-後漢 > ぼくの『三国志』の語り起こしを考える

全章
開閉

皇甫嵩から始まる物語の構想

ライフプランのこと

ライフプランの(とでも言うべき)話です。
『三国志』をいつか書きたいというサイトをつくって9年。いろいろ準備して、そろそろ「本編」を書きたいと思いつつ、書き始める決心がつかない。もっとも重要なはずの始め方を決められない、途中で止まれない・直せないなど。

完結するまでは、気持ち悪くて「手を出す」気にならない。というのは、読者の心理として、とてもよく理解できる。列伝が、個人の情報(物語)として、都度 完結するように、あの手法をまねれば、このフラストレーションを緩和できる…はず。

でも解決策が見えました。
第1巻からナンバリング作品を「通し」で書こうとするから躊躇する。正史の紀伝体みたいに、人物を主題とした話をいっぱい書けばいい。1冊でも完結すると同時に、巻を改めれば、同じ題材・同じ時代のことでも、視点を変えて重ね書きしていける。「実はそういう設定・背景だった;べつの列伝だけでは気づかないけれども」というのが、紀伝体の定法。列伝のあいだで矛盾があっても、それもまた定法。小説づくりに置き換えていえば、遡及的な訂正も可能ということ。

いつか全てを書き終わったとき(20年後くらい?)
あたかも司馬光が『後漢書』・『三国志』にもとづいて『資治通鑑』を編んだように(重複があれば省きつつ)編年体に並べ替えればいい。
最終的な成果物は、『北方三国志』みたいに、時系列は守られ、章ごとに主人公が変わる小説が、セルフ編纂によって完成するという。

最初に手をつけるのは「皇甫嵩」がいい。
『三国演義』冒頭の黄巾平定を描ける。曹操と潁川で共闘するし、陳倉で董卓と共闘する。張譲・趙忠とも対立している。皇帝即位のことも悩める。三国志の開幕をかざる主人公にはぴったり。
……と、『後漢書』皇甫嵩伝を読んでいて、あまりにも創作に都合のいい内容に驚きつつ考えました。160430

時代の設定

『宮城谷三国志』は、語り起こしが、あまりに遡りすぎて、それが唯一の?特徴となった。しかし『三国志』は、やはり黄巾の乱からでしょうと思います。
『陳志』巻一 武帝紀で、はじめて地の文で出てくる年号が「光和末」=中平元年です。遡るとしても、光和元年=180年から。物語の地の文で扱っていいのは、180年から。これなら、黄巾がいまにも決起するよ!という時期である。

曹操の没年から計算すれば、曹操の誕生とか、「年二十挙孝廉爲郎」が何年のことかとか判明するが、それは「本紀」を始めるまえの前史と見なす。


ぼくの『三国志』(いつか『佐藤三国志』と呼んでもらえたらいいもの;ただの希望ですけれど)の第一巻「皇甫嵩」で、なるべく物語の全体像・スケールを提示しつつ、不自然にならないように、重要人物がちらっとでも登場(顔見世)したらいい。

いくら、「紀伝体のように」といっても、本物の紀伝体は皇帝の記録から始まるという仕方で、全体像・スケールを提示している。いきなり、列伝のひとつ・皇甫嵩伝だけをシレッとアレンジして、「第一巻です」というわけにもいかない。

皇甫嵩に、全体像・スケールと関与させるためには、『范書』皇甫嵩伝だけでは情報が不足する。

物語をつくるためのエピソードが少ない。

ふと視線をずらすと、皇甫嵩のおじ・皇甫規伝には、政策論争が豊富に載っており、時代背景がわかる。後漢という王朝が「いかなる戦いを戦っていたか」がわかる。これすなわち、後漢という王朝とは、どういう王朝かの答えにもなる。
皇甫規のやったことを、史実性を失わないように、皇甫嵩につけかえて、物語のはじめを飾らせる。さいわい、皇甫規の経歴と、皇甫嵩の経歴は似ている。皇甫嵩が、皇甫規から学問を伝授されたと考えても、少なくとも『范書』とまったく矛盾しない。あきらかな価値観の相違も、史料からは見られない。

皇甫嵩の(皇甫嵩伝には記述がないが、充分に史実性を担保しつつ)あり得たかも知れない人生を描くことで、ぼくの『三国志』の第一巻とする。よし、見えてきた。

皇甫規と皇甫嵩の接続

皇甫規は度遼将軍として西北で戦った。皇甫規の兄(皇甫嵩の父)は、雁門太守。皇甫嵩は、黄巾平定をする前、北地太守だった。いずれも、北西で戦ってきた。皇甫規-張奐-曹騰-曹操という人脈も窺われ、西北の列将は、『三国志』を描くときのカギ概念となります。その概念の中心にいるのが、皇甫氏。
おじ・おいとも、宦官の不正を摘発した。
皇甫規は梁冀と対立して、14年間、『詩経』『易経』を教授して過ごした。皇甫嵩は、「文武の志介有り、詩・書を好む」と列伝にあり、『詩経』『書経』を習得している。皇甫規から皇甫嵩への伝授があったと考えても、おかしくない。
皇甫規は泰山太守となり、叔孫無忌を討伐している。皇甫嵩は、黄巾を討伐している。西北でつちかった腕前&名声により、国内の反乱を平定するのも同じ。
皇甫規が言ったこと(列伝にあること)を、皇甫嵩が言ってもおかしくないと、ぼくは考えます。そういう方法により、皇甫嵩のキャラを立体的に描きたい。

後漢の象徴的意義=関中を保つこと

さて、諸葛亮が執拗に関中をめざした理由を考えました。
……諸葛亮って、いきなりに見えるかも知れません。いま、ぼくが検討を始めた皇甫嵩の物語が、『三国志』全体のテーマ設定ですから、諸葛亮の話が出てきてもいいのです。というか、そこまで射程に入ってないと、逆にダメなのです。

少なくともぼくは、16年のGWに同時に考えています。

諸葛亮が関中を目指したのは、
①消去法的な必然。魏が敵国で呉が同盟国。敵国を攻めて領土を広げ、同盟国を攻めないなら関中に出るしかない。
②涼州からシルクロード交易につながる経済的な利益。
③長安は漢の旧都であり、象徴的な価値があるから。

ここで考えたいのは、③です。
後漢期、羌族との戦いは経済的・軍事的に「採算が取れない」までに悪化し、たびたび長安が危険となります。つぎに読む、皇甫規伝で語られていることです。しかし後漢は、前漢の帝陵のある長安を放棄しない。不合理で強迫的な行動を反復するというのは「病」のたぐいです。
長安は、漢の聖地であり、ここを失ったら、漢ではない。
董卓だって、重病の漢を治療するために、長安に、復興のエネルギーを求めたかも。もちろん、交流のある羌族に近いとか、関東の諸侯から身を守るとか、リアルな理由も伴っていたことは否定しませんが。

漢中(南鄭)が漢の聖地だというのは、諸葛亮による宣伝的なメッセージで、少なくとも、それ以前、意識化されたことはない。というか、いまだかつて存在したことのない「聖地」を作り出したことが、諸葛亮の手柄と言えそうですが、それは別の話。
聖地の定義を考えたとき、「動かせない」「コピーできない」ことが挙げられる。うまい場所に、諸葛亮は目を付けました。

長安というのは、春秋戦国期に「秦」が独立したように。五胡十六国時代に「○秦」が独立したように。中原から切り離せる(切り離すことが可能な・容易に切り離されてしまう)土地です。漢中は、100%「鶏肋」ですが、長安だって、70%くらいは「鶏肋」の成分を含んでいる。失うのは惜しいが、保つのは簡単ではない。

もちろん、漢中は地方の一郡であり、長安には「国富が蓄積」されているでしょう。長安のほうが、肉がついている。しかし、国富を維持・管理するためのコストを考えたら、果たしてどれだけ「黒字化」された土地なのか分からない。
なにが正しいか、一義的に決まらないところに、物語のタネがある。複雑なものを、複雑なまま提示するのが、文学だそうです(複雑なものを、単純にして提示するの(すべきなの)は、論文でしょうか)
後漢でたびたび提出された、涼州放棄論をこねたらおもしろそう。涼州・長安の防衛・管理について、経済の側面、軍事の側面、思想の側面という3階建てにして、『後漢書』を読むと楽しそう。とりあえず、諸矛盾が凝縮された皇甫規伝から。

皇甫規の時代、さかんに困ったのは、長安という「鶏肋」が脅かされたからで。

後漢から関中が剥がれかかったように、魏からも関中が剥がれかかる。というか、涼州は、わりと剥がれてしまい、困ったことになった。
もしも(もしも、ですけど)諸葛亮が長安を「回復」すれば、漢の復興は一応は果たされる。停滞が許され、しばし休んで、体制を整えてから魏と戦えるか。

以前、『曹丕八十歳』というイフ物語をつくった。生き残った曹丕が余計なことをするせいで、魏は長安を失う。蜀は長安を得るが、それ以上、積極的に東進しない(ぼくがさせなかった)。これに対して、「長安を得た蜀が、そんなに大人しいはずがない」という感想を頂戴しました。半分は納得しますが(とくに蜀のファン心理を慮れば)、半分は、これでよかったと思ってます。アトヅケですけど、蜀は長安を「回復」すれば、いちおうの国家目標は達成されたわけで、安定期に入ると思うのです。直感的に、ぼくはそう考えてそれを物語に反映しました。

魏とすれば、長安を失えば「漢魏革命」が空文化する。軍事・経済とは別の次元で、「鶏肋」の長安を死守せねばならない。だから諸葛亮は脅威に映り、無謀な「蜀討伐」をすることになります。
漢(から受禅した国も)の正統性を支えるのは、羌族や漢族の反乱のせいで軍事的・経済的な価値が不確定(もしかすると価値がマイナスかも知れない)の関中を、いかにヤセ我慢で保つかに掛かっていた。西晋も統一王朝の体裁がほしいから、地方長官が殺されても死守した。

もちろん、長安に敵がいたら、つぎは洛陽が危ない。そういう防衛的な価値もあるでしょうが、別の話です。純粋に、軍事・経済で、ツジツマのあった話なんて、おもしろくないと思います、ぼくは。


後漢~三国の人々の領土観(攻撃性が前面に出れば、領土的「野心」)は、少し分解できるかも知れません。大一統(天下統一を重んずる)が最上位にきますが、その下位に、漢の聖地_長安の獲得・防衛に関するフェチズムがあるのかも知れない。そんなコダワリを設定すると、見えてくるものが多いかも。

閉じる

もしも皇甫規がブログを書いたら

皇甫規伝は、かつて読んだことがあります。
『後漢書』列伝五十五/ユニット名は「涼西の三明」

7年以上前につくった記事ですし、当時は、まだ『全訳後漢書』がなかった。
いま、7年分の経験と、『全訳後漢書』の現代語訳をつかって、皇甫規伝を再読します。ただ引き写しても、おもしろくないから、皇甫規にブログを書いてもらいます。上表などを、あたかも現代の(2010年代の日本の)時事評論家のブログみたいにアレンジします。
当然ながら、上表の口語訳ではなく、掘り下げたり、噛み砕いたり、自ら問い自ら答えたりして、ブログの読者に語りかけるスタイルになるでしょう。「画面の前のあなた」を名指ししたメッセージになるはずです。

皇甫規の伝記的な事実(皇甫規が、何年に何をした)よりも、おいの皇甫嵩に内面化された(であろう)価値観・課題認識を浮き上がらせるのが目的なので、こういう遊びを思いつきました。


馬賢の敗北を予測する

永和六年(141) 西羌が安定郡を包囲した。私は、征西将軍の馬賢では、西羌に勝てないと予測した。当時の記事は「こちら」である。
現在、羌族が隴西郡を囲んでいる。朝廷は、また馬賢に任せるそうであるが、勝てないであろう。もしも、馬賢が勝てれば、それは私にとっても朗報であり、このブログを一笑に付してもらって構わない。しかし、悲観的な予想は、よく当たる。

なぜ馬賢では勝てないか。
百億をこえる軍事予算を、馬賢は、羌族との戦いに使っていないからである。軍事的な抑止が利かなければ、羌族が侵略してくるのは当然である。
軍事予算は、どこに消えたか。馬賢と、彼のとりまきの懐に入ってしまった。

以下、この段落は、ぼくがかってに膨らませます。

ただし、まだ怒ってはいけない。「貪欲な役人が、私腹を肥やす」というのは、腹立たしいことであるが、「よくあること」である。特段、驚くには足りない。彼らの貪欲に腹を立てて済ますことは、問題の矮小化である。
問題は、別のところにある。
馬賢は、平時の感覚のなかに生きているから、目先の利益を求めている。しかし、羌族の伸張を許せば、わが国は領土を失う。「目先の10銭をひろうために踏み出したら、奔馬に蹴られて死んだ」というのと同型の出来事が起きようとしている。
馬賢が、問題の規模・ありかを見落としている。これが、問題の本質である。羌族のことは、国難にカウントすべきであるのに、分かっていない。
語弊があるかも知れないが、この国には、「汚職が許される」ポストと、そうでないポストがある。汚職が許されるのは、それによって国そのものが揺らがない場合である。征西将軍は、まちがいなく汚職が許されない。
馬賢は、自分がやっていることの本当の意味が分かっていない。わずかな私財の蓄積をひきかえに、致命的に国益を損ねていることが分かっていない。これが、彼に征西将軍を任せてはいけない理由である。

忘れるべきでないが(だれも忘れないであろうが)馬賢が盗んだ軍事予算は、われらの税金から出たものである。すでに青州・徐州では飢饉が起き、万民の生活が破綻し、赤子をせおって流浪を開始した人々もいる。東の税収を、西の国防につかう、という金銭の再配分によって、漢家の領土は一体のものとなっているが、それが破綻しているのである。
少し考えれば分かることだが、戦国期、秦の国防のために、斉が身銭を切ったであろうか。そんなはずはない。秦は秦のために、斉は斉のために、国富をつかったはずである。もと秦の地域の防衛費用を、もと斉の民の子孫たちが負担するということにより、漢家は統一性を保てるのであるが(経済の側面に関していえば、これ以外に、漢家の統一性を成り立たせる要件はない)、その流れを分断し、機能不全に陥らせているとしたら、馬賢の罪はおもい。

秦が、斉が、という比喩は、ぼくがかってに作りました(笑)


馬賢からは、いくつの羌族の首級をとった、という報告が入っているが、水増しである。虚偽である。
少し勝てば、戦果をおおめに報告し、負けたら報告しない。兵士は、充分な物資が支給されないから、まず勝てないし、かりに勝っても追撃できる状況ではない。狡猾な吏が、軍事予算を盗んでいるからである。
結果、兵士は、どぶの中で餓死し、骨が野ざらしになっている。

私は、隴西の地形に詳しい。私に任せてもらえば、羌族に勝利できるであろう。「年齢・官職が低いから、お前には任せられない」という人がいるだろう。だが、過去の敗将たちは、年齢・官職が低いから敗れたのではあるまい。
〈追記〉当局サーバーからの閲覧履歴があったが、私に連絡はなかった。

賢良法正にあげられ、奸臣をとがめる

孝順皇帝のとき、皇帝権力は近臣に分割された。近臣は蓄財にはげみ、ざれごとばかりが皇帝に届くようになった。
「皇帝は正しいのに、それを妨げる奸臣がいる」というのは、使い古された論法であるが、事実としてそうなのだから、これを使わざるを得ない。また、こういう論法を使わないと、王朝そのものの存在意義を疑うことになるから、ほかの選択肢があろうはずがない。いけない、余計なことを言った。
近臣は、賄賂を受けとって、官爵を売り買いした。近臣の賓客たちが要職についたから、皇帝の統治は乱れ、官も民も疲れている。
本来であれば、皇帝が勤務評定をして、賞罰・官職の任免をすべきであるのに、その権限が近臣に奪われている。宦官のなかで、邪悪なものを追放して、彼らの財産を国庫に回収すべきである。
賢良法正に察挙されたので、改めて思うところを述べた。

梁冀・梁不疑に告ぐ

為政者は、政治にも享楽にも忙しくて、このようなブログなど見ていないだろうが、意見を書き留める。
梁冀・梁不疑の兄弟は、周代に例えるなら周公・召公のポジションである。質素倹約につとめて、儒教にもとづいた補弼をすることを望む。
比喩的に考えると、君主は船で、人民は水で、郡臣は船員で、梁冀は舵取りである。梁冀は、正しい方向に舵を切って(郡臣をリードして)、船を前進させる(君主の統治を実現する)べきである。もしも、舵がうまくいかないと、船は転覆して水没する(王朝が滅びる)だろう。船員もまた、水に溺れて(郡臣もまた、民衆反乱のなかに晒されて)命を失うかも知れない。

この比喩は、黄巾の乱をみた皇甫嵩に言わせられそう。

ただしい舵取りとは何か。徳行と俸禄が釣りあうことである。人格と能力の優れたひとに、高い官職を与える。これに尽きる。いつも申し上げていることである。

昨今、狡猾な老害・酔漢・道化などが、君主のそばにいて、よこしまな音楽、へつらいの言葉ばかりを吹きこんでいる。彼らを左遷することを、梁冀・梁不疑に期待するのである。
為政者には、どうせ読まれないだろうが、辺境の土地で、このような意見をもつ者がいることを、せめて世間に示そうと思って、この記事を書いておく。

引退宣言

この辺境ブログを、梁冀に告げ口したひとがあったようで、私は現職で、不当に低い査定をつけられた。病ということにして、帰郷した次第である。梁冀の手のもの(と思われる)に、三たび命を狙われた。
『詩経』『易経』を、研究・教授しながら、世を捨てようと思う。おいの皇甫嵩は、のみこみが早い。私の後継者、いや私を越える名臣となってくれることを願う。

〈追記〉14年目にして梁冀が誅され、命の危機は去った。ひと月のうちに5回も辟召を受けたが、政局が不明のため、いずれも断ろうと思う。
〈追記2〉泰山の叔孫無忌が反乱を起こし、中郎将の宗資が平定に難航していると聞き、泰山太守を受けた。公車徴によって迎えられ、陛下の期待に応えないわけにはいかない。
〈追記3〉のちに、おいの皇甫嵩も、公車徴によって皇帝に辟召された。

段熲の失敗によせて

延熙四年(161) 秋、護羌校尉の段熲が先零羌に敗れた。長年、心配していた事態が、ついに現実化しようとしている。
泰山太守として、叔孫無忌の平定にメドがたったので、西に目を向けてみる。もともと、私は西方の人間であるから、西のことは、手に取るように分かるのである。

私は59歳になるが、故郷の安定で郡吏であったころ、羌族の反乱を経験し、まぐれで状況を見抜いたことがある。羌族の戦法は熟知しているし、かの地の山谷にも精通している。これ以上、泰山でくすぶっているのは、国家的な才能の浪費だと思うが、どうであろうか。
悪政を行い、羌族を凶暴化させた上で、『孫子』『呉子』の兵法をつかって撃破するのは下策である。羌族の反乱も、泰山の反乱も、病根はひとつ。法に準じた正しい統治を行うことで、反乱は鎮まるであろう。

涼州の腐敗した官僚を弾劾する

延熙四年(161) 冬、私は中郎将となり、零吾羌を破り、先零羌を降した。
戦果をブログで宣伝するつもりはない。そうではなく、ぜひ共有したいことがある。今回の羌族の反乱は、なぜ起きたか。地方長官の悪政のためである。私が羌族にまぐれで勝った話よりも、原因を究明して、再発を防止するほうが重要である。

安定太守は、乱暴に賄賂をとった。安定属国都尉・督軍御史は、降伏した羌族を殺した。涼州刺史・漢陽太守は、すでに老いて職務にたえられないが、権勢家とのつながりを頼りに、規則に従わず、職務にとどまって肩書きを盗み、利権を吸い続けた。権勢家とは、言わずもがな、宦官である。
私が涼州の境界に入ると、すぐに彼らを弾劾して、免官・誅殺をした。羌族の平定に成功したのは、私が兵法に詳しいからではなく、法を正しく運用し、職務の考査を行ったからである。これは、強調しても、し過ぎることはない。

皇甫規の、この「平凡な」価値観は、彼個人のキャラを立たせる上では、やや退屈かも知れない。しかし、一般的な良識、標準的な正義を、このように体現してくれるのは、(それを「第一巻」の皇甫嵩に投影するという企てにおいて)ありがたい。軸足がないと、そこからの距離がはかれない。


私はやってない(羌族との共謀を)

一部の官僚から、私は、告発を受けているようだ。先年、羌族を平定できた理由は、私が羌族に賄賂を送り、「降伏したふり」をしてもらっただけだと。
そんな事実はない。断固として抗議する。

延熙四年(161) 秋、涼州から羌族の襲撃を受けて、涇陽が脅かされ、長安まで恐れ驚いた。

このページの上で書いたとおり、後漢は、関中の防衛に、国家の象徴的な価値に置いているわりには、現実的に長安がピンチになることもあった。

私が羌族を降伏させ、長安を守ることができたのは、皇帝陛下の威徳のおかげであり、正面対決をさけることで、一億銭以上を節約することができた。
振り返れば、前漢では、匈奴に宮姫を降嫁させ、烏孫には和蕃公主を与えた。皇帝の親しきひとを送って、異民族を抑えてこざるを得なかった。しかし私は、千万銭を消費しただけで、羌族を鎮めることができた。
これは、歴代の前任者たちの出せなかった、明確な成果であり、賄賂のような小細工によって、到底なし遂げられることではない。読者諸賢には分かってもらえると思う。もしも疑うのであれば、私財のリストを公開してもいい。

歴史を振り返れば、永初期より(107-113) 将軍が出征することは少なく、軍が覆滅することは5回。巨億の銭を使ってきた。なぜ成果があがらないかといえば、軍費を載せた車に手をつけず、そのまま持ち帰り、私財としたからである。私財とした上で、ときの権力者に賄賂をおくり、官爵を斡旋してもらう。
そういう腐敗のサイクルが、羌族との戦線において恒常化していたから(先年の馬賢も、その系譜に属する)、国庫は貧しくなって徴税が厳しくなる一方、国外では羌族との関係は悪化するばかりという、負のスパイラルに陥っていたわけである。
朝廷からは、辺境の実態が見えにくい。戦いの有無・勝敗が分からない。それを良いことに、涼州方面の地方長官が、「利権」として授受され、賄賂の原資を集める場になっていた。これを断ち切ったのが、私のやったことの全てである

〈追記〉どうやら私に冤罪を着せようとしたのは、安定太守・涼州刺史・漢陽太守といった、私に不正を暴かれた人々であったようである。いやしい政治手法しか採用しない人々が、そのいやしさを、他人にまで転嫁させた結果であろう。

宦官による不当逮捕の件

名指しにして構わないと思うが、中常侍の徐璜・左悺のために、私は労役刑に処せられた。
彼らから使者がきて、しきりに「羌族との戦いで、どんな功績があったのですか」と問い合わせる。事実は事実として答えたが、訪問をやめない。他意がありそうである。どうやら、賄賂の要求だったようである。断固として、私は突き放した。その結果、逮捕された次第である。
幸いにして、恩赦により帰宅できた。

党錮に処せられることを望む

当今、つぎつぎと、天下の明賢が、公職から追放されている。私のところには、なんの通達もないが、私も追放されるべきであろう。むしろ、現行の政権に参加することを、恥と思う。
私は、度遼将軍の後任として、張奐を推薦した。先年、私が労役刑を受けたとき、太学生の張鳳が、私の釈放のために嘆願してくれた。張奐・張鳳とも、党人の名簿に載っている賢者である。どうして私だけ、名簿に載らないでいられよう。

党錮の解除を望む

永康元年(167) 数年間の度遼将軍の職務を終えて、尚書となった。洛陽の皆さん、そのうち声を掛けます。このたび、日食を受けて、政治の得失を問われた。以下のとおり申し上げた。写しが手許にあるので、開示して批評を請う。

災異が起こるのは、賢者と愚者の取り扱いが逆転しているからです。もと太尉の陳蕃・劉矩が、廃されて巷にいます。劉祐・馮緄・趙典・尹勲も、官職がありません。李膺・王暢・孔翊は、宰相になる予兆がありません。彼らを用いれば、政治は良くなるでしょう。云々。

ブログ読者の皆さまへ

皇甫嵩と申します。皇甫規の兄の子です。日ごろは皇甫規のブログを閲覧いただき、ありがとうございます。おじは、熹平三年(174) 七十一歳で亡くなりました。葬儀のことは、追って皆さまにご連絡いたします。

……という感じの皇甫規の思想を、皇甫嵩に「遺伝」させよう。160502

『後漢書』は、皇甫嵩・朱儁でひとつの巻をなす。西北の列将の家柄で、政治に正しさを求め、内乱を鎮める皇甫嵩。呉越の低い家柄で、たたきあげてて官職をあげ、南方を平定し、内乱を鎮める朱儁。すでに皇甫嵩・朱儁という2人のなかに、曹操・孫堅と同じような構造が胚胎されている。

閉じる

もしも虞詡・傅燮がブログを書いたら 【new】

ブログを書いたらシリーズは、原典の意味をほりさげて理解することができると好感触を得たので(ぼくのなかで)ほかにもやります。列伝第四十八から、虞詡と傅燮。いずれ、黄巾の危険性を適切に予測した、劉陶と楊賜もやります。

虞詡:涼州放棄論に反対する

永初四年(110) 羌族・胡族によって、并州・涼州が破られた。大将軍の鄧隲は、費用がかさむから、涼州の放棄と、その代わりに并州の防衛を重点化することを談話で発表した。涼州と并州を両方とも失うか、并州だけでも確実に保つか、という二者択一を提示したわけである。
私は大将軍に反対である。
涼州は、前代までの皇帝が、多大なる犠牲のもとに獲得・安定させた領土である。目先のささいな費用と、天秤にかけてよいものではない。

涼州を放棄すれば、三輔が国境となる。すると、長安にある前漢の皇帝の陵墓は、守備が手薄にならざるを得ない。 いや、遠回しに言うのはやめよう。われわれは、前漢の皇帝の陵墓を、守りきることができない。王朝が滅びて後、陵墓が荒らされた例はおおいが、そうではなく、王朝がありながらにして、陵墓が胡族に荒らされるのを、われわれは目の当たりにするのである。
そんなことが、いやしくも天子の姻族=外戚から発せられたことに驚いている。費用が苦しいのは分かる。しかし、費用と同列に論じてよい問題ではない。そもそも。

「いや、遠回しに……」以降、ぼくが膨らませてます。


「函谷関より西は将軍を出し、函谷関より東は宰相を出す」という。函谷関より西=涼州が輩出した将軍がいるおかげで、国防が成り立っている。
いま、涼州のひとが、漢のために羌族・胡族と戦うのは、漢のフルメンバーだと自己を規定するからである。もしも涼州を放棄すれば、歴代、戦ってきた涼州のひとびとのアイデンティティを奪うことになる。
国家は、ひきつづき、彼らの生産力を活用したい、つまり彼らに課税したいと望むはずだから(正邪はさておき、国家とは、そういうものである)、内地への移住を強制するだろう。大将軍の草案にも、そう書いてある。涼州のひとは、唯々諾々と故郷を失うことを、受け入れるであろうか。私はそうは思わない。
すると、何が起こるか。
ここまで述べれば、帰結は明らかである。涼州の輩出した将軍・兵士が、羌族・胡族の先兵となって、漢を滅ぼしにくるであろう。もしも、これを読んでいるあなたが涼州のひとで、「そんなはずはない」と思うなら、それは涼州が漢土である現状に立脚してしか発想できない、想像力の乏しい人間だからであろう。かりにあなたが、ひとり「漢の忠臣」を言い張っても、あなたの同胞たちは、決して同調してくれない。

「ブログ著者」の虞詡は陳国のひと。思いっきり中原・関東の出身。


大将軍は現状を、「衣が破れたようなもの。一部を(并州だけでも)繕えば、衣は持ち堪える」と朝廷で述べた。この比喩は、的外れである。衣服とは、着脱可能な「外部」のことである。果たして涼州とは、国防費の都合によって、漢土に組み込んだり、漢土から切り離したりするような「外部」であろうか。
この比喩は、涼州を放棄する前提で語られている。この比喩に基づいて考える限り、結論は覆らないであろう。しかし、前提を疑ってみる必要があるのではないか。 言うならば今日、腫れ物ができて、どんどん体内を侵食している状態である。涼州とは、ひとの皮膚のようなもので、まごうことなき身体の一部であり、ここが破れたら、血肉や臓器があらわとなり、生命の危機に直結する「器官」である。

「皮膚のようなもの」は原典にないです。原典は、腫れ物まで。


涼州の人心は、乱れている。政府の首脳から、涼州の放棄論が出たと、もれ聞けば、この混迷は深まるであろう。もし、涼州のひとが武装して、函谷関の東を攻めてきたら、孟賁・夏育が兵士となり、太公望が将軍となったとしても防げない。
われわれが、今すべきなのは、大将軍府と三公府・九卿府に命令をだして、涼州の出身者を辟召して登用させること。これは、現地のひとに恩を施して重用するというプラスの側面と、中央に人質を取って、謀反を抑制するというマイナスの側面がある。
また、涼州の地方長官の子弟に、何らかの官職を与えること。地方長官は、統治エリアの出身者でないひとが就くルールである。彼らは皇帝の代理として統治をしているが、それは名目である。うがった見方をすれば、涼州の部外者に過ぎない。命を投げ出してまで、城を守ろうとするか怪しい。子弟に官職を与えることで、忠誠心を引き出すいっぽう、子弟を人質として、赴任先で死力を尽くさせるという効果をねらうことができる。

私は、漢の版図は寸土も失うわけにはいかぬ、涼州は失いがたき友人である、という感傷に基づいて、涼州の放棄に反対しているわけではない。きわめてクールに、国家の計を考えているだけである。

〈追記〉大将軍と三公は、涼州の豪族を辟召して、中央において掾属とした。涼州の州牧・太守・長吏の子弟を郎官に任命して、中央において郎官とした。私の意見が認められたことを、漢のために喜びたい。

虞詡伝には、羌族との戦いにおける戦術について、おもしろい記述があるが、いまは主題ではないので、扱わない。


傅燮:黄巾の乱は原因から絶つべし

いま頴川郡に向かう馬上で、これを書いている。皇甫嵩とともに、黄巾を討伐を任されたのである。なんどか敵軍との衝突があったが、一度として負けることはなかった。数刻後、本隊と開戦するであろう。思うところを述べておきたい。

天下の禍いとは、外から来るものではなく、内から起こるものである。だから舜が即位すると、外敵を討伐するよりも前に、体制内の4名の凶悪な臣を殺し、代わりに16名の賢者を迎えた。悪人を除かねば、善人が働くことができない。これは『尚書』の時代から変わることがない、われわれの叡智である。
『韓非子』顕学篇にいうように、炭と氷を、同じうつわに保管できない。つまり、凶臣と賢者は並立しない。

張角は、趙・魏で蜂起し、六州に伝播しているが(目前にせまった反乱軍も、その一端をなす)、これは傷が内部から膨らんで、皮膚を食い破り、膿が体中に転移したようなものであろう。
いま「内部」と書いたが、2つの位相で捉えるべきではあるまいか。
地理的な内部と、政治的な内部である。
地理的なことは言わずもがな。
これは、国境外からの異民族の攻撃でもなければ、涼州・荊州といった「辺境の戦線」で起きた戦闘でもない。漢の中心部、中原と呼ばれる地域で起きたことである。もしも、容易に官軍が勝ったとしても(勝つのは当然であるし、それでなければ困るわけだが)この意味を、よく考えたほうがよい。時代の転換点を象徴する戦いになるような気がして、悪い予感がする。
政治的なこととは、
あえて直言すれば、朝廷にいる邪悪な人間によって、引き起こされた反乱ではないか、ということである。間接的には、人民を苦しめる悪政。直接的には、陰謀に加担し、洛陽に手引きした者がいるようだ。張譲が潁川の黄巾と繋がっていることは、王允が調査していたが、ここに書くわけにはいかない

問題は、目の前の黄巾軍ではない。くり返すが、彼らを軍事的に圧倒するのは、簡単なことである。しかし、そんな対症療法には、あまり意味がない。
黄河が氾濫するとき、川幅のひろい下流で治水工事をしても、効果が期待できない。水源に遡って手を打つべきである。いなごのような黄巾の群衆は、川幅のひろい下流であり、水源は、政治的な内部=陛下のそばにいると私は見ている。

陛下は寛容であらせられ、いかなる悪臣であっても、処罰に積極的ではない。だから宦官がのさばって、忠臣は官職から排除されている。残念ながら、まっさきに舜が凶悪な4名の臣を除いたのとは、やり方が異なっている。
張角を誅殺し、黄巾の群れを帰順させたとしても、宦官を除かないかぎり、第二の張角・第三の張角が生まれるだけであろう。そのたびに、民衆を打ち殺していたのでは、この国土に住む人民が、いなくなってしまう。

宦官は陛下に、このような物語を吹きこむであろう。「反乱など起きていない」と。今日、黄巾のような規模になってしまっては、この妄言が使えず、「黄巾は、たやすく平定できた。なんの心配もいらない」と言い換えるのであろうか。
皇甫嵩のような善良な臣が功績を立てれば、朝廷で発言力を増す。宦官は、皇甫嵩によって、断罪される危機を迎えるわけである。すると宦官は、ますます主張するであろう。「黄巾は弱かった、それを討った皇甫嵩の功績は小さい」と。宦官が陛下のそばにいる限り、黄巾の乱は、どんどん過小評価され、民衆による問題提起(乱の真因である悪政)は、ますます隠蔽される。
やはり、悪しき宦官を除くしか、乱の教訓を活かし、乱の再発を防ぐ方法はない。

『史記』甘茂列伝によれば、曽参は母に孝を尽くしたが、彼の母は「曽参が殺人した」としつこく聞かされ、ついに曽参を疑ってしまった。虎なんていないのに、「虎がいるぞ」というウワサが流布すると、人々はリアルに虎を恐れた。
ひとの認知とはモロいもので、いかに陛下が聡明でも、そばで宦官が、いつわりの物語を、ひっきりなしに吹きこむことによって、現状を見誤る。
人間とは、意識せずとも、心地よい方向に「誤解」をすることがある。タチが悪いのは、その誤解が、本人の自覚がなくとも、本人が共犯者の一員となり、成立することである。
……陛下への批判を避けようとして迂回的な表現となった。陛下の耳には、宦官が持ってくる物語が心地よい。努めて現状を正しく把握しようとする理性は、いつの間にか眠らされ、宮殿のなかで、泰平の夢を見ておられるのではないか。
いちど夢のなかに移れば、そのストーリー・ラインにとって邪魔な情報は、おのずと排除される。宦官の権力を強める方向にしか、聖意があらわれなくなる。
まだその段階に入っていないことを望むばかりである。

〈追記〉このブログを読んだ趙忠によって、私は、黄巾平定の功績は取り消された。もとより、この戦闘に意義はないのだから、功績を取り消されても、毛ほども悔しくないのであるが……。封侯を受けるべきところを、罪に問われた。陛下のはからいで罪は免れ、安定都尉に移った。

傅燮:崔烈を斬って、涼州放棄論を黙らせよ

このごろ、辺章・韓遂が隴右で反乱を起こし、そのためのコストが膨らんでいる。傜役・賦役が、かつてないほど民衆を圧迫しているという。これを見た司徒の崔烈が、涼州の放棄を提起した。
私は、崔烈を斬って、涼州の放棄論を黙らせる必要があると思う。二度と、このような愚かなことをいう人臣が出ないよう、歴史の教訓としたい。崔烈を斬れば、天下は安んずるであろう。

結論を先に書いてしまった。
尚書郎の楊賛から、「司徒を侮辱するとは、何ごとか」という苦情をもらったので、私の思うところを述べたいと思う。相手の官位の高さに惑わされ、議論の可否に目を向けない、楊賛のような愚者にも伝わるとよいのだが。

むかし冒頓単于が悪逆なことをすると、樊噲は「匈奴を討伐したい」と願い出た。樊噲の動機は、漢臣として正しいものである。しかし季布は、樊噲の作戦内容に反対して、「樊噲を斬るべきだ」と主張した。動機には賛同しても、方法が異なるだけで、樊噲と季布は、このように鋭く対立したのである。
いま崔烈は、涼州の放棄を唱えた。これは、動機からして、漢臣として正しくない。動機には賛同しつつも、方法に異議のあった季布ですら、「樊噲を斬るべき」と言った。まして私は、崔烈の動機にすら賛同できないのだから、「崔烈を斬るべき」と言うのは、少しもおかしなことではない。

なぜ、動機からして、崔烈は臣道を踏み外しているか。
涼州は天下の要衝であり、国家(三輔のみならず、漢土の全域)を守るための要地である。高祖は酈商に、ここを平定させた。世宗_武帝は、辺境を開拓して、河西4郡(武威・酒泉・張掖・敦煌)をつらねて設置し、「匈奴の右腕を断ち切った」と仰った。それほど重要な土地だからこそ、いま涼州の反乱が止まないから、陛下は眠れぬ夜をお過ごしと聞く。
崔烈は、宰相でありながら、ぬけぬけと、一万里の四方(涼州)を捨てよと ホザいた。もしも涼州を羌族に明け渡せば、彼らは武装を整えて、東に攻めこんでくるだろう。崔烈が、羌族の脅威のことを知らずに、涼州の放棄を唱えたなら、単なるバカである。一日も早く、漢のために引退してもらいたい。いや、斬って差し上げる。もしも崔烈が、羌族の脅威のことを知っていたなら、不忠である。断じて許しがたい。

〈追記〉幸いなことに朝廷には良識の持ち主がおり、崔烈の愚かな議論は退けられた。当然のことが、当然のように決定されない今日の朝廷を、危機的な状況だと思うのは、私だけであろうか。
崔烈は、財政のことに目を奪われて、歴史と軍事のことを忘れた。この蒙昧は、兆候的なことかも知れない。陛下は、朝廷の財政を重視しておられる。その悪習が、臣下にも伝染しているのではないか。崔烈は、銅銭を積んで司徒となった。陛下の醸成した政治環境に「鋭敏に適応」した優秀な政治家ともいえる。「目先の採算のためなら、国が滅びても仕方ない」とでも考えそうな、バランス感覚を欠いた政治家が、つぎつぎと要職に送りこまれるなら、この国はおしまいである。

傅燮:趙忠から爵位の斡旋を受けず

さきごろ、城門校尉の趙延がきた。趙延といっても、ピンとこないかも知れない。車騎将軍になった趙忠の弟といえば、誰もが頷いてくれるであろう。
どうやら、私に賄賂を求めにきたようだ。もしも趙忠に賄賂をおくれば、黄巾討伐の功績によって、一万戸の列侯にも封じてやるぞ、という話らしい。もちろん、剣に手をかけて、追い払った。

もともと、黄巾を討伐した直後、私に対する褒賞を妨害したのは趙忠である。どうやら趙忠に、「ここらで傅燮を賞しておかないと、賞罰に関して、公平性のポーズが取れない」とか、入れ知恵した者があったのだろう。
こたびの趙忠の車騎将軍への昇進は、黄巾の平定によるものらしい。趙忠は、平定したどころか、むしろ黒幕ではないかと思われるが、彼ほどの人物でも、後ろめたさがあったのだろうか。いや、忖度するまい。ただの打算であろう。
〈追記〉執金吾の甄挙の入れ知恵だと、のちに判明しました。余計なことをしないで欲しいものである。

思うに、幸運と不運とは、天の命である。功績を立てても封侯されないのは、天の時である。運をねじまげ、時ならぬ褒賞を、趙忠の私情をたよって得ても、ちっとも嬉しくない。むしろ、汚らわしい。
……どうやら私は、朝廷に敵を多く作りすぎた。趙忠が、ネガティブ・キャンペーンを張っているようで、同調圧力がすごいらしい。地方に転出することを望んでいたら、漢陽太守に任じられた。涼州の戦地であるが、それぐらいがちょうどいい。宦官の害毒から距離をおき、漢のために、ひと働きできるのだから。

〈追記〉傅幹です。このブログの著者である傅燮は、私の父です。父は、漢陽の城に殉じて死にました。生前は、お世話になりました。
父は、無謀な突撃をする指揮官(涼州刺史の耿鄙)を止めましたが、刺史は諌言を聞かずに、ろくに訓練もしていない兵をつれて、羌族に戦いを挑んだそうです。この刺史なるひとは、治中従事の程球をつかって、悪辣な統治をやっておりましたから、陣内で味方に斬られました。指揮官を失った涼州軍は敗走し、父の守る漢陽も、敵に囲まれた次第であります。漢よ永遠たれ。160505

閉じる

物語の着手に向けたアイディア出し

黄巾の乱を「民衆」反乱としない

黄巾の乱の前後を、『資治通鑑』『後漢紀』で読んでます。黄巾の乱は、中央政界から切断された「民衆」反乱ではない。少なくとも史書は「民衆」反乱として記さない。史書の文法や、思想的な前提の影響もあるでしょうが。

歴史書をつくる人々のなかに「民衆」反乱という概念そのものがないから、実態が民衆反乱であったとしても、そのように書くわけがない(書きようがない)と。

宦官の悪政が、構造的・間接的な原因。中央の宦官と黄巾との共謀も明らか。

黄巾を「民衆」反乱と読解したいのは近代のある立場のニーズ。張角の神秘性をこまごまと書いて、伝承・文学のなかで黄老の影響を強調したいというのも、前近代のある立場のニーズか。

ニーズというほど、自覚的なものではなくて、ある時代の中国のひとびとにとっては「空気」みたいなもので、ぼくから見たら、不自然に見えるだけかも知れない。

ゲームで、単なる「英雄のデビュー戦」と位置づけるのも物語的なニーズ。

黄巾軍(大方・小方)がどこまで上意下達の整備された組織だったか。
黄巾を破って功績が過大となり、早くも韓信なみに立場が危うくなった皇甫嵩に、閻忠は「冀方の士」「七州の州」を動員して後漢を討てという。張角の代わりに皇甫嵩がトップになっても、後漢(霊帝軍)と戦い得る組織だったか。
黄巾は、明確な指揮系統によらず、なんとなく連鎖的に複数の州で挙兵があったとイメージしてた。「民衆」反乱に対する思いこみかも。シャドウ王朝として、複数の州にわたる指揮系統があったのかも。そしてその形成には、後漢の高官・宦官も関わっていたっぽい。大事件ですね!

趙忠が「黄巾平定の功績」で(趙忠の功績を、公定の事実だということにして)車騎将軍になり、黄巾を題材とした政争は、宦官が逆転勝利。
張譲ら小悪党が霊帝をミスリードした、というセコい話ではない。桓帝期(順帝に遡っても可)から数十年かけ、宦官は自己に有利な政治体制を築き、霊帝期末に利権が最大化。「張譲か漢か」の二択が提出されるほどに。

張角の乱と、辺章の乱

黄巾の乱、張角の属性・目標をどのように描くかで、三国志の理解が定まる。
『范書』劉陶伝に「竊見天下前遇張角之亂,後遭邊章之寇」という時代認識が語られている。中平前半は張角、中平後半は辺章があばれた。前者で英雄になったのは皇甫嵩(董卓は敗退)、後者で活躍したのは董卓(皇甫嵩は苦戦)。二大反乱のあと、霊帝が崩じて三国志の時代へ。
張角と辺章の「同じ点」と「違う点」を整理すれば、霊帝期末(三国志の時代のスタート時点)に対する見通しが良くなるはず。
張角と辺章の反乱は、形をかえて、三国志の世界を規定する。曹操は、青州黄巾を駆使して、冀州(黄巾の本拠)で建国。辺章の残党系の馬超に手こずり、蜀漢は西方の反乱を活かして北伐をくり返す。同型反復。ずっと「同じことをくり返してる」わけです。160503

『三国志』の巻の構成

自作小説『三国志』を編年体のナンバリング作品とせず、編年の縛りを緩めて、列伝を重ね書きするというアイディアは良い。少なくとも作者を種々の制約から解放する。足がすくんで立ち止まるより、ずっとマシ。
第一巻は皇甫嵩で、黄巾の乱と霊帝期の朝廷の話。きっと第二巻は董卓で、180年代後半の辺章戦で皇甫嵩からバトンを受ける。
第三巻は、孫堅の巻とかで(未定)、皇甫嵩・董卓と並行して活躍する朱儁・張温のことを部下の視点を通じて描き、董卓政権を外側から描き出す。
劉虞にも一巻分を割きたい。張挙・張純の「天子」を名乗る反乱の経緯から、異民族・公孫瓚・袁紹のからみまで、ネタは充分。

多面的に描くためにも、一定の枚数、主人公を務められそうな人物を設定して、『三国志』の話を少しずつ前に進める。
一巻分とは、原稿用紙300枚~500枚(1冊にして印刷しても、薄くならない範囲)をイメージしてます。ライフワークの構想が固まってきた。

陶謙のリクエストも頂きました。多角的な視点の提示という意味では、アリです!


三国の原型は、黄巾平定の中郎将にあり

「董卓の悪政が後漢を滅ぼした」or「いや董卓は賢者を招いたから、むしろ善政した」という対立軸は一次元で閉塞的。董卓の功罪を論じるだけでは、ヴィジョンが矮小化して、見えるものが見えなくなる。
董卓は、後漢を、いまだかつて存在しなかったないくらい、後漢らしく(理想的に、儒家の規範に基づいて)運営しようとして、それゆえに後漢の寿命を縮めた。蔡邕の登用もしかり。ただし、長所の過剰な発現が、短所となる。

曹操の原型が皇甫嵩、孫堅の原型が朱儁と見定めましたが、董卓が劉備の原型なのかも。復古的・理想的な漢の聖化、すぐれた軍事行動、天下の西方の地盤、在野の賢者の重用。
董卓と劉備。まるで別物と思ってたものが、じつは酷似。だまし絵のトリックに気づいたような壮快さ!

董卓は、霊帝の崩後に混乱した洛陽のそばに「偶然」いた経緯を確認。
中平六年正月、董卓は陳倉で王国を破り、皇甫嵩の指示で追撃。平定後、董卓を警戒した朝廷が、兵権を剥がすため中央官に任ず。董卓はゴネた。ゴネを咎められ、二月?に兵五千をひきいて洛陽に向かう。霊帝の崩御は直後の四月。移動時間も含めると、ゴネた時間は、実質1ヶ月もないはず。
霊帝の崩御を「待つ」かのように、詔命に逆らってまで(下手したら死罪なのに)兵権を手放さなかった董卓。数ヶ月だから、ギリギリ無理が通った。のちに董卓が、流浪した少帝&陳留王をひろったことは幸運?だけど、それ以上に、直前の数ヶ月の動きのほうが奇跡的にすごい。まるで、未来が見えているようだ。
中平六年春まで、皇甫嵩は陳倉で董卓と共闘。董卓と同等に影響力があった。もっとも、これは、おいの皇甫酈の評価なので、割り引くべきかも知れないけど。
董卓が廃帝したとき、蓋勲が頼ろうとしたのも皇甫嵩。董卓から後漢を「救済」できるなら皇甫嵩。「いかにして皇甫嵩は腰が砕けたか」は、後漢末の分析視角として有効そう。

董卓が『後漢紀』で皇帝を廃立するとき、率先&代表して賛同するのが丁宮。曹操の正妻の丁氏と同族といわれ、丁儀・丁廙とも同族とされるひと。曹操とのつながりを考えると楽しい。160505br>

『後漢紀』を編纂した袁宏には、「丁宮 人に非ざると謂ふ可し」と批判されたけど。


もしも霊帝が復活したら……とか

「早死したせいで歴史が変わった」人物の延命を妄想するのは楽しいですが、三国志にとってインパクト最大の早死は、後漢の霊帝かも知れない。『後漢紀』を訓読していて思いました。曹操の1歳下だから、健康に配慮すれば、あと20年は生きられた。16年 GWの悪ふざけ、霊帝の生存イフしましょうかねー。

中平六年四月、霊帝が崩じ、軍事トップの蹇碩が獄死。五月、外戚の董重が獄死。何進が宦官攻撃を検討し、何太后が反対。太后を脅すため、袁紹が董卓・丁原を洛陽に呼ぶ。六月、霊帝を陵に葬っ…ここで復活! 霊帝の復活は、董卓の召集=起爆スイッチが押された後が楽しそう。160505

閉じる