雑感 > 『反・反三国志』のあらすじ 2章

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5.延康二~三年、夷陵の戦いを修正する

前回までは、『反・反三国志』のあらすじ 1章
このワクでは、延康2年(史実の黄初2年)を扱います。

劉備が帝位に昇らず、夷陵に出兵する

延康2年、春正月、魏王の曹丕は鄴に帰った。
許都の守りは、曹植に任せておくしかない。これ以上、曹丕・曹植、すなわち『魏』と『漢』が接近すると、放電が起きて、大事故になりかねない。
関羽は、襄陽・樊城に留まったまま、許都を射程圏に収めている。劉封・蒋琬が房陵・上庸にいるから、漢中の魏延との連絡は万全である。魏延だけだと不安なので、費禕も漢中にきた。

史実で、魏延が楊儀と対立したとき、費禕がなだめてくれる。費禕は、史実で漢中に駐屯することもあるから、イメージにあう。魏延と劉封はともかく、蒋琬・費禕であれば、連絡をきちんと取れる。
三国時代の後期の配置を先取りするのは、『反三国志』である。


回想シーン。昨年(延康元年)末、成都で法正が瀕死になった。
法正 「曹丕が天子を殺して、禅譲を迫ったと……」
孔明 「そういう話もありました」
法正 「まことに喜ばしい」
孔明 「えっ!?(怒)」
法正 「孔明は、演技がうまくないな。喜んでいるくせに」
孔明 「わっ、私は……」
法正 「もしも曹丕が受禅すれば、わが王にも帝位に即いていただき、どちらが正義かを天下に示すべきだ。もちろん、漢の祭祀を継承した、こちらが正統である。できるだけ、曹丕が徳を失うような仕方で、簒奪をやってほしいものだ」

法正はブラック担当。

孔明 「そ、そんなの同意できませんからね」
法正 「くっくっく、孔明は素直だな」
延康元年のうちに、法正は死んだ。1年前、最晩年の曹操が、益州に深入して戦いを挑んできたので、法正は正面から戦った。寸土も失うことなく、魏軍を追い返すことができたのは、彼の作戦能力のおかげであった。功績は甚大である。

年が変わって、成都に「曹丕が禅譲に失敗した」と連絡が入った。
夏4月、孔明は(史実に反して)劉備に帝位を勧めなかった。費詩が反対するまでもなかった。劉備は、漢中王としての祭祀の手順を整えるに留めた。費詩が「不遜だ」と細かく反対したが、孔明が威信を集約するために、押し切った。
さて……、
関羽は、許都を狙い続けているが、魏軍に隙が見えない。曹丕・曹植が対立するかと思いきや、曹丕が我慢をしており、平穏だった。ウラで夏侯惇がバランスを取っていることまでは、蜀から見えない。
むしろ、曹操の生前よりも、漢の天子の権限が大きくなり、人事権を行使しているようである。漢魏革命が沙汰止みになって、三国鼎立は小康状態を得た。というより、先に手を出したほうが損をする、という三すくみになった。

……かと思いきや、軍人の劉備は鼻息が荒かった。
劉備 「曹丕も憎いが……それよりも許せないのは孫権である。どうして関羽・魯粛の盟約を破って、江陵・公安を奪ったのか。これでは関羽が後背に、刃を突きつけられたに等しく、許都を攻めるにも、踏ん切りがつかない」
趙雲 「国賊は、いまも天子を監禁している曹丕です。孫権ではありません。曹丕さえ倒せば、おのずと孫権は降ります。早く関中を図り、河・渭に居り流れを上りて以て凶逆を討つべし
劉備 「関中には、険阻な道のむこうに曹彰がいる。馬超が涼州を攪乱するには、もう少し時間が必要だ。関中を攻めろというのは、『別伝』に描かれた趙雲とは思えない、的外れな発言だぞ」
趙雲 「(史料に準拠して言わされた台詞に突っこむなよ……)」
孔明 「孫権が狡猾なのは確かです。信義を問いただすべきでしょう。しかし、関羽将軍が、許都を攻める機会を探っています。許都に兵力を集中すべきです(ところで龐統はどこに消えた?)」
劉備 「雲長だけに働かせ、私だけが安穏と暮らしていられようか」
孔明 「(ただ暴れたいだけか。それに加え、関羽に対する引け目もあるらしい)法正が生きていてくれたら、こんなことにならなかったものを……」
劉備 「一方的に同盟を破棄した、孫権を成敗する!(わが臣には荊州出身者が多いから、江陵を取り返すのは彼らの悲願である。「故郷に帰りたい」と面と向かって言えない、慎み深い臣たちのためにも、私が戦果をあげるのだ)」
広漢の秦宓など、
劉備の出師に反対する人々の台詞を史料から借りながら、あわや劉備が負けるかも?という伏線を張る。もちろん『反・反三国志』においては、蜀ファンがスカッとするのがコンセプトだから、劉備が負けたりしません。

ネタバレというよりは、定義・仕様なので。


ほんとうに退屈に倦んで、イライラしているのが車騎将軍の張飛である。漢中は魏延に任せたので、1年ぐらい戦っていない。関羽は許都に迫り、黄忠も南陽を支える。馬超は涼州で、のびのびと戦っているらしい。オレだって!という気持ちが強い。
目下のものに強く当たるから、劉備から戒められていた。

劉備のアドバイスだけでは、残虐な性格が矯正されないのは史実なみ。本作ゆえの独自の場面を設定して、張飛が成熟するチャンスを、夷陵にむかう前までに与えなければいけない。
(このように遡れるのが「あらすじ」を先に作ってる効果です)
曹操が益州に入ってきたとき(オリジナル展開)、張飛は、客将として迎えた厳顔とペアを組んで、曹操軍と戦った。続々と曹操軍に降る、もと劉璋軍の武将・軍県たち。張飛・厳顔は(なんやかんやで)絶体絶命のピンチになる。張飛は個人の武勇にものを言わせ、部下を叱責する。臆病者にはムチを振るう。逆効果で、いよいよ危ない。すると厳顔が、部下の傷口の膿をすするなど、へりくだった態度で人心を収攬・鼓舞する。張飛・厳顔は、おかげで危機を脱することが出来ました……と。
これ以来、張飛は、尊敬する厳顔を見習って、傷口を吸うのはムリにしても(虎髭が刺さるから)、部下をムゲに扱うことは慎むようになった。みずから手を汚して、不器用ながらも傷の手当てをした。心使いに感じ入って、張飛のために死ぬと誓ったのが、范彊!張達!のペアだと(笑)
……めでたしめでたし。厳顔に絡むことで、人間的に成長する張飛というのが、スカッとすると思うので、見せ場を作りたい。

江州にいる張飛は、白装束を揃える必要もないから(関羽が死んでない)、スケジュールに余裕をもち、范彊・張達のペアを左右に従えて、劉備とともに長江を下りました。

劉備が荊州に攻めこむ

延康2年、秋7月、劉備が孫権を撃つ。
南郡太守の諸葛瑾が、手紙を送る。「陛下 関羽を以て親なること、先帝と何如 殿下 魯粛との(国境を守るという)約束と、天子との(曹氏から救うという)約束とを比べたとき、どちらが重いのでしょうか」

関羽が死んでないから論法が変わってくる。しかし、史料を見ても、関羽と献帝を比較するなんて、まったく論理のすり替えだな。

諸葛瑾が、劉備と通じているという人がいたが、孫権・陸遜は退けた。諸葛瑾が諸葛亮との会見に臨み、諸葛亮が兄をいたわりながら、しかし国家の大義を明らかにするという、史実どおりの立場をとれば、蜀ファンはスカッとする。

劉備は、呉班・馮習をつかわし、巫県・秭歸を突破する。兵4万。馬良が武陵蛮を従える。 劉備が、曹操に徹底抗戦したのを知っているから、武陵蛮は史実よりもたくさんの兵を差し出す。
孫権は、陸遜を大都督・加節とする。(史実と違って関羽を攻めていないから)朱然・韓当・徐盛・孫桓らは、戦いに飢えている。呂蒙が騙し討ちにして、江陵を奪っただけなので、彼らには戦功が少ない。

はじめ曹丕は、劉備の動きについて郡臣に聞いた。
「劉備は、江陵を取り返すために、孫権と戦うかな」
郡臣 「蜀は小国であり、名将は関羽だけだ。関羽は北伐しており、益州は戦いを起こせる武将がいない。関羽が荊州中部に南下してくれたら、孫権との戦うが起こるだろうが(そうなれば魏にとってラッキーだが)関羽は許都を優先するだろう」
侍中の劉曄のみが、「益州には劉備がいる。劉備は、国力を強めるために兵を起こすだろう(と正しく見通す)。且つ関羽と備と、義は君臣為(な)れども、恩は猶ほ父子のごとし。一度でも関羽の背中をおびやかした孫権を、劉備は許さないだろう」

曹丕・孫権が対等な同盟

8月、孫権は使者を使わして、魏王に臣従を申し出て、于禁を送り返した。(本作で曹丕は天子ではないので)孫権を対等な呉王に推挙した。

戦国時代、秦と斉とが、西帝・東帝といった故事を持ち出すのだろう。曹丕は、史実よりも遜っているので、孫権との外交がうまくいきそう。もちろん孫権は、冷静な生存戦略として魏との同盟を結んだが、対等の国として扱われたら悪い気がしない。

劉曄 「孫権は理由なく降ってきた。劉備に攻められたからであり、本心ではない。いま魏は、天下の10分の8 天下の4分の3を領有している。呉と蜀は、揚州・益州の1州をもち、それから荊州を巡って争っている。険阻な地形に頼るだけで、どちらも小国である。ただちに長江をわたり、孫権を攻めろ。呉は旬月のうちに滅びるだろう。呉が滅べば、蜀は孤立する。もし劉備が呉領の半分を奪っても、安定的に支配することはできない。まして呉領のもう半分は、魏が取ることになる。そうなれば、蜀が呉の半分を加えたところで、容易に押しつぶすことができる」
曹丕 「人 臣を称して降れども之を伐たば、天下の来らんと欲する者の心を疑はしむ。且に呉の降を受けて蜀の後を襲ふに若かず。孫権は、漢の天子でなく、この魏王に降ると言ったのだ。これは先王が異民族の朝貢を受けたことに等しい(天子・曹植を圧倒するために、孫権という味方を外に作っておくことは得策である)」
魏王の曹丕は、呉の降伏を受諾した(史実なみ)

もしも曹丕が天下を統一するなら、劉曄の言うとおりである(史実では)。しかし、喉元の荊州北部を関羽に抑えられている現在、史実なみの曹丕の発言のほうが、バランス感覚に優れたものになる。もし孫呉を攻めている間に、関羽が北上したらどうなるか。魏は領土を支えきれない。
「孫権と対等に同盟する曹丕」、パワーバランスから見ても尊厳から見ても「曹丕との対等な同盟を憎からず思う孫権」という、史実よりもハッピーな展開が、劉備が史実よりも強くなることによって成立する。孫権だって、君主権力を確立するのが急務である。曹操の後継者である曹丕が(魏の国内での立場の弱さが原因であれ)対等の同盟を結んでくれるなら、歓迎したい。


于禁が帰った。白髪である。于禁は奮起して、「樊城の関羽を私が討伐する」と言い出した。曹丕 「分かりました。関羽を攻めて下さい。その前に、高陵で先王に詣でてきなさい」と思いやりを見せる。高陵には、于禁が関羽に降伏するイラストが書かれている。慚恚し病を発して死す(史実なみ)
劉曄は史実に準え、呉を厚遇しすぎ!と継承をならす。

曹丕は、楊彪を魏の太尉に迎えて(許都を切り崩そうとするが)拒否られる。「嘗て漢朝の三公と為り、世の衰乱に値ひ、尺寸の益を立つる能はず。若し復た魏臣と為り、国の選たれば、亦た栄と為さざる」という史実なみの台詞が、漢を中興する自信から発せられたものとなる。
10月、楊彪を客礼で迎えようとするが、拒否られる。楊彪は84歳で死んだ。漢における楊彪の地位は、楊脩が嗣いで、ますます曹植とともに意気が盛んである。

(馬超による撹乱が続くので)魏では、京兆尹の張既を涼州刺史にした。史実では、11月に河西が平らぐのだが、張既 VS 馬超という、曹操の時代からの因縁の対決がまだ続く。

史実の涼州の反乱を、本作における馬超の策動とひもづける。張既伝などに従って、戦いを描けばいい。史実よりも馬超が勢力を拡大する、という落としどころを忘れずに。


魏使の邢貞が、返書を呉に持ちこむ。
呉人 「九州伯となれ。曹丕のくれた呉王になど即くな」
孫権 「『九州伯』には出典がない。徐州伯(袁術)かよwww
張昭 「邢貞は下車しろ。無礼だろ」
瑯邪の徐盛 「盛等 能く身を奮ひ命を出し、国家の為に許・洛を並せ、巴・蜀を吞さず。而るに吾が君をして貞と盟(ちか)はしむ。亦 辱じざらんや」と。因りて涕泣・横流す。
邢貞 「江東の将相 此の如し。久しく人に下る者に非ず」
呉将たちの独立心を垣間見て、彼らが激昂する理由は、孫権が「降」という言葉を使ったことだと気づいたから、邢貞はとっさに説明する。
「あなたがたは誤解をしておられる。魏王は、対等の敵国としての外交を望まれ、私を遣わしたのだ。呉王と魏王。ほら対等でしょ」
張昭・徐盛 「ならば魏王は、われらが孫権を漢の天子に推挙して、王号を斡旋してくれたということか」
邢貞 「(曹丕は、漢の天子の意向を確かめずに決定したように見えた。しかし形式的には)その理解でよろしい(と答えるしかない。しかし呉王に封じたことの恩の発信源を、魏王から天子に移してしまった。魏の外交官として失格か)」
張昭 「漢臣としてこれほど嬉しいことはない」
徐盛 「使者どのは、奥歯にものが挟まったような物言いをなさる(魏王と天子との摩擦が激しくなっているのだろう。魏を覆すチャンスが残っている。内部分裂のタネを消すために、曹丕は強引にでも禅譲劇を済ますべきだった。そしたら史実なみに、魏が上・呉が下という関係を結べたところだ)」

孫権は返礼の使者に、南陽の趙咨を立てて、呉の人材の豊富さをアピールした。南海の珍宝をポトラッチした。

蜀が主役なので、あまり魏呉の話を詳しく書いても仕方ないか。でもあとで大きく影響してくる。魏呉が大同団結して、劉備の前に立ちはだかるのだから(予定)

このころ、曹丕は、平虜校尉の牽招を以て護鮮卑校尉と為し、南陽太守の田豫を護烏桓校尉と為し、之を鎮撫せしむ(史実なみ)。関中の曹彰に兵を供給して、馬超の来寇に備えさせた。

ここで歳が変わります。

陸遜が諸将を押さえこむ

延康3年2月、二月、鄯善・亀茲・于闐王 各々使を遣りて、魏に蜀に 奉献す。是の後、西域 復た通じ、蜀が戊己校尉を置く。

このタイミングで、馬超が西域を抑えよう。おめでとう! 史実では曹真の功績だったところを、馬超が奪ってしまった。


劉備は秭歸から進撃する。治中従事の黄権が諌めたが、劉備は進撃することをやめず、黄権を鎮北将軍として江北の諸軍を督せしむ。

黄権は史実なみに、逃げ場を失って魏に降るのか。最後のほうで、魏でも逃げ場を失って(内容は未定)蜀に帰ってきてほしい。

呉の諸将は、劉備を撃ちたい。陸遜がなだめる。

陸遜が、どたんばで諸将を抑えることに失敗して、バラバラに戦い始めてしまう。「実績のない陸遜になんか、従えないよ。呉は、魏と対等な国なんだ。どうして劉備くらいに遠慮する必要がある。王者が国境を侵されていて、黙っていられるか……」という感じで、史実よりも呉将は自信たっぷりなので、暴発する。


曹丕が魏王としての権力を振るう

夏4月(史実なみに)曹丕が東方を巡回してから、許都にゆく。天子に、孫権を呉王にした件を事後報告するためである。
天子 「朕は許した覚えがない。むしろ功績の大きな曹植を、鄄城王にしてやろう(史実なみ;曹丕の魏王を相対化するため)。魏王の兄弟は、軒並み王になるがいい」
曹丕 「異姓王のバーゲンセールだな」
天子 「得体の知れぬ孫権に、呉王を約束したのは、あなたが先だ」
曹丕 「ああ……。先王は、『もし私が世に出ねば、王侯を名乗るものが天下に乱立しただろう』と志を謳った。天子は(李傕・郭汜の執政下のときの悪い癖が再発して)官爵を、身近なものに配っている。少しは慎みなさい」
天子 「(魏王の相対的な存在感を低下させるために、ワザとやっているのだよ)今後は慎もうと思う。先王が中原を平定したおかげで、朕はこうして生きていられる(そのわりには関羽の脅威を除けないよな)」

天子の擁護者を標榜する、劉備軍が元気なので、天子も元気になっている。ただし、元気になれば、名君になれるというわけじゃない。歴代の幼帝も、成人すると権臣を排除したけれど、親政=善政とは限らない。
これは、遠い先(でもそれほど遠くない)の劉備と天子との葛藤の伏線となる。天子を助けて、めでたしめでたし、と簡単にいかないから、歴史はおもしろい。


5月、曹丕は(漢帝の許可を得ずに、孫権が領有する)江南の8郡を「荊州」と再定義した。蜀が居すわる北部は、便宜的に「郢州」としたが、あまり意味がない。

曹操は魏王国をつくるとき、州郡を好きなように再編した。曹丕も同じことをして、既成事実としての権限を得ようとしている。同盟者の孫権に、「荊州」という伝統ある地名の領有権があることにした。


夷陵の戦いで、劉備が勝利する

延康3年の正月から6月まで、劉備は滞陣する。
呉将 「劉備を撃とうよ」
陸遜 「伏兵の8千がいるからダメ(史実なみ)」

閏月、陸遜は進撃を命じた。
呉将 「劉備が攻めてきてから、7~8ヶ月が経過した。彼らは要害を固めてしまった。進攻の当初ならまだしも、この期に及んで攻めても、勝てないだろう」
陸遜 「攻略法が分かったんだ」
呉軍は攻めたが、劉備に破られた。 呉将 「ほら、負けたじゃん」
陸遜 「吾 已に之を破るの術を曉る」

これで、劉備軍に龐統が現れて、火の用心を呼びかけ、劉備軍が勝つというのでは、おもしろくない。ヒネリがほしい。


陸遜と呉将が、侃々諤々しており、そろそろ滞陣に飽きたところに、ふらりと龐統が現れる。
龐統 「陸遜が、なぜ劉備軍を攻めないか分かるか」
呉将 「怪しんでいたところだ」
龐統 「劉備の荊州支配を助けるためさ。長いこと駐屯していれば、そこは劉備の領土だよ。その証拠に、馬良が派遣され、沙摩柯を手なずけた。これを領土経営と言わずして、なんと言う。戦線が開かれないのを良いことに、劉備はどんどん事実上の領土を広げるよ」
呉将 「たしかに」
龐統 「江陵・公安から、逃亡者が相次いでいる。家族が蜀軍にいるからね。劉備がわざと長い陣を張っているのは、逃亡者を受け入れやすくするため。民は長距離の移動がつらいから」

諏訪緑『時の地平線』における、夷陵の解釈。

呉将 「呉王に授かった剣を振りかざし、軍令に背いたら斬る!などと格好を付けている(陸遜伝)が……、じつは劉備を利するために、呉王の名を使っていたのか
龐統 「ほお……、そんなことを。あくまで一般論だがね。やましいことがあると、人間は怒りやすくなるよ。中身を見たわけじゃないが、陸遜は成都に手紙を送っている。中身を見たわけじゃないがね」
呉将 「呉の名士と親密な、龐統さんの言うことだ。きっと確かな裏づけがあるのだろう。『名士』のネットワークは、容易に国境を越えるから。まったく陸遜のやつめ、許せないな。諸葛瑾を疑う前に、陸遜を疑うべきだった

内通を疑うための土壌は、史実にもあるのです。

龐統 「うっかり雑談をしてしまった。それでは、呉軍の皆さん。戦場はつらいと思うが、大都督の命令にしっかり従って、任務を果たしてちょうだい」

龐統にしてみれば、劉備に対して強硬派の陸遜には、失脚してもらいたい。魯粛のひいた国境線にこだわるわけじゃないが、孫権が信義なき方法で奪った、江陵・公安は返却されるべきと考えられている。だって関羽は(徐庶のおかげで)兵糧を盗んだわけでもないし。意外に龐統は、マジメなんだな(これを書きながらキャラを調整中;呂蒙とケンカするときに、陸遜が、劉備に対して妥協する気がないことを、龐統が会話のなかで確認しておく場面もいる)
かといって、孫権が憎いわけじゃなく、むしろ孫権には、劉備と結んで活躍してほしい。曹丕と結んでも、幸せなことはないよ、どうせ屈服させられて、不愉快な思いをするだけだよと、まだ史実に近い状況を、孫権に関しては想定している。政治の第一線にいないから、やや情報が古いのかも。


……という伏線を設けてから、もとに戻り、
呉軍は攻めたが、劉備に破られた。 呉将 「ほら、負けたじゃん」
陸遜 「吾 已に之を破るの術を曉る」
呉将 「もう我慢できない。どうせ、わざと呉兵を減らすために、敢えて敵の防御が硬いところを、攻めさせたのだろう。これ以上、従うことができんぞ。各自、進軍!」
呉軍 「おー!」
陸遜 「突撃しても、きみたちが言うように、劉備の堅陣を破れないって。自分で言ったことを、自分で忘れるのか?」
呉将 「語るにおちたな!陸遜! どうせ劉備に勝てないように、作戦を立てていたのだろう。せめて蜀軍が侵入してきた直後に、あなたが攻撃命令を出していれば……。いや、1年弱も鬱積させたエネルギーを解放すれば、きっと勝てる」
陸遜 「兵は、持てるだけの茅を抱えて……(劉備の軍が、火計に弱いことを見抜いたんだ。火計の準備をするまで待てないのか)」
呉将 「まどろっこしい! 突撃!」
陸遜 「僕 書生と雖も、主上に受命し、国家 諸君を屈せしめて相ひ承望する所以は、僕の尺寸を以て称ふ可く、能く負重に忍辱する故なり。各々其の事に在り、豈に復た辞するを得んや。軍令 常有り、犯す可からず
呉将 「小難しい! 」

龐統が一石を投じたことで、陸遜の求心力がガタガタになり、夷陵の戦いは劉備の勝利に終わりました。安東中郎将の孫桓が蜀軍に撃たれるなど、陸遜は裏目に出た。江陵・公安は、劉備の手に取り戻された。
敗戦した陸遜に、孫権が問う。
「公 何を以て初めより諸将の節度に違ふを啓せずや(オレの名前を使えば、諸将を従わせられたのと違うか。軍律が乱れたのが、今回の敗戦の原因だが、オレの名前を出し惜しみしたことに理由があるんちゃうか。陸遜だけの名前で勝ち、名誉を独占したかったのでは?)」

陸遜に抵抗した(龐統に丸めこまれた)のは、朱然がいいですね。

陸遜 「私を信頼して、権限を委譲してくれたのですから、期待に応えてみたかったのです(史実なみ)」
孫権 「夷陵で勝ってれば、名台詞だったよ(あきれ顔)」
陸遜 「それよりも曹丕が軍勢を集めています。関羽・劉備と戦うためと称していますが、呉を攻めてくるかも知れません」
孫権 「言うに事欠いて、わが友の曹丕を疑うのか。それよりも、きっちりと責任を取る方が先だぞ」
陸遜 「(マジで危ないのに;史実どおりに発言したのに)」

秋8月、黄権は曹丕に降り 黄権は江北を順調に攻め進み、長江の北岸にある江陵を得た。馬良は五谿で死に 馬良は武陵をうまく支配して、劉備軍の安全を保障した。
劉備は、孫権に盗まれた領土を取り返した。孫権軍は、江夏・夏口のラインまで下流に押された。つぎに劉備が孫権を攻めるなら、烏林・赤壁で両軍がぶつかる。『破三国志』の展開である。

曹休・張遼が、関羽を攻める

9月、曹丕は、孫権との同盟により、揚州の守将を動かせるようになった。張遼らを関羽にあてる。

史実では、九月、征東大将軍の曹休、前将軍の張遼、鎮東将軍の臧霸に命じて洞口を出でしむ。大将軍の曹仁 濡須を出づ。上軍大将軍の曹真、征南大将軍の夏侯尚、左将軍の張郃、右将軍の徐晃 南郡を囲む。
本作では、すでに曹仁は死んでいる。

劉備が孫権と戦っているから、時を同じくして関羽を攻めれば、蜀は困るだろうというのが、曹丕の読みである。ちょっと遅きに失した感がある。
なぜ曹丕は、初動が遅れたのか。劉備が下手な長陣をひき、曹丕から見たら敗北必至になるまで(史料あり)待っていた。
戦いの経過はきちんと考えたいが、結末として、張遼が関羽に降る。『北伐戦記』の展開である。降る条件は、かつて関羽が曹操に出したものの反復。

史実で、曹休・臧覇が、呂範と戦ったときの話を焼き直すか。


11月、曹丕も南下して(史実)、豫州あたりに出張る。
臧覇が保守的な戦い方をするから、かって関羽の暴威を引き出してしまい(史実では呂範に敗れる)魏軍は関羽を討ち取ることができない。
劉備 孫権は、魏の大軍が出てきたのと聞き、陸遜 孔明に文書を送った。「魏軍が漢水のほうに出てきた。ふたたび私が、 西に軍を動かしたら、貴国は防ぎきれますか」

史実では、呉が蜀に夷陵で勝ったところ、魏が呉を攻める。蜀は呉に「ふたたび攻めこんでやろうか」と脅す。本作では、蜀が呉に夷陵で勝ったころ、魏が蜀を攻める。呉は蜀に「ふたたび攻めこんでやろうか」と脅す。
こういう構造的な操作が、イフをやる醍醐味。

陸遜 孔明は答えた。「但恐軍新破,創夷未復,始求通親;且當自補,未暇窮兵耳。若不推算,欲復以傾覆之餘遠送以來者,無所逃命。」

『資治通鑑』にあるが、正史の出典が分からなかった。
蜀は、江陵・公安を取り戻すことができたら、当面、関羽の背中が脅かされることがない。 魏呉の両者を同時に敵に回すのは、得策ではないから、呉蜀同盟を探ってもいいころ(史実なみ)。
陸遜・龐統を巻き込んで、国境の確定について交渉がなされるのだろう。保身のために、きっと陸遜がトリッキーな動きをする。国益を損ねかねない、賭けにでる。さもないと、陸遜の立場がなくなるから。結論としては、現状維持のまま(史実よりは蜀が大きいまま)境界線を固めるのだろう。


今後の見通し

魏と呉、呉と蜀が同盟を結ぶが、魏と蜀だけが開戦している。しかも三国とも君主の爵位は「王」に過ぎず、許都の天子が暗然たる影響力を、曹植・楊脩とともに養っている。
魏軍に大勝でもしたタイミングで、劉備が「漢中王」をかなぐり捨てて、「漢王」になるんだろうな。「漢中王」とは、曹操を牽制するための称号だったが、曹丕が「漢に忠」という国の存在意義を減殺したころに。字数を減らした方が、貴くなる。年号も改める。
強大な蜀に対抗する、曹丕・孫権。という構図をとりあえずのゴールに設定して、話を考えてゆきます。とりあえず、夷陵の敗戦が、蜀ファンにとって、もっともモヤッとする話だったので、正史や『三国演義』に忠実に夷陵を描き、最後の展開だけをひっくり返したい。今回はそれが重要な変更点。

中途半端な対立構図のまま(史実なみ)、延康4年へ。史実では、劉備が死ぬときですが、夷陵で負けてないので、すぐに死ぬ必要はない。150716

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6.延康四~五年 劉備が天子と会談する

魏軍の荊州進攻を、関羽らが退ける

黄初四年が明けました。

史実では、曹仁と朱桓が濡須で戦う。これを、魏軍が荊州の劉備軍を攻撃することに読み変える。戦況は同じはずがないから、アレンジをがんばる。史実とは1年遅れで黄権が、やむなく魏軍に降る。という代償を払ってもいい。
(もともと蜀が失う人材だから、蜀ファンの懐は痛まない)

史実なみに、荊州の側が防衛線に勝利して、魏将・魏兵の数を削る。
関羽は樊城を守り、徐庶の助言で陣形をたくみに操って魏軍を圧倒する。張飛・趙雲は新たに奪回した江陵・公安を守るなど、魏の史実なみに多方面の同時進行に対して、蜀の英雄たちが迎え撃つ。

史実で登場人物が多いので、各列伝をきちんと読もう。『魏志』と『呉志』の両方を読まねばならない。洞口・濡須口・江陵の3箇所の戦いをアレンジ。

黄忠は、五虎将の揃い踏みの名場面まで生き残ってもらうため、養生に入ってもらう。南陽の城内で、兵の訓練などを担当する。

夷陵の戦いで、陸遜に愛想を尽かした朱然が、蜀軍に手を貸す……とか。史実では、江陵の朱然が活躍するため、これを取り入れてもいい。
そして(今決めたことですが)翌年・翌々年の曹丕の親征(時期は史実なみ、相手は呉から蜀に変更)で、魏軍が崩れて、許昌を失うことにしよう。劉備は、翌年、献帝と合流します。


曹丕は荊州の戦場に近づき、余計な口を出しつつ、
3月に洛陽にもどる(史実なみ)。賈詡に、「呉蜀のどちらを先に撃つべきか」と質問すると、「まだ平定には遠いな」と断られる。

臣 竊かに料るに、群臣 備・権に対(かな)ふもの無く、天威を以て之に臨むと雖も、未だ万全の勢を見ず。昔 舜 干戚を舞ひて苗服有り。臣 以為へらく当今 宜しく文を先とし武を後とすべし。

おおいに蜀を攻めても勝てなかったし、呉とは対等の同盟を結んだばかりである。曹操の末期のような、魏が主導するような情勢ではなくなった。

劉備が死病を免れ、許都を目指す

夏4月、劉備は病気になる。史実では託孤して死ぬのだが、敗戦がなかったから、もうちょい生き延びる。

劉備が史実なみの「諸葛亮が自ら取る可し」といって(死去は先送りされつつ)後継者問題をみんなに考えさせる。ぼくは、劉備が献帝を得るところまでは、生きていてほしい。しかし献帝を守るのは、曹植である。彼が主導して抵抗する。
のちのプラン。
許都のそばにきた劉備は、周囲の魏軍(曹丕軍)を連覇する。豫州どころか兗州まで(黄河の南部)をほぼ制圧して回ったが、許都に弓を射かけることができない(さすが劉備)。手紙を送って、開城してくれるように説く。ところが許都は、曹丕に迫って三公を再び置き、曹植・楊脩が仕切っている。楊脩のトンチと、曹植のリリックにより、劉備は翻弄される。しかし、あくまで力押しをしないのが劉備。もどかしさが劉備。いいぞ劉備。

劉備の寿命を感じた諸葛亮は、大義のシンボル=劉備を掲げて許都を得るために、ちょっと強引に劉備を動かす。長江を下って江陵に、江陵から襄陽へと。これは、劉備・関羽・張飛を再開させるための思いやりでもある。本作では関羽が生き残ったものの、まだ劉備と会っていない。

劉備軍は、劉表に飼い殺されているころ、荊州北部で(フィクションの世界で)連戦連勝する。それと同じような勝ち方を追体験して、許都まで進みたい。徐庶が活躍するところ。劉備は、延康四年の夏~秋を使って大軍とともに移動して、許都の攻略にかかる。

益州で反乱が起き、呉蜀同盟が成る

史実では、劉備の病気を聞いて、黄元が謀反する。
同じく史実で劉備が死ねば、益州郡の雍闓が、士燮・孫権を頼るため、太守の張裔を捕らえた。
本作では、劉備が荊州にむかったと聞いて、同じような勢力が起兵する。劉備が死んだばかりなので 荊州に兵力を注ぎたいので、諸葛亮は勧農に努めて、関を閉じて民を休ませた。

冬10月、鄧芝が建業にいたる。
史実では、夷陵(呉の勝利)の後の仲直りである。本作でも、夷陵(蜀の勝利)の後の仲直りである。鄧芝の弁舌で、スカッとする。
鄧芝 「私が来たのは、蜀だけのためではない。呉のためでもある」
孫権 「詭弁だな。江陵を奪っといて。蜀主は幼弱たり、国は小にして勢は逼まり、魏の乗ずる所と為る 劉備は老齢であるし、太子は幼弱である。襄陽・樊城を得たにせよ、魏は依然として底力を秘めており、脅威には違いない。呉蜀同盟なんて頼りになるのかな」

本作で孫権は、曹丕と対等な同盟を結んでいるし。

鄧芝 「呉・蜀の二国、四州の地なり。大王(孫権)は命世の英なり、諸葛亮も亦 一時の傑なり。蜀に重険の固有り、呉に三江の阻有り。此の二長を合はすれば、共に脣歯と為り、進めば天下を並兼す可し、退けば鼎足して立つ可し。此れ理の自然なり」
孫権 「呉はオレ、蜀は孔明でもつと」
鄧芝 「大王 今 若し魏に委質すれば、魏 必ずや上は大王の入朝を望み、下は太子の内侍を求めん。若し命に従はざれば、則ち辞を奉じて叛を伐ち、蜀も亦 流に順ひて可を見て進まん。此の如くんば、江南の地 復た大王の有に非ず」
対等同盟と言うが、中原の大半を制して、天子まで抑えた曹氏が、ほんとうに対等だと思っているのか。そのうち、孫権に入朝を求めるだろうし、孫登を人質によこせと言うに決まっている。拒否すれば討伐を受ける。さすれば孫権は領土を保てない。
魏呉同盟は、いつでも魏の都合で破棄される。魏は、ムリな条件を突きつければ、呉に誠意がないとイチャモンを付けることができる。
では孫権が、曹丕に同じことを要請できるか。曹丕が建業にくることと、王子を人質によこすこと。要請した瞬間に、曹丕サマは同盟を打ち切るだろう。襄陽を奪われただけで、魏は魏だ。史実なみの強さを持っている。

孫権は「両端を持す」が悪くないと考えた。鄧芝に説得されたふりをして(実際に、曹丕とのつきあい方を再検討して不安になったのだから、説得されたのだが)呉蜀同盟を結ぶことにした。
魏呉が同盟。呉蜀が同盟。でも魏蜀は仇敵。史実よりも、江陵を持たない分だけ弱い呉は、 両方の国と同盟することで、危機を乗り切ろうとした。

歳が変わって延康五年。

呉蜀より魏呉同盟を重んじる孫権

延康五年、呉郡の張温が蜀漢にゆく。
孫権は、つねに陸遜をはさんで諸葛亮と外交させた。陸遜は夏口に、孫権は建業に。陸遜に刻印を預けて、外交を委ねる。

夷陵で蜀と戦った陸遜が、蜀との外交を全任されるというのは、違和感があるが、これが史実だから、踏まえることができる。事実は小説より奇なりとは、よく言ったもので。なぜ事実のほうが「奇」かといえば、小説家は荒唐無稽なことを書いて、読者から「リアリティないね」と嫌われるのを恐れているから。べつに「奇」を思いつくことは思いつくのだ。しかし書けない。

また鄧芝は、孫権を訪問する。

陸遜が外交文書をすべて握っているのに、鄧芝さんは、孫権のところに会いに行くのね。まあ決裁権限のある人と、直接 会うのは営業活動の基本だけど。


孫権 「もし天下が太平となれば、曹丕の領土を山分けして、呉蜀で分治しよう。州の配分はコレコレで、司隷はまんなかで分けて……」

曹丕の使者には、劉備の領土を山分けする話をするくせに、劉備の使者には、曹丕の領土を山分けする話をする。同じ日の午前と午後で、まったく違うことをいう。そういう孫権を描いて、お仕置きをしたら、蜀ファンはスカッとするのでは。

鄧芝 「天に二日無く、土に二王無し。曹丕を滅ぼしたら、呉蜀が戦争を始めることになるでしょう」
孫権 「キミの言うとおりだな」

曹丕の使者は、きっと同じ話を振られたら、迎合して「そうですね、南北朝なんて楽しそうだ」といい、孫権を楽しくさせる。孫権にへつらうのは、曹丕の方針である。使者は役割を演じてるだけ。
南北朝というのは、魯粛の構想にあったこと。孫権としては、荊州・益州までを得れば満足である。もしも北朝の魏が、天下の南半分を望まないというなら、とても都合がいい。北朝が攻撃を仕掛けてこなければ、ウイン・ウインである。
しかしこれは「漢の魏王」に甘んじている曹丕の態度。本作でも、どこかでメガ進化して魏帝となる予定。すると孫権のヴィジョンとは決裂するわけですが……、まだ先の話。
孫権は、必要以上に組織が大きくならないように、器量にあった心地よい規模になるように、「組織を衰えさせる努力」をする。デブが行う「太る努力」と同じ。というか孫権に限らない、人間に共通して見られる行動。


◆陸遜の憂鬱
陸遜は、本作では、呉将を御しきれずに夷陵で負けた。蜀との外交を任されても、心にしこりがある。また、孫権が、曹丕との対等な同盟のほうを、気に入っている=重視していることを感じて、「左遷かよ」と思っている。
魏呉の使者の往復は、長江を挟んで頻繁であるが、陸遜はここに加えてもらえない。鄧芝の懸念に反して、曹丕は、入朝・任子を求めてこない(本作の曹丕は天子じゃないし)。なおのこと、魏呉が良好になる。
蜀との同盟は、兵を置いて国境を守る代わりに、辞を低くして国境を守るというもので、かなり冷めた関係である。諸葛亮だって、どうせ頭のなかでは、許都の攻略を考えており、孫権(というか陸遜)の往復書簡は片手間に違いない。

そんな陸遜のところに、龐統が現れる。
陸遜 「なんすか。ジャマに来たんすか」
龐統 「孫権は名君ですね。名君に仕えることができて、陸遜さんは幸せそうだ」
陸遜 「……(孫権の態度から察するに、夷陵の敗戦を許したわけじゃない。意外と度量が狭いことが分かった)」

度量がせまいという場面をきちんと描写しておく。

龐統 「孫策は陸氏を迫害したね。孫権はあなたを重視しているようだが、果たしていつまで続くか。もしも孫権が、陸氏の迫害を再開したら……? 呉郡の人々のために、あなたは立ち上がらねばならない」
陸遜 「バレバレの離間の計、やめてもらっていいすか?」
龐統 「ふざけただけだよ(種まきは完了)」

劉備の許都攻め;天子との会談

秋7月、史実では曹丕が呉を撃つ。このタイミングで、劉備が許都に攻めかかり、豫州・兗州を得る。これは、『破三国志』や『北伐戦記』を踏まえて書く。とにかく、許都のまわりの重要な郡を、劉備が抑えて、許都が孤立するという状況が作れればよいのです。
曹丕軍はダメージを受けて、黄河の北に引かざるを得ない。

曹氏を連覇しつつも、劉備は許都だけに、兵を向けることができない。曹植・楊脩に阻害される。まだ楊彪も生きていてほしいな。漢の生き証人として、引退しながらも許都に住んでる。
軍事的に圧勝した劉備であるが、許都が開城しない。「攻めつぶせ」というひともいるが、劉備が叱る。そして劉備は単騎で、天子との会見を申し込む。兵力をもってしても、天子に会うことができねば、誠意を見せるしかない。

『北伐戦記』では、献帝の周囲に対して、とても冷淡な劉備軍。腐敗した旧勢力として、適当に片づけられる。しかし、蜀ファンがスカッとするには、劉備はあくまで忠臣。

天子と何を話すのか。
あくまで忠臣であるから、天子の意向を尊重したい。

天子は、曹操に救われた恩が大きいから、曹丕・曹植の庇護下に居たいという。 曹氏は政治機構が整えられており、現状を維持するには充分である。むしろ、後漢の改革者として、霊帝期までの齟齬を回復した。
「劉備と曹丕は、朕の名のもとに和解せよ。劉備の漢中王は、追認する。主立った蜀臣には、相応の官職を与える」
魏呉・呉蜀は同盟ができているから、魏蜀が和解したら、乱世が終わる。劉備は、目の前がクラクラしながら、しかし選択肢としてはアリだと考えて悩む。
劉備は悩む。「姦臣の曹操から、天子を救出する」という目標のもと、ここまで来たけれど、天子から見たら、権臣の候補者に過ぎない。権臣同士の争いは見たくない。これが「聖意」であれば、反対する理由がない。
曹操の子として、曹植が「戦争を止めましょう。互いに適職を見つけて、漢のために働きましょう」と持ちかける。劉備は、停戦に合意。三国志が終わってしまった!

楊彪は、劉備の忠臣としての人柄に触れて、天子を説得する。
「曹氏に恩を感じるのは、もっともです。しかし、劉備とて忠臣です。決して許都に矢を向けませんでした。劉備・曹丕・孫権の会盟が成るまで、劉備軍に護衛をさせるのも宜しいのではありませんか」

楊彪は、李傕・郭汜から、天子を守ってきたひと。曹操からも。劉備を見たとき、李傕・郭汜よりも礼儀正しくて野心の匂いがしないのは当然として、曹操よりも漢王朝に対する誠意を感じたから、このように天子を説得してくれることになった。

曹植 「私も依存はありません。天下三分とはいえ、三勢力以外のものが、意外と多く残っています。たとえば幽州・并州の国境付近には、いまも異民族の動きがあります。内地でも、散発的な反乱がくり返されております。三国が戸籍に乗せた人口を足しても、往事の10分の1。飢饉・戦争で、ひとが死んだことは否めませんが、それよりも、中小の豪族や盗賊、自衛する塢などが、人口を抱えています。これからは、三国の王が藩屏としてが共同して、虫食い状態の漢土を、もとどおりに塗りつぶしていく段階です」
天子 「曹植がそう言うのなら、朕はそれでいい」

読者諸賢よ、ご安心なさい(周大荒みたいな口調)。
にっくき曹操の息子たちを、われらが劉備が討伐しない? そんなはずはありません。敗戦により、州郡を失うだけでなく、天子すら失った曹丕が、冷静な判断力を保つことができましょうや。彼には、ちゃんと痛い目に遭ってもらうために、作者が物語の構想を練っています。お楽しみに。

劉備は、献帝から名誉職(相国とか)をもらって、そろそろ老後である。志を果たして、幸せな最期を迎える。
しかし死に際に、凶報が届いた。

曹丕が魏帝となる

劉備は、天子の名を借りて、曹丕に和解を申し入れた。しかし、許都との情報が遮断されている鄴県で、劉備の書状を額面通りに受け取れるはずがない。
曹丕 「ついに劉備が、天子の名義を利用し始めた」
もともと曹操が、天子をそうやって利用して、天下に号令したという実績がある。曹丕と魏臣は、危機感をもった。
仲達 「死に体にしろ、天子は天子」
曹丕 「曹植も取り込まれてしまったらしい」
仲達 「なぜ分かります? 書状は劉備の書名があるだけ」
曹丕 「ほんとうにお前は文学を解さないのだな。この美文を書けるのは、曹植だけだ。外交文書なのに、ちっとも機能的じゃない。しかし、不思議と読まされる。これは曹植だ。……こんなに心が通じ合った兄弟なのに、敵味方に分かれるとは」
仲達 「すでにお分かりだと思いますが、天子の名義を、相対化する方法はひとつしかありません。そして、これ以上、国力が衰えてからでは、実行に移せない手があります」
曹丕 「もしかして」
仲達 「(史実から丸4年も遅れたが)禅譲!」
曹丕 「天子がそばにいないのに? 禅譲なんてできる?」
仲達 「どうにでもなります。先王(曹操)が、禅譲の詔を受けとっていたとか。漢高祖の霊魂から命じられたとか」
曹丕 「……王莽っぽいな」

曹操が魏王としてもらった10郡をプロパーな領土として、魏帝国をつくった。これ以外にも、兗州東部、豫州東部(曹氏の故郷を含む)、徐州、幽州などを抑えている。長安にいる曹彰は、同姓の藩王となった。曹植は除名した。

魏の宮臣たちの動きは、あらすじが完成してから作ります。『北伐戦記』で活躍する、曹操のころからの優れた地方官たちも、別途 補っていきます。


曹丕の称帝を聞き、老衰しかかっていた劉備は、ショックで死期を早めた。
「せっかく天下が収斂しようとしていたのに、曹操の小せがれは、なんてアホなことをしてくれた」
劉備は年内に死ぬ。諸葛亮への託孤は、史実どおりでよい。ただし遺言は、「劉禅がアホなら、孔明が自ら取れ」ではなく、「漢帝を守れ。劉禅に称帝させることは、くれぐれもないように。もし劉禅を帝位に推すような者がいたら、劉禅の地位を孔明が奪ってでも防げ」である。

献帝を得る前に、史実なみに、「劉禅がアホなら、孔明が自ら取れ」というが、死病を克服する。そして献帝を得た後に、遺言が変わる。

劉備の死。

@ytomino さんはいう。一進一退が楽しいです。演義劉備は「皇叔」なんですからもっとスムーズにいくようなと一瞬思いましたが、よく考えたらある日突然雷に驚いて都から逃げ出してました。その後は劉虞を立てようとした袁紹に身を寄せたりしてて、献帝からしたら今更何だコイツは、でしょうねえ……w 一方、称帝にショックを受ける劉備はかなり意外でした。人を見る目がある劉備像に対袁術の経験を合わせると、そこまで驚かなそう……というのは贔屓が過ぎますでしょうか。人形劇では紳紳・竜竜が帝が殺された知らせと共に玉璽も預かってきててそれは凄くショッキングでしたけれども。二枚舌外交の孫権は実際の描かれ方次第で「お仕置きされるべき小悪党」「ポーカーフェイスを操る凄腕ギャンブラー」のどちらにも転びそうで楽しみです。
ぼくは思う。劉備は驚かなさそうというのは、貴重なご意見なので、これを踏まえて劉備の死を丁寧に描きたいと思います。史実の補正力により、劉備が死ぬというのは結論ありきです。しかし、いかにして死ぬかは印象を大切にしたいです。孫権は「凄腕ギャンブラー」に見えるように描きたいです。
@GiShinNanBoku さんはいう。劉備の死後に諸葛亮が統一するパターンなども考えた事はありますが、劉備が皇帝に即位しないままというのは無かったですね。蜀ファン的には「漢の忠臣」と「漢の継承者」のどちらが人気なんでしょうか。ちなみに私は後者寄りです。ところで劉備と劉禅の年齢差は47歳、曹操・曹叡や宋の武帝・少帝(41歳差)よりも差があります。私見では、劉禅の時点で代替わりのハードルが高く、彼が抜けるとさらにこじれるでしょうね。物語上ではなんとでもなりますけど。例えば、あるいは魏略の荊州以前に生まれた息子を登場させるとか。即位させないのも手でしょうか。
ぼくは思う。史実を変えるには、それなりの伏線が必要です。劉禅の兄(『蒼天航路』における劉冀)を出すには、彼の出現する話をある程度は見せておく必要があります。それよりも、47歳も隔てた孫のような劉禅を、きちんと継承させる蜀臣の苦労を描きたいです。本作では劉封が生き残ってしまうので、彼に「快く」おとなしくしてもらうための苦心とか。

これをキッカケに、魏帝の曹丕サマは親征をして、兗州・豫州を回復する。『破三国志』のように、押し戻す。戦いのなかで、許都を守る劉備軍を、曹丕軍が攻めるという象徴的な出来事がおこって、曹丕と献帝の決裂が確定する。

蜀ファンは、こういうのが読みたい(とぼくが思ってます)。ちがったら、ご指摘をお願いいたします。


おまけ(勢力図のイメージ)
http://twitpic.com/d14pxg からいただきました。
うまく塗れなくてすみません。




上:延康元年末、 下:延康五年末



ひそかに馬超が涼州でがんばってる。150717

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7.延康六~七年 曹丕が孫権を帝位に勧進

これまでのまとめ

平日の早朝をつかって思いつきで書くために、話がわかりにくくなったので、三国の情勢を確認しておきます。
蜀は、関羽が死を免れて樊城・襄陽を魏から奪い、劉備が夷陵で勝って夷陵・公安を呉から奪った。史実と異なり、荊州の全土を制覇。加えて、曹丕の荊州3方面の同時出撃を押し返し、豫州の西部(許都を含む)を得た。鄧芝が呉との同盟を結ぶ。天子を救出して、劉備の人柄をテコに理解活動にも成功。しかし、天子を奪われた曹丕が称帝したため、劉備はショックを受けて死んでしまった(史実より1年遅れ)。天子に許可を取ってから、劉禅が漢中王に即位。
魏は、曹操が客死して危機を迎え、曹丕の兄弟が協力関係に。曹丕が鄴、曹植が長安、曹植が許都。蜀とゼロサムゲームをして、領土+天子を失った。劉備の進攻を受けて、曹植が劉備と和解。曹丕は、天子を失ったことに驚き、称帝(史実より4年遅れ)。孫権との間で成立していた、『王』同士の同盟を一方的に破棄した。孫権が命令を聞かないから(蜀軍の占領地を迂回して;史実なみに)徐州を攻めそう。史実よりも割を食っているのが魏。
呉は、史実よりも江陵・公安を失っているが、それ以外は同じ。ただし夷陵で破れたため、指揮官を務めた陸遜は、孫権との関係が冷え込んでいる。孫権が、史実よりも曹丕と決裂するのが遅れた(曹丕に共感を抱いている)。史実では、以後ずっと「蜀と結んで魏と戦う」であるが、より柔軟に魏と結ぶ可能性がある。

馬良が九縦九擒し、曹丕が呉を攻める

延康六年、曹丕は陳羣を鎮軍大将軍として鄴県を任せ、司馬懿を撫軍大将軍として 許昌 陳留に置く(許都の蜀軍に備えるため)。

陳羣に蜀軍を備えさせたら、あっさり降伏しそうだ。


并州刺史の梁習は、史実なみに軻比能を撃つなど、魏のためにがんばる。蜀から兗州を取り戻すなど、強さを見せる魏。そりゃあ、曹操の最初の根拠地なんだから、魏になびくよな。

劉備に、兗州・豫州を一時的にでも得させたのは、許都を魏軍から孤立させて、「圧倒的に優勢なのに、許都を力攻めにしない」という話を書くため。べつに(作者は)領土に執着しません。また作中のキャラも、城の数を稼ぐことが目的ではない。魏軍が容易に攻めることができる、兗州あたりを死守する必要がない。


戦線は北だけではない。
許都攻略のため、劉備とともに荊州に出張った諸葛亮は、益州の内政を馬良に委ねている。馬良もまた、このイフで生き残ったひと。史実で、馬謖が「心を攻めるのが上策」というこのタイミングで、馬良が南中の平定にくりだす。馬氏の兄弟が、諸葛亮に能力が及ばないながらも、相談しながら南中を鎮めて回る話。

馬良×馬謖という兄弟の話も読みたい。
史実で漢中に駐屯したように、前線に近いところで、政治の全般を見る。史実の諸葛亮の役割は、馬良が果たす。馬良だけでは静まらず、張嶷の活躍をフィーチャーするのが、蜀ファンがスカッとする方法だと思います。

諸葛亮よりも時間がかかるけれど、南中を平定。七縦七擒では、心服を引き出すのには足らず、九縦九擒ぐらいして、粘り強く、孟獲らの心をつかむ。蜀の国力が富む。『資治通鑑』では年内に完結してるが、きっと歳をまたぐ。
劉備が荊州で死んだ。劉禅は安全のため、成都を根拠地とする。

史実で曹丕は、夏~冬にかけて呉を討伐する。
本作の曹丕は、孫権との外交を行う。
「うちは魏帝になったので、呉王の上位者となった。名義を仕切り直そう。孫権は、漢の呉王であることを辞めて、魏の呉王になりなさい。ただし、これまでの関係の継続をよろしく」と。実質的に臣従を要求する。曹丕は、おのれの権威を高めるためにも、孫権を従えておく必要がある。
孫権はおもしろいはずがなく、曹丕との関係がギクシャクする。曹丕は、史実なみに水軍を起こす。鮑勛が史実なみに諌めると、これを左遷した。蒋済が諌めるが、聞かずに南下する。

冬十月、広陵の故城に如き、江に臨みて兵を観る。戎卒は十余万、旌旗は数百里、渡江の志有り。呉人 兵を厳め固守す。時に大いに寒く、冰り、舟 江に入るを得ず。帝 波濤の洶湧たるを見て、嘆じて曰く、「嗟乎(ああ)、固(まこと)に天 南北を限る所以なり」と。
遂に帰る。孫韶 将の高寿等を遣り敢死の士 五百人を率ゐしめ、徑路に於いて夜に帝を要し、帝 大驚す。寿等 副車・羽蓋を獲て以て還る。

曹丕は、川の水が凍って大軍を動かすことができない。撤退するときに襲われた。とてもガッカリする。しかし、魏帝になった直後である。史実では、この帰り道に死ぬが、そこまで弱っていない。戦いは始まったばかりである。

蜀は、劉備の死去によって、体制固めをしている。だからこの歳に、大きな動きはない。史実の、劉備の死後の史料を引いてきて、この歳に割り振ってもいい。劉備は、史実よりも1年だけ長生きした。史料をズラすのは1年でいい。ムリのない範囲だと思います。


南方の異民族のこと

12月、呉の番陽賊の彭綺 郡県を攻没し、衆は数万人なり(史実)。
馬良が南方の平定に手こずり、危機感をもつ。なぜ手こずるか。呉が南方に手を回して、蜀に対する反感を煽っているからだ。史実よりも、蜀軍は北側に寄っており、しかも諸葛亮その人が出陣したのでもないから、なかなか鎮まらない。
そこで登場するのが龐統。鄱陽の蛮族など、山越をたきつけて、異民族のあおり返しをする。孫権は『利』で釣るだけだが、劉備は『義』で動いているのだ、と説得+行動することで、徐々に平定が進む。張嶷・李恢の見せ場もある。時期を圧縮して、活躍させてもいい。

『北伐戦記』では、孟獲が、主力のいなくなった成都を一気に攻め落とす。これを知った劉備軍が、侠客の集団にもどって、中原から一気に駆けつける。関羽の個人的な武勇で、力押しに押す……という、極端な話だった。
蜀ファンが読みたいのは、本格的な反乱(マッチ)、関羽の大活躍(ポンプ)ではなく、異民族と理解を深めていく地味なプロセスだと思う。


曹丕が 崩御する 成熟する

黄初七年の正月、曹丕は(徐州で呉攻めに失敗して)失意のうちに譙に帰る。西方の蜀軍に備えながら、撤退する必要があるので、史実よりもちょっと足取りが遅い。蒋済に相談に乗ってもらい、今後の軍事的な戦略を練る(史実なみ)

蒋済は呉との関係がからむので、重要な人物。


諸葛亮は襄陽にいながら考える。
「曹丕は、新たに呉と戦って破れた。西進するチャンスにも見える。しかし西進するなら、地理的に曹氏の故郷の譙郡とか、曹操が創業した兗州である。先年、いちど奪ってもすぐに奪い返された。西進は難しいようだ。
かといって、単独では価値のない・守りにくい洛陽は欲しくない。洛陽を攻めるには、許都の兵を減らすしかない。蜀の勢力の存在意義のために、天子を守るという一事をもっとも重んじる。曹丕が建設中の洛陽を得ても、許都を危険に晒せば、大損である。つまり、曹丕軍とは戦わないのが良い。曹丕が孫権討伐をくり返して、自滅するのを待ちたい。
すると次の攻撃目標は、関中である。(時期・内容とも史実にも一致するし)関中を狙ってみよう。曹彰が、もと曹操軍を無傷のまま軍を養っている。手強いかも知れないから、慎重にいかねば。
ただし(史実ち違って)蜀軍は襄陽・上庸に拠点を持つから、(史実なみに)漢中から出撃するという、能のないゴリ押しをしなくていい。荊州からも山越えをして関中を狙えば(史実よりも)成功率が高いだろう」

諸葛亮の北伐を見たい。この蜀ファンの念願を、実は『反三国志』『破三国志』『北伐戦記』は叶えてくれない。いきなり馬超が大成功! という、超展開では、スカッとしないのである。


曹丕が鮑勛を刑死させる。曹洪がケチなので、曹丕に殺されそうになる。という、ゲスなエピソードを『資治通鑑』で紹介されながら、曹丕は死期を迎える。
しかし史実の曹丕が、許昌の城門が崩れて死ぬ理由は、①天子としての事業に疲れ、②連年の呉への親征に失敗して、③兄弟を迫害して孤独だから。本作の曹丕は、①天子になった直後だから、辛さは深刻化せず、②呉への親征も1回しか経験せず、③曹彰に長安を任せて負担感が半分。劉備の活躍のせいで、逆に生き存えさせる前提は揃っている。
曹丕が生き残る条件は、孫権との妥協。具体的には、孫権に帝位を勧めること。(史実なみに)5月に病気になるが、その病床で発した言葉は、遺詔ではい。
「孫権を帝位に勧めることで、魏呉同盟をがっちり堅め直そう」

昨年、つくった『曹丕八十歳』は、献帝の詔によって息を浮き返すものの、呉との共存を最期までできず、「呉が、わが徳をしたって降ってくれないかなー?」に、追加分の40年を費やした。これとは、全然ちがう展開となります。
なぜ曹丕が妥協できたか。曹操の客死、領土の縮小、天子の喪失などにより、「思想的な当為に、拘っている場合ではなくなった」という、元も子もない理由です。たとえば中学生は、「なぜ人を殺してはいけないの?」と大人に質問する。しかし同じ質問を、自分の喉元にナイフを突きつけられてもできるのか?というのと同じ。理屈をコネている場合ではない。

仲達 「遺詔があるものだと……。全権委任を早よ!」
曹丕 「私は死なん」
仲達 「しかし天子が2人並ぶって、おかしくないですか」
曹丕 「漢の天子を廃することなく、私に帝位を勧めたのは、仲達だろう。すでに2人いる。3人目が現れたところで、なにか問題があるか。それよりも、呉と協同して、蜀を削ぐ。当面の戦略はこれだ」

史実で孔明が、孫権の称帝を追認する。漢の復興を願うはずの孔明にしては、えらく妥協したな……、と読者をあきれさせる。スカッとしない。蜀ファンとしては、こういう妥協をするのは、蜀以外であってほしい。
蜀は、あくまで「天子を頂く漢中王」という正義の立場を貫く。少なくとも諸葛亮の目が届く範囲では(と、後年の波乱の伏線をはる)
曹丕は、史実よりも妥協することで(成熟することで)魏の生き残る道をさぐった。孫権は、史実の即位の歳まで、辞退をくり返して、ウヤムヤにしようとする。かつて孫権は、「曹操は帝位に昇れ」といい、「火の上に座らせる気か」と曹操を困らせた。いま曹丕が、孫権にこれをやり返した。おかげで、呉の世論は2つに分かれる。二宮の変を待たずに、孫呉を分裂させることができる。帝位に勧進する、というメッセージは、じつに破壊力を持っている。史実以上に、孫権の葛藤をリアルに書ける気がする。


8月、孫権は、曹丕が死んだと聞き 曹丕からの勧進に答えるために、蜀領の荊州の城(史実では魏領の江夏)を攻める。孔明は、治書侍御史の荀禹 この地域で存在感のある文官を派遣して、呉への備えが万全であることを示し、孫権軍を撤退させた。(同時に;史実なみに)左将軍の諸葛瑾が、襄陽を攻めた。孔明との兄弟対決となるが、蜀軍が勝つ。

史実では、曹丕の死に乗じて、呉が荊州を攻める場面であるが、本作では、魏呉同盟の再稼働を示すためのイベントである。蜀は荊州を堅守する(史実の魏なみ)

呉の丹陽・呉郡・会稽で、山越がそむく。孫権は、全琮に鎮圧をさせる……など、史実のイベントは、蜀軍が暗躍して起こしたことにする。

12月、曹休を大司馬として、揚州を都督させる。曹真を大将軍とする。曹休の役割は、史実では孫権の防御であるが、本作では蜀軍の牽制である。蜀軍が豫州に入ってきたら、揚州軍をつかって破らないと。
華歆が管寧に太尉を譲ろうとしたが、管寧は受けない。

管寧は、『反三国志』で重視された(自殺の名場面を与えられた)人物なので、このタイミングで自殺させよう。本作では、曹丕が孫権に帝位を勧めるという節操のなさを発揮したので、がっかりして海に身を投げる。

南方では……、
この歳、士燮が死ぬ。史実なみに、呂岱が交州を支配する。蜀が交州に手を回すのは、間に合わなかった。まだ史実を変更するには至らない。150718

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8.延康八年 孔明の北伐(隆中対の実現)

史実では、曹丕の崩御によって「黄初」の年号が終わる。しかし本作では、イフ展開に入ってから何年目を表すために、この後漢で最期の年号を使い続ける。
いよいよ諸葛亮の北伐が始まる。

関羽・張飛がせっかく生きていることを忘れがちになる。ちゃんと活用せず、荊州北部に置き忘れると、『反三国志』と同じになる。注意!


延康八年、出師の表

3月、諸葛亮は(呉の荊州進攻を退けたので)満を持して漢中に移動する。上庸の劉封の軍備などをチェックしつつ。

史実では、長史の張裔と、參軍の蔣琬に、成都を任せた。成都・襄陽には、しかるべき文官が必要。あとで肉づけします。

出師の表を、盛大にアレンジして発表!

曹叡は 曹彰は、諸葛亮が漢中に移って、大軍を起こすと聞いて、漢中に攻め下ろうとした。しかし散騎常侍の孫資が反対した。
孫資 「曹操さま、夏侯淵さまですら、苦戦しました。孫権もいます。漢中攻めは、やめなさい。数年すれば、曹魏は日に日に盛んになり、おのずと呉蜀は疲弊するでしょう」と。
曹叡は漢中を攻めることを、やめた。
曹彰 「ほんとうにそうだろうか。曹操・夏侯淵ですら苦戦したからこそ、攻め上るべきでは。曹操の死の時点から比べても、魏は荊州を失った。おのずと盛んになるとは思えないな」
孫資 「(史実と違うことを言って、話を合わせよう)漢中を攻めるには、険阻な山なみを越える必要があります。戦う前から疲れます。もしも諸葛亮が北伐をするなら、山越えを敵軍にさせれば良いではありませんか」

6月、司馬懿が洛陽に屯する。

六月,以司馬懿都督荊、豫州諸軍事,率所領鎮宛。
荊州は蜀に奪われ、豫州にも関羽が入り込んでいる。ひとつ引くと、洛陽となる。本作で曹丕は、鄴県にいる。
史実では、司馬懿が孟逹を神速で斬りにゆく。本作では、孟逹はとっくに始末されており、司馬懿が弱点を突くことができない。関中と魏国との連絡を保つのが、おもな役目である。これにプラスして、司馬懿らしい策謀がほしいな。曹丕が、呉との同盟を固めてくれたからこそできる、関羽の討伐策……。関羽は、やはり呉にだまし討ちされるから神サマになれる。この第一次北伐のときに発動しなくてもいいから、なにか仕込みを!

この歳、韓当が死んで、韓綜が 蜀に降る。

延康八年は、史実どおり、諸葛亮の北伐を準備するために、それぞれの地域での配備を確認するための歳になりそう。「こういう条件で、開戦しますよ」と。


延康九年、諸葛亮の第一次北伐

正月、司馬懿は新城の劉封を攻めた。

史実では、司馬懿が孟逹を攻める。新城という地名の変遷は、とても複雑。上庸・房陵などの呼称との関係を、煩雑にならない範囲で作中で説明しないと。

司馬懿が、なんの準備もなく、劉封を攻めるとは思えない。おそらく内通の約束があった。
いかにして劉封は、内通することになったか。
諸葛亮から重要な地を委ねられた劉封は、おごった振る舞いが多くなった。いちどは劉備の後嗣に……、という期待もあったけれど、劉禅が成都におわします。しかし聞こえてくる劉禅の評判は、だらしないものばかり。
劉封 「私が漢中王になったほうが、蜀は栄えるのではないか。孔明も、あたしを評価しているようだし」
こういう謀反みたいな発言を、うっかり(誰かに)聞かれてしまう。もっと活躍できる人間なんだ、あたしは、という心の持ち方をしたひとは、自然とソワソワする。
(そんなこんなで)不安になったところ、司馬懿から「独立を助けますよ」という助言を受けて、彼を援軍として迎えようとする。

うーん、もうちょいアイディアが必要。リアリティがない。
蜀の分裂が、もっと現実味を帯びないと。

仲達 「魏軍は往事より衰え、蜀軍は盛んに見えます。しかし、本当にそうでしょうか。もしも魏が、あなたの守る新城を得て、同時に呉が江陵に進めば、蜀の領土はズタズタになり、たちまち益州に押しこめられるでしょう(史実に回帰するでしょう)。蜀は優勢とはいえ、ご存知のように、困難な漢中攻めに着手しようとしています。これは成功するはずがない(史実に基づいて想定される失敗要因を並べる;ほら成功する気がしないでしょ)」
さらにいう。
仲達 「このまま、後嗣のなりそこないとして、微妙な立場におかれて、困難な戦役のなかに身を置くか。それとも、魏呉の勝利という、天下分裂を一気に解決するトリガーの役になり、高い地位を得るか。どちらが得なのか考えてみなさい(イフ展開で蜀が強くなったが、まだ史実に回帰する可能性は、いくらでもあるのです。あなたが作中でそのように判断して動き、読者をハラハラさせる役になりなさい)」

このころ関羽は、関羽のキャラ(強みや魅力)ゆえに、豫州で孤立しかねない状況にいる……としたい。劉封が、「なるほど関羽は危ないのかも」と思える程度には。
あ、思い付きですが、この第一次北伐(もう少し後でもいい)で、司馬昭が爆死します(『反三国志』なみ)。三国の後期までは作中でカバーできないので、前倒しして死んでいく。そのためにも、劉封を倒すための策謀で、司馬昭が活躍してほしい。

劉封のところに、孔明から手紙がくる。新城がいかに大切かを説いて(司馬懿の指摘と一致;司馬懿の説得力を却って裏づける)、劉封が今回の関中攻めで、果たすべき役割を説く。この役割を果たすと見せかけて、途中で魏軍に寝返ることも可能。

劉封、どうなるんだろ。神速で斬る話は、すでに孟逹でやった。違う展開がほしい。劉備と劉封の遭遇シーン(『三国演義』ベースでも可)を織り込んで、劉封の葛藤を描きたい。

劉封は(蜀ファンをスカッとさせるために)劉備から受けた恩義のほうを「大」と見る。仲達に対して、期待を含ませるような動きをして、逆に仲達のもくろみを破る。勝利してから(勝利することは、いま決めた)孔明に種明かしをする。
孔明 「(遠隔地のあなたが何を考えているか、さすがの私でも完全に掌握できなかった。どちらの味方をしているか分からない、思わせぶりな動きをするんだもの)蜀のために働いてくれると信じていました」
劉封 「それでなければ、仲達を欺くことはできなかったでしょう。しかし孔明には、私が蜀のための働いていることが、丸バレでしたか」
孔明 「丸バレでした(大嘘)。これからも蜀のために頑張りましょう」
劉封 「先王(劉備)の理想を実現するために!」

仲達は戦場にいるわけでなく、むしろ後方で、劉封の工作をやってる。司馬懿がこの戦いに割ける労力を、劉封が全部 食ってしまう、という貢献の仕方をする。それぐらい、劉封がいるのは要地だし、劉封の「思わせぶり」は現実味を帯びる。


史実では、趙雲・鄧芝が、斜谷道を攻め上がり、曹真と戦う(本作でも同じ)。趙雲・鄧芝が、曹真と有利に戦うが、これは(史実どおり)オトリである。もしも馬謖が登山をしなければ、有利に進められる。馬謖のことは、下に書きます。

◆魏延が子午道から長安を目指す
魏延は、子午道から長安の吸収を唱える。魏延の策が実現されないのが、蜀ファンのモヤッとする点だと思う。ぼくは魏延に長安の急襲をさせたい。そして、長安の獲得はできないものの、蜀軍の動きを間接的には助ける;ムダにならないという展開が読みたい。それには、諸葛亮が魏延を許す理由が必要。考え中。曹彰が長安で健在、というのが史実と違うので、ここが(物語をつくる上での;魏延が活躍するための)突破口になりそう。

曹彰が(史実に反して)曹真とともに趙雲らの迎撃にゆく。魏延がヘトヘトになりながら急攻することで、曹彰が長安の守備のために、戻らざるを得なくなる。(史実なみに)曹彰が第一次北伐の戦場に現れなくなる。……と、これでは、イフ設定とイフ設定を潰し合わせただけ。もう一段階、孔明の計略が必要。
子午道からの長安奇襲について(『姜維戦争全史』より引用。
「もし長安が魏延到着より最低でも10日持てば、魏延は曹真率いる5万に蹴散らされ、諸葛亮もそれ以上前進する事ができず、撤退を余儀なくされる。疲労した5千の兵相手に10日持たせる事はそれほど困難な事ではなく、長安の守将が防衛を決断した段階で、この作戦は完全に破綻しよう。この作戦は、自分が行けば長安はすぐに降伏するという、非常に楽観的で、根拠の薄い魏延の自信に立脚しており、それが為されなければ、代替作戦も取れず全軍撤退に繋がるという代物である。例え慎重でなくとも、採るに値しない作戦である。」
ぼくは思う。タイムテーブルをあわせると、魏は充分に諸葛亮の動きを察しており、長安の防御が間に合ってしまうと。これでは魏延が活躍しない。

そうだ。
魏延が長安を攻めるために、ムリな高速移動をさせるのは、曹彰の目線を引きつけるための、孔明の計略の一部だった。「長安に残った夏侯楙がバカで、魏延の言うとおりに長安を攻め落とすことができれば、もちろんヨシ。しかし魏延が全滅しても、蜀軍にとっては利益がある……」という、孔明の冷徹な見通しがあった。
なぜなら、史実なみに 曹叡 曹丕が長安に向かい、2月中旬に長安に入るべく西進するとき、関羽に許昌を守らせつつ、張飛が洛陽に進んだ(2人の役割は逆転も可)。孟逹もまたこれに呼応して、洛陽の攻撃に加わる。もしくは魏の救援軍を破るという形で貢献する。
蜀軍の動きが、魏にバレバレで、とくに魏延が目立つ動きをすることで、魏に長安を警戒させ、兵を集中させる(史実なみ)のは、史実では蜀軍の敗北フラグであるが、本作では、洛陽を突くための準備である。しかも洛陽に蜀軍が入れば、(史実なみに)余裕をかまして後方で督軍した 曹叡 曹丕は、たちまち孤立する。曹丕をビックリさせるため、魏延は役だった。

作中では、この戦いの後になりますが、鄴県に帰ろうとする曹丕を追撃するという、スカッとしたイベントがある。同年の12月、史実の陳倉・郝昭との戦いにタイムテーブルを合わせる。ここでは、史実なみに蜀軍が城攻めを達成できない。つまり曹丕を捕らえるには至らず、鄴県に逃げられてしまう。
先走った。まだ第一次北伐の途中です。

魏延が北伐を主張したとき、孔明は認可する。魏延の動きを察知した曹彰は、これを撃破するために、曹真(趙雲を撃破するため西進中)から分離して、長安に引き返す。魏延は、作戦の見通しの甘さを悔いる。
魏延 「オレの計画がザルだった。しかし孔明は、途中までは(史実なみに)反対していたのに、途中から(読者を驚かせるため)態度を軟化させた。まるでオレの闘争心をあおって、子午道に行かせたがったようである。オレは自分の作戦ではなく、孔明に挑発されて長安を急襲したという気分になってきた。まあ、夏侯楙・曹彰に挟み撃ちにされてから、事後的にそう感じるだけだが……」
長安の内外(夏侯楙・曹彰)から同時に攻められたら、全滅である。魏延は堅陣をしいて、曹彰の攻撃を防ぐことに努めた。急襲にやってきた防戦ばかりというのは、皮肉なことだが、魏延は曹彰を相手に、なかなかいい勝負をする。さすが名将。大局を見るのが苦手な曹彰は、魏延の攻略に心を砕いて、この戦いの期間を(ムダに)過ごしてしまう。

◆馬謖が、涼州を攻略する
書くのが遅くなりましたが、この戦いの本隊は、孔明と、その先鋒を務める馬謖・王平です。
長安を急襲する魏延を本隊に見せかけて、オトリである。趙雲・鄧芝が斜谷に攻め上がるために、魏延を捨て駒にした。と見せかけて、趙雲・鄧芝もオトリである。諸葛亮は祁山に入って、涼州の攻略を行う。馬謖は街亭に進み、魏から涼州を切りとろうとする。

この孔明ですら、半ばオトリであり、もう1つの狙いは、張飛による洛陽の攻略である。関中と荊州から同時に進行するのは、隆中対である。
天下有變,則命一上將將荊州之軍以向宛、洛,將軍身率益州之眾出於秦川,百姓孰敢不簞食壺漿以迎將軍者乎?

馬謖は、「あわや登山を思い止まるか」と読者に期待させながら、やはり登山をして失敗をする。いや、登山をしたけれど、馬謖は助かる。
なぜなら、史実では魏の涼州刺史の徐邈が、楡中から進み、同時に起きた異民族の反乱を抑えて、蜀への呼応をふせぐ。しかし本作では、馬超は遠隔地の武威・金城などを抑えており、呼応して涼州の州治まで攻めて、徐邈を破るその勢いで、馬超が山越えをして馬謖の戦場に駆けつける。張郃が山を囲んでいれば、外は馬超・内は馬謖(と王平)という2方面の相手をせねばならず、不利なので包囲を解いて、街道に陣をはり直す。

馬謖 「助けてくれてありがとう」
馬超 「お前は黙っとけ。下手くそ」
馬謖 「(私は丞相の信頼が厚い、荊州の名族なのに)」
馬超 「軍をもらいうける。王平はオレの副将にする。馬謖軍が本来やるべきだった任務は、オレが引き継ぐ」
馬謖 「丞相の許可があるのですか?」
馬超 「うるさい。では名目だけは、馬謖に指揮権を与えてやる。ただし条件がある。お口をミッフィーにすること。このマスクを付けろ(魏の楊脩のマスクと同じデザイン)。要するに、蜀軍の涼州攻略を妨げる魏軍を、撃破して回ればよいのだろう。張郃・郭淮を、引きずり回してやる」
馬謖 「(・×・)」
馬超 「(楊脩のように)これで生き残れるかもな」

勝ち進む馬超。
馬謖 「(拍手喝采しながら)モゴモゴ」
馬超 「発言を許す。1分だけ(謝罪と反省の言葉が聞けるかな)」
馬謖 「さすが丞相の神算鬼謀。私が危機に陥ることを見越してか、このように馬超を合流せしめ、魏軍を次々に破るとは……
馬超 「は? 孔明はそこまで分かってないよ。今回、オレが街亭にきてお前を救ったのは、独断でやった。いま魏軍を破っているのも、孔明の指示を受けてではない」

独立性をもった馬超というのは、『破三国志』より。

馬謖 「軍令違反では?」
馬超 「(登山家のお前が言うのかよ)おもしろい。孔明の度量を試してみよう。将というのは、戦場に出たら、独立して判断をしてもいいのだ。そんな基礎中の基礎が、ヤツに分かっているのか。また結果によって判断を変えるなら、度量が小さいな。負けた馬謖を斬って、勝ったオレを称えたなら、首尾一貫していない。総指揮官の命令として、『勝て。勝てば賞する。負ければ罰する』ほど、馬鹿バカしいものはない。『とにかく勝て、勝て勝て』なんて命令は、なくても同じだ。というか、士気が削がれるから、ないほうがマシだ」
馬超のほうがベラベラ喋っているうちに、約束の1分が経過した。再びマスクを付けられる馬謖。
馬謖 「モゴモゴ(孔明先生のことだから、時期・場所までは確定しておらずとも、馬超がこのように動くことは、見越しておられたに違いない。だから別れるとき(←伏線を作る必要あり)あんなことを言ったのだ。プライドの高い馬超のこと。指図されたら動かないが、独自に動いてると思い込ませられれば、優れた動きをする。やはり神算鬼謀。これを口に出したら、馬超はスネて隠居するだろうから、黙っておこう……というワンクッションを与えてくれただけでも、このマスクはありがたい)」

◆孔明の快進撃
馬超の活躍により、張郃・郭淮を引きずり回しているとき。じつは馬謖すらオトリで、本当は孔明が、諸郡を降伏させていくのが目的。天水・南安・安定は、順調に陥落した(史実なみ)。
姜維 meets 諸葛のイベントも起こる。

ボーイ meets ガール ≒ キョーイ meets ショカツ
Wikipediaより。Boy Meets Girlとは、物語の類型のひとつ。少年が少女に出会い恋に落ちる話。転じて、主人公の一人の少年が、わけありの少女と出会い、少女の近辺で起こる騒動に巻き込まれながらも、少女と共に騒動を解決しようとする、といった一連の話も指す。
ぼくは思う。姜維と孔明の話は、「であい」をキッカケにして、運命が変わっていくという「類型」のひとつで、それ自体が感動を誘うという構造を持っている。原典のすばらしさを、損ねずに吸収できたら成功。

史実では、馬謖の敗退により、孔明は祁山を引き払い、曹真が3郡を再び平定する。
しかし本作では、魏延が長安の郊外でネバり、趙雲が曹真を引きつけ、馬超が張郃を引きずり回し、諸葛亮による進攻を助けている。

第一次北伐の終わり

史実では、4月に曹叡が洛陽に帰る。しかし本作では、曹丕は長安に入ったまま、出ることができない。なぜなら、ほぼカラだった洛陽が、張飛によって落とされたから。長安方面に兵力を集中しすぎて(それくらい蜀軍は脅威を与えた)、洛陽が手薄だった。
魏軍だけでなく、読者すら(『反三国志』のように、関羽・張飛が荊州方面で放置されると考えて)存在を忘れていたので、洛陽はめぼしい抵抗ができない。

忘れてたが、かつて洛陽を守っていた夏侯惇は、曹丕が称帝するタイミングの直前ぐらいに、病没する。史実から大きく外れない。むしろ曹丕の拙速な称帝は、夏侯惇という重石がなくなったから。曹丕・曹植を、両腕のように使おうという夏侯惇がいなくなり、兄弟は深刻な対立関係になった。

曹丕軍は、蜀軍との戦いに加わるため、曹彰と協同して、魏延を追い払う。魏延は死なない。曹丕・曹彰が、ぴったりと連携する、というのが見せ場(魏延、ごめん)

史実では5月、曹休が孫権にだまされる。魏呉は同盟を結んでおり、孫権は魏蜀の決着を見守っているので、石亭の戦いは起こらない。


12月(本作では、もっと早いかも)馬超に押しこまれて、張郃は陳倉・散関まで後退する。敗残の張郃は、陳倉を守る郝昭を頼る。郝昭が堅守する。野戦を得意として、攻城兵器のない馬超は、「攻撃はここまで」と撤退する。馬超が去ったのを見計らい、張郃は兵站の分断を恐れて、陳倉を放棄する。
……なぜなら、趙雲が、より東の郿県を得たと聞いたから。
趙雲は、(史実なみの)撤退の命令がないから、曹真と戦い続ける。斜谷を出たところの城である、郿県を奪い(史実よりも戦果が大きい)、郿県の守備を始める。なぜ守りに転じたかといえば、曹丕・曹彰が魏延を片づけて、西進してくるから。潮時である。
馬超は引きあげてしまったが、馬謖・王平の軍は、趙雲に合流して、郿県の防御に加わる。曹彰・曹丕と戦うためである。

これら派手な戦いの後ろで、孔明は西方の郡県を、確実に接収する。史実では翌年の3月、陳式を武都・陰平に派遣するが、これを前倒しして実行する。成功した。
郿県をねらう曹丕・曹彰と、郿県をまもる趙雲・馬謖。

曹丕・曹彰は、洛陽の回復にもどるべきか、いま蜀軍を関中から駆逐しておくべきか、きっと揉める。曹丕は洛陽、曹彰は関中にこだわりそう。

この情勢ができるまでで、史実の第一次北伐からネタをひろった、隆中対を実現するための戦いは区切り。孔明が「後出師の表」をつくって、本格決戦へ。この時点までの地図をつくらないと。そして休日なのに出勤……。150720

出勤しながら振り返り、次の展開へ。
劉封を舐めていた司馬懿は、劉封(+名ばかり司隷校尉の張飛)に洛陽を奪われた。曹丕は洛陽の象徴的価値を重視し、東帰しようとする。曹彰は「今こそ兄弟が力を合わせるべき」と説得して、蜀と大決戦。
延康八年のうちに、背後では孫権が魏の弱みに漬けこみ(自発的に援助を申し入れ)、曹休に計略を仕掛けた(史実なみ;曹休は呉の相手をして、史実よりも苦労してもらう予定だから、簡単に死なない)。魏呉同盟を信じている曹休は、「魏を救うため」に呉軍の周訪らを領内に招き入れる(諸葛靚を入れたみたいに)。孫権のワナか。この時点では、孫権はこの兵をどう使うか決めていない。
あ、馬謖は、馬良の主張で、軍律どおり斬られます。『破三国志』なみ。

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