両晋- > 『資治通鑑』晋紀を抄訳 289年-298年 恵帝の前期

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289年、諸王を国にゆかせ、太子のバカを心配

289年夏、慕容廆が何龕にあい、段氏をめとる

資治通鑑 第082卷;【晉紀四】起屠維作噩,盡著雍郭牂,凡十年。;世祖武皇帝下太康十年(己酉,公元二八九年)
夏,四月,太廟成。乙巳,祫祭。大赦。
慕容廆遣使請降,五月,詔拜廆鮮卑都督。廆謁見何龕,以士大夫禮,巾衣詣門;龕嚴兵以見之,廆乃改服戎衣而入。人問其故,廆曰:「主人不以禮待客,客何為哉!」龕聞之,甚慚,深敬異之。

夏4月、太廟が成る。乙巳、祫祭する。大赦した。

祫とは、大合祭である。『公羊伝』はいう。大祫とはなにか。合祭である。合わせて祭るとは、どうやるのか。(世代が離れて親しくなくなった)毀廟の神主を、(初代で不毀の廟をもつ)太祖の廟にならべる。まだ(世代が近くて親しい)廟を毀していない神主を、みな太祖の廟に昇らせる。こうして、みんなまとめて祭ること。

慕容廆が、使者をやって請降する。5月、詔して、慕容廆を鮮卑都督に拝させる。
慕容廆は、何龕に謁見するに、士大夫の礼を以てす。巾衣して詣門する。

魏晋の間、士大夫が尊貴な者に謁見するとき、巾と単衣をつけた。

何龕は、兵を厳しくして(胡族を警戒する形式で)慕容廆にあう。慕容廆は、戎衣に服を改めて、何龕の府に入る。人が理由を問う。慕容廆「主人は礼を以て待客しなかった。なぜ客が礼を以て謁見するものか」と。何龕はこれを聞き、はなはだ慚じて、慕容廆を深く敬異した。

胡三省はいう。何龕が慕容廆の降伏を受けたのは、敵を受け入れたのと同じである。辺境の長官が、兵を厳しく(警戒して)四夷の客にあうのは、過失とはいえない。どうして何龕は恥じる必要があろうか。
ぼくは思う。「民族」は明治日本の創作。「国民」との区別が、西洋圏ではつかないらしい。いまの中国で「民族」というのは、日本語の借用。つまり、「異民族」という語を、近代人のぼくらが使うとき、中国史に対して誤解しか生まない。漢族と胡族とか、四夷とか、そういう対立構図をどのように捉えているのか、ぼくらは言語感覚をリセットして、考えねば。
いくら正史の図式が、中華を中心に描きすぎて実態を損なうとはいえ。漢代のうちは、わりに実態に合っているはず。歴史の叙述形式が確立して、すでに実態から乖離しているなんてことはない。司馬遷や班固は、そこまで確信犯ではない。彼らなりの世界を、もっとも正しく(政治的にも正しく)整理できると思ったのが、紀伝体である。
正史の図式を墨守して、ズレるのは、まさにこの西晋から五胡にかけてだ。非漢族が、どのように正史の記述方式を不自由なものとするかを、読みとるプロセスなんだ。この時代の史書を抄訳するということは。


時鮮卑宇文氏、段氏方強,數侵掠廆,廆卑辭厚幣以事之。段國單于階以女妻廆,生皝、仁、昭。廆以遼東僻遠,徙居徒河之青山。

ときに鮮卑は、宇文氏と段氏が方強である。

鮮卑のこれまでの情勢について、2593頁。

しばしば慕容廆を侵掠する。慕容廆は、辭を卑く、幣を厚くして、宇文氏と段氏につかえる。段国単于階は、娘を慕容廆の妻とする。その妻は、慕容皝、慕容仁、慕容昭を生む。慕容廆は、遼東が僻遠なので、徒河の青山に、居を徙した。

徒河圏は、前漢では遼西、後漢では遼東属国。2594頁。


289年冬、荀勖が死に、諸王を国におく

冬,十月,復明堂及南郊五帝位。
十一月,丙辰,尚書令濟北成侯荀勖卒。勖有才思,善伺人主意,以是能固其寵。久在中書,專管機事。及遷尚書,甚罔悵。人有賀之者,勖曰:「奪我鳳皇池,諸君何賀邪!」

冬10月、明堂および南郊に、五帝位を復する。

明堂と南郊で、五帝の座を除いたのは、泰始2年(266)。

11月丙辰、尚書令する濟北成侯の荀勖が卒した。荀勖は、才思があり、善く人主の意を伺う。この能力により、人主の寵が固い。久しく中書にあり、機事を専管する。尚書に遷り、甚だ罔悵である。

胡三省はいう。志を失った顔つきだった。志を失ったことを怨んだ様子だった。

尚書への異同を賀する者があると、荀勖はいう。「わが鳳皇の池を奪っておいて、諸君はなぜ賀するのか」と。

帝極意聲色,遂至成疾。楊駿忌汝南王亮,排出之。甲申,以亮為侍中、大司馬、假黃鉞、大都督、督豫州諸軍事,鎮許昌;徙南陽王柬為秦王,都督關中諸軍事;始平王瑋為楚王,都督荊州諸軍事;濮陽王允為淮南王,都督揚、江二州諸軍事;並假節之國。立皇子乂為長沙王,穎為成都王,晏為吳王,熾為豫章王,演為代王,皇孫遹為廣陵王。又封淮南王子迪為漢王,楚王子儀為毘陵王,徙扶風王暢為順陽王,暢弟歆為新野公。暢,駿之子也。琅邪王覲弟澹為東武公,繇為東安公。覲,人由之子也。

武帝は、極意・聲色し、ついに成疾した。楊駿は、汝南王の司馬亮を忌み、洛陽から排出したい。11月甲申、司馬亮を、侍中・大司馬・假黃鉞・大都督・督豫州諸軍事として、許昌に鎮させた。南陽王の司馬柬を秦王として、都督關中諸軍事とする。始平王の司馬瑋を楚王として、都督荊州諸軍事とする。濮陽王の司馬允を淮南王とし、都督揚江二州諸軍事とする。いずれも假節させ、国にゆかす。

「江州」が、まだないという話。2595頁。

皇子の司馬乂を長沙王とした。司馬穎を成都王とした。司馬晏を呉王とした。司馬熾を豫章王とした。司馬演を代王とした。
皇孫の司馬遹を廣陵王とした。また、淮南王の子・司馬迪を漢王とした。楚王の子・司馬儀を毘陵王とした。扶風王の司馬暢を順陽王とした。司馬暢の弟・司馬歆を新野公とした。
司馬暢は、司馬駿の子である。

司馬暢は、司馬駿の爵位(扶風王)をつぐ。だが関中の任(扶風あたりの長官)にない。ゆえに(順陽王に)徙されたのだ。

琅邪王の司馬覲の弟・司馬澹を、東武公とする。司馬繇を東安公とする。司馬覲は、司馬伷の子である。

晋制において、宗室で郡公に封じられた者は、制度は小国の王と同じ。


初,帝以才人謝玖賜太子,生皇孫遹。宮中嘗夜失火,帝登樓望之,遹年五歲,牽帝裾入暗中曰:「暮夜倉猝,宜備非常,不可令照見人主。」帝由是奇之。嘗對群臣稱遹似宣帝,故天下鹹歸仰之。帝知太子不才,然恃遹明慧,故無廢立之心。復用王佑之謀,以太子母弟柬、瑋、允分鎮要害。又恐楊氏之逼,復以佑為北軍中候,典禁兵。帝為皇孫遹高選僚佐,以散騎常侍劉寔志行清素,命為廣陵王傅。

はじめ武帝は、才人の謝玖を太子に賜い、皇孫の司馬遹をうむ。

才人は、美人につぐ位。李延寿はいう。晋武帝は、漢魏の制を採用した。3夫人、9嬪のしたに、美人、才人、中才人がいる。才人の爵位は、1千石以下と等しい。

宮中で、夜に失火した。武帝が登樓して、火事を望んだ。司馬遹は5歳だが、武帝の裾をひき、暗中に入れた。「暮夜の倉猝は、非常に備えるべき。人主を照見させるべきでない」と。武帝は、司馬遹を奇とした。

ぼくは思う。武帝の顔をさらしたら、暗殺される。「御影」を配布したり、テレビで君主の顔をアピったりするのは、近代の「奇習」というべきだろう。
もしくは、ふつうに「火を見たら危ない」という指摘なのかな。

かつて郡臣にむけて、武帝は「司馬遹は、宣帝(司馬懿)に似る。ゆえに天下は、みな司馬遹に帰して仰ぐ」といった。武帝は、太子(のちの恵帝)が不才だと知るが、司馬遹の明慧をたのみ、廢立之心がない。
また王佑の謀を用いて、

王佑は、王済の従兄である。羊祜らと、文帝につかえて、武帝に寵信された。

太子の同母弟である司馬柬、司馬瑋、司馬允を、分けて要害に鎮させた。

要害とは、雍州、荊州、揚州である。

楊氏に逼られるのを恐れ、王佑を北軍中候として、禁兵を典させる。武帝は、皇孫の司馬遹のために、僚佐を高選する。散騎常侍の劉寔は、志行が清素である。命じて廣陵王の傅(司馬遹のもりやく)とした。

魏代より、王国には師と友をおく。晋代は、司馬師の諱をさけて「傅」とした。


◆司馬遹のもりやく・劉寔

寔以時俗喜進趣,少廉讓,嘗著《崇讓論》,欲令初除官通謝章者,必推賢讓能,乃得通之。一官缺則擇為人所讓最多者用之,以為:「人情爭則欲毀己所不如,讓則競推於勝己。故世爭則優劣難分,時讓則賢智顯出。當此時也,能退身修己,則讓之者多矣,雖欲守貧賤,不可得也。馳騖進趨而欲人見讓,猶卻行而求前也。」

劉寔は、時俗を喜んで進趣した。少くて廉讓である。かつて『崇譲論』を著す。
はじめて官に除され、謝章を通す者には、かならず賢を推し、能を譲らせ、そのあとで通させろと。1つの官職に欠員がでると、もっとも譲された回数が多い者をもちいろと。劉寔はいう。「人の情は争い、己の及ばない者を毀そうとする。譲せば、己に勝る者を推薦することを競う。ゆえに世の爭いは、優劣と分かちがたい。ときに譲させれば、賢智が顯出する。この時にあたり、身を退けて己を修められる。譲られることが多い者は、貧賤を守りたがっても、許すな(官職に就けろ)。騖を馳せて趨を進め、人に譲られたい者は、却行して求前するようなもの」と。

ぼくは思う。うまく訳せてないが。官職に就くものは、着任の前に「私より賢くて、私よりもこの官職に適任なのは、誰々です」と報告せよと。これを義務づければ、優れた人材が出てくる。もう官職に就くことは確定しているから、推薦者の利益を損なうことなく、人材(後任者の候補)を言うことができると。
これが劉寔のアイディアである。うまく運用できるかなあ。


淮南相の劉頌が上疏する

淮南相劉頌上疏曰:「陛下以法禁寬縱,積之有素,未可一旦直繩御下,此誠時宜也。然至於矯世救弊,自宜漸就清肅;譬猶行舟,雖不橫截迅流,然當漸靡而往,稍向所趨,然後得濟也。自泰始以來,將三十年,凡諸事業,不茂既往,以陛下明聖,猶未反叔世之敝,以成始初之隆,傳之後世,不無慮乎!使夫異時大業,或有不安,其憂責猶在陛下也。

淮南相の劉頌が上疏する。

漢制では王国に相をおく。晋制より後は「内史」という。

陛下の法禁は寬縱である。ひきしめるべきだ。大きな川でも、水流に逆らわねば渡れる。水流に逆らえば渡れない。泰始期より30年が経とうとしているが(じつは25年)陛下の事業は(漢代に比べて)まだまだ完成していない。太子=恵帝に、安心して伝えてゆけるほど、体制ができてない。

臣聞為社稷計,莫若封建親賢。然宜審量事勢,使諸侯率義而動者,其力足以維帶京邑;若包藏禍心者,其勢不足獨以有為。其齊此甚難,陛下宜與達古今之士,深共籌之。周之諸侯,有罪誅放其身,而國祚不泯;漢之諸侯,有罪或無子者,國隨以亡。今宜反漢之敝,循周之舊,則下固而上安矣。

社稷の計とは、親賢する者を封建するのがよい。地方を厚くして中央を薄くするのが心配である(太子がバカだから)。
周代の諸侯は、罪があっても国を親族に嗣がせた。だが漢代の諸侯は、有罪や無子なら断絶させた。

周王は、斉哀公を煮たが、その弟に嗣がせた。周宣王は魯侯の伯御を誅したが、孝公を立てた。これらが、断絶させずに親族に嗣がせた事例である。

漢代ではなく、周代の方法をまねろ。

天下至大,萬事至眾,人君至少,同於天日,是以聖王之化,執要於己,委務於下,非憚勞而好逸,誠以政體宜然也。夫居事始以別能否,甚難察也;因成敗以分功罪,甚易識也。今陛下每精於造始而略於考終,此政功所以未善也。人主誠能居易執要,考功罪於成敗之後,則群下無所逃其誅賞矣。

天下は大きく、政治の事案は多いが、人君は少ない。任せられることは、臣下に任せろ。(つぎの恵帝がバカだから)

古者六卿分職,塚宰為師;秦、漢已來,九列執事,丞相都總。今尚書制斷,諸卿奉成,於古制為太重。可出眾事付外寺,使得專之;尚書統領大綱,若丞相之為,歲終課功,校簿賞罰而已,斯亦可矣。今動皆受成於上,上之所失,不得復以罪下,歲終事功不建,不知所責也。

古代は六卿に職掌をわけた。

『周礼』をみよ。2597頁。

秦漢より、九列が執事して、丞相が統括する。いま尚書の役割が重くなった。尚書は、九列をまとめるだけにせよ。

皇帝と直接にやりとりする尚書に、権限を集中させるのでなく(恵帝がバカだから)、九卿にきちんと分権しておけと。


夫細過謬妄,人情之所必有,而悉糾以法,則朝野無立人矣。近世以來為監司者,類大綱不振而微過必舉,蓋由畏避豪強而又懼職事之曠,則謹密網以羅微罪,使奏劾相接,狀似盡公,而撓法在其中矣。是以聖王不善碎密之案,必責凶猾之奏,則害政之奸,自然禽矣。

小さな過失まで処罰させるな。

夫創業之勳,在於立教定制,使遺風系人心,餘烈匡幼弱,後世憑之,雖昏猶明,雖愚若智,乃足尚也。至夫修飾官署,凡諸作役,恆傷泰過,不患不舉,此將來所不須於陛下而自能者也。今勤所不須以傷所憑,竊以為過矣。」帝皆不能用。

以上を実現すれば、太子=恵帝がバカでも、西晋は安泰であると。

以上のことは、すべて武帝の死後に、混乱が起きるのを防止するための意見でした。武帝が愉快なはずがない。

武帝は、すべて用いることができない。

ぼくは思う。全否定?部分否定?
胡三省はいう。太子=恵帝がバカだが、武帝は制度をきっちり固めて、帝位を継承しなかった。劉禅はバカだったが、諸葛亮がいたので、劉備の死後も、劉備の生前と同じだった。諸葛亮が死ぬと、諸葛亮が蜀漢の法制を整備してくれたが、劉禅は蜀漢を守れなかった。
ぼくは思う。君主が連続して有能とは限らない。そのとき、法制の整備によって、王朝を最低限は維持して、ふたたび賢君の登場を待つ。そういう発想があったみたい。
現代日本のぼくらは、世襲にちょっと懐疑的だと思う。世襲なのに「有能の君主が、出続けるべきだ」とか「無能な君主が出るが、それはあるべき姿ではない」なんて調子で、通史を描くときに批判的になってしまう。しかし、世襲が自明の前提であり、疑うべくもなければ、有能か否かで論じること自体、おかしいのだ。だって、有能さでは選ばないのだから。
後継者選びでちょっとモメるとき、「世襲が自明の人々」ですら、有能さを取るか、血筋を取るかで葛藤が生じるのだろうが、それは例外的な事態である。そして儒教は、そういう葛藤そのものを禁止=抑圧している。
「血筋は正統、能力は低劣」という君主に対する論評の仕方について、いちど反省してみたい。たしかに史料でも無能を批判する言葉があるが、それは近代人であるぼくらがスッと理解できる意味での批判なんだろうか。ちょっと違うような。


劉淵が幽冀の名儒から支持される

詔以劉淵為匈奴北部都尉。淵輕財好施,傾心接物,五部豪傑、幽冀名儒多往歸之。 奚軻男女十萬口來降。

詔して、劉淵を匈奴北部都尉とした。劉淵は、輕財・好施であり、傾心・接物する。五部の豪傑と、幽冀の名儒は、おおくが劉淵に帰する。

ときに匈奴の五部の帥を、五部都尉という。
劉淵が衆を得て、晋の天命をうつす張本である。
ぼくは思う。匈奴の内部だけでなく、「幽州や冀州の名儒」までもが、劉淵に心を寄せてたのか。それじゃあ西晋は転覆するよね。

奚軻(夷の一種)の男女10万口が來降した。131016

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290年、武帝が崩じ、外戚の楊駿が乗っ取る

290年春、楊駿が衛瓘を引退させる

孝惠皇帝上之上;世祖武皇帝下永熙元年(庚戌,公元二九零年)
春,正月,辛酉朔,改元太熙。
己巳,以王渾為司徒。

恵帝の上の上巻。

恵帝は、司馬衷。武帝の第二子である。
『諡法』はいう。柔質で慈民を「恵」とする。

春正月の辛酉ついたち、太熙を改元する。

太熙は、武帝が改めた。4月己酉、太子が即位して、永熙と改元した。踰年せず改元するのは、非礼である。どうして恵帝は、即位した当日に改元したのだろうか。
ぼくは思う。胡三省は批判しっぱなしかよ。

己巳、王渾を司徒とする。

司空、侍中、尚書令衛瓘子宣,尚繁昌公主。宣嗜酒,多過失,楊駿惡瓘,欲逐之,乃與黃門謀共毀宣,勸武帝奪公主。瓘慚懼,告老遜位。詔進瓘位太保,以公就第。
劇陽康子魏舒薨。

司空・侍中・尚書令の衛瓘は、子を衛宣という。衛宣は、繁昌公主をめとる。衛宣は、嗜酒して、過失がおおい。楊俊は、衛瓘をにくみ、逐いたい。黄門とともに衛宣を毀ち、武帝に「公主を奪え(離婚させろ)」という。衛瓘は慚懼して、告老・遜位する。詔して、衛瓘を太保にすすめ、公を以て就第させる。

衛瓘は菑陽公に封じられた。

劇陽康子の魏舒が薨じた。

ぼくは補う。劇陽は封地、康は諡号、子は爵位。


3月、武帝が死にそう

三月,甲子,以右光祿大夫石鑒為司空。

3月甲子、右光祿大夫の石鑒を司空とする。

帝疾篤,未有顧命,勳舊之臣多已物故,侍中、車騎將軍楊駿獨侍疾禁中。大臣皆不得在左右,駿因輒以私意改易要近,樹其心腹,會帝小間,見其新所用者,正色謂駿曰:「何得便爾!」
時汝南王亮尚未發,乃令中書作詔,以亮與駿同輔政,又欲擇朝士有聞望者數人佐之。駿從中書借詔觀之,得便藏去,中書監華廙恐懼,自往索之,終不與。會帝復迷亂,皇后奏以駿輔政,帝頷之。

武帝は疾篤である。まだ顧命しない。勳舊之臣は、すでに多くが物故した。侍中・車騎將軍の楊駿だけが、禁中に侍疾する。大臣は、みな左右にいけない。楊駿は、私意により要近(重職)を変更した。その心腹を樹てる。たまたま武帝が小康となり、楊駿が新たに用いた者をみた。色を正して楊駿にいう。武帝「何ぞ爾を便するを得んや」と。

『漢辞海』はいう。【便】都合がよい、適合する。有利にする、適合する。正式でないさま、控えめであるさま。ふだん使い。身軽なさま。ならう、熟練する。
ぼくは思う。ここは「都合がよい」かな。なんの権限があって、楊駿の都合よく、人事をいじってしまったのだ。そんな権限はなかろう(与えた覚えがない)のに、と武帝は言ったのだろう。

ときに汝南王の司馬亮は、まだ汝南にゆかない。

昨年、司馬亮は、出て豫州を督すことになった。

武帝は中書に作詔させ、司馬亮と楊駿に、輔政を同じくさせる。また朝士の聞望ある者をえらび、補佐につけたい。楊駿は、中書から詔を借りて観て、隠してしまった。中書監の華廙は(楊駿が詔書を隠したのを)恐懼して、自ら往って探索する。ついに楊駿は、詔書を返さない。
たまたま武帝が迷乱した。皇后は奏して、楊駿に輔政させるかという。武帝は頷いた。

ぼくは思う。この皇后は、楊駿の娘である。悪ドスギルw


4月、武帝が司馬亮を待ち、楊駿に阻まれる

夏,四月,辛丑,皇后召華廙及中書令何劭,口宣帝旨作詔,以駿為太尉、太子太傅、都督中外諸軍事、侍中、錄尚書事。詔成,後對廙、邵以呈帝,帝視而無言。廙,歆之孫;劭,曾之子也。遂趣汝南王亮赴鎮。帝尋小間,問:「汝南王來未?」左右言未至,帝遂困篤,己酉,崩於含章殿。帝宇量弘厚,明達好謀,容納直言,未嘗失色於人。

夏4月の辛丑、皇后は、華廙および中書令の何劭を召して、口で帝旨を宣べ、作詔させる。

ぼくは思う。やり口が、かるく「乗っ取り」である。

楊駿を、太尉・太子太傅・都督中外諸軍事・侍中・錄尚書事とする。詔が成ると、皇后は、華廙と何邵から武帝に上程させる。武帝は詔を視て、なにも言わない。華廙は、華歆の孫である。何邵は、何曽の子である。

胡三省はいう。華歆は漢魏の間につかえた。何曽は、魏晋の間につかえた。位はどちらも三公にいたる。2人の身名(境遇)は似ていた。
ぼくは思う。三公の子孫が、外戚の楊氏の謀略に、あごで使われている。これは「嘆くべき」なんじゃないか。禅譲の前後で、きわどい政治を渡りきっていた者の子孫なのに、わりに王朝内部の単純な権力あらそいで、脇役になってしまった。

ついに汝南王の司馬亮を、鎮所の汝南にゆかす。武帝が小康となり、問う。武帝「汝南王の司馬亮はきたか、まだか」と。左右が回答する前に、武帝は困篤した。

ぼくは思う。三国を統一した皇帝なのに、けっきょく最期は、あとを託すべき司馬亮に会えずに(頼みの司馬亮は地方に遠ざけられた状態で)武帝=司馬炎は死んだ。ほんとに勝者がない。
まあ「だから五胡十六国という悪夢が招来されたんだよ」という、後代からの説明めいた意思も加わって、武帝の最期は無惨に書かれているのだろうけど。

4月己酉、含章殿で崩じた。

55歳だった。含章殿は、皇后の宮中にある。2599頁。

武帝は、宇量が弘厚で、明達・好謀である。直言を容納し、いまだかつて人に失色せず。

太子即皇帝位,大赦,改元,尊皇后曰皇太后,立妃賈氏為皇后。
楊駿入居太極殿,梓宮將殯,六宮出辭,而駿不下殿,以虎賁百人自衛。
詔石鑒與中護軍張劭監作山陵。

太子が皇帝の位に即き、大赦・改元する。

太熙から永熙に改めた。

皇后を皇太后とした。妃の賈氏を皇后とした。
楊駿は、太極殿に入居する。梓宮は將に殯せんとし、六宮は辞を出す。だが楊駿は殿を下りず、虎賁100人で自衛した。

ぼくは思う。執政権が穏当にあたえられたなら、楊駿のように閉じこもって、自衛する必要がない。楊駿がやましいことは、その態度によって明らか。どうやら、諸王を各地に行かせるのも、楊駿が権力を固めるためだったようだ。通常は、親族を重んじて、王朝を外から支えるよう制度設計したが、地方が暴走して・・・、という文脈で語られる。しかし、べつに善意の制度設計がされたばかりでなく、むしろ、楊駿の「悪意」がスタート地点においてあった。
地方の諸侯王が、中央に反発・対立するのは、楊駿が仕込んだ爆弾が、時間をおいて爆発しただけ。当然の帰結、に分類されるのかも。

詔して、石鑒と中護軍の張劭に、山陵を作るのを監させた。

司馬亮が楊駿を畏れ、豫州に脱出する

汝南王亮畏駿,不敢臨喪,哭於大司馬門外。出營城外,表求過葬而行。或告亮欲舉兵討駿者,駿大懼,白太后,令帝為手詔與石鑒、張劭,使帥陵兵討亮。劭,駿甥也,即帥所鄰趣鑒速發。鑒以為不然,保持之。

汝南王の司馬亮は、楊駿を畏れる。あえて武帝の死体に臨まず、大司馬の門外で哭する。

司馬亮は、大司馬として出鎮したが、まだ赴任しない。なお府中にいた。あえて宮殿に入らずに、喪に臨んだ。だが大司馬府の門外で濃くした。君父の喪で、門外で哭するのは非礼である。
ぼくは思う。非礼を承知で、わざとやったんじゃん。

城外で出営して、過葬したいと表する。或者が司馬亮に「兵をあげて楊駿を討て」という。楊駿は大懼して、楊太后にチクる。楊太后は、恵帝に手ずから詔を書かせ、石鑑と張劭に詔を与え、陵兵を帥いて司馬亮を討たせる。

ぼくは思う。陵兵なんているのね。陵墓を護衛するのか。

張劭は、楊駿の甥である。張劭は石鑑に「はやく司馬亮を討とう」と促した。石鑑は司馬亮を攻めず、兵を保持する。

亮問計於廷尉何勖,勖曰:「今朝野皆歸心於公,公不討人而畏人討邪!」亮不敢發,夜,馳赴許昌,乃得免。駿弟濟及甥河南尹李斌皆勸駿留亮,駿不從。濟謂尚書左丞傅鹹曰:「家兄若征大司馬,退身避之,門戶庶幾可全。」鹹曰:「宗室外戚,相恃為安。但召大司馬還,共崇至公以輔政,無為避也。」濟又使侍中石崇見駿言之,駿不從。

司馬亮は、廷尉の何勖に計略を問う。何勖「いま朝野は、みな司馬亮に心を帰する。司馬亮は人を討たず、人を討つのを畏れるか」と。司馬亮は、楊駿を攻撃できない。夜に許昌に馳赴して、脱出できた。
楊駿の弟・楊済と、甥の河南尹する李斌は、みな楊駿に「司馬亮を留めろ」という。楊駿は従わず。楊済は、尚書左丞の傅咸にいう。「家兄(楊駿)が、もし大司馬(司馬亮)を徵したら、身を退けて避けろ。門戸を保全したいなら」と。傅咸「宗室と外戚は、相恃して安じるもの。ただ大司馬を召して洛陽に還らせ、楊駿と司馬亮に輔政させたい。私は司馬亮を避けない」と。

ぼくは思う。こういう「正しいこと」を言って、あえて保身しないやつがいる。傅咸は、楊駿と対比されて、恵帝初期の良心キャラである。傅咸を追えば、楊駿について理解できそう。楊駿だけを詳しく見ても、曲筆されていて、イメージがつかめない。

楊済は、侍中の石崇を楊駿に会わせ、「司馬亮を留めよう」と説得させた、楊駿は従わず。

5月、郡臣の爵位を1or2段階すすめる!!

五月,辛未,葬武帝於峻陽陵。

5月の辛未、武帝を峻陽陵に葬る。

楊駿自知素無美望,欲依魏明帝即位故事,普進封爵以求媚於眾。左軍將軍傅祗群臣皆增位一等,預喪事者增二等。二千石已上皆封關中侯,復租調一年。散騎常侍石崇、散騎侍郎何攀共上奏,以為:「帝正位東宮二十餘年,今承大業,而班賞行爵,優於泰始革命之初及諸將平吳之功,輕重不稱。且大晉卜世無窮,今之開制,當垂於後,若有爵必進,則數世之後,莫非公侯矣。」不從。

楊駿は、自分に美望がないことを知る。魏明帝が即位したときの故事に依拠して、みなの封爵を進めて、衆に媚びたい。左軍將軍の傅祗は楊駿に文書をあたえる。

『晋志』はいう。魏明帝のときに、左軍があった。左軍将軍とは、魏官である。
ぼくは思う。維基文庫から『資治通鑑』の本文をもらってるのだが、テキストに脱落がある。中華書局の本を見ながら、抄訳を補う。

傅祗「まだ武帝が崩じたばかりで、臣下を論考して(賜爵する)ものでない」と。楊駿は従わず。傅祗とは、傅嘏の子である。

傅嘏は、曹魏につかえた。嘉平と正元のとき顕職だった。

丙子、詔して中外の郡臣に、爵位を1等ずつあげる。喪事に預かった者は2等あげる。2千石以上の者は、みな関中侯に封じられ、租調1年を復す。

漢献帝の建安20年、曹操が関中侯をおく。『晋書』帝紀によると、関中侯とは、関内侯の下である。

散騎常侍の石崇、散騎侍郎の何攀は、ともに上奏した。

さきに侍中の石崇とかき、いま散騎常侍とする。どちらかは誤りである。

石崇と何攀「恵帝は、位を正して東宮でいること20余年。いま大業を承いだ。だが班賞・行爵した。泰始期の革命した直後や、諸将が平呉したときより、おもい賜爵をばらまく。軽重がただしくない。大晉の卜世は無窮である。いま大晋が開制して、後代に継承される。もし全員の爵位を進めれば、数世のちには、公侯でない者がいなくなる」と。恵帝は従わず。

ぼくは思う。この事件はおもしろい!!


傅咸「楊駿は恵帝に政権を返上すべきだ」

詔以太尉駿為太傅、大都督、假黃鉞,錄朝政,百官總己以聽。傅鹹謂駿曰:「諒闇不行久矣。今聖上謙沖,委政於公,而天下不以為善,懼明公未易當也。周公大聖,猶致流言,況聖上春秋非成王之年乎!竊謂山陵既畢,明公當審思進退之宜,苟有以察其忠款,言豈在多!」駿不從。鹹數諫駿,駿漸不平,欲出鹹為郡守。李斌曰:「斥逐正人,將失人望。」乃止。

詔して、太尉の楊駿を、太傅・大都督・假黃鉞として、朝政を録させる。傅咸は楊駿にいう。「諒闇が行われなくなって久しい。

漢文帝が、喪を短くする詔をだした。嗣君は、即位してすぐに政治をやるから、諒闇(25ヶ月の服喪)はしない。
ぼくは思う。もしも恵帝が武帝のために服喪しているなら、楊駿の代行は、正当化されたのだ。それを「服喪でもあるまいに」と、傅咸がひっぱり出している。わざわざ、あり得ないことを持ち出し、現状のひどさを酷評する。きびしい論客だなあ。

いま聖上は謙沖であり、楊駿に委政するが、天下の者はこれを善しとしない。いまだ楊駿が易當(政権の返還)しないのを懼れるからだ。周公は大聖だが、なお(周公が政権を返還しないという)流言があった。まして恵帝は、周成王のような幼少でない。武帝を山陵に埋葬したら、楊駿は引退するのがよい」と。楊駿は従わず。

恵帝は、なんと32歳なのだそうだ。

傅咸はしばしば楊駿を諫めた。楊駿はいやがり、傅咸を郡守に出したい。李斌「正しき人を斥逐したら、人望を失うよ」と。楊駿は、傅咸を出すのをやめた。

楊濟遺鹹書曰:「諺云:『生子癡,了官事。』官事未易了也。想慮破頭,故具有白。」鹹復書曰:「衛公有言:『酒色殺人,甚於作直。』坐酒色死,人不為悔,而逆畏以直致禍,此由心不能正,欲以苟且為明哲耳。自古以直致禍者,當由矯枉過正,或不忠篤,欲以亢厲為聲,故致忿耳,安有悾悾忠益而返見怨疾乎!」

楊済は傅咸に文書をやり、「楊駿に逆らうのをやめとけ」という。傅咸「正しいことを言って禍い受けるまら、べつにいい」と。

省略してしまった。官僚の心意気について。


楊駿の滅亡を予見し、おびえる人々

楊駿以賈後險悍,多權略,忌之,故以其甥段廣為散騎常侍,管機密;張劭為中護軍,典禁兵。凡有詔命,帝省訖,入呈太后,然後行之。

楊駿は、賈后を險悍だと考えた。賈后は權略が多いので、これを忌んだ。ゆえに楊駿は、甥の段廣を散騎常侍として、機密を管させた。張劭を中護軍として、禁兵を典させた。すべての詔命は、恵帝が読みおわると、楊太后に入呈され(楊太后が認めてから)実行された。

駿為政,嚴碎專愎,中外多惡之,馮翊太守孫楚謂駿曰:「公以外戚居伊、霍之任,當以至公、誠信、謙順處之。今宗室強盛,而公不與共參萬機,內懷猜忌,外樹私暱,禍至無日矣!」駿不從。楚,資之孫也。

楊駿の為政は、嚴碎・專愎である。中外はおおくが悪んだ。馮翊太守の孫楚は楊駿にいう。孫楚「楊駿は外戚であり、伊尹と霍光の任にある。三公になり、誠信・謙順にやっている。いま宗室が強盛である。宗室は萬機に参じないから、内では猜忌を懷く。外では私暱を樹てる。禍の至るまで、もう日がない」と。

ぼくは思う。孫楚は「皇族に注意しろ!」と言ったのだ。

楊駿は従わず。孫楚は、孫資の孫である。

三国一、空気が読める男。孫資伝、附劉放伝
ふるくてレイアウトが壊れている。こまるなあ。


弘訓少府蒯欽,駿之姑子也,數以直言犯駿,他人皆為之懼,欽曰:「楊文長雖暗,猶知人之無罪不可妄殺,不過疏我,我得疏,乃可以免;不然,與之俱族矣。」

弘訓少府の蒯欽は、楊駿の姑子である。しばしば直言して、楊駿を犯す。みな他人は懼れる。

景帝の皇后は、弘訓宮にいた。少府をおく。

蒯欽「楊文長は暗いが、人の無罪を知って妄殺することない。私は親類なので、楊駿に処罰されない。さもなくば(無罪の親類を楊駿が殺すようなら)私は楊駿とともに族殺されるだけ」と。

ぼくは思う。いちおう整合性はある。というか蒯欽にとって、楊駿が暴走をやめねば、自分も族殺される。命がけの(自分の生命のための)直言だったのだ。
楊駿の政治って、よほどひどかったらしい。蒯欽は自棄です。


駿辟匈奴東部人王彰為司馬,彰逃避不受。其友新興張宣子怪而問之,彰曰:「自古一姓二後,未有不敗。況楊太傅暱近小人,疏遠君子,專權自恣,敗無日矣。吾逾海出塞以避之,猶恐及禍,奈何應其辟乎!且武帝不惟社稷大計,嗣子既不克負荷,受遺者復非其人,天下之亂可立待也。」

楊駿は、匈奴東部人の王彰を辟して、司馬とした。

匈奴の東部とは、匈奴左部である。太原の茲氏県にいる。

王彰は逃避して受けず。その友である新興の張宣子は(逃避したのを)怪しんで問う。

新興とは。漢献帝の建安20年に、雲中、定襄、五原、朔方をはぶいて、郡に1県だけをおいた。あわせて新興郡として、并州に属させた。

王彰「古代より、1姓が2后を出せば、敗れない例がない。まして太傅の楊駿は、小人を暱近し、君子を疏遠して、專權・自恣する。敗れるまで日がない。私が海を越え塞を出て、楊駿を避けるのは、禍いを恐れるから。どうして辟に応じるか。武帝は社稷の大計をおもわず、嗣子(恵帝)は負荷(皇帝の任)に克てない。天下の乱は、立ちて待つべし」と。

胡三省はいう。楊駿の敗北は、みな人は知る。楊駿だけが気づいていない。人の吉凶は、こういう(本人だけが気づかない)ものである。 ぼくは思う。(知性が劣るはずの)匈奴にすら、楊駿の失政はバレていた。もしくは、匈奴からなら西晋の荒廃がよく見えたから、のちの洛陽陥落につながる。どちらも伏線としては、アリだと思う。


秋、賈后が恵帝に、和嶠をなじらせる

秋,八月,壬午,立廣陵王遹為皇太子。以中書監何劭為太子太師,衛尉裴楷為少師,吏部尚書王戎為太傅,前太常張華為少傅,衛將軍楊濟為太保,尚書和嶠為少保。拜太子母謝氏為淑媛。賈後常置謝氏於別室,不聽與太子相見。

秋8月の壬午、廣陵王の司馬遹を皇太子とする。中書監の何劭を、太子太師とする。衛尉の裴楷を少師、吏部尚書の王戎を太傅、さきの太常の張華を少傅、衛將軍の楊済を太保、尚書の和嶠を少保とする。

晋代の東宮は、6傅がいる。ただこのときだけ、6つの官職がうまった。

太子の母である謝氏を淑媛とする。賈后は、つねに謝氏を別室におき、太子と相見させない。

初,和嶠嘗從容言於武帝曰:「皇太子有淳古之風,而末世多偽,恐不了陛下家事。」武帝默然。後與荀勖等同侍武帝,武帝曰:「太子近入朝差長進,卿可俱詣之,粗及世事。」既還,勖等並稱太子明識雅度,誠如明詔。嶠曰:「聖質如初。」武帝不悅而起。
及帝即位,嶠從太子遹入朝,賈後使帝問曰:「卿昔謂我不了家事,今日定如何?」嶠曰:「臣昔事先帝,曾有斯言;言之不效,國之福也。」

はじめ和嶠は、從容として武帝にいう。「皇太子(恵帝)は、淳古之風があるが、末世には偽がおおい。陛下の家事を完了できないことを恐れる」と。武帝は黙然とした。

ぼくは思う。よくも悪くも、司馬衷はピュアだったのだろう。だから、外戚の賈氏の「悪辣な」謀略によって、子(司馬遹)殺されてしまう。八王の乱に突入する。
ところでこの『資治通鑑』読解は、八王の乱の原因とストーリーを、いまいちど整理することが目的のひとつです。

のちに和嶠は、荀勖らとともに武帝に同侍した。武帝「太子は近くに入朝して、長進に差する。きみらは、ともに詣でよ。世事に粗及させろ」と。

『漢辞海』はいう。【粗】あらい、雑な、いいかげんな、おおざっぱな、がさつな。だいたい、ほぼ。
ぼくは思う。武帝は、太子=恵帝に、世俗のことを、おおざっぱには学ばせたかった。だが恵帝は、とくに学ばずに、ピュアなまま帰ってきてしまった。だから武帝は、教育の効果が出ないので、がっかりしたのだろう。

すでに還り、荀勖らは、どちらも太子の明識・雅度をたたえた。和嶠「太子の聖質は、初めのまま」と。武帝は悦ばずに起つ。
恵帝が即位すると、和嶠は太子の司馬遹に従って入朝した。賈后は恵帝に問わせた。「きみは昔、私が家事を完了できない(王朝を継承できない)と言ったらしい。いまはどう思っている」と。和嶠「むかし私は先帝(武帝)につかえて、そう言った。その言葉は、効果がなかった(武帝は太子=恵帝を廃さなかった)。国の福(恵帝にとっては福)でしょう」と。

ぼくは思う。国=恵帝にとっては、福である。しかし、司馬氏の晋王朝とか、中華の人々にとって、福とは限らない。もはや恵帝が即位してしまえば、恵帝=国だから、「国」の意味がズレる。和嶠の言葉あそびは、「国」の原義を突いていておもしろい。


冬、劉淵が匈奴五部大都督となる

冬,十月,辛酉,以石鑒為太尉,隴西王泰為司空。以劉淵為建威將軍、匈奴五部大都督。

冬10月の辛酉、石鑑を太尉とする。隴西王の司馬泰を司空とする。劉淵を建威將軍・匈奴五部大都督とする。131016

劉淵が五部大都督となったが、これは左国城の大単于の権輿である。
ぼくは思う。劉淵は、ちゃんと匈奴のリーダーである。暴徒が西晋を滅ぼしたのでなく、西晋の配下の長官が、クーデターを起こしたのだ。どのようなロジックで攻め込んだのか。それを読むのが楽しみ。西晋を、2013年中に読み終えたい。

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291年、楊駿、司馬亮、衛瓘、司馬瑋が死ぬ

春、賈后が楊太后と対立、クーデター開始

世祖武皇帝下元康元年(辛亥,公元二九一年)
春,正月,乙酉朔,改元永平。

春正月の乙酉ついたち、永平と改元する。

初,賈後之為太子妃也,嘗以妒,手殺數人,又以戟擲孕妾,子隨刃墮;武帝大怒,修金墉城,將廢之。荀勖、馮紞、楊珧及充華趙粲共營救之,曰:「賈妃年少,妒者婦人常情,長自當差。」楊後曰:「賈公閭有大勳於社稷,妃親其女,正復妒忌,豈可遽忘其先德邪!」妃由是得不廢。後數誡厲妃,妃不知後之助己,返以後為構己於武帝,更恨之。

はじめ賈后が太子妃のとき、嫉妬して手ずから数人を殺す。妊婦の腹に戟を投げて、胎児を殺す。

董卓が呂布に短戟か手戟だかを投げて、怨みを買った。

武帝は大怒して、金墉城に賈后を修め、太子妃から廃そうとした。荀勖、馮紞、楊珧および充華の趙粲は、営を共にして、賈后を救った。荀勖ら「賈妃は年少です。嫉妬は、婦人の常情です。長じれば変化する」と。楊皇后「賈公閭(賈充)は、社稷に大勳がある。

魏晋革命は、賈充の功績がおおきい。ぼくは補う。曹髦を殺したり。

賈妃は賈充の娘だ。妒忌を正せばよい。賈充の先徳を忘れる(賈妃を廃する)のは良くない」と。
賈妃は廃されなかった。
のちに、しばしば賈妃を誡厲した。賈妃は、楊皇后に助けてもらったのを知らない。楊皇后のせいで、武帝に嫌われていると思い、楊皇后をさらに恨んだ。

及帝即位,賈後不肯以婦道事太后,又欲干預政事,而為太傅駿所抑。殿中中郎渤海孟觀、李肇,皆駿所不禮也,陰構駿,雲將危社稷。黃門董猛,素給事東宮,為寺人監,賈後密使猛與觀、肇謀誅駿,廢太后。又使肇報汝南王亮,使舉兵討駿,亮不可。肇報都督荊州諸軍事楚王瑋,瑋欣然許之,乃求入朝。駿素憚瑋勇銳,欲召之而未敢,因其求朝,遂聽之。

恵帝が即位すると、賈后は婦道を以て、楊太后につかえたくない。また賈后は政事に干預したい。だが太傅の楊駿に抑えられた。

ぼくは思う。恵帝をめぐる2つの外戚、母の楊氏と妻の賈氏は、ロコツに対立した。いちども協調や平穏だったことがない。後漢でも、ここまで単純な対立は少ない。タイムラグのない対立は少ない。
ああそうか。恵帝はもう30歳を越えているから、母の太后と、妻の皇后が、同時に存在する。これが後漢とは違うところ。

殿中中郎する渤海の孟觀、李肇は、どちらも楊駿に礼遇してもらえない。

晋制において、2衛は、殿中将軍、中郎、校尉、司馬をおく。

2人は、ひそかに楊駿と対立して、「社稷が危ない」と言いふらす。黄門の董猛は、ふだんから東宮に給事して、寺人監となる。

寺人監とは、東宮の諸エンをつかさどる。

賈后は、ひそかに董猛をつかわし、孟觀と李肇に、楊駿の殺害と、楊太后の廃を謀らせる。また李肇を、汝南王の司馬亮につかわし、司馬亮に挙兵して楊駿を討たせる。司馬亮は合意しない。李肇は、都督荊州諸軍事の楚王たる司馬瑋をさそう。司馬瑋は欣然として(楊駿の殺害)合意し、入朝を求めた。
楊駿は、もとより司馬瑋の勇鋭をはばかる。司馬瑋を召さずにいたが、司馬瑋が希望したので、司馬瑋の入朝をゆるした。

3月、楊駿を殺し、数千人を夷三族する

二月,癸酉,瑋及都督揚州諸軍事淮南王允來朝。

2月の癸酉、楚王たる司馬瑋が来朝した。都督揚州諸軍事する淮南王たる司馬允も來朝した。

楊駿が死ぬための役者が揃ってしまった。


三月,辛卯,孟觀、李肇啟帝,夜作詔,誣駿謀反,中外戒嚴,遣使奉詔廢駿,以侯就第。命東安公繇帥殿中四百人討駿,楚王瑋屯司馬門,以淮南相劉頌為三公尚書,屯衛殿中,段廣跪言於帝曰:「楊駿孤公無子,豈有反理?願陛下審之!」帝不答。

3月の辛卯、孟觀と李肇は恵帝に、夜に詔をつくらせ、楊駿が謀反するとを誣する。中外を戒嚴して、使者に奉詔させて楊駿を廃する。楊駿を侯爵として、就第させる。

ぼくは思う。楊氏の末路は、おなじく外戚の賈氏が用意したのか。おもたそうな弘農楊氏よりも、賈充の娘のほうが、謀略の火のまわりが早そう。そりゃ負けるわ。

東安公の司馬繇に、殿中400人を帥いさせ、楊駿を討つ。楚王の司馬瑋は、司馬門に屯する。淮南相の劉頌は、三公尚書となり、衛殿中に屯する。

漢成帝は三公尚書をおく。断獄をつかさどる。光武帝は、三公曹をもって、歳尽に諸州郡事の考課をつかさどらせた。
ぼくは思う。劉頌は「太子=恵帝がバカだから、心配だ」とさかんに武帝を説得していた人。言わんこっちゃない。
ぼくは思う。皇族がたくさん出張っている。「外戚の楊氏に、司馬氏の実権をうばわれた。奪回せよ。功臣の賈充の娘も、司馬氏の味方になってくれる」という構図である。郡王たちを手厚く封じておいて、よかったじゃん。

段廣は跪いて恵帝にいう。「楊駿は、孤公であり子がない。どうして反理するか。陛下は楊駿(の無罪)を審らかにしてほしい」と。恵帝は答えず。

ぼくは思う。楊駿に子があったら、司馬氏を簒奪した。この前提に同意署名していないと、段広の発言は出てこない。むしろ段広のほうが過激なんじゃないか。
胡三省はいう。段広は、楊駿のおいである。近侍させられ、恵帝の左右の者が、楊駿と敵対するのを防いでいた。段広は(楊駿のために)役立たなかった。
ぼくは思う。この胡注を読めば、段広が「もし私が楊駿の息子なら、西晋からの簒奪に意欲を発揮したところだが」という意図が見える。


時駿居曹爽故府,在武庫南,聞內有變,召眾官議之。太傅主簿硃振說駿曰:「今內有變,其趣可知,必是閹豎為賈後設謀,不利於公。宜燒雲龍門以脅之,索造事者首,開萬春門,引東宮及外營兵擁皇太子入宮,取奸人,殿內震懼,必斬送之。不然,無以免難。」駿素怯懦,不決,乃曰:「雲龍門,魏明帝所造,功費甚大,奈何燒之!」

ときに楊駿は、曹爽の故府にいる。武庫の南にいて、内朝で変があるのを聞く。

ぼくは思う。司馬師と曹爽の対立は、位相がズレて、いまは司馬衷と楊駿の対立になっている。曹爽の故府にいる時点で、司馬氏とライバル関係を演じる意図が感じられる。それだけの設備が整っているだろう。
西晋の武帝末・恵帝初は、西晋が簒奪される危機があったと考えるべきか。王莽と王元后の主導が、楊駿と楊太后によって再現されている。賈充は、まず父の代で魏晋革命を達成し、つぎに娘の代で恵帝への伝位を達成した。賈后の低すぎる評価は、おおむね司馬遹の殺害より後に固まるもの。この時点では、西晋の英雄じゃん。

衆官を召して、楊駿は議する。

ぼくは思う。曹爽も、自前の派閥で、政権を占めていた。恵帝の周囲とはべつに、召すべき「衆官」がいる。漢末の魏国、魏末の晋国になぞらえても良いのでは。

太傅主簿の朱振は、楊駿に説く。「いま内朝に変がある。宦官が賈后のために謀略をやったに違いない。楊駿には不利である。雲龍門を焼いて、内朝をおどせ。萬春門をひらけ。

門の構成について、2605頁。

東宮およぶ外営の兵をひき、皇太子を擁して入宮して、奸人を取れ。殿内は震懼して、かならず(賈后を)斬って送ってくる。さもなくば、楊駿は難を免れない」と。楊駿は怯懦であり、決断しない。
楊駿「雲龍門は、魏明帝がつくった。功費は甚大である。焼いてよいものか(労力と費用が惜しい)」と。

侍中傅祗白駿,請與尚書武茂入宮觀察事勢,因謂群僚曰:「宮中不宜空。」遂揖而下階。眾皆走,茂猶坐;祗顧曰:「君非天子臣邪?今內外隔絕,不知國家所在,何得安坐!」茂乃驚起。
駿黨左軍將軍劉豫陳兵在門,遇右軍將軍裴頠,問太傅所在,頠紿之曰:「向於西掖門遇公乘素車,從二人西出矣。」豫曰:「吾何之?」頠曰:「宜至廷尉。」豫從頠言,遂委而去。尋詔頠代豫領左軍將軍,屯萬春門。頠,秀之子也。

侍中の傅祗は、楊駿にいう。尚書の武茂とともに入宮して、事勢を観察したいと。傅祗は群僚にいう。「宮中は空にしてはならない」と。ついに傅祗は、揖して下階する。衆はみな走る。武茂は(走らず)なお座っている。
傅祗は武茂を顧みていう。「きみは天子の臣でないのか。いま内外(内朝と外朝)は隔絶した。国家の所在(天子の在処)が分からない。なぜ座っていられるのだ(天子を探しにゆけ)」と。武茂は驚いて起つ。

ぼくは思う。武茂がなにか落ち着いた理屈を言い返すのかと思ったら。ただのウッカリ者だった。つまらん。

楊駿の党与・左軍將軍の劉豫は、兵を門にならべる。劉豫は、右軍將軍の裴頠とあい、太傅の所在をきく。

魏制には、左軍将軍があった。晋武帝は、前軍、右軍をおいた。泰始8年、後軍をおいた。これにより、4軍ができた。

裴頠は劉豫をあざむいた。「西掖門で楊駿が素車に乗るのを見た。2人を従えて、西に出た」と。劉豫「私はどうしたら良いか」と。裴頠「廷尉にゆくと良い」と。劉豫は裴頠の発言にしたがい、ついに楊駿と合流できず。このとき詔があり、裴頠を劉豫に代えて領左軍將軍とし、萬春門に屯させた。裴頠は、裴秀の子である。

ぼくは思う。劉豫は、裴頠の機転により、楊駿と合流することができない。楊駿は、現場で使える兵力を損なった。そのあと、左軍将軍を劉豫から裴頠にうつし、権限においても使える兵力を損なった。このクーデターは、賈后と恵帝が勝つことになってる。
裴秀は、魏元帝の咸熙元年にある。


皇太后題帛為書,射之城外,曰:「救太傅者有賞。」賈後因宣言太后同反。尋而殿中兵出,燒駿府,又令弩士於閣上臨駿府而射之,駿兵皆不得出,駿逃於馬廄,就殺之。孟觀等遂收駿弟珧、濟、張劭、李斌、段廣、劉豫、武茂及散騎常侍楊邈、中書令蔣俊、東夷校尉文鴦,皆夷三族,死者數千人。

楊太后は、題帛して文書をつくる。これを城外に射る。「太傅を救った者には、賞がある」と。賈后は「楊太后までも、恵帝に反した」という。殿中の兵を出し、楊駿の府を焼いた。弩士に、閣上から楊駿の府に臨ませ、府を射た。楊駿の兵は、みな出られない。楊駿は馬厨ににげた。ついに楊駿を殺した。孟観らは、ついに楊駿の弟・楊珧、楊済をとらえた。張劭、李斌、段廣、劉豫、武茂および、散騎常侍の楊邈、中書令の蔣俊、東夷校尉の文鴦は、みな夷三族となる。死者は数千人。

ぼくは思う。三国時代に人口が10分の1に減っているのに、さらにまた数千人を殺す。もはや西晋は「三国を統一したものとは、別の王朝」になってしまう。朝廷の顔ぶれが、ごっそり欠けてしまうから。


司馬繇が賞罰を下し、王戎に諫められる

珧臨刑,告東安公繇曰:「表在石函,可問張華。」眾謂宜依鐘毓例為之申理。繇不聽,而賈氏族黨趣使行刑。珧號叫不已,刑者以刀破其頭。繇,諸葛誕之外孫也,故忌文鴦,誣以為駿黨而誅之。是夜,誅賞皆自繇出,威振內外。王戎謂繇曰:「大事之後,宜深遠權勢。」繇不從。
壬辰,赦天下,改元。

楊珧は刑に臨み、東安公の司馬繇につげる。「私の上表は、石箱にある。張華に問うべし」と。

楊珧の上表は、武帝の咸寧3年にある。石箱をつくって、宗廟にしまった。

衆官は「鍾毓の事例に依拠して、楊珧(の上表)を申理せよ」という。司馬繇は聴かず。賈氏の族党が、楊珧への刑の執行を促した。楊珧は號叫してやまず。刑者は、刀で楊珧の頭を破った。
司馬繇は、諸葛誕の外孫である。ゆえに文鴦を忌む。文鴦が楊駿の与党だと誣告して、文鴦を誅した。

三国志の世界が継続していて、うれしい。司馬懿-司馬伷-司馬繇である。司馬伷の妻が、諸葛誕の娘なのだそうだ。真・三國無双7のキャラで、系図を埋めることができる。

この夜、すべての誅賞は司馬繇から出た。司馬繇は、内外を威振した。王戎は司馬繇にいう。「大事の後は、ふかく權勢を遠ざけるべきだ」と。司馬繇は従わず。

ぼくは思う。とくに特徴のないサブキャラだと思ったのに、司馬繇がきゅうに主役になった。賈后がクーデターの首謀者だとしても、司馬氏の協力ぬきには、ありえない。恵帝=司馬衷が使いものにならない。どうやら司馬繇が、司馬氏がわの首謀者(に近い存在)だったようだ。賞罰を出すとは、そういうことだ。


楊太后を処罰し、楊駿の官属を処罰せず

賈後矯詔,使後軍將軍荀悝送太后於永寧宮,特全太后母高都君龐氏之命,聽就太后居。尋復諷群公有司奏曰:「皇太后陰漸奸謀,圖危社稷,飛箭系書,要募將士,同惡相濟,自絕於天。魯侯絕文姜,《春秋》所許。蓋奉祖宗,任至公於天下,陛下雖懷無已之情,臣下不敢奉詔。」詔曰:「此大事,更詳之。」有司又奉:「宜廢皇太后為峻陽庶人。」
中書監張華議:「皇太后非得罪於先帝,今黨其所親,為不母於聖世,宜依漢廢趙太后為孝成後故事,貶皇太后之號,還稱武皇后,居異宮,以全始終之恩。」左僕射荀愷與太子少師下邳王晃等議曰:「皇太后謀危社稷,不可復配先帝,宜貶尊號,廢詣金墉城。」於是有司奏請從晃等議,廢太后為庶人。詔可。

賈后は詔を矯めて、後軍將軍の荀悝に、楊太后を永寧宮に送らせる。

曹魏は永寧宮を立てた。太后がいる。

有司「楊太后が楊駿と同謀した。楊太后を庶人に堕とせ」と。
中書監の張華は議する。「漢成帝の趙太后を、皇太后から皇后にもどした故事にもとづき、楊太后を『武皇后』にもどし、ちがう宮に住まわせろ」と。

張華は楊太后への罰を軽減しろといってる。
趙太后は、漢哀帝の元寿元年。ぼくは補う。趙飛燕である。

左僕射の荀愷と、太子少師する下邳王の司馬晃らは、議する。「楊太后は謀って、社稷を危うくした。復た武帝に配するべきでない。尊號をおとめ、廃して(庶人として)金墉城におけ」と。有司は、荀愷と司馬晃に同意して、楊太后を庶人にしたい。詔して「よし」と。

又奏:「楊駿造亂,家屬應誅,詔原其妻龐命,以尉太后之心。今太后廢為庶人,請以龐付廷尉行刑。」詔不許。有司復固請,乃從之。龐臨刑,太后抱持號叫,截發稽顙,上表詣賈後稱妾,請全母命;不見省。

また司馬晃は奏した。「楊駿が造乱した。家属は應誅した。詔は楊駿の妻・龐氏の命を許した。楊太后を庶人におとすなら、龐氏も廷尉に付して行刑しろ」と。有司が固く請うので、詔して許した。
龐氏が臨刑すると、太后は抱持・號叫する。上表して、賈后に詣でて妾と称し、母命を全うしたいという。賈后は会ってやらない。

董養游太學,升堂歎曰:「朝廷建斯堂,將以何為乎!每覽國家赦書,謀反大逆皆赦,至於殺祖父母、父母不赦者,以為王法所不容故也。奈何公卿處議,文飾禮典,乃至此乎!天人之理既滅,大亂將作矣。」

董養は太學に遊学して、升堂して歎じた。「朝廷はこの堂を建てるが(母子の大倫が滅した現代において)どうするつもりか。国家の赦書を見るごとに、謀反・大逆がみな赦される。祖父母や父母を殺した者ですら、赦されないのは、王法によって容認されなかった場合だけ(王法が容認してしまえば、祖父母や父母を殺しても赦されてしまう)。公卿の議論の内容を、どうしたものか。文飾や禮典は、ここまでひどいか。天人之理は、すでに滅した。大乱が起りそうだ」と。

董養は、のちに妻とともに蜀地にゆき、最期はわからない。


有司收駿官屬,欲悉誅之。侍中傅祗啟曰:「昔魯芝為曹爽司馬,斬關赴爽,宣帝用為青州刺史。駿之僚佐,不可悉加罪。」詔赦之。

有司は、楊駿の官属をとらえ、すべて誅したい。侍中の傅祗はいう。「むかし魯芝が曹爽の司馬のとき、関を斬って、曹爽のもとに赴いた。だが司馬懿は、魯芝を青州刺史とした。楊駿の僚佐を、すべて加罪すべきでない」と。詔して、楊駿の官属=僚佐を赦した。

ポスト楊駿として、司馬亮が執政する

壬寅,征汝南王亮為太宰,與太保衛瓘皆錄尚書事,輔政。以秦王柬為大將軍,東平王楙為撫軍大將軍,楚王瑋為衛將軍、領北軍中候,下邳王晃為尚書令,東安公繇為尚書左僕射,進爵為王。楙,望之子也。封董猛為武安侯,三兄皆為亭侯。

3月壬寅、汝南王の司馬亮をめして、太宰とする。太保の衛瓘とともに、どちらも錄尚書事させ、輔政させる。秦王の司馬柬を大將軍とする。東平王の司馬楙を撫軍大將軍とする。楚王の司馬瑋を衛將軍とし、北軍中候を領させる。下邳王の司馬晃を尚書令とする。東安公の司馬繇を尚書左僕射とし、王爵に進める。司馬楙は、司馬望の子である。董猛を武安侯とし、3兄をすべて亭侯とする。

亮欲取悅眾心,論誅楊駿之功,督將侯者千八十一人。御史中丞傅鹹遺亮書曰:「今封賞熏赫,震動天地,自古以來,未之有也。無功而獲厚賞,則人莫不樂國之有禍,是禍原無窮也。凡作此者,由東安公。人謂殿下既至,當有以正之,正之以道,眾亦何怒!眾之所怒者,在於不平耳;而今皆更倍論,莫不失望。」

司馬亮は、衆心を悦ばせたい。

きました!! このダメなパターン。モースのほうが大いに悦ぶ。

楊駿を誅した功績を論じ、將侯に督する者は1081人。御史中丞の傅咸は、司馬亮に文書をやる。「いま前例なく封賞されている。功績がない者にも厚賞すれば、みな国に禍いがあるのを楽しむようになる。この禍原は、とても大きい。これ(褒賞のインフレ)をやったのは、東安公の司馬繇である。人々は司馬亮がくれば、褒賞が正しくなると思っていた(司馬亮も司馬繇に負けずにバラまくなよ)と。司馬亮は、司馬繇の2倍もバラまく。みな司馬亮に失望してる」と。

ぼくは思う。やはりモースが、腕を扼して飛び出してくるw


亮頗專權勢,鹹復諫曰:「楊駿有震主之威,委任親戚,此天下所以喧嘩。今之處重,宜反此失,靜默頤神,有大得失,乃維持之,自非大事,一皆抑遣。比過尊門,冠蓋車馬,填塞街衢,此之翕習,既宜弭息。又夏侯長容無功而暴擢為少府,論者謂長容,公之姻家,故至於此;流聞四方,非所以為益也。」亮皆不從。

司馬亮は、すこぶる權勢を専らにする。ふたたび傅咸が諫める。「楊駿には、震主之威があった。外戚として委任され、天下に喧嘩された。司馬亮は同じ失敗を反復するな。司馬亮の姻族・夏侯駿(あざな長容)は、功績がないのに少府となる。司馬亮の評判をおとす」と。司馬亮は従わず。

抄訳してるが、本文は2608頁にある。


司馬繇が失脚し、賈謐が24友を集める

賈後族兄車騎司馬模、從舅右衛將軍郭彰、女弟之子賈謐與楚王瑋、東安王繇,並預國政。賈後暴戾日甚,繇密謀廢後,賈氏憚之。繇兄東武公澹,素惡繇,屢譖之於太宰亮曰:「繇專行誅賞,欲擅朝政。」庚戌,詔免繇官;又坐有悖言,廢徙帶方。

賈后の族兄は、車騎司馬の賈模である。從舅は、右衛將軍の郭彰である。

晋文帝は、中衛および衛将軍をおいた。武帝が受命すると、左右の衛将軍にわけた。

女弟の子は、賈謐である。

賈后の妹の賈午は、韓寿にとついで賈謐を生む。賈充に後嗣がないから、賈謐が嗣いだ。

彼らは、楚王の司馬瑋、東安王の司馬繇とともに、国政をあずかる。
賈後の暴戻は日に日に甚しい。司馬繇はひそかに、賈后を廃そうと謀る。賈氏は司馬繇をはばかる。司馬繇の兄は、東武公の司馬澹である。司馬澹は司馬繇と仲がわるい。しばしば司馬澹は、太宰の司馬亮に「司馬繇は誅賞を專行する。朝政を擅しそう」という。庚戌、詔して司馬繇の官職を免じた。悖言したので、司馬繇は廢され、帯方に徙された。

帯方は、漢代は楽浪に属する。公孫度が帯方郡をおく。
杜佑はいう。建安期、公孫康は帯方郡をおく。


於是賈謐、郭彰權勢愈盛,賓客盈門。謐雖驕奢而好學,喜延士大夫。郭彰、石崇、陸機、機弟雲、和郁及滎陽潘岳、清河崔基、勃海歐陽建、蘭陵繆征、京兆杜斌、摯虞、琅邪諸葛詮、弘農王粹、襄城杜育、南陽鄒捷、齊國左思、沛國劉瑰、周恢、安平牽秀、穎川陳□□、高陽許猛、彭城劉訥、中山劉輿、輿弟琨,皆附於謐,號曰二十四友。郁,嶠之弟也。崇與岳尤諂事謐,每候謐及廣城君郭槐出,皆降車路左,望塵而拜。

ここにおいて、賈謐と郭彰の権勢は、いよいよ盛ん。賓客は門に盈つ。賈謐は、驕奢だが好學である。士大夫を喜延する。郭彰、石崇、陸機、その弟の陸雲、和郁、および滎陽の潘岳、

武帝の泰始2年、河南をわけて、榮陽郡をおく。

清河の崔基、勃海の歐陽建、蘭陵の繆征、

この年、東海をわけて蘭陵郡をおく。

京兆の杜斌、摯虞、琅邪の諸葛詮、弘農の王粹、襄城の杜育、

武帝の泰始2年、汝南をわけて襄城をおく。

南陽の鄒捷、齊國の左思、沛國の劉瑰、周恢、安平の牽秀、穎川陳□、高陽の許猛、

泰始元年、河間と涿郡をわけて、高揚国をおく。

彭城の劉訥、中山の劉輿、その弟の劉琨は、みな賈謐に附して、24友と号する。和郁は、和嶠の弟である。
石崇と潘岳は、もっとも賈謐に諂事する。いつも賈謐および廣城君の郭槐が外出すると、石崇と潘岳は路左に降車して、望塵して拜した。

やりすぎだろw


夏6月、司馬亮と衛瓘が、司馬瑋に殺される

太宰亮、太保瓘以楚王瑋剛愎好殺,惡之,欲奪其兵權,以臨海侯裴楷代瑋為北軍中候。瑋怒;楷聞之,不敢拜。亮復與瓘謀,遣瑋與諸王之國,瑋益忿怨。瑋長史公孫宏、舍人岐盛,皆有寵於瑋,勸瑋自暱於賈後;後留瑋領太子太傅,盛素善於楊駿,衛瓘惡其反覆,將收之。盛乃與宏謀,因積弩將軍李肇矯稱瑋命,譖亮、瓘於賈後,雲將謀廢立。後素怨瓘,且患二公執政,己不得專恣;

太宰の司馬亮、太保の衛瓘は、楚王の司馬瑋が、剛愎・好殺なので悪んだ。司馬懿の兵権を奪いたい。臨海侯の裴楷を、司馬懿に代えて北軍中候とした。司馬懿は怒った。裴楷はこれを聞き、敢えて北軍中候を拝さない。
司馬亮は、ふたたび衛瓘と謀り、司馬瑋を諸王の国にゆかせたい。司馬瑋は、ますます忿怨した。
司馬瑋の長史の公孫宏、舍人の岐盛は、どちらも司馬瑋に寵がある。司馬瑋に、賈后に自暱せよと勧めた。のちに司馬瑋は、領太子太傅に留まった。岐盛は、楊駿と仲がよかった(のに楊駿を裏切って司馬瑋に寵される)から、衛瓘は岐盛の反覆をにくむ。衛瓘は、岐盛を捕らえようとした。岐盛は、公孫宏と謀り、積弩將軍の李肇に、司馬瑋の命令を矯めさせた。

武帝の泰始4年、振威護軍、揚威護軍をやめて、左右の積弩将軍をおく。一説には、西晋の太康期、積射と積弩の営があった。営には、2500人がいる。どちらも将軍がこの営を領した。

司馬亮と衛瓘のことを、賈后にむけて譏り「司馬亮と衛瓘は、恵帝を廃立するつもり」と言わせた。賈后は衛瓘を怨む。

衛瓘を以て、撫して牀事させた。武帝の咸康4年にある。?

二公(司馬亮と衛瓘)が執政するので、賈后は專恣できないことを患う。

夏,六月,後使帝作手詔賜瑋曰:「太宰、太保欲為伊、霍之事,王宜宣詔,令淮南、長沙、成都王屯諸宮門,免亮及瓘官。」夜,使黃門繼以授瑋。瑋欲覆奏,黃門曰:「事恐漏洩,非密詔本意也。」瑋亦欲因此復私怨,遂勒本軍,復矯詔召三十六軍,告以「二公潛圖不軌,吾今受詔都督中外諸軍,諸在直衛者,皆嚴加警備;其在外營,便相帥徑詣行府,助順討逆。」又矯詔「亮、瓘官屬,一無所問,皆罷遣之;若不奉詔,便軍法從事。」

夏6月、賈后は、恵帝に手づから詔をつくらせ、司馬瑋に賜る。手詔「太宰の司馬亮、太保の衛瓘は、伊尹と霍光になりたい。楚王の司馬瑋は、この詔を宣べ、淮南王、長沙王、成都王を動員して、諸の宮門に屯せ。司馬亮と衛瓘の官職を免じろ」と。
夜、黄門が恵帝の手詔を、司馬瑋に授けた。司馬瑋は覆奏したい。黄門「事は漏洩を恐れる。(覆奏することは)密詔の本意に外れる」と。司馬瑋は私怨を復したいので(密詔を受容し)ついに本軍を勒して、復た詔を矯め、36軍を召して告げた。司馬瑋「二公は、ひそかに不軌を図る。いま私は詔を受けた。都督中外諸軍のうち、直衛にある者は、みな厳しく警備を加えろ。外営にある者は、相帥して行府に徑詣せよ。討逆を順ずるのを助けろ」と。
また司馬瑋は詔を矯めていう。「司馬亮と衛瓘の官属は、なにも問わずに罷免しろ。もし奉詔せねば、軍法に便って從事(処罰)する」と。

遣公孫宏、李肇以兵圍亮府,侍中、清河王遐收瓘。亮帳下督李龍,白「外有變,請拒之」,亮不聽。俄而兵登牆大呼,亮驚曰:「吾無貳心,何故至此!詔書其可見乎?」宏等不許,趣兵攻之。長史劉准謂亮曰:「觀此必是奸謀。府中俊乂如林,猶可力戰。」又不聽。遂為肇所執,歎曰:「我之赤心,可破示天下也。」與世子矩俱死。

司馬瑋は、公孫宏と李肇をつかわし、兵で司馬亮の太宰府を囲わせる。侍中する清河王の司馬遐が、衛瓘を收めた。
司馬亮の帳下督である李龍は、司馬亮にいう。「外に変あり。これを拒むことを請う」と、司馬亮は聴さず。にわかに兵が壁をのぼって大呼した。司馬亮は驚いた。司馬亮「私に二心はないが、なぜこう(包囲された状況)になった。(包囲の根拠となった)詔書を見せてもらえないか」と。公孫宏らは許さず、兵を促して司馬亮を攻めた。
長史の劉準は司馬亮にいう。「観るに、これは必ず奸謀である。府中に俊乂は林のごとし(たくさんいる)。力戦すべきでは」と。司馬亮は聴さず。

ぼくは思う。俊乂がいるから勝てるのか、俊乂を殺しては天下の損失だから戦えというのか。べきを、可能で読むなら前者、義務で読むなら後者かなあ。

ついに司馬亮は、李肇に執らわれた。司馬亮は歎じた。「私の赤心は(胸腔を)破って天下に示すべきた」と。司馬亮は、世子の司馬矩とともに死んだ。

衛瓘左右亦疑遐矯詔,請拒之,須自表得報,就戮未晚,瓘不聽。初,瓘為司空,帳下督榮晦有罪,斥遣之。至是,晦從遐收瓘,輒殺瓘及子孫共九人,遐不能禁。

衛瓘の左右もまた、司馬遐が矯詔したと疑い、拒を請う。左右「自ら表して報を得て、そのあとで戮に就いても晚くない」と。衛瓘は聴さず。はじめ衛瓘が司空になったとき、帳下督の栄晦に罪があり、斥けた。ここに至り、栄晦が司馬遐に従い、衛瓘を收めた。すぐに栄晦が、衛瓘と子孫9人を殺した。司馬遐は禁じられない。

6月、張華と賈后が、司馬瑋を斬る

岐盛說瑋「宜因兵勢,遂誅賈、郭,以正王室,安天下。」瑋猶豫未決。會天明,太子少傅張華使董猛說賈後曰:「楚王既誅二公,則天下威權盡歸之矣,人主何以自安!宜以瑋專殺之罪誅之。」賈後亦欲因此除瑋,深然之。是時內外擾亂,朝廷恟懼,不知所出。張華白帝,遣殿中將軍王宮繼騶虞幡出麾眾曰:「楚王矯詔,勿聽也!」眾皆釋仗而走。瑋左右無復一人,窘迫不知所為,遂執之,下廷尉。乙丑,斬之。瑋出懷中青紙詔,流涕以示監刑尚書劉頌曰:「幸托體先帝,而受枉乃如此乎!」公孫宏、岐盛並夷三族。

岐盛は司馬瑋に説く。「兵勢に因って(司馬亮と衛瓘だけでなく)賈氏と郭氏を誅して、王室を正し、天下を安じよう」と。司馬瑋は決められない。
ときに天が明るくなった。太子少傅の張華は、董猛から賈后に説かせた。
董猛「楚王の司馬瑋は、すでに二公を誅した。天下の威權は、すべて司馬瑋に帰した。人主(恵帝)は、なぜ自安できようか。司馬瑋を殺せ」と。賈后もまた司馬瑋を除きたいので、深く同意した。

ぼくは補う。司馬瑋を殺せといったのは、直接的には張華。この戦闘は、広義の八王の乱に含められるが、べつに八王だけが戦っているのでない。司馬亮とともに殺された衛瓘とか、司馬瑋を殺させた張華とか、メインプレイヤーは司馬氏でない者もいる。

このとき内外は擾乱する。朝廷は恟懼して(命令の)出る所を知らず。張華は恵帝に申して、殿中將軍の王宮に、騶虞幡を持たせた。王宮は出て、騶虞幡をなびかせて、軍衆にいう。「楚王の司馬瑋は、矯詔した。司馬瑋の指示をきくな」と。

晋制では、白虎幡、騶虞幡がある。白虎は威猛で、殺を主どる。ゆえに督戦につかう。騶虞は仁獣で、兵を解くのにつかう。

軍衆はみな釋仗して走る。司馬瑋の左右には、1人もいない。窘迫して執われ、廷尉に下された。
乙丑、司馬瑋を斬った。司馬瑋は、懷中から青紙の詔を出した。流涕して監刑尚書の劉頌に示した。「幸いにして先帝に体を托した。だが枉を受けて(無罪なのに)こうなった」と。公孫宏と岐盛は、どちらも夷三族された。

ぼくは思う。賈后が偽造した詔書にもとづき、司馬瑋が動いた。その司馬瑋が強くなりすぎると、賈后の合意のもと、司馬瑋を殺した。もし賈后が臣下なら「賈后はずるい」である。しかし賈后が恵帝の機能を代行していると考えたら、賈后は優れている。つまり皇帝は、ときどきで強い者に担がれ、それを承認するだけ。自らで動かない。強い者が交替すれば、つぎの強い者に担がれる。前後で政治的な立場を変える。しかし「皇帝はずるい」という話にならない。
賈后の立ち回りは、これに似ている。後漢の皇帝だって同じじゃん。第三者とか、利害の超越者とか、場外の審判とか、そういう立場であるとき、皇帝はうまく機能する。巻きこまれると、ごちゃごちゃになる。まじで。


瑋之起兵也,隴西王泰嚴兵將助瑋,祭酒丁綏諫曰:「公為宰相,不可輕動。且夜中倉猝,宜遣人參審定問。」泰乃止。

司馬瑋が起兵すると、隴西王の司馬泰は、兵を厳して、司馬瑋を助けようとした。

司馬泰は、司馬懿の弟の子である。

祭酒の丁綏が司馬泰を諫めた。「公は宰相である。軽く動くな。夜中に慌てるなら、人をやって参審・定問させろ」と。司馬泰は動くのをやめた。

◆衛瓘の娘が、司馬亮と衛瓘の名誉を回復させる

衛瓘女與國臣書曰:「先公名謚未顯,每怪一國蔑然無言。《春秋》之失,其咎安在?」於是太保主簿劉繇等執黃幡,撾登聞鼓,上言曰:「初,矯詔者至,公即奉送章綬,單車從命。如矯詔之文唯免公官,而故給使榮晦,輒收公父子及孫,一時斬戮。乞驗盡情偽,加以明刑。」乃詔族誅榮晦,追復亮爵位,謚曰文成。封瓘為蘭陵郡公,謚曰成。

衛瓘の娘は、国臣に書を与えた。娘「先公の名謚は、いまだ顕でない。一国の蔑が、無言なのを怪しむ。『春秋』の失だろうか。咎はどこにあるか」と。

ぼくは思う。意味が分からんので、胡注を読みます。
胡三省はいう。『公羊伝』はいう。『春秋』において君は弑されたが、賊は討たれねば、臣子はいないことになる。子沈子はいう。君は弑され、臣が賊を討たねば、臣は臣でない。子が親の復讐をしないなら、子は子でない。
ぼくは思う。司馬亮と衛瓘のために、まだ諡号が贈られない。司馬亮と衛瓘のために「諡号をくれ」とか「復讐するぞ」という官属が出てきても良いはずである。それが出てこないのは、良くないなあ!ということか。

ここにおいて太保主簿の劉繇らは、黃幡を執り、撾登・聞鼓して上言する。

この行為の意味について、2611頁。

「はじめ矯詔した者がくると、衛瓘は奉って章綬を送り、單車で命に従った(免官に逆らわなかった)。矯詔の文が、ただ三公の解任だけだったが、もと給使の栄晦が、衛瓘の父子および孫を殺してしまった。真偽を明らかにして(栄晦への)刑を明らかにしろ」と。

衛瓘のかたきを討つ人物が登場したのだ。劉繇さん。

詔して、栄晦を族誅した。追って司馬亮の爵位をもどす。文成と諡する。衛瓘を蘭陵郡公に封じて、成と諡する。

ぼくは思う。汝南文成王の司馬亮、蘭陵成公の衛瓘、ができあがった。


賈后は凶悪だが、張華が政治を安定させる

於是賈後專朝,委任親黨,以賈模為散騎常侍,加侍中。賈謐與後謀,以張華庶姓,無逼上之嫌,而儒雅有籌略,為眾望所依,欲委以朝政。疑未決,以問裴頠贊成之。

ここにおいて賈后は專朝した。親黨に委任し、賈模を散騎常侍・加侍中とする。賈謐と賈后は謀をした。
張華は庶姓なので、逼上之嫌がない。

杜預『左氏伝』注によると、庶姓とは「同姓でない」こと。
ぼくは思う。張華が司馬氏でないから(当然だな)、賈后が用いたのだろう。

張華は、儒雅で籌略がある。衆望は張華に依り、朝政を委ねたい。疑って決めないうちに、裴頠が張華への委政を賛成した。

広城君の郭槐は、裴頠の従母である。ゆえに賈氏は、裴頠を親信した。


乃以華為侍中、中書監,頠為侍中,又以安南將軍裴楷為中書令,加侍中,與右僕射王戎並管機要。華盡忠帝室,彌縫遣闕,賈後雖凶險,猶知敬重華;賈模與華、頠同心輔政,故數年之間,雖暗主在上,而朝野安靜,華等之功也。

張華を侍中・中書監とした。裴頠を侍中とした。安南將軍の裴楷を、中書令・加侍中とする。裴楷は、右僕射の王戎とともに、機要を管した。張華は、帝室に忠を尽くす。遣闕を彌縫する。賈后は凶險だが、張華を敬重することは知っていた。賈模は、張華と裴頠と心を同じくして、輔政した。ゆえに数年のあいだ、恵帝は暗主だが、朝野は安靜だった。張華らの功績である。

ぼくは思う。張華は陳寿の上司。張華はすごいなー、と思いながら。賈模と裴頠のことも、きちんと「評価」しないと。「評価」するとは、賛美することでない。興味をもって、史料を調べることである。


秋、江州をつくり、司馬肜を中央に徴す

秋,七月,分荊、揚十郡為江州。
八月,辛未,立隴西王泰世子越為東海王。

秋7月、荊州と揚州の10郡をわけ、江州とする。
8月の辛未、隴西王の司馬泰の世子・司馬越を東海王とする。

でやがった!司馬越。恵帝から簒奪する男!


九月,甲午,秦獻王柬薨。
辛丑,征征西大將軍梁王肜為衛將軍、錄尚書事。

9月の甲午、秦獻王の司馬柬が薨じた。
辛丑、征西大將軍する梁王の司馬肜を徵して、衛將軍・錄尚書事とする。

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292-295年、拓跋氏が当主を変遷させて成長

292年、楊太后が死に、賈后が霊を封印する

世祖武皇帝下元康二年(壬子,公元二九二年)
春,二月,己酉,故楊太后卒於金墉城。是時,太后尚有侍御十餘人,賈後悉奪之,絕膳八日而卒。賈後恐太后有靈,或訴冤於先帝,乃覆而殯之,仍施諸厭劾符書、藥物等。

春2月の己酉、もとの楊太后(楊駿の娘)が、金墉城で卒する。このとき、楊太后は、なお侍御が10余人いる。賈后はすべて奪った。食事を与えず、侍御は8日で卒した。賈后は、楊太后の霊があり、先帝(武帝)に冤罪を訴えるのを恐れた。楊太后の死体を覆って、厭劾・符書・薬物を施した。

楊太后の霊を封じ込めたのだ。へえー。


秋,八月,壬子,赦天下。

秋8月の壬子、天下を赦した。131016

293年、慕容普撥と拓跋弗が立つ

世祖武皇帝下元康三年(癸丑,公元二九三年)
夏,六月,弘農雨雹,深三尺。
鮮卑宇文莫槐為其下所殺,弟普撥立。
拓跋綽卒,弟子弗立。

夏6月、弘農で雹がふる。深さ3尺。
鮮卑の宇文莫槐が、部下に殺される。弟の慕容普撥が立つ。
拓跋綽が卒して、弟子の拓跋弗が立つ。

とくに胡三省も注釈しない。


294年、匈奴の郝散が反し、司隷の傅咸が死ぬ

世祖武皇帝下元康四年(甲寅,公元二九四年)
春,正月,丁酉,安昌元公石鑒薨。
夏,五月,匈奴郝散反,攻上黨,殺長吏。秋,八月,郝散帥眾降,馮翊都尉殺之。
是歲,大饑。

春正月の丁酉、安昌元公の石鑒が薨じた。

『考異』はいう。『晋書』石鑑伝では、昌安県侯である。本紀に従う。

夏5月、匈奴の郝散が反して、上党を攻めて、長吏を殺す。秋8月、郝散の帥眾は降った。馮翊都尉は、郝散を殺した。

郝散は、襄陽から洛陽にむかい、河内の境界でくだった。いま馮翊都尉に殺されたのは、けだし、穀遠から河東の境界をとおって、黄河をわたって馮翊の境界に入ったからである。
ぼくは思う。歴史地図は、州郡や勢力の範囲を「面」に色を塗りつぶして表現する。しかし「点」=城、「線」=道で理解すべきと。陸路ばかり目が行くが、海路に目を向けるべきと。この「陸地だけを面で理解する」という、あまりに頻発する、誰もがクセになっている(とされる)誤解って、なにが由来だろう。地図の作成方法?近代の国家?じつは分からない。
現代日本の都市に住むと、陸地を面で理解しがち。だが旅行すれば、田舎の鉄道は線で、村落は点だと実感する。「陸地を面で理解」は必ずしも実体験に基づかない。「地図を作る」ことで大地を理解=征服するという人間的な営みが、不可避的に誤解を招くか。ならば、地理志をつくり、地図を描いた古代人もまた、ぼくらと同じ「誤解」で天下を眺めたかも。古代の天下のありようと、古代の人々の土地に対するイメージは、必ずしも一致しない。それは、ぼくが日本地図で「分かった気になる」ことで、おおくの実態を見落とすのと同じ。
それなら、城市が少ない孫呉は、面積がでかいだけだが、それだけで充分に「天下の大部分を領有する」という気分になれたはず。実態の国力が小さくても、イメージのなかでの国土は、デカいから。曹丕は、孫権を征伐しなければ、気が済まなかった。その理由が見えてくる。

この歲、大饑あり。

司隸校尉傅鹹卒。鹹性剛簡,風格峻整,初為司隸校尉,上言:「貨賂流行,所宜深絕。」時朝政寬弛,權豪放恣,鹹奏免河南尹澹等官,京師肅然。
慕容廆徙居大棘城。
拓跋弗卒,叔父祿官立。

司隸校尉の傅咸が卒した。

『考異』はいう。『三十国春秋』と『晋春秋』では、元康4年7月、傅咸は司隷となる。5年5月、はじめて職を親する。10月に卒したと。2書とは年月が違うが、『晋書』にしたがう。

傅咸の性は剛簡で、風格は峻整である。はじめ司隸校尉となると、上言した。「貨賂が流行する。宜しく深く絶やせ」と。ときに朝政は寬弛であり、權豪は放恣する。みな権豪が奏して、河南尹の澹らの官職を免じろという。京師は肅然とした。

胡三省は、澹を河南尹の諱とするが、姓は書かない。
ぼくは思う。権豪たちにとって、河南尹による取り締まりがジャマだったのだろう。

慕容廆は徙って、大棘城に居る。

徒河の青山から、大棘城にうつったのだ。

拓跋弗が卒して、叔父の拓跋祿官が立つ。131019

295年、拓跋猗廬が、匈奴と烏桓を破る

世祖武皇帝下元康五年(乙卯,公元二九五年)
夏,六月,東海雨雹,深五寸。荊、揚、兗、豫、青、徐六州大水。

抄訳しなくてもわかる。

冬,十月,武庫火,焚累代之寶及二百萬人器械。十二月,丙戌,新作武庫,大調兵器。

冬10月、武庫が出火した。累代の宝と、2百万人の器械がもえた。

『三十国春秋』と『晋春秋』では、閏月である。『宋書』五行志、『晋書』五行志では、閏月の庚寅である。

12月の丙戌、新たに武庫をつくり、おおいに兵器を調達する。

拓跋祿官分其國為三部:一居上谷之北、濡源之西,自統之;一居代郡參合陂之北,使兄沙漠汗之子猗□統之;一居定襄之盛樂故城,使猗□弟猗戶統之。猗盧善用兵,西擊匈奴、烏桓諸部,皆破之。代人衛操與從子雄及同郡箕澹往依拓跋氏,說猗□、猗戶招納晉人。猗□悅之,任以國事,晉人附者稍眾。

拓跋祿官は、その国を3部に分けた。
1つは上谷の北、濡源の西にあり、拓跋祿官がみずから統べる。1つは代郡の參合陂の北にあり、兄の拓跋沙漠汗の子・拓跋猗□が統べる。1つは定襄の盛樂の故城にあり、猗□の弟である拓跋猗廬が統べる。

地理について、2613頁。

猗盧は用兵に善く、西して匈奴と烏桓の諸部をやぶる。代人の衛操と、從子の衛雄、および同郡の箕澹は、拓跋氏をたよる。猗廬に「晋人と招き納れてくれ」と解く。猗廬らは悦び、国事を任せた。晋人から拓跋氏に付く者は、少しずつ衆くなる。

ぼくは思う。唐末に契丹の国制を整えたのは、唐人だった。胡族は、軍事的に保護をもとめる漢族を吸収して、国をつくるのです。
胡三省はいう。史家はいう。拓跋氏は、ますます強くなる。ときに西晋の大臣は、宗室が殺しあうが、まだ四方は変がなかった。衛操たちは、なぜ中華を捨てたのか。漢族は辺境を警護して、罪がある者の亡命をふせぐべきだ。さっさと衛操が出て行くのを防げなかったことから、西晋の政治がダメだとわかる。
ぼくは思う。史家とか言っているが、胡三省の意見なんだろう。宋元より、北方の胡族に対する敵愾心が、否応なくあおられた。『資治通鑑』はそのなかで作られた編纂史料だし、胡三省だって元軍から逃げた。

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296-297年、斉万年が連勝、洛陽で老荘が蔓延

296年春夏、司馬倫と孫秀が漢中から洛陽へ

世祖武皇帝下元康六年(丙辰,公元二九六年)
春,正月,赦天下。
下邳獻王晃薨。以中書監張華為司空。太尉隴西王泰行尚書令,徙封高密王。

春正月、天下を赦した。
下邳獻王の司馬晃が薨じた。中書監の張華を司空とする。太尉する隴西王の司馬泰を、行尚書令とする。高密王に徙封する。

夏,郝散弟度元與馮翊、北地馬蘭羌、盧水胡俱反,殺北地太守張損,敗馮翊太守歐陽建。

夏、郝散の弟・郝度元と、馮翊と北地の馬蘭羌、盧水胡が、ともに反した。北地太守の張損を殺した。馮翊太守の歐陽建を敗った。

地理について2615頁。


征西大將軍趙王倫信用嬖人琅邪孫秀,與雍州刺史濟南解係爭軍事,更相表奏,歐陽建亦表倫罪惡。朝廷以倫撓亂關右,征倫為車騎將軍,以梁王肜為征西大將軍、都督雍、涼二州諸軍事。系與其弟御史中丞結,皆表請誅秀以謝氐、羌;張華以告梁王肜,使誅之,肜許諾。秀友人辛冉為之說肜曰:「氐、羌自反,非秀之罪。」秀由是得免。倫至洛陽,用秀計,深交賈、郭,賈後大愛信之,倫因求錄尚書事,又求尚書令;張華、裴頠固執以為不可,倫、秀由是怨之。

征西大將軍する趙王の司馬倫は、嬖人である琅邪の孫秀を信用した。

この時代に社会の下層から、這い上がるという代表です。

雍州刺史する済南の解係とともに、司馬倫は軍事を争う。更相して表奏する。歐陽建もまた、司馬倫の罪悪を表する。
朝廷は、司馬倫が関右で撓亂なので、司馬倫を徵して、車騎將軍とした。梁王の司馬肜を征西大將軍とし、都督雍涼二州諸軍事とした。

司馬倫を関右から引きはがしたのだ。

解係とその弟の御史中丞する解結は、ふたりで表して「孫秀を誅して、氐羌に謝りたい」という。
張華は司馬肜に「孫秀を誅せ」という。司馬肜は許諾した。孫秀の友人の辛冉は、司馬肜にいう。「氐羌は自ら反した。孫秀の罪でない」と。孫秀は免れることができた。
司馬倫は洛陽に至り、孫秀の計をもちい、深く賈氏と郭氏と交わった。賈后は、司馬倫をおおいに愛信した。

胡三省はいう。張華は、司馬肜に孫秀を殺させたが、遂げられず。すでに孫秀は洛陽にきた。孫秀の罪を明正とし、孫秀を誅することができなかった。

司馬倫は、錄尚書事を求め、また尚書令を求めた。張華と裴頠は固執して「司馬倫に録尚書事、尚書令をさせるな」という。司馬倫と孫秀は、張華と裴頠を怨んだ。

司馬倫と孫秀が、張華と裴頠と解系を殺す張本である。


296年秋冬、斉万年を避け、仇池に楊氏がうつる

秋,八月,解系為郝度元所敗,秦雍氐、羌悉後,立氐帥齊萬年為帝,圍涇陽。御史中丞周處,彈劾不避權戚,梁王肜嘗違法,處按劾之。冬,十一月,詔以處為建威將軍,與振威將軍盧播俱隸安西將軍夏侯駿,以討齊萬年。

秋8月、解系は郝度元に敗られ、秦州と雍州の氐羌は、ことごとく反した。氐帥の齊萬年を皇帝にして、涇陽を囲む。

涇陽は、前漢では安定郡に賊する。後漢と西晋でははぶく。

御史中丞の周處は、彈劾して、權戚を避けない。梁王の司馬肜は、かつて違法があり、周処は司馬肜を按劾した。冬11月、詔して、周処を建威將軍とした。振威將軍の盧播とともに、安西將軍の夏侯駿のもとに配属し、斉万年を討たせる。

ぼくは思う。周処が司馬肜を傷つけるので、遠ざけたのだ。こういう「安全弁として人事異動」というのは、会社の部署数が許すなら、とても有効に働いてます。
振威将軍は、後漢初に宋登がなった。


中書令陳准言於朝曰:「駿及梁王皆貴戚,非將帥之才,進不求名,退不畏罪。周處吳人,忠直勇果,有仇無援。宜詔積弩將軍孟觀,以精兵萬人為處前鋒,必能殄寇;不然,梁王當使處先驅,以不救陷而之,其敗必也。」朝廷不從。齊萬年聞處來,曰:「周府君嘗為新平太守,有文武才,若專斷而來,不可當也;或受制於人,此成禽耳!」

中書令の陳準は、朝廷でいう。「夏侯駿と司馬肜は、どちらも貴戚であるが、將帥之才でない。進んで名を求めない。退いて罪を畏れない。周処は呉人であり、忠直・勇果である。呉人にとって(西晋の貴戚に対して)仇があるが援はない。詔して、積弩將軍の孟観に、精兵1万をつけ、周処の前鋒とせよ。必ず周処と孟観は、寇を殄せる。さもなくば、司馬肜が周処を先駆に使い、必ず敗れる」と。

景懐皇后は、夏侯氏である。だから夏侯駿は、貴戚である。
ぼくは思う。西晋が胡族を平定するとき、いちばん気をつかうべきは、三国鼎立のときの地域差。西晋において「蜀漢の出身だから」と軋轢を生むことは少ない(ぼくは史料を読んだ覚えがない)が、孫呉はよく衝突する。併合が15年遅かったことが、影響するのか。もしくは、蜀漢は曹魏に対抗した国だから、鏡像のように「正反対だけど似ている」。孫呉は、べつのロジックで成立した国だから、「正反対とはいえず、似てもいない」とか。だから、吸収されにくい。

朝廷は従わず。斉万年は、周処がきたと聞いていう。「周府君は、かつて新平太守となり、文武の才があった。もし専断して(周処が指揮して)来たら、当たるべきでない。もしくは人に受制する(指揮される)なら、捕獲できる」と。

關中饑、疫。

関中で、飢饉と疫病あり。

初,略陽清水氐楊駒始居仇池。仇池方百傾,其旁平地二十餘里,四面斗絕而高,為羊腸蟠道三十六回而上。至其孫千萬附魏,封為百頃王。千萬孫飛龍浸強盛,徙居略陽。飛龍以其甥令狐茂搜為子,茂搜避齊萬年之亂,十二月,自略陽帥部落四千家還保仇池,自號輔國將軍、右賢王。關中人士避亂者多依之,茂搜迎接撫納,欲去者,衛護資送之。

はじめ、略陽の清水氐の楊駒は、はじめ仇池にいる。

略陽について、2616頁。天水のあたり。

仇池(の城壁)は四方の長さが百傾ある。その旁らには、平地が20余里ある。四面は斗絶して高い。羊腸の蟠道が、36まがって上がる。仇池は、孫千萬のとき曹魏に付して、百頃王に封じられた。

ぼくは思う。仇池の地名と地形について、2617頁。

千萬の孫・飛龍は、じわじわ強盛となる。略陽にうつる。飛龍は、甥の令狐茂搜を子とした。茂捜は、斉万年の乱を避けて、
12月に略陽から仇池にくる。彼は部落4千家をひきいる。輔國將軍、右賢王を自号した。関中の人士で、避乱する者は、おおくが茂捜に依拠する。茂捜は、迎接・撫納する。去りたい者には、衛護・資送してやった。

この後、楊氏はついに仇池を、世々の拠点とする。
ぼくは思う。五胡十六国をやる胡族のうち、関中の勢力は、みな斉万年を経験している。西晋がいかに斉万年を討伐するかにより、五胡のこの地域の情勢がかわってくるのだ。というか、西晋そのものが、斉万年に刺史などを殺され、動揺させられた。


是歲,以揚烈將軍巴西趙廞為益州刺史,發梁、益兵糧助雍州討氐、羌。

この歳、揚烈將軍する巴西の趙廞は、益州刺史となる。梁州と益州の兵と糧を発して、雍州をたすけ、氐羌を討つ。

趙廞が蜀地をみだして、耿滕と陳総を殺し、巴氐を啓く張本である。


297年春、司馬肜が周処を急かし、斉万年に敗れる

世祖武皇帝下元康七年(丁巳、公元二九七年)
春,正月,齊萬年屯梁山,有眾七萬;梁王肜、夏侯駿使周處以五千兵擊之。處曰:「軍無後繼,必敗,不徒亡身,為國取恥。」肜、駿不聽,逼遣之。癸丑,處與盧播、解系攻萬年於六陌。處軍士未食,肜促令速進,自旦戰至暮,斬獲甚眾。弦絕矢盡,救兵不至。左右勸處退,處按劍曰:「是吾效節致命之日也!」遂力戰而死。朝廷雖以尤肜,而亦不能罪也。

春正月、斉万年は梁山に屯する。軍衆は7万。司馬肜と夏侯駿は、周処に5千で斉万年を撃たせる。
周処「軍に後継がなければ、必ず敗れる。不徒・亡身すれば、国に恥じを取らせる」と。司馬肜と夏侯駿は聴さず、逼って周処をゆかせる。

ぼくは思う。バカな貴戚が、有能な呉将を殺したと。

正月癸丑、周処と盧播と解系は、斉万年を六陌で攻める。周処の軍が食べる前に、司馬肜が速進させた。旦より暮まで戦い、斬獲された者が甚だ衆い。弦は絶え、矢は尽き、救兵は至らず。左右は周処に撤退を勧めた。周処は剣を按じていう。「今日が私の效節・致命の日である」と。ついに力戦して死んだ。司馬肜の責任だが、朝廷は司馬肜を罪とできない。

ぼくは思う。貴戚が実務をやっちゃあ、いかんのね。


秋,七月,雍、秦二州大旱,疾疫,米斛萬錢。
丁丑,京陵元公王渾薨。九月,以尚書右僕射王戎為司徒,太子太師何劭為尚書左僕射。

秋7月、雍州と秦州で、大旱と疾疫あり。米斛は1万銭。
7月丁丑、京陵元公の王渾が薨じた。
9月、尚書右僕射の王戎を司徒とした。太子太師の何劭を尚書左僕射とした。

戎為三公,與時浮沉,無所匡救,委事僚寀,輕出遊放。性復貪吝,園田遍天下,每自執牙籌,晝夜會計,常若不足。家有好李,賣之恐人得種,常鑽其核。凡所賞拔,專事虛名。阮鹹之子瞻嘗見戎,戎問曰:「聖人貴名教,老、莊明自然,其旨同異?」瞻曰:「將無同!」戎咨嗟良久,遂辟之。時人謂之「三語掾」。

王戎は三公となると、,時の浮沈とともにし、匡救せず、僚寀に委事して、輕出・遊放する。王戎の性は貪吝で、園田は天下に遍し。自ら牙籌を執り、昼夜とも会計して、つねに「カネが足らん」という。王戎の家に好李がある。これを売るとき、種子に穴をあけた。

有名な話です。

阮咸の子・阮瞻は、かつて王戎にあう。王戎は問う。「聖人は名教を貴ぶ。老莊は自然を明とす。その旨は同じか異なるか」と。阮瞻「将に無同せんとす」と。

意味がわからんので、2618頁の胡注をみる。

王戎は、ついに阮瞻を辟した。時人は「三語掾」といった。

たった3語「将無同」だけで辟されたから。


王衍と楽広が清談をやり、裴頠が反論する

是時,王衍為尚書令,南陽樂廣為河南尹,皆善清談,宅心事外,名重當世,朝野之人,爭慕效之。衍與弟澄,好題品人物,舉世以為儀准。衍神情明秀,少時,山濤見之,嗟歎良久,曰:「何物老嫗,生寧馨兒!然誤天下蒼生者,未必非此人也!」樂廣性沖約清遠,與物無競。每談論,以約言析理,厭人之心,而其所不知,默如也。凡論人,必先稱其所長,則所短不言自見。王澄及阮鹹、鹹從子修、泰山胡毋輔之、陳國謝鯤、城陽王夷、新蔡畢卓,皆以任放為達,至於醉狂裸體,不以為非。胡毋輔之嘗酣飲,其子謙之窺而厲聲呼其父字曰:「彥國!年老,不得為爾!」輔之歡笑,呼入共飲。畢卓嘗為吏部郎,比捨郎釀熟,卓因醉,夜至甕間盜飲之,為掌酒者所縛,明旦視之,乃畢吏部也。樂廣聞而笑之,曰:「名教內自有樂地,何必乃爾!」

このとき王衍は尚書令となる。南陽の楽広は河南尹となる。2人で清談を善くす。みなに慕われた。
王衍は、弟の王澄とともに、人物を論じた。王衍はわかいとき、山濤に評価された。楽広も、機転のきいた台詞をいう。はぶく。

2619頁。


初,何晏等祖述老、莊,立論以為:「天地萬物,皆以無為本。無也者,開物成務,無往不存者也。陰陽恃以化生,賢者恃以成德。故無之為用,無爵而貴矣!」王衍之徒皆愛重之。由是朝廷士大夫皆以浮誕為美,弛廢職業。裴頠著《崇有論》以釋其蔽曰:「夫利慾可損,而未可絕有也;事務可節,而未可全無也。蓋有飾為高談之具者,深列有形之累,盛稱空無之美。形器之累有征,空無之義難檢;辯巧之文可悅,似象之言足惑。眾聽眩焉,溺其成說。雖頗有異此心者,辭不獲濟,屈於所習,因謂虛無之理誠不可蓋。一唱百和,往而不反,遂薄綜世之務,賤功利之用,高浮游之業,卑經實之賢。人情所徇,名利從之,於是文者衍其辭,訥者贊其旨。立言藉於虛無,謂之玄妙;處官不親所職,謂之雅遠;奉身散其廉操,謂之曠達。故砥礪之風,彌以陵遲。放者因斯,或悖吉凶之禮,忽容止之表,瀆長幼之序,混貴賤之級,甚者至於裸裎褻慢,無所不至,士行又虧矣。

はじめ何晏らが、老荘を祖述した。王衍らはその著作を愛した。朝廷の士大夫は、みな老荘の浮誕を美として、職業が弛廃した。裴頠は『崇有論』を書いて、時弊を批判した。

夫萬物之有形者,雖生於無,然生以有為已分,則無是有之所遺者也。故養既化之有,非無用之所能全也;治既有之眾,非無為之所能修也。心非事也,而制事必由於心,然不可謂心為無也;匠非器也,而制器必須於匠,然不可謂匠非有也。是以欲收重淵之鱗,非偃息之所能獲也;隕高墉之禽,非靜拱之所能捷也。由此而觀,濟有者皆有也,虛無奚益於已有之群生哉!」然習俗已成,頠論亦不能救也。

裴頠はいう。はぶく。老荘を重んじる習俗はすでに成っており、裴頠の議論では救えなかった。

また興味が移り変わったときに読みます。


拓跋猗□度漠北巡,因西略諸國,積五歲,降附者三十餘國。

拓跋猗□は、漠を度り、北巡した。因って西し、諸國を略した。5年の遠征で、降附した国は30である。

298年、斉万年が反し、李氏が蜀地に入る

世祖武皇帝下元康八年(戊午,公元二九八年)
春,三月,壬戌,赦天下。
秋,九月,荊、豫、徐、揚、冀五州大水。

抄訳しなくてもわかる。

初,張魯在漢中,賨人李氏自巴西宕渠往依之。魏武帝克漢中,李氏將五百餘家歸之,拜為將軍,遷於略陽北土,號曰巴氐。其孫特,庠、流,皆有材武,善騎射,性任俠,州黨多附之。及齊萬年反,關中荐饑,略陽、天水等六郡民流移就谷入漢川者數萬家,道路有疾病窮乏者,特兄弟常營護振救之,由是得眾心。

はじめ張魯が漢中にいるとき、賨人の李氏は、巴西の宕渠から、張魯を頼ってきた。

地理について2621頁。劉璋による郡県の編成とか。

曹操が漢中をやぶると、李氏は5百余家をひきい、曹操に帰して、将軍を拝する。略陽の北土にうつり、「巴氐」と号する。

略陽郡について、2621頁。

この孫の李特と李庠と李流は、みな材武がある。騎射に善く、性は任俠。州党は多くが附す。斉万年が反すると、関中は荐饑である。略陽と天水ら6郡は、民が流移して、谷に就き、漢川に入る者が数万家。道路には、疾病・窮乏する者がおおい。李特の兄弟は、つねに營護・振救する。これにより、衆心を得る。

ぼくは思う。西晋末に分立するのは、曹操と接した者の孫の世代。例えば成蜀の李特は、祖父が張魯と曹操に従った。「西晋が20年の統一を保った」とは「西晋は1世代の期間も統一を維持できず」と同義。物心がついてから死ぬまで、「晋呉の分裂」と「八王・永嘉の乱」をどちらも知らない人は、成人者の中にいない。


流民至漢中,上書求寄食巴、蜀,朝議不許,遣侍御史李苾持節慰勞,且監察之,不令入劍閣,苾至漢中,受流民賂,表言:「流民十萬餘口,非漢中一郡所能振贍;蜀有倉儲,人復豐稔,宜令就食。」朝廷從之。由是散在梁、益,不可禁止。李特至劍閣,太息曰:「劉禪有如此地,面縛於人,豈非庸才邪!」聞者異之。

流民は漢中に至り、上書して巴蜀での寄食を求めた。朝議は許さず。侍御史の李苾に持節させ、流民を慰勞して監察させた。流民を剣閣に入れさせず。李苾は漢中に至り、流民から賄賂を受けた。
李苾は上表した。「流民は10余万口いる。漢中の1郡では(人数が多くて)振贍できない。蜀郡には倉儲がある。人も豊稔である。流民を蜀郡で就食させよ」と。朝廷はこれに従う。

ぼくは思う。李苾は、当初と役割が逆転している。それほど、流民の人数がおおく、食糧が足りないという実態がひどかったのだろう。

これにより流民は、梁州と益州に散在して、禁止できなくなる。李特は剣閣に至り、太息していう。「劉禅はこのような地をもちながら、人に面縛された。庸才でないといえようか」と。聞く者は、李特を異とした。

ぼくは思う。李特にとって、劉禅はせいぜい父の世代。ちかい。現代史なのだ。


張華、陳准以趙王、梁王,相繼在關中,皆雍容驕貴,師老無功,乃薦孟觀沉毅有文武材用,使討齊萬年。觀身當矢石,大戰十數,皆破之。

趙王と梁王は、相継いで関中にきて、どちらも雍容・驕貴である。師老は無功である。

雍容とは、和緩・自得の顔つき。驕貴とは、貴を以て、自ら驕ること。師は久しく決さず、座して(時間をムダにして)老いた。趙王と梁王がどちらも軍事に向かないことをいう。

張華と陳準は「孟観は沉毅で、文武の材用がある。孟観に斉万年を討たせろ。孟観は、身ずから矢石に当たり、大戦すること10を数える。みな敵をやぶった。131019

本文に関係ないけど、上の議論をむし返す。
地理志の世界観では、州郡の数(点の数)で国力を競う。だから孫呉は分割・新設が好き。『禹貢』では支配の及ぶ距離(線の長さ)を記す。だが面積の議論を史料では見ない。史料にある「界」は、道=線の区切であり、面積の境界でなかろう。術語「一円支配」や国民国家の「国土」の概念が混乱の原因か。
@AkaNisin さんはいう。この難しさはこないだのレキシズルの三国志寺子屋でも感じました。孫権や劉表が馬鹿でかい領土になってしまうというアレです。
@楽史舎 さんはいう。伊能図を除けば江戸時代までの地図って町と町を線で結んだだけの地図がほとんどでしたし、上総・下総の位置関係とか、東海道の宮~桑名とかを考えると測量技術が発達するまでは海路を意識してたんじゃないかと思います。
ぼくはいう。話題を(責任を取り切れない方向に)拡大します。地表に対する面・線・点の認識って、土地支配や交易方法によって決まってきますよね。測量の技術もまた、農耕とか建築とかと同時的に発展します。軍事のニーズも。伊能図をつくらせた動機は、海防でしょうか。収拾がつかなくなりました(笑)

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