読書録 > 平勢隆郎『都市国家から中華へ』中国の歴史02

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00 文化地域が歴史的にもつ性格

『史記』は春秋列国のうち、記事がおおい12を、12諸侯とした。地の数6(天は9、人は8)の2倍である。『史記』は戦国諸国のうち、6国をえらび、周と秦を別格として「六国年表」とした。

新石器時代以来の文化地域

中原、雁北、燕遼、海岱、江浙、両湖、巴蜀、甘青である。
夏殷周は「天下」の王朝といわれるが、文化地域の1つを支配しただけである。副都により、べつの文化地域に支配が及ぶこともあるが。秦漢と同じ領域「天下」を支配したのではない。

さすがの書き手と申しましょうか、これがこの本のテーマであり、これだけがこの本のテーマです。

新石器から戦国までに展開された歴史は4段階。
 1.地域内に農村がいくつもある
 2.城壁都市(小国)に農村が従う
 3.大国が小国を従える
 4.大国中央が小国を滅ぼし、官僚を派遣して文書行政

新石器の文化地域は、軍区や監察区として機能する。春秋戦国期は、3.大国が小国を県として従え、4.文書行政をする時期である。はじめ殷周のみが漢字を使ったが、東周(春秋期)から漢字が広がった。

「大国」の勢力圏

周家は、前8世紀に鎬京を放棄し、副都の洛邑が新たな王都となった。春秋期は、周国が河南の「大国」として存在し、山西の「大国」晋国が勢力を及ぼす。山東では斉国、陜西では秦国、長江の中流域で楚国、長江の下流域ではゴエツがある。いずれも新石器以来の文化地域を基礎とする。
「大国」勢力圏を、官僚によって統治する方法が、春秋期に始まる。鉄器の普及が、この変化をささえる。

戦国期に制作された史書は、わかりやすいが、春秋期を書いたものに、戦国期の思惑が投影されている。領域国家の支配領域を正統化するために、夏殷周が利用される。春秋期の実際を抽出する必要がある。旧石器の文化圏がつかえる。

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01 本書が扱う時代

よく知られた「事実」

夏殷周は、聖天子が始めて、無道の天子が滅ぼす。同型の反復である。だがこの「事実」には、欠落がある。
1つ、中央と地方を結ぶ文書行政が開始され、律令が整備された時代のことが、反映されていない。夏殷周には、文書行政がない。官僚が派遣されない。漢字で情報が伝達されない。中央も地方も、独立した都市国家「国」で、物資を貢納し、軍隊が連合するだけの関係である。

ぼくは思う。夏殷周を、秦漢と同質の時代だと思って、史料を読んではいかんと。戦国期には文書行政ができていたから、史料には、あたかも文書行政が夏殷周にもあったような描写がある。誤解をまねく表現である。そもそも戦国期の人々は、歴史研究のためではなく、当時の現実的な要請のために、夏殷周を記録して論じた。へたに時代考証をするよりも、戦国期と同質の社会が夏殷周にあったかのように記したほうが、労力がはぶける。「殷代の前例では」とスムーズに紹介できる。

2つ、戦国期の天下には、複数の中心がある。
3つ、漢字がひろがったのは春秋期である。西周までは祭祀の文字だが、東周(春秋期)から各国にひろまって、文書行政に使用された。夏殷周には、漢字による文書行政がない。ゆえに、西周までの都市国家の理念をかたった、漢字の文書は存在しない。あるのは、戦国期からの領域国家の理念をかたった、漢字の文書だけである。

この指摘は、破壊力が抜群だと思うのです。


漢代以後の視点の特異性_050

天下、中国、夏、夷狄、などの語は、戦国期に各国が自分の事情にあわせて、異なる意味をつけた。これらの言葉の関係をとりもち、典籍で使えるように調整したのは、王莽期である。緯書をつくって、言葉の説明をした。

ぼくは思う。誰にだって、自分自身をうまく言うことができない。それは、秦漢帝国にしたって同じ。戦国期の使い方は、前漢の実情にあわない。しかし、前漢なりの用法を客観的に設定するのは、前漢自身にはできない。「前漢にとっての天下とは何か」「前漢にとっての中華とは」という定義をしてゆき、その定義が完了した時点で、前漢は滅びる。だって、自分自身を言い当てることは、原理的に不可能のはずだから。前漢を言いあてる者は、前漢であってはならない。
ぼくは思う。なぜ後漢の思想は完成度がたかいか。前漢は自分でないから、前漢を雄弁に言語化することができる。その言語化した成果を、後漢に対する説明として流用する。だから真実味が増える。
わかりにくいので、ぼくなりに比喩をつかう。たとえば双子の弟が、双子の兄を分析して描写する。いくら兄弟とはいえ、他者からの視線なので、分析は的確である。その兄に対する分析を、「じつはぼく自身のことを言っているのだ」と言い換える。これは詭弁なのだが、双子の弟は、双子の兄とそっくりなので、ウソくささが払拭される。

漢家なりの天下の用法が定着すると、緯書は使命をおえる。緯書にあらわれた、漢家にとって都合のよい言葉のアレンジは、ほかの王朝にとって都合がわるい。

王莽期に「天下」のなかに「中国」があるという説明が成立した。これにより皇帝は、天下統一でなく、中国統一をするだけの者になる。
「天下」の内部かつ「中国」の外部では、西嶋定生のいう東アジア冊封体制がおこなわれた。朝鮮、ベトナム、日本は、文書行政が始まっていない地域であり、徳化の対象であった。王莽に関する記録は後漢につくられたので、王莽の徳化が、野蛮に及んだことが記されない。だが王莽は、徳化の議論をしたはずである。

『戦国策』は前漢末に成立した。漢代には、いわゆる戦国期を「六国の世」とよぶ。漢家のため、秦家を脇役にする必要があった。そのために周家を正統に位置づけて、各国が周家の正統を継承するという「形」をつくった。『戦国策』は、戦国以来の『短長書』などをまとめたもの。130524

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02 周王朝の史実

伐殷から克殷へ、『逸周書』と『史記』

『史記』より前、戦国期に『逸周書』ができた。もともと周家の記録で、これが春秋晋に継承され、戦国魏に継承されたもの。『竹書紀年』と同じ墓から発掘された。
『逸周書』において殷周革命は、時間がかかっている。殷を討伐してから、殷を克服するまで、『逸周書』世俘解、『逸周書』克殷解にくわしい。前1024に牧野に陣取ったが、いちど武王は都にもどる。
『史記』周本紀では暦が混同されて、2度あるはずの甲子が、1度にくっつけられる。『史記』はいかにも、後世に編纂された史料である。分かりやすいが、誤りもある。周家の本拠を「西土」とするのは、漢代の視点である。

西周の起源と滅亡の伝承

『史記』周本紀で、鳥の卵が関係する。もとは「姓」と「氏」はべつものである。だが漢代には、姓と氏が混同されているため、周家の起源についても、姓と氏が混同されている。
美女による亡国は、殷紂の妲己、周幽の褒姒がある。『尚書』牧誓は殷紂を批判し、『左氏伝』晋叔向も「婦人の言」を戒められる。だが婦人の言が亡国にみちびくのは、君主権力の強さが前提として必要。夏殷周よりも、漢代の視点である。

周公と共和

戦国諸国にとって周家は、権威を継承する相手であり、打倒すべき相手でもある。
血縁ではなく、革命によって君主となった国では、周公旦の摂政、共和の摂政がほめられた。補佐する者が執政するという「形」が、晋国を食いやぶった魏国、羌氏斉を食いやぶった田氏斉によって必要とされた。また、文・武・成、宣とつづいて補佐が成就するという「形」がまねられた。
じつは「共和」は『竹書紀年』では人名であり、郡臣で補佐したという意味ではなかった。また金文の研究では、共和期は元年しかないのだが、実際以上にふくらまして理解された。補佐の「形」が発展した。

西周の滅亡_087

『史記』周本紀で、褒姒と地震によって西周がほろびる。だが、褒姒の悪ふざけに怒るほど、諸侯が単純とも思えない。西周をおとしめる説話である。
『竹書紀年』では、鎬京の携王と、洛邑の幽王に分裂した。褒姒がふざけて、亡国したのではない。虢公がカギとなって、分裂の闘争があった。「東遷」という捉え方は、フィクションである。

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03 「華夏」の源流と夏殷周3代

韓国の神話

韓魏趙は、夏家と殷家の故地にあるから、伝統を継承する。この地域を支配する正統性を、夏殷からもらってくる。漢家が、夏殷周を天下の王朝だと再解釈したことと好対照である。

『左氏伝』は、天下の書物をつくろうとした漢代に、『春秋』の伝として位置づけられた。『春秋』はもとは斉国でつくられた年代記である。魯斉の記録を中心にできた。孔子が斉の田氏の命令でつくったとされた。『公羊伝』で、議論が展開された。
漢代になると、斉田氏の部分がわからなくなるような説明ができ、孔子だけが強調された。孔子は斉魯の賢人でなく、天下の賢人だと再解釈された。
『左氏伝』は、戦国斉に反発した韓国が、『春秋』と『公羊伝』のコンビをくさして、韓国の正統性をいうために『左氏伝』をつくった。もとは『春秋』の伝ではなかった。三晋の地を支配する正統性を言っている。

韓宣子と夏殷王朝

『左氏伝』昭公7年、鄭の賢人・子産の意見にしたがい、韓宣子が夏家の祭祀をおこなうと、晋侯の病気がなおった。韓氏が夏家を再興するという話である。『左氏伝』定公4年には「夏虚」という記述、『左氏伝』昭公元年では「夏郊」という記述がある。夏家の故地を継承するのが韓国である。
韓宣子は、鄭の諸氏から尊兄される。戦国期の書物は、補佐する賢者がつきもの。韓宣子を補佐するのが、鄭子産である。じつは鄭子産は、『左氏伝』が描くほど韓国に近くない。

『左氏伝』昭公16年、毒舌の鄭国の大夫たちが、韓国だけをほめる。鄭国の跡地を、韓国がのちに支配する。また鄭宣子のもと玉環は、殷家の玉環とセットだとされる。韓子が鄭子産に養育されるのは、周公旦が周成王を養育したのと同じ「形」である。
『左氏伝』が編纂された戦国韓では、秦国や楚国、斉国や燕国の領域は、野蛮の地と認識されていた。『左氏伝』昭公9年の陸渾の戎の注釈にあり。

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04 戦国諸国が語る夏殷周3代

晋・斉の領土主張と3代

天下のなかは、特別領域=自国と、野蛮の地にわけて認識される。思惑をもって設定される。

ぼくらが読むことができる、夏殷周3代の歴史は、夏殷周3代の歴史として書かれたものではない。漢字が普及して、支配領域の正統性を主張したくなった戦国期に、各国の都合で作られたものだ。それを漢代に「天下」の歴史として再編集されたものだ。まあ漢家もまた、戦国諸国と同じように、自分の支配の正統性のために、夏殷周をつかったのだから、質的には同じである。
この本では、夏家は伝説という扱いである。でも、殷周もまた、夏家と同じように、戦国諸国の正統化のために語られた王朝である。実在の議論とはべつに、夏殷周の3代は同質なのね。だから、夏家が実在するといっても、殷家が実在しないといっても(殷家は金文が実在を証明しているが、例えばの話ね)儒家経典などに現れる夏殷周の議論は結論が同じなのだ。


『左氏伝』で秦家は「西戎の覇者」と記される。だが西戎は自称のはずがない。『呂氏春秋』は、秦家による天下統一が見えたあとに作られたので、戦国秦の思想を伝えない。
青銅器で戦国秦は、自分たちを「夏子」と規定する。陜西は「夏」であり、三晋などの東方を「蛮夏」と貶める。

青銅器で自国をほめるのは、戦国斉もおなじ。田氏の祖先をほめる。殷王(宋)の血を母系でひくという。だから夏家と殷家の故地を、戦国斉が支配する権利があるという。母の血統を問題にするのは、母「劉媼」から姓をもらう、前漢の劉邦と同じである。父の血統では、めぼしい主張ができないからだ。
戦国斉は、殷=宋の故地を「中国」と位置づけて、三晋の地域を「諸夏」と貶める。おなじく宋の血縁である孔子をほめる。『公羊伝』の末尾、獲麟によって待望される聖君とは、戦国斉の田氏である。
漢代に、戦国斉がきえると、孔子が魯のために『春秋』をつくり、聖君とは漢帝であるという読み変えが行われた。戦国斉の主張は、漢代の注釈により封じ込められた。
『公羊伝』が冒頭で説明する、君主の死の翌年の改元は、前338に戦国斉で採用されたものである。また「母が尊貴だから、子も尊貴」という『公羊伝』の主張は、殷王の血を母系にひく、戦国斉のためのもの。

すごい。『公羊伝』がよくわかる!
『公羊伝』はこちらで、やりかけた。改元と母の件、あり。
『公羊注疏訳注』の隠公1、哀公14を抜粋


魏の『竹書紀年』と3代

戦国魏は、戦国韓とちがって、春秋晋の一族ではなかった。下克上の論理が必要だった。『竹書紀年』は、夏紀、殷紀、周紀、魏紀がつづく。
戦国魏が採用したのは、踰年改元法である。これは、周成王の故事による。周文王、周武王、魏恵成王、という権威の継承の「形」が描かれる。つまり周成王が、魏恵成王にすりかわっている。

ぼくは思う。これを言うなら曹魏は、武帝、文帝のつぎは、成王でなければいけない。曹叡が明帝なのは、後漢の明帝との関わりで論じないとダメだろう。春秋戦国期に明公とか明王っていないよね。っていうか、仏教かよ。
ぼくは思う。魏という国号と、革命の正統化はセット。戦国魏は、春秋晋と血縁でないが、政権をうばった。戦国魏の史書『竹書紀年』には、革命の正統化がセットされる。曹操は、地名に基づいて魏王になったのだろう。しかし魏といえば、革命の論理と切り離せない国号という「常識」があったはず。知らないけど。

『戦国策』秦で、戦国魏は孟津で会した。周武王による殷討伐を思い出させる。戦国魏は、ぎゃくに孟津で、周家から権威の委譲をせまった。また戦国魏は、夏正(夏家の暦制)をつかい、周家から権限の奪還を主張した。 戦国斉、戦国韓も、夏家の暦制に近いものを採用した。周家を否定するために、夏家にもとづく。

ぼくは思う。周家を理想とし、「周家は否定されないもの」と思うのは、漢代の補正の結果である。周家は克服されるもの、という発想に引っかかるなら、ぼくらは立派な漢代の読書層ですw


楚の祖先神話と3代

『史記』楚世家が、まとまった神話をのせる。陳勝の乱、項羽や鯨布の叛乱があった。彼らは楚家の正統継承を「形」としている。

ぼくは思う。後漢初、後漢末、この地域の群雄たちも、「形」を継承しているような気がする。孫呉のときに結実しそう。ちゃんと見てみよう。

祖先神話は、どんどん遡って、古さを競う。伝説が「加上」される。楚家は祝融の子孫であるとか。『左氏伝』文公18年、 顓頊=高陽氏は8人の子があり、虞舜に追放された者が楚家の祖先になったとか。
『左氏伝』は楚王を「楚子」という。また楚王の徳は話題されず、鼎の軽重しか気にしないようなバカになっている。楚王の神話は、誹謗の「形」によって、実態がわからない。祝融や顓頊をもって、夏殷を否定する論理が楚王にあったと思われるのだが、わからない。
顓頊は夏家を否定して、祝融が殷家を否定する。らしい。

楚家が王を称したのは、周王に対抗するため。はじめは楚成王がいたが、さかのぼって文王と武王を祖先に贈った。周家や史書『春秋』に対抗するためだった。周文王の徳は、周武王ではなく、楚武王に継承されたという認識もできた。
『史記』楚世家では、周厲王に討伐するのを恐れて、王号を引っ込めたという。だが、これは楚家の外部から、楚家を貶めたものだろう。_150

中山の正統主張と3代

中山の祖先は、鮮虞である。白狄ともいう。中原諸国から外族として扱われた。楚家や秦家に通じる。中山は『穀梁伝』をつくった。『春秋』『公羊伝』『左氏伝』の「形」を利用しながら、先行するテキストを否定した。

ぼくは思う。『春秋』三伝は、前漢に成立したもの。そういう先行研究を読んできたから、そう思ってた。でも、現在の形に整備されたのが前漢であって、その原型は戦国諸国にあったのでしょう、という立場でないと、この本を楽しく読めなくなる。わからないが、おそらくこれは、研究者にも解らないのだろう。

『穀梁伝』は、『公羊伝』でよりも広めの「中国」が話題にされる。『穀梁伝』は、晋家をのぞく西周の諸侯を「中国」に含める。
また『穀梁伝』は下克上を否定する。戦国魏、戦国趙、戦国斉はすべて否定される。春秋魯は、魯桓公が魯隠公を弑しているので、周家の徳をつがない。もとの「中国」は革命によってほろび、鮮虞の中山だけが、春秋から戦国まで生き残る。下克上を否定することで、中山だけが突出する。

漢家が3代を継承する形_154

「夏」「中国」を主人公にすると、下克上を肯定することになる。韓家や魏家が下克上だからだ。
漢家は秦家を継承し、戦国期にあった複数の特別地域の独自性を封殺した。独自性をやめて、周家だけが特別だと説明した。周家を、漢家とおなじ天下の王朝だということにした。
特別地域を、東周の洛邑とした。前漢から後漢で、長安から洛陽に東遷したように、周家にも東遷があったことにした。前漢は、王莽に簒奪されたので、あまり重んじられない。
漢家なりの解釈で、戦国期からのテキストに注釈が行われた。結果、地域主義の議論は、天下の議論と区別しにくくなった。戦国期にあったもののうち、下克上の構図だけが残った。劉邦が下克上で天下をとったからである。

ぼくは思う。日本の戦国大名がいう(本当に言っていたのか、じつは知らないけど)天下とは、漢代に確立した意味での天下である。戦国期には、異なる意味があったことを意識せねばね。

漢武帝のとき、『史記』ができた。夏殷周は、天下に君臨する王朝だと見なされた。交替が一巡したので、漢家は夏家をつぐため、夏正の暦法をつかった。夏家の復興者として、漢武帝が捉えられた。

漢家の正統性を象徴するのは、伝国璽と斬蛇剣である。伝国璽は、夏王の再来である始皇帝がもっていた。斬蛇剣は、劉邦の下克上を象徴する。また劉邦は、母方の劉媼から、龍の精をうけた。
これにくわえて、文武の祚も正統性を主張した。『続漢書』にある。周文王と周武王の祭肉のこと。戦国魏、戦国秦では、文武の祚を周王からもらって、周家の権威を委譲されると考えた。

戦国を再編集したのが、漢家だった。130524

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06 春秋時代の史実

広域にわたる漢字圏の出現

西周が漢字を鋳込んだ青銅器を配布したので、諸侯は漢字になれた。だが鋳造の方法を教えないので、諸侯は青銅器をつくれない。
周家が分裂して「東遷」した。『竹書紀年』によると、周宣王のとき、秦家が関わってきた。秦荘公が、西戎をやぶった。前754、秦家と周家の国境を岐山にさだめた。鋳造の技術者が、秦家に継承された。前759、周携王をほろぼした晋文侯も技術を引き継いだ。

前5世紀、盟書が出現した。
従前「西周の権威があるうちは、盟書は必要なかった。東周になった春秋期、盟書が必要になった」と説明されたが、これは正しくない。漢字が普及した時期から、作られるようになった。
盟書は『周礼』に見える語で、戦国期に作られた。『左氏伝』では載書という。祭祀のなかから、周家による一方的対外宣言の文書の一部が、載書に取り入れられた。
盟書から、法令の文書に変わっていった。

孔子の時代_214

現代に見られる孔子像は、宋明理学(朱子学、陽明学)がまとめたもの。士大夫の理想として描かれる。これとはべつに、後漢から唐代の注釈に現れる孔子がいる。緯書の孔子である。『論語セン考』では黒龍の精に感応して生まれた。『孝経鉤命決』は、孔子の口は海、孔子の背は亀、孔子の手は虎という。

『史記』の孔子は、前漢のイメージで描かれる。
鄭国での孔子は、夏禹に比べると巡回した範囲がせまく、夏禹より行動力がないという評価である。
孔子の移動では、衛国と陳国がかなめとなる。宋国と鄭国も重要である。『左氏伝』で大火の分野にあるとされた国々である。韓家が、中原から殷家の故地を領有することを正統化するために、とりあげた国々でもある。
戦国斉では、孔子に田氏を評価させる「形」をつくった。他国はおもしろくないから、『史記』に収録されるような、さまざまな逸話をつくった。
『公羊伝』の獲麟は、春秋斉から戦国斉への革命を説明する。孔子が期待する聖人とは、田常である。
『春秋』も『公羊伝』も踰年改元法で記録する。だが春秋魯は、踰年改元法でない。つまり『春秋』と春秋魯は、暦法がちがう。『春秋』は、踰年改元を採用した戦国斉のために記されたのだ。

『左氏伝』は韓王の正統性をいう。『左氏伝』では獲麟が不祥のことだとして、軽く扱われる。田氏の話題は吹き飛ぶ。そのかわりに、孔子の死まで記す。死んだ孔子に『春秋』は書けない。『公羊伝』は編者である「君子」を孔子でない者として設定する。孔子に先んじた「左氏」たちが『左氏伝』を記したと位置づけ、孔子の重要性を低めた。
『左氏伝』は前451まで記事を延長して、三晋の諸国が、智氏を殺したことを批判する。また『左氏伝』のなかに「夫子=ふうし」「吾子=ごし」が出てくる。孔子の発言は、これらによって否定される。

孔子は、賢者の代表であったり、未来を見通せない者だったりする。
『史記』は、歴史書『春秋』の欠陥を改善するものである。だから『春秋』で孔子の評価がバラついているおかげで、司馬遷が改善する余地があった。また『漢書』は、『史記』を改善するものである。『史記』は司馬遷が個人的に作ったものであり、『漢書』は公的なものである。
『公羊伝』の孔子は公人だが、『史記』の孔子は私人である。『左氏伝』の孔子も私人である。などの評価のバラつきが、史書の性格にひきづられて、化けたり変わったりする。地域性によって決まる。

春秋五覇_240

史書の「形」は4つある。
 1.他国はダメとくさす
 2.神を登場させ、他国に神を嫌がらせる
 3.下克上を正当とする、しない
 4.神話伝説、夏殷周に正統性を語らせる

戦国斉の田氏は、夏禹の子孫である。夏禹の祖先・黄帝を登場させ、独自の正統性をとなえる。戦国斉は、殷の故地を支配する宋が、母系の血統であるという。
戦国斉は、春秋斉をくさす必要がある。だから魯桓公の夫人が春秋斉からとつぎ、兄の斉釐公と近親相姦したという。また斉桓公は、能力はあるが晩年がダメと。
『左氏伝』僖公9年、斉桓公は周王から祭肉をもらう。だが斉桓公は「王者でなく覇者にすぎない」と認識された。

斉桓公のつぎは、晋文公がまとめた。以降は晋家が中原をまとめる。
晋文公に対して『左氏伝』は、力があるが本命ではない、というレッテルをはる。将来の滅亡を読めない者として、晋文公は「吾子」に貶められた。

ぼくは思う。すべての国が、何らかの失点をかかえる。もはや、事実はあまり関係なくて、「形」だけが重要なことがわかる。

『左氏伝』編者は、さまざまな手法で諸国をくさした。事情が分からない後世から見ると、どうくさしているのかも解らない。だから『左氏伝』が『春秋』の伝だなんて説明すら、信憑性をもつほどだ。_250

ぼくは思う。『左氏伝』が『春秋』の伝だというのは、ひとつの無知であり、積極的な判断の表明でもある。それに気づいていなかった。漢代には、戦国諸国の正統性なんて、とりあえず関係なくなる。その上で、べつの思想体系として、再構築されたと見なすべきなのね。『左氏伝』を読んでも、そのまま春秋期の歴史がわかるわけじゃないと。


楚荘王は「まだ鼎の軽重を問えない。30世、700年早い」とされる。30世、700年後に出てくるのは、韓宣恵王である。
また楚王は「楚子」と爵位を低くする記述が混在する。
楚王は、夏家や殷家とは、領域が異なる。夏家や殷家との関係は、あまり関係がない。徳の有無も議論されない。「徳の有無でなく、鼎の軽重ばかり気にかけるバカ」として描かれ、韓宣恵王の伏線とされる。

ワンパターンで飽きてきた。この飽きぐあいが「形」のあることを裏付けるんだろうけど。


秦穆公は『左氏伝』で 西戎の覇者と貶められる。
だが秦国内の「詛楚文」楚国を呪詛する文書では、秦穆公をたかめる。秦恵文王が、楚君の王自称を否定するために、つくらせた文書である。秦家では、夏家の暦法と、楚家の暦法を折衷した。楚家の過去が、そもそもダメだと否定しておかねば、秦家の体面がたもてない。
秦穆公は国内では肯定的にえがかれるが、戦国期の秦恵文王の引き立て役にすぎない。

五覇と地域、下克上の目_259

だれを五覇に認定するかは、地域の目が反映される。
『孟子』告子編は、斉桓公、晋文公、秦穆公、宋襄公、楚荘王とする。彼らは「三王の罪人」とされる。『孟子』は戦国斉につかえた。春秋斉を批判しつつ、田氏の革命を正統化する。晋文公は、韓魏趙に分割されるので、批判される。楚荘王は鼎の軽重をとうバカ。

ぼくは思う。五覇は、ほめる意味じゃない。キャラだちすれば、歴史上人物としては勝ちである、みたいな認識で、春秋五覇を論じてはいけない。

『孟子』のころ、すでに越家は滅びて、瑯邪で戦国斉に保護されていた。だから越家について、五覇にカウントして、いじめる必要がなかった。

『荀子』王覇編は、「信が立つ」者として、斉桓公、晋文公、楚荘王、呉王闔閭、越王勾践をあげる。これらは、楚家をのぞいて、荀子の時点で滅亡していたのが重要。滅亡した国をほめても、支障がない。ただ1つ滅びていない楚家は、荀氏が仕えた国である。
漢代になると、『白虎通』のように、数々の論を併記するようになる。地域性がなくなる。その代わりに、諸侯は天子に朝見せよ、覇者は朝見を促進するものだ、という意味が付け加わった。

『孟子』があげた宋襄公について。
『左氏伝』では、敵軍に川を渡らせて敗北する。なぜ『孟子』が五覇にカウントしたのか、わかりにくい。彼だけ武勲がない。だが記されないだけで、殷家の故地で、勢力を持っていたはずだ。
戦国宋では、宋偃王が即位して、春秋斉ときびしく対立した。殷紂の悪口をたたかれた。宋襄公が五覇にカウントされて批判されるということから、宋家の領内では、宋襄公の武勲の伝説が行き渡っていたと推論できる。

春秋期を理解するには、戦国期の状況を理解する必要がある。戦国諸国の要請に基づいて、春秋期の歴史が記されたのだから。130525

ぼくは思う。まさに、ここに尽きた!ついでに、漢代の儒学の変遷まで理解しておかねば、『春秋』三伝を読むことができない。重層的な泥沼である。
ぼくは思う。一治一乱の錯覚。『三国演義』冒頭に一治一乱の歴史観が語られる。『演義』の細かなの事件は、史書と照合して虚構性を吟味できる。だが一治一乱の虚構性には気づきにくい。いや『演義』のみならず、正史類を作成する人たちまで、一治一乱の虚構の虜。史書との照合では、虚構性には構造的に気づけない。
夏殷周は統一された「治」で、春秋戦国期は「乱」。秦漢は「治」、三国は「乱」。この認識だと「治」を安定させられなかった魏晋が失敗者に見える。だが夏殷周は「治」じゃない。夏殷周の「治」を除外すると、秦漢が(1回性という意味で)奇跡的な「治」である。奇跡の再現を魏晋に期待するのは過酷。
夏殷周が統一政権に見えるのは、敵対勢力を平定したからでなく、敵対勢力を記録する手段(漢字)がないから。せまい都市国家の支配者という意味で、夏殷周は群雄の1つでしかない。夏殷周は、春秋期と同等の(もしくは春秋期以上の)「乱」の時代。漢家の正統化のため夏殷周は「治」に脚色されたけど。
いま書いた中国古代史の認識に関する問題を、個人の成長に例える。自己イメージを構築できない中学生が「乳児のオレは優れていた。今日のように悩まず、自己イメージが統一できていた」と回顧するのは滑稽。乳児は、悩むべき言語も記憶力もないだけ。漢末以降の人が、夏殷周を統一王朝の理想として回顧するのは、同種の錯誤だと思う。
この本で平勢氏は、戦国期の要請により、夏殷周がゆがんでいることを論じた。だが「実際はどうであったか」を、利害関係の要請ぬきで検討するのは、それ自体が特異なイデオロギーの配下における活動である。なぜぼくらは、夏殷周の実際を(まったく利益にならないのに)知りたいか。ウェーバー『職業としての学問』で、利益や名誉とは切り離して、研究をせよと書いてあった。おそらくウェーバーの指摘は正しいのだが、「なぜそんなことをしなければならないか」に答えるのは難しい。少なくとも夏殷周の記録は、職業としての学問(とそれに準じる、趣味としての学問)をやる人たち向けには、書かれていないということだ。前提がちがう。むしろ「おかしいのは、ぼくらのほう」という認識のもと、戦国期の史料を読みたい。
あ、ちょうど目についた。
@nakazawa_quotes はいう。ぼくらがなぜ縄文文化に関心をもつのか、縄文の旅を続けるのかというと、新石器文化がもっていた可能性を考えたときに、現在あるような方向性ではないものがあり得たということが、手につかめる感触として日本列島のなかに残っているからなんですね。~『縄文聖地巡礼』

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