬよう、生後まもない袁紹を袁成の後嗣とした。 #夢断三国

蔡邕は、公卿のために墓誌を書く。特別に袁氏からの依頼をうけた。袁氏のために、6篇の碑文をかいた。蔡邕は、袁氏の良さを誇張する。のちに蔡邕は、馬融の弟子である盧植に、「私は碑銘をたくさん書いたが、みな徳を慚じる」という。(蔡邕の袁氏に対する態度が、ひるがえっており)蔡邕は難解である。のちに蔡邕は、董卓が袁隗を族殺すると、董卓に命を売りわたす。結果的に、袁紹のふるい部下である王允に殺される。まさに「3尺の氷は、1日でできない」と。

ぼくは思う。蔡邕は、とちゅうまでは袁氏に近かったが、董卓にのりかえた。きっと董卓が袁隗を殺したタイミングが、転換点だったのだろう。蔡邕は、よくもわるくも、権力者にちかい。新たな権力者である王允に殺されたのも、当然である。「権力とはべつの文化という尺度において、蔡邕は生かされるべき」という主張も、とおらんよ。王允は、蔡邕の性質をよくわかっていた。


袁紹の生年はいつか。『三国志』武帝紀は、191年に曹操が「袁紹の2子がすでに成長した」とある。ここから推測するに(025頁)袁紹が146年生まれでよい。袁紹は、曹操より9歳上である。25歳ではじめの妻(李膺の娘)をめとる。27歳までに、袁譚と袁熙が生まれた。28歳よりあとに袁尚が生まれた。43歳で中軍校尉となり、翌年に司隷校尉となる。45歳で董卓をうち、52歳で大将軍。55歳で官渡、57歳で死んだ。
以上より、袁成の死去と、袁紹の誕生は、どちらも本初元年におきたと考えられる。

本初元年、梁冀の弟・梁不疑が死んだので、梁冀の暴走がはじまった。梁冀は質帝を殺した。_026
桓帝の擁立により、曹騰は費亭侯、袁安は安国亭侯になった。漢代の侯爵は、4等級である。県侯、郷侯、亭侯、関内侯である。本初元年において、袁氏と曹氏は同格である。どちらも同じ時期に、亭侯となった。この時期、淮南を平定した滕撫は、官爵をうばわれた。
本初元年は、袁成が死に、袁逢が三公と侯爵となり、袁紹が生まれた。桓帝が即位した。しかし、袁湯は梁冀に阿付したので、高官と厚禄をもらったものの、歴代の名声をそこねた。

◆李固に文書をもらえない袁湯
清河の劉文、南郡の劉鮪が、清河王の劉蒜を皇帝に立てようと謀反した。劉鮪が南郡の人である。袁湯の親戚たる南郡太守の馬融は、劉鮪の詳細を調査した。馬融は68歳の老人である。馬融は富貴をむさぼり、梁冀に迎合して、李固と杜氏を連坐させた。おおくの知識分子が抗議した。
李固が処刑されるとき、李固は、胡広と趙戒に文書をおくる。三公のうち、袁湯だけが、李固から文書をもらえない。袁湯は、胡広と趙戒よりも、道徳的にひくいと見なされた。懦弱であり、良心もないと見なされた。

ぼくは思う。いい。いくら「袁」で検索しても、こういう「なかった」ほうの記述は、ヒットしない。
袁湯は、梁冀の派閥に属すると見なされて、文書をもらえなかったのだろう。ということは、権力の側にあるのだ。外戚と密着するのは、祖父の袁安とはちがう。だが、外戚の家柄の馬融と婚姻した時点で、袁湯はすでに方針を転換させている。つまり、梁冀に近づいたのでなく、後漢の既得権益である、建国の功臣の子孫=外戚、に接近しているのだ。


◆「党人」の誕生
桓帝が即位してから、桓帝はじぶんの教師である、清河の周福を、『尚書』にした。清河の房植は河南尹となり、李固の友人である。社会の名声は、周福よりも房植がおおきい。片方は、清河王の劉蒜を支持して、李固も支持した。もう片方は、桓帝と梁冀を支持した。両者は、相容れない。

ぼくは思う。桓帝は廃位されない(結果)ので、桓帝は安定に思える。だが、劉蒜がいるので、桓帝の地位は自明的に強固ではない。梁冀、袁湯、曹騰は、運命がおなじ。袁曹は、亭侯をもらって、桓帝と運命が合体した。李固を退けたのは、「濁流が清流を退けた」のではなく、ただの対等な政争である。勝ったほうが悪く書かれる、というのが異常だから、気づきにくいが。

房植を支持する人は、周福をそしった。賓客はあらそった。太学生と清河の士人は、郡を南北に分割した。桓帝は周福、民間団体は房植を支持した。「党人」という言葉がうまれた。130429

ぼくは思う。党人の起源は、「質帝のつぎの皇帝は、だれが相応しいか」だ。この論争から、党錮が始まった。袁氏と曹氏が亭侯となり、後漢末の抗争の主役がセットされた。梁冀の毒殺は、まさに三国志のはじまりだ。まさに本初元年だ。

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2章:梁冀を滅ぼし、宦官と竇武と敵対

梁冀のみだれた統治

梁冀は22年も執政下。火浣布を西域から取りよせて、得意になった。曹丕『典論』にも出てくる品物。梁冀のとき、于窴国を殺したので、後漢と西域との交易がとだえた。
梁冀は西域を喪失した責任をおわない。国防の首脳の責任である。まさに太尉たる袁湯の責任である。146年に司空となり、153年にやめた。袁湯は三公を連続で8年もやった。はじめ太僕のとき皇帝が殺され、司空のとき冤獄をおこした。袁湯は、司徒として冤獄を起こし、太尉として西域を失った。袁湯は失政ばかりなのに、官爵があがる。子弟の官職をあげる。馬融のような名門と結婚する。

ぼくは思う。そうして、皇帝のライバルになるのね。橋爪氏が、「宦官は自分の家族を持たないから、皇帝のライバルでない。官僚は、自分の家族をもつから、潜在的に皇帝のライバルだ」と。
建国の功臣が外戚となるのは、このライバルを飼い慣らすためだろう。また、外戚が栄えまくるが、定期的に没落するのは、よくできた装置である。外戚の地位は、一見すると不安定だが、不安定な仕方で安定している。桓帝や霊帝のころって、いちど賊殺されたかと思う外戚が、ふたたび皇后を輩出する、「2周目」にあたる。
このとき、建国の功臣だけで、外戚を回していることと、現実が合わなくなってきた。たとえば袁氏のような、建国を手伝っていないが、外戚と同レベルに、官歴と婚姻によって政治資本を蓄積した一族がでてくる。「2周目を始めるの、ちょっと待ちなさい。オレたちも混ぜなさい。外戚の出し方のルールを変えなさい」という問題が、何進をきっかけに噴出して、後漢がコケると。

梁冀と袁湯は、一緒になって奢侈な生活をした。国内を威圧して、外交に失敗する。彼らは自殺を始めているようなもの。梁冀は、妻の孫寿にしたがった。馬融は梁冀を批判して、最期は失敗した。
馬融の失脚は、袁湯も他人事ではない。太尉を罷免される前、袁家と梁家には、裂け目がある。袁著が梁冀を批判した。袁著は、「四時の運、、」と、『韓氏易伝』からの引用で、梁冀を批判した。袁氏の家学は『易経』なので、不思議ではない。梁冀は袁著を殺害した。袁湯の免職、馬融の失脚、袁著の殺害は、同時である。

◆袁湯が梁冀をたおす
袁湯は、官界で数十年、立ち回った。袁湯は、李固、杜喬、馬融のような失敗はしない。袁湯が梁冀をたおす計画は、精密で冷酷である。3つの成功要因がある。
1つ、梁冀がバカである。2つ、桓帝と皇后の関係がよくない。子供ができない。3つ、外戚は、宦官と近衛軍に敗れるのが前例である。袁湯は、宦官と近衛軍、洛陽の行政機関のなかに、じぶんの心腹を送りこむ。

154年、梁冀は、光禄勲の尹頌を司徒にした。光禄勲に空席ができた。袁湯の堂弟の袁盱を、光禄勲につっこんだ。光禄勲は、近衛軍をひきいる。宦官には、袁赦がいる。
袁湯の親戚に、洛陽令の袁騰がいる。洛陽城内の軍隊をもつ。_032

梁冀の敗北を、すべて袁湯に帰するつもりだ。
ぼくは思う。後漢中後期を「袁氏の王朝の成立前史」と見なし、『後漢書』を再編成すると、後漢のことが理解できるに違いない。袁安本紀、袁湯本紀、みたいな。整理の仕方を変えると、内容は同じでも見えるものが変わる。袁氏はその軸になれる。『夢断三国』はこれを試みて退屈になってるが、自分でもやってみたい。
ぼくは思う。芸人のダイエット広告は、やせて終わりではない。「やせて、また太る」で一巡だそうだ。また太ったので、次のやせる広告をやれる。「やせた結果、健康になりました」ではいけない。外戚も同じで、権勢をにぎるが、敗北する、で一巡である。滅亡への接近までで、1セットである。そこまでやって始めて、「役割を果たした」と言える。梁冀も同じだ。ただ、時期と方法で、モメているだけ。あらがえない運命みたいで、イヤだが。生物学的に、ぼくらは老いていくので、同じである。運命づけられているが、べつに無意味とは限らない。


桓帝は、梁冀から実権をとりもどしたい。
153年夏、イナゴと水害がある。梁冀は、これ理由に袁湯を免職した。梁冀は、みずからの部下の朱穆を冀州刺史とした。朱穆は「公族」である。祖父は、袁安とともに竇憲の北匈奴討伐に反対した。朱穆は、栾巴を尚書に推薦した人でもある。
朱穆が冀州にゆくと、趙忠の家属を逮捕した。趙忠が桓帝に泣きつき、桓帝は朱穆を逮捕した。太学の学生の領袖たる劉陶は、朱穆を釈放しろといい、桓帝は譲歩した。桓帝は朱穆を釈放した。_033
冀州が荒れて、泰山で起兵がたたので、156年に段熲が中郎将となった。段熲とおなじく軍功があるのは、李膺である。だが宦官と関係が良くないので、李膺は昇進できない。

記述が散らかっている。この本が、後漢の歴史をすべて描こうとするから、散らかるのだ。わりに省いていきます。

朱穆が許されて、劉陶は調子づいた。劉陶は「朱穆と李膺に、洛陽で執政させろ」という。

『後漢書』劉陶伝は、ぜったいに再読せねば。宿題ね。

劉陶は、桓帝を批判するように見えて、じつは梁冀を批判している。桓帝は、劉陶の文書に怒ったが、かえって劉陶を保護した。劉陶は、劉陶に反対されて、貨幣の改鋳をやめた。劉陶を破格に抜擢して、順陽県長とした。_034

梁家が転倒し、袁家が飽食する

桓帝が梁冀を討った論功行賞をしたとき、袁家の成員は、官職があがらない。

この本は、「袁氏は、梁氏の財産をうばった」と結論する。カネもうかったんだから、新たに官職や爵位なんて、いらんだろ、という桓帝の判断だと。


後漢の洛陽は、面積が9.5平方キロである。ひろい。大部分は、高官の邸宅である。延熹里という部分がある。その区域のなか、袁赦は、梁冀が暗殺したい者の隣に住んでいた。

「あの」話で、とても複雑なので、はぶく。桓帝の皇后が、梁氏だと思ったら、じつは鄧氏で、薄氏にしておこっかな、という話。皇后の姓の話。

袁赦は、梁冀の計画を桓帝に暴露した。桓帝は、梁冀の排除を決意した。_036

もともと梁冀は、相当な数量の禁衛軍をもつ。梁淑が衛尉である。「北軍5校」のうち、梁氏のが3席を占める。袁盱の軍隊に対抗できるはずだった。しかし梁淑は、袁盱に対応できず、つかまった。

ぼくは思う。袁盱の功績は、袁湯の同意のもとで行われた。というストーリーで理解して良いのでしょう。袁湯と梁冀の不和を、ぼくはこれまで見落としていた。

梁冀は自殺した。

袁赦と袁盱は、順調に任務をやった。洛陽令の袁騰は、梁冀の財産を30余億銭で売却した。これは、後漢の半年の税収に匹敵した。_036
梁冀は20年余年も執政下。計算すると、梁冀の総資産は、100億銭以上になる。袁氏は、これを横領したので、馬融からも財産をうらやましがられるような富豪になった。

ぼくは思う。これは新説! 袁氏だけが豊かな理由がわかる。横領した70億銭とは、後漢の税収の2年分よりおおい。もはや、宦官のカネ儲けなど、どうでも良いレベルだ。小銭を稼ぐよりも、ケタが違い、誰もイメージできない(だから誰にも糾弾されない)ような大金を、まとめて手に入れてしまう。袁氏、すごいなあ!今だって、200万円を盗んだら泥棒だが、200兆円を盗んだら、なんだか罪の種類が変わるような気がする。というか、罪になるのだろうか。よく分からない。
200兆円というのは、現代日本の歳入の2倍強です。


奇怪なことに、袁家の成員は、桓帝から褒賞がない。袁赦、袁盱、袁騰らは、大功があるのに、官爵があがらない。梁冀ののち、桓帝は、外戚の4氏や、世禄(袁氏、楊氏、張氏)を三公にしない。黄氏、祝氏、盛氏、虞氏、种氏、許氏である。桓帝が、皇帝権力を強めようとしたからだ。

ぼくは思う。外戚が強まり、強くなりすぎ、滅びる。この循環のもとで、後漢は安定していた。だが桓帝は、そのサイクルを絶ちきろうとする。「特定の外戚を遠ざける」ことと、「外戚という階層を遠ざける」ことは、同じに見えて、まったく違う。桓帝は、ひとつ抽象度のたかいところを、改変しようとした。


◆劉陶が土徳の氏姓を警戒しろという
新任の公卿に、桓帝はいちいち面会した。陳蕃は、袁閎を推挙した。袁閎は、袁紹の従兄である。袁閎は陳蕃と結びつき、袁逢や袁隗とはつながらない。袁逢と袁隗は、後漢末に滅びたが、袁閎の子孫は隋唐までさかえた。

桓帝は、159年に、秘書監を設置した。皇帝権力を強めるためである。さらに宦官もつかい、権力を強化した。5名の宦官を侯爵にしたので、李雲と劉陶が批判した。
李雲は、黄徳の氏姓をあげる。陳氏、項氏など。土徳の氏姓を、太傅や太尉などの重要な役職にするなという。梁冀ですら桓帝を殺さなかったが、土徳は漢家にとって手ごわいよと。袁氏は、陳氏から分かれるので、ここには出てこない。_037

ぼくは思う。べつに、袁氏の伏線にする必要はないのだが。三統とか五徳とかにより、革命の思想が口にされるとき(たとえ革命を否定する文脈であっても)後漢は危ういのだ。前漢末と同じだ。
やはり、『後漢書』劉陶伝を読まなければならない。

李雲の李氏も、じつは土徳。唐の皇帝は、土徳の李氏。
李雲は、最後に「陛下は皇帝でいたいのか」と問うたので、桓帝に逮捕された。李雲の結末は、2種類ある。『三国志』王朗伝で、赦免された。王粛は曹叡に、李雲が殺されなかった理由を説明している。『後漢書』『後漢紀』では、桓帝が死刑にした。大鴻臚の陳蕃、太常の陽平が命乞をしたが、だめだった。
桓帝の親政(宦官が強い)は、159年から30年つづいた。_038

桓帝と宦官の時代に、袁家は

単超のおい・単匡は、済陰太守となる。兗州刺史の第五種が、単匡を糾弾した。第五氏は、初代の第五倫が袁家と対立した。北匈奴の問題で、袁安のつぎに司徒になったのが第五倫である。第五種のせいで、単超は暴死した。

初代が接点があっただけ。あとは、ただの時代状況の説明。

このとき、李膺と郭泰が声望をもった。_039
桓帝は士人の意見をきいた。李膺、陳蕃、杜密が「正直な党人」として評価された。
袁紹は、160年に15歳となる。太学に入る資格がある。太学で「党人を崇拝する」ことになった。陳蕃、李膺、荀爽、王允、韓融、伍瓊、陳紀、張邈、劉表、胡母斑らと交流した。_040
袁紹の妻は史書にない。袁紹は結婚して数年して、太学をよい成績で卒業して「郎」となった。『孟子易』を学んだ。『英雄記』には、袁紹が幼くして郎になったいうから、20歳未満で郎になった。成人の儀式は、大学を出てからだろう。165年、袁紹は20歳で成人した。_041

ここから婚礼の儀式について、ウンチクがある。いらん。孝廉のこともある。この本で説明してもらわなくても良い。あってるのか、分からないし。_042


165年ごろ、梁冀集団がいなくなり、桓帝は梁冀の故吏を重用しはじめた。胡広、韓縯、集計らである。梁冀を倒すときに、態度が曖昧だったので、朝廷に戻ってきた。胡広は太中大夫、韓縯は司隷校尉、周景は尚書令である。
韓縯の祖父は韓リョウで、司空である。袁安の好友だった。竇憲に反対して、名をなした。のちの韓馥は、韓縯とおなじ頴川が出身である。親戚だろう。
集権は、袁安の故吏だった、周栄の孫である。周瑜の祖父である。梁家と袁家のどちらにも忠実である。陳蕃、李膺、杜密らを起用した。袁氏、韓氏、周氏と党人は、尋常でなく結びつく。3氏は同一の列伝に編纂される。
梁氏の故吏が復興すると、桓帝とぶつかる。つぎは180年に政治が大転換する。_043

165年2月、黄龍がでた。桓帝は、鄧皇后を廃した。鄧禹からの外戚は、二度と復興しなかった。竇皇后がたった。竇氏は袁氏と仲がわるい。

ぼくは思う。袁氏を読み解くには、竇氏との不仲がカギらしい。竇氏のもとで、袁氏が活躍できないことを、この本は強調します。

袁氏の宿敵である竇氏が出てきてから、袁氏は良いことない。袁紹が、濮陽県令のまま。
陳蕃は竇皇后を立てて、桓帝に寵愛された、田聖を排除した。田聖は土徳だからだ。

袁氏は、皇室と婚姻するには、最適の家だった。袁家の男子は、身長が高い。長寿である。袁湯は、86歳まで生きた。袁隗が董卓に殺されたとき、70歳をくだらぬ。長寿が、三公になる条件である。50歳未満では、三公になれない。
袁家は、結婚されたがった。名士の黄允は、夏侯氏と離婚して、袁隗の娘婿になった。

よりによって、夏侯氏=曹氏を蹴ったのが、のちの時代に禍いしたなあ。

曹氏は、身長が低くて、宦官の家柄である。

党錮のなかの袁紹の官途

「黄河が澄むと、聖人がでる」という。166年に黄河が澄んだ。聖人が出るかと思いきや、党錮がおきた。

ぼくは思う。この本は、タイトルが懲りすぎで、内容がわからない。導入文も、へんな文飾ばかりで、さっぱり要約になってない。あんまり悦には入ると、良くないなあ。

165年4月から、166年4月まで、黄河が澄んだ。『孟子易』は、『京氏易』から発展した。『京氏易』には、黄河が澄むと聖人がでるという。曹魏の王粲も、同じことをいった。だが聖人は出なかった。党錮がおきた。

166年に生まれたのは、太史慈らしいw


陳蕃は、袁湯の故吏である、周景の故吏である。_045
京兆殷の袁逢は、宦官の侯覧の兄・侯参を調べて、侯参が自殺したことがある。侯覧と袁氏の関係は、劣悪である。袁赦は中常侍だが、ほかの宦官と袁氏は、折り合いがわるい。_045

袁紹と袁術が、宦官を全殺するところまで、ゆかねばならない。宦官が皇帝の手足なら、二袁は、皇帝の手足を千切ったんだなあ。

桓帝の親政期は、郭氏、馬氏、袁氏、楊氏のような、開国の元勲の子孫や、世代を重ねた官僚を用いない。新たな才能を抜擢した。軍事では、外戚の鄧氏、馬氏、耿氏、竇氏を用いない。皇甫規、張奐、段熲を用いた。

桓帝は、順帝と梁冀までに固定された階層化をシャッフルした政権かな。


第1次党錮のとき、袁紹は濮陽の県令だった。_048
この前後に、袁紹は2つの事件があった。妻をめとり、子ができた。母親が死んだ。袁紹は辞職して、服喪した。
袁紹の母は、いつ死んだか。

服喪について、いろいろ書いてあるが。袁紹は、党錮が面倒くさいから、母の服喪がおわっても、父の袁成のために、服喪をやった。まったく礼制にないことだ。25日でよいのに、6年も服喪した。_049


167年、桓帝が死んだ。36歳だった。
桓帝には、3人の娘がある。『後漢書』皇后紀にある。劉華、劉堅、劉修である。長女は、伏完にとつぎ、女子が生まれたら献帝の伏皇后になる。曹操に殺された。130429

ぼくは思う。なんだか、短いうえ、つまらなかった。党人と宦官の記事は多かったが、袁氏の記事が少なかった。このあたりは、あんまり史料がないのだろう。むりに押し広げなくても良いのに。

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3章:袁紹が6年喪して、人脈をつくる

袁紹が6年喪で禍いを回避する

竇武、何進、袁紹と袁術も、宦官を殺そうとした。董卓と曹操は、宦官が死んだ空白をねらい、後漢を征圧した。袁氏の兄弟が宦官を殺すから、宮中の体系がみだれた。
竇武がやぶれたので、郭泰はなげいた。_053
郭泰は、後漢から袁氏への革命を(無意識に)予言した。彼は『詩経』小雅より「瞻烏爰止」を引用。「カラスをみるに、ここに止まる」である。「爰」は「袁」と通用する。『史記』の袁盎は、爰盎と書かれる。「カラスをみるに、袁に止まる」なのだ。袁紹の鄴城に止まったカラスは、袁紹でなく曹操に天命をもたらした。

ぼくは思う。フロイト的な無意識は、真実をつかむ。


『呉書』は、涼州刺史の成就は、董卓を発見した。董卓は、并州刺史の段熲に推薦されて、司徒の袁隗の幕僚となったという。_054
この『呉書』は誤りがある。『後漢紀』と『後漢書』段熲伝だと、段熲は161年-163年に并州刺史となった。袁隗が司徒になったのは、173年である。このとき段熲は、司隷校尉である。段熲と袁家の関係は、とても良好である。また袁家は、張奐を敵視した。董卓と張華んも、折り合いがつかない。段熲が袁隗に、董卓を推薦することは、充分にありえる。段熲が司隷校尉で、袁隗が司徒になった以後でなければ、時期があわない。袁紹は、のちに董卓を洛陽に召すが、これは董卓が袁隗の故吏だからである。

ぼくは思う。董卓が献帝をつかんだとき、袁紹が敗れたように思うが。董卓は偶然に献帝を獲得したように思うが。じつは違うのかも。共同作戦のようなもので、董卓が外を守っていたのかも。「董卓を召したばかりに、後漢が混乱した」というのは、結果論である。その証拠に董卓は、すぐに袁隗を殺さない。袁紹がさきに起兵してから、あとで董卓が袁隗を殺す。
「董卓は初めから敵対する気たっぷり」というのは、ウソかも。曹操や孫堅を正統化するなら、董卓がはじめから豺狼でなければならいが、袁氏との微妙なパワーバランスがあったのかも。袁紹を渤海太守にするのも、単純な判断ミスとは思われない。
董卓と袁氏が、いつ決裂したのか。その原因は何か。皇帝を誰にするかについては、董卓と袁隗のあいだで、合意があった。袁紹と袁術が、洛陽を離脱した原因がわからない。なぞが見つかってしまった。
ツイッター用まとめ。から派生。
ぼくは思う。なぜ董卓は袁氏と対立したか。董卓は袁隗の属僚。袁紹が洛陽に召集するくらいだから、味方にカウントされてる。董卓が皇帝を見つけるのも偶然でなかろう。いくらかの情報を、袁紹からもらっていたから、洛陽の近郊にいた。献帝の擁立に、董卓と袁隗は同意見(後漢紀で、袁隗が印綬をつけかえる)。袁紹を渤海太守に任ず。名士に脅されたという理由がついているが、ともかく袁紹を罪人にしなかった。董卓の破壊行為より、袁紹と袁術の起兵の動機が不明。袁隗の族殺は、袁紹の起兵の結果に過ぎない。それも、戦いがひと段落してから、落ちついて殺した。感情的に突発的に殺したのではなさそう。
「董卓は後漢に反抗的で、僥倖的に皇帝を拉致し、暴力的に廃立したので、袁紹と袁術が起兵した」というのは、事後的に偽作した因果関係。後漢の官僚の人脈のなかに位置づけられる。皇帝の拉致(もしくは保護)は、袁紹の作戦の一部。廃立は、少なくとも袁隗の合意がある。二袁の起兵が唐突なだけ。董卓は(権力抗争こそすれ)いちおう後漢の官僚として、文脈に沿っている。曹操が二袁の側にいたから、破壊者の董卓像が生まれたが、おかしい。じつは董卓について、なにも動機が説明されていない。ぼくらは董卓について、なにも分かっていないのでは。
むしろ、袁隗と袁紹、袁隗と袁術とのあいだに、対立を見つけるべきか。袁紹(なき袁成の後嗣)と、袁術(袁逢家の次男)が、それぞれ独立して暴発した。後漢の官界のなかで、卓越的に遊泳する、、という袁隗の方法に反発した。袁紹と袁術による、後漢に対するクーデターではないか。董卓は、クーデターの口実に使われただけ。べつに二袁は董卓を討ちたいのでなく、後漢を滅ぼしたいのだ。後漢を滅ぼすべきだと考えてるのだ。
袁紹のもとには、党錮からの怨みがたまった人材がいる。袁術のもとには、孫堅のような新興の軍人がいる。二袁のクーデターから始まった抗争は、董卓をそっちのけで、二袁のあいだで戦われた。なんと整合することか。
曹操や孫策は、「いつクーデター(およびその内部抗争)から離脱するか」を狙っていたのだろう。袁紹も袁術も、献帝を積極的には殺さないまでも、後漢を終わらせるために起兵したのだから、献帝を擁立して平和にもどす、、という結末はありえない。

董卓と曹操は、どちらも袁氏の門生故吏である。

石井先生の『曹操』で、曹騰と西北の将軍の人脈について、説明されていた。しかし袁氏の人脈は、それどころではない。「後漢は、袁氏に乗っ取られた。まず袁氏がみずから戦い、後漢をつぶした。やがて袁氏の門生故吏に、主役がスケールダウンした」という物語も描けそうだ。後漢において袁氏が遊泳に成功するたび、後漢は滅亡に近づく。という話にもなるわけで。董卓とか、むりに挟んで強調するから、分かりにくくなるが。ポッと出てきた董卓が、軍事力だけで倒せるほど、後漢はヤワじゃない。
ぼくは思う。「紀伝体マップ」という記法をあみだしたい。紀伝体は、頭から読んでも理解困難。ある人物Aを知るには、A列伝を読む。Aが客演するB列伝とC列伝を読む。Bが客演するD列伝とE列伝を読む。以下つづく。むかし流行ったマインドマップの、もっと文字数を書き込める版をつくりたい。視覚化はだいじ!
同じツイートを、再度ひきます。
後漢中後期を「袁氏の王朝の成立前史」と見なし、『後漢書』を再編成すると、後漢のことが理解できるに違いない。袁安本紀、袁湯本紀、みたいな。整理の仕方を変えると、内容は同じでも見えるものが変わる。袁氏はその軸になれる。『夢断三国』はこれを試みて退屈になってるが、自分でもやってみたい。

董卓は、袁隗の幕僚になる前に、戊己校尉をした。董卓の上官は、涼州刺史の孟佗だった。孟佗とは、孟達の父である。張譲と交際した。

ぼくはいう。十常侍の張譲には、実子がいるらしい。『北堂書鈔』148にひく曹丕『典論』は、太医令の張奉がアルコール中毒だという。張奉は、張譲の子にあたる。張譲もまた酒好きなので、孟佗からの葡萄酒をよろこんで受けとった。張譲は再び去勢して後宮に入った。 #夢断三国 ほんとかよw
「張譲可能是先生了児子、再浄身入宮的」と『夢断三国』にあります。


張奐、董卓、孟佗など、宦官に重んじられたもの以外では、司徒の胡広がいる。胡広は、大夫となり、録尚書事する。胡広はむかし、法真(法正の父)に公卿の器量だと認められた。_055
袁湯の父子を除いても、胡広は2人の人脈がある。胡広の筆頭の幕僚である王允、彼の学生である蔡邕である。のちに王允が蔡邕を殺すので、胡広は見る目がなかったけど。

ぼくは思う。胡広と袁湯の関係は、史料からは見つけにくいのね。かたや李固から手紙をもらい、かたや無視されたし。しかし、これだけ長期間、ともに三公九卿をするんだから、関係がないはずがない。


段熲は、169年7月に東羌に大勝したが(射虎谷の戦い)、桓帝は勝報を聞かずに死んでしまった。_055
段熲が勝った3ヶ月後、169年10月、侯覧が、李膺や杜密を逮捕させた。

◆袁紹の妻は、李膺の娘
『後漢書』党錮伝で、李膺の子の李瓚は、子の李宣にいう。「袁紹は、きみの外親だ」と。李膺は169年に「60歳を越えた」と自称する。袁紹より36歳、年長である。袁紹は李膺の娘婿だろう。もしくは、袁紹の姉妹が、李氏にとついだ。だが袁成が早く死に、袁成の娘は高躬にとついだ。袁氏の女が李氏に嫁ぐ、という組合せは考えにくい。つまり袁紹の妻は、李膺の娘である。_056
党人の領袖たる李膺と、袁紹は婚姻した。李膺の李氏も、袁紹の袁氏も、黄色の土徳である。どちらも豫州の大族である。社会から尊敬を受ける。その両家が婚姻した。だが李膺との婚姻は、袁紹におおきな代価を払わせた。

ぼくは思う。袁紹が党人に肩入れする必然性が見えた。

袁紹は、184年に党錮が解除されるまで、官途に就けない。これ以前に袁紹は、袁譚、袁熙を生んでいた。党錮のあいだ、服喪の名目でひきこもるとき、袁紹は子供をつくっていない。

ぼくは思う。袁譚の祖父は、李膺なのか!と思ったけど、ちがう。


166年、袁紹の母が死んだ。自然に服喪した。3年喪する必要はないが、このとき桓帝は、竇武の娘を皇后とした。宿敵の竇氏を避けるため、服喪を25ヶ月に延長した。
169年、やっと竇武が滅びた。袁紹の親族は、何人かが官僚になれた。

ぼくは思う。竇氏の時期は、ほんとうに袁氏は、身動きがとれなかったのね。初代の袁安が対立したのだから、因縁はふかい。165年に竇氏が皇后に立てられた。足かけ5年間が、袁氏にとって冬の時代だった。
ところで、竇氏の傍流が波才である。今日ツイッターで話した。
黄巾の波才は、党錮された外戚・竇武と同族

袁紹は3年喪を終えて、就官する準備をした。第2次の党錮が始まった。義父の李膺が殺されたので、袁紹は、袁成の服喪を始めた。李膺が殺されたので、袁紹は世間を避けた。青年時代の過ごし方が、ほかと違う。異母兄の袁基、異母弟の袁術ともことなる。72ヶ月も服喪した。_057

李膺の晩年は、袁紹と李膺は仲がわるい。せっかく袁紹が、党錮に巻きこまれるという代価を払うのに、その甲斐のないことだ。
李膺は、袁家の宿敵の竇家にくっついた。袁譚らは、劉氏の子であり、李氏の子でない。袁紹は、李膺が敵対したので、2人目の正妻の劉氏をめとった。袁氏は李氏と離婚もしなさそう。野心のために利用した。李氏もまた、「外親の袁紹をたよれ」と、袁氏を利用した。

ぼくは思う。竇氏で説明していく方法は、有効なのか? ときの権力者が竇氏なのは事実だろうが、それだけで、全部の説明がつくのだろうか。袁氏が出世できない説明にはなっても、袁氏と李氏が対立する原因までにはならない。会社だって、トップの人事が数年ごとに変わるとき、浮沈はあるけれど。婚姻までした袁氏が、日陰になれば、李氏は目配せして、「時期を待ちましょう」というんじゃないか。


◆党錮にあわない、楊氏と袁氏
袁紹が孤独な服喪をするとき。
171年、名士の崔算が死んだ。崔家は、経済が困難で、服喪できない。光禄勲の楊賜、太僕の袁逢、少府の段熲は、喪事を援助した。大鴻臚の袁隗が、責任をおって、墓碑銘をかいた。このように、竇家が倒れてから、袁氏は九卿をだせる。袁氏の兄弟と、楊賜、段熲は、特別な関係である。
楊賜は、霊帝の教師である。楊氏が四世三公になるのは、袁氏より数十年おそい。勢力と財力は、袁家におよばない。袁氏と楊氏は、いっしょに侯覧と侯参の兄弟をこらしめた。楊彪は袁逢の娘をめとり、楊修がうまれた。

170年、段熲が凱旋した。霊帝は、大鴻臚の袁隗に命じて、鎬京でねぎらわせた。段熲は侍中となり、新豊県侯となる。1万戸。大鴻臚は、外交と封賞を主管する。段熲を厚遇したのは、袁隗である。

袁隗と段熲の強烈な結合は、覚えておかねば。


171年元旦、霊帝は15歳で元服した。党人をのぞいて大赦した。袁紹は、まだ服喪が1年あるが中止して、洛陽にきた。

服喪、やめてもいいのか。年数のつじつまあわせ。


金銭の力量、四世三公が完成する

袁紹が洛陽にきた翌年、3月に胡広が病死した。5月に、第2次党錮を主導した、侯覧が死んだ。6月、竇太后が死んだ。曹節と王甫が殺したのだ。
3ヶ月後、段熲は、曹節、王甫、袁赦の支持のもと、反対派の宦官、桓帝の弟の劉悝、その妃の宋氏を殺した。宦官は12人が封侯となった。段熲のように宦官に接近せねば、西北の軍費がでない。
段熲が盛んになるので、盟友の袁家は輝いた。12月、袁隗が司徒になる。四世三公が達成された。つぎに袁隗は大鴻臚におりて、曹操の父の曹嵩が司徒となった。

袁氏と曹氏は、同時的に栄える氏族なのね。

袁隗は、董卓を幕僚にまねく。袁隗は、段熲から董卓を推薦された。このタイミングに違いない。袁隗は、段熲のために、董卓を故吏とした。

袁隗が司徒になる3ヶ月後、楊賜が司空となる。3ヶ月後、段熲が司隷校尉から太尉となる。3人の好朋友が、;相互に三公となった。

172年ごろが、袁氏と楊氏、段熲にとって、得意の絶頂なのね。

174年、皇甫規が死んだ。西北に危機がきた。鮮卑に檀石槐がでた。北地郡に進入してきた。_059

◆熹平石経と、袁術の文化資本
霊帝は、175年3月、楊賜、堂ケイ典、馬日磾、蔡邕らに研究させて、熹平石経をつくる。石経の見物には、袁紹、袁術、曹操もいたに違いない。

とくに袁術は、石経をつくった光禄大夫の楊賜と親密である。楊賜は、袁逢、袁隗と老朋友である。楊彪は、袁逢の娘をめとる。楊彪は、225年に84歳で死んだ。142年生まれである。袁紹より4つ上、袁術よりさらに年齢差がある。

楊彪は、袁紹や袁術よりも年上なのだ。気安く接することが、できなかろう。

袁逢の娘は(楊彪が年長なので)早くに(袁紹らが結婚の適齢期になる前に)結婚したはずだ。袁術は、文化の大典を、楊氏から九州する機会があった。また蔡邕は、袁氏とふるい交際がある。墓碑銘をかき、赤子の袁紹を見つけるなど。

石経と同じころ「三互法」ができた。袁隗が司徒、袁逢が太僕、袁滂が光禄勲のとき、制定された。袁氏が参加したはずである。_060

ぼくは思う。この方法によって、袁氏を関わらせていく。同じように、段熲、蔡邕、楊賜が関わった場合も、袁氏に関係することとしてカウントする。これにより、後漢の全体を描こうという作戦らしい。あんまり広げると、わけが分からなくなる。

熹平のとき、後漢は中興と衰微の転換点であった。このとき袁氏は、四世三公を達成した。奇怪なことに、袁紹が洛陽にいるときの言動が、『三国志』『後漢書』袁紹伝に、なにも記されない。正史はどうして袁紹を隠蔽したのか。

黒社会の「本初倶楽部」

27歳で洛陽にもどった袁紹は、道徳、学歴、才能、財産があったが、官職がない。「聖人」袁紹は、黒社会のトップになった。

ぼくは思う。黄河が澄む話があった。あれは、袁紹が生物学的に生まれることを意味しない。党錮がおこり、袁紹が官途を閉ざされることにより、「聖人」に化けたと。まあ孔子も、官職にめぐまれずに「聖人」になったのだし、良いのかな。

孔子ですら、27歳のとき、袁紹ほどの諸条件がととのっていない。
袁紹の人脈は、何顒、荀爽、荀彧、王允、鄭泰、曹操、劉表、張邈、許攸、逢紀、伍瓊、周毖、呉子卿である。

いつもの人物紹介がはじまる。はぶく。

何顒は袁紹の手足だが、袁術とは相性が最悪である。_062
呉子卿は、何進の部将である呉匡の親戚だろう。呉匡の祖父は河内の人で、蜀将の呉班の父である。何進の死後、袁紹と袁術とともに、宦官を殺した。袁術とも密接である。
曹操をのぞいて、彼らは官僚ではないが、みな富裕である。霊帝と宦官の統治を、転覆するために、彼らは奔走の友となった。

黒社会に「本初倶楽部」が結成された。_063
袁紹は董事長、何顒は総経理である。荀爽、王允、鄭泰、曹操、劉表、張邈、許攸らは、股東(株主)あるいは部門経理である。党人に資金援助し、後漢に政策で対抗する組織である。慈善基金の団体と、武侠の団体の性質をかねる。

◆競争者「公路倶楽部」
袁紹倶楽部には、つよい競争者がいる。袁安より、袁家の済陰は、施しを好み、賞賛されてきた。袁術は「侠気をもってきこえ、諸侯子と鷹をとばし、狗をはしらす」。長水校尉となる。つねに交通法規に違反するので、百姓は風刺して、長水校尉の袁術を「路中悍鬼」とよぶ。恵棟『後漢書補注』にひく『魏志』より。

ぼくは思う。交通ルールを守らないという呼称なのか。通行の優先権は、官職の上下で細かく決まっており、威信の発露である。袁術は得意気だったのかな。

袁術は、人となりが囂張である。知識分子に受け入れられない。袁術を訪問して、援助を求める人は少ない。のちに袁術は、この性格が問題だと気づいて、「節を折り、士に下る」ことになる。やがて袁紹のライバルにのし上がる。

ぼくは思う。しかし、天性の性格は治らないし、隠せない。権門の次男坊だから、好きに遊んだのだろう。それこそ、袁基が死ぬまでは、まったく当主の自覚がない。だって当主じゃないから。
なぜ董卓に対抗して、半端に南陽にいったかのほうが、なぞである。

個人の品行と能力をのぞけば、袁術と袁紹は、3つで張りあう。
1つ、袁紹は李膺の外親であり、党錮をくらった。袁紹は、官職から疎外されて、結束をつよめた。179年、党人の従祖以下は、党錮が解除された。つまり従兄弟は連坐しない。
たとえば孔融の兄・孔褒は党人である。孔褒は、党人の張倹を保護して刑死したが、孔融は禁錮されない。孔融は、司徒の楊賜に辟してもらった。袁術は禁錮されないから、順調に官職をあげた。「孝廉にあがり、郎中に除せられ、内外を歴職した」と。まっすぐ尚書になる。
党人が生まれた背景には、袁紹による救済が、彼らの救済になっていた。袁紹は結束した。そいかし袁術は、結束する必要がない。_064
2つ、袁術は公務に忙しい。袁紹はヒマである。袁紹は、袁逢と袁隗の保護のもと、人脈がために励めた。
3つ、袁紹のほうが財産がおおい。袁紹は、袁成家の財産をしきれる。だが袁術は、父の袁逢、兄の袁基がいるから、財産を仕切れない。
以上の3点から、公路倶楽部は、袁紹ほど大きくなれない。

ぼくは思う。後漢を滅ぼすことにおいて、袁紹は早期から、しっかり考えていた。袁術は、なんだか分からないが、袁紹に躍らされたような感じ。袁紹を主人公にすると、どうもそうなる。袁紹が黒社会でやってることは、破滅的なのに、それが「時代を拓いた」ように見えてしまう。
『三国演義』でも、袁紹は頭脳派かつ行動派で、袁術はオマケで暴れるだけの馬鹿者だった。袁術はべつに、倶楽部なんか要らんだろうにw


本初倶楽部の曹操について。_064
165年より前は、曹操は子供である。172年まで、袁紹は服喪するから、曹操と交流できない。袁紹が洛陽にきてから、曹操と出会ったのだろう。172年から交際したのだろう。

曹操の逸話がある。はぶく。

196年まで、曹操は袁紹の部下である。袁紹が建国したとき、本初倶楽部の人々は、開国の元勲になる予定だった。_066

本初倶楽部の発展と動力の源泉

霊帝は鴻都門学をつくり、太学に対抗した。
178年、袁家は空前絶後の、一族から2人の三公をだした。

178年2月、光禄勲の袁滂が司徒に。三公が5人でた。霊帝は、売位売官と鴻都門学をはじめた。_066

売位売官の説明がはじまる。

売位売官をした目的は、鴻都門学を設立する資金をつくるため。太学には、霊帝に批判的な太学生がいるから。_067

尚書令の陽球が、鴻都門学をやめろという。_068
このころ袁家は、継続して昇進した。178年10月、袁逢は司空。太尉の陳球、司徒の袁滂とともに三公になる。6人目の三公である。空前絶後である。
同月、王甫が宋皇后を誣告した。宋皇后が寵愛されない。王甫と袁赦と段熲は、桓帝の弟の劉悝をほうむった。おなじ宋氏だから、葬っておいたのだ。

ぼくは思う。王甫、袁赦、段熲は、袁逢らの協力者として、ぜったいに「列伝」を立ててあげるべき人物だ。

178年11月27日、日食があり、三公がころころ代わる。_069

袁赦が死ぬと、袁氏は中朝に協調者がなくなる。外朝の領袖となる。

ぼくは思う。袁氏の権力は、いくつか転換点がある。桓帝の擁立(梁冀との協調)により、袁湯が三公になる。梁冀との不和(梁冀を滅ぼす作戦)により、生き残る。カネを手に入れるが、官爵はあがらない。竇皇后がたち、袁氏は冬の時代に入る。竇武が敗北して、絶頂期になる。内外の朝廷をとりしきる。人脈ある者が、三公や九卿を占める。いま袁赦が死んで、外朝に留まるしかない。

袁紹の政治的な主張である、宦官をつぶせ、は孤立する。袁氏の協調者である段熲が死んで、後漢は国防がやばくなる。
王甫、袁赦、段熲が死んで、霊帝は好感触をえる。党錮を解除する。霊帝は平和を望むが、陽球は納得しない。王甫は死んだが、曹節、張譲、袁逢、袁隗、袁滂は健在である。陽球は「袁氏たち、むかつく」いって死ぬ。『後漢紀』霊帝紀にある。_069

ぼくは思う。陽球は、袁氏の敵対キャラで良いのだ。


霊帝は、宦官をおもんじ、外朝をけずる。

ぼくは思う。袁赦を失った袁氏は、十常侍を重んじる霊帝のもと、あまり発展できない。これまでの絶頂期とは、政策を変えないとならない。やっと、袁紹や袁術の世代が、おもてに出てきそうだ。

霊帝は胡服した。ローマの文化に親しむ。_071

◆何皇后がたつ
180年末、何貴人を皇后とした。蔡邕『太尉楊賜碑』によると、何進は楊賜の門生(教え子)である。霊帝も楊賜から学んだ。何進は霊帝の「同学」である。楊賜は、袁氏と姻戚である(袁術と楊彪は、たがいの姉妹を妻とする)。何進は袁氏とも人脈がつながり、のちに袁紹がもつ党人の人脈を登用した。

何進の人脈は、こちら方面に広かった。

何進は袁紹に、劉協は霊帝の子でないと吹きこむ。献帝が生まれたとき、王美人はいない。注引『呉書』で、献帝は母がわからないとある。袁紹が袁術に与えた文書では、献帝を「血脈の属でない」という。何進が、劉弁を即位させたくて、宣伝したことである。_072
ただし董卓が献帝を即位させるとき、「劉氏のタネは残さなくてよい」という。これは、献帝が劉氏の子でないことを、意味しているのか。

何進は、何皇后の妹を、張譲の子に娶らせた。太医令の張奉である。何進と張譲は、婚姻によってつながる。9年後、張譲が何進を滅ぼし、張譲は袁氏に滅ぼされる。

ぼくは思う。何進は張譲の義子である。というか、霊帝の妻が、張譲の子の妻と姉妹。張譲はまさに「わが父」なのだ。つまり霊帝から見ると張譲は、妻の妹の夫の父なのだ。だから「わが父」だ。


◆父の袁逢が死ぬ
182年4月、袁隗は司徒になる。半年後、楊賜が太尉となる。
袁隗が司徒になるとき、最有力な助手をうしなう。袁逢が死んだ。179年、袁逢が病気なので、司空を辞職した。これ以降、袁逢は史料にない。180年から183年のどこかで、病没したのだ。蔡邕が墓碑銘を書いた。_073
蔡邕は『袁公に与える書』のなかでいう。袁家の成員は、つねに学術を討論する、など。『芸文類集』巻47にひく蔡邕『司空袁逢碑』にある。

ネットで見つけました。『全後漢文』より。簡体字をなおす。
案《後漢·袁安伝》云:「湯次子逢字周陽。」
凡所臨君明而先覚,故能教不粛而化成,政不厳而事治,其惠和也晏晏然,其博大也洋洋焉,信可谓兼三才而该剛柔,无射于人斯矣。銘曰:
天鑑有漢,賜兹世輔。顕允厥德,昭胤休序,峨峨雍領宮,礼楽備挙。穆穆天子,孝敬允叙。降拜屏著,奉馈西序。威儀聿修,化溢区宇。乃尹(《文選·沈約斉安陸昭王碑》注引作「乃撫」。)京邑,総斉禁旅。(《芸文類聚》四十七)

袁隗が董卓に着られるとき、蔡邕はまったく弁護しなかった。蔡邕は、董卓に乗り換えて、自己の生命を優先した。蔡邕は、袁氏と交流しながら、官僚としては袁氏に怨みを積んでいた。130429

ぼくは思う。この蔡邕の袁氏に対する屈折した態度も、見きわめねば。政治の状況が変わっているから(袁紹が起兵するなど)蔡邕の意見がかわってもおかしくない。蔡邕は、後漢の優秀な官僚として、儒教の道徳をやるものとして、袁氏をほめていた。袁紹がしたのは、逸脱だもんね。

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4章:作成中

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