読書録 > 東晋次『王莽/儒家の理想に~』を再読し、出典を集める

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成帝期まで;礼学の修得、交友関係など

東晋次先生の『王莽/儒家の理想に憑かれた男』白帝社
を読みながら、先生が史料のどこを出典にして、議論を組み立てておられるのか、確認します。
より具体的には、『漢書』本紀、元后伝、王莽伝だけでは、カバーできない情報がどこに記載されているのか、探すのが目的です。ぼくがつぎに『漢書』を読むために、見当をつけたいのです。
13年06月時点で、ぼくが知らないこと、出典を「ああ、あれね」と想定できないことを、メモってゆきます。きわめて私的なメモです。
この本は、4年前に引用した。 東晋次『王莽』を読む
4年前よりは、詳しくなったはずなので、メモのとりかたも変わるはずです。気になる情報は、再引用しつつ、出典の確認したい。

ぼくは思う。王莽はいう。「へっへっへぇ、きばって書いてくれはったけど、ちょっと違うのやないでしょうか」と。東晋次氏の『王莽』のあとがきに出てくる王莽の架空の台詞。読んで何年たっても、この台詞ばかり鮮明におぼえている。なぜ関西弁なのか。へっへっへぇ、は流行るのか。へっへっへぇ。


はじめに

後漢の正統性を主張するため、新が負の王朝として位置づけられたからだ。王充『論衡』、桓譚『新論』は、王莽に批判的である。
王莽を悪罵する根拠は、平帝の毒殺である。『漢書』翟義の檄文、『後漢書』隗囂の檄文。しかし趙翼『二十二史サツ記』は、平帝の毒殺をいわない。

1 生い立ちと王氏一族

王莽の父親・王曼について。王莽が王氏でない疑惑を、王渉が劉歆にいうのは、王莽伝の地皇4年。王曼が病弱なことは、一族の記憶にある。
王曼が30代前半で死んだ場合、王莽は10代前半に「孤」となった。というのが東氏の年代推定。_016

王氏の祖先については、元后伝。系図は018。
王元后の出現にかんする予言に登場する、「沙鹿」の崩壊は、『春秋』僖公14年。三伝とも、元后伝がひく予言について記さない。「聖女」出現がキーワード。

王元后の後宮入りは、五鳳4年。_021
元帝が愛する、司馬良娣が呪い殺された。王元后が元帝に選ばれるのは、王元后伝にもとづく。後宮入りは偶然である。班固は、王莽政権の成立を「天の時にして、人力の致すところでない」という。
王氏は五侯をだした。侯とは、皇帝の皇子が封じられる諸侯王につぐ、列侯である。漢代20等爵のなか、人臣としては最高である。_023

ぼくは思う。吉川忠夫先生の『劉裕』『侯景の乱始末記』『秦の始皇帝』と同じようなスタイルで、王莽の伝記をかきたい。小説のようで小説でなく(小説のように著者は裏方に徹さず)、説明や論評のようで、そうでもない。列伝から台詞等の引用が豊富な編年体の史書を、親切な注釈つきで読むような感じ。まさに絶妙。


2 青春の屈節

兄の王永は、王莽が19歳の河平2年ごろまでには、諸曹の官にあった。貧困にあえぐほどではない。_025
前33、成帝が即位したとき、王氏の放縦な生活がはじまった。このとき王莽は15歳。王莽が学問におのれの道を見いだしたのは、15歳=成帝の即位のころだ。
張竦が王莽の青年期をほめた。一族が繁栄しても学問をしたと。

『資治通鑑』元始3年夏、大司徒司直の陳崇は、張敞の孫・張竦に、作文させた。王莽の功徳をたたえた。
『漢書』王莽伝で、居摂元年4月、張竦が劉嘉のために上奏をつくる。長安では「封爵されたければ、張竦にゆけ。戦闘するより、上奏をうまく作成するほうが、封爵されるには有効である」という。
張竦は、『後漢書』杜林伝にある。杜林の張竦である。


漢字の習得と並行して、『孝経』や『論語』を暗誦する。当時の学校制度は、のちに王莽が、太学、郡国学、県校、ショウ序と整備する。太学や郡国学は、15歳ごろに遊学する。五経のうち、1つに通じる。
王莽は『礼経』を選択した。_027
吉川幸次郎氏はいう。孝と仁とならび、礼が重視された。『論語』顔淵にある。吉川氏の解釈では、「欲望を圧迫し、縮小するための法則ではなくして、欲望を黄金律的なかたちへ拡大する法則」である。宮崎市定氏は『礼記』中庸をひく。_028

前漢末に、劉歆が古文『左氏伝』『周礼』を称揚した。後漢末まで、今文と古文の対立が持ち越される。
現行『礼記』は、宣帝期に成書された。『後漢書』梅福伝★にある。成帝期の大鴻臚した橋仁が『礼記章句』49編があったと、『後漢書』橋玄伝にある。鄭玄が確定した三礼(さんらい)は、『周礼』『儀礼』『礼記』である。前漢期、今文『儀礼』が礼経と定められていた。
王莽が学んだのはなにか。『漢書』芸文志のいう『士礼17編』すなわち現在の『儀礼』と、『礼記』であろう。王莽の政治活動に重要な『周礼』は一般に知られていなかった。青年期の王莽は、『儀礼』を中心に学んだと考えるべき。029

ぼくは思う。4年前は、このへん飛ばしてたw


前漢は今文派が中心である。『公羊伝』が主流。『詩経』『尚書』を学んでもよかった。だが王莽は、廟制や南北郊祀の政治課題を解決すべく、『儀礼』を学んだ。

ぼくは思う。王莽は初期条件から、廟制と南北郊祀の解決に、意欲を燃やしていた。王莽が官僚になることは、礼制の問題を解決するためであり、また官僚として勝ち抜くためには、礼制の見識をもってライバルを圧倒しようとした。これは東氏の推測だけど、王莽を理解するために、強烈な推進力になる仮説。
ぼくは思う。王莽の政治は、けっきょく「オレが権力をふるおう」というより、「礼制を整備しよう」という動機がある。もちろん権力欲がゼロとはいわないが。礼制を整えることは、かなり「権力的な振る舞い」でもあるわけだし。天地人の秩序を、おのれの見解にもとづいて調和せさるのだから、すごい。既存の制度のユーザーとしてではなく、既存の制度を改善するものとして、1つ抽象度がたかい権力欲である。
ぼくは思う。オリンピックでメダルを取りたいとき、選手として研鑽するか、自国に有利なようにルールを改定するか。後者の方法が王莽である。よく「ルール改定により、いつも日本に不利になる」という。日本には、王莽のような政治的手腕が必要である。練習なんて、二の次である。


沛郡の陣参は、太学の博士なのかわからない。長安で私塾を開いた可能性がある。
『後漢書』光武紀で、光武帝が天鳳期に『尚書』をまなぶ。注引『東観漢記』はいう。光武は尚書を、中大夫する廬江の許子威に学ぶ(許子威が「博士」とは書かれない)。『後漢書』儒林伝では「博士だれだれより受く」と博士であることを明記する。光武の教師・許子威は、太学の博士でなく、私塾かもしれない。王莽も私塾で学んだかも知れない。
礼学は、大戴(だたい)、小戴、慶氏の3学がある。慶氏をはじめた慶普が、沛郡出身である。陣参も沛郡である。王莽は、慶氏の礼学を学んだ可能性がたかい。確実でない。_031

【戴】タイ。いただく。頭上にかざす。おしいただく。尊奉する。感激する。さしはさむ。かける。おおう。周代の国名。
【載】サイ、のせる。つみこむ。はじめる。もうける。かざる。みちる。になう。おこなう。いただく。はぐくむ。おびる。かさねる。のりもの。積荷。事業。大地。安らかである。ふたたび。すなわち。とし=年歳。【載記】正統でない王朝の歴史を書いたもの。班固が「載記」を立てたが、いまは『晋書』が最古。
ぼくは思う。正統でない王朝の歴史を書いたものは、載記(さいき)であって、戴記(たいき)でない。ぼくは混同してました。左下が車の「載」に年歳の意味があるが、左下が異の「戴」に年歳の意味はない。最古の「載記」は班固がつくったが、いま読めるのは『晋書』から。と『漢辞海』先生がいっていた。

始建国3年、王莽は六経祭酒を設置した。沛郡の陳咸を講礼祭酒とした。陳咸は、王莽の師・陣参と関係があるだろう。王莽伝は「儒生のごとく」とある。

ぼくは補う。『漢書』王莽伝の始建国3年、琅邪の左咸に『春秋』を講させる。潁川の滿昌に『詩』を講させる。長安の國由に『易』を講させる。平陽の唐昌に『書』を講させる。沛郡の陳咸に『礼』を講させる。
ぼくは思う。沛郡の陣参と陳咸。こういうリンクは、先学に学ぶことによって、気づくことができる。読書のよろこび!


後年、王莽は礼学のほかの経書をまなぶ。『後漢書』徐防伝はいう。祖父の徐宣は、講学大夫となり『易』を王莽に教授した。

すごい。『後漢書』徐防伝★をチェックだ。

『漢書』儒林伝★はいう。『左氏伝』を蒼梧の陳欽から授けられた。東氏いわく、王莽の儒学的能力は、相当なものだった。

ぼくは思う。「儒学的能力」ってなんだろう。これを分解して言語化することで、王莽についておおくが分かるだろう。


◆交友関係
『漢書』叙伝に、班固の祖父の3兄弟が、王莽と親交したことが詳しい。班伯、班斿、班樨である。班樨の姉妹は、成帝の倢伃である。倢伃とは、皇后、昭儀につぐ、第3位の後宮の女官である。_032
班斿と班樨は、王莽と親密である。班斿が死んだとき、王莽はシ麻の喪に服した。班樨は、王莽に協力しないので、王莽政権では意を得ない。班倢伃が王元后の信頼を受けたので、不遇でもない。
班樨の長兄・班伯は、直接の交友をもたない。班伯は、河平期に定襄太守となり、のちに病気になった。_033

ぼくは思う。叙伝★を読まねば。


ほかに王莽と交際した人々は、王莽の封侯を要請した者たちだろう。

『漢書』王莽伝のはじめはいう。長樂少府の戴崇、侍中の金涉、胡騎校尉の箕閎、上谷都尉の陽並、中郎の陳湯は、当世の名士である。みな王莽を推薦した。

金渉と王莽は、親戚である。『漢書』金安上伝★はいう。金日磾の孫の妻が、王莽の母の妹である。金日磾の孫の子が金当である。金当の族兄弟が金渉である。金氏は、王莽政権で顕位にいたる。

ぼくは思う。金氏のこと、まったく知らなかった!

『漢書』陳湯伝★はいう。陳湯は「王莽を新都侯にせよ」と。年齢にひらきがあり、陳湯には不法行為がおおい。陳湯が王鳳に目をかけられており、王氏に恩を着せたかったか。
『漢書』毋将隆伝★はいう。毋将隆は、大司馬・車騎将軍の王音の従事中郎となった。王莽が毋将隆に交際を求めたが、毋将隆は遠ざけた。のちに王莽は、大司徒の孔光に、毋将隆を弾劾させた。

ぼくは思う。知らない列伝がいっぱい!

王莽の交友の史料は、以上に尽きる。交友の期間は、明確でない。礼学の学修期間における交際相手は、はっきりしない。黄門郎の同僚として、劉歆や班樨と交際するのは、仕官してのちだろう。交際の少ない王莽は、「鬱屈を感ぜざるを得ない精神生活を余儀なくされた」ように思われる。
太学の入学年齢は18歳。1年後の卒業試験の成績により、太学生は官府に任官できた。たとえば翟義のように、丞相の子なので、20歳の若さで南陽都尉となった者がある。
王莽の兄・王永が、若くして官職についたのと異なり、20歳の王莽は任官できない。焦燥感や不遇感のある青年期だっただろう。_035

◆官界に入仕する
伯父の王鳳を看病した。『漢書』淳于長伝★。王莽は24歳で黄門郎。九卿の郎中令(武帝のとき光禄勲と改名)に属する。黄門郎は、宮中の守衛をする。
『漢書』揚雄伝はいう。揚雄は侍郎にすぎないが、黄門に給事するようになった。郎官となった者のうち、とくに黄門を守衛する者を「黄門郎」と称したようである。王莽の郎官は、揚雄とおなじく、侍郎であった可能性がたかい。
毎年の「孝廉」で推挙される人士は、いったん郎中に就任してから、配属される。淳于長もまた、黄門の郎官につく。黄門は宮中の出入口である。黄門郎に就く者は厳選されたはずで、外戚だから着任できたのだろう。
すぐに2千石の射声校尉となった。郎官は、最高の議郎や中郎でも、比6百石である。秩石制において、6百石以上の高級官僚になるのが課題である。できるだけ早く2千石に到達するのが願いである。王莽は、すぐに2千石に到った。

3 大司馬となる

外戚権力の官職の特徴について。042頁を見よ。
加官、内朝官、霍光、領尚書事。大司馬就任の一覧表。_044
将軍号を冠する大司馬は、武帝期から成帝期まで継続して存在した。『後漢書』外戚恩沢侯表にあるように、外戚になると列侯になった。くわえて、内朝の権限を掌握し、宮城を警護する権限もついた。中核となる官職が「大司馬・大将軍・領尚書事」である。将軍は大将軍とは限らない。_046
成帝の即位した、竟寧元年6月、王氏による外戚政治がはじまる。元后の臨朝称制はないが、平帝のときは元后が臨朝称制をやる。後漢の外戚政治の端を開く。

王氏は、成都の羅褒から賄賂をもらった。『漢書』貨殖伝★にある。
『漢書』酷吏伝★の尹賞伝で、軽侠の尹賞は王立とむすぶ。

◆淳于長の獄死_052
『漢書』侫幸伝に淳于長がある。淳于長は王鳳に「甥舅の恩」がある。甥舅(せいきゅう)とは。姉妹の男子が「甥」であり、母の兄弟は「舅」である。「甥舅」の関係は、中国古代の氏族関係のなかで、独特な意味がある。外戚政治は、この関係によって成り立つ。
王莽と王鳳は甥舅でない。王鳳にとって王莽は、弟の子である。王莽は従子(または姪=てつ)である。王元后にとっても、王莽は従子(姪)である。
王莽は淳于長を告発した。大司馬に就くための獲索か、王氏の保全のためか、正義感によるものか。

まずはここで、ひと区切りです。130601

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哀帝期;開拓地の南陽、西王母の信仰

4 失意の日々

建昭4年、元帝の末弟・中山王の劉竟が死んだ。成帝は哀しみを見せない。元帝は、補導役の史丹に、「仁愛でない成帝は、民の父母になれない」ととがめた。竟寧元年に元帝は死んだが、まぎわに皇太子(成帝)が廃されるのを防いだ。『漢書』史丹伝★。
史丹の祖父・史恭の妹は、宣帝の祖母の史良娣である。元帝は、父の宣帝の意向に逆らえないから、皇太子(成帝)を廃さなかった。

元延4年(前09)定陶王の劉欣が入朝した。法律を好む劉欣は「諸侯王は2千石を従えられる」といい、『詩経』を暗誦した。いっぽう中山王は『尚書』の暗誦でつっかえた。定陶王の母・傅太后は、大司馬の王根に珍宝をおくり、定陶王(劉欣)を皇太子に推した。_059

哀帝が即位すると、大司馬は王莽から史丹へ。_061
宣帝が法家を重んじるので、まだ皇太子の元帝が「もう少し儒生を用いろ」といった。宣帝は「覇道と王道をまぜろ。儒生は、名実の理による人を惑わせる」と反論した。名実とは「刑名」である。名をもって実を責め、君を尊び臣を卑しくすること。劉向『別録』で「申不害の学問は刑名」といい、申不害は官職に結果責任をおうという
王莽は、覇道と王道を混ぜず、過酷な法律条文を硬直してつかったから、滅びてしまった。宣帝のように、覇道と王道を混ぜるべきだった。
哀帝は、元帝や成帝よりも、宣帝にちかい。漢家の伝統的な統治方針に忠実である。綏和二年、限田制。綏和元年、大司空から御史大夫にもどす。州牧を刺史にもどす。この政策は、朱博の関与が大きい。成帝期に儒家が制度改革したが、哀帝は秦以来の伝統的な制度に戻そうとした。王氏が壟断した、皇帝権力を回復するためである。

ぼくは思う。哀帝が、儒家の「改革」をチャラにした。なるほど。

建平3年、長安の南北郊の祭祀をやめる。儒家を逆なでした。

王根を就国、王匡を庶人に。趙太后の弟・趙欽、その従子の趙訢を庶人とした。傅太后に尊号をあた朱博は自殺した。班固いわく「哀帝は大臣を誅殺し、武帝や宣帝にならった」という。

◆尊号問題
哀帝の祖母は、傅氏である。祖母の従弟・傅晏の娘が、哀帝の皇后となる。『春秋』の「母は子をもって貴たり」にもとづき、哀帝の祖母に尊号をつける。『漢書』師丹伝★でモメる。
董宏は「秦荘襄王にもとづき、哀帝の祖母に尊号を」という。師丹と王莽は「亡秦の故事なんて使うな」という。即位直後で遠慮のあった哀帝は、董宏を庶人におとす。
傅太后が哀帝にせまり、恭皇太后とした。藩王である「恭」と、皇帝である「皇太后」を組合せ、双方に妥協したと解釈できる。_066
古文派の王莽は、天子七廟制の問題にからめ、哀帝の父の恭皇廟を建てることに反対した。法家(宣帝、哀帝、朱博)と、儒家(王莽、師丹)の対立がある。

『漢書』百官公卿表では、王莽の罷免を綏和2年11月とする。『資治通鑑』では7月とする。東氏は6月と考える。建平4年、哀帝の祖母は「皇太太后」となる。哀帝の母は、建平2年6月に薨じたから、尊号なし。師丹は、朱博と趙玄によって庶人におとされた。_067

ぼくは思う。このへん、『漢書』朱博伝★で組み立てよう。

朱博は「王莽を庶人とせよ」というが、哀帝は「就国にしとけ」という。王莽は41歳の男盛りだった。

◆封国につく_068
列侯の経済生活について、宇都宮清吉『漢代社会経済史研究』によって紹介する。王莽の収入は、37万銭であり、現代日本では年収6千万に相当する。
王莽の叔父の王立は、賓客を派遣して、南郡太守の李尚とむすび、草田(荒れた田)を開墾して囲いこむ。私田の開拓は、諸侯もやった。豪族=宗族集団と同じである。

次男の王獲が奴隷を殺した。奴隷を殺害した刑罰はわからない。唐代では労役1年。李鼎芳『王莽』によると、光武の奴婢に冠する命令(建武11年)にふれ、王莽期には奴隷を殺しても罪を減じられた。だが王莽は次男を罰した。心服された。東氏いわく、反対勢力につけ入るスキを作らなかった。家族全員へのわざわいを避けるので精一杯である。「平気で子供を殺す」という批判はあたらない。_072
『後漢書』劉寛伝★で、劉寛は「奴隷を畜産とよんでは、奴隷が自殺すると思う」という。光武の奴婢解放の根拠となった。王莽は王田制により、「私属」たる奴婢の売買を禁じる。『孝経』は人間がもっとも尊いという。こうした儒家の教説と、新野で次男を自殺させたことが、売買の禁令に反映したかも知れない。_072

ゆいいつ史料に残された交際は、後宮である。南陽太守は、門下掾の孔休を「守新都相」とした。門下掾とは、太守の相談にも応じる、門下曹の長官。孔休は、宛県に本籍のある豪族。
「守」とはなにか。侯国の相は、中央から派遣されるもの。漢代、太守が配下の有能な人材を、かりに県級の長官・副官に任命することができた。これが「守」である。
孔休は、王莽から玉具や宝剣をもらわない。なぜか。

◆南陽の豪族社会_074
孔休の人となりは、『後漢書』卓茂伝★にある。卓茂伝の末尾に、王莽に仕えずに名声をたかめた6名がならぶ。孔休は「喀血するのでムリ」と王莽を断り、光武帝から評価された。
儒家を輩出し、光武帝を輩出した南陽とは、どんな土地か。宇都宮氏によって紹介する。南陽は秦末に移民が送り込まれた。武帝期に、製鉄業の孔僅がでた。孔休と同じ孔氏である。
臨淮、沛郡、南陽、蜀郡の南側にフロンティアの境界がある。
宛県の南西に、穣県がある。武帝期に、寧成が耕作させた。王莽の新野県には、陰麗華を輩出する陰氏がいる。宣帝期、陰子方がいて、カマドの神が子孫の繁栄を予言した。陰氏の話は、宣帝期に、南陽の開発の第2段階が始まったと解釈できる。『後漢書』食貨志によると、昭帝期ごろから開墾が進捗した。宣帝期の南陽太守・召信臣が水利をととのえ、3万頃を開拓した。
開拓地で、健全な小農民が没落するのを見た。ゆえに王莽は、王田制などの社会政策を構想した。

ぼくは思う。南陽の経済史から王莽を論じる件。頭のなかに、漠然とひっかかっていた。いま読み直して、ぼくの問題関心と、あまり関係ないことを再確認できた。未練を絶ちきった。それだけで再読の効果があったなあ。


京師への帰還

哀帝は王元后を「媼=ばば」とよぶ。
『漢書』孫宝伝★によると、司隷(哀帝は司隷校尉を「司隷」とした)傅太后が馮太后を自殺させた事件を調査させた。傅太后は哀帝に「孫宝が私を見張ってるんですけど」というから、哀帝は孫宝をげごくした。これに反対したのが、尚書僕射の唐林。「正義派の官僚」は存在した。唐林は、王莽政権に参加する。

外戚の傅氏は、哀帝から権限を与えられない(外戚伝)。それよりも鄧顕が寵愛された。『漢書』侫幸・董賢伝★にある。哀帝の皇后の父・傅晏は、やきもきした。『後漢書』桓譚伝★で、桓譚は傅晏にいう。「いまこそ己をおさめ、家をただせ」と。哀帝の外戚・傅氏は、哀帝期を全うできた。

ぼくは思う。『後漢書』桓譚伝とは、伏兵である。


哀帝期の王氏は、王譚の子である王去疾と王閎の兄弟のみが残った。王閎の妻は、蕭咸の娘。董賢の父・董恭は、王去疾の兄弟と婚姻したい。王閎は、董賢の弟・董寛信のために、蕭咸の息女を要望した。蕭咸は恐れて、ことわった。蕭咸は王閎に耳うちした。「董賢が大司馬となったとき、『允執其中』という一句があった。堯舜革命の言葉である。董氏と婚姻を結ぶのは危険だ」と。

ぼくは思う。固有名詞が乱れ飛んで、ついていってません。でも今回の再読の目的は、「ぼくの知らないことをひろう」なので、ひろっておきます。

王閎は、蕭咸の意向を董恭につたえた。董恭は「禅譲なんか、受けるつもりがないのに」と不協であった。のちに哀帝が「董賢に禅譲したい」とたわむれると、王閎が「高祖の天下であって、哀帝の天下ではない」とやっつけた。

◆漢家が再受命する要請
哀帝の建平2年6月。『後漢書』李尋伝によると、甘忠可が『天官暦包元太平経』によって再受命を説いた。司隷校尉の解光が、この書物が重要だといった。哀帝は「陳聖劉太平皇帝」と改称したが、病気が良くならないので、夏賀良を下獄した。災異説の解説あり。_090

『漢書』鮑宣伝★によると、地方政治が荒廃して、民の生活が破綻したことが記される。「七亡・七死の論」である。
成帝期に叛乱がある。製鉄者の叛乱がおおいのは、製鉄をさせられる囚人や流亡農民が、悲惨な生活を送ったからだろう。
陽朔3年(前22)頴川の申屠聖が太守を殺害。
鴻嘉3年(前18)広漢の鄭躬が起義。
永始3年(前14)河南の樊並、山陽の蘇令が起義。

建平4年(前03)西王母の算木を伝えまわす。『漢書』五行志下の上に、西王母のパニックがある。小南一郎『西王母と七夕伝承』を見よ。杜鄴によると、傅太后と丁皇后のせいである。王元后を西王母になぞらえる。_095
のちに翟義が叛乱すると、王莽は『周書』にもとづき「大誥」をつくる。そのなかで、王元后を西王母になぞらえた。王元后の称号を「新室文母太皇太后」にするとき、王莽は詔して、王元后を西王母になぞらえる。
小南氏いわく、絶対者としての原西王母が、分裂・風化する過程だという。両性偶有が分裂して、西王母と東王公になった。後漢のとき2神が定着した。王莽は、西王母と東王公を、王元后と王莽に準えた。山東省の出土した画像石では、西王母と周公旦がならぶ。

ぼくは思う。4年前は、こういうおもしろそうな話を、ゴッソリ落としている。いかんな。


京師に帰還する王莽の敵は、董賢派である。130602

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平帝期;諸典拠に基づく制度改革

6 元后とともに

哀帝の崩御は、元寿2年6月戊午(26日)26歳。
董賢は自殺した。王莽は猜疑して、董賢のひつぎを開いた。大司馬の属吏であった沛郡の朱詡は、董賢の遺骸を収容した。朱詡は王莽に殴り殺されたが、子の朱浮は『後漢書』朱浮伝にある。朱浮は大司空となる。

『後漢書』列伝21-32を抄訳し、光武のまわりを把握・朱浮伝
ぼくは思う。王莽の敵対者が光武をささえる。しかし大司空になって以降は、光武帝と衝突したみたいです。

哀帝の母系・傅氏と丁氏は、すでに死んでいるが、称号と璽綬を剥奪した。

王太后が「臨朝称制」した。_104
前漢においては、文帝の竇皇后が臨朝称制した。皇太后や太皇太后は「詔」を発する権限を有した、という制度的事実がある。王元后は、哀帝にとっては太皇太后であるが、平帝にはさらに上の世代である。そこで王莽は、「平帝を成帝の後となす」とした。哀帝を抹殺することで、王元后は「皇太后」の権限となる。世代が離れすぎない。
このとき王莽の父の世代では、王立のみがいる。王立を就国させた。

越裳から白雉が献上された。
白雉の献上は、劉邦の臣・陸賈『新語』無為にはじめて記述される。『後漢書』南蛮伝では、記述がふくらむ。周公の居摂6年、周公の「制礼作楽、天下和平」をみて、越裳がきたと書いてある。李賢の注釈でこれは、『尚書大伝』にもとづくとする。王利器いわく、『韓詩外伝』『白虎通』『説苑』にもおなじ記事があるが、すべて『尚書大伝』に基づくものである。
『尚書大伝』は漢文帝期の伏生がつくった。宣帝期の『塩鉄論』崇礼には、周公が越裳からなにかを献上されるが、白雉とは書いてない。伏生よりのち、白雉というディテールが追加されたか。王莽期には成立していたと思しき『孝経援神契』という緯書には、越裳の白雉と記されている。王莽期に、周公旦と白雉の組合せはできていて、王莽は自分をむすびつけた。

太傅・安漢公となる。辞譲の精神による煩瑣な政治的手法をおこなった。
四輔制と三公制をととのえる。
平帝の元始元年3月、四輔制を創設した。王莽が太傅、孔光が太師、王舜が太保、甄豊が少傅。位次からいえば、太師の孔光が、太傅の王莽の上である。だが安漢公の王莽が主催した。王莽は太傅と重複して、大司馬のまま。馬宮が大司徒、王崇が大司空となる。つまり王莽だけが、四輔制と三公制のどちらにも属する。

『百官公卿表』には、最高位として、相国と丞相をおく。つづいて太尉、御史大夫。これらは漢家の三公であり、「秦官」である。つぎに、太傅、太師、太保があり「古官」である。前後左右将軍は「周末の官」である。内史や司隷校尉は「周官」である。つまり、太傅、太師、太保の「古官」は、周官よりさらに以前の官職である。つぎの九卿も、秦官である。
漢家の三公と九卿は、いずれも秦制を継承したもの。
三公制の変遷は111頁にある。元寿2年5月、王莽は大司徒、大司馬、大司空にもどす。丞相の名称が消えた。秦制の伝統を切断し、周制に則った三公制が生まれた。

ぼくは思う。三公レベルの名前を変えるのは、ただ名前の問題ではない。周より以前、周制、秦制、のどれに依拠して朝廷を設計するかという、思想の表明である。

いま元始元年、四輔制ができた。班固が「古官」と認識した、太師、太傅、太保の三公に、三少から少傅をもってきた。だがなぜ少傅をくわえて4とし、三少との整合性をくずしたのか、東氏はわからない。王莽が皇帝に即位すると、太師、太傅、国師、国将という独自の四輔制ができる。

ぼくは思う。権威づけには何種類も方法がある(整理したら楽しそう;ウェーバーの議論が代表的?)。数ある権威づけの種類のなかで、孔子は「私だけが古い制度を正確に知っている」というハッタリで持論を権威づけた。誰も知らない古い制度なんだから、検証できない。孔子に反論できない。孔子を無視することによってしか、孔子の影響力を減殺できない。
ところが、たまたま儒教が、漢家で大きな力をもった。
漢魏の人々が正統性を古典に求めるのは、孔子=儒家の思考パターンをなぞるからか。漢魏の人々が、持論をどの古典に結びつけて主張しているかを検討する以前に、やるべきことがある。「なんでも古典に結びつけて主張を展開するなんて、へんなやつ」という、いちばん始めに持った感想を忘れてはいけない。まあぼくら近現代人は「なんでも新しければ価値を見いだす、へんなやつ」なんですが。


爵位を配布した。爵制について、113頁。
功臣の子孫に爵位をあげているから、漢家の再建にむけて、協力を獲得しようとしてる。王莽の意向は、漢家の再建にあると見て、大きくは誤らないと(東氏は)思う。
女性の囚人を解放したのは、王元后の徳を天下に知らしめるため。

元始3年、周公にならい「制礼作楽」した。『後漢書』輿服志★に類する規定であっただろう。儀式や日常にもちいる乗用車の種類や構造、装飾品、また衣服と冠、佩玉と佩刀、官印や綬の種類について。_116
身分の相違による等級づけの意味をもつ。「奴婢・田宅」が規定にふくまれる。哀帝期に師丹が限田制をいい、董賢や傅氏に反対されて中止された。いま王莽が、田宅や奴婢の制限をした。のちに王莽がやる、王田制につながる。だが内容はわからない。
同じとき、官稷と学官をたてた。教育について。_118
ふつうの学童の初等教育は、15歳までに『孝経』と『論語』を暗誦。

7 呂寛事件_120

王莽の夫人は、『漢書』王訢伝★によれば、昭帝期に丞相となった済南の王訢の孫・王咸の娘である。同姓の結婚である。成帝の建始余年(前29)に、王莽が17歳ぐらいで結婚したか。王莽の家族について。_120
王莽の兄の家も、不幸である。居摂3年(008)、王莽の兄子・王光が、執金吾の竇況に殺人を命じた。司威の陳崇がこれを報告したので、王莽が王光をせめた。王光の母(王莽の兄嫁)は、「王莽は自分の子すら、罪で自殺させる。私たち母子も同じだ」といい、母子ともに自殺した。

呂寛の事件で、呂寛は逃亡した。『漢書』遊侠伝・楼護伝★にある。「もし呂寛が、王莽に追われているという実情を話してくれたなら、私は呂寛をかくまったであろう。下手に隠すものだから、呂寛を王莽に引き渡してしまった」うんぬん。
呂寛と共謀した呉章は、『漢書』云敞伝★によると、弟子の云敞によって死体を収容された。
この時点では、平帝の母・衛氏に、王莽が政権を返上する可能性があった。

王莽は「子の王宇は、管叔と蔡叔と同罪なので、誅殺する」という。
管叔とは、管叔鮮ともいう。周武王の弟。武王の死後、殷紂王の子・武庚をたてて反乱したが、周公に誅された。蔡叔とは、周武王の弟。同じく反乱した。
王莽は「流言惑衆」というが、これは『尚書』金滕★より。周公の故事に「あざとくも」なぞらえて、王莽を周公に擬するものである。
「親親をもって尊尊を害さざる」判断である。『穀梁伝』文公2年★より。
この事件により、王莽の叔父の王立まで自殺した。

◆敬武長公主
宣帝の娘であり、元帝の妹である敬武長公主は、『漢書』薛宣伝★で呂寛の事件に巻きこまれる。薛宣は、敬武長公主をめとる。敬武長公主は、傅氏や丁氏に近づき、王莽の悪口をいう。薛宣の子が薛況である。薛況は、義母の長公主と私通した。
薛況は呂寛と親しいので、長公主は服毒させられた。「兄嫁=王元后は、なぜ私を殺すのか」といって死んだ。
『漢書補注』で周寿昌はいう。長公主は60歳に近いのに、義子と私通するのはおかしい。班固がよく確認せず、王莽のつくったデマを記したのだろうと。

梁王の劉立は、平帝の母・衛氏と私通したので、元始4年に自殺した。王立と王仁の罪は、よくわからない。南陽の諸劉氏と「結恩」したと元后伝にある。王莽は2人の子に爵位をつがせた。王仁の子は王術である。

東氏は分析する。儒家的理想政治への思うが、残忍な仕打ちを王莽に要求し、やむを得ざる決断をおこなった。呂寛の事件で、王莽が王元后にとった態度から、おごりが生まれたとも推測できる。
平帝の外戚を排除したので、王氏が排除されることはなくなった。ずっとのち、『後漢書』劉玄伝はいう。更始帝は「王莽も(皇帝となり討伐されなければ)霍光と同じくらいの名誉を得たはずだったのにな」と、嬉しそうに言ったという。王莽の選択肢には、霍光の生き方もありえた。

8 宰衡の称号_132

王莽の娘が皇后となる。信郷侯の劉トウは『春秋』に基づき、天子の皇后の父を「百里四方に封じる」という。王莽の安漢公は、まだせまいと。王莽は辞退して土地をへらす。
みずから策しながら、辞譲しつつ欲望を果たす。「自ら求めているものではないという印象を人々に与えるやり方、これが若年以来の王莽に備わった政治的作法なのであった」「政治的嗅覚によって見極めもついていたのであろう」と。_134

◆周公の比す_135
宰衡となる。位は上公。宰衡の属吏は、秩6百石。三公が王莽にもの申すとき「敢言之」という。漢簡によくある。下位から上位にだす文書の決まり文句。つまり王莽は、三公より上となった。皇帝と三公のあいだ。
『漢書』孫宝伝★にて、越巂で黄龍がでる。王莽を周公に比した。
重沢俊郎氏によると、前漢は孔子に権威があったが(今文)、孔子に慕われた周公(古文)がでてきた。劉歆が『周礼』を「発見」し、周公が太平を致した書と位置づけた。周公は周成王を補佐した者である。古文学、『周礼』、王莽の三者がつながる。
王莽の「制礼作楽」による秩序づけは、周公の政治と同じ。
周公は6年間、ただの摂政ではなく、天子として郡臣に接した。これは1つの解釈であるが、けっきょく周成王に返上した。

ぼくは思う。周公旦は周成王のとき、補佐や即位したとされる。平和に政権を返上したのか、闘争が起きたのかも不明。伝説に属する時代なので、真偽を検証しにくい。そこでだ。「人間の性質はだいたい同じ」と近似し、王莽に基づいて、遡及的に周公旦の事績を「復元」できないか。王莽が周公のマネをした結果、こういう有史時代の事件が記録された。だから周公も(記録が廃れたなりに)こういう事件が起きたのではないか。という連想です。
ぼくは思う。時系列で整理すると。太古に周公(のモデル)が執政する。王莽が登場し、周公に着目する。王莽が周公の事績を膨らまして固める。王莽が執政する。その王莽の事績をもとに、ぼくが太古の周公(のモデル)を復元する。解釈学的なフリコ運動を何往復もしているが、記憶や神話の形成過程としては「あり」だと思うのです。


◆制度改革
王莽が政治改革した。譚其驤『新莽職方考』など。

ぼくは思う。新莽職方考は、ウェブでダウンロードできてしまった。

官吏の認容について、大司馬護軍の褒(姓は不明)がいう。王莽の「戒めの書」を暗記できた者を登用しなさいと。『孝経』の暗誦と同じように、採用の資格とした。_142
礼制を整備した。元始4年、漢高帝を長安の郊外で天に配し、漢文帝を宗廟に祭って上帝に配した。「配」とは主神にあわせ祀ること。天子七廟制に関係し、金子修一『古代中国と皇帝祭祀』にある。

この本は、買ってもってる。見よう。

哀帝期に孔光と何武が五廟制をいい、劉歆が『礼記』王制より七廟制をいった。武帝を「世宗」と決定づけた。いま王莽が元始4年、宣帝を「中宗」、元帝を「高宗」と結論づけた。以上5つが不毀で、成帝と哀帝は順にこわす。
元始5年、南北郊の問題を解決。30年に5たび変更された問題。
元始4年夏、明堂と辟雍を建立した。藤川正教『漢代における礼学の研究 増訂版』。146頁に明堂復元図。
学者のために宿舎を建設した。_148

いまやろうとしている王莽の本は、制度史の説明にはしない。というか、できない。 おまけ。いま思うこと。
ぼくは思う。『漢書』でぼくの分からない言葉に、ぼくが分かる言葉で『補注』が付いていたり。『晋書』でぼくの分からない言葉に、ぼくが分かる言葉で現代中国語訳が付いていたり。分かる/分からないの境界線を、注釈者や翻訳者と共有しているとき、とても嬉しい。史料中の文字や内容が分かったこと以上に嬉しい。
ぼくは思う。ワイド版岩波文庫は老眼用だと思ってた。でも「教科書」みたいな重さと大きさが『論語』などの古典を読むには、しっくりくる。岩波文庫には権威主義的なかってなイメージがあって(思いこみ)避けてきたけど、ワイド版は良いなあ。姿勢を正して古典を読むには「それっぽい」から。
休日出勤した会社の昼休み(無形固定資産のバカやろう)に、ワイド版で『論語』を音読していると、とても気分がよかった。


◆九錫をたまう_149
九錫は、『周礼』春官・大宗伯、『周礼』春官・典命、『礼記』王制にある「九命」にもとづく。大功ある者への栄転をいう。王莽への九錫賜与が、史上最初である。曹操も王莽にならった。
禅譲革命については、宮川尚志『六朝史研究 政治社会篇』がくわしい。宮川氏は、民衆から諸侯までが王莽に九錫を与えよというのを「官制の民衆運動の芝居」とする。その運動を行わせるに、王莽はそのまま任せたと。
宮川氏はいう。安漢公を4年やり、宰衡となり、位は諸侯王の上。後世の事例から考えると、つぎは王である。だが高祖が「劉氏でなければ王としない」と言ったので、安漢王にならなかった。九錫を授けられた。

ぼくは思う。王爵をとばす。曹魏以降、禅譲のプロセスにおいて、公爵、王爵、皇帝と進む。だが王莽は王爵がなく、安漢公から皇帝に(曹魏以降と比較して言うなら)飛びこす。宮川尚志氏は「劉氏のみ王とせよ」という高祖の遺言を理由にあげる。ぼくが思うに王莽の姓が「王」なので、飛びこしが感覚的に受けつけられたのかなとも思う。つまり、曹操は「魏王操」となるのだが、王莽は「安漢王莽」であり、爵位なのか姓なのか、目を細めれば、見落とすことが可能である。ダブルミーニングにより、王爵を飛びこしたことの抵抗感を減らすことは可能。というか王莽は漢家に取って代わるのだから、漢家の爵制を遵守する要請は減るかも。「ちゃんと進んだ」という感覚が大事なんだ。王莽のように、新しいことをする者にとっては。
もちろん、後世の曹魏以降を標準に、王莽の「足りなさ」を言うのは、順逆がおかしいのですが。少なくとも王莽期にも、皇帝の前には諸侯王というステップが認識されていた。飛びこしたことには変わりない。また曹操のときだって、劉氏のみしか王にならない。曹操は「禁則がないから、魏王になれた」のではない。


◆平帝の毒殺説_153
元始5年12月、平帝は病に倒れた。
王莽は策書を奉じて、泰畤(天子が天神を祀るところ)にて命乞した。『尚書』金滕★にならった。顔師古は平帝紀の死亡記事に注釈する。
『漢注』にいう。平帝が成長すると、衛氏を抑圧した王莽を怨んだ。王莽もそれを自覚し、平帝を弑殺した。臘日の祭りのとき、椒酒のなかに毒薬を入れた。翟義は、これを檄文で言ったのだと。
東氏はいう。『漢注』とは。後漢後期、服虔や応劭による『漢書』注釈より前につけられた、諸家の注釈らしい。吉川忠夫「顔師古の『漢書』注」より。
翟義や隗囂の檄文を、そのまま事実と見なして、臘日の行事にむすびつけ、解説したという解釈である。『通鑑』巻36では、『漢注』を採用したのである。だが、『漢書』平帝紀、元后伝、王莽伝にその記述はない。外戚伝の馮昭儀伝★によると、平帝はセイ病をわずらった。孟康は「妖病をいう」と注釈し、顔師古も支持する。
『漢書』五行志★はいう。容貌が恭しくないと、怪異が生じる。そのうち「痾」は人間の病気としてらわれる。これがひどくなると、異物が生じて「セイ」となる。どのような病気か分からないが、平帝は病弱である。

平帝の病弱につき、もう1つ。
『後漢書』劉祉伝★はいう。元始5年、明堂で祫祭をやる。南陽の安衆侯の劉崇は、舂陵侯の劉敞にいう。「王元后は高齢で、平帝は病弱なので」と。
串田久治氏はいう。王莽が即位した直後、王元后の称号のことで、遠縁の王諫を鴆殺した。王諫の鴆殺と、平帝の鴆殺が混同された可能性がある。翟義が、意図的に事実をゆがめ、反乱に利用した可能性がたかいと。
東氏はいう。宮中のことは、真相を解明できない。政治状況、王莽の自己認識などから、推定するのみ。王莽は、すでに最高権力者である。「簒奪者」という評価は、漢家の血統を重んじる立場から出てきても、政治や社会秩序を安定させる必要性の観点からは生じにくい。王莽の皇帝即位は、政治や社会秩序に照らせば是認される、という評価もまた、一理を有する。!130609

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摂皇帝、真皇帝期;禅譲を理論づけ、匈奴と衝突

9 摂皇帝となる

礼に明るい宗伯鳳を召し、6百石以上は3年喪。成帝廟を「統宗」、平帝廟を「元宗」として、哀帝を七廟からはずす。
居摂皇帝になるとき、『礼記』明堂記、『尚書』洛誥を利用した。
孺子嬰を皇太子とする。『漢書』宣元六王伝★はいう。平陵の方望が劉嬰を天子としたが、更始帝の丞相する李松に殺された。『後漢書』光武帝紀にもある。

居摂元年4月、安衆侯の劉崇が、国相の張紹と謀議した。張紹とは、宣帝期の張敞の孫・張敞の従兄である。『漢書』張敞伝★によれば、張敞は王莽のとき、太守・列侯となる。
つぎに、翟義が反乱した。『後漢書』翟方進伝★に顛末がある。163頁。居摂2年(後07)に起兵した。同年5月、王莽が貨幣政策をやり、諸侯に黄金の所有を禁じた。翟義の反乱は、諸侯の不満をふまえたものか。
王莽は『周書』にならって「大誥」をつくる。翟義伝★に治められている。大夫の桓譚をつかい、全国に配布させた。
同じころ、槐裏で、趙明と霍鴻が反乱した。動機はわからないが、西羌による西海郡の攻撃に関係するか。王莽は劉嬰を抱き、天地に祈った。甄邯や王晏に、趙明を攻撃させた。
翟義の邸宅を水たまりにした。_167
『左氏伝』宣公12年★の楚荘王の言葉を引用して、「京観」をつくった。儒家経典に即して事をおこなう習癖の一例ではある。

『漢書』翟義伝の「賛」で、班固はまだ王莽を倒すのはムリだという。
翟義の件は、王莽の皇帝即位の願望を現実化させる契機となった。自身をつけた王莽は、長安で楚王を擁立する事件にショックを受けない。居摂3年11月、期門郎の張充ら6人が楚王を立て、失敗した。この事件の数日後、王莽は皇帝位につく。機は熟したと言うべきであろうか、と東氏。_169

◆摂皇帝の自信_169
翟義と趙明を制圧した。王莽は白虎殿でねぎらう。上奏して、『孝経』に見える孔子の言葉、「制礼作楽」の正史にもとづき、周爵5等爵を採用した。漢代の20等爵をやめた。

ぼくは思う。王莽の改革は、漢家が現実的な要請によって(仕方なく、だが効率的に)秦制を踏襲してきたものを、やめること。つまり、秦制がダメだといい、周制(と王莽が想定するもの)に近づける。しかし、皇帝という制度が、秦制と癒着している。片方をはがせば、片方が死ぬ関係。王莽は、秦制を否定しながら、秦制に由来する「皇帝」になった。矛盾しているなあ。「真皇帝」という言い方をしている。だから、主君一般の意味ではなく、まさに秦制の「皇帝」を使っているじゃないか。
秦制を否定する居摂「皇帝」の王莽。矛盾だ。だけど、思想も制度も、累積と妥協により変遷(発展と言い換えてもよい)するもの。たとえば、全国を州で分割するとき、王莽は漢制の現実に妥協した。「これでいいのだ」です。べつに王莽の挫折ではない。むしろ、アナクロニズムという評価が妥当でない。

20等爵と、5等爵の関係はわからない。民爵の機能や効用がどのように継続されたか。というのは、始建国元年秋、吏爵2級、民爵1級を付与する。つまり、20等爵がまだある。
この5等爵とは、反乱の鎮圧者に元帝して配った。20等爵を、全面的に改めたものではない。

王莽の母が死んだ。『周礼』に基づく「聖制」に基づき、王莽のやるべき服喪が議論された。王莽は摂皇帝として、秘府をひらき、周制の礼を明らかにした。『周礼』は「群疑の府」と言われるほど、議論がある。成立の問題があるが、ともあれ王莽は劉歆とともに、古文学の『周礼』を利用した。_170

ぼくは思う。内容の議論は、ここで始めると話が進まなくなるのね。ぼくがやるときも、やはり放置するでしょう。


◆諸人士の去就_171
楚国の彭城の龔勝がいる。楚国の武原の龔舍とならぶ。「楚の両龔」と尊敬された名士である。

ぼくは思う。東氏が、こうやって王莽伝の外部などから、話を紹介してくださるので、いま再読しています。

哀帝に結びついた龔勝は、王莽の誘いを拒絶して、餓死した。王莽は、賢者を招致できない不徳者になってしまった。龔勝は王莽の体面のために、自殺を余儀なくされた。_174

斉郡の薛方は、『漢書』鮑宣伝★の末尾にある。薛方は、王莽をほめることで、仕官を避けた。_174
鮑宣もまた、王莽に殺された。何武も死んだ。鮑宣の子・鮑永は、『後漢書』鮑永伝★にある。王莽の敵対者は、しつこく迫害された。

知識人や官僚にとって、王莽への去就は、居摂期にかたまった。『漢書』鮑宣伝★の末尾で、郭欽と蒋詡の話がある。王莽を拒絶した。
『後漢書』独行伝★にある李業は、病気を理由にして去った。王莽は李業に、六筦政策のために、酒造を監視させようとした。李業は逃げきった。130609

10 皇帝位につく_177

符命が現れた。符命とは、割り符である。権威を与えられた命令や恩恵などを保証する「しるし」である。
「銅符」「帛図」「金匱図」「金策書」はおなじ。『漢書』五行志★の冒頭では、『易経』をひき「河は図をだし、洛は書をだす」という。『尚書』洪範★は、禹王が洛書をもとに作成したという。河図洛書である。『論語』子カン★では、河が図をださないから嘆く。
董仲舒が災異説を体系化した。『漢書』五行志中之下は、昭帝期に「公孫病已がたつ」と出現し、病已=宣帝が即位した。_180

ぼくは思う。東氏が「漢代史のあらゆる分野に精通していないと、王莽伝は書けない」という。だから、東氏の本を読むと、漢代史のあらゆる分野の復習&予習になる。


広漢の哀章が、銅製の匱(ひつ)をつくり「王莽よ、真皇帝となれ」と製作した。
居摂3年(後08)11月21日、王莽から王元后に符命を報告して「初始元年」と改元。11月23日の日没後、哀章が高祖廟に銅匱をもつ。11月24日、王莽が受けとる。公卿と禅譲を議すが、結論です。25日、王莽が高祖廟で神命=禅譲を受ける。たった数日で即位した。

ぼくは思う。干支でなく、日付を数字にすると、よくわかる。

西暦09年、王莽は54歳のとき。_183

◆伝国璽_185
『漢書』王元后伝で、王莽に伝国事を奪われる。栗原朋信氏は、後漢の光武帝のころから、伝国璽がでてきた。後漢の正統性を主張し、王莽を簒奪として非難するための文飾とする。ここは「皇帝の六璽」とすべきだという。
王元后が伝国事を持っているのは、孺子嬰がまだ皇帝即位していないから。
王元后は皇帝の嫡妻である。漢帝の正統性が継受されており、王莽と同族である。漢家の廃止とともに、王元后の尊号をうばわない。漢帝の正統性の保持者、かつ王氏の一員として「天下歴代の母」なる権威を、新家の正統性に利用しようとした。
このきっかけをつくった王諫は毒殺された。銅璧を献上した張永は、貢符子(五等爵の子爵)に封じられた。

◆即位の論理_189
『礼記』礼運★は、天下は公で、賢者に禅譲するという。同姓で継承するには、これを封じ込める必要があった。
曹丕が受けた詔書には、『礼記』礼運がひかれる。王莽の場合、前代の皇帝から、禅譲の意志を明確に受けとっていない。だから哀章による符命がつかわれた。符命に「皇太后は命のごとくせよ」とあるが、これは皇太后に王莽への禅譲を認めろと命じるものである。皇太后は拒んだが、伝国璽の移動によって、王莽は禅譲の意志を確認できたことにした。王莽は伝国璽を喜んだ。

ぼくは思う。この象徴的なアイテムにより、皇帝の地位が対象化され、移動可能になってしまった。でも、それで良いのだ。だって伝国璽を発明したのが、正真正銘の簒奪者・光武帝だから。皇帝の地位が移動可能と認識されると困るのは前漢のみである。むしろ後漢は、移動可能であってもらわねば、政権の正統性がない。献帝が曹丕に禅譲したのは、やむを得ない結果である(と史書の評論なら書いてありそうだw)

さらに王莽は、上帝から高祖の神霊への命令だと、前面にだす。皇太后への命令は、消去されている。
西嶋定生氏によれば、高祖廟や光武廟には、上帝から授命した創立者の祖霊が存在する。だから新たに即位した皇帝は、この神秘的な祖霊から承認される必要がある。
しかし王莽と劉邦は異姓である。どうしたか。
王莽は皇帝につくと、漢高祖廟を「文祖廟」に変更した。『尚書』舜典★で、舜は堯の祖先の廟(文祖廟)で授命した。これをまねた。
王莽は「9月に高祖廟に参るから」といい、劉氏の厚遇を約束した。
『自本』によれば王莽は、虞舜の子孫である。『自本』が作成された時期が問題だが、わからない。呂寛の事件のころ、萌芽が見られたか。呂寛の以後、周公に自分をなぞらえた。まだ明確に禅譲の意志がないか。平帝の死のころか。

ぼくは思う。分からないことが分かった。

堯舜と五徳に一致させるため、漢新の徳の種類を一致させねばならない。漢文帝期、張倉は漢家を水徳という。公孫臣と賈誼は土徳という。秦家は水徳で、相勝説において漢家の土徳が勝ったとする。

ぼくは思う。マレーシアには5すくみのジャンケンがある。勝敗の組合せを10種も覚えねばならず、2人で競って1度で勝負がつく(アイコにならない)確率は8割。3すくみなら3種のみ覚えればよく、勝負がつく確率は6割。つまり複雑でも優劣を明確にしたいなら5すくみ、単純で優劣を先送りしたいなら3すくみ。
漢魏晋の革命が主張した五行の相克と相生は、5すくみ。複雑で覚えにくいが優劣の主張に適する。戦国の諸侯が正統論に使った三統(夏殷周)は、3すくみ。仕組みは単純だが優劣が曖昧で、なんとでもいえる。思想の流行には時代状況が反映するのかも。マレーシアの件、芳沢光雄『3の発想』より。
ぼくは思う。相勝と相生は、「ソウショウ」という音まで同じで、覚えさせる気がないですね。難しすぎるのだ。

劉向と劉歆は、漢家を火徳とした。変遷は194頁。
劉氏の祖先が堯だと『左氏伝』文公13年★にある。『左氏伝』は『周礼』とともに、古文学派の文献である。『漢書』儒林伝★の末尾に、平帝期に置かれた学官は、『左氏春秋』『毛詩』『逸礼』『古文尚書』とある。元始4年ごろだ。堯舜が禅譲する故事を利用する、文献学的な準備がととのった。『自本』の成立も、元始の末期か。

ぼくは思う。こういう考証は、ぜったいに1人でできないので、助かります。


この歳、おそらく9月より前に、狂女が「高祖が怒っている。9月までに王莽を殺す」という。王莽が9月に高祖廟に到るという詔書を踏まえたもの。詔書の内容を知る者が、狂女に吹き込んだか。狂女とは巫女か。_198
『後漢書』劉盆子伝はいう。赤眉には斉巫が従軍した。おなじか。
王莽は、虎賁の兵士を高祖廟にゆかせ、剣で四面をなぐった。

天鳳2年(後15)、黄龍がおちて、黄山宮中で死んだという。この宮殿は、漢恵帝2年に建造された。漢武帝も微行した。王元后も遊びにゆき、王莽に従った。なじみの場所。_199
ただし、
串田久治氏よると、王莽を批判した「謡」がない。知識人が、児童や庶民に不満を託して、影響力を発揮するものである。王莽を簒奪者と見ることは正しくないと。だがこの黄龍の「訛言」も同じ役割を果たした。「謡」がないとも言えない。王莽は後ろめたさがあったのか。130609

11 新王朝の諸政策_201

官職は『礼記』王制★にもとづく。『周礼』は360の官職をいうが、『礼記』は120である。 王莽期中央主要諸官職表は、202頁。地方は204頁。
名称にこだわる理由は、革命を明確にしたい。秦制を廃棄して、儒家の経典に即したい。『論語』子路で「必ずや名を正さんか」というが、これが気がかりか。
王莽は平帝の元始5年まで大司馬だったが、後任の馬宮が8月に免官され、大司馬はいなかった。
居摂元年、王舜を太傅左輔とする。王莽が太傅に留まっただろうから、王舜が王莽を補佐した。ところで、居摂3年11月に、王舜は太保である。王舜が、いつ太傅左輔をやめたのか不明である。
太師の孔光が死ぬと、太師は空席になったようだ。だから、太師に就官した者はでてこない。その他、莽新の官制について、206頁。王莽の官制も爵制も、わかりにくい。
爵制について207頁。

地方統治は、郡国制と異なる。諸侯王が廃止されたので郡県制に見える。だが五等爵を布いたから、周代の封建制を目指すようにも見える。始建国元年、吏爵と民爵をくばるので、20等爵は廃止されていない。わからない。
地皇元年(後20)7月、子の王安を新遷王とし、皇太子の王臨を統義陽王とする。郡国制もありそうである。
劉氏の爵位は。『漢書』諸侯王表★によれば、禅譲のとき王爵から公爵となり、翌年に庶民となる。『後漢書』劉祉伝★によると、劉氏の列侯は子爵におとされ、始建国2年に奪爵された。王莽に協力した32名の劉氏は「王」姓をつけて、侯爵を継続させた。
王莽のとき、僕射から祭酒に転換する。_209
地方制度。『周礼』の両都制による。『尚書』禹貢、『礼記』王制にもとづき、地方官をもうける。度量衡は『漢書』律暦志★にある。

◆王田制の施行_213
始建国元年4月、独自の土地制度を発表した。王田制は、限田制と井田制との関係が議論されてきた。_215

ぼくは思う。ぼくの手に余るので引用しない。

地皇2年(後21)、平原の女子・遅昭平が、明学男の張邯が、井田をつくると告発する。張邯は、『漢書』儒林伝★にある。『詩経』の継承者という、学問の人脈が、王莽に王田制のアイディアを教えたか。堀敏一『均田制の研究』にくわしい。
『左氏伝』に「私属」という語があるが、儒家たる王莽は、奴隷を人間なみに扱いたい。いっぽう『夏書』甘誓は命令に従わない者を「奴戮」するという。奴隷あつかいは、王莽のなかでは矛盾しない。_220

このあたり、複雑なことが書いてあるので、再読が必要。


◆六筦政策と貨幣制度_221
『漢書』食貨志★によれ。『周礼』地官に「泉府の官」があり、売れないものの売買をコントロールする。『易経』繋辞伝に、財産管理を行って、民の違法行為を禁じるとある。劉歆は顔師古注より、貨幣や物資の管理を提案していたと窺われる。王莽は貧富を平均化したい。_222
五均官は、『周礼』にもとづく税制と関係する。_223
王莽は貨幣インフレをやった。山田勝芳『貨幣の中国古代史』にある。_227

12 匈奴単于の怒り

『漢書』匈奴伝★によると、武帝期に攻撃した。宣帝期、単于の継承でもめて、5単于が並立した。元帝初、呼韓邪が統一した。元帝は、王昭君を単于にめあわせた。_230
呼韓邪が前031に死に、前08に嚢知牙斯が単于となる。この嚢知牙斯が、哀帝期から王莽期にかけての匈奴の単于である。
哀帝期の前03、単于は「来年、元旦に朝賀したい」という。哀帝が病気で、費用のかかる朝賀を受けたくない。黄門郎の揚雄は、「匈奴と敵対したほうが費用がかさむ」といい、朝賀を認めさせた。前01年、匈奴は来朝した。王莽は、新野に就国しているから、単于の応対に関わらない。

王莽が執政すると、匈奴との関係が悪化する。
元始元年、西域の車師後王が、戊己校尉の徐普とトラブルをおこし、車師後王が匈奴ににげこむ。西域都護の但欽が、去胡来王を救援しなかった。去胡来王が匈奴ににげこむ。王莽は嚢知牙斯に「西域は漢家の領域だから、匈奴ににげた2者を受け入れるな」という。
王莽は、匈奴ににげた2者の西域の王を斬刑とした。
さらに王莽は、単于が亡命者を受け入れるのを禁じた。これは、宣帝が呼韓邪(嚢知牙斯の父)と結んだ盟約を破るものだった。_233
嚢知牙斯を「知」と1字名に改めさせた。

◆匈奴単于への新印_233
後09秋、五威将の王奇が、符命42をもち、天下に革命をつげた。漢家の印綬を回収した。西域の王は侯爵とした。匈奴の単于は「璽」から「章」にかえた。西域も匈奴も反乱する。東北でも厳尤の諫めが聞かれず、強攻策をやる。
匈奴には、五威将の王駿と、五威率の甄阜がゆく。『礼記』曽子問に「天下に二日なく、二王なし」というので、異民族から王爵をはがす。王駿は、新しい璽をきちんと説明せずに、にげた。_235
後10、単于は漢家のふるい璽をもとめ、辺境を犯す。11月以前。
漢代の璽の使い方について。_236
「匈奴単于璽」であれば、「漢」を冠していないので、漢臣でない扱いである。対等である。しかし「新匈奴単于章」であれば「新」を冠するので、新臣である。一般の外臣の首長と同じになった。

ぼくは思う。匈奴は、漢族の王朝のなかで、ランクを落とされたから、怒ったのではない。漢族の王朝と対等だったのに、配下に落とされたので、怒ったのだ。


◆匈奴と西域の反乱_238
後10、車師後王が匈奴に降伏しようとしたが、西域都護の但欽が斬った。だから車師は匈奴に亡命した。匈奴は車師を受け入れた。王莽の命令に反したのだ。車師は攻撃にでて、西域都護の司馬を傷つけた。
9月、戊己校尉の部下2名が、戊己校尉の刁護を殺し、匈奴に亡命した。匈奴は、2名の亡命者を優遇した。

西域都護の但欽が「匈奴が西域を攻めている」と報告した。王莽は匈奴を15に分割するため、呼韓邪の子たちを招く。後11、雲中で匈奴どうしを殺させた。単于は、雁門と朔方の太守を殺した。_239
ここで王莽が匈奴を対等に認めてしまえば、儒家としての思想的立場がくずれる。

◆華夷の観念_240
『礼記』曽子問、『孟子』万章に、2王がないと記される。
前漢には、『公羊伝』の夷狄観が有力な国家理論を提供した。日原利国『春秋公羊伝の研究』によると。

この本、2週くらい前に買った。まだ読んでないけど。図書館で借りてきて、手元に置いておきたいから買う、というパタンがおおい。

相互転位が可能である。徳と礼の有無により、華夷の区分が変わる。「一統をとうとぶ」ので、シームレスにつながる。いっぽうで、夷狄を拒否する。攘夷である。武力では劣勢でも、劣勢ゆえに文化的には優越感をもち、夷狄への憎悪と侮蔑をつよめる。過激な攘夷にむかう。
儒家には、相互転位できるが、つよく憎悪するという矛盾した態度がある。王莽のなかでは、「制礼作楽」の徳治政治に協力しない単于は、討伐してもよい、と考えたのだろう。
『公羊伝』は今文学であり、王莽の古文学ではない。だが王莽は今文学もつかう。翟義に対抗して「大誥」をつくったが、これは今文学による。王莽は、今文学『公羊伝』に基づき、夷狄の観念を持ったとしても、おかしくない。_243

ぼくは思う。兼学してただろうしね。


◆対匈奴戦の準備_243
即位したばかりの王莽は、富で単于を圧倒したい。辺境に物資を輸送して、呼韓邪の子孫15人を単于にする。
始建国2年12月、匈奴単于を「降奴伏于」とする。王莽らしい「名」にこだわった処置である。嚢知牙斯の違約(かってに亡命者をかくまったこと)を『夏書』甘誓を引用して責めた。_244 討穢敞具の厳尤は、武器や食料の輸送がムリという。
物資が揃ってから、一斉に進軍する予定だった。だが、各地の将軍が、駐屯地で略奪をやる。王莽の作戦は、うまくいかない。_246

◆その後の匈奴との関係_247
後12、長安で匈奴の子を殺し、見せしめた。辺境に集結した12部隊は進発せず、疲れている。
後13、嚢知牙斯が死んだ。後14、西河にいる和親侯の王歙(王昭君の兄子)に、匈奴から使者がきた。王莽は亡命者を返還させ、『易経』にもとづく焚如の刑で焼き殺してから、匈奴との戦闘準備をやめた。
後14、12部隊をひき、遊撃都尉だけをおく。_249
しばらく平穏となるが、後18年に単于の後継問題にからんだので、関係が悪化した。王莽は最後まで、匈奴を属国したかった。_250

東氏は考える。建国当初に匈奴討伐をしようとしたのが、政権崩壊の基本的な要因ではないか。もし北辺が、従来どおり和親して安寧なら、王莽政権の足かせにならなかった。礼制国家の建設が完全でなかったかも知れないが、政権が王莽の死後も継続した可能性がある。
しかし実際は、天鳳元年に和親状態に入ったにも関わらず、王莽が形式的な威勢に執着するから、破綻した。北辺の民衆は、内郡に流れこみ、華北を混乱させた。130610

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衰退期;経済の失敗による滅亡

13 諸政策の破綻_251

◆臣下の諫告
厳尤は匈奴の政策をいさめた。
中郎の区博が、後12に王田制の実現不可をいう。王莽の聖徳に問題はないが、いちど土地を私有した歴史があると、王田制はできないと。王莽は土地の売買を許した。_252
東氏いわく、土地の集積を疑問としない、社会階層の利害を代弁する。天下の田土を公有にするなという。王莽は、土地を私有したい階層と敵対したから、政権が崩壊したとも。

ぼくは思う。土地制度から、歴史が決まる。階層の対立によって、歴史を論じられる。1周まわって、わりにこれは正しいのではと思う。


納言(大司農)の馮常は、後17年、六筦の政策に違反した罰則を強化するなという。王莽は、奴婢の廃止をしたかった。
後16年5月、王莽は官吏の給与の支払を遅らせた。匈奴で出費し、六筦では収入を得られない。納言の馮常は、財政の責任者である。財政の責任者が、王莽になにを提案したか、はっきりしない。_254

後18、大司馬司允の費興を、荊州牧とする。費興は山沢への課税をいさめた。費興は、王莽が元始期に賑恤したことを思ったのでは。のちに荊州方面から、王莽を打倒する勢力が生まれることを、王莽は知るよしもない。
後19、大司馬の厳尤は、匈奴の右部の単于を、長安に住ませるなという。楽毅や白起が用いられなかった前例をひき、「匈奴より山東が先だ」という。_255
後21、公孫禄が「匈奴と和親せよ」という。

◆王田の売買を許可する_256
王田制は、3年で撤回された。始建国4年、王田と奴隷の売買が黙認された。王莽の土地制度は、有名無実となる。

『後漢書』光武帝紀上、『東観漢記』では、光武帝が舂陵侯家の代理として、地皇元年(後20)12月以前の租穀などを払えないと、大司馬府の厳尤にうったえる。厳尤と面会するのはドラマチック(すぎる)が、訴訟は事実であろう。
滞納が虚学ということは、舂陵侯家の名田(私有田)が、相当な面積があることになる。宇都宮清吉氏の試算によると、王莽の10分の1税でこれだけを滞納するには、約100頃の土地が必要。劉氏は庶人におとされたが、私有地のみでも100頃あったのだろう。
王田制は、ほぼ実施されなかったか。_257

王田制の実施状況は、わからない。だが、豪族出身の郡県の官吏は、制度に準拠した名目的な帳簿が、中央に報告されていたのでは。だから始建国4年に、違反が黙認された。
課税や災害や飢饉により、農民が貧窮となる。大土地所有が進んだのでは。王莽の思念とは逆の、皮肉な結果である。匈奴を攻撃する出費がなければ、王莽の土地制度は、いくらかは大土地所有を留められたのでは。_258

六筦政策と貨幣制度の破綻

農民の負担は、前漢にくらべると、高いくらい。国家が貨幣収入を増やしたいと(六筦)貨幣を増やさねばならない。穀物の相対的な価値が落ちるので、穀物で納税する(王田)のは負担が重くなる。農民の負担が増える。農民は、貨幣を獲得せねばならない。六筦と王田は、矛盾に追い込まれた。_258
山田勝芳氏にくわしい。

山田勝芳『貨幣の中国古代史 (朝日選書) 』をいま注文した。

王莽は貨幣を膨張させたので、インフレした。盗賊もしくは奴隷に転落する者がふえた。六筦に失敗して、貨幣収入が増えない。天鳳4年に罰則を強化した。
六筦の実施過程は、明らかでない。監督官となった大商人と官吏の関係が、『漢書』貨殖伝★の王孫卿の事例にあるだけ。『漢書』遊侠伝★にある、陳遵や楼護らと交際する。六筦を監督する権限を得たので、軽侠な手下をつかい、高官との関係をつかって、カネもうけをしたのだろう。_260
匈奴で出費がかさんだ。王莽に貨幣が入らないから、官吏の給与が未払いとなり、官吏が民衆から搾取した。_261

ぼくは思う。王莽が倒産した原因を、東氏は経済に求める。というか「倒産」という言葉をぼくが使っている時点で、作為的なんだけど。匈奴で出費する。六筦で収入がない。官吏の俸禄を払えない。百姓への徴税を強化する。官吏は百姓から収奪する。百姓は盗賊となり起兵すると。
でも、王莽にダメージをあたえたのは百姓の赤眉だが、代わりの政権をつくったのは、土地の所有層である。王莽の崩壊と、代理の政権の樹立は、わけて捉えねばならないのね。東氏がどう接続するのか、見ねば。
ああ、豪族は「土地と奴隷の私有を禁止する」というから、王莽に反発した(と説明される)のか。すじは通るなあ。

六筦は、魯匡が責任者である。地皇2年、公孫禄が「羲和の魯匡のせいだ」というから。王田制の構想は、張邯や孫陽が関与した。地方が急激な変革に、サボタージュしたのかも。
地皇3年(後22)、井田、奴婢、山沢、六筦の禁令をといた。王莽の基本政策が、撤回された。

ツイッター用にまとめた。
ぼくは思う。王莽がつぶれた原因を、東氏は経済で説明する。匈奴に出費。六筦の収入がない。官吏の俸禄を払えず。貨幣膨張。百姓への徴税強化。官吏は百姓から収奪。百姓は盗賊となり起兵。豪族は土地と奴隷の私有を禁じる王莽と敵対と。ぼくは「漢王朝への思慕」で滅亡を説明する史書の「仮説」のほうが心が躍る。
史書の漢家バンザイの記述だって、東氏と同列にならぶ「仮説」の1つですよね。いわゆるサイエンスとしての歴史学は、こんなことを言えないだろうけど。


◆腹心の官僚が離反する_262
王舜と王邑。孔光の女婿たる甄邯、その弟の甄豊。王莽と姻戚にある劉歆。彼らがブレーンである。
王舜と劉歆は、安漢公と宰衡まではリードしたが、革命を懼れていた。甄豊は、革命後に符命を理由として、大司空から更始将軍に格下され、餅売と同格になった。_263

彼らが離れていく過程は、王莽伝にある。


財貨は宦官が管理し、吏民からの上書は尚書がやる。だが王莽は、尚書に文書を回さない。尚書はサボタージュした。天鳳のとき、繋留された者は処罰される前に、赦令で出獄した。_264

14 豪族・民衆の反乱

『後漢書』劉盆子伝で、呂母が起兵する。『漢書』王莽伝では、天鳳4年(後17)に記される。
呂母の息子の罪は、史書にない。後10に発令された六筦=酒造の禁止に触れたのか。呂母が起兵した天鳳4年、王莽は六筦を徹底する。呂母は酒造して若者を養うから、禁令を犯している。
王莽には「禁令が煩瑣なので起兵したみたい」と報告が入る。_267

天鳳5年(後18)、辺境で姦利をえた官僚から、80%を支払わせ、辺境の防衛費にあてた。
北海郡を分割して、翼平郡がつくられた。連率(太守)は田況である。田況は「郡県の財産は、正しく申告されていない」という。田況が増税したので、百姓は田況を悪罵した。

いまぼくがやってる税務の仕事も、これに通じるわ。


◆赤眉の進撃_268
田況を、青徐州牧にした。田況は、中央から派軍する不可を説いた。田況が去ってから、山東は瓦解した。_271
後22年4月、王匡と廉丹を派遣する。ただ倉を開いて、元元(じんみん)を救済せよという。救済してから、どうするかという戦略がない。田況には戦略があったのに。

ぼくは思う。「王莽が田況の言うとおりにやっていたら」と想定するのは楽しい。東氏も、田況の代替案があるわけではなさそう。田況の提案は、王莽伝にあった。

赤眉の別働隊・董憲が、梁郡で王莽軍をやぶる。_271

◆王莽の孤独と狂騒_272
後21年、王莽の妻が死んだ。すでに後13年、王元后が死んでいる。元帝陵とのあいだにミゾをつける。元后陵は、元帝陵の西北すぐ近くにある。

子供たちのトラブルは、王莽伝にある。はぶく。

地皇2年正月、4人の肉親を失った。_274
「大義、親を滅す」という政治的な立場である。_275

後20、運気が土木工事をせよという。新家の宗廟をつくる。九廟をつくる。劉歆は7廟をいうが、7廟に限定するでもない。9番目は、王莽の父の廟である。
始祖の黄帝廟は、南北それぞれ2.3キロある。
登仙!登仙!_277
『漢書』郊祀志★は、王莽の末年の狂騒を記す。

◆南方の民衆_278
『後漢書』劉玄伝より、緑林は赤眉と同じ時期に形成された。
天鳳5年(後18)、大司馬司允の費興を派遣した(前述)。費興が、荊州と揚州の情勢について言及するのは、揚州も反乱が起きそうだから。

南陽劉氏と王莽は、因縁がふかい。
後06年、安衆侯の劉崇は、王莽にそむいた。南陽劉氏は、翟義と姻戚である。『後漢書』劉祉伝★によると、平帝期に王莽が明堂で祫祭したとき、劉敞と劉崇が長安にゆき、「高帝が子孫を諸侯に封じたのは、いまのためだ」という。_281
劉崇が破れると、劉敞は、翟方進の長男・翟宣の娘を、劉氏の妻とした。後07年、翟義が反乱すると、南陽郡は劉祉の妻を殺した。劉祉も系獄された。劉敞がゆるしを願い、居摂期の王莽に許された。
革命ののち、庶人に落とされた。怨んだだろう。

王莽と南陽劉氏の因縁をもう1つ。_282
王莽の叔父・王立は、南陽の紅陽に就国している。王立は南陽の劉氏と「結恩」したと、元后伝★にある。だから呂寛の事件のとき殺された。王立は任侠と結ぶ。劉縯と劉秀も、任侠である。
王立の死後、光武帝は王立の子孫を武桓侯にたてる。

光武帝の起兵と戦勝については、はぶく。


『後漢書』では、王莽軍の戦闘意欲のなさが目立つ。歴史の主役が交替するときの気分、王莽政権の末期症状を現している。130611

15 長安城の落日

隗囂ら72人を全国に派遣したが、逃亡された。_292
劉歆と王渉は死んでしまった。

王莽後期の腹心的存在だった崔発は、長安を平定する申屠建に『詩経』を教えたことがあり、申屠建にくだった。だが崔発は、王莽にくだった符命のことを言ったので、丞相の劉賜に斬られた。申屠建は、更始帝に「三輔の属県の抵抗がひどい」と報告した。_302

15章以降、いま引用すべきことはこれだけ。
ぼくは思う。東氏のストーリーは、儒家の理想に突っ走りすぎたせいで、経済の現実をないがしろにして、王莽が滅びたという。儒家:経済=理想:現実。うーん。

再読、おわりです。130611

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