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(C)2007-2009 ひろお
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元は斉王家、法正の先祖たち 2)大国「斉」の呪い
法真(法正の2代前)
法真は、あざなを高卿という。扶風郡の郿県の人で、南郡太守の法雄の子である。
学を好んで、常家で無かった。
『後漢書補注』は『三輔決録注』を引用して、解説をつけている。法真は若くして五経に明るく、讖緯にも通じた。ジャンルを横断的に修得したから、学問に常の師はいなかった。学問をやる人は、家法とする(継承されて一派を形成する)ことが一般的だが、法真はそうではなかった。だから、「常ノ家ハ無シ」と綴られたのだ、と。
〈注〉
古い中国の学者ですら、他の史料を引いて意味を考えねばならんような難解を、書かないで欲しいものだ。ぼくはそう思います。。

法真はひろく内外(内とは七緯で、外とは六経)の図典に通じ、関西(関中)の大儒となった。遠方から来た弟子には、陳留郡の范冉らがいて、数百人に及んだ。
法真の性格は、恬淡として寡欲で、世間の付き合いをしなかった。
「お会いしたい」
扶風郡の太守が招くと、法真は幅巾をまとって出かけた。
「むかし魯ノ哀公は、不肖な人物であったが、孔子は彼の臣だと称した。私は虚薄(ふつつか)だが、あなたに功曹の役職をお願いして、本朝(この郡)を光賛したい(盛り立てたい)と思う。お気持ちはいかがか」
太守が訊くと、法真は答えた。
「あなたが礼をもってお待ち下さっていると聞いたので、私は賓客の末席に加わったのです。もし私を配下の役人としたいなら、私はすぐにでも、北山の北、南山の南に行くでしょう」
――世界の果てに去ったほうがマシだ。
法真がそう言ったから、太守は懼然と(びっくり)して、二の句が告げなかった。可哀想に。
〈注〉
賓客は主人と対等の立場で、衣食住が保証される身分。功曹とは、主人にあごで使われる代わりに俸禄をもらえる立場だ。たびたび「臣がイヤなら、客になってくれ」と、賢人を誘う話がある。この扶風太守が、それくらいの機転を利かせられたら、せめて名くらいは後世に伝わったかも知れない・・・

法真は三公府に辟され、賢良の科目で挙げられたが、就職しなかった。 同じ扶風郡の田羽は、法真を推薦した。
「処士の法真は、体に四業(『詩』『書』『礼』『楽』)を兼ねています。学は古典の奥義を窮め、幽居(隠棲)してアッサリしており、まさに老子の高潔な行状を再現しようとしています」
この同郷の人は、まだ法真を褒めたりない。姓が「田」というのが気になるが、遠縁なのか、もしくは斉王の末裔という法真の信者である。
「私は法真を三公にしてほしい。必ず聖なる朝廷にとって、大きなメリットとなります。さながら舜のテーマソングを演奏すると、鳳凰が聞きほれて現れたように、王朝は盛んになります」
順帝が137年に西方を巡幸すると、田羽は再び法真を推薦した。
「それほどの人物か。会ってみたい」
順帝は興味を持って、4回も法真を招いた。
法真は答えた。
「私はすでに形(からだ)を逃れて、世を遠ざかることが出来ません。どうして耳を洗った水を飲むのでしょう
何を言ったか分からないし、わざと分からないように法真が言ったんだろう。やっと切り離した害毒を、どうしてもう一度取り込まねばならんか、という意味か。やっと世間との関係を絶ちつつあるのに、もう俗事に引き込まないでくれ、と言ったのか。
法真はついに隠れて通信をシャットアウトし、皇帝の前に降り屈さなかった。
友人の郭正は、これを称えた。
「法真は、彼の名を聞くことは出来るが、身はお目にかかることが難しい。いくら名を遠ざけても、身に随ってくるものだ。百世の師といってもいい偉人だ」
法真がどれだけ孤高を願っても、高潔ゆえに有名になってしまうなあ、法真の思惑とは裏腹であることよ、とシャレたつもりだろうか。
郭正は彼が思いついたシャレがよほど気に入ったようで、石に文字を刻んで法真を称え、法真を「玄徳先生」と呼んだ。劉備のあざなと同じであることは、有名です。
188年、天寿にて89歳で死んだ。

『三国志』の所注には、法真が20歳になる前の逸話を載せている。
南郡太守の父を、徒歩で訪問した。帰ろうとすると、
「せめて元日まで留まれ。官吏がたくさん挨拶にくるから、彼らを観察して、人物を見極めてみてはどうか」
能吏となることを願っていた父だから、天才でありながら玄妙な雰囲気のある息子に、人事を手伝わせてみたくなったのだろう。法真は、窓越しに役人を観察した。
「曹掾の胡広には、公卿の器量があります」
後年そのとおりとなり、胡広は三公・九卿を歴任した。人々は、法真の人物眼を褒めた。

法真の子は、法衍で、あざなは季謀。司徒掾、廷尉左監となった。
さんざ引っ張ってきましたが、この法衍の子が法正です。法正は苦労人で益州に流れた。法正とペアを組んだ孟達は、父の孟他が張譲の奴隷に贈り物をして涼州刺史になったように、同じく苦労人です。中原出身なのに益州に行く人とは、たいてい運命が過酷なんだ。
祖父の法真が、順帝にそっぽ向くという大逆まがいのことをしたから、家は苦労した。家柄としては、順調に功績を重ねて、豊かになってもよかったのに。

この落ちぶれぶりを見たとき思うのは、『三国志』には、青州に一大勢力が形成されなかったことです。臧覇が曹操に委任されて、ただの兵站基地をケアするくらいの感じで扱われている。
春秋戦国時代に、「斉」が圧倒的な存在感を示して天下を狙えたのと比べると、かなり違う。秦があった関中は、長安があって重要な拠点となったのに、この落差は何であるか!
おそらく、劉邦が秦を継ぐかたちで西に帝国の求心を設定してしまったからだ。斉は、皮肉にも法雄が討伐に行ったように、「その他大勢の賊」が出没するようなフロンティアに転落してしまっている。
法正は、あの斉の御曹司だ。それなのに酷薄にならざるを得なかったのは、1000年規模の大国「斉」の恨みが渦巻いている。できるだけ関わりたくないね(笑)090312
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このコンテンツの目次
>後漢の「御三家」、章帝八王
1)質帝を出した長男家
2)よき兄、よき廃太子
3)皇帝を供給する家
4)最後の勝者