表紙 > -後漢 > 『通俗三国志』で袁術を抜粋、原文と比較する

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洛陽と荊州での袁術(巻1-巻4)

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落合清彦校訂『絵本通俗三国志』(第三文明社、1982)を引用しながら、原本(李卓吾本)と、和訳(湖南文山)における、袁術を比較します。
比較した結果、何も変わってないじゃん!という結末もあり得ますが、それはやってみてのお楽しみ。これを書いている現段階では、まだわかっていません。
原本は、早稲田大学がウェブ上に公開している、
李卓吾先生批評三国志. / [羅本] [撰] ; 李卓吾 評
を参考にしました。写真を見ました。

なお、むかし、『三国演義』毛宗崗本から、袁術を抜粋した。 『三国演義』の袁術の記述を集め、物語の演出手法を指摘する
今回は、その『通俗三国志』バージョンです。テキストが落ちてないから、自分で入力します。

巻1 何進 十常侍を殺さんと謀る

曹操がいわく、「今日の計(はかりごと)まず君の位を正して、その後に賊(十常侍)を討ちたまえ」。何進がいわく、「たれか我がために、君を正して賊を討たん」

袁氏の初登場は、黄巾のあとです。

ときに1人すすみ出ていわく、「それがし願わくは5千の精兵を率し、新君を冊立(かしずきた)てて、ことごとく内官を誅せん」
諸人これを見れば、その人、貌相魁偉、行歩 威ありて、四世三公に登り、門下に故吏おおく、武芸 群を超え、汝南汝陽の人にて、漢の司徒 袁安が孫、袁逢が子に、袁紹 あざなは本初。ときに司隷校尉なり。_043

袁紹がいわく、「(何進)将軍かたく(何太后のもとに)行かんと思しめさば、われらみな兵をひいて、あい従わん。曹操も来たりたまえ」とて、2人きびしく甲(よう)して、精兵5百余を弟の袁術に領せしめ、青瑣門外に陣をとらせて、袁紹と曹操とは1百余人を従え、何進を守護して内裏に入る。_056

李卓吾本では、袁術について注釈がくわしい。こんな感じ。
この日、袁紹と曹操は、おのおの宝剣を帯びて、精兵5百を選び、弟を喚んでこれを領させた。袁紹の弟、同父で異母。姓は袁、名は術。あざなは公路。孝廉に挙がり、身を進める。折衝校尉、虎賁中郎将を授けられる。この日、袁術は正副すべての精兵をあずかった。5百をひきい、青瑣門外に布した。
『通俗三国志』は、日本人には知識のない、官職の制度について省いてしまった。袁術は、正式な官僚というより、ただの袁紹の補佐になっている。
ちなみに、毛宗崗本では、『通俗三国志』なみに簡略である。袁術の肩書はなく、ただ袁紹の弟とのみ書かれている。袁術の余計な情報は、『三国演義』が洗練されるほど、削ぎおとされるのだ。


袁紹これ(何進の殺害)を聞いておおいに怒り、「内官なにとて大将軍を殺したるぞ。寄せや者ども、悪党を逃すな」とののしりければ。何進が大将に呉匡という者、青瑣門に火をかけたり。これを見て袁術が5百の勢ことごとく宮中に乱れ入り、老小男女をわかたず、あたるを幸いに斬ってまわる。
袁術、曹操 2人、剣を抜いて深宮に入りければ、樊陵、許相、内より走り出て、「狼藉するな」と呼ばわるところを、袁術とびかかりて斬りころす。趙忠、程璜、夏惲、郭勝 4人は、きびしく追われて、翠花楼の上に走りけるを、袁術追いかけて火を放ちければ、4人 こらえかねて楼の上より飛びけるを、いちいちに斬り殺せり。

ここで挿絵。「袁術、翠花楼に火をはなつ」というキャプション。袁術が樊陵を踏みつけて、剣を振り上げる。樊陵の首元から血しぶきがあがる。許相は、すでに胴と首がはなれて、ころがる。曹操は趙忠をおさえて、剣をふりあげる。
ぼくは思う。袁術と曹操は、スタート地点にて、肉体労働の共同作戦を、いっしょにやった。戦場を共有した、仲間である。判断力のあやしげな何進と袁紹のもとで、曹操は正論を吐きつづける。その曹操とセットで動く。袁紹の頭脳が曹操、袁紹の手足が袁術、という位置づけである。どちらも袁紹の風下だが、これは袁紹が何進と近いからかな。
李卓吾本では、ちょっとグロが増える。
袁術、曹操、関を斬り、内に入る。樊陵、許相、殿を出て大呼する。無礼を得ず。袁術は立ちて2人余を斬る。みな奔走する。趙忠、程璜、夏惲、郭勝 4人は翠花楼の上にのぼる。(袁術が楼に)放火すると、みな楼を飛び下りる。楼前にいる袁術は、彼らを肉泥とする。
毛宗崗本では、李卓吾本から変化なし。評として、「袁紹軍は、宦官を容易に圧倒するほど強いのに、なんで外兵(董卓)を呼び寄せたんだよ」と疑問が書いてある。たしかにw


巻2より、華雄との戦い

曹操が諸国に触れたる檄文にいわく、、
これを見て国々の諸侯、兵をおこす人びとには、
第1鎮 後将軍 南陽の太守、袁術、あざなは公路。

李卓吾の注釈かで、「このとき、まだ漢の天下である」とある。諸侯が集まったので、いかにも乱世っぽいが、じつはまだ後漢代ですよ、という読者への注意だ。
袁術の肩書には、「豪傑と交遊し、英雄と結納する」とあり、そのあとに、後将軍、南陽太守とつづく。『通俗三国志』は、袁術のキャラをはぶいてしまった。
まあそれは、ほかの諸侯も同じだけど。
袁紹は「四世三公、門に故吏は多し。祁郷侯、勃海太守」という肩書である。四世三公の政治資本は、すべて袁紹に集まっているというのが、『三国演義』の設定。袁術のキャラ設定は、政治資本の継承者ではない。袁紹の補佐のくせに、なんだか増長しやがった、という感じ。
このあたりが、数百年来の「誤解」のもとなのだ。史書を見比べていくと、袁術と袁紹のキャラが逆転しているような感じ。将軍としての勇猛さと、英雄との人脈(社会関係資本)だけを強みに、政治資本のなさを補ったのは、むしろ袁紹だろう。もちろん、単純に『三国演義』の二袁を反転させれば、史実になるというわけではない。
真・三國無双で、袁紹は「名族が、名族が」という。これは、『三国演義』からのイメージなのかな。袁紹が、袁氏のなかでも亜流であることを確認するため、みんなは少なくない時間を費やしてしまったw
毛宗崗本では、このキャッチコピーは消えてしまう。
『絵本通俗三国志』では、袁術が画面の中央にいる。さすが第一鎮。袁紹が上座の中央、袁術が下座の中央にいて、その他の諸侯が左右をかこむ。曹操はいない。鎮に名がないからね。


酒宴、数刻におよんで袁紹 申しけるは、「われ諸人を圧(お)す心なし。汝ら、われをもって盟主とす。功あるものはかならず賞し、罪あるものはかならず罰せん。国に常刑あり、軍に規律あり。おのおの慎んで、怠ることなかれ。わが弟の袁術は兵糧を奉行して、諸大将にわかつべし。たれかまた先手にすすんで、汜水関を攻めやぶらん」。長沙の太守 孫堅がいわく、、

李卓吾本では、袁紹が袁術に「兵糧に欠乏が出ないようにしろ」と命じる。毛宗崗本でも、この釘さしがある。『通俗三国志』では、このセリフが省略される。のちに袁術が、兵糧の配分を怠ることへの牽制である。伏線である。袁術は、軍の規律、与えられた役割をやぶった。袁紹に罰せられても仕方がないことをした。
「欠乏させるな」は、『通俗三国志』に省いてほしくなかった。
まあ正史では、袁術は、袁紹たちの盟約の場所に参加していない。袁紹の命令を聞かない。袁紹の兵糧は、韓馥さんが面倒を見てくれる。


華雄 兵を下知して雨のふるがごとく射させければ、孫堅も兵をおさめて、梁東に陣をとり、胡軫が首を袁紹が本陣に送り、袁術に告げて兵糧をもとむ。
ある人 孫堅を恨むことありて、袁術に私語(ささやき)けるは、

李卓吾本では、孫堅が恨まれたという記述がない。ただ「そしった」とあるだけ。『通俗三国志』が、物語をわかりやすいように、恨みという動機を設定した。
李卓吾本では、「小人がことを誤らせるには、いつもこんなふうだ」という評がついている。孫堅をそしった人なのか、それに乗っかった袁術なのか、どちらが「小人」と書かれているのかは、わからない。おそらく、両方なんだろう。

「孫堅は江東の猛(たけ)き虎なり。もし洛陽をやぶりて董卓を殺しなば、かならずまた、禍いをなさん。これ狼をのぞいて、虎を得るなり。しかじ、いま兵糧につまらせて、みずから乱れ散るようにしたまえ」と讒言しければ、袁術 げにもと思い、ついに兵糧をあたえざりけり。

李卓吾本では、評に「袁術可恨或有天在未可知也」とある。
毛宗崗本では、「袁術は誤った。恨むべし、恨むべし」とある。物語が洗練されるにつれ、袁術が単純なバカ扱いになってゆく。『通俗三国志』でも、とくに袁術の胸中をおしはかることはない。

これによりて孫堅が陣には、兵糧にことを欠いで、軍中おのずから乱れ疲れ、怠りていたりしかば、華雄が勢(せい)この体(てい)を見て、急に李粛に報ず。

袁紹がいわく、「たれか行いて、この敵(華雄)を破らん」
たちまち袁術がうしろより、武勇の誉れとりたる兪渉といえる大将すすみ出て、「それがし願わくはゆかん」とて、兵をひきいてうって出て、戦い3合ならざるに、華雄に一刀に斬って落とされたり。敗軍 走りかえりて、その由(よし)を告げければ、一座の諸侯おおいにおどろく。

李卓吾本では、袁術の背後より、驍将の兪渉が転出する。兪渉は「小将、願わくは往かん」という。袁紹は喜び、兪渉は出馬した。即時に報告がきた。「兪渉は華雄と交戦して、3合にも満たずに斬られた」と。
ぼくは思う。伝聞であることが異なる。『三国演義』では、関羽が華雄を斬るときも、関羽が華雄を斬る場面は描かれない。カメラが戦場にないことで、華雄の強さ、関羽の強さが表現されている。
『通俗三国志』は、その趣向を無視して、ふつうに描写&説明してしまった。
毛宗崗本は、李卓吾本とおなじ。


袁術これ(立候補した関羽が、馬弓手に過ぎないこと)を聞いて、おおいに怒り、「汝は国々の諸侯に大将なきをあなどるか。馬弓手の分として、いかでか進み出でて舌をうごかす。寄れや者ども、この曲者を乱棒にうち出だせ」と、ののしりければ、

ぼくは思う。袁術は、兪渉が殺されたので、怒っているのだ。袁術は、直情タイプの将軍として、単純化されている。官歴を消去されて、ただ曹操とともに宦官を斬り刻む、残酷なやつである。袁紹よりも、血統が本流に近いことも、書いてない。
袁術は、皇帝の捜索などの重要な局面には、からんでこない。「袁紹がいかに政策を判断するか」という、頭脳シーンにも出てこない。もっぱら、曹操が活躍する。正史において、袁術が出てこないこと(だって別行動だもん)が、袁術には重要な会議に参加する資格がないことに、置き換えられてゆく。

曹操 急にいさめていわく、「しばらく怒りをやめたまえ。この人すでに大言を吐きいだせる上は、さだめてその身の覚えあらん。こころみに出でむかわしめ、もし勝たずんば罪をただしたまえ」
(張飛が洛陽に進軍して、董卓を生け捕ろうというので)袁術おおいに怒っていわく、「国々の諸侯高官の名将もみずからゆずりて口を緘(とず)るに、なんじら県令の手下にいて、いかでか、さること、あるべき。追ったてて、うち出だせ」とののしりければ、曹操いさめていわく、「すでに功あらば恩賞すべし。なんぞ貴賤のわかちあらん」
袁術がいわく、「もしこの奴ばらを用いたまわば、われは必ず本国にかえるべし」

李卓吾先生は、袁氏の兄弟は、関羽をあなどるという「鄙陋」を恥じるべきだという。
李卓吾本で曹操は、「公路は怒りを息(やす)めろ」という。あざなで呼んでる! きっと『通俗三国志』は、あざなで呼ぶと、誰が誰だかわからなくなるので、わざと呼びかけをなくした。袁術の登場シーンで、あざなが紹介されていなかったし。
ツイッター用まとめ。曹操が袁術をあざなでよぶ。『三国演義』の氾水関で、関羽が出しゃばるので、袁術は諸侯を代表して怒った。曹操は「公路は怒るな」となだめる。だが『通俗三国志』では、袁術はあざなを呼ばれない。訳者が読者に配慮して、袁術のあざなを紹介しない&話中に登場させないから。印象が、かわるのになあ。
李卓吾はいう。「袁術は俗物である。なぜ張飛が殺されねばならないか」と。
ぼくは思う。『三国演義』というのは、上昇の物語なのね。これを製作や愛読した士大夫は、政治の第一線にいない。だから、「こんなもの」に熱中する時間がある。また庶民も、虐げられている。だから、袁術は、関羽と張飛をけなすことで、恨まれ役をひきうけた。袁紹は、物語の進行のため、ちょっと出番がおおい。典型的な憎まれ役は、袁術のほうが便利である。あんまり袁紹のキャラを崩壊させると、官渡の戦いまで引っ張れなくなる。
悪役のはずの曹操ですら、袁術を「いさめる」のが役割。曹操や劉備は、董卓と戦っているように見えて、袁氏とも戦っているのだ。事実として、のちに袁術と袁紹を倒すところから、曹操と劉備が主役として、本格的にまわり始める。
毛宗崗本はいう。袁術と袁紹は、まことに「難兄、難弟」であると。やっかいな兄、やっかいな弟。もしくは、兄がやっかいなら、弟もやっかい。
毛宗崗本はいう。関羽は、王、帝となる。袁氏は四世三公だが、関羽のほうが上位になるのだ。ぼくは思う。そんなこと言ってもねえ。袁術は、目上の者を罵倒する、滑稽なやつという役回りでもあるのか。


巻2より、呂布との戦い

(呂布が強いので)8か国の諸侯、

8か国とは、王匡、鮑信、橋瑁、袁遺、孔融、張楊、陶謙、公孫瓚である。

みな肝をひやす。

李卓吾本はいう。袁術は四世三公のくせに、呂布の前で退却して、呂布に挑戦しない。笑うべきである。
ぼくは思う。袁術は、この戦場にいたのか?
ツイッター用まとめ。虎牢関の呂布vs袁術。『三国演義』李卓吾本と毛宗崗本で、袁術(の部将)は呂布に挑まない。両方のバージョンとも、編者は「袁術は四世三公のくせに、呂布から逃げた。笑ってやれ」という。だって袁術は虎牢関にいない。袁術を、袁紹の同盟軍のなかに置いたのは『三国演義』の編者だ。自分のツメの甘さを笑ってどうするの。袁術を、この戦いに巻き込むなら、首尾一貫して、巻き込んであげなさい。不在を笑うなら、袁術を同盟軍のなかに、置かないでw


孫堅(袁紹から)命をうけて、みずから程普、黄蓋らをともない、袁術が陣に行いて対面し、誓いをなして申しけるは、

李卓吾本で孫堅は、ツエで地面に図をかく。『通俗三国志』は、孫堅の身ぶりを、見えなくしてしまった。映像化するなら、この省略は痛恨です。
李卓吾いわく、「孫堅はこのようなところで、きわめて袁術に「○」していたのだ」と。印刷の漢字がつぶれてて、読めませんでした。
毛宗崗本はいう。袁紹は孫堅に進軍せよと命じた。袁術が兵糧を送らなかったのを責めないのは、まことに笑うべきことである。ぼくは思う。袁紹と袁術が、癒着して怠慢なのでない。もともと、袁術は袁紹のもとにいない。フィクションで、袁術を袁紹の下に移動させるなら、ちゃんと落とし前をつけないと。物語も、劉備と呂布の戦いと、前後関係がぐちゃぐちゃである。

「われ董卓ともとより讐(あた)なし。いま兵をおこして、みずから矢石をおかし、命を惜しまず戦いをはげむものは、上は国家のために忠をつくし、下は百姓の苦しみを救わんがためなり。しかるに足下、人の讒を信じて、兵糧をおくらず、それがしに敗軍させたもうは、いかなるゆえぞ」と責めければ、
袁術 答うべきことばなく、おおいにおそれて、

原文では、袁術は「惶恐無言」である。

さきに讒言したる者をひき出だし、その首を斬って謝しければ、孫堅これに心 足って酒宴をなして居たるところに、手下の兵(つわもの)走りきたり、「虎牢関より騎馬の客 2人きたり、孫将軍に会わんと申し候」と告げければ、孫堅すなわち袁術にわかれて、わが陣にかえり、「なんひとぞ」と問うに、「すなわち董卓が大将に、李傕という者なり」と答う。

巻3より、袁紹や劉表と対立する

このごろ(袁紹と公孫瓚が趙岐により和睦したころ)南陽の太守 袁術は、兄 袁紹が冀州を得たりと聞いて、冀北の名馬 1千疋を所望しけるに、袁紹 1疋をも与えざりければ、心の内おおいに怨んで、これより兄弟 不和となる。

毛宗崗本はいう。曹氏の兄弟は、曹洪が命がけで曹操をすくうなど、兄弟で協力した。袁氏の兄弟は不和である。袁氏と曹氏の優劣は明らかである。

袁術また荊州へ使いを立てて、太守 劉表に、兵糧米 20万石を借らんというに、劉表 あえて1粒も与えざりしかば、怒りをふくんで、ひそかに呉の孫堅が方へ書簡を送り、ともに荊州を攻め取らんという。
その書にいわく、
異日、印を奪い、路を截つは、乃ち、わが兄 袁紹が謀なり。いま、紹また表と相ひ議し、兵を起こして江東を襲う。われ言すに忍びず。公、すみやかに兵を興して、荊州を取るべし。われまさに、ともに助くべし。

李卓吾いわく、「袁術は小人なり」と。元も子もない!
ぼくは思う。『三国演義』はアンフェアだと思う。だって、かってに袁術を「袁紹の兵糧係」にして、「袁紹が袁術を罰しないなんて、変なの」という。袁術が袁紹に兵糧を要求したことは、少なくとも正史にない。だが兵糧を依頼し、さらに断られるフィクションをつくって、その後の袁術の行動をバカにする。自分でつくった架空の設定に、自分でつっこむなんて、最低だ。『三国演義』は伝承され、版本が変遷するうちに、なにが正史で、なにがアレンジなのか、『三国演義』の編者すら見失ったのだろう。
ぼくは思う。手紙なので、原文はもっと難しいのかと思った。正史では、手紙は読むのがタイヘンだと、相場が決まっているのだ。でも『通俗三国志』は、ほぼ書き下し文だった。過不足がない。つまらない。

さしはさんで袁紹を攻めば、2讐 報ずべし。なんじ荊州を得、われ冀州を取らん。しきりに誤つことなかれ。

ぼくは思う。今日はそういう場じゃないが。まことに地理がめちゃくちゃ。まず孫堅は、呉郡に帰らない。荊州で袁術のもとにいるから、文書を送らなくてよい。孫堅が呉郡から荊州を攻めるというのは、やたら話がおおきい。また、袁術がいきなり冀州を攻めて、孫堅と連携できるはずがない。
毛宗崗本はいう。袁術は、さきに兵糧を送らずに、孫堅を敗れさせた。いま、袁紹に腹をたてて、誤って孫堅を死なせた。怨むべし。ぼくは思う。たしかに、孫堅を二袁の戦いに巻きこみ、理不尽に殺したように見えるなあ。
毛宗崗本はいう。「誤つことなかれ」というせいで、のちに孫策は袁術に投じる。

孫堅この書を見ておおいに喜ぶ。程普 諌めて申しけるは、「袁術もとより詐(いつわり)多きものにて、その詞(ことば)ついに信(まこと)なし。軽々しく、したまうことなかれ」

ぼくは思う。地理がめちゃくちゃだしね、詐欺だよね。

孫堅がいわく、「われ常に荊州を攻めんとする心あり。かならずしも人の助けを待つにあらず」とて、黄蓋を先手として、兵船5百余艘を江に浮かべ、日をえらんで進まんとす。

巻4より、劉備が袁術に徐州を贈りたい

陳登 申しけるは、「太守(陶謙)年老いて、病おおく、事を治むることあたわず。ここをもって国を禅(ゆず)る。君かならず辞することなかれ」
玄徳のいわく、「袁術は4代三公の家にして、天下の望み、この人に掛かれり。いま寿春にあり、何ぞこの国を譲りたまわざる」
陳登がいわく、「袁術は、人におごりて、乱を治むる主にあらず。いま徐州は精兵10万、上は君を正し、民を救い、下は地をかぎりて界を守るべし。君なんぞ受けたまわざる」
孔融かたわらにあって申しけるは、「袁術は塚中の枯骨、あに言うに足らんや。今日のこと、天の与うるを取らざれば、のち必ず悔いあり。玄徳公、かならず辞したまうな」 130428

ぼくは思う。なんと! 毛宗崗本にはこの話が採用されていない。『通俗三国志』が李卓吾本を原本としたという証拠が、ここでひとつ見つかる。すごいなあ、見つけたなあ!
ツイッター用整理。劉備が「袁術は四世三公だから」というと、孔融が「袁術は塚中の枯骨だから、徐州を任せられない」という。『三国演義』李卓吾本にあり、『通俗三国志』にあるが、『三国演義』毛宗崗本にはない逸話。正史にはあるけど。『通俗三国志』の原本が、李卓吾本であることの状況証拠になるなあ。

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巻7より、「袁術7路 徐州を攻む」

李卓吾本からの変更点が少ないと、つまらないので。いちばんの名場面を先にやる。もし『通俗三国志』に独特の演出があったら、さかのぼって、他の場面をひろいます。

袁術が皇帝に即位する

袁術は、淮南の郡県を横領して、地ひろく、糧(かて)おおし。これ皆、人民を掠めおびやかして、よこしまに富貴を得たるものなり。
ことさら孫策が預けおきたる、帝王伝国の玉璽ありければ、

李卓吾本では、「玉璽」とあるのみ。「帝王伝国」は、湖南文山が追記した。前回からの文脈に照らせば、おのずと明らかなのだが、親切設計なのだ。

皇帝の位に即かんとて、九重の宮室をつくり、車輦(しゃれん)冠冕(かんべん)等まで一斉にそなわりければ、手下の大将をことごとくあつめて、
「むかし、漢の高祖は、泗上の亭の長たりと聞きしが、4百余年の帝業をはじめて、今日まで伝えたり。しかれども、天数すでにつきて、劉氏微弱、四海 鼎のごとく沸く。わが家は4代まで三公にのぼって、百姓の帰するところ、たれか心を寄せざらん。

李卓吾本では、「四世公卿」である。日本史でも「公卿」というが、三国志の場合はちがって、「三公」を意味することを、湖南文山は心得ていたのか。日本史の「公卿」という官制は、中国史に由来するんだけど、とりあえず違うことは違う。

われ天に応じ、命に順うて、九五の位に登らんと欲す。汝もろもろの臣、よく忠孝の節をはげまし、朕を輔けて、政をおこなえ」
と言いければ、主簿 閻象というもの諫めて申しけるは、
「昔、周の后稷(始祖)より文王におよぶまで、功を累ね、徳をつみたまいしかども、天下を三分にしてその二をたもち、なお殷の中央につかえたまえり。いま君、まことに累代よく昌んなりと申せども、周の盛んなるにしかず。漢室 衰えたりといえども、いまだ殷の紂が悪逆にいたらず。この事 決してよろしからじ」

ぼくは思う。天皇制をもつ日本では、袁術はかなり危険な発言(と見なされかねない)が、このあたりはドライだ。閻象のセリフも、とくに脚色されない。漢室に天皇制を投影する、現代日本の作家はいるけれどもw


袁術 申しけるは、「われ袁姓にして、陳の国より出でたり。陳はすなわち、大舜ののち。土をもって火を承(う)く。その運に応ぜり。わざあざなは公路、讖の文に、漢に代わりて塗(みち)に当たること高し、といえり。

ぼくは思う。湖南文山は、「当塗高」を、なにか地の文として意味があると思ったらしい。
ぼくは思う。『演義』の話じゃないが。禅譲の正統性と、禅譲後の政治の安定性は、べつの議論である。前に王莽の研究書を読んでいて思った。王莽は禅譲後の組織を用意せずに、禅譲に飛んだ。曹魏は周到に用意した。「曹魏が成功したのは、禅譲後の組織が充実していたから」とは言えまい。袁術でも同じこと。

いわんや伝国の玉璽あり。もし帝位に即かずんば、かえって天道に背かん。わが心すでに決せり。ふたたび諫むるものあらば、かならず首を刎ねん」とて、

李卓吾本「斬る」が「首を刎ねる」になってる。後漢の人々が処刑するとき、必ずしも首を刎ねないかも知れないが、日本の軍記物の読者は、首を刎ねてほしいのかw
もとの『演義』からして、裴注『典略』を水増ししてある。
典略曰:術以袁姓出陳,陳,舜之後,以土承火,得應運之次。又見讖文雲:「代漢者,當塗高也。」自以名字當之,乃建號稱仲氏。

号を仲氏と建てて、台省官府をつくり、龍鳳の輦(てぐるま)にのりて、

李卓語本では「台省等」とある。意味不明を恐れて「官府」を補ったのだろう。
李卓吾本はいう。龍鳳のぜいたくは「醜きこと甚だし」と。えー。

南北の郊に祭り、馮氏の女を皇后として、

李卓吾本では「馮方の女」である。馮方と言っても、初出で誰だか分からないので(あとで効いてこない)湖南文山が省いたようだ。

後宮の美人 数百人、衣服みな錦繍をかさね、器用 金玉をみがく。

李卓吾本では「奇珍、美味を飲食す」とある。はぶいた。ぜいたくな描写は、もう充分だと、湖南文山が判断したらしい。


諸人 賀(よろこび)をのべて、すでに帝業 成就せりとて、嫡子を東宮とし、呂布が女をめとって、ともに好(よしみ)を結ばんとて、しばしば使をつかわすに、呂布かえって曹操に一味して、媒人の韓胤を市に斬って、

李卓吾本では、許都で斬られる。湖南文山は場所をはぶく。
李卓吾本では、「呂布は曹操から、平東将軍にしてもらっており」とある。平東将軍といっても、日本の読者にわからないから、湖南文山がはぶいたのだろう。

その外の使を皆、首を刎ねたりと聞いて、おおいに怒り、二十万の勢をおこして、七手にわかつ。

20余万の袁術軍が進発する

第1、大将軍 張勲。

李卓吾本では、「張勲を大将軍にして、20余万を領して、徐州を攻めさせる。第一は大将軍で、中軍である」という語順である。いま『通俗三国志』では、重複を避けてか、言葉の順序を変えてある。張勲が全体の統括であることが、見えなくなってる。

第2、橋蕤。第3、陳紀。第4、雷薄。第5、陳蘭。第6、韓暹。第7、楊奉なり。

李卓吾本では、もっと詳しい。第1路は、大将軍の橋蕤が中軍。第2路は、上将の橋蕤が左軍。第3路は、上将の陳紀が右軍。第4路は、副将の雷薄が左軍。第5路は、副将の陳蘭が右軍。第6路は、降将の韓暹が左軍。第7路は、降将の楊奉が右軍。
『通俗三国志』では、彼らの肩書および上下関係と、どの路を進んだかが分からない。大将軍と降将の区別がつかないのは、いかんと思う。きっと湖南文山にとって、どうでも良かった。日本人が袁術を軽視することの起源であるw


日をえらんで、うち立ちければ、兗州の刺史 金尚を太尉に任じて、7路の兵糧を奉行させんと言うに、

李卓吾本では「銭糧」を任せようとしてる。「銭」では、雰囲気が壊れると思ったのか、なくなっちゃった。

金尚いかが思いけん、かたく従わざりしかば、袁術 怒って金尚を殺し、大将 紀霊を7路の都救応使(遊撃隊長)とさだめ、みずから李豊、梁剛、楽就らと、精兵3万余騎を率して、後陣につづきける。

ぼくは思う。紀霊は7軍に入ってなかった。紀霊は袁術の直属なのだ。李豊らも直属なのだ。という、軍隊の構成を『演義』から読み取って、どうするのだ。
李卓吾本に「都救応使」とあるが、これって、ひとまとまりの名詞じゃないよな。落合清彦氏が「遊撃隊長」と注釈しているから、まあそんなものだと思うんだけど。漢字の意味を見るかぎり。


袁術が大軍、徐州へむかうと聞こえければ、呂布 肝を冷やし、「その様を見て参れ」とて、早馬をつかわしけるに、やがて馳せかえりて申しけるは、「袁術みずから後陣に備えて、先手の勢を7路に分かつ。張勲が1軍は、ただちに徐州の大路にかかり、橋蕤が1軍は小沛にかかり、陳紀が1軍はキ都にかかり、雷薄が1軍は瑯邪にかかり、陳蘭が1軍はカツ石にかかり、韓暹が1軍は下邳にかかり、楊奉が1軍は峻山にかかり、1日にみな50里の路をうって、民屋を虜略(りょりょう)し、

ぼくは思う。瑯邪はだいぶ北なんだが。この地名は、どこまで地図に落とせるのか。現実的なのか。さっきの、中軍と左軍と右軍という構成は、守られているのか。ともあれ、「すごい勢いで徐州の各地を征圧する」という、メタ・メッセージが伝われば良いのか。
李卓吾本には「民屋」がない。「路で」とあるだけ。袁術の悪辣さが、より具体的にイメージできるようになりました。
ぼくは思う。袁術が「当塗高」と「公路」を正統性とした。その直後、「第1路は、第2路は、7路で大路にかかり、路を打って」と「路」の文字を、くどくど連呼する。語調を整えることで、各方面から、景気よく進軍しているアピールなだろうが。読者はおのずと、「公路」は忌避しなくて良いのだな、と気づく。袁術の敗北を感じとる。ザツに扱って、リズムをとる程度の文字なのだ。

その勢い、あたかも卵を圧すがごとくなり」

ぼくは思う。李卓吾本には、卵の比喩がない。湖南文山が、のってきた証拠でしょう。ふつうのノリなら、各方面に展開する袁術軍なんて、省略しても良いのだ。どうせ正史にないのだし。


(呂布が焦るので)陳登 笑って申しけるは、「将軍なにとて、かほどまで懦弱なるぞ。それがし、いま袁術の勢を見ること、朽ちたる木を砕くがごとし」

李卓吾本では、「7路の兵は、7つの堆まれた腐った草」である。ちょっと分かりにくいので、湖南文山は、朽ち木にしたんだろう。草のほうが、木よりも弱そうだったんだが。
陳珪と陳登が、袁術をいかに倒すかという作戦は、『通俗三国志』と李卓吾本で、あんまり違いがない。はぶきます。


なんだか、あんまり違いがなくて、おもしろくないので、
また後日にします。130430

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