-後漢 > 荀悦『漢紀』高祖高帝紀 第1-4を抄訳&『漢書』と比較

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『漢紀』巻1;『漢紀』の編集方針を確認する

これは、シリーズものです。前にこれをした。
荀悦『漢紀』平帝紀・王莽を抄訳&『漢書』と比較

高帝の祖先、劉氏は火徳

昔在上聖,唯建皇極,經緯天地,觀象立法,乃作書契。以通宇宙,揚于王庭,厥用大焉。先王以光演大業,肆於時夏,亦惟翼翼,以監厥後,永世作典。夫立典有五志焉:一曰達道義,二曰彰法式,三曰通古今,四曰著功勳,五曰表賢能。於是天人之際、事物之宜,粲然顯著,罔不備矣。世濟其軌,不殞其業,損益盈虛,與時消息,雖臧否不同,其揆一也,是以聖上穆然,惟文之卹,瞻前顧後,是紹是繼。臣悅職監秘書,攝官承乏,祗奉明詔,竊惟其宜。謹約撰舊書,通而叙之,總爲帝紀,列其年月,比其時事,撮要舉凡,存其大體,旨少所缺,務從省約,以副本書,以爲要紀。未克厥中,亦各其志;如其得失,以俟君子焉。

先王は5つの記録をつくる。その内容は5つである。1つ、達道義。2つ、彰法式。3つ、通古今。4つ、著功勳。5つ、表賢能。

ぼくは思う。『漢書』にはない。このように荀悦は、高帝紀を増やすのだ。『漢紀』序文は、べつにあるから。多ければ多いほど、尊いのだw
ぼくは思う。高帝=劉邦のあつかい。『漢書』高帝紀は、全2巻で約17,000字。『漢紀』高祖皇帝紀は、全4巻で約27,000字。荀悦は『漢書』の字数を減らすことが献帝の目的なのに、高帝について2倍に増やしてきた。荀悦が高帝を重んじすぎなのか、班固が高帝を軽んじすぎなのか。おそらく後者w
ぼくは思う。高帝を重んじるため、観念的な美文で水増したり、論評をだらだら挿入したり、過剰に分割して巻数を増やしたり、他の巻よりも省略の手を緩めたり。方法は選ばないから、荀悦は高祖高帝紀の体裁を立派に整える。内容より体裁でまず尊び、従順な姿勢を誇示する。大学生のレポートみたいなものだ。


漢興,繼堯之胄,承周之運,接秦之弊。漢祖初定天下,則從火德,斬蛇著符,旗幟尚赤,自然之應,得天統矣。其後張蒼謂漢爲水德,而賈誼、公孫弘以爲土德,及至劉向父子,乃推五行之運,以子承母,始自伏羲,以迄于漢,宜爲火德。其序之也(中略)戰國時,劉氏徙于魏,遷于沛之豐邑,處中陽里,而高祖興焉。

漢家がおこると、堯の血筋をつぎ、周家の命運をつぎ、秦家の弊害をつぐ。

【胄】は「伷」に同じ。帝王や貴族の血筋。「つぐ」と動詞でも読める。甲「冑」のヨロイとは別字。

漢祖が天下を定める。火徳に従い、蛇を斬り、旗幟は赤をとうとぶ。のちに張蒼が「漢家は水徳だ」といい、賈誼と公孫弘は「漢家は土徳だ」という。劉向と劉歆の父子のとき、伏羲まで遡って検討し、漢家が火徳だと定まった。
劉向らはいう。戦国期に劉氏は魏国にうつる。沛県の豊邑にうつる。中陽里にすむ。高祖が生まれる。

ぼくは思う。荀悦が劉氏の祖先の話をしようとしたとき。劉向らの「研究結果」に依拠して論じるしかなかった。劉氏の祖先は、事実なのではなく、それ自身がひとつの政治的な主張なのだ。
ぼくは思う。これは『漢書』高帝紀の冒頭にない。このように高帝の血筋をほめまくるのは、正史類の本紀の冒頭がやることなのに。ぎゃくに、それ以外に仕事がないほどなのに。荀悦から見れば、これは『漢書』の不備である。
さあ、次から『漢書』と『漢紀』の比較対照が始まります。
@Golden_hamster さんはいう。『漢書』高帝紀下の賛に載っているのが「始祖の血筋をほめまくる」なんじゃないでしょうか。
ぼくはいう。見落としていました。荀悦『漢紀』平帝紀の讃は、『漢書』平帝紀の賛の丸写しでした。でも『漢紀』冒頭にある劉邦の血筋は、『漢書』高帝紀の賛とは違い、劉向からの引用です。『漢紀』高帝紀の讃は、『漢書』高帝紀の賛と違います。いずれも丸写しでない。高帝に関して、荀悦が精しいのか、班固が雑なのか。荀悦は高帝を大事にしてます。
@Golden_hamster さんはいう。初代とかの特に重要な人物については、荀悦も班固もそれぞれに慎重な編集態度を見せているのかもしれないですね。


高帝が呂后をめとる

漢高祖諱邦,字季。初,昭靈后嘗息大澤之陂,夢與神遇。是時雷電晦冥,太上皇視之,見蛟龍臨之。遂有娠,而生高祖。

劉邦の母が、雷電の夢をみる。蛟龍がいる。身ごもる。

『漢書』高帝紀はいう。
高祖,沛豐邑中陽裏人也,姓劉氏。母媼嘗息大澤之陂,夢與神遇。是時雷電晦冥,父太公往視,則見交龍於上。已而有娠,遂產高祖。
ぼくは思う。『漢書』は「邦」という諱を書き落としている。また『漢書』が「母媼」とよぶ劉邦の母を、荀悦は「昭靈后」としている。『漢書』が「父太公」とよぶ劉邦の父を、荀悦は「太上皇」とよぶ。班固の越度を、荀悦が修正したのだろう。
ぼくは思う。『漢紀』に出身地がないのは、血筋の説明で既出だから。


隆準龍顏,美須髯,左股有七十二黑子。寬仁愛人,有大智度。曾爲泗水亭長。嘗從王媼、武負貰酒,每飲醉,留寢,其家上嘗見光怪。負等異之,輒折契棄券而不責。

劉邦が酒を飲むと、光った。

『漢書』はいう。
高祖為人,隆准而龍顏,美須髯,左股有七十二黑子。寬仁愛人,意豁如也。常有大度,不事家人生產作業。及壯,試吏,為泗上亭長,延中吏無所不狎侮。好酒及色。常從王媼、武負貰酒,時飲醉臥,武負、王媼見其上常有怪。高祖每酤留飲,酒讎數倍。及見怪,歲竟,此兩家常折券棄責。
ぼくは思う。身体的特徴は、余さず書いてある。周囲から不思議がられる怪異も、字数を減らしながら、残さず引用されている。荀悦は、劉邦を尊ぶのが熱心である。
ぼくは思う。


單父人呂公好相人,有女,以爲貴。避讎于沛,沛令求其女,不與。及見高祖狀貌,公奇之,因以女妻焉。是爲呂后,生孝惠、魯元公主。嘗有老父過,乞漿,相呂后、孝惠、魯元公主,皆大貴也。及見高祖,乃大喜曰:「夫人兒子蒙君之力也,君貴不可言也。」遂去,不復見。

呂公は娘を劉邦にめとらせた。

『漢書』外戚伝はいう。
高祖呂皇后,父呂公,單父人也,好相人。高祖微時,呂公見而異之,乃以女妻高祖,生惠帝、魯元公主。高祖為漢王,元年封呂公為臨泗侯,二年立孝惠為太子。
『漢書』高帝紀はいう。
單父人呂公善沛令,辟仇,從之客,因家焉。沛中豪傑吏聞令有重客,皆往賀。蕭何為主吏,主進,令諸大夫曰:「進不滿千錢,坐之堂下。」高祖為亭長,素易諸吏,乃給為謁曰「賀錢萬」,實不持一錢。謁入,呂公大驚,起,迎之門。呂公者,好相人,見高祖狀貌,因重敬之,引入坐上坐。蕭何曰:「劉季固多大言,少成事。」高祖因狎侮諸客,遂坐上坐,無所詘。酒闌,呂公因目固留高祖。竟酒,後。呂公曰:「臣少好相人,相人多矣,無如季相,願季自愛。臣有息女,願為箕帚妾。」酒罷,呂媼怒呂公曰:「公始常欲奇此女,與貴人。沛令善公,求之不與,何自妄許與劉季?」呂公曰:「此非兒女子所知。」卒與高祖。呂公女即呂后也,生孝惠帝、魯元公主。高祖嘗告歸之田。呂后與兩子居田中,有一老父過,請飲,呂后因餔之。老父相後曰:「夫人天下貴人也。」令相兩子,見孝惠帝,曰:「夫人所以貴者,乃此男也。」相魯元公主,亦皆貴。老父已去,高祖適從旁舍來,呂后具言:「客有過,相我子母皆大貴。」高祖問,曰:「未遠。」乃追及,問老父。老父曰:「鄉者夫人兒子皆以君,君相貴不可言。」高祖乃謝曰:「誠如父言,不敢忘德。」及高祖貴,遂不知老父處。
ぼくは思う。外戚伝を疑ったが、ふつうに高帝紀からだった。呂后との馴れ初めについて、だいぶ省略がある。まあ呂后は、どちらかと言えば汚点だから。これだけ盛大に字数を省略しても、なお『漢書』の2倍に膨らむ高帝紀。荀悦の腕前はすばらしい。


高祖以亭長送徒驪山,夜行,經豐西澤中,有蛇當道,拔劍斬之,遂過。後人至者,見一老嫗哭蛇曰:「此白帝子也,向赤帝子遇而殺之。」嫗因忽然不見。高祖亡,避吏於山澤中。
呂后常知其處,云高祖所在,上有赤色雲氣。占氣者云「山東有天子氣」,秦始皇帝乃東遊,欲以厭之。

高帝は亭長となり、驪山に人員をはこぶ。

ぼくは思う。『漢書』高帝紀にある、高祖常徭咸陽,縱觀秦皇帝,喟然大息,曰:「嗟乎,大丈夫當如此矣!」という記事は、『漢紀』にはない。始皇帝をひきたて、項羽との対比でおもしろくなる逸話だ。高帝ばんざいの荀悦には不要か。
ぼくは思う。『漢書』高帝紀にある、高祖為亭長,乃以竹皮為冠,令求盜之薛治,時時冠之,及貴常冠,所謂「劉氏冠」也。という記事は、『漢紀』にない。まあ「劉氏冠」なんて、余計な豆知識だしね。
ぼくは思う。抹消符号つきで引用するなんて、現代思想っぽいw

高帝がヘビを斬った。ばあさんが「赤帝の子に斬られた」と泣いた。

『漢書』高帝紀はいう。
高祖以亭長為縣送徒驪山,徒多道亡。自度比至皆亡之,到豐凱撒中亭,止飲,夜皆解縱所送徒,曰:「公等皆去,吾亦從此逝矣!」徒中壯士願從者十餘人。高祖被酒,夜徑澤中,令一人行前。行前者還報曰:「前有大蛇當徑,願還。」高祖醉,曰:「壯士行,何畏!」乃前,拔劍斬蛇。蛇分為兩,道開。行數裏,醉困臥。後人來至蛇所,有一老嫗夜哭。人問嫗何哭,嫗曰:「人殺吾子。」人曰:「嫗子何為見殺?」嫗曰:「吾子,白帝子也,化為蛇當道,今者赤帝子斬之,故哭。」人乃以嫗為不誠,欲苦之,嫗因忽不見。後人至,高祖覺。告高祖,高祖乃心獨喜,自負。諸從者日益畏之。

呂后が見ると、高帝には赤雲がある。始皇帝は天子の気をいやがる。

『漢書』高帝紀はいう。
秦始皇帝嘗曰「東南有天子氣」,於是東遊以當之。高祖隱于芒、碭山澤間,呂后與人俱求,常得之。高祖怪問呂后,后曰:「季所居上常有雲氣,故從往常得季。」高祖又喜。沛中子弟或聞之,多欲附者。
ぼくは思う。『漢書』では始皇帝のつぎ、呂后が高帝を見つけられる話がある。だが『漢紀』では、呂后がいつも赤雲を見ていて、あとから始皇帝がみる。順序が違うが、「荀悦の筆法」を見いだすのは難しい。


高帝が起兵する

◆陳勝と呉広が起兵する

秦二世胡亥元年秋七月,發閭左屯漁陽。
陽城人陳勝字涉,陽夏人吳廣字叔,皆爲屯長。行至蘄,會天大雨,度已失期。失期,法當斬,遂因天下之怨謀叛。陳勝以繒爲書,置魚腹中,曰「陳勝王」,令人賣之。士卒得魚者,故已怪之矣。又令吳廣夜於叢祠中構火作狐鳴,曰︰「大楚興,陳勝王。」衆乃大驚,遂殺其將尉,號令徒屬,稱大楚。勝爲大將軍,廣爲都尉,攻掠城邑。至陳,衆數萬人,勝自立爲楚王。
大梁人張耳、陳餘諫曰:「將軍出萬死之計,爲天下除殘賊。今始至陳爲王,是示天下私也,不如立六國後,自爲樹黨。進師而西,則野無交兵,縣無守城,誅暴秦,安據咸陽,以令諸侯,天下可圖也。」勝不聽,以陳人武臣爲將軍,耳、餘爲校尉,北徇趙地。
當此之時,楚將徇地者甚衆,楚兵數千聚黨者不可勝數。以吳廣爲假王,監諸將。以周文爲將軍,衆十餘萬,西至戲水,蓋百二十萬矣。秦令將軍章邯赦驪山作徒七十萬人以擊之。是時吳廣別圍滎陽不能下,將軍田臧等謀曰:「假王驕,不可與計謀。」乃矯陳王命,誅吳廣,進兵而西。

秦2世胡亥の元年秋7月、閭左を漁陽にゆかす。

どこからきたの?

陳勝と呉広が起兵する。大楚を国号をさだめ、陳勝は大将軍、呉広は問いとなる。陳勝は楚王となる。張耳と陳余のいさめをきかない。張耳と陳余は、北して趙国をせめる。

『漢書』高帝紀はいう。
秦二世元年秋七月,陳涉起蘄。至陳,自立為楚王,遣武臣、張耳、陳餘略趙地。八月,武臣自立為趙王。郡縣多殺長吏以應涉。
高帝紀はこれだけ。まるで足りない。陳勝や張耳の列伝から増やしている。戦況がわかるように、他勢力の事情をおぎなう。固有名詞をつっこむ。親切である。「漢家は、いかに成立したか」を説明せねばならんからね。王莽のときは、王莽の主軍ですら、指揮官の姓名も官職も書いてなかった。
ぼくは思う。いま陳勝と呉広について、執拗に記されることで。陳勝と呉広が、人為の試行錯誤によって、迷走しながらも戦ってゆくという印象が得られる。これを現代人はドラマチックと感じるかも知れないが。荀悦にしてみれば、「正統でない者がこざかしい」であるw 詳細に描くほど、ちゃちくなる。


是歲白再經天。占曰:「法爲大兵,天下易王。」
九月,沛人殺其令,高祖爲沛公,蕭何爲丞相,曹參、周勃以中涓從,夏侯嬰、樊噲爲舍人。蕭何即沛主獄吏;曹參,沛獄掾;嬰,沛廐騶;勃以織簿爲產;噲以屠狗爲事,皆公之舊也。是時,沛公在外黃,兵衆數百人。蕭何等欲應陳勝,故召沛公立之,收沛子弟,得三千人。

この歳の木星の占いで「天下は王を易える」という。

ぼくは思う。『漢書』には、こんな記述はない。いざ高帝が起兵する直前に、高帝を起兵させた直接の要因として、木星が記されている。荀悦は、高帝の起兵ですら、人為ではなく(たとえば愉快な功臣たちの導きによってでなく)天文が導いたという価値観を採用する。「人間が歴史をつくる」という考え方を真っ向から否定する。

9月、高帝は県令を殺して、沛公となる。陳勝らと呼応して、3千人となる。

『漢書』高帝紀はいう。
九月,沛令欲以沛應之。掾、主吏蕭何、曹參曰:「君為秦吏,今欲背之,帥沛子弟,恐不聽。願君召諸亡在外者,可得數百人,因以劫眾,眾不敢不聽。」乃令樊噲召高祖。高祖之眾已數百人矣。
於是樊噲從高祖來。沛令後悔,恐其有變,乃閉城城守,欲誅蕭、曹。蕭、曹恐,逾城保高祖。高祖乃書帛射城上,與沛父老曰:「天下同苦秦久矣。今父老雖為沛令守,諸侯並起,今屠沛。沛令共誅令,擇可立立之,以應諸侯,即室家完。不然,父子俱屠,無為也。」父老乃帥子弟共殺沛令,開城門迎高祖,欲以為沛令。
高祖曰:「天下方擾,諸侯並起,今置將不善,一敗塗地。吾非敢自愛,恐能薄,不能完父兄子弟。此大事,願更擇可者。」蕭、曹皆文吏,自愛,恐事不就,後秦種族其家,盡讓高祖。諸父老皆曰:「平生所聞劉季奇怪,當貴,且蔔筮之,莫如劉季最吉。」高祖數讓,眾莫肯為,高祖乃立為沛公。祠黃帝,祭蚩尤於沛廷,而釁鼓。旗幟皆赤,由所殺蛇白帝子,殺者赤帝子故也。
於是少年豪吏如蕭、曹、樊噲等皆為收沛子弟,得三千人。

ぼくは思う。功臣たちとの会話は省略されている。冷淡に結論だけ導いている。兵数が増えていく過程は表現されている。功臣たちのドラマは不要なのだ。『春秋』の体裁なら、君主の業績だけを、ポツンポツンと書いていくだけなのか。


◆項籍列伝等より

而項籍亦起兵會稽。籍,字羽,故楚將項燕之孫也。羽初起時,年二十四。身長八尺二寸,目重瞳子,力能扛鼎。與季父項梁避讎於吳。梁好爲辯說,陰有大志,吳中賢士大夫皆出梁下。梁乃與籍殺會稽太守殷通,佩其印綬,自號爲會稽將,籍爲裨將,徇下縣。張耳、陳餘既至趙,說豪傑曰:「秦爲亂政虐刑,殘賊天下,北有長城之役,南有五嶺之戍,內外搔動,百姓罷弊,財匱力盡,重以苛法,使天下父子不相聊生。陳王奮臂爲天下唱始,莫不響應。於此時不成封侯之業者,非人豪也。因天下之力,誅無道之秦。報父兄之讎,而成大業者,此壯士之一時也。」皆然其言。乃收兵數萬人,遂下趙十餘城。武臣自號爲武信君,進軍圍范陽。范陽人蒯通爲其令徐公說武信君曰:「范陽令欲以其城先下君,而君不利之,則諸守皆爲金城湯池,不可攻也。君計莫若以黃屋朱輪以迎范陽令,使馳鶩乎燕、趙之郊,則邊城皆喜,相率而降,此由以下坂而走丸也。」武信君乃以侯印迎徐公。燕、趙聞之,降者三十餘城。耳、餘聞諸將徇地者多畏以讒得罪,又怨陳王不以己爲將軍。故勸武臣反,武臣遂自立爲趙王,耳爲丞相,餘爲大將軍。陳王欲誅其家,柱國房君賜諫王曰:「秦王未亡,而誅趙王家,是復生一秦也。不如因賀之,令進兵擊秦。」勝從之。耳、餘與趙王謀曰:「王王趙,非楚意也。楚已誅秦,必加兵於趙。不如北徇燕地以自廣,南據大河,北有燕、代,楚雖勝秦,不敢制趙。若不勝秦,必重趙。趙承秦、楚之弊,可以得志於天下。」乃使韓廣北徇燕地。燕人欲立廣,廣曰:「母在趙,不可也。」燕人曰:「夫以楚之强,不敢害趙,趙獨安敢害將軍之家!」廣乃自立爲王,而趙亦歸其家。趙王略地燕界,間行,爲燕軍所得,囚之以求割地。趙使請王,燕輒殺之。有厮養卒請使燕軍,說燕將曰:「夫張耳、陳餘與武臣俱杖馬策下趙數十城,豈樂爲人臣哉!顧其勢初定,且以長幼相次,先立武臣以持趙心。今趙地已服,此二人名爲求王,實欲令燕殺之而分王其地。夫以一趙尚陵少燕,今以兩賢王立,左提右挈而賫直義,破燕必矣。」燕乃遣趙王,厮養卒爲御而歸。魏人周巿爲陳王定魏。魏人欲立巿,巿曰:「國家昏亂,忠臣乃見。」乃請於陳王,立故魏公子咎爲魏王。故齊王田氏之族儋亦殺縣令,自立爲齊王。章邯敗楚軍,殺周文於邯鄲,殺田臧於敖倉。楚將皆敗,秦遂攻陳,破之。

項籍が起兵した。

『漢書』高帝紀はいう。
是月,項梁與兄子羽起吳。田儋與從弟榮、橫起齊,自立為齊王。韓廣自立為燕王。魏咎自立為魏王。陳涉之將周章西入關,至戲,秦將章邯距破之。
「而」から始まる、大脱線。
ぼくは思う。高帝紀では、さっぱりカバーできない(この一言が、ぼくの確かめたかったことの全てである)。項籍伝、陳勝伝、蒯通伝などから補われている。荀悦が、他勢力の戦況にまで、ちゃんと文字数を割いている。確認できれば、当面は良し。
ぼくは思う。平帝にかんする『漢紀』を論じるために、荀悦が高帝をどのように扱っているか、感触だけ確かめたかったのだ。


沛公2年、楚王の陳勝が死ぬ

沛公二年冬十月,秦將圍沛公於豐,出與戰,敗之。

沛公2年、

ぼくは思う。『漢書』では「秦(胡亥)2年」である。『漢書』のほうが客観的だが、『漢紀』のほうが漢家の歴史書としては(政治的に)正しい。班固は、秦家や王莽に対して、フェアでリベラルすぎるなあ。班固は秦家に優しすぎる。班固が漢家の史書でなく、『史記』の続編=通史を書いたというのは本当かも。何でもかんでも(実態と乖離してでも)漢家のカウント方式を採用しない。なるべく時代の特徴にあわせるように、班固が年数を記していると思う。
ぼくは思う。関係ないけど、いまツイートしてた。
後漢の国家制度のなかで「儒教に基づかないもの」はあるか。後漢の制度は、全てが(建前にせよ)儒教に裏付けられてると思ってた。というか、後漢の制度を裏付けるものとして、漢代の儒教は確立する。両者は一卵性双生児で不可分。後漢の制度のなかに、儒教に基づかないものはない。また漢代の儒教で、後漢の制度を支えないものはない。と思うのは渡邉先生の「儒教国家」を盲信したゆえの思いこみなのかなあ。際どい問題だから、判定できない。でも、ふとした言葉づかいの定義のズレで、この盲信?が露呈しました。おもしろい!
‏@akira090802 さんはいう。刑法、民法、官職、税制、軍制などをイメージしました。もしかすると王莽の影響ありますか?
ぼくはいう。影響の有無を強いて二択で判定するなら「有」だと思います。渡邉先生によると、後漢の制度は儒教をベースにして『白虎通』で確定します。『白虎通』にはakiraさまが列挙された項目が定められています。『白虎通』をまとめた班固は王莽の影響のもとにある学者です。ただし「ここは王莽が由来」と、特定の制度をパーツで切り出すのは難しいと思います。私には確定するだけの準備がありません。伝記を「おもしろくする」意味において、あまり影響がないかも知れません。

冬10月、秦将は、沛公を豊城でかこむ。沛公は敗れる。

『漢書』高帝紀はいう。
秦二年十月,沛公攻胡陵、方與,還守豐。秦泗川監平將兵圍豐。二日,出與戰,破之。令雍齒守豐。
ぼくは思う。固有名詞やこまかい経緯が省略されてる。


十一月,沛公引兵之薛,令雍齒守豐。趙將李良爲章邯所招,遂叛,以兵襲武臣。武臣死,張耳、陳餘出走。

11月、沛公は兵を薛城にひく。豊県は雍歯に守らせる。趙将の李良が、秦将の章邯にまねかれ、叛して武臣を襲う。武臣が死ぬ。張耳と陳余はにげる。

『漢書』高帝紀はいう。
十一月,沛公引兵之薛。秦泗川守壯兵敗于薛,走至戚,沛公左司馬得殺之。沛公還軍亢父,至方與。趙王武臣為其將所殺。
ぼくは思う。『漢書』から固有名詞をおとしつつ、しかし趙将の李良という固有名詞はほかの列伝からもらってきた。一貫した添削の方針があるわけじゃないのか。『漢紀』も「武臣遂自立爲趙王」と上記にある。べつに唐突に登場するのでなく、『漢紀』だけで読めるように設計されている。


十二月,陳勝之御莊賈殺陳勝以降秦。楚人葬之碭,謚曰隱王。勝故中涓人呂臣復收餘兵攻陳,以殺莊賈。是時,勝先令將軍秦嘉掠地,及勝死,嘉立景駒爲楚王。

12月、陳勝は殺された。

『漢書』高帝紀はいう。
十二月,楚王陳涉為其禦所殺。魏人周市略地豐、沛,使人謂雍齒曰:「豐,故梁徙也。今魏地已定者數十城,齒今下魏,魏以齒為侯守豐;不下,且屠豐。」雍齒雅不欲屬沛公,及魏招之,即反為魏守豐。沛公攻豐,不能取。沛公還之沛,怨雍齒與豐子弟畔之。
ぼくは思う。『漢書』が陳渉が御者に殺されたというが、『漢紀』は御者の名=荘賈を記す。『漢書』陳勝伝でおぎなってある。
『漢書』陳勝伝はいう。
臘月,勝之汝陰,還至下城父,其御莊賈殺勝以降秦。葬碭,謚曰隱王。勝故涓人將軍呂臣為蒼頭軍,起新陽,攻陳,下之,殺莊賈,復以陳為楚。
ぼくは思う。高帝紀でなく、こっちが『漢紀』の元ネタだな。


初,勝嘗與人傭耕,相謂曰:「富貴無相忘!」耕者笑曰:「汝今傭耕,何富貴也?」勝曰:「燕雀安知鴻鵠之志哉!」
及勝爲王,耕者叩門曰:「吾欲見涉。」勝見之。出入輕慢,益發舒勝貧賤故情,毀傷威重。勝斬之。故人皆棄而去,由是無親勝者。以朱房爲中正,胡武爲司過,以苛察爲忠。而勝任之,是故諸將不親附,此其所以亡也。
雍齒以豐叛,降于魏。

はじめ陳勝は「燕雀には鴻鵠の志がわからんよ」という。陳勝が冷たくしたので、みんな離れた。

ぼくは思う。これは『漢書』高帝紀にない。
『漢書』陳勝伝はいう。
勝少時,嘗與人傭耕。輟耕之壟上,悵然甚久,曰:「苟富貴,無相忘!」傭者笑而應曰:「若為傭耕,何富貴也?」勝太息曰:「嗟乎,燕雀安知鴻鵠之志哉!」(中略)
初為王,其故人嘗與傭耕者聞之,乃之陳,叩宮門曰:「吾欲見涉。」宮門令欲縛之。自辯數,乃置,不肯為通。勝出,遮道而呼涉。乃召見,載與歸。入宮,見殿屋帷帳,客曰:「夥,涉之為王沈沈者!」楚人謂多為夥,故天下傳之「夥涉為王」,由陳涉始。客出入愈益發舒,言勝故情。或言「客愚無知,專妄言,輕威」。勝斬之。諸故人皆自引去,由是無親勝者。以硃防為中正,故武為司過,主司群臣。諸將徇地,至,令之不是者,系而罪之。以苛察為忠。其所不善者,不下吏,輒自治。勝信用之,諸將以故不親附。此其所以敗也。

雍歯は豊県でそむき、魏国にくだった。

◆春

春正月,張耳、陳餘收趙衆擊李良。良敗走,歸章邯。耳、餘乃立舊趙之後趙歇爲趙王。

張耳と陳余は、趙王をたてた。

『漢書』高帝紀はいう。 正月,張耳等立趙後趙歇為趙王。東陽甯君、秦嘉立景駒為楚王,在留。
ぼくは思う。これは何年の記事? 『漢書』高帝紀では、とくに年の宣言がなく、なしくずし的に始まる。しかし、沛公の2年は、すでに冬になったよね。暦法が混乱した?


沛公將見景駒,遇張良于留。

高帝と張良があう。

『漢書』高帝紀はいう。 沛公往從之,道得張良,遂與俱見景駒,請兵以攻豐。
これが呼び水になり、張良伝がはじまる。


◆張良伝

良,韓人,其先五世相韓。及韓亡,良弟死,不葬,悉以家財求客報讎强秦。秦始皇東游,良募力士擊之,誤中副車。亡匿下邳,游于圯上,有一老父至,直墮其履,顧謂良曰:「孺子,下取履。」良甚怪愕,爲其老,乃取履,跪而進之。父曰:「孺子可教矣。後五日,與吾會此。」及期,而良後至,老父怒之。凡三期而良先至,老父乃喜,遺書一編,曰︰「讀此即爲王者師。後十三年見我于濟北,穀城山下黃石即我矣。」遂去,不復見,其書乃《太公兵法》也。良乃以說沛公,沛公善之。良曰:「沛公殆天所授。」故遂屬焉。

張良は老人に兵法をさずかった。

◆陳嬰伝

項梁以八千人渡江,聞陳嬰已下東陽,欲與連和。
嬰者,故東陽令吏,縣中欲立爲王。嬰母曰:「汝家世貧賤,今暴得大名,不祥。不如以兵屬人,事成猶得封侯;事不成,禍有所歸,而易以亡。」嬰遂以兵屬梁。

ときに項梁は、8千人で渡河する。陳嬰は、項梁とむすぶ。

ぼくは思う。このように、他人の列伝が出てくるのは、よくわかった。この形式ばかりなら、もう詳しく検討しなくていいや。


◆鯨布伝

黥布亦以兵屬梁焉。布,六人也。少時客相之,當黥而王。及其黥也,乃欣然而喜。輸徒驪山,遂亡,走至江中,聚徒屬而從項梁。

鯨布も項梁とむすぶ。

『漢紀』高祖高帝紀は、こうして列伝でふくらむ。
ぼくは思う。『漢書』高帝紀は、戦況をのべる。
時章邯從陳,別將司馬將兵北定楚地,屠相,至碭。東陽甯君、沛公引兵西,與戰蕭西,不利,還收兵聚留。
二月,攻碭,三日拔之。收碭兵,得六千人,與故合九千人。
三月,攻下邑,拔之。還擊豐,不下。
項梁と項籍の動きについて。


◆夏

夏四月,項梁殺景駒及秦嘉,止薛。沛公往從之,梁益沛公兵,遂攻豐,拔之。雍齒奔魏。居巢人范增年,七十餘,說梁曰:「秦滅六國,楚最無罪。自懷王入秦不反,楚人憐之,故語曰:『楚雖三戶,亡秦必楚。』今陳勝首事,不立楚後,其勢不長。今君起江東,楚蜂起之將,皆争附君者,以君世世楚將,爲能復立楚後也。」梁乃求懷王之孫心,心爲人牧羊。

項梁は、楚王の孫を王にしたい。

『漢書』高帝紀はいう。 四月,項梁擊殺景駒、秦嘉,止薛,沛公往見之。項梁益沛公卒五千人,五大夫將十人。沛公還,引兵攻豐,拔之。雍齒奔魏。五月,項羽拔襄城還。項梁盡召別將。
高帝紀で足りないところは、項籍伝からか。


六月,楚心立,號曰懷王。陳嬰爲上柱國,梁爲大將軍,號武信君;封沛公爲武安侯,爲碭郡長。張良亦說項梁立韓公子成爲韓王,良爲司徒,略韓地。章邯遣兵攻魏,魏將周巿請救于齊、楚。巿以二國師不至,章邯擊殺巿,遂圍臨濟,魏王咎僞使其人納降而自殺。章邯進伐齊,殺田儋。儋從弟榮收餘兵保東阿。齊王建之弟田假自立爲齊王,田角爲相,田簡爲將軍。章邯圍東阿,沛公、項梁救之,大破章邯。

6月、楚懐王がたつ。高帝と項梁が章邯をやぶる。

『漢書』高帝紀はいう。 六月,沛公如薛,與項梁共立楚懷王孫心為楚懷王。章邯破殺魏王咎、齊王田儋於臨濟。
ぼくは思う。高帝紀だけでは『漢紀』に足りない。ライバルの列伝から情報をふやして、情勢がわかるようにしている。『資治通鑑』と比べたい。


◆秋

秋七月,大雨霖,至于八月。田榮歸,逐田假,立儋子巿爲王,己爲相,榮從弟橫爲將軍。田假奔楚,田角、田簡奔趙。項梁遂追秦軍,使召齊王兵俱西。榮曰:「楚殺田假,趙殺角、簡,乃出兵。」梁曰:「田假窮來投我,我不忍殺。」齊使曰:「夫虺蝮螫手則斷手,螫足則斷足,爲其害體也。夫田假、角、簡之在楚、趙,豈有手足之戚,何故不殺?」梁不聽,齊遂不肯出兵。沛公、項梁敗秦師于雍丘,斬秦將李由。而梁益輕秦,有驕色。故楚令尹宋義諫曰:「臣聞戰勝將驕卒惰者敗。今卒少惰矣,秦兵日盛,臣爲君畏之。」梁不聽,使宋義于齊,遇齊使者。義曰:「武信君必敗。公徐行即免,疾行必及禍矣。」

7月、田氏のこと。

『漢書』高帝紀はいう。
七月,大霖雨。沛公攻亢父。章邯圍田榮于東阿。沛公與項梁共救田榮,大破章邯東阿。田榮歸,沛公、項羽追北,至城陽,攻屠其城。軍濮陽東,複與章邯戰,又破之。章邯複振,守濮陽,環水。沛公、項羽去攻定陶。
八月,田榮立田儋子市為齊王。定陶未下,沛公與項羽西略地至雍丘,與秦軍戰,大敗之,斬三川守李由。還攻外黃,外黃未下。

まえに田氏について、読んだ;田横を知り、諸葛亮を知る。


九月,章邯大破楚於定陶,項梁死。齊使徐行,不及禍也。魏王咎之弟豹復收衆,自立爲魏王。楚懷王都彭城,約諸侯曰:「先入咸陽者王之。」章邯既敗項梁,以楚不足憂,乃北伐趙,大破之。趙王歇保鉅鹿。秦將王離圍之,章邯軍其南,築甬道而輸之粟。楚救趙,以宋義爲上將,號曰卿子冠軍,項羽爲次將,范增爲下將。遣沛公別西入關。于是灌嬰以中涓從。嬰,洛陽販繒者也。是時曹參數有戰功,封爲執帛,號建成君。

9月、章邯が項梁を死なす。

『漢書』高帝紀はいう。
項梁再破秦軍,有驕色。宋義諫,不聽。秦益章邯兵。九月,章邯夜銜枚擊項梁定陶,大破之,殺項梁。時連雨自七月至九月。沛公、項羽方攻陳留,聞梁死,士卒恐,乃與將軍呂臣引兵而東,徙懷王自盱台都彭城。呂臣軍彭城東,項羽軍彭城西,沛公軍碭。魏咎弟豹自立為魏王。後九月,懷王並呂臣、項羽軍自將之。以沛公為碭郡長,封武安侯,將碭郡兵。以羽為魯公,封長安侯。呂臣為司徒,其父呂青為令尹。
ぼくは思う。飢えで『漢紀』が「秋七月,大雨霖,至于八月」といってた。暦が1ヶ月ズレているのか。月であわせて記事を切り貼りしても、意味不明になるなあ。
『漢書』高帝紀はいう。
章邯已破項梁,以為楚地兵不足憂,乃渡河北擊趙王歇,大破之。歇保巨鹿城,秦將王離圍之。趙數請救,懷王乃以宋義為上將,項羽為次將,範增為末將,北救趙。
『漢書』高帝紀は、ここでいう。 初,懷王與諸將約,先入定關中者王之。當是時,秦兵強,常乘勝逐北,諸將莫利先入關。獨羽怨秦破項梁,奮勢,願與沛公西入關。懷王諸老將皆曰:「項羽為人慓悍禍賊,嘗攻襄城,襄城無噍類,所過無不殘滅。且楚數進取,前陳王、項梁皆敗,不如更遣長者扶義而西,告諭秦父兄。秦父兄苦其主久矣,今誠得長者往,毋侵暴,宜可下。項羽不可遣,獨沛公秦寬大長者。」卒不許羽,而遣沛公西收陳王、項梁散卒。乃道碭至城陽與杠裏,攻秦軍壁,破其二軍。
楚王との約束は有名だが、『漢紀』はここでふれない。


沛公3年

◆冬

沛公三年冬十月,齊將田都叛田榮,將兵助楚。

沛公3年冬10月、斉将の田都がそむき、楚を助ける。

『漢書』高帝紀はいう。
秦三年十月,齊將田都畔田榮,將兵助項羽救趙。沛公攻破東郡尉于成武。
ぼくは思う。『漢書』高帝紀も、『漢紀』高祖高帝紀も、年号の記述がおかしくて、読みにくいと思った。「秋七月、沛公二年冬十月、春正月、夏四月、秋七月、沛公三年十月」という順序で書かれる。年のはじまりが冬十月と気づくまで、バグだと思ってた。恥だな。気づかなかった。というか、高帝の話をほとんど知らないのに、これに着手したのが誤りだったw


十有一月,楚師至至河上。項羽謂宋義曰:「疾引兵渡河,我擊其外,趙應其內,破秦軍必矣。」義曰:「不然。今秦攻趙,戰勝則兵罷,我承其弊;不勝,則我鼓行而西,必舉秦矣。故不如鬬秦、趙。夫擊輕銳,我不如公;坐運籌策,公不如我。」因令軍中曰:「猛如虎,狠如羊,貪如狼,强不可令者,皆斬。」遣其子襄相齊,身送之至無鹽,飲酒高會。羽曰:「將軍戮力伐秦,而久留不行。歲饑民貧,卒食半菽,軍無見糧,乃更飲酒高會,不因趙食與并擊秦,乃曰『承其弊』。夫以秦之强,攻新造之趙,其勢必舉趙。趙亡而秦益强,何弊之承!且國兵新破,王寢不安席,掃境內而屬之將軍,國家安危,在此一舉。今不卹士卒而徇私,非社稷之臣也。」羽乃晨朝宋義,即入帳中斬宋義頭以出,令軍中曰:「宋義與齊王謀反,王陰令籍誅之。」乃使報命於王。王以羽爲大將軍。

11月、項羽が宋義を殺して、上将軍となる。

『漢書』高帝紀では、到底たりない。
十一月,項羽殺宋義,並其兵渡河,自立為上將軍,諸將黥布等皆屬。


十有二月,項羽濟河,沈船破釜,燒廬舍,令人持三日糧。至則圍王離,與秦軍遇,九戰九勝,絶甬道,大破秦軍,虜王離。當此時,諸侯救鉅鹿者十餘壁,莫敢進。及楚擊秦,諸侯皆從壁上望,楚戰士無不一當十。又羽兵呼聲動天地,諸侯軍人人莫不怖懼。於是既破秦軍,羽見諸侯將,入轅門,膝行而前,莫敢仰視羽。羽者由是爲諸侯上將軍,兵皆屬羽焉,於是羽威權遂振四海。

12月、項羽が秦軍をやぶる。

『漢書』高帝紀はいう。 十二月,沛公引兵至栗,遇剛武侯,奪其軍四千餘人,並之,與魏將皇欣、武滿軍合攻秦軍,破之。故齊王建孫田安下濟北,從項羽救趙。羽大破秦軍巨鹿下,虜王離,走章邯。
ぼくは思う。項籍伝からもってこないと、高帝紀は足りない。


◆宋義と項羽、張耳と陳余

初,宋義與項羽將五萬距秦三將。當王離與羽大戰時,精兵四十萬衆,并章邯軍故也。是時枉矢西流如火流星虵行,若有首尾,廣長如一匹布著天。矢星墜至地,即石也。枉矢所觸,天下所共伐也。凡枉矢之行,以亂平亂,項羽伐秦之應。沛公又敗秦軍于栗邑。
陳餘遺章邯書曰:「白起爲秦將,南拔鄢、郢,北坑馬服,攻城略地,不可勝計,卒賜死于杜郵。蒙恬北逐戎人,開榆中之地數千里,竟死于雲陽。何者?功多而秦不能封,因以法誅之。今將軍爲將三年,所亡失以十萬數,而諸侯並起。丞相趙高專政日久,今事急,恐二世誅之,必因以法誅將軍以塞責,使人更代以免其禍。將軍居外久,多內隙,有功必死,無功亦死。且夫天亡秦,愚智皆知之。今將軍內不能直諫,外爲亡國將,孤立而欲長存,豈不哀哉!」
章邯狐疑,陰與項羽約,未決。鉅鹿之圍,陳餘以數萬人軍在鉅鹿北,力不能救趙。張耳令張靨、陳釋召餘,餘遣靨、釋將五千人當秦軍,皆没。及罷圍,耳責怒餘。餘曰:「所以不進死,欲報秦也。今赴秦軍,如以肉餧虎,當何益也?」耳又以爲餘殺靨、釋,餘怒曰:「不意君之望臣深也!」乃解印綬去,耳取之,遂收其軍。餘與數百人之河上漁獵。
初,耳、餘爲刎頸交,俱隱身爲里監門,餘常父事耳,由是有隙。

鉅鹿で章邯がゆらぐ。

『漢書』高帝紀には、載ってない。


◆春

春二月,沛公過高陽。酈食其爲里監門,年六十餘,縣中謂之狂生,乃求見沛公。沛公方踞牀,令兩女子洗足。食其長揖不拜,曰:「足下必欲舉義兵,誅無道秦,不宜距見長者。」沛公輟洗,謝之。食其進計曰︰「天下之郡,陳留當衝,四通五達之郊也,又多積粟。臣請使其令下公。即不聽,舉兵攻之,臣爲內應,破陳必矣。」於是沛公引兵隨而攻之,遂取陳留,號食其爲廣野君。食其言弟商,以爲將軍。時商聚黨數千人,以兵屬焉。

春2月、酈食其がくる。

『漢書』高帝紀はいう。 二月,沛公從碭北攻昌邑,遇彭越。越助攻昌邑,未下。沛公西過高陽,酈食其為裏監門,曰:「諸將過此者多,吾視沛公大度。」乃求見沛公。沛公方踞床,使兩女子洗。酈生不拜,長揖曰:「足下必欲誅無道秦,不宜踞見長者。」於是沛公起,攝衣謝之,延上坐。食其說沛公襲陳留。沛公以為廣野君,以其弟商為將,將陳留兵。
『漢書』高帝紀はいう。 三月,攻開封,未拔。西與秦將楊熊會戰白馬,又戰曲遇東,大破之。楊熊走之滎陽,二世使使斬之以徇。
四月,南攻潁川,屠之。因張良遂略韓地。:時趙別將司馬卬方欲渡河入關,沛公乃北攻平陰,絕河津。南,戰雒陽東,軍不利,從轘轅至陽城,收軍中馬騎。
これは『漢紀』では拾われていない。いっきに夏にとぶ。


◆夏

夏六月,沛公攻宛,韓王使張良從。南陽太守呂齮保城,不下,沛公欲遂西。張良曰:「强秦在前,宛兵在後,此危道也。」乃圍宛。宛急,南陽太守呂齮擬自殺。其舍人陳恢逾城出見沛公,曰:「宛吏懼死,皆堅守。足下盡力攻之,死傷者必衆;引兵西去,宛必隨之。足下前則失咸陽之約,後有强宛之患。不如降之,封其守,引其甲卒而西。諸城未下者,必開門而待足下矣。」沛公曰︰「善。」

夏6月、宛城を攻める高帝に、張良がやってくる。

『漢書』高帝紀はいう。 六月,與南陽守齮戰犨東,破之。略南陽郡,南陽守走,保城守宛。沛公引兵過宛西。張良諫曰:「沛公雖欲急入關,秦兵尚眾,距險。今不下宛,宛從後擊,強秦在前,此危道也。」於是沛公乃夜引軍從他道還,偃旗幟,遲明,圍宛城三匝。南陽守欲自剄,其舍人陳恢曰:「死未晚也。」乃逾城見沛公,曰:「臣聞足下約先入咸陽者王之,今足下留守宛。宛郡縣連城數十,其吏民自以為降必死,故皆堅守乘城。今足下盡日止攻,士死傷者必多;引兵去,宛必隨足下。前則失咸陽之約,後有強宛之患。為足下計,莫若約降,封其守,因使止守,引其甲卒與之西。諸城未下者,聞聲爭開門而待足下,足下通行無所累。」沛公曰:「善。」
ぼくは思う。ここは高帝紀が圧縮されている。


◆秋

秋七月,封南陽太守齮爲殷侯,封陳恢爲千戶侯。引兵而西,無不下者。軍所過不虜掠,秦民喜。章邯遂降項羽,盟于殷墟之上。立邯爲雍王,置軍中;長史欣爲上將,將秦降卒前行。

秋7月、章邯が項籍にくだった。

七月,南陽守齮降,封為殷侯,封陳恢千戶。引兵西,無不下者。至丹水,高武侯鰓、襄侯王陵降。還攻胡陽,遇番君別將梅鋗,與偕攻析、酈,皆降。所過毋得鹵掠,秦民喜。 遣魏人甯昌使秦。是月,章邯舉軍降項羽,羽以為雍王。瑕丘申陽下河南。


八月,沛公攻武關。趙高殺二世以請和,求分王關中,沛公不聽。高乃立二世兄之子嬰爲王。嬰立誅滅趙高,遣兵距嶢關。張良曰:「秦兵尚强,未可輕也。願益張旗幟諸山上爲疑兵,令酈食其持重寶以啗秦將。」秦將果欲連和俱西,沛公欲聽之。良曰:「今獨其將欲叛,士卒恐不從。不從必危,不如因其懈而擊之。」乃擊秦軍,大破之,遂至藍田。

8月、高帝は武関を攻めて、秦帝をくだした。

『漢書』高帝紀はいう。
八月,沛公攻武關,入秦。秦相趙高恐,乃殺二世,使人來,欲約分王關中,沛公不許。
九月,趙高立二世兄子子嬰為秦王。子嬰誅滅趙高,遣將將兵距嶢關。沛公欲擊之,張良曰:「秦兵尚強,未可輕。願先遣人益張旗幟於山上為疑兵,使酈食其、陸賈往說秦將,啗以利。」秦將果欲連和,沛公欲許之。張良曰:「此獨 其將欲叛,恐其士卒不從,不如因其怠懈擊之。」沛公引兵繞嶢關,逾蕢山,擊秦軍,大破之藍田南。遂至藍田,又戰其北,秦兵大敗。

ぼくは思う。高帝紀が圧縮されている。


GWが終わって、ザツになったけど。『漢紀』は、『漢書』高帝紀を圧縮しつつ、しかし天文は省略しない。列伝を積極的におぎない、高帝紀にない固有名詞もおそれずに、戦況の全体をえがく。名臣のエピソード的な紹介(張良とか)もやる。これを確認できれば良いのだ。130506

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『漢紀』巻2;作成中

漢元年冬十月,五星聚于東井,從歲星也。東井,秦之分野。五星所聚,是謂易行,有德者昌,無德者殃。沛公至霸上。秦王子嬰素車白馬,係頸以組,奉皇帝璽降于軹道旁,沛公執之以屬吏。於是秦遂亡矣。《本傳》曰:「賈生之《過秦》曰:秦孝公據崤、函之固,擁雍州之地,君臣固守以闚周室,有席卷天下,并吞八荒之心。當此之時,商君佐之,內立法度,務耕織,修守戰之備,外連橫而鬬諸侯。于是秦人拱手而取西河之外。及惠文、武、昭襄蒙故業,因遺策,南取漢中,西取巴蜀,東割膏腴之地,收要害之郡。諸侯恐懼,會盟而謀弱秦,合從締交,相與爲一。常以十倍之地,百萬之軍,仰關而攻秦。秦人開關延敵,九國之師逡巡而不敢進。秦無亡矢遺鏃之費,而天下已困矣。於是從散約敗,争割地而賂秦。秦有餘力而制其弊,追亡逐北,伏尸百萬,流血漂櫓,因利乘便,宰割天下,分裂山河。强國請伏,弱國入朝。及至始皇,奮六世之餘烈,振長策而御宇內,吞二周而亡諸侯,履至尊而制六合。南取百粵之地,以爲桂林、象郡。百越之君頫首係頸,委命下吏。乃使蒙恬北築長城而守藩籬,卻匈奴七百餘里。然後踐華爲城,因河爲池,據億丈之峻,臨不測之深以爲固。良將勁弩,守要害之地,信臣精卒,陳利兵而誰何。天下已定,始皇之心,自以關中之固,萬世之業也。於是廢先王之典,焚百家之言,以威力爲至道,以權詐爲要術,百姓失望而天下懷怨矣。故陳涉起於行陣之間,將數百之衆,轉鬬而攻秦。斬木爲兵,揭竿爲旗,天下雲合響應,贏糧而影從,山東豪傑並起而亡秦族矣。夫秦以區區之地,致萬乘之權,然後以六合爲家,崤、函爲宮。一夫作難而七廟隳,身死人手,爲天下笑者,何也?仁義不施,而攻守之勢異也』」沛公入咸陽,宮室、婦女、珍寶、犬馬之飾甚盛,欲留之。張良諫沛公曰:「秦爲無道,故使沛公得至于此。今始至秦,即安其樂,此助桀爲虐也。」乃還軍霸上。諸將皆争取秦寶貨,蕭何獨悉收秦圖書。十有一月,沛公與秦人約法三章:殺人者死,傷人者刑,及盜抵罪。吏人皆安堵如故。民争獻牛酒,又讓不受,於是民知德義矣。沛公乃遣兵距關,欲王關中。是時項羽率諸侯兵四十萬衆,號百萬衆,西至新安。降卒心不服,出怨言,羽乃夜擊之,坑秦降卒二十餘萬人。十有二月,遂至鴻門,欲擊沛公。項羽季父項伯告張良令出。良曰:「今事急,亡去則不義。」乃告沛公,令見項伯,自解于項羽。沛公遂見羽於鴻門。亞父范增欲擊沛公,羽不聽。范增謂項莊曰:「汝入以劍舞,因擊沛公。」項莊既舞,項伯常以身蔽沛公。於是甚急,賢成君樊噲聞之,杖劍楯衝門而入,立於帳下。羽曰:「壯士哉!賜之巵酒豚肩。」既飲酒,拔劍切肉,肉盡。因責讓羽曰:「沛公先定關中,以待大王。今大王聽讒臣之言,乃欲誅沛公,臣恐天下解心疑大王也。所以遣兵守關者,以備他盜也。」羽默然,遂無誅沛公之意。沛公乃還霸上。范增怒曰:「吾屬今爲沛公虜矣!」羽遂殺子嬰,收其寶貨、婦女而東。燒秦宮室,火三月不滅。韓生說羽令都關中。羽曰:「富貴不歸故鄉,如衣錦夜行。」韓生曰:「人謂楚人曰沐猴而冠,果然。」羽聞之,怒殺韓生。羽所過殘賊,秦人失望。春正月,羽陽尊懷王爲義帝,徙之長沙,都郴。羽自立爲西楚霸王,王梁、楚地九郡,都彭城。立沛公爲漢王,王巴、蜀、漢中四十一縣,都南鄭。三分關中,立秦三將:章邯爲雍王,司馬忻爲塞王,董翳爲翟王。黥布爲九江王。徙趙王歇爲代王。立張耳爲常山王。徙魏王豹爲西魏王。徙燕王廣爲遼東王。燕將臧荼爲燕王。徙齊王巿爲膠東王。齊將田都爲齊王。趙將司馬卬數有功,立爲殷王。瑕丘申陽先下河南,迎楚王於河上,立陽爲河南王。吳芮率百越佐諸侯,立芮爲衡山王。義帝柱國共敖別將擊河南,功多,立敖爲臨江王。舊齊王建之孫田安,初以濟北數城降,立爲濟北王。田榮背項梁,陳餘不從入關,故皆不王。然素聞餘賢,封南皮三縣。爲鄱君別將枚鋗功多,封十萬戶侯。夏四月,諸侯皆就國。漢王欲叛楚,蕭何諫曰:「雖王漢中之惡,不猶愈於死乎?且語稱『天漢』,其稱甚美。夫能屈於一人之下,則伸於萬人之上,湯、武是也。願大王王漢,撫其民以致賢人,收用巴、蜀,還定三秦,天下可圖也。」乃就國。賜曹參爵爲建成侯,樊噲爲臨武侯。張良說曰︰「願王燒絶棧道,示無還心。」良因絶棧道而還於韓。於是沛公遂至南鄭,封呂公爲臨泗侯。淮陰人韓信爲治粟都尉。初,信家貧,常寄食於下鄉亭長,亭長妻厭之,乃自絶而去。釣於下邳城下,有漂母憐信,食信數十日。信曰:「富貴,我必厚報母。」母怒曰:「大丈夫不能自食,吾豈求報乎!」淮陰市有少年衆辱信曰:「能死,殺我;不能死,出我跨下。」信遂俛而出其跨下,市人大笑之。信母死,家貧無以葬,乃行營高敞葬地,令其傍可置萬家者。後事項羽,爲郎中,羽不能用而去,歸於漢。坐事當斬,已伏鑕,仰視,乃見夏侯嬰,曰:「王不欲取天下邪?而斬壯士!」太僕嬰言之於王,赦之不誅,以爲都尉。蕭何知其賢。王不能用,信亡。蕭何遽自追之,不及以聞,三日乃至。王怒曰:「何之?」何曰:「追亡者耳。」王曰:「諸將亡者十輩,公無所追,追信,詐也。」何曰:「諸將易得耳。大王必欲定天下,非信無可用者。」王乃以爲大將軍。何曰:「大王性素慢人,每拜大將軍,若召小兒,此信所以去也。宜立壇場,齋七日,設九賓禮而拜之。」既拜信,衆咸驚焉。信見王曰:「今東向争天下,豈非項王也?」王曰:「然。」信曰:「大王自料勇悍仁强孰與項王?」王曰:「不如也。」信再拜曰:「唯,信亦以爲大王不如也。然項王喑嗚叱咤,千人皆靡,然不能屬任賢將,此特匹夫之勇耳。項王與人恭謹,人有疾病,流涕與之分食,至於封賞,恡而不能與,此特匹婦之仁耳。雖王天下,不居關中,都彭城。又背義帝約,而以親愛王,諸侯不平。所過無不殘滅,百姓不附。雖名爲伯,實失天下心,故曰其強易弱。今大王誠能反其道,任天下武勇,何所不誅!以天下城邑封功臣,何所不服!以義兵從思東歸之士,何所不勝!且三秦王詐其衆降諸侯,項王詐坑秦降卒二十餘萬人,唯邯、忻、翳等三人得脫。秦人父兄怨此三人,痛入骨髓。大王入關,秋毫一無所取,除秦苛法,吏人無不欲得大王王秦。於諸侯之約,大王當王關中。王失職之蜀,秦人無有不恨者。今大王舉兵而東,三秦可傳檄而定也。」於是王大喜,自以爲得信晚也。五月,與韓信俱東,蕭何留守蜀。王進兵襲雍王,章邯敗走廢丘,令將軍樊噲圍之。王遂東。田榮怨項羽不肯王己,又不令巿徙膠東。巿畏楚,亡之國。六月,田榮殺巿,自立爲齊王,而擊田都。都亡走楚。田榮與彭越將軍印綬,令反徇梁地。越者,昌邑人也。初,少年相聚百餘人,請越爲長,與期會,十餘人後至。越曰:「請斬最後至一人。」衆皆笑曰:「何至如是?」越遂斬之,立約束而盟。徒屬皆驚,而不敢仰視。後衆萬餘人,在鉅野中,無所屬。乃受榮印綬,擊殺濟北王安。榮遂并三齊之地。遼東王韓廣不肯徙之國,故燕王臧荼殺廣,并其地。塞王忻、翟王翳來降。項王殺韓王成,以張良從漢入秦故也。以故吳令鄭昌爲韓王,距漢。張良遺項羽書曰:「漢王失職之蜀,欲得關中,如約則止,不敢反也。」又以齊反書遺羽曰:「齊欲滅楚國。羽以故不西,而北擊齊,徵兵九江。」九江王稱疾,遣四千人助楚。是歲,實乙未也。 二年冬十月,項羽使九江王布殺義帝於郴。陳餘既怒張耳,且怒項羽之不王己也,乃請兵於齊以伐趙,破常山趙王。張耳欲走楚,齊客有甘公者說耳曰:「漢王入秦,五星從歲星於東井,其占曰『當以義取天下』。漢入秦可謂能義矣。楚雖强,後終屬於漢。」耳乃走漢。漢以故秦柱下史陽武人張蒼爲常山太守。陳餘迎趙王歇反之於趙,立餘爲代王。餘以趙王弱,乃使夏說爲國相居代,餘相趙。張耳間行歸漢,漢以爲成信侯。河南王、韓王來降。十有一月,立舊韓王孫信爲韓王。使諸將略地,若一郡降者,封萬戶侯。王使人招陳餘,陳餘曰:「漢殺張耳,乃從。」漢乃求人類耳者送其首,餘將從漢,聞耳詐死,乃止。春正月,項羽伐齊,殺田榮,齊降於楚。羽焚其城郭,殺降卒,繫虜老弱,齊復叛楚降漢。漢王立社稷於長安。施恩惠,賜人爵。蜀、漢人從軍者,家復租稅二歲。關中人從軍者,復租一歲。人年五十已上能善道教訓者,復徭役。常以十月賜民牛酒。蕭何守關中,治櫟陽宮,定約束,轉漕給軍,專任關中事。是時沛人王陵聚黨數千人在南陽,始來從漢。項羽得陵母,漢使至楚,羽使母招陵。陵母見使者曰:「爲我告陵,漢王長者也,終事之,無二心。」因伏劍死。三月,魏王豹降,陳平因魏無知始來。陳平,陽武人也,家貧好讀書,少時嘗爲里中社宰,分肉甚平均,父老善之。平曰:「嗟乎!使平宰天下,亦如此肉矣。」事魏王及項羽,不能用。歸漢,漢王與參乘,令典護諸將。諸將皆怒曰:「大王一旦得楚之亡卒,乃命監護長者!」王愈益任用之。王至洛陽,新城三老董公說王曰:「臣聞『順德者昌,逆德者亡』,『兵出無名,事故不成』,『明其爲賊,敵乃可服』。項王殺義帝,是天下之賊也。夫仁者不以勇,義者不以力,若三軍之衆爲之素服,以告諸侯,而事東伐,此湯、武之舉也。」王善之。乃與義帝發喪,大臨三日,素縞以告諸侯。夏四月,田橫立榮子廣爲齊王,橫爲相,止城陽。項羽與齊戰,漢王率諸侯之師凡五十六萬人東襲楚。至外黃,彭越將三萬人歸漢。漢拜爲相國,令定梁地。王遂入彭城,悉收楚美人寶貨,置酒高會。羽聞之,留其將擊齊,自以精兵三萬人歸,晨襲漢軍於濉水上。從旦至日中,殺漢士卒十餘萬人,皆入濉水,濉水爲之不流。漢軍大敗,圍王三匝。會天大風揚砂,晝晦,楚軍大亂,而王得與數十騎遁去。道逢孝惠、魯元公主,載行。楚追急,輒推墮之。夏侯嬰嘗收載之,遂得免。而太公、呂后被獲于楚。時諸侯皆復歸楚,楚進兵而西。蕭何悉發關中卒詣軍,韓信亦收餘兵與王會,擊楚于京、索間,大敗之。騎將灌嬰又敗楚騎于滎陽東,故楚師不能復進。陳平爲亞將,屬韓信。或曰:「陳平雖美丈夫,如冠玉耳,未有所知也。平居家盜淫其嫂,在官受金。」王以讓魏無知,無知曰:「大王所知者,行也;臣所言者,能也。顧其計誠足以益國耳,又何疑?」王以平爲護軍中尉,盡監護諸將。諸將乃不敢言。王謂群臣曰:「誰能爲我說九江王,令背楚,項羽必留。得留三月,我之取天下可以萬全。」有儒者隨何請使。至九江,三日不得見。何說太宰曰:「今臣所言是耶,大王所欲聞;非邪,何等二十人伏斧鑕於淮南市,以明大王背漢而與楚也。」太宰言之於王而見之。何曰:「竊見大王之與楚,何也?」王曰:「寡人北面而臣事之。」何曰:「大王臣事楚者,以爲可託國也。項王伐齊,身自負版築,以爲士卒先。大王宜悉舉淮南之衆,身爲先鋒;乃發四千人以助楚。夫北面而臣事人者,固若是乎?漢王戰於彭城,項王未出齊也,大王宜掃淮南之衆日夜會戰,今無一人渡淮者,垂拱而觀其孰勝。夫託國于人,固若是乎?大王提空名以向楚,而欲厚自託,臣竊危之。夫楚兵雖强,負不義之名,以其背盟約而殺義帝也。漢王收諸侯之兵,還守成臯、滎陽下,獨深溝高壘,分卒守徼乘塞。楚人還兵,間行以梁地,深入敵國八九百里。楚欲戰則不得,攻城則力不能,老弱轉輸千里之外。漢堅守不動,進則不得前,退則不得解,楚亦不足恃也。楚勝則諸侯自危懼而相救,夫楚之强,適足以致天下之兵耳。臣非以淮南之衆足以亡楚也。今大王舉兵而背攻楚,楚王必留數月,漢之取天下可以萬全。大王不與萬全之漢,而自託于危亡之楚,臣竊惑之。」布陰許之。會楚使至,方急責布發兵,何直入曰:「九江王已歸漢,楚何得以令發兵!」布甚愕。何因令布殺使者而起兵。項羽使龍且擊淮南,而身攻下邑。六月,漢王歸櫟陽,引水灌廢丘,章邯自殺。壬午,立子盈爲太子,赦罪人。關中大饑,米斗五千,人相食。秋八月,如滎陽,使酈食其說魏王豹。豹曰:「漢王侮慢人,駡詈諸侯王如奴虜耳,吾不忍復見也。」食其還,王問:「魏大將軍誰也?」曰︰「柏直也。」王曰︰「此將其口尚乳臭,不能當韓信,騎將馮敬不能當灌嬰,步將項他不能當曹參,吾無患矣。」乃以韓信爲左丞相,與曹參、灌嬰俱擊魏。韓信聞魏不以周叔爲大將軍,乃喜,遂進兵。僞陳船欲渡臨晉,魏聚兵以距之。信乃伏兵從夏陽以木罌缶渡軍,襲安邑,虜魏王豹。初,豹有姬曰薄姬,許負相之,當生天子,豹恃此而反。豹敗,王遂納薄姬,是生文帝。 三年冬十月,韓信、張耳及曹參等破代,擒夏說。進伐趙,獲趙王歇,斬成安君陳餘。韓信之伐趙也,廣武君李左車說成安君陳餘曰:「漢兵乘勝遠鬬,其鋒不可當也。臣聞『千里餽糧,士有飢色;樵蘇後爨,師不宿飽』。今井陘之道,車不得方軌,騎不得成列,行數百里,其勢糧食必在後。願足下假臣奇兵三萬人,從間路絶其輜重;足下深溝高壘,勿與戰。彼前則不得鬬,退則不得還,野無所掠,不十日,兩將之頭可懸于麾下矣。」陳餘曰:「韓信兵號數萬,千里徑來襲我,亦已罷勞。今我二十萬避而不擊,後有大者,何以距之?諸侯謂吾怯,而輕來伐我。」不聽。韓信使人闚之,知其不用廣武君計,乃敢進兵。未至井徑口三十里,止舍。夜半,選輕騎二千人,人持一赤幟,從間道萆山而望趙軍。信戒曰:「趙見我走,必空壁逐我,汝疾入,拔趙幟,立漢赤幟。」乃使萬人先行,背水爲陣。平旦,信建大將旗鼓,出井陘口。趙開壁擊之,大戰良久。於是信、耳佯不勝,僞棄旗鼓,走還水上軍。趙空壁争漢旗鼓,逐信、耳。於是二千騎馳入趙壁,皆拔趙幟,立漢赤幟二千。趙軍不能敗水上軍,乃還,見漢赤幟,大驚,以爲漢皆已破趙衆矣,遂亂而走。趙將雖斬之,不能禁。於是漢兵夾擊,大破之。既而諸將問信曰:「兵法︰『右背山陵,前左水澤。』今將軍令臣等反背水陣,何也?」信曰:「『置之死地而後生』,此兵法也。且信非得素拊循士大夫也,所謂『驅市人而戰』,故置之死地,既人人自爲戰;即與生地,皆走,尚安得而用之乎!」諸將皆服曰︰「非所及也。」信令軍中曰:「生得廣武君,購千金。」信得之,乃東面師事之,問曰:「吾欲北攻燕,東伐齊,何如?」對曰:「『敗軍之將不可以語勇,亡國之大夫不可以圖存。』又何問焉!」信曰:「向使成安君聽子之計,則信亦將爲子擒矣。」固問之。對曰:「足下威振諸侯,名聞海內,然士卒罷勞,其實難用。今足下舉倦弊之兵,頓之燕堅城之下,情見力屈,曠日糧竭。若燕不拔,齊必距境以自强。二國相持,則劉項之權未有所分也。不如按甲休兵,日享士大夫,北首燕路,然後使一乘之使,奉咫尺之書,燕不敢不從。燕從而臨齊,齊雖有智者,亦不能爲齊計也。兵法固有『先聲而後實』者,此之謂也。」信曰︰「善。」乃發使使燕,燕聽命。於是請立張耳爲趙王,以拊循趙衆。甲戌晦,日有食之。十二月,九江王布及隨何至。布爲楚所攻敗,故間行而來。王拒楚於成臯,與酈食其謀橈楚權。食其曰:「昔湯伐桀,封其後于杞;武王伐殷,封其後于宋。秦滅六國,使無立錐之地。大王誠復六國之後,彼皆戴仰大王德義,願爲大王臣妾。德義已行,南面稱伯,楚必歛衽而朝。」王曰︰「善。趨刻印。」未行,張子房至。王以問之,良曰:「大事去矣。」漢王方食,良曰:「臣請借前箸以籌之:昔湯、武封桀、紂之後者,度能制其死命也。今大王能制項籍之死命乎?其不可一矣。武王入殷,表商容之閭,釋箕子之囚,封比干之墓,今大王能乎?其不可二矣。發鉅橋之粟,散鹿臺之財,以賑貧窮,今大王能乎?其不可三矣。偃革爲軒,倒戢干戈,示不復用武,今大王能乎?其不可四矣。休馬華山之陽,示無所爲,今大王能乎?其不可五矣。息牛桃林之埜,示天下不復輸積,今大王能乎?其不可六矣。天下遊士離親戚,捐墳墓,去故舊,從大王遊者,日夜望尺寸之地。今乃立六國後,遊士各歸事其主,從親戚及故舊,大王誰與取天下乎?其不可七矣。且楚唯無强,六國復橈而從之,大王安得復臣之哉?其不可八矣。誠用此計,大事去矣。」漢王輟食吐哺,駡酈生曰:「竪儒,幾敗乃公事!」令趨銷印。荀悅曰:夫立策決勝之術,其要有三:一曰形,二曰勢,三曰情。形者,言其大體得失之數也;勢者,言其臨時之宜也,進退之機也;情者,言其心志可否之意也。故策同事等而功殊者何?三術不同也。初,張耳、陳餘說陳涉以復六國,自爲樹黨;酈生亦說漢王。所以說者同而得失異者,陳涉之起也,天下皆欲亡秦;而楚、漢之分未有所定,時天下未必欲亡項也。且項羽率從六國攻滅强秦之時,勢則不能矣。故立六國,於陳涉所謂多己之黨而益秦之敵也。且陳涉未能專天下之地也,所謂取非其有以與人,行虛惠而獲實福也。立六國,于漢王所謂割己之有以資敵,設虛名而受實禍也。此同事而異形也。及宋義待秦、趙之斃,與昔卞莊刺虎同說者也。施之戰國之時,鄰國相攻,無臨時之急,則可也。戰國之立,其日久矣,一戰勝敗,未必以存亡也。其勢非能急於亡敵國也,進乘利,退自保,故累力待時,乘敵之斃,其勢然也。今楚、趙所起,其與秦勢不並立,安危之機,呼吸成變,進則成功,退則受禍。此同事而異勢者也。伐趙之役,韓信軍于泜水之上,而趙不能敗。彭城之難,漢王戰于濉水之上,士卒皆赴入濉水,而楚兵大勝。何則?趙兵出國迎戰,見可而進,知難而退,懷內顧之心,無必死之計;韓信軍孤在水上,士卒必死,無有二心,此信之所以勝也。漢王深入敵國,飲酒高會,士卒逸豫,戰心不固;楚以强大之威而喪其國都,項羽自外而入,士卒皆有憤激之氣,救敗赴亡之急,以決一旦之命,此漢之所以敗也。且韓信選精兵以守,而趙以內顧之士攻之;項羽選精兵以攻,而漢以怠惰之卒應之。此同事而異情者也。故曰權不可預設,變不可先圖,與時遷移,應物變化,設策之機也。陳平進謀曰:「項王大臣不過數人,大王能捐數萬斤金,間楚君臣,使相疑惑,可以破楚必矣。」乃與陳平金四萬斤,不問出入。平多行反間,謂項羽曰:「諸將功多矣,而終不得裂地而王,欲與漢爲一以滅楚,分王其地。」項王疑之。夏四月,楚圍漢王于滎陽。歷陽侯范增欲急擊滎陽,項羽不信。增怒,乞骸骨歸,未到彭城,疽發背而死。五月,紀信謂王曰:「臣請誑楚,可以間出。」紀信乃乘王車,出東門曰:「漢王降楚。」楚軍皆稱萬歲,之城東觀,漢王得與數十騎出城西門。令御史大夫周苛與魏王豹守滎陽。周苛曰:「反國之王,難與共守。」苛乃殺魏豹。項羽見紀信,非漢王,乃大驚怒,燒殺紀信。王自西入關,收兵復東。轅生說曰:「今出武關,項王必引兵而南,大王深壁勿與戰。項羽用兵疾如雷電,令成臯、滎陽間且得休息。使韓信等輯河北趙地,連燕、齊,君王乃復屯滎陽。如此則楚所備者多,力分於漢。王得休息,後與之戰,破楚必矣。」漢王從之。王復出軍宛、葉間,項羽果引而南,漢兵深壘自守。是時彭越等擊楚,得項聲、薛公于下邳,殺之。羽乃自擊彭越,越敗走。羽乃引兵還,拔滎陽,獲周苛。謂苛曰:「吾方以公爲將軍,封萬戶侯,能爲我盡節否?」苛瞋目駡之,羽怒,乃烹之。遂圍成臯,下之,所殺亦無數。秋七月,有星孛于大角。大角爲王坐,《本志》以爲楚王亡之徵也。八月,王饗師河南,欲復戰,郎中鄭忠說曰:「王高壁深壘,勿與戰。」王乃使從兄劉賈與盧綰將兵入楚地,佐彭越,焚楚積聚,復擊破楚師於燕西,下梁地十七城。九月,羽東擊彭越,令大司馬曹咎、長史欣守成臯。酈食其說王曰:「夫敖倉,天下轉輸久矣,臣聞其下乃有積粟甚多。楚人不堅守敖倉,乃引兵而東,令士卒分守成臯,此天所以資漢也。且兩雄不俱立,楚、漢又相持不決,百姓搔動,海內搖蕩,農夫釋耒,紅女下機,天下之心未有所定。願大王急復進兵,收滎陽,據敖倉之粟,塞成臯之險,杜太行之道,距飛狐之口,守白馬之津,以示諸侯形制之勢,則天下知所歸矣。今燕、趙已定,唯齊未下,雖數十萬之師,未可以歲月破也。臣請得奉明詔說齊王,使爲漢稱東藩臣。」王曰︰「善。」乃進兵復守敖倉。使食其說齊王曰:「知天下所歸,即齊國可得而有也。」齊王曰:「天下何歸?」曰:「歸漢。夫漢王定三秦,出武關,而誅殺義帝之賊,收天下之兵,紹諸侯之業;降城即以侯其將,得賂即以分其士卒,與天下同其利,豪傑俊才皆樂爲之用;諸侯之兵四面而會,蜀、漢之粟方船而下。項王有殺義帝之名,有背約之負;於人之功無所記,於人之罪無所忘;戰勝而不得其賞,拔城而不得其封;非項氏莫敢用事;爲人刻印刓而不能授,積財而不能散。故天下叛之,賢才怨之。故天下歸漢,可坐而策也。夫漢王發蜀、漢,定三秦;涉西河之外,授上黨之兵;北破趙、魏,誅成安君:此黃帝之兵,非人之力,天之所授也。今已據敖倉之粟,塞成臯之險,守白馬之津,杜太行之坂,距飛狐之口,天下後服者先亡矣。王疾下漢,社稷可得而保也。」齊王以爲然,乃罷守兵,與食其日縱酒焉。

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『漢紀』巻3;作成中

四年冬十月,韓信將伐齊,聞既和,欲還。蒯通說信曰:「將軍受詔擊齊,未有詔止,何以得無行乎!且酈生一儒士,伏軾下齊七十餘城,將軍以數十萬衆,乃下趙五十餘城。勞苦將士數年,反不如一竪儒之功乎!」信遂襲齊。齊王以酈生爲賣己,乃烹之。齊王走高密。項羽東伐外黃。外黃數日乃降,羽令男子十五已上詣城東,欲悉坑之。外黃令舍人兒年十三,說羽曰:「彭越强刼外黃,外黃恐,故且降,以待大王。大王又欲坑之,百姓豈有所歸心哉!從此以東,梁地十餘城皆懼,莫敢下矣。」羽赦之。羽初之山東,屬大司馬曹咎、長史忻曰:「漢即挑戰,慎勿與戰,勿令得東而已。我十五日必定梁地。」而漢果挑戰,楚軍不出。使人辱之,數日,咎怒,渡兵汜水上。士卒半渡,漢擊破之,盡得楚國寶貨。曹咎、長史忻皆自殺。王遂進兵取成臯。羽下梁十餘城,聞曹咎破,乃還。羽於廣武間爲高俎,置太公於其上,曰:「漢不急下,吾烹太公。」王不聽。羽怒,欲殺太公。項伯曰:「夫爲天下者不顧其家,殺之無益,但益怨耳。」羽從之。使人謂曰:「願與王挑戰,面決雌雄。」王笑謝之,曰:「吾寧鬬智,不鬬力。」羽令壯士挑戰。漢使善射者樓煩射楚三人,殺之。羽大怒,即自出,瞋目叱之。樓煩目不能視,手不能發,走還入壁。王使間問之,乃羽也。王大驚。於是王與羽臨廣武間而語,王數羽曰:「汝背約王我於蜀、漢,其罪一也。矯殺卿子冠軍而自立,其罪二也。受命救趙,不還報命,擅劫諸侯入關,其罪三也。與懷王約,入咸陽無暴掠,汝燒秦宮室,掘始皇塚,多取財寶,其罪四也。殺秦降王子嬰,其罪五也。詐坑秦卒二十萬,其罪六也。皆王諸將善地,而徙逐其主,令臣下争叛,其罪七也。出義帝于彭城而自都之,多自與己地,其罪八也。殺義帝于江南,其罪九也。夫爲人臣自欲争天下,大逆無道,其罪十也。吾以義兵誅殘賊,使刑餘罪人擊公,何苦乃與公挑戰!」羽怒,伏弩射王中胸。王乃捫足曰:「虜中吾指!」王疾甚,入成臯。中尉周昌爲御史大夫。田橫請救于楚。十有一月,楚使龍且救齊,號二十萬衆,與齊合軍。或謂龍且曰:「漢兵遠戰窮寇,其鋒不可當。齊、楚自居其地,兵易敗散。不如深壁自守,命齊王使其信臣招所亡城,亡城聞王在,楚來救,必自叛漢。漢二千餘里客居其間,勢無所得食,可無戰而降也。」龍且曰:「救齊而降之,吾有何功?今戰而勝之,齊之半可得而有。吾平生時知韓信之爲人,易與耳。」遂將兵與韓信夾濰水而陣。信乃夜令人爲萬餘囊,盛沙以壅水上流,信引兵半渡,擊龍且。信佯不勝,走還。龍且追之,渡水。信使人決壅,龍且軍大半不得渡。即擊破之,斬龍且,虜齊王廣。田橫復立爲齊王,戰敗而亡。信遂平齊,使人言于王曰:「齊國多詐,請爲假王以鎮之。」王大怒。張良、陳平躡王足,諫曰:「方漢不利,寧能禁信之自王乎?不如因而立之。」春二月,遣張良立信爲齊王,徵其兵擊楚。曹參爲左丞相。楚使武涉招信,信曰:「吾嘗事項王,不見用。事漢,漢深信我,我背之不祥。」武涉已去,蒯通說信曰:「漢王敗滎陽,傷成臯,還走宛、葉間,此所謂智勇俱竭者也。楚兵困于京、索之間,迫于西山而不能進,三年于此矣。銳氣挫于險塞,糧用盡于內藏。當今兩主之命懸於足下,爲足下計者,莫若兩存之,三分天下,鼎足而居,其勢莫敢先動。以足下之賢,有甲兵之衆,據强齊,從燕、趙,出空虛之地以制其後,因民之欲,西向爲百姓請命,天下孰敢不聽!足下案齊國之固,有淮、泗之地,深拱揖讓以懷諸侯,則天下君王相率而朝齊矣。」信曰:「吾豈可見利而背恩!」通曰:「常山王、成安君爲刎頸之交,而卒相滅;大夫種存亡越,伯勾踐,身死。語曰:『野禽殫,走狗烹;飛鳥盡,良弓藏;敵國滅,謀臣亡。』故以交友言之,則不過陳、張;以君臣言之,則不過勾踐、大夫種。推此二者,足以觀之矣。且臣聞之,勇略振主者身危,功蓋天下者不賞。足下涉西河,虜魏王,擒夏說,下井陘,誅成安君之罪,以令於趙,脅燕定齊,南摧楚人之兵數十萬之衆,遂斬龍且,西向以報,此所謂功無二于天下而英略不世出者也。足下挾不賞之功,戴振主之威,歸楚,楚人不信;歸漢,漢人震恐。足下欲持此安歸乎?夫勢在人臣之位,而有高天下之名,臣竊危之。夫隨厮養之役,失萬乘之權;守擔石之禄,闕卿相之位。計成而不能行者,事之禍也。故猛虎之猶豫,不如蜂蠆之致螫;孟賁之狐疑,不如童子之必至矣。夫功者難成而易敗,時者難值而易失。願足下無疑。」信猶豫不忍背漢,又自以功高,漢終不奪我齊,遂謝通。通去,乃佯狂爲巫。秋七月,立黥布爲淮南王。八月,初爲算賦。令軍士死者,吏爲衣衾棺斂,傳送其家。四方歸心焉。漢王遣侯公說項羽,求太公。羽乃與漢約中分天下,割洪溝以西爲漢,以東爲楚。九月,歸太公、呂后。封侯公爲平國君。項羽解而東歸。漢王欲西,張良、陳平諫曰:「今漢有天下大半,而諸侯皆附漢,楚兵疲食盡,此天亡之時也,不如因其幾而取之。」 五年冬十月,王追項羽至陽夏南,與韓信、彭越期,皆不至會。楚擊漢軍,大破之。王復深壘自守。王謂張良曰:「諸侯不從,奈何?」對曰:「大王能取睢陽以東、北至穀城盡以王彭越,從陳以東傅海與韓信,則兩人必至,而楚敗矣。」王從之。信、越皆至。十有二月,諸侯皆會垓下,圍項羽數重。夜聞漢軍四面皆作楚歌,羽驚曰:「漢已盡得楚乎?是何楚人歌之多也!」夜起飲帳中,有美人曰虞姬,有駿馬曰騅。羽乃慷慨悲歌曰:「力拔山兮氣蓋世,時不利兮騅不逝。騅不逝兮可奈何!虞兮虞兮奈若何!」羽遂上馬,從八百餘騎,直夜潰圍南出。平明,漢軍乃覺之,命騎將灌嬰以五千騎追羽。羽至陰陵,迷失道路,漢軍追及之。至東城,乃有二十八騎。追者數千。羽謂其騎曰:「吾起兵八歲矣,身經九十餘戰,所當者破,未嘗敗。今困于此,固天亡我,非戰之罪也。今日固決死,願爲諸君決戰。」於是引其騎因四隤山爲圓陣。漢軍圍之數重。羽謂其騎曰:「吾爲公取彼一將。」於是羽大呼馳下,漢軍皆披靡,遂取漢一將。騎將楊喜追羽,羽還叱,喜人馬皆驚,辟易數里。羽分其騎爲三處,漢軍不知羽所在,分軍爲三處,復圍之。羽乃馳擊漢軍,復取一都尉,殺百人。羽復聚其騎,亡兩騎。於是羽引軍東至烏江,亭長曰:「江東雖小,地方千里,衆數十萬,亦足以王也。願大王急渡。今獨臣有船,漢軍至,無以渡。」羽曰:「籍與江東子弟八千人渡江而西,今無一人還者,縱江東父兄憐而王我,我何面目見之哉?吾知公長者也。吾騎此馬五歲,常以一日行千里,吾不忍殺之,以賜公。」乃令騎皆去其馬,短兵接戰,復殺漢軍百人。羽亦被十餘創,乃自剄而死。楚地悉平,獨魯後降。初,懷王封羽爲魯公,故以魯爲號,葬羽於穀城山下。漢王爲之發哀,封項伯等四人爲列侯,賜姓劉氏。《本傳》曰:「項羽背關懷楚,放逐義帝,自矜功伐,而不師古,霸王之業,始欲以力征經營天下,五年卒亡,身死東城,尚不覺悟,以爲非己之罪,豈不過哉!」春正月,徙齊王韓信爲楚王,都下邳。信乃賜所從食漂母千金。召下鄉亭長曰:「公,小人也,爲惠不終。」賜錢百萬。召辱己少年曰:「壯士哉!」以爲中尉。赦天下殊死已下。羣臣上皇帝尊號,王辭讓而後受。二月甲午,皇帝即位于氾水之陽。以十月爲正,從火德,色尚赤,以應斬白蛇、神母之符。尊王后曰皇后,太子曰皇太子,迫尊先媼曰昭靈夫人。鄱君吳芮率百越佐諸侯,立芮爲長沙王。越王無諸率閩中兵以佐滅秦,立無諸爲閩粵王。於是皇帝西都洛陽。夏五月,兵皆罷。令人保其山澤者,各歸其田里,自賣爲人奴婢者,免爲庶人。上置酒南宮,問羣臣曰:「吾所以得天下,羽所以失之者何?」王陵對曰:「陛下使人攻城略地,因以賞之,與天下同其利。項羽嫉賢妬能,有功者害之,賢者疑之,戰勝不蒙其功,得地不獲其利,所以失天下也。」上曰:「公知其一,未知其二。夫運籌帷幄之中,決勝千里之外,吾不如子房;鎮國家,撫百姓,給餉饋,吾不如蕭何;連百萬之衆,戰必勝,攻必取,吾不如韓信。三者皆人傑也,吾能用之,所以取天下也。羽有一范增,賢而不能用,此所以爲我擒也。」上問韓信曰:「公相我能將幾何?」信曰:「陛下不過能將十萬。」又問韓信︰「公能將幾何?」對曰:「臣多多益辦耳!」上曰:「何爲爲我臣?」信曰:「陛下雖不能將兵,而善將將。此所謂天授,非人力也。」是時田橫與賓客五百人亡在海中,上遣使赦橫罪,曰:「橫來,大者王,小者侯;不來,將加誅。」橫曰:「臣烹酈食其,今聞其弟酈商爲將,臣畏懼,不敢奉詔。」帝乃詔商曰︰「田橫至,敢有動者族誅!」橫詣洛陽,至尸鄉亭三十里,謂其從者曰:「橫與漢王並南面稱孤,今漢王爲天子,而橫爲亡虜,其辱已甚矣。且橫嘗烹人之兄,今與其弟並肩事主,彼雖畏詔,橫獨不愧于心哉?且陛下不過欲一見我面貌耳。今斬吾頭,馳三十里,容貌未及變。」乃沐浴自刎,令客奉其首。上曰:「嗟乎!起自布衣,兄弟三人更立爲王,豈不賢哉!」爲之流涕,而拜其二客爲都尉,以王禮葬之。二客穿其塚傍,皆自刎而從之。上聞,大驚,以橫客爲皆賢,聞其餘五百人在海島中,使使召之,聞橫死,亦皆自殺。楚將季布亦已亡匿,投濮陽周氏。漢購之急,周氏乃髡鉗布與家僮數十人,至魯朱家而賣之。朱家心知是季布,因買之,置田舍。乃見滕公,說曰:「季布何罪?臣各爲其主用耳。上始得天下,以私怒求一人,何示不廣也!且季布之賢,不南走越,即北走胡。夫忌壯士以資敵國,此伍子胥所以鞭荊王之墓也。」夏侯嬰爲言之。上乃赦布,拜爲郎中,後爲中郎將。布立然諾之信,時人爲之語曰:「得黃金百鎰,不如季布一諾。」朱家者爲任俠,所藏活者甚衆,豪士以百數。不伐其功,諸所嘗施,唯恐見之。賑人先於貧賤,衣不兼采,食不重味,專以赴人之急。及布尊貴,朱家遂不復見之。上欲都洛陽,戍卒婁敬求見,說上曰:「陛下都洛陽,豈欲與周室比隆哉?」上曰︰「然。」敬曰:「陛下取天下與周室異。周之先自后稷,堯封之邰,積德十餘世。公劉避狄居豳,太王以狄伐故,去豳,杖馬策之歧,國人争歸之。文王爲西伯,始受命。武王伐殷,八百諸侯不期而會孟津之上。成王即位,周公之屬傅焉,乃營成周,都洛邑。以爲此天下中,四方納貢職,道里均矣,有德則易以王,無德則易以亡。凡居此者,欲務以德致人,不欲阻險,令後世驕奢以虐人。及周之衰,分而爲二,天下莫朝,周不能制,形勢弱矣。今陛下用兵取天下,大戰七十,小戰四十,使百姓肝腦塗地,曝骨中野,哭泣之聲未絶,傷夷者未起,而欲比隆周室,臣竊以陛下爲不侔矣。夫秦地被山帶河,四塞以爲固,卒然有急,百萬之衆可具。因秦之資膏腴之地,此所謂金城天府之國。陛下都關中,山東雖亂,秦地可全而有也。」上問羣臣,群臣皆山東人,咸言「周七、八百年,秦二世而亡。且洛陽東有成臯,西有澠池,背河向洛,其固不敵,此亦足恃也。」上疑焉,問張良。張良曰︰「洛陽雖有此險,其中小,不過數百里,四面受敵,此非用武之國。夫關中左崤、函,右隴、蜀,沃野千里,南有巴、蜀之饒,北有胡苑之利,阻三面而守,獨以一面東制諸侯。諸侯安定,河渭漕輓,足以西給京師;諸侯有變,順流而下,足以委輸。此所謂金城千里,天府之國。婁敬之說是也。」於是上即日車駕西入關,治櫟陽宮。拜婁敬爲郎中,號奉春君,賜姓劉氏。六月壬辰,大赦天下。八月,燕王臧荼反,上自將擊燕。九月,虜臧荼,立太尉盧綰爲燕王。綰與上同里,同日生,少相愛,後以將軍從擊項羽有功,故立爲燕王。丞相張倉從擊臧荼有功,封北平侯。倉明習天下圖書,善用算術,故命以列侯居相府,主郡國上計也。 六年冬,命復天下縣邑。或有告楚王信謀反。上問左右,左右皆曰:「發兵以擊之。」陳平曰:「陛下用兵之精,孰與韓信?」上曰:「無能過也。」平曰:「陛下將有敵信者無?」上曰:「莫能及。」平曰:「臣竊爲陛下危之。」上曰:「奈何?」平曰:「信未知有告反者。古者天子巡狩,會諸侯。陛下僞出遊雲夢,會諸侯于陳。信必郊迎,因而執之,此一士之力。」上從之。遂執信。執信反無驗,黜信爲淮陰侯。田肯賀上曰:「甚善,陛下得韓信,而又王關中也。夫齊東有瑯邪、即墨之饒,南有泰山之固,西有濁河之阻,北有渤海之利,地方二千里,帶甲百萬衆,此亦東秦。非親子弟,莫可使王齊者也。」上曰:「善。」賜肯金五百斤。春正月丙午,立劉賈爲荊王,王五十三縣。高帝兄弟四人,長曰伯,早卒,追號爲武哀侯,封子信爲刮羹侯。初,上微時,數將客過嫂食。嫂饜食之,陽爲羹盡,刮釜。上聞惡之,故號其子爲刮羹侯。次兄曰喜,字仲,立仲爲代王。弟曰交,字游,好讀書,有才藝。從上征伐有功,立交爲楚王。長庶子肥爲齊王,王七十縣,以曹參爲齊相國。徙韓王信于太原,都晉陽。封蕭何爲酇侯,父母兄弟封侯食邑者十餘人,以蕭何舉宗從征伐故也。封曹參爲平陽侯,張良爲留侯,陳平爲戶牖侯,後徙爲曲逆侯,周勃爲絳侯,樊噲爲舞陽侯,酈商爲武成侯。食其子疥從征伐,以父故,封疥爲高梁侯。夏侯嬰爲汝陰侯,灌嬰爲潁陽侯,周昌爲汾陰侯。大功臣封者二十餘人,其餘功未得行封。上從南宮複道上望見群臣往往聚語,上曰:「此何謂也?」張良曰:「陛下所封,皆蕭曹故人,所誅皆平生仇讎。此屬畏不得封,又恐過失及誅,此相與謀反。」上憂之,曰︰「爲之奈何?」良曰:「急封雍齒。」雍齒,上最所憎惡,群臣共知,後從征伐有功。上即封雍齒,羣臣喜曰:「雍齒且封,我屬無患矣!」於是趨有司定功行封。封王陵爲定國侯。陵始爲縣豪,上兄事之,以其從上晚,故後。行封凡百四十有三人。是時民人散亡,居可得而數者纔十二三,是以大侯不過萬戶,小者不過五六百戶。封爵之日,誓曰:「使黃河如帶,太山如礪,國以永存,爰及苗裔。」又申以丹書之信,重以白馬之盟,作十八侯之位次。陳平之始封,平辭曰:「非臣之功也。」上曰:「吾用先生之謀,戰勝克敵,非功而何?」對曰:「非魏無知安得進?」上曰:「若子可謂不背本矣!」乃復賞無知。張良素多疾病,乃稱疾,曰:「臣家五世相韓,及韓亡,不愛萬金之資,爲韓報讎强秦,天下震動。今以三寸舌爲王者師,封萬戶,位爲列侯,此布衣之極,於臣足矣。願棄人間事,欲從赤松子遊耳。」乃學道,不食穀,遂不仕。良爲人容貌美麗,如婦人女子。初,季布異父弟丁公爲楚將,逐上。上迫急,顧謂丁公曰:「兩賢豈相戹哉!」丁公引兵而還。天下既定,斬丁公以徇軍,曰:「自今以後,爲人臣者莫效丁公也!」以蕭何功最高,羣臣皆曰:「臣等被甲執兵,多者百餘戰,攻城略地,各有等差。蕭何無有汗馬之勞,徒持文墨論議而已,今居臣等上,何也?」上曰:「諸君知獵乎?發縱指示獸者人也,追得獸者狗也。諸君徒能走得獸,功狗也;蕭何發縱,功人也。」及奏位次,羣臣咸曰︰「曹參宜第一。」謁者關內侯鄂千秋進曰:「曹參雖有野戰之功,此特一時之事耳。夫上與楚相距五年,失軍亡衆,跳身遁者數矣,蕭何嘗從關中遣軍補其處。非上所詔命,而數萬之衆會上乏絶者數矣。楚、漢相距滎陽數年,軍無見糧,蕭何常轉漕給食。陛下雖亡山東,蕭何常存關中以待陛下,此萬世之功也。奈何以一旦之功而加萬世之功哉?」於是令何爲第一,帶劍上殿,入朝不趨。上曰:「吾聞進賢受上賞,蕭何功雖高,待鄂君廼得明。」於是因鄂千秋所食關內侯邑二千戶,封爲安平侯。其吏二千石從入蜀、漢定三秦者,皆世世復其家。上置酒,衆辱隨何曰:「爲天下安用腐儒哉!」何曰:「陛下發步卒五萬、騎五千,能以取淮南乎?」上曰:「不能。」何曰:「以二十人使淮南王至,如陛下之意,是臣之功賢于步卒五萬、騎五千也。」上曰:「吾方圖子之功。」以何爲護軍中尉。上五日一朝太公,太公家令說太公曰:「天無二日,土無二王。皇帝雖子,乃人主也,太公雖父,乃人臣也。奈何令人主朝人臣!如此,威重不得申。」後上朝太公,太公擁篲,迎門却行,欲拜。上大驚,扶太公。太公曰:「帝,人主,奈何以我亂天下法!」上善家令言,賜黃金五百斤。荀悅曰:《孝經》云︰「故雖天子,必有尊也,言有父也。」王者必父事三老以示天下,所以明有孝也。無父猶設三老之禮,況其存者乎!孝莫大於嚴父,故后稷配天,尊之至也。禹不先鯀,湯不先契,文王不先不窋。古之道,子尊不加於父母,家令之言於是過矣。夏五月丙午,詔曰:「人之至親,莫大於父。故父有天下傳歸於子,子有天下尊歸於父,此人道之極也。朕平暴亂,以安天下,斯皆太公之教訓也。尊太公爲太上皇。」秋九月,匈奴圍太原韓王信於馬邑。信降匈奴。 七年冬十月,上自征太原。匈奴冒頓單于拒漢。漢使者闚匈奴者十輩,皆曰:「易擊。」上使婁敬往,還曰:「匈奴見羸弱,似有伏兵,不可擊。」上怒曰:「齊虜妄言,沮吾軍。」械繫之。上至平城,匈奴果圍上於白登七日。用陳平謀,說匈奴閼氏夫人,得開圍一角,上乃遁出。其計秘,世莫得聞也。士卒歌之曰:「平城之下禍甚苦,七日不食,不能彎弓弩。」上既還,謝敬曰:「不用公言,以困平城。」乃斬前使者十餘輩,封敬二千戶,號建信侯。先是,有月暈圍于昴、參、畢七重,《本志》以爲「昴、畢之間爲天街。街北,羌胡也;街南,中國也。昴爲匈奴,畢爲邊兵。平城之應」云。匈奴攻代。代王喜棄國歸洛陽,廢爲郃陽侯。辛卯,立皇子如意爲代王。春二月,上自平城還。見蕭何治宮室於長安,甚盛,上怒曰:「何治之過度!」對曰:「天子以四海爲家,非壯麗無以重皇威,且無令後世有以過也。」乃遷都長安。是時威儀未設,羣臣争功,醉呼,或拔劍擊柱。上患之。博士叔孫通請制禮儀,上曰:「度吾所能行者。」通乃與弟子百餘人共起朝儀,大朝會長樂宮,陳車騎、旌旗、兵衛,羣臣列位,百官執職,成禮而罷,莫不祗肅。於是上歎曰:「吾乃今日知爲皇帝之貴。」拜通爲奉常,賜金五百斤,弟子皆爲郎中。夏四月,行如洛陽。婁敬進計和匈奴,請以魯元公主妻單于。單于因之爲女壻,有子則爲外孫,後世可以漸臣也。上將行之。呂后涕泣,固請留之。乃止。更以宗室女爲公主,妻單于,結和親,歲致金幣賂遺之。

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『漢紀』巻4;作成中

八年冬,上擊韓王信餘寇于東垣,建武侯靳歙有功,遷爲車騎將軍。上還過趙,趙相貫高伏兵柏人亭,欲爲逆。上宿心動,曰:「柏人者,迫於人也。」乃去之。初,上過趙,趙王甚卑恭。上箕踞駡詈,甚辱之。貫高謂王曰:「皇帝遇王無禮,請殺之。」王齧其指出血,曰:「先人亡國,賴皇帝得復,德流乎子孫。君無出口。」高等私相謂曰:「吾王長者,終不背德,何爲汙王?事成,歸之于王;不成,獨身坐之。」乃陰獨爲謀,而王不知。十有一月,令士卒從軍死者送歸于縣,給衣衾,長吏視葬,祠以少牢。十有二月,至自東垣。春三月,行如洛陽。令賈人無得衣錦繡綺縠絺紵。九月,至自洛陽。 九年冬十月,淮南王、趙王、楚王來朝,置酒前殿。上爲太上皇壽,曰:「始者,大人常以臣不如仲能治產業,今臣之業孰與仲多?」殿上皆稱萬歲。十有一月,徙郡國大族豪傑名家十餘萬戶以實關中,婁敬之計也。十有二月,行如洛陽。趙相貫高逆謀發覺,同謀者趙午等十餘人皆自刎死,高曰:「若皆死,誰當明王不反?」乃就檻車,送詣長安,言王不知,考治身無完者,終不復言。上曰:「壯士哉!」令人私問之,高曰:「人情豈不各愛其親戚乎?今吾三族皆以論死,豈以王易吾親戚哉!」具以情對,上乃詔赦趙王。嘉貫高之節,乃赦之。高曰:「所不死者,欲明王不反。今王已出,吾責塞矣。且人臣有篡弑之名,將何面目復事上哉!」乃仰天絶吭而死。趙王張敖尚魯元公主故,封敖爲宣平侯。荀悅曰:貫高首爲亂謀,殺主之賊,雖能證明其王,小亮不塞大逆,私行不贖公罪。《春秋》之大義,居正罪無赦。趙王掩高之逆心,失「將而必誅」之義,使高得行其謀,不亦殆乎!無藩國之義,減死可也,侯之,過歟!初,捕趙王,詔有敢從者夷三族。趙王郎中田叔、孟舒等十人髡鉗爲王家奴,從王就獄,後上聞田叔、孟舒皆賢,召見之。漢朝廷臣無能出其右者,皆以爲郡守。春正月,徙代王如意爲趙王。夏六月乙未晦,日有食之。 十年冬十月,淮南王、梁王、燕王、荊王、楚王、齊王、長沙王來朝。夏五月,太上皇崩。秋七月癸卯,太上皇葬于萬年。八月,令諸侯王皆立太上皇廟于國都。上欲廢太子,立戚夫人子如意。羣臣争之,不能得。御史大夫周昌固争之,上問其狀。昌爲人剛直少言,對曰:「臣雖口不能言,然心知其不可。陛下必欲廢太子,立戚夫人子如意,臣期不奉詔。」昌嘗奏事,上方擁戚夫人,昌還走。上追之,騎昌項上,問曰:「我何如主?」曰:「陛下桀、紂主也。」上笑之。後上嘗心不樂,悲歌,羣臣不知所謂。符璽御史郎趙堯進曰:「陛下所爲不樂者,非以爲趙王年少,而戚夫人與呂后有隙,萬歲之後不能自全也?」上曰︰「然。」堯曰:「宜爲趙王置貴强相,呂后、太子、羣臣素所憚者。」上曰︰「誰可使?」對曰:「周昌可相趙王。」上謂昌曰:「吾極知其左遷,然吾憂趙王,非公莫可相者。」乃以昌爲趙相,以趙堯代昌爲御史大夫。初,趙人方與公謂昌曰:「君之吏趙堯,奇士也,且代君位。」昌笑曰:「堯年少,刀筆吏耳,何至是乎!」卒如方與公言。九月,代相陳狶反,狶少時,常稱慕魏公子無忌之養士,及爲相守邊,接下賓客,從車千餘乘。初,狶適代時,辭淮陰侯韓信。韓信既廢,恐懼怨望,乃與狶謀曰:「趙、代,精兵處也。公反于外,上必自出。吾從中起,天下可圖也。」狶反,上欲自擊之。建成侯周緤泣曰:「陛下常自行,是無人可使。」初,緤從上,每有不利,終無離上之心。上以爲「愛我」,賜上殿不趨。上遂東至邯鄲,選壯士可令將者四人,各封千戶侯。左右皆曰:「此人何功,而封千戶?」上曰:「非爾所知。夫陳狶反,趙、代皆狶之有。吾以羽檄徵天下兵,未有至者,今獨邯鄲中兵至。吾何愛四千戶,不以慰趙子弟心乎!」復求樂毅之後,得樂叔,封樂鄉侯,號曰華成君。令吏民爲狶所劫略,皆赦其罪。問狶將,皆故賈人。曰︰「吾知易與之矣。」乃多與金購狶將,將多降。是時,沛人任敖素善於上,上以客從,拜爲上黨太守,堅守不下,封敖廣阿侯。御史大夫趙堯擊狶有功,封江邑侯。詔御史曰:「獄之疑者,吏或不敢決,或有死者久而不能論,無罪者久繫。自今已後,有疑獄者,各讞所屬二千石;二千石不能決,移之廷尉;廷尉不決,具奏以聞。」 十一年冬十月,遣周勃征代地。春正月,淮陰侯韓信謀反,與陳狶爲內應,欲夜詐詔諸宮徒奴以襲呂后、太子。其舍人告之。呂后與蕭何謀,詐令人從上所來,言陳狶已死,羣臣皆賀。遂執信,斬之,夷三族。信方斬,歎曰:「悔不用蒯通之言,爲女子所執。」上自邯鄲至洛陽,召蒯通,將烹之。通曰:「臣聞狗各吠非其主。當彼之時,臣但知有齊王信,不知有陛下。且秦失其鹿,天下争逐之,高材輕足者先得。當此之時,争欲爲陛下所爲,顧力不能,可盡烹邪!」乃赦之。上使使者拜丞相蕭何爲相國,益封五千戶,令卒五百人、一都尉爲相國衛。諸羣臣皆賀,故秦東陵侯邵平獨揖曰:「禍自此始矣。上暴露於外,而君守其內,非有矢石之難,而益封置衛者,以今淮陰侯新反於中,有疑君心。夫置衛者衛君,非所以寵君也。願君讓封勿受,以家財給軍。」何從之,上大悅。立皇子恒爲代王,都晉陽。赦天下。三月,梁王彭越反,誅三族。上擊陳狶時,徵兵梁王,梁王但遣將往。上怒之,梁王欲自行。其將扈輒曰:「王始不行,見讓而往,即爲擒矣,不如遂發兵反。」梁王不聽,稱疾。梁王太僕有罪亡者,告彭越與扈輒謀反。上捕囚越,赦爲庶人,徙之蜀。道逢呂后於路,涕泣曰︰「無罪,願歸昌邑。」呂后與俱還洛陽,謂上曰︰「彭越壯士。徙之蜀,自貽後患,不如遂誅之。」呂后令其舍人告彭越復謀反,乃誅之,夷三族,梟其首,令曰:「敢有收視者,輒捕之。」梁太傅欒布爲彭越使于齊,還,報命首下,祠而哭之。上欲烹之,方提頭趨湯鑊,布曰:「願一言而死。」曰:「陛下非彭越,項氏不亡。今天下已定,彭王剖符受封,亦欲傳之萬世。今一徵兵,王不自行,而疑以爲反。反形未見,以苛察誅之,臣恐功臣人人自危。彭王已死,臣生不如死,請就湯鑊。」上赦之,拜爲都尉。於是醢彭越,以醢遍賜諸侯。淮南王英布聞越死,見醢,乃驚恐,陰有疑謀。立皇子恢爲梁王,皇子友爲淮陽王。夏四月,上行自洛陽。五月,遣楚人陸賈使南越,立尉佗爲王。佗者,秦時爲南海郡尉,因天下之亂,遂有南越。賈至,尉佗椎髻箕踞見賈。賈曰︰「足下中國之人,親戚昆季墳墓在真定。今足下反天性,棄冠帶,欲以區區之越與天子抗行爲敵國,禍且及身矣。天子聞君王南越,不助天下誅暴秦,將欲移兵於王。天子爲百姓勤勞,遣臣授君王印綬,剖符通使。王宜郊迎,北面稱臣,乃欲以新造未集之越,屈强於此。漢誠聞之,掘燒王先人墳墓,夷滅宗族,遣一偏將將十萬師以臨越,越人即殺王降漢,如反手耳。」於是尉佗乃蹷然起坐,而謝曰:「吾居蠻夷中久,殊失禮儀。」因問賈曰:「我孰與蕭何、曹參賢?」賈曰:「王則賢矣。」復問︰「我孰與皇帝賢?」賈曰:「皇帝起豐沛,討暴秦,誅强楚,爲天下興利除害,繼五帝、三王之業,統治中國,政由一家,自天地剖判已來未曾有也。今王衆不過數十萬,皆蠻夷,崎嶇山海,譬猶漢之一郡,何乃比於漢也!」佗大笑曰:「吾不起中國,故王此。使我起中國,何遽不若漢?」乃遂受符印,稱王。賜賈橐,中裝直千金,餘贈送亦千金。賈還報命,拜太中大夫。賈時上前說《詩》、《書》。上駡之曰:「吾居馬上得天下,安用《詩》、《書》!」賈對曰:「陛下居馬上得之,寧能馬上治之乎?且湯、武逆取而順守,文武並用,久長之道。昔吳王夫差極武而亡,秦任刑法不變而滅。向使秦已兼天下,行仁義,法先王,陛下安得而有之?」上有慙色,謂賈曰:「試爲我著秦之所以失天下,吾所以得天下,及古今成敗之故。」賈凡著書十二篇。每奏一篇,上讀之未嘗不稱善。號其書曰《新語》。秋,淮南王黥布謀反,謂其將曰:「上老矣,厭兵,必不能自來。諸將獨韓信與彭越,今皆死矣,餘不足畏。」遂反。汝陰侯問故楚令尹薛公曰:「布何故反?」對曰:「往年殺韓信,今年殺彭越,此三人者,同功一體之人。自疑禍及其身,故反耳。」夏侯嬰乃言薛公於上,上召問之。薛公對曰:「布出上計,則山東非漢之有也;出中計,勝敗之數未可知;布出下計,陛下高枕而卧耳。」上曰:「何謂上計?」對曰:「東取吳,西取楚,并齊與魯,傳檄燕、趙,固守其所,山東非漢之有。」「何謂中計?」對曰:「東取吳,西取楚,并齊、韓,取魏,據敖倉之粟,塞成臯之口,勝敗之數未可見也。」「何謂下計?」「東取吳,西取蔡,歸重於越,身歸長沙,陛下無患矣。」上曰:「此計將安出?」曰︰「必出下計。布故驪山徒耳,致萬乘之王,此皆爲身,不顧其後,不爲百姓萬世之業也。」上曰︰「善。」封薛公爲千戶侯。上遂自征布,赦死罪已下,皆令從軍。立皇子長爲淮南王。布果東擊楚。楚王分軍爲三,欲以相救爲奇兵。或謂楚將曰:「諸侯自戰其地爲散地。今分軍爲三,布散其一,兩軍散走,安能相救!」不聽,布果敗其一軍,而二軍皆走。布遂與帝遇于蘄西會𦉈。布兵精甚,其置陣如項羽軍,上惡之。上謂布曰:「何苦反?」布曰:「我欲爲帝耳。」上駡之,遂戰,布敗。 十二年冬十月,上破布軍。布走江南,長沙王使人殺之。上擊布也,數使使勞相國。或謂何曰:「君居關中,甚得百姓心,上畏君傾動關中。君何不多買人田宅,賤貰貸以自汙!不然,上心不安。」何從之。上還過沛,悉召故人父老子弟置酒。上自歌曰:「大風起兮雲飛揚,威加海內兮歸故鄉,安得猛士兮守四方!」上乃起舞,忼慨傷懷,泣數行下。歎息曰:「游子悲故鄉,吾萬歲之後魂魄猶思沛。其以沛爲朕湯沐邑,復其人,世世無所與。」又以豐比沛。既至長安,立豐縣。豐之枌榆故廬社,皆如舊制也。周勃定代,斬陳狶。或言燕王綰與狶通謀,上召盧綰。盧綰謂其臣曰:「往年族淮陰侯、彭越皆呂后計,今上疾病,呂后婦人,專欲誅異姓及大功臣。」遂稱疾不行。上怒,使樊噲將兵擊之。綰將其家屬與數千騎居長城下,欲候上差自入謝之。上立沛侯濞爲吳王。濞者,郃陽侯仲之子也。已拜,上相曰:「汝面狀有反相,漢後五十年東南有亂,豈非汝也?然天下一家,慎勿反也!」濞頓首曰︰「不敢。」上過魯,以大牢祀孔子。十有二月,還京師,民遮道上書數千人,言相國强賤買民田宅。上笑曰:「相國亦愛利乎?」使相國自謝民。後蕭何爲民復請上林苑中空地,令民得入田,無收稾爲禽獸食。上怒曰:「相國多受賈人金錢,爲人請吾苑。」乃詔下廷尉。王衛尉諫曰:「相國何罪,繫之暴也?」上曰:「吾聞李斯相秦,有善歸主,有惡自與。今相國多受賈人錢,爲請吾苑,以自媚於人。」王衛尉曰:「事苟有便於人而請之,宰相職也。陛下奈何乃疑相國受賈人金乎!且陛下拒楚數年,及陳狶反時,上自將兵往,當時相國守關中,關中搖足則關西非陛下之有。相國不以此時爲利,乃今利賈人金錢乎?且秦以不聞其過而亡天下,夫李斯之分過,又何足法哉!」上乃令相國復其位。詔爲秦始皇帝置守塚三十家,楚隱王十家,復無所與。春二月,熒惑守心,星占曰︰「王者惡之。」立皇子建爲燕王。上擊黥布時,爲流矢所中。疾甚,呂后迎良醫。良醫曰︰「可治。」上怒曰:「吾以布衣提三尺取天下,此非天命乎?命乃在天,雖扁鵲何益!」遂不使治。呂后問曰:「陛下即百歲之後,蕭相國終,孰可代者?」上曰︰「曹參可。」又問其次,曰︰「王陵可,然少戇,陳平可以佐之。平智有餘,然難獨任。周勃厚重少文,然安劉氏者必勃也,可爲太尉。」又問其次,上曰:「過此以後,非乃所知。」先是上嘗疾困,惡見人,詔戶者無納群臣。群臣莫敢入。十餘日,樊噲乃排闥直入,大臣隨之。上獨枕一宦者卧,噲等見上,流涕曰:「陛下疾甚,大臣震恐,久不見臣等計事,顧獨枕一宦者。嗟乎!陛下獨不見趙高之事乎?」上笑而起。初,上欲廢太子,呂后聞之,使留侯爲太子計。留侯曰:「上有所不能致者四人,曰東園公、夏黃公、甪里先生、綺里季,皆逃在山中。然上高之。今令太子卑辭安車,迎此四人來,以爲客,時隨入朝,則一助也。」呂后從其計,四人果來,年皆八十,鬚眉皓白,故謂之「四皓」。初,黥布反時,上欲使太子將兵擊布。四人相謂曰:「凡來將以安太子。太子將兵,事危矣。有功則位無益也,無功從此受禍。」乃令呂后對上泣涕而言︰「黥布善爲兵,諸將皆陛下故人,今乃令太子獨將兵擊之,恐諸將莫肯爲用,且懼布聞之,鼓行而西耳。陛下雖疾,强載輜車,卧而護之,諸將不敢不盡力。」上乃自行,及還,其疾稍甚,愈欲易太子。太傅叔孫通固諫曰:「晉獻公以驪姬故,廢太子申生而立奚齊,晉國大亂數十年;秦不早定扶蘇,胡亥詐詔自立,使滅絶秦祀。臣敢以死争之。」上雖聽之,而心欲廢太子。及讌置酒,太子侍,四人從。上怪而問之,四人前對,各言姓名。上乃驚曰:「吾召公等,不奉詔,今侍太子者何?」四人對曰:「陛下喜駡輕士,臣等義不受辱,故亡。今聞太子仁孝,愛人敬士,天下莫不延頸願爲太子死者,臣等故來。」上曰︰「煩公等幸卒調護太子。」四人退,上召戚夫人指示曰:「吾欲易太子,彼四人者爲之輔,羽翼已成,難搖動也。」太子遂定。春三月,詔曰:「吾有天下十二年于今,與天下賢士大夫共安輯之。至于褒賞功臣,可謂無負矣。其不義背天下約擅起兵者,與天下共伐誅之。」夏四月甲辰,帝崩于長樂宮。呂后畏諸將大臣,與審食其謀,欲盡誅大臣,數日不發喪。酈商謂辟陽侯曰:「今陳平、灌嬰將十萬衆守滎陽,樊噲、周勃將二十萬衆定燕、代,此四人聞帝崩,諸將皆誅,必連兵還向京師。大臣內叛,諸將外反,亡可翹足而待。」審食其言之於呂后,乃以丁未發喪,大赦天下。盧綰聞上已崩,遂亡入匈奴中。五月丙辰,皇帝葬長陵。《本志》曰:「高祖入秦,初順人心作三章之約。天下既定,命蕭何定律令,韓信申軍法,張蒼定章程,叔孫通制禮儀,陸賈進《新語》。又與功臣剖符作誓,丹書鐵券,藏之宗廟。雖日不暇給,規模弘遠矣。」 讚曰:「高祖起於布衣之中,奮劍而取天下,不由唐、虞之禪,不階湯、武之王,龍行虎變,率從風雲,征亂伐暴,廓清帝宇,八載之間,海內克定,遂何天之衢,登建皇極,上古已來,書籍所載,未嘗有也。非雄俊之才,寬明之略,歷數所授,神祇所相,安能致功如此!夫帝王之作,必有神人之助,非德無以建業,非命無以定衆,或以文昭,或以武興,或以聖立,或以人崇,焚魚斬蛇,異功同符,豈非精靈之感哉!《書》曰:『天工人其代之。』《易》曰:『湯、武革命,順乎天而應乎人。』其斯之謂乎!故觀秦、項之所亡,察大漢之所興,得失之驗,可見于茲矣。太史公曰:『夏政忠,政忠之弊野,故殷承之以敬。以敬之弊鬼,故周承之以文。以文之弊薄,救薄莫若忠。三王之道周而復始。周、秦之間,可謂文弊。秦不改,反酷刑。漢承秦弊,得天統矣。」

『漢書』高帝紀の末尾にいう。
贊曰:春秋晉史蔡墨有言,陶唐氏既衰,其後有劉累,學擾龍,事孔甲,范氏其後也。而大夫范宣子亦曰:「祖自虞以上為陶唐氏,在夏為御龍氏,在商為豕韋氏,在周為唐杜氏,晉主夏盟為范氏。」范氏為晉士師,魯文公世奔秦。後歸于晉,其處者為劉氏。劉向云戰國時劉氏自秦獲於魏。秦滅魏,遷大梁,都于豐,故周巿說雍齒曰「豐,故梁徙也」。是以頌高祖云:「漢帝本系,出自唐帝。降及于周,在秦作劉。涉魏而東,遂為豐公。」豐公,蓋太上皇父。其遷日淺,墳墓在豐鮮焉。及高祖即位,置祠祀官,則有秦、晉、梁、荊之巫,世祠天地,綴之以祀,豈不信哉!由是推之,漢承堯運,德祚已盛,斷蛇著符,旗幟上赤,協于火德,自然之應,得天統矣。
ぼくは思う。荀悦の「讃」は、『漢書』の丸写しでない。平帝紀の「讃」は、『漢書』からの転載だったのに。荀悦は高帝について、いろいろ意見を持っていたらしい。言いたかったらしい。

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