読書 > 周大荒『反三国志』を読解・分析する

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第1回~第5回 劉備が何もせず、荊州を得る

渡辺精一『三國志人物事典』(以下『事典』)参考にしながら、『反三国志』を読みます。
『反三国志』とは、正史よりも『演義』よりも正しい三国志だと標榜していますが、目指すところは、そこではない。『演義』のキャラ設定を踏襲して、彼らに適切な末路(因果応報の結末)を与えていくことを目標としている。
全体的な分析は、こちらでもやっています。
『反三国志』を超えて『反・反三国志』を作りたい

第1回 劉備が徐庶をひきとめる

9割の読者が『反三国志』を、冒頭だけ読んで挫折するので(当サイト調べ)徐庶が劉備のところに残る話だけが、けっこう有名だと思います。『反三国志』作者の周大荒氏も、冒頭を書いて短編を完成させてから、つぎの長編作成につなげるまで、時間的なブランクがあったと書いてる。
そんな創作の経緯も手伝って、徐庶は物語の展開に、あんまり関係ない。ただ、「徐庶・孔明・龐統という3人の揃い踏み」という記号が欲しかっただけ。徐庶が残ったおかげで、史実における "あの" 失敗をしなくて済んだ ということはありません。いちおう人材がプラスになったから、劉備にとって有利になったとは言えるのだろうが。
終盤、諸葛亮の死後、全軍を仕切って、残敵の呉を滅ぼすのが徐庶。しかし、徐庶ゆえの計略が発動するのではなく、ただ1城に1将をぶつけてゆく、凡庸な戦い方をする。作中でも触れられている『演義』では曹仁の「八門金鎖」を破るのだから、このキャラを有効活用して、陣形に通じているとか、色づけがほしかった。

物語は、程昱の使者の怪しさを、諸葛亮が看破する。北上する徐庶が、司馬徽に足止めされているところに、関羽の赤兎馬が追いつく。

程昱の作戦を見抜くのは、1人でいい。しかし、諸葛亮・司馬徽が別々に気づく。これじゃあ、諸葛亮・司馬徽が優れているのはなく、程昱の作戦が、穴だらけだったということでは。
程昱の使者として、徐庶を騙しにきた、通称「狗頭」は、ドジを踏んで劉備らに捕まり、自白してしまう。どうして程昱は、大切な計略を、固有名詞のないようなヤツに任せたのか。『反三国志』の描き方では、程昱がバカだった としか思えない。見抜いたほうに得点が入らない。

許都にいる徐庶母を、程昱の部下に化けた趙雲がラチってくる。徐庶と徐庶母は、劉備のもとで合流する。
おもしろいのは、ラチの場面。ある日、趙雲が徐庶母の軟禁場所にきて、「程昱さまの命令で、徐庶母を連れ出します」という。見張り番「分かりました」。後日、程昱「徐庶母はどこかな」、見張り番「程昱さまのご命令だから、連れ出させましたが」、程昱「なぜ私の許可を取らなかった?」、見張り番「程昱さまの命令について、どうして程昱さまに問い合わせる必要がありますか」、程昱「馬鹿どもめ」と。

程昱が失敗に気づいて、曹洪・楽進に趙雲を追わせるが、関羽が迎えに来ており、「関羽がいるなら、もう手が出せないなあ」と、徐庶母を諦める。

第2回 孫権が黄祖を撃ち、劉備が荊州を得る

『反三国志』は赤壁を省略する。徐庶・孔明は、今後の戦略について相談しながら、劉表が生きているうちに、荊州の南部に人材を求め、黄忠・魏延を得る。
黄忠は、董卓に賄賂を要求され(!)、それを拒否して隠棲していた。『演義』では、黄忠と関羽は戦ってから友達になる。しかし、『反三国志』では劉表が生きており、劉備は郡を制圧にきたのではないから、戦いは起こらない。『演義』よりも見せ場が減って、劣化している。
黄忠から、イモヅル式に、山賊をやっている魏延をリクルートする。この数珠つなぎは、『水滸伝』を思わせる。ストーリー上、なんの必然性もないが、新キャラを加入させたいとき、偶然に「やあやあ、好漢!好漢!」と遭遇して、腕前をちょっと見せ合って、意気投合するという。
『演義』では、人材を求めるという目的意識をもって招いたり、戦争によって勢力ごと吸収されたり、必然性のあるキャラの登場の仕方をしていた。山賊とばったり会って、仲間にするあたり、『反三国志』は、より「中国の小説らしく」なったと言えよう。

劉表が死にかける。劉表は劉備に荊州を任せたいが、蔡瑁は陰謀によって劉琮に嗣がせたい。劉表は、1話のなかで、死んだり生き返ったりを反復して、作者に都合よく生命をもてあそばれ、無事に劉備に荊州を伝えることに成功する。
『反三国志』は、劉備が全土統一する話である。ストイックに、劉備に勝利だけを経験させる、という作業ゲームである。せっかく劉備が城を得られる機会があるのに(しかも原作『演義』に裏づけられて、心置きなく城を増やせるチャンスなのに)、どうして手放すことをしようか。

たまに劉備軍が負けそうになるが、必ず退路が確保されており、悲惨には負けない。蜀将は戦いでは死なない。逆境のない小説がおもしろいのか、はなはだ疑問である。

完結にむけて、一気に進むために、劉表の生命のオン・オフを操って、劉備に荊州を与える。

原作『演義』では、黄祖が死んで、江夏太守が空席になってから、劉琦が赴任する。しかし、『反三国志』に時系列を要求するのは、お門違いである。レヴィ=ストロースの神話的な時間が流れている。黄祖がまだ生きているのに、劉琦が江夏にゆき(因果関係が壊れるから、江夏にいく理由を見つけられないはずなのに)、孫権を刺激する。
文庫本の上 077~090ページは、徐盛・甘寧が、黄祖を破るための描写。まだ、劉備軍には戦闘描写がないのに、ずっと孫権軍の働きを読まされる。お約束を守ってないよな。
好意的に物語の構成を読みこむなら、こうなる。
のちに、蜀軍が徐盛を破ったとき、孫権が「もう蜀軍と対抗できる武将がいなくなった」といい、呉が縮小フェイズに入る。蜀軍が甘寧を破ったとき、孫権が「もう呉はおしまいだ」と病気になる。呉にとって重要な武将は、徐盛・甘寧のふたりだ!と、伏線を張っているのだ。とくに徐盛の優遇ぶりが目立ち、呉で筆頭の将軍として描かれる。
作品のなかの初めての本格的な戦闘で、徐盛をやたら活躍させてしまった責任を、周大荒がみずから取ったとか(そんな殊勝な配慮はないと思うので)、周大荒が徐盛が好きだったとか、そんなところだろう。

伊籍が使者となり、劉備は荊州を得た。097ページ。
伊籍を巴陵太守として、黄祖水軍をひきつぐ。劉琦は江夏太守となり、孫権軍をふせぐ。
馬良を零陵太守、馬謖を桂陽太守、

以後、馬謖はさしたる失敗もせずに、南方の異民族の統治とか、交州攻撃の後方支援などをやる。原作でも、馬良は武陵蛮を手なずけたり、馬謖が「心を攻めろ」と名言を吐いたり、南方の異民族の統治で活躍する。所を得た配置である。

関羽を襄陽太守、蒋琬を長沙太守、費禕を南郡太守、董允を員陽太守に。
こうして、原作に反して、順調に荊州という足場を得た劉備は、心置きなく、中原に出撃していく。準備完了!といったところ。続きは次回で。

第3回 曹操が赤壁に行かず、合肥へ行く

なぜ曹操が赤壁に行かないか。劉備の荊州支配がくずれて、劉備の天下統一が遠のくからである。だから曹操に、「劉備が荊州を得ても、心配ない」と油断させておしまい。作中で、原作よりも曹操が傲慢とか、劉備がブザマとか、そういう記述があれば、この展開に納得がいくけれど……。
ここで、読者諸賢は思い起こしてほしい(←周大荒のように、読者に語りかける)。徐庶を引き抜こうとしたところ、劉備はその計略を見抜いた。原作よりも、曹操にとって、劉備が脅威的な存在でなければ、つじつまが合わない。程昱が、虚偽報告をして、曹操を丸めこんだのだろうか。「徐庶なんて、やっぱりクズでしたよ。配下に加えなくて、むしろ正解です。無能な人間を抱えて、劉備のところは立ちゆきませんや」とか。原作を上回るペースで、1州を得てるのに。
徐庶の所在について、劉備・曹操に与えるインパクトを、正しく反映させないと、話がおもしろくならない。失敗した例である。

劉備の勢力拡大に、きちんと危機感をもった孫権(リアリティがあって良い)。周瑜は、「曹操を動かして、劉備を討たせよ」と提案する。原作は赤壁の戦いが起こるべき時期であり、周瑜は曹操に対する危機感を募らせる。しかし『反三国志』では、劉備を排除できるなら、曹操を動かそう、となっている。まるで原作の、呂蒙が魏軍と連動して、関羽をだまし討ちにするという段階まで、すでに突入している。
原作では、劉備は土地を失って逃亡したから、孫権と同盟が成立した。これは、劉備が生き残るには他に方法がなかったし、孫権にとっても利益のある取引だったことを気づかせる。もし、史実にあるように、諸葛亮の勧めに従って劉備が荊州を得ていれば、孫権とは、接触の直後から、絶対的なライバルとならざるを得ない。孫権と劉備がいがみあって、最強の曹操軍が南下してきたら、どうなっていたんだろう。史実の劉備は、荊州を得られなくて逃亡したから、存続できたかも(結果論)。

張紘が、曹操に会いにゆく(このタイミングで張紘を動かすのか!)。周瑜の思惑どおり、曹操を動かして、その隙に劉備を攻めようとする。
しかし荀攸は、周瑜・張紘の作戦を見抜いている。むしろ、「呉の思惑に乗ったふりをして、劉備を攻めるふりをしつつ、曹操・曹洪が孫権を攻めればいい」という。これは、史実で赤壁の直後、孫権軍が合肥を囲むことを 攻守を逆転させて踏襲しているか。神話分析では、このような逆転は、頻繁に起こることである。攻守が逆転しても、「同じこと」と見なすことができる。……いや、原作の踏襲などではなく、ただ曹操と孫権の戦いを描きたいだけだろうな。

第4回 張繍が魏を裏切り、楽進が死ぬ

劉備と孫権の境界である、江夏は徐盛が守る。この一事をもって、徐盛がもっとも重要な人物であると分かる。
『反三国志』で発生している、劉備と孫権との国境線を接した緊張は、史実・原作にはない。つまり、『反三国志』がオリジナルで作り出してしまった要所を、徐盛が任されている。周大荒からの期待が大きいのである。

この徐盛のところに、魏から張繍が投降してくる。曹丕が張繍をいびるから(こんなところだけ原作に忠実である)張繍は魏から離れることを決めた。張繍は、徐盛に「曹操は、周瑜の計略にのって劉備を攻めるふりをして、じつは孫権を攻めるつもりだ」と教える。

『反三国志』において、「話が前進すること」とは、「蜀以外の武将が死ぬこと」と同義である。全員を殺し尽くしたら、そこで話が終わる。逆にいえば、武将の死以外の戦況に関する描写は、ほとんど意味がない。ぼくは、戦況を分析することにおいて、ネットの三国志界隈では劣る部類ですので、『反三国志』に画期的な戦況の描写があっても、気づくことができない。しかし、『反三国志』のレビューは、戦闘がつまらない、と書かれていることが多いので、つまらないという評価でいいのでしょう。

曹丕(バカ)が張繍をいびるから、徐盛(名将)が曹操の計略を見抜く、という順序で始まった戦いです。当然ながら、「魏将が死ぬ」という結果が必要。これは、呉にとっての戦果ではなく、作者にとっての(話が前進したという意味での)成果です。
不幸な抽選に選ばれたのが、楽進でした。
原作『演義』68回、楽進は凌統と戦っていたところ、甘寧の矢を受けて落馬して、以後「物語からふっつりと姿を消す(『事典』より)」人物です。『演義』で最期が描かれない人物なら、さっさと始末してもいいよね、という周大荒の判断だろう。

史実では218年に死ぬ。作中は、だいたい208年ごろだろうから、10年も前倒しして退場となる。

いやに、あっさり楽進を殺した!という、魏ファンからの怒りが聞こえてきそうだが、以後『反三国志』は、加速度をつけて、戦闘→武将の死、というパターンをくり返す。このパターンに先鞭をつけて、物語の構成上は「意義のある戦死」をした楽進は、むしろ厚遇されていると思う。

三国志警察であり、地獄の裁判官でもある周大荒によって、「どういった死に方を与えられるか」というのが、『反三国志』を楽しむ上での眼目です。


さて、楽進が死んだわけですが。
『反三国志』では、呉は扱いが軽いというウワサがあったが、全然そんなことはない。むしろ劉備よりも、ていねいに描写されている。まだ劉備は、1回も戦っていないことを忘れてはいけません。主人公じゃないのかよ。

第5回 周瑜が曹操を言い負かし、張虎が死ぬ

126ページ、孫韶(孫権の義兄弟)が登場する。孫韶は、孫権の分身のような扱いをされ、 重要人物です。なぜ孫韶が重要人物だと知れるかといえば、死ぬときに名場面をもらうからです。

原作では、『演義』86回で、曹丕を迎撃する徐盛と、方針において対立する。けっきょく徐盛の作戦があたって、曹丕を追い返して、孫韶が追撃を担当する。孫韶が『反三国志』で活躍するのは、原作で、徐盛と濃厚接触するからだと、ぼくは思います。

孫韶は、曹操の計略が敗れたことを、孫権に報告する。
「曹操軍は、太史慈が小峴山で食い止め、呂蒙が支援し、甘寧も九江から駆けつけました。楽進を殺しました」と。

周瑜が曹操軍と戦うため、前線に駆けつけた。周瑜と曹操が舌戦をおこなう。赤壁の戦いをやらない代わりに、周瑜と曹操が、直接 口げんかをする。
曹操「孫権が朝廷に服従しないから、攻めている」、周瑜「曹操こそ、朝廷をナイガシロにしている」と、議論の内容はおもしろくない。周瑜が口喧嘩に勝ったことを確定させるため、張虎(張遼の子)が殺される。

原作で張虎は、楽進の子の楽綝とともに、コンビで活躍する。98回、祁山で孔明に破れる。100回、蜀軍にハダカにされる。106回、司馬懿に従って公孫淵を破るなど、最後まで生き残るキャラである。
なぜ張虎が、死なねばならないか。合肥といえば張遼であるが、合肥方面で魏軍が負けたという、ストーリーを印象づけるために、張遼から子を奪ったのである。原作では、史実に基づいて、合肥でたびたび衝突が起こる。孫権が、張遼に殺されそうになる場面もある。しかし『反三国志』は、合肥の戦いは、これきりである。だから、張遼にきっちり代金を払わせ、この話は終わりとする。
張遼にしてみれば、身に覚えのない借金の取り立てにあったようなもの。


張虎のことを挽回するため、魏軍が夜襲をかけるが、于禁が捕縛される。于禁といえば、捕縛されるキャラである。周大荒は、この属性が気に入ったのか、『反三国志』で于禁は、2回か3回、出陣のたびに捕縛される。どうやら、原作において一度でも、「曹操を裏切って関羽に降った」という于禁を、周大荒は厳しく罰せずにはおれず、何度も恥をかかせる。曹丕は、『反三国志』で精神薄弱なので、原作なみに于禁を罰する機会がない。だから周大荒が、代わりに于禁をいじめる。

江夏に投降した張繍も、長江を降って、曹操との戦場に到着する。せっかく張繍が降ったのだから、張繍が曹操軍を困らせなければ、物語が捗らない。お約束どおりに、張繍が曹操軍を困らせて、曹操は撤退に追い込まれる。
合肥城には、劉曄・張遼を残して、曹操軍はひきあげた。

さて、なんの脈絡もないとはこのことで、物語が停滞したから、新キャラを出して打開をはかる。いきなり益州の劉璋が出てきて、曹操を頼る。
荊州を劉備が支配しており、かつ曹操が合肥で散々に破れたのだから、劉璋が頼るべきは劉備だろう。劉璋が動いた理由を、「漢中の張魯が脅威で……」と、原作なみのことが書いてある。しかし、劉備が荊州を抑えているのだから、陸続きの漢中を牽制できるなら、やはり劉備である。

史実・原作では、曹操が荊州を接収したときに、劉璋は曹操に使者を出して、援助を求める。これが正解であり、これを『反三国志』で読み変えるなら、初めから劉備を頼るべきである。しかし、劉璋が劉備を頼らないのは、理由がある。理由は後述します。


◆夏侯淵の漢中支配
漢中の張魯が、劉璋の領土を狙ったとき、なぜか史実から大幅に前倒しして、夏侯淵が漢中を「点」で獲得する。そして、長らく維持する。

史実・原作では、曹操が211年に張魯を討つぞと号令したところ、馬超たちが潼関を通せんぼする。夏侯淵が関中を平定して、領土をつなげてから、215年、やっと漢中を獲得する。

『反三国志』では、なぜか夏侯淵が漢中にワープして、支配をする。しかも、兵站線の維持にも、ワープ装置を使っているらしく、単独で維持する。まあ、張魯が漢中だけで、自主・独立していたのだから、単独で割拠することは可能かも知れないけれど……。
基本的に、劉備の得点を増やすことがあっても、曹操・孫権に得点を与えることがない『反三国志』において、夏侯淵の漢中の(史実・原作よりも早く・長い)支配は、いびつに見えます。おそらく、原作のストーリーが複雑なので、話の行方を見失った結果かと思われる。

という、やっと作中で209年に移ろうかというころ、時系列が破綻する。つづきます。150709

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第6回~第10回 劉備が馬超と合流し、益州を得る

第6回 趙雲が益州の地図を拾う

作者は、息切れをしたらしく、いろいろな文献からの引用をして、蜀を紹介する。しかし本作は、劉備が荊州に本拠地を移す。「蜀」ではなく「漢」と書かれる。益州は、あくまで後方の兵站であって、あんまり郷愁の対象とはならない。
さて、
作者が回り道をしながら、張松の足取りを描く。張松は、酔って五斗米道に捕まって殺された。素性不明の「張逵」というオリジナルキャラが生き残る。

史実・原作では、荊州の曹操に会いに行く。しかし『反三国志』では、荊州には(交渉を持たない)劉備が居座っている。曹操に会うには、漢中を通るしかない。しかし、張魯に対抗するために、張魯の領土を通って曹操に助けを求めるなんて、おかしい。そして、道中で泥酔するというのも、マヌケすぎる。いずれも、張松を殺すための舞台装置だが、それにしても、マヌケすぎて、リアリティが感じられない。


張松が死ぬと、オリジナルキャラの張逵が、代行して許都をめざす。この張逵は、張松の任務が何かを知らなかったが、持ち物から推論して、亡き主人の役割を推測する。
この張逵なるキャラは、張松と同姓であるのに、血縁関係は設定されず、ただ「使用人」である。本来なら、張松が行うべき仕事を代行させるために、便宜的に作られた分身だろう。分身だから、同姓である。そのくせ、恩讐・利害・価値観を継承しなくていいように、消毒済みであり、「使用人」という中立な立場になってる。口がうまい(頭がいい)というのも、史実・原作の張松と重なるのに……。
では、なぜ『反三国志』は、張松を許都にゆかせ、劉備のもとに立ち寄らせなかったか。なぜ張松ではダメだったのか。
ぼくが思いますに、劉備が劉璋を攻めることを、正当化するためだろう。のちに作中で、劉備+趙雲が、やる気を出して成都を包囲しているとき、馬超+馬雲緑と合流する。劉璋は、明確な敵であり、討伐が必要な「悪役」でないと、話が引き締まらない。
もしも劉備が、張松から招待されておきながら、成都をゴリ押しして攻めたら、恩を仇で返したことになる。しかし、張松とは違い、なんの経緯も知らないオリジナルキャラから、ひょんなことから劉備が益州の地図を手に入れたら、これは偶然・事故です。劉備は、遺失物を有効活用しただけ。
史実・原作では、「劉備の益州攻めは、是か非か」という難しい問題があり、龐統と協力しながら、正義の所在について悩むわけですが。『反三国志』は、そういう複雑な葛藤は要らないので、切りとりの対象として、益州を押しやる。そのために、オリジナルの張逵です。
諸葛亮は、地図を得たことの好運を喜んで、笑う。「劉璋が、益州を届けて参りました。ラッキーですね」と。劉璋のあいだに、貸し借りは存在しない。

史実・『三国演義』の劉備には、2つの負い目がある。孫権・魯粛から荊州を借りたのに返さなくていいのか。劉璋から頼られたのに、乗っ取っていいのか。『反三国志』はこの葛藤を除くため、劉備が荊州を自力で得るし、益州の地図はたまたま入手する。これで後ろ暗さはなくなったが、面白いのか?


◆夏侯淵が漢中を得る
張逵は、地図を劉備に奪われながらも、曹操に「張魯を討ってくれ」と説いた。『反三国志』の曹操は、主体的に行動を開始することがなくて、周瑜から「劉備を攻めろ」と言われたら、のそのそ動いたり、劉璋から「張魯を攻めろ」と言われたら、のそのそ動いたり。
曹操は夏侯淵に命じて、漢中を討たせる。165ページ。

夏侯淵は、漢中を攻めるにあたって、馬騰を先鋒として使役しようと、召集した。鍾繇が、馬騰の説得にいく。ところが馬騰は、「曹操の命令なんて聞かないもんね」と無視をする。史実・原作と、キャラが変わっている。
『反三国志』の隠れた(きっと隠すつもりもない)主役は、馬超です。馬雲緑というオリジナルキャラの娘を授かり、趙雲と縁続きになった。馬超の原動力が、父のかたきを討つ!です。
史実では、馬騰が鍾繇に説得されて帰順、馬超が起兵、馬騰が殺される、という順序です。原作『演義』では、馬騰が帰順、馬騰が殺される、馬超が起兵、と順序を逆転して、馬超の起兵に理由を与えます。『反三国志』は、さらに馬氏の立場を単純化して、馬騰が帰順しない、馬騰が殺される、馬超が起兵、という順序にした。馬氏は、一貫して曹操と敵対しているのだと。分かりよいが、この単純化により、鍾繇の功績は消えたし、曹操も何をしたい軍閥か分からなくなった。

『演義』のキャラ設定を、純粋化したと捉えるべきでしょうか。『演義』は、史実に引きずられて、できごとが補正される。その結果、状況が分かりにくくなったり、是か非か……という論争のタネを生む(それが面白いんだけど)。『反三国志』は、それらのタネを、すべて摘む。

馬騰は、夏侯淵・鍾繇に向かって、「曹操に協力などするものか」と、早くも拒絶を提示することで、主人公の馬超の登場を準備したのです。これが伏線である証拠に、馬騰は断り文句だけ言ったら、作中から一度、消える。ほんとに所信表明だけのために、ちょっと出てきたのだ。重要なことだから、早めに言いましたと。

馬騰に無視されても、ちっとも挫けない夏侯淵。むしろ、史実・原作の211年の馬超のように、潼関で通せんぼされないだけでも、儲けものである。夏侯淵・張郃が漢中を落とした。
張魯は戦死して、楊伯・楊松・閻圃といった、漢中の武将たちも殺される。かつて、夏侯淵が枹罕で宋憲を斬った例に則って、張魯の部下を全殺した。
史実では、もちろん張魯は封建されて、のちの教団の開祖となる。張魯の部下たちも、曹操に合流する。しかし『反三国志』は、戦果=武将の死・退場=マップ上がすっきりする、という図式である。曹操の徳が減殺されても、構わない。もしも張魯が曹操の将になったら、あとで蜀将が張魯を殺すという手間が増えるじゃないですか(逆ギレ)というわけです。

第7回 馬騰が曹操に殺され、劉孫が婚姻

曹操は、夏侯淵を漢中太守にして、張郃・夏侯徳・夏侯尚に要地を守らせた。夏侯淵は、一気に劉璋を討ってしまいたいが、(夏侯淵が蜀を得ると、劉備の覇業が遅れて都合が悪いので)曹操は、関中の馬騰に取り組むことにした。

ほんとうに馬騰が脅威ならば、夏侯淵が漢中に進み、張魯と戦うこと自体が危険であり、矛盾している。だから史実では、潼関の戦いが起こったわけで。何はなくとも、とりあえず夏侯淵が漢中を確保というのが、至上命題である。
なぜか。劉備が漢中王になるのを、もったいぶって遅らせるためじゃないか。夏侯淵が漢中を安定的に統治していたら、劉備はここに進むことができない。『反三国志』で劉備は最強だから、もしも夏侯淵と戦えば、絶対に勝てるだろう。史実・原作ですら、劉備は夏侯淵に勝つのだから、圧倒的に劉備が勝てる。
ところが『反三国志』は、『演義』劉備の謙譲の美徳を、誇張して称えたいという、作者なりのニーズがある。そのために、劉備は皇帝にならない。せいぜい、漢中王がゴールである。ゴールにいち早く到達したら、途中でダレる。
だから、漢中はおあずけ! 全59回のうち、29回まで待たせる。
いつかぼくは、ツイッターで質問しました。「もしも劉備が中原を平定して、献帝と出会った後、劉備が皇帝に即位するか」です。史実の劉備なら状況にせまられれば、即位するだろう(というか史実では、益州だけを支配して即位してる)。しかし『演義』劉備なら、即位しない。というご意見を頂戴しました。『反三国志』は、そのとおり、『演義』劉備を踏襲した上で、うまく誇張して表現してるわけです。


華歆(献帝・馬超を迫害することで、生きながらに、股の肉を切られるひと)が、馬騰をおびき出すという計略を立てる。華歆は、原作『演義』では、献帝をいじめる。しかし『反三国志』では、馬騰をいじめるという罪も重ねて背負わされる。報仇に燃える馬超によって、残虐な殺され方をする。
さて馬騰。
馬騰は、朝廷の命令とあらばと、健気にもおびき出される。曹操は、馬騰・馬休・馬鉄を捕らえて殺した。
しかし、馬騰が殺されるのは、重要な伏線だとしても、単純に魏が得点を重ねることは許されない。馬休が、夏侯惇の残った方の右目を射る。こうして全盲になった夏侯惇は、退場する。

全盲の重鎮として、国政を牛耳る……、という凄味のある夏侯惇を、ぼくならば描いてみたい。しかし『反三国志』は、魏将の頭数を減らすことに眼目がある。全盲の重鎮として、再登場されては、意味がない。
劉備は、まだ一度も戦っていないのに(回数では11%も済んでいる)、魏将が削られていく。『反三国志』とは、劉備が何もしないで、状況に助けられて勝ち進む話です。関羽・張飛すら、あまり敵将を斬らない。劉備・関羽・張飛が活躍してしまえば、「反」たる面目が失われてしまうから? 余計な気遣いだよなあ。


馬休・馬鉄を抑えようとして、王必が死んだ。曹操は、身辺警護の将から、鄧艾・鍾会を抜擢して、曹洪を輔佐して、馬岱・龐徳を撃ちにいかせる。

鄧艾・鍾会は、ずっとペアで働き、蜀軍を悩ませる。彼らを片づければ、魏軍はあらかた片付いた……、と言えるところまで、若い2人が粘る。
225年の生まれの鍾会は、史実・原作では、まだ生まれていない。この2人は、史実・原作で蜀を滅ぼした張本人という記号的な役割を振られて、ずっと出づっぱる。彼らを引きずり回して、後退戦の苦しみを味わわせ、スカッとしたい、というのが『反三国志』の趣旨であろう。

鄧艾・鍾会の登場に呼応して、早くも姜維が登場する。
天水太守の馬遵は、馬騰・馬超の一族という補正がかかり、姜維を推挙して、馬超の仇討ちに参加させる。
曹洪・文聘が、涼州に攻めこんで、戦闘が起こる。

◆劉備と孫氏が結婚する
曹操を合肥で追い返したまま、フリーズしていた(作中で登場していなかった)周瑜は、曹操との対決に備えて、劉備との同盟を思いつく。 周瑜は、孫権の妹を、劉備に嫁がせる。呉国太も賛成してくれる。しかし呉国太は、『演義』のように、劉備を助ける役割を果たさない。ただ家族の一員として、口を出しただけだ。

呂範が、婚姻の交渉に来た。
孔明は、「益州を攻め上がるとき、背後を周瑜に突かれたら困る。呉と同盟を結んでおくのがよい」という。

史実では、周瑜が益州に攻め上がるとき、劉備が邪魔をするのだが。劉備が自力で(孫権との関わりを持たず)荊州を得たから、堂々と長江を遡上する権利がある。


第8回 太史慈が死に、馬超が長安を得る

荀攸は、孫権・劉備を分断するために、「合肥を攻めて、孫権を困らせろ。劉備が荊州から支援しようとするだろう。その隙に夏侯淵が、漢中から益州に攻め下れ」という。べつに計略ではなくて、魏の国力を利用して、二方面で同時に戦いを起こせと言っているだけだが……。
魏は胡烈が死に、呉は太史慈が死ぬという被害がでる。これもまた、魏呉の戦いを描くことに目的があるのではなく、蜀のために「蜀がいずれ倒すべき武将」を目減りさせているのだ。荀攸の計略が、計略とすら呼べないのは、魏呉を潰しあわせることに、作者の狙いがあるからである。戦略的に価値がなくてもよい。

原作『演義』で太史慈が死ぬのは41回。早過ぎる死ではない。
問題は胡烈。『演義』で胡烈は、蜀の滅亡に立ち会い、姜維に捕らえられるが、配下の丘建の手引きで助けられる(119回)のこと。原作で最後まで生き残るひとを、しれっと殺しておくのが、周大荒のやり方。張虎も同じである。というか、原作の最後で活躍するのだから、作中の時点では、生まれる前とか、少年時代とかだろう。一軍を率いて、しかも戦死させるのは無理がある。

◆馬超が長安を得る
馬雲緑が202ページで登場する。許都から逃げてきた馬岱から、馬騰の死を聞かされる。3日以内に白衣をつけた3万で出陣する!とか、張飛の死亡フラグのような指示を出して出陣する。
韓遂(賈詡からの金帛による籠絡を断って、様子を見ていたが、馬超が強そうなので馬超に味方することにした)、程銀・楊秋、韋康・楊阜は、馬超の進軍を妨げない。原作では、はじめ馬超に味方して後に曹操に降ったり、初めから曹操側の武将として現れたりする、涼州の軍閥・地方官であるが、この時点では「青信号」の表示であって、馬超に道をゆずる。
主人公としての補正が利いている。馬騰の死は、全作者の同情を買った痛恨事であるから、馬超は、長安太守の鍾繇をたちまち破った。鍾繇は逃亡して、長安は馬超のものになる。さすが主人公の補正である!

対する魏軍は、曹洪が、鄧艾・鄧忠の父子をつかって、龐徳・姜維をふさぐ。まだ少年のはずの鄧艾の、さらにその息子まで登場する。ここだけ、原作『演義』の後期まで、時代が進んでいる。
時代が進んだついでに、まだ生まれていないはずの鍾会が、父の鍾繇を助けて、長安を奪回しようとする。この親子の共闘が見られただけでも、『反三国志』が時系列を破壊してくれてありがとう!と思う、読者諸賢(?)がいるに違いない。

宝鶏(陳倉)を守るのは、文聘である。劉表が曹操に降伏していないのに、なぜ文聘が魏将なのか理解に苦しむが、とにかく文聘が宝鶏を守っている。支えきれないと思い、漢中の夏侯淵に助けを求めた。原作と違って、まったく粘らない文聘である。
主人公補正のきいた馬超には、誰も敵わないのだ。
馬超は潼関に進んで戦い、鍾繇・丁斐を馬超に捕えた。原作の潼関の戦いとは違って、馬超の勝利である。ただし、大会戦の見せ場があったのではなく、1将と1将がぶつかって……というワンパターンの反復である。
馬超が報仇のために、活躍するのは構わない。魏の重鎮である鍾繇を、捕らえたのもすごい。しかり、劉備軍は、まだ一度も戦っていない。いいのか『反三国志』。

第9回 馬超が潼関で勝ち、劉備は益州へ

長安をほぼ無血で得た馬超。曹洪は漢中に逃亡。関中は、馬超のものになった。そこで曹操は、自ら出陣する。
史実・原作の211年に該当する展開かと思いきや、20歳の曹倉舒が現れることから、作中で215年まで進んでいることが分かる。年代が特定できる記述が登場するのは、じつは初めてである。

物語の開幕直後、劉表が死ぬことから、208年ごろに始まったんだろうな、と推測していたに過ぎない。もっとも、このあとに周瑜が28歳で死ぬという不思議な現象が起こり、年表がぐちゃっとなるのだが。


馬超の関中は、南の漢中から夏侯淵が、東の中原から曹操が、押し寄せる。
馬超を見た曹操は、「南に周瑜、西に馬超。まことに英雄は齢若し」と感心する。周瑜と馬超が、曹操を挟み撃ちするというのは、ハイパーな展開であるが、『反三国志』ではうまく表現されている。

周瑜奔れ―ハイパー三国志 (勁文社文庫21): 桐野 作人

魏の若武者として、まず馬超に打ちかかり、カモとなるのは、曹倉舒である。史実よりも長生きさせてもらった彼であるが、馬超を見たら興奮して突撃し、馬超に斬られる。さしずめ、「これは馬休の恨みの分だ」といって、ぶん殴られるようなものだ。曹倉舒は、馬超に殺されるために、この日まで長生きした。
曹彰が援護するひまもなく、曹倉舒は斬られた。

許褚と龐徳が数日にわたって戦い、龐徳が戦死した。原作『演義』で、馬超を裏切って曹操についた龐徳は、報いを受けよという設定である。関羽と戦うなんて、僭越である。そんな活躍の場を与えることなく、今すぐ片づけ!と。
曹操軍の臧覇が、馬超に斬られた。原作『演義』48回で、赤壁の前夜に、徐庶とともに、馬騰・韓遂の乱の平定のため、長江から離れて姿を消す。馬超との戦いで始末するという結末を用意しただけでも、『反三国志』は目配りが利いているといえる。

馬超軍の程銀・楊秋、曹操軍の夏侯和・夏侯覇を殺すなど、痛み分けで戦いを終える。
夏侯覇は、原作『演義』で蜀に寝返る。蜀ファンのためには、夏侯覇には味方になってもらいたいが、周大荒はそんなリクエストは聞かない。原作では115回まで生き残るが、あっさり殺された。裏切りという行為が、地獄の裁判官=周大荒に許されなかったのだろう。夏侯和は、103回まで出てきて、司馬懿と諸葛亮の戦いのなかで登場する。やはり、早すぎる死である。
原作の後期に活躍する武将を、前倒しして登場させた上で、さっさと掃除してゆく。それなら、無理して前倒ししなくてよいのでは……? という気がしないではない。

曹操は、夏侯楙に関中の政務を委任した。魏延に「子午谷をつっきり、長安の夏侯楙を突きましょう」を成功させてあげるための配慮である。楊阜・韋康を、関内侯にして、馬超が食い破るためのエサを配置した。
曹洪・文聘は、許都に帰って、かわりに鄧艾・鍾会を置いてゆく。原作『演義』で、蜀を滅ぼしたこの2人の将軍は、架空の蜀との戦いをするために、やたら登場回数がおおい。

◆劉備が蜀を攻め、関羽・張飛が留守番
孔明は、劉備に蜀取りを勧めた。地図は拾得物に過ぎないので、劉璋を攻めることに、なんの問題もない。
大切なのは、荊州の留守番である。関羽・徐庶に荊州を守らせ、張飛・龐統に襄陽を守らせ、趙累・関興に南陽を守らせる。
関羽は、徐庶がいることで、史実のような独断専行をしない。だから戦死もしない。原作を踏まえて読むと、関羽が失敗しないので、胸をなで下ろすところ。しかし『反三国志』だけ読むと、関羽の失敗の兆候がなく、徐庶の諌言がないので、徐庶のありがたみに気づくことができない。もっと「史実と分岐してるぞ」というアピールが必要。

龐統は、蜀にゆくと落鳳坡で戦死するから、蜀に行ってはならない。というわけで、お留守番である。原作での龐統の役割をする軍師が、劉備軍にいないから、リアリティに欠く。
さらに言えば、原作での張飛の役割を代行してくれる猛将が、『反三国志』で劉備軍に加入したわけではない。張飛は、関羽とペアになって荊州に残り、あまり見せ場がない。原作の張飛の手柄は、趙雲が盗む。たとえば、厳顔を降すのは、趙雲に振り替えられる。まるで張飛は、龐統が荊州に残るための理由をつくるため、「龐統が仕えるべき将軍」という役割で、荊州に残らされたようである。
まあ、張飛ぬきでも、劉備は益州で勝つから、べつに結果オーライかも知れないが、関羽・張飛が何もしない三国志って、蜀ファンの需要を満たすものではないと思います。荊州に、関羽・張飛、徐庶・龐統を、密集させておきたいぐらい、周大荒にとって「劉備が荊州を失うという失敗を訂正したい」という気持ちが強いということか。

蜀を攻める劉備。楊懐・高沛という、原作では劉備が初めに殺す武将が、趙雲に刺し抜かれる。231ページ。
ここで劉備軍は、いちはやく王平を得る。周大荒の関心は、原作で劉備軍がやった失敗を訂正することである。劉備軍に新しい活躍の話を与えるというより、失敗を是正するという方向に、知性を働かせている。周大荒 本人が、ちょいちょい書いているから、その通りなのだろう。
王平は、馬謖の登山を諌めたというエピソードがあるから、扱いが重い。さっそく王平は、馬超を説得して、劉備と連携させる、という重任を帯びる。新たに降ったばかりの王平に、どうしてそんな役割を任せるのか……、という読者の疑問を想定して、周大荒は理由をつける。「趙雲に気に入られたから」と。あっそう。

張任は、原作のように、投降の勧誘を受けることもなく、矢をめった刺しにされて死んだ。身の置き所がないほど、矢をしこたま降らせ、問答無用に殺すというのは、周大荒が得意とする戦法です(笑)

第10回 劉備と馬超が、成都の南北から合流

劉備が益州を攻めている。厳顔が降り、張任が死んだから、劉璋は動揺した。孟逹が、成都の籠城を勧めて、容れられる。劉備・馬超が、成都を囲みながら合流するという舞台装置のために、劉璋には持ちこたえてもらう必要がある。
さらに劉璋は、夏侯淵に助けを求める。

馬超は、王平に動かされて、南下する。
史実・原作では、葭萌関・綿竹を降しながら南下するのは、劉備の役割である。なぜなら史実・原作で、劉備は、張魯に対抗するために北方に出張っていたから。しかし『反三国志』の劉備は、史実・原作で趙雲・諸葛亮・張飛がやるように、荊州から入って、まっすぐ成都を攻める。その結果、北方の劉璋軍が残ってしまう。そのゴミ掃除を、馬超にさせようというのが、『反三国志』である。
馬超は、李恢・李厳を味方に降す。
オリジナルキャラの馬雲緑が、「活躍の場がないと、創作してもらった意味がありません。趙雲さまの気を引きたいし」といって、劉カイ・黄権と戦う。

劉備・馬超が合体して、成都を攻める。劉璋は音を上げて降伏した。劉備は劉璋を、馬良の代わりに零陵太守にする。
劉備は、益州牧・大将軍を自称した。馬超を右将軍、馬岱を平北将軍、王平を驍騎将軍、厳顔を閬中太守、黄権を巴州刺史、法正を監益州軍事、李厳を蕩寇将軍とする。
韓遂を金城太守、馬遵を天水太守、姜維を征虜将軍とする。龐徳にも将軍号を追贈した。
これにて、劉備・馬超がひとつとなり、心置きなく、馬超を劉備のために働かせることができる。劉備は動くことなく、ほぼ馬超の動きによって、天下統一がなされる。それを劉備の勝利として読み変えることができる。

なぜ周大荒『反三国志』は、馬雲緑(馬超の妹)を創作し、趙雲と結婚させたか。蜀陣営を賑やかすためではない。
『反三国志』は蜀が天下統一する話だが、武功の大半は馬超のもの。劉備はほぼ動かず、関羽・張飛は荊州を留守するだけ。「馬超が劉備のために働く」、「馬超の手柄を劉備に帰す」理由が必要。
いま、成都で劉備軍と馬超軍が合体した。史実・原作『演義』で、馬超は敗残者であり、劉備が優位なのは当然。しかし『反三国志』の馬超は、曹操に勝った関中の支配者。馬超が下位となる理由が必要。馬超は「馬騰の旧知だから」劉備に従い、劉備は「馬騰の仇を取る」を真っ先に誓う。250ページ。
馬騰を忠臣として重視するのは、『演義』仕様ですね。
馬騰を媒介に、劉備・馬超の同盟が成り、それを固めるために、対等な軍閥の「政略結婚」として馬雲緑と趙雲が結ばれる。馬超の肉親がほしい、趙雲に結婚相手がほしい、女性武将がいたら華やか…という効果は副産物。
馬超が馬騰の仇を取ると、同盟の必然性がなくなるが、馬雲緑がカスガイになり、馬超は劉備軍の将を続ける。趙雲・馬雲緑が、手を取り合って城を守っているのに、馬超が劉備から離反することは、考えにくい。まさに政略結婚の効果。
ポイントは、馬超が劉備の外戚になるわけじゃないこと。劉備は、『反三国志』で諸葛亮とは姻戚関係にある。しかし馬超は、趙雲の姻戚どまり。あまり馬氏に権力を与えてしまうと、馬超の王朝ができちまうから。

◆宦官の穆順
映画『銅雀台』(邦題『曹操暗殺』)で、玉木宏がやっていた宦官の穆順。これが256ページに登場する。ちなみに原作『演義』では、66回、頭髪のなかに伏完の文書をひそませ、曹操にバレて殺された。
曹操が劉備の優勢にイライラした(気づくのが遅い)。これを見た穆順は、「いいキミですね、曹操のやつ。ね、陛下、そうでしょう」と献帝のところに話にゆく。献帝・伏皇后が「そうだな、いいキミじゃ」と喜んでいると、それを曹操に知られ、「なにを笑っとんじゃい」と怒鳴り込まれる。

◆管寧が海に飛び込んで死ぬ
そのころ(マジで話が飛びます)管寧は。
この管寧は、原作『演義』では、穆順・伏完のくだりに続く、第66回に出てくる。周大荒は、『演義』をチェックしており、「管寧が遼東の楼閣に住んで、死ぬまで魏に仕えませんでした」という記述を見て、管寧について書いてみる気になったようである。突然、スイッチが入ったのだ。

管寧のところに、隣に住む老人がくる(世論を代表する)
「曹操が献帝を脅かして、困ったことである。いずれ曹操が、献帝を殺すかも知れない」
友人の邴原がいう(読者を代表する)
「もうすぐ劉備が中原を回復する。安心して待てるね」
管寧 「劉備の部下は、功利を求める連中。乱世には、献帝を奉戴して大義名分をつくり、平和になれば、献帝を針の筵に座らせる(曹操と同じことをやるだろう)。項羽は義帝を担いだが、のちに殺した。あれと同じである」と。
管寧は野蛮な戦争(曹操vs劉備)を虚しく思い、海に身を投げた。

・・・

ちょっと! 『反三国志』は蜀ひいきの小説ではなかったのか。むしろ管寧の言っていることのほうが真実めいている。
なお、『反三国志』は史論のタネを、ことごとく排除する。もしも劉備が献帝を奉戴したら、管寧の言うとおりになると、周大荒は考えているのだろう。だって原典にない台詞を、でっちあげたのだから。
しかし安心。先に曹操に献帝を殺害させれば、この問題が起こらない。管寧のしていた心配は、悪い意味で、杞憂に終わりましたとさ。

g_kasya さんはいう。サイトを読みました。管寧に言わせていることは、実は周大荒の生きていた時代の投影ではないかと思います。『反三国志』はむしろ三国志の時代を借りて、当時の軍閥乱立する世を描いた作品と言われます。つまり、管寧が劉曹の争いを野蛮と思っているように、周大荒自身が生きている時代の争いを、彼自身が不毛だ、と思っていたと考えます。


『反三国志』は、ちっとも蜀ファンを喜ばせることに、力を注いでいない。むしろ、周大荒なりの正義を執行することに、力を割いている。というのが明らかになってきたところで、次回につづきます。150711

@oryzae509 さんはいう。反三国志って…その…「蜀贔屓の架空戦記」だと思ってたけど…Pixivとかにある、本編で気に入らないことしたキャラをひどい目に合わせるタイプの小説とアプローチがものすごく似てるなぁ…F/Zとかタイバニとかで流行ったやつ。気に入らないキャラを罰することと、気に入らない展開を排除することに入れ込みすぎて、面白さがなくなってるというか……

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第11回~第15回 曹操が皇帝に、魏呉同盟が成る

第11回 劉備が伝国璽を得る

開国者の劉邦には、良心のカケラもなく、韓信・彭越・英布を殺した。そのくせ、匈奴が脅威になると、「豪傑を得て、四方を守らせたい」と、チグハグなことをいう。
さらに後漢は、党錮の禁で、清流派を圧迫したから、黄巾の乱が起きて当然である。というのが周大荒の歴史観。

祖先の因果がむくいて、献帝は、曹操・華歆・郗慮にいびられて殺されたのである……。というのが周大荒の立場であるから、彼には、漢王朝を神聖視するつもりはない。献帝がひどい目にあうのは、劉邦や霊帝のせいであり、当然の報いである。献帝は、べつに可哀想ではない。
ただし、献帝をいじめた、曹操・華歆・郗慮もまた、報いを受けるべきである。いくら献帝が、祖先の罪を償うために「いじめられても仕方ない子」であっても、献帝をいじめたら、それはそれで許されることはないと。

この周大荒の手にかかると、登場人物たちは、はたと困るわけです。
例えば、華歆・郗慮は、作中で悪者です。悪者を罰するには、だれか人間の手を借りねばなりません。しかし、手を貸した人間は、自分もしくは子孫が、相応の罰を受けるというルールで、『反三国志』の世界は成り立っています。そんな無理なゲームには、参加したくないよなー。

ぼくはいう。たとえば現代日本で、職務として、有罪判決を下した裁判官(裁判員でもいい)。職務として、死刑執行をした担当官。彼らが、ひとを殺したという十字架を背負って、子孫が滅ぼされる運命になる……、ということである。そんな司法制度なら、やめてしまえよ。
@la_hool さんはいう。中国でよくある因果律を無理ゲーとのたまう。ネタにするための故意か歴史を知らないのか、本来徳という思想を無視してこれは語れない。「先祖の徳は子孫に受け継がれる、だから(先祖と自身と子孫の為に)徳を積みなさい」という意外に理性的なシステムなのだから。
@r0manticer さんはいう。祖先崇拝とか、孝とか、儒教的な…歴史創作に宗教思想を持ち込むのはよろしくないと言うけど、ウン年と根付いてる民俗はこれに該当しないのかしら。そもそも他国の創作を楽しむためには宗教理解が必須なのか。そりゃそうか~~……儒教まなびます……
ぼくは思う。『演義』で善玉・被害者であるはずの献帝は、過去の劉邦に遡って罪を求められ、罰を受ける。『演義』で悪玉・加害者であるはずの華歆ですが、これをやっつけた馬超もまた、未来に罰を受けることが約束される。むしろ馬超は、過剰に残忍な方法で、華歆を殺すことで、読者をスカッとさせる役割と背負わされる。作者に便利づかいされた。周大荒に、馬超を批判する筆致は見られない。やはり馬超は、正義の執行者として、華歆を焼き肉にする。しかし、裁きが適正であればあるほど、馬超が負った罪も大きくなる正義の執行=罪過の積み上げが表裏一体ならば、いったい誰が正義の執行を引き受けるのか。
ぼくは思う。人類の歴史上、だれか最初の1人が悪事を侵したら、裁く人・裁かれる人の連鎖が無数に生まれて、終わることがない。裁く人は裁かれる人になり、それを裁いた人はさらに裁かれる側に回り……、という終わることのないループの世界観が、無理ゲー的だと思うのです。裁きが終わることがない。辛うじて正しいのは、罪にも正義にも手を貸さないこと、となってしまう。参加しないことに意義がある?
思うに、こうした因果律が、いっそう強調されているのが『反三国志』だと思います。果たして、因果律が濃厚すぎる状態が、「徳という思想」を体現した世界なのか? 正義の執行=罪過の積み上げ、が強調された状態を、ぼくは中国の思想そのものだとは思えない。『反三国志』の世界観だと思う。

華歆・郗慮を懲らしめた馬超は、自分か子孫が、相応の罰を被って、族滅されることが約束された。趙雲との縁を頼って、罪が浄化されるといいですね。

さて伏皇后が「劉備が中原に来てくれたら助かるぞ」と楽観すると、献帝が「もしも劉備が勝ち進んだら、曹操は朕たちを殺すと言っていた」と悲観する。
伏皇后は、劉備に伝国璽を授けることにして、穆順を蜀に奔らせる。玉木宏が活躍する、とても素晴らしい展開です。「伝国璽を手放せば、私たちは平民の夫婦です。曹操が私たちを手元においても、なんの役にも立ちません」と、自主的な退位(と同等の行為)を選ぶ。
穆順は、南陽の関興に、伝国璽を届ける。この展開は、『演義』で穆順が失敗する、がっかりを巧みに補正している。失敗を取り返す、という方向で、周大荒の知性はパフォーマンスを発揮しますので、これはおもしろい。271ページ。
穆順は、許都で関羽に会ったことがある。関興も似ていると。

張飛が、「俺様がすぐに献帝を助け出してやる」と、初めて張飛らしいところを『反三国志』で見せるが、龐統に宥められる。龐統は、これをやるためだけに、荊州に残ったようだ。

◆周瑜が死ぬ
穆順としゃべっている関羽のところに、「周瑜が死んだ」と連絡がきた。女遊びが過ぎて、わずか28歳で死んだと、時系列が破綻したことをいう。
38歳の誤写かな? とも思った。史実・原作『演義』では、36歳で死ぬから。しかし、色男が38歳で、女遊びしまくって……、というのはイメージが違ってしまうから、28歳でいいのです。イメージ先行で、年齢が決まっている。『反三国志』は、物語の前半部分(孫策のくだり)などが欠落しているから、周瑜は年齢をごまかすことができる。
『三国志平話』でも、周瑜は荒淫しまくって、寿命を縮めていた。色男に対して、みんな冷たいのです。嫉妬だな。
わざと琴の音を外して、周瑜の気をひく女の話など、どこから合流したんだろう?という伝説が語られる。276ページのあたり。本編と関係ないじゃん。『演義』にある話だったら、見落としです。すみません。

周瑜は死に際に、「劉備との交誼を絶やすな」といって、魯粛に後事を託す。このあたり、表面上は史実・原作と同じです。しかし、荊州の借用問題が起きていないから(ほんとうに周大荒は史論のネタを排除する!)魯粛の存在意義は、はるかに小さい。

第12回 孫夫人が呉に帰る

周瑜が死んで、がっかりした呉国太は、病気になる。
『演義』では、孫夫人を劉備のもとから剥がす口実として、呉国太が病気になったことにする。これを裏返して、適当に理由をつくって(周瑜の死)、ほんとうに呉国太を病気にした。
第11回の末あたり、いかに呉国太が周瑜を頼みに思っていたか、綴られている。ウソツキほどよく喋る定理どおり、ウソをつく(原作を改変する)ために、説明が過剰である。「説明するな、描写せよ」という教訓に従って、呉国太が周瑜を頼っているシーンがあれば良かったのだが、そうはいかない。先に周瑜を殺してしまった。

孫権は、孫韶(この作品における孫権の分身)に手紙を持たせ、関羽・徐庶のところに赴き、孫夫人を取り返しにゆく。
関羽は信義のひとなので、呉国太と面会するために、孫夫人を帰してやる。「呉国太が快癒したら、いつでも荊州に帰ってきなさい。劉備には、話を通しておくから」と、いい人である。
呉蜀の同盟は続いている。曹操が恐いから。

◆穆順と劉備が会う
穆順は、伝国璽を劉備に渡すという役目を終えると、「許都に帰る」という。孔明が「許都に帰ったら、バレるだろう。危ないよ」と当然のことを言うが、それでも穆順が帰る。
穆順が帰ったばかりに、伝国璽を持ちだしたことが、曹操にバレてしまった。穆順の顔に、旅の塵埃が付着しているのを、曹操が見咎める。294ページ。
伏完・穆順が殺され、華歆は献帝・伏皇后を監禁した。穆順が成都に残れば、献帝は生き存えたのにという、胃もたれを読者に与える。
『演義』の「ここで、こうしていれば」という失敗事例を、次々につぶしていく周大荒であるが、新たな失敗事例をつくった。しかも『演義』の失敗よりも、リアリティがなく、もしくはキャラが過剰に粗忽であり、いまいち納得できない。

第13回 曹操が皇帝になる

物語が停止して、周大荒による曹操論が行われる。
なぜ曹操論を、いまさらやるのか。曹操が帝位に昇るからである。革命のトリガーは、伝国璽を劉備に奪われたこと。このあたりの曹操の焦り方は、リアリティがあると思います。
荀攸・荀彧は、魏王の受爵に反対して、とっくに自殺しており(笑)革命をジャマするものはいない。
というか、『反三国志』が始まった時点で、曹操は魏王ではなかった。つまり作中の時系列のなかで、曹操が魏王になるイベントがあったはずである。
しかし、史論が百出するネタは、省略するのが『反三国志』である。荀彧・荀攸は、死を既成事実として描かれ(ずるい)、なんの議論の余地も与えられない。
楊彪・王朗・鍾繇は、起き上がりこぼしのように、うなずくだけ。

革命に反対するのは、曹植である。曹植は、いま曹操が皇帝になれば、曹丕が太子となり、自分が不利益を被るから、革命を受け入れない。
これに反論するのは、曹丕である。曹丕は、いま曹操が皇帝になれば、太子になれる。自分に利益があるから、革命を推し進めたい。
漢魏革命の是非を、曹丕・曹植の後継者争いにくっつけるのは、手法としては悪くない。複雑な問題が、一度に二つも片づく。しかも、曹丕が得をするか、曹植が得をするか、という損得に収斂して、スッキリさせる。

「漢魏革命は是か非か」、「曹丕と曹植のどちらが後嗣に適任か」という議論百出のネタを、「曹丕は太子になれそうだから革命を支持」、「曹植は太子になれないから革命に反対」と融合させ、一気に消化する『反三国志』。古今の歴史家が知恵を振り絞って考えてきた、困難な命題を、消滅させるのが周大荒の腕前。

華歆は、伝国璽がない代わりに、禅譲の体裁を整えましょう!
という奇妙なロジックで、簒奪する気たっぷりの曹操に、禅譲の形式を取らせる(史実・原作に復帰させる)。ここでも、さすがの腕前。

第14回 孫権が劉備と切れ、曹操と結ぶ

皇帝となった曹操は、逆賊の劉備・孫権を討つ。
劉曄 「劉備が伝国璽を持っていることを、孫権に教えましょう。もともと伝国璽は、孫堅が拾ったもの。孫権が面白く思わないはず。このまま劉備が勢力を拡大すれば、孫権を併呑すると脅して、孫権・劉備の同盟を壊すのです」
分かるような分からんような説明です。伝国璽を入手した劉備が、これを元手に勢力を拡大できることは、前提として組み込まれているのか。

孫権のもとを訪れた劉曄は、「劉備は伝国璽を持っているぞ」というと、孫権はまんまと策にハマって、「劉備は帝位を狙っている。劉備とは絶縁することに決めた」と宣言する。
この時点で、曹操は帝位を狙うどころか、すでに皇帝になっている。なぜ孫権は、簒奪した曹操のことを許して、まだ帝位に昇るか定かでない劉備を憎んだのか。『反三国志』は、劉曄の口車に、まんまと孫権が乗ったということになっているが、あまりにバカである。
せめてもの説明として、孫権は、なかば父を殺したも同然の伝国璽を憎んでいたから、伝国璽が憎ければ、劉備も憎いというわけで、劉備との関係を切ることを決めたそうだ。は?
ぼくは思う。
それなら、伝国璽+献帝を持っていた時代の曹操のことを、憎まなければウソである。しかしそんな説明はなかった。むしろ『反三国志』は、開始時点で孫権は曹操に敵対することで固まっている。
原作『演義』で、赤壁の前夜に孔明・魯粛に説得されるが、そういうプロセスはない。孫権の意思が描かれていない。曹操に合肥方面を攻められたから、条件反射で防ぎ、対立状態に入り込んだ……という話なんだろう。赤壁を省略した弊害が、このようなところにも。

なぜ曹操と敵対していたか、よく分からない上に、よく分からない理由で曹操と結ぶことを決断する。『反三国志』で呉が空気と言うなら、このことを指すべきだ。

孫権の生存戦略が、ひどくナゾである。というか、設定がザツである。

たまたま魯粛は病気で(なんやそら)重要な決定の場には、居合わせなかった。
初めから知力100の呂蒙が、孫権の意味不明な決断に、整合的な理由をつけてくれる(ことを読者に期待させる)

孫権は、伝国璽が憎いという、意味不明の暴走で、魏と結ぶことを決めた。しかし、それだけでは、国が滅びちゃうし、読者が置いてきぼりにされちゃう。

呂蒙 「曹操とは、淮北の領土でもめているだけで、あんまり恐くない。しかし劉備は、馬超を得て、とても恐い。曹操と結んで荊州を制圧し、劉備の力を削りなさい。強い劉備を破ってから、やや強い曹操を破れば、孫権が天下を取れます」

うまくいきそうな気がしない。しかし、『反三国志』で隆中対は描かれない。だからこの呂蒙による天下三分が、『反三国志』における初めて・唯一の天下三分の計です。


陸遜が「周瑜は、劉備と結べと言ったけど、遺言に背いていいのか」と反論するが、孫権は呂蒙の意見を採用する。
劉備との関係が壊れたので、関羽に恩を売られて帰省していた孫夫人は、申し訳なさのあまり、身を投げて死ぬ。
原作『演義』では、第84回、劉備が猇亭(夷陵の戦い)で死んだと聞いて、自殺をする。自殺をするという結末は同じだが、かなり前倒しして自殺した。というか、孫夫人の自殺というビッグイベントを原作から前借りしない限り、孫権と劉備が決裂したことが印象づけられない。という構成上の苦しみも窺われる。
じつは、
この第14回が、『反三国志』の物語の重要な分岐点でして。これ以降は、劉備軍が、曹操・孫権の城と武将を機械的に屠っていく、という作業ゲームになる。三国鼎立のかけひきの妙味は失われて、単純に領土を広げていくだけ。
もっとも重要な分岐点で、孫権が「伝国璽が憎けりゃ、劉備まで憎い」と、袈裟と坊主みたいなロジックで戦略を決めてしまい、以後、滅亡までマッシグラである。現代日本の三国ファンから、『反三国志』があまり読まれないのは、せっかく3つも国があることから生じる、魅力を削ってしまったからだろう。

関羽は、「孫夫人を殺したのは、孫権である」と決めつけて、孫夫人の仇討ちのため(?)義を忘れた孫権と戦うことを決める。
ただし、関羽の暴発は、徐庶が防いでいる。張飛も暴発しようとしたが、龐統が防いだ。関羽と徐庶はつぶし合い、張飛と龐統はつぶし合う。さらに言えば、関羽を輔佐すべく配置された張飛も、物語のなかの役割として、関羽と潰し合っている。強烈な個性を相殺させあって、面白いのだろうか。
劉備は、孫夫人の死を悲しむ。
呉との戦線が緊張したので、趙雲・馬雲緑の夫妻が、荊州に降って、関羽と合流する。『反三国志』で能力が補正された「名将」徐盛とのあいだに、戦端が開かれそうである。待て次回、となります。

第15回 曹操が皇帝となり、献帝を殺す

合肥の張遼が、曹操に戦況を説明する。分かりやすいので借りる。326ページ。
「関羽は、趙雲・馬良に2万を率いさせ、巴丘および夏口の北岸に駐屯させています。呉は、陸遜に濡須を、呂蒙に夏口の南岸を守らせ、徐盛・甘寧は戦闘に備えています」と。
曹操は、孫権・劉備のつぶし合いを喜び、即位儀礼へ。

曹操は、国内では皇帝即位について決めておきながら、そのことは孫権に報せず、「劉備は帝位を望んでいるぞ。劉備の下風に立つのか?」と挑発した。孫権が劉備と決裂したのを見届けてから、ちゃっかり自分のほうが、帝位になった。というのが『反三国志』のストーリー。
もしも『反三国志』で、孫権がまともなアタマを持っていれば、「曹操は皇帝になった。実は曹操のほうが野心があり、呉を臣従させる気に満ちあふれている。危険だ」と考えねばならない。まだ劉備軍とは開戦前だし。孫夫人は死んでしまったが、国の戦略は、それだけじゃ決まるまい。
ただし、孫権が反応したのは(曹操・劉曄が想定したところの)劉備の帝位への野心ではなく、伝国璽への逆フェチズム。帝位については、わりにどうでもいい。だから、曹操が帝位に即いたところで、魏呉同盟は破れないと。へんなの。
なんか、劉備軍が、制圧戦=作業ゲームをやる前提で、魏呉の同盟が強固になることが、運命づけられている。


曹操が皇帝になり、曹氏の爵位が上がった記述を受け、周大荒はつぎのようにカットインする。
周大荒曰く、
"読者のみなさん、これを読んで、「ああ羨ましいことだ」などと思う必要はありませんぞ。私(周大荒)は曹操が周文王を気取っていたので、心中 憎らしく思い、彼を武力で国を奪った周武王として描くつもりなのですから。いずれ彼を火の燃えさかった炉の上に置いて、ジリジリと苦しめてやる予定です。どうかご期待下さい。……周武王が殷紂王を征伐したとき、流された血が溢れて海となって杵を漂わせたと、『尚書』周書 武成篇に伝えられております。荒唐無稽な表現ですが、その象徴的な意味は理解できます。"

周武王だって、充分にすぐれた伝説上の君主のような気がするけど。曹操が「私は周文王になろう」と言ったことを受けて、そうさせてやらないぞ、違うことを暴いてやるぞ、というのが周大荒の関心だろうか。


華歆は、献帝・伏皇后を殺した。

これにより、劉備が史実・原作なみに「献帝が殺されたから、皇帝になる」と言っても、事実どおりということになる。ただし『反三国志』で、劉備は皇帝にならない。このページの第7回のあたりに書いた、劉備の美化が働いている。

曹植は父に別れをつげた。この曹植は、曹操から距離を取ることで、最終回まで生きている。『演義』で曹丕に虐められたというのは、『反三国志』においてはプラスの得点です。だから、権力闘争に巻き込まれることなく、かといって管寧のように世を儚んで自殺することもなく、ぶじに余生を送る。

周大荒が、曹操の皇帝即位から後を「後半」と言ったように、あとは作業ゲームです。『演義』の各キャラが、いかに報いを受けて、どのように劉備軍に殺されるか、という話です。150711

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後半の死に方リスト




表をつくりながら考えたこと

『反三国志』は第15回で曹操が献帝を殺して以降、蜀が領地と敵将を刈りとっていく作業ゲームになる。だれがどこで、どういう方法で死ぬのかをデータベース化すべく、エクセルに入力を始めました。驚いたのは蜀将なのに陳式が死ぬこと。『演義』で孔明に斬首されるから扱いがひどいのか。
『反三国志』第16回、夏侯淵を斬り、毛玠から奪った南鄭には楊儀が留まって、漢中太守として流亡した民を集め、城郭を修理し、周囲の盗賊を鎮圧する。楊儀の輔佐は、傳僉・傅彤。孔明はさらに北へ。楊儀を最大限に活用するなら、ひとりで後方を任せること。よく分かっていらっしゃる。
孔明が魏延の長安直撃を退けたのは遺憾。しかし荊州・隴西から支援がなければやむなし。周大荒は孔明の欠点を保管するため、関羽・徐庶を荊州に、張飛・龐統を襄樊に、趙雲・馬良を江漢に、関興・趙累を南陽に置いて、北伐を支援させた。上巻353頁。この自作解説が『反三国志』の最高潮
孔明の隆中対を周大荒なりに理想的に実現したら。張飛は武関から藍田へ、馬超はケン陽から宝鶏(陳倉)へ、張嶷・張翼は斜谷から郿県へ。関羽は宛洛に進んで許昌から援軍を防ぐ。長安の夏侯楙を孤立させた上で、魏延が子午道から直撃。「張郃が敗走してきたから開門せよ」と詐って襲撃。

@fushunia さんはいう。蜀のみを有する勢力が、長安に出て行って天下を取ったのって、この後の歴史を見ても、唯一劉邦1例だけなんですよね。長安の勢力が漢中、蜀を併せたのち、天下を統一した例なら、戦国秦と南北朝の北周(隋)があります。
ぼくはいう。『漢書』高祖紀で、漢元年四月に漢中に行き、五月に「漢王引兵從故道」します。蜀地を地盤とする前に、関中にとんぼ返りした感じです。蕭何が蜀地を地盤に整備するのは後です。劉邦も「長安の勢力が漢中、蜀を併せたのち、天下を統一」かも知れません。孔明には絶望的な話ですが。
@fushunia さんはいう。『史記』漢楚之際月表を見ると、「分関中為四国」(【索隱】漢、雍、 塞、翟。)とあり、『史記』も関中を4分割したと見ていたのですね。同じ『史記』でも高祖本紀では、関中を三分割して雍、 塞、翟を建てたとし、それとは別に漢は「巴、蜀、漢中」だとしてましたが。
ぼくはいう。劉邦を「関中の王」とするのが、楚懐王の盟約です。だから項羽は「漢も関中の一部」とゴリ押しする必要があります。いっぽうで劉邦から見れば、項羽の違約が、彼を討伐する根拠なので、「漢は関中の外部」と言うべきです。この問題自体が、史料にブレを生じさせるのでしょう。


【黄叙】は武芸に熟達し、落ち着いた性格なので、故郷の南陽を守備するには最適。関興・趙累・張苞・陳震が、荊州で曹仁・文聘と戦える状況をつくった。
【楊洪】は智謀と決断にすぐれ、孔明からの評価が高く、関中一帯を安定させた。馬超・孔明が戦える状況をつくった。 『反三国志』ならではのキャラ立ち。
司馬徽の周辺で形成された人脈から、龐統の推薦で、蜀軍に人材が加入する。【黄武】黄承彦の子。【崔頎】崔州平の子。【龐豫】と【龐豊】は龐徳公の孫。

表の続きは、気が向いたらやります。150830

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