孫呉 > 魯粛伝の『三国志集解』の注釈を消化する

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故郷の徐州、周瑜を頼って曲阿にいる

魯粛伝を『三国志集解』で読みながら、関連する史料を、いもづる式に読むべき史料にアタリをつけようというページです。陳寿・裴松之は、抄訳ですらありません。史料の原文を貼ってあるだけです。

魯粛の物語を書くとき、「魯粛伝の集解」のようなものを、先につくってから、創作に着手すると、効率的だろう。いろいろ、方法を試し中。


徐州から退去する

魯肅、字子敬、臨淮東城人也。生而失父、與祖母居。家富於財、性好施與。爾時天下已亂、肅不治家事、大散財貨、摽賣田地、以賑窮弊、結士爲務、甚得鄉邑歡心。

魯肅は、臨淮の東城の人。

臨淮郡は歩隲伝にみえる。東城県は、『魏志』呂布伝にひく『先賢行状』にみえる。陳登が東城太守となった。
ぼくは思う。魯粛が故郷を離れるときは、孫策と争った、淮泗のあたりの陳氏たち(陳登・陳瑀など)との関係から、解き明かすべきだなあ。
胡三省はいう。東城県は、前漢では九江郡に属して、後漢では省かれた。袁術がふたたび県を置いたのだ。
盧弼はいう。『郡国志』によると、下邳国に東城県がある。これが臨淮郡の東城県である。下邳国とは臨淮郡のことである。胡三省は誤りである。

魯粛が生まれると父を失い、祖母と暮らす。家は財に富み、施しを好む。天下がすでに乱れており、魯粛は家事を治めず、おおいに財貨を散じた。田地を捨て売て、士と結んだ。

周瑜、爲居巢長、將數百人、故過、候肅、幷求資糧。肅家有兩囷米、各三千斛。肅乃指一囷與周瑜。瑜、益知其奇也、遂相親結、定僑札之分。袁術聞其名、就署東城長。肅、見術無綱紀、不足與立事、乃攜老弱將輕俠少年百餘人、南到居巢、就瑜。瑜之東渡、因與同行、留家曲阿。會祖母亡、還葬東城。

周瑜が居巣長になるとき、魯粛のところを通り、蔵をわたして「僑札の分」をむすぶ。

『左伝』襄公二十九年より。僑とは、子産のあざな。

袁術により、東城長にされる。袁術に綱紀がないから、居巣の周瑜をたより、ともに長江を東に渡る。

東城長になったのがいつで、東城県を去ったのがいつか、きちんと比較検討して定めたい。

曲阿に住み、祖母が死んだら東城に還って葬る。

吳書曰。肅體貌魁奇、少有壯節、好爲奇計。天下將亂、乃學擊劍騎射、招聚少年、給其衣食、往來南山中射獵、陰相部勒、講武習兵。父老咸曰「魯氏世衰、乃生此狂兒!」後雄傑並起、中州擾亂、肅乃命其屬曰「中國失綱、寇賊橫暴、淮、泗間非遺種之地、吾聞江東沃野萬里、民富兵彊、可以避害、寧肯相隨俱至樂土、以觀時變乎?」其屬皆從命。乃使細弱在前、彊壯在後、男女三百餘人行。州追騎至、肅等徐行、勒兵持滿、謂之曰「卿等丈夫、當解大數。今日天下兵亂、有功弗賞、不追無罰、何爲相偪乎?」又自植盾、引弓射之、矢皆洞貫。騎既嘉肅言、且度不能制、乃相率還。肅渡江往見策、策亦雅奇之。

『呉書』いわく、南山のなかで射猟して、兵法の訓練をした。

『一統志』はいう。鳳陽県の西三里に「西魯山」があり、魯粛が兵を屯した所だと伝えられている。

淮泗が遺種の地ではないと思ったから、3百人を連れてにげた。州兵が追ってきたが、追い返した。孫策に会った。

李清植はいう。魯粛伝はつぎに、劉子揚にいわれて鄭宝を頼ろうとして、周瑜に留められ、孫権に薦められる。孫策にあったという記述がない。孫策は英俊なひとを招くから、さきに孫策に会っていれば、孫策が魯粛を放置するはずがない。『呉書』は誤りだろう。
梁商鉅はいう。曲阿に還って、北に行こうとした。ちょうどそのころ、周瑜は、すでに魯粛の母を呉に移しており、魯粛は周瑜とくわしく状況を語りあった。ときにすでに孫策が死んでいた。つまり魯粛は、まだ長江を渡っておらず、孫策と会っていない。
ぼくは思う。「孫策と魯粛は会わず」が正解のようです。故郷の徐州で、市街地での家業をやらず、山に籠もって、自衛のために訓練をしてた。その様子を、地元の父老に咎められた。魯粛の認識としては、家業してる場合じゃなく、すぐに訓練の成果を出さざるを得なくなるぞと。
やがて、徐州が、群雄のあいだの争奪の対象になった。いちおう、袁術の支配下に入ったころ、魯粛は県長に任命されたが、「袁術の支配は、長続きしない。だれが攻めこんでくるか分からないけど、とにかく、この地に留まったら死ぬわ!」と思った。
逃げ出す先を探しているとき、周瑜が親交を結びにきてくれた。当面、周瑜は袁術の配下のようになって、一族が太守の官職をもらっている。しかし、魯粛は、「袁術が徐州を手放して、混乱が訪れても、周瑜を頼っておけば、少なくとも死なない」と見た。
魯粛が、孫策と会っていない(孫策は200年に死ぬ)なら、魯粛は200年ごろまで、徐州にいたことになる。袁術・呂布と、劉備・曹操が、徐州を取りあうとき、ビビりながら山中に籠もっていたことになる。袁術が敗退して、いちおう劉備・曹操のほうが徐州を治めるようになっても、さらなる戦乱を予感しており、結果として長江を渡った。
『呉書』で、魯粛が矢を打って追い返す州兵が、だれの勢力の州兵なのか書かれてない。時期的には、曹操のところの徐州刺史です。袁術じゃない。


劉曄・鄭宝でなく、周瑜・孫権につく

劉子揚、與肅友善、遺肅書曰「方今、天下豪傑並起、吾子姿才、尤宜今日。急還、迎老母。無事滯於東城。近、鄭寶者、今在巢湖、擁衆萬餘、處地肥饒、廬江閒人多依就之、況吾徒乎。觀其形勢、又可博集。時不可失、足下速之」肅答然其計。葬畢、還曲阿、欲北行。
會瑜、已徙肅母、到吳。肅、具以狀語瑜。時、孫策已薨、權尚住吳。瑜、謂肅曰「昔、馬援答光武云『當今之世、非但君擇臣、臣亦擇君』今主人、親賢貴士、納奇錄異。且吾聞、先哲祕論、承運代劉氏者、必興于東南。推步事勢、當其曆數。終搆帝基、以協天符、是烈士攀龍附鳳馳騖之秋。吾、方達此。足下、不須以子揚之言介意也」肅從其言。瑜因薦、肅才宜佐時、當廣求其比、以成功業。不可令去也。

劉子揚は、魯粛に、「故郷の東城に留まらず、巣湖の鄭宝をたよれ」と手紙で進めた。

『通鑑考異』はいう。劉子揚は魯粛をまねき、鄭宝を頼ろうとした。周瑜は、彼が孫権を輔佐して、魯粛を(協力させるために)留めた。案ずるに、劉曄は鄭宝を殺して、鄭宝の衆を劉勲に与える。劉勲は、孫策に滅ぼされた。鄭宝がどうして、孫権の時代に生き残っているのか。
梁商鉅はいう。劉曄伝によれば、劉曄は鄭宝に駆逼され(むりにせまられ)、江表にゆこうとした。劉曄は鄭宝を謀殺した。つまり劉曄は、もとから鄭宝の党与ではない。どうして魯粛に、鄭宝に仕えるように薦めるものか。
ぼくは思う。劉曄伝によれば、鄭宝は、「長江を南渡して、一旗あげよう。劉曄も着いてこい」と誘う。劉曄は心細いから、魯粛も誘ったのだろう。これは、袁術の滅亡後、袁術の後継者をめぐって、孫策・劉勲らが争った時期。揚州の支配者の空白期間が、劉曄・魯粛を江南に呼ぶ。周瑜は、孫策なきあと、袁術の後継者の位置に孫権をつけるため、魯粛に協力を求めた。鄭宝は見かけ倒しなので、劉曄は劉勲を頼り、曹操からの使者にあって曹操を頼った。
揚州に、生命の保全をもとめて逃れ、袁術の後継者争いに巻きこまれ、、という点で、劉曄・魯粛は同じである。たまたま、鄭宝・劉勲を頼った劉曄は北にゆき、周瑜・孫権を頼った魯粛は南に残ったと。
袁術の死後、孫策の末期をしっかり整理しておかないと、魯粛伝を読みこなすことができない。本場の史家たちも混乱している。

魯粛は同意した。祖母を葬ると、(周瑜を頼って一時的に住んだ)曲阿に還り、北に行こうとした。

ぼくは思う。曲阿は、劉繇が揚州刺史をやった場所。孫策に陥落させられた。まとまった城市があり、かつ孫策・周瑜の勢力圏なのだろう。だから避難場所として、周瑜は魯粛をここに置いた。

たまたま周瑜は、すでに魯粛の母をつれて、呉に行っていた。すでに孫策が死に、孫権が呉にいる。周瑜は魯粛に、「孫権に仕えろ」といった。魯粛は従った。

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孫権に仕え、劉備を荊州におく

魯粛が孫権に、戦略を語る

權卽見肅、與語甚悅之。衆賓罷退、肅亦辭出。乃獨引肅還、合榻對飲。因密議曰「今漢室傾危、四方雲擾。孤承父兄餘業、思有桓文之功。君既惠顧、何以佐之」肅對曰「昔、高帝區區欲尊事義帝而不獲者、以項羽爲害也。今之曹操、猶昔項羽。將軍何由、得爲桓文乎?肅竊料之、漢室不可復興、曹操不可卒除。爲將軍計、惟有鼎足江東、以觀天下之釁。規模如此、亦自無嫌。何者、北方誠多務也。因其多務、剿除黃祖、進伐劉表、竟長江所極、據而有之、然後建號帝王以圖天下、此高帝之業也」權曰「今盡力一方、冀以輔漢耳。此言、非所及也」張昭、非肅謙下不足、頗訾毀之、云、肅年少麤疎、未可用。權、不以介意、益貴重之、賜肅母衣服幃帳、居處雜物。富擬其舊。

孫権は、すぐに魯粛に会った。魯粛は、戦略を語った。孫権は、「わたしは、輔漢したいだけ」といい、魯粛の戦略を用いない。ただし魯粛の母に、以前どおりのぜいたくな生活を保障した。

『三国志集解』は、ちょっとした史家の論評を載せるだけで、拾いたい話がない。「以前どおり」を、財産家の魯氏の生活レベルだと解釈するのは、胡三省である。ぼくは、周瑜が魯粛の母にさせた贅沢のレベルを保ったと解釈します。


劉備と同盟する

劉表死。肅進說曰「夫、荊楚與國隣接、水流順北、外帶江漢、內阻山陵、有金城之固、沃野萬里、士民殷富。若據而有之、此帝王之資也。今表新亡、二子素不輯睦、軍中諸將各有彼此。加、劉備天下梟雄、與操有隙、寄寓於表。表、惡其能而不能用也。若備與彼協心上下齊同、則宜撫安與結盟好。如有離違、宜別圖之、以濟大事。肅請、得奉命弔表二子、幷慰勞其軍中用事者、及說備使撫表衆、同心一意、共治曹操、備必喜而從命。如其克諧、天下可定也。今不速往、恐爲操所先」權卽遣肅行。到夏口、聞曹公已向荊州、晨夜兼道。比至南郡、而表子琮已降曹公、備惶遽奔走、欲南渡江。肅徑迎之、到當陽長阪、與備會、宣騰權旨、及陳江東彊固、勸備與權併力。備甚歡悅。時諸葛亮與備相隨、肅謂亮曰「我、子瑜友也」卽共定交。備遂到夏口、遣亮使權、肅亦反命。

劉表が死ぬと、魯粛は情勢を孫権に説明し、荊州にいく。

李安渓はいう。魯粛は、最初から最後まで、劉備と同調せよという。周瑜とは、すこぶる異なっている。
ぼくは思う。この「常識」に挑戦してこそ楽しい。

劉備・劉琮が対立しているのを知り、劉備と孫権の同盟をもちかけた。

臣松之案。劉備與權併力、共拒中國、皆肅之本謀。又語諸葛亮曰「我子瑜友也」、則亮已亟聞肅言矣。而蜀書亮傳曰「亮以連橫之略說權、權乃大喜。」如似此計始出於亮。若二國史官、各記所聞、競欲稱揚本國容美、各取其功。今此二書、同出一人、而舛互若此、非載述之體也。

裴松之はいう。諸葛亮は、魯粛の話を聞いて、劉備・孫権の同盟を思いついた。しかし『蜀志』諸葛亮伝は、諸葛亮が孫権を説得して、同盟を成したと書いてある。一貫性がない。

あるひと(というか盧弼)はいう。魯粛は諸葛亮に同盟のことを教えたが、諸葛亮なりに考えてもいた。孫権は魯粛だけでなく、諸葛亮の話も聞いて、同盟を決めた。べつに一貫性がないわけじゃない。


會、權得曹公欲東之問、與諸將議。皆勸權迎之、而肅獨不言。權起更衣、肅追於宇下、權知其意、執肅手曰「卿、欲何言?」肅對曰「向察衆人之議、專欲誤將軍、不足與圖大事。今、肅可迎操耳。如將軍、不可也。何以言之、今肅迎操、操當以肅還付鄉黨、品其名位、猶不失下曹從事、乘犢車、從吏卒、交游士林、累官、故、不失州郡也。將軍迎操、欲安所歸。願、早定大計、莫用衆人之議也」權歎息曰「此諸人持議、甚失孤望。今卿廓開大計、正與孤同、此天以卿賜我也。」

ちょうど孫権は、曹操への対応を議論していた。魯粛は、「もし曹操を迎えれば、私は下曹従事を下回ることなく、犢車に乗れるが、孫権さんはムリだ」といった。

胡三省はいう。「下曹従事」とは、諸曹従事のうち、最も下のものいである。
胡三省はいう。『晋志』によれば、「犢車」とは牛車である。古代の貴いものは、牛車に乗らない。漢武帝による推恩の政策の結果、諸侯のうちでも寡弱なもの、貧しいものは、牛車に乗った。のちに貴いものも牛車に乗るようになった。霊帝・献帝のころ以来、天子から士に至るまで、牛車に乗るようになった。


魏書及九州春秋曰。曹公征荊州、孫權大懼、魯肅實欲勸權拒曹公、乃激說權曰「彼曹公者、實嚴敵也、新幷袁紹、兵馬甚精、乘戰勝之威、伐喪亂之國、克可必也。不如遣兵助之、且送將軍家詣鄴。不然、將危。」權大怒、欲斬肅、肅因曰「今事已急、卽有他圖、何不遣兵助劉備、而欲斬我乎?」權然之、乃遣周瑜助備。
孫盛曰。吳書及江表傳、魯肅一見孫權便說拒曹公而論帝王之略、劉表之死也、又請使觀變、無緣方復激說勸迎曹公也。又是時勸迎者衆、而云獨欲斬肅、非其論也。

『三国志集解』は、史家のコメント(人物評価)を載せるだけなので、引用せず。


赤壁を開戦させる

時周瑜、受使至鄱陽。肅、勸追召瑜還。遂、任瑜以行事、以肅爲贊軍校尉、助畫方略。曹公破走、肅卽先還、權大請諸將迎肅。肅將入閤拜、權起禮之、因謂曰「子敬、孤持鞍下馬相迎、足以顯卿未?」肅趨進曰「未也」衆人聞之、無不愕然。就坐、徐舉鞭、言曰「願至尊、威德加乎四海、總括九州、克成帝業。更以安車輭輪、徵肅、始當顯耳」權撫掌歡笑。

ときに周瑜は、使(使命)を受けて、鄱陽に至る。

鄱陽は、孫権伝の建安八年にある。

魯粛は、追って周瑜を召し(孫権のもとに)還せと薦めた。

胡三省はいう。周瑜は、命令を受けて使者に発ったばかりであり、あまり遠くに行ってないから、追いかけたのだ。

魯粛を賛軍校尉とした。

孫権伝によると、建安五年、魯粛・諸葛瑾らが初めて賓客となった。けだし、これ以前に官位を受けていなかった。
胡三省はいう。軍謀に賛じさせるから、賛軍校尉という。

戦勝後、孫権が魯粛を迎えると、「至尊(あなた)は、視界に威徳を四海に加えて、帝業を成してよ」といった。

銭振鍠はいう。甘寧・魯粛・呂蒙・陸遜伝では、よく孫権を「至尊」と呼ぶ。このとき孫権は、まだ天子ではない。孫呉のひとの史書の記述を、陳寿が改めずに流用したのだ。
盧弼はいう。まだ漢帝がいる。帝業を成そうなんて、曹操とどこが違うんだか。


劉備に荊州を担当させる

後、備詣京見權、求都督荊州。惟肅、勸權借之、共拒曹公。曹公、聞權以土地業備、方作書、落筆於地。

のちに劉備は、京城にきて孫権にあい、「荊州を都督したい」といった。魯粛だけが、孫権に「これに借りて、ともに曹操をふせげ」と勧めた。

荊州を借りることは、『蜀志』先主伝の建安十三年にひく『江表伝』にある。
袁枚はいう。孫権は荊州を劉備の資として、魯粛がこれを勧めたのだが、荊州は返還されなかった。孫権は深く魯粛をうらんだ。あるひと曰く、魯粛の心は漢を忘れず、ゆえに劉備に利したのだと。あるひと曰く、これ魯粛の失敗であり、周瑜ならこんな失敗はしなかった。この2つの説は、ダメである。もしも魯粛が漢に忠なら、孫権を去って劉備に帰するはず。また魯粛の失敗でもない。魯粛の言うとおりに劉備と同盟しなければ、曹操に勝てておらず、孫権は皇帝になれなかった、、とか論評が続くけど、べつにいいや。

曹操は、孫権が劉備に土地を以て業とせしむ(創業させた)のを聞いて、筆を落とした。

『通鑑考異』はいう。恐らく曹操は、筆を落としてない。『通鑑』には採用しない。


漢晉春秋曰。呂範勸留備、肅曰「不可。將軍雖神武命世、然曹公威力實重、初臨荊州、恩信未洽、宜以借備、使撫安之。多操之敵、而自爲樹黨、計之上也。」權卽從之。

『漢晋春秋』はいう。呂範は、劉備を留めろといった。

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荊州で外交をやる

周瑜をひきつぐ

周瑜病困、上疏曰「當今天下、方有事役、是瑜乃心夙夜所憂。願至尊、先慮未然、然後康樂。今既、與曹操爲敵、劉備近在公安、邊境密邇、百姓未附。宜得良將以鎭撫之。魯肅、智略足任、乞以代瑜。瑜、隕踣之日、所懷盡矣」

周瑜が病気になると、魯粛を後任にと遺言した。

江表傳載。初瑜疾困、與權牋曰「瑜以凡才、昔受討逆殊特之遇、委以腹心、遂荷榮任、統御兵馬、志執鞭弭、自效戎行。規定巴蜀、次取襄陽、憑賴威靈、謂若在握。至以不謹、道遇暴疾、昨自醫療、日加無損。人生有死、修短命矣、誠不足惜、但恨微志未展、不復奉教命耳。方今曹公在北、疆埸未靜、劉備寄寓、有似養虎、天下之事、未知終始、此朝士旰食之秋、至尊垂慮之日也。魯肅忠烈、臨事不苟、可以代瑜。人之將死、其言也善、儻或可採、瑜死不朽矣。」案此牋與本傳所載、意旨雖同、其辭乖異耳。

『江表伝』は、周瑜の手紙を載せる。
裴松之はいう。本伝のものと、意味は同じで、字句が違う。

卽拜肅、奮武校尉、代瑜領兵。瑜士衆四千餘人、奉邑四縣、皆屬焉。令程普、領南郡太守。肅、初住江陵、後下屯陸口。威恩大行、衆增萬餘人、拜漢昌太守、偏將軍。十九年、從權破皖城、轉橫江將軍。

魯粛は、奮武校尉となる。周瑜の士衆4千余人・封邑4県をひきつぐ。はじめ魯粛は江陵にとどまり、のちに下って陸口に屯する。

4県とは、下雋・漢昌・劉陽・州陵である。
陸口は、孫権伝の建安十五年にある。
顧祖禹はいう。昌江山は、岳州府の平江県の東南2里にある。一名を「魯徳山」という。かつて魯粛が屯したから、後世のひとが徳として、名づけた。

威恩はおおいに行われ、軍勢は1万余人が増えた。漢昌太守・偏将軍を拝した。 建安十九年、孫権に従って皖城をやぶり、横江将軍に転じる。

漢昌は、孫権伝の建安十五年にある。 横江将軍は、定員1名、呉がおく。


益州を攻めること

先是、益州牧劉璋、綱維頹弛。周瑜、甘寧、並勸權取蜀、權以咨備。備、內欲自規、仍偽報曰「備與璋、託爲宗室、冀憑英靈、以匡漢朝。今、璋得罪左右、備獨竦懼、非所敢聞、願加寬貸。若不獲請、備當放髮、歸於山林」
後、備西圖璋、留關羽守。權曰「猾虜、乃敢挾詐」及羽與肅隣界、數生狐疑、疆埸紛錯、肅常以歡好、撫之。

周瑜・甘寧は、孫権に「蜀をとれ」と勧める。孫権が劉備に諮ると、ごまかされた。

先主伝および注引『献帝春秋』にある。

劉備が益州にいき、関羽を留めた。関羽と魯粛は境界を接して、しばしば狐疑を生じた。

『通鑑』は「しばしば疑弐を生じた」につくる。


備既定益州、權求長沙、零、桂。備不承旨、權遣呂蒙率衆進取。備聞、自還公安、遣羽爭三郡。肅住益陽、與羽相拒。肅邀羽相見、各駐兵馬百步上、但請將軍單刀、俱會。肅、因責數羽曰「國家區區、本以土地借卿家者、卿家軍敗遠來、無以爲資故也。今已得益州、既無奉還之意、但求三郡、又不從命」語未究竟、坐有一人曰「夫、土地者、惟德所在耳。何常之有」肅厲聲呵之、辭色甚切。羽、操刀起、謂曰「此、自國家事、是人何知」。目使之去。備、遂割湘水、爲界。於是罷軍。

劉備が益州を定めると、孫権は、長沙・零陵・桂陽を求めた。劉備ががえんじないから、呂蒙に軍勢で攻めとらせた。

孫権伝は、建安十九年、孫権は諸葛瑾に、荊州の数郡を(劉備に)求めさせた、とある。

劉備は公安にかえり、関羽に呂蒙を迎撃させた。 魯粛は、益陽にとどまり、

益陽は、先主伝の建安二十年にある。呂蒙伝にもある。
趙一清はいう。『元和郡県志』によると、益陽県は、魯粛が築いた。東門をのぼると、長沙を望み見ることができる。城邑の人馬は、形色は宛然としており、あい去ること3百里。古老がいうには、益陽の県城から、長沙・益陽を一望できた。
『方輿紀要』巻八十は、、
『方輿紀要』巻七十六によれば、太平城は、武昌の蒲圻県の西南80里にある。孫権が魯粛に零陵を征伐させたとき、太平城が築かれた。

関羽と、拒みあう。魯粛は関羽にむかって会いにゆき、

何焯はいう。ここでは「相ひ見ゆ」とあるが、『呉書』では「趨り就く」とある。表現がちょっとちがう。

会見をした。劉備は、湘水を境界にして(支配圏を)割って(孫権にもどし)、軍をひいた。

孫権伝では、曹操が漢中に入ると、劉備は荊州を失うのを懼れて、和を求めた。孫権は、諸葛瑾を使者にして、同盟を結び直した。荊州を分けて、長沙・江夏・桂陽は、東をもって孫権に属させた。南郡・零陵・武陵は、西をもって劉備に属させた。


吳書曰。肅欲與羽會語、諸將疑恐有變、議不可往。肅曰「今日之事、宜相開譬。劉備負國、是非未決、羽亦何敢重欲干命!」乃趨就羽。羽曰「烏林之役、左將軍身在行間、寢不脫介、勠力破魏、豈得徒勞、無一塊壤、而足下來欲收地邪?」肅曰「不然。始與豫州觀於長阪、豫州之衆不當一校、計窮慮極、志勢摧弱、圖欲遠竄、望不及此。主上矜愍豫州之身、無有處所、不愛土地士人之力、使有所庇廕以濟其患、而豫州私獨飾情、愆德隳好。今已藉手於西州矣、又欲翦幷荊州之土、斯蓋凡夫所不忍行、而況整領人物之主乎!肅聞貪而棄義、必爲禍階。吾子屬當重任、曾不能明道處分、以義輔時、而負恃弱衆以圖力爭、師曲爲老、將何獲濟?」羽無以答。備遂割湘水爲界、於是罷軍。

『呉書』は、このときの会談のことを載せる。

『通鑑』は、字句の改変をたくさんやる。上海古籍3289ページ。史実を変えるのでなく、分かりやすく、より正しい言葉使いに改める。
文中の「圖欲遠竄」とは、胡三省によれば、呉巨のこと。


魯粛が死ぬ

肅、年四十六、建安二十二年卒。權、爲舉哀、又臨其葬。諸葛亮、亦爲發哀。

建安二十二年、魯粛が死んだ。

魯粛は、熹平元年に生まれたことになる。孫策よりも3歳上、諸葛亮よりも9歳上である。
王氏はいう。周瑜は魯粛を後任に勧めたが、魯粛は呂蒙を後任に勧めなかった。魯粛が死んだとき、孫権は厳畯を用いようとした。厳畯は書生で、軍旅に適さないので、呂蒙にした。けだし、あるいは(呂蒙を後任するのが)魯粛の遺志だったか。もし魯粛が死なねば、関羽が樊城を囲んだとき、後方を心配する必要がなく、北方を平定できた。曹丕が帝位を称することもなかったか。

諸葛亮は、哀を発した。

『続捜神記』はいう。王伯陽は、京口に家をかまえる。家の東に、おおきな塚があり、魯粛の墓と伝えられる。伯陽の妻が死ぬと、その墳墓を平らかにして妻を葬った。数年がすぎ、伯陽は、肩車に載せられ、従者を数十人したがえた人物を見た。その人物は、伯陽の前を通って怒った。「わたしは魯子敬である。塚のなかで2百年ばかり過ごしたが、なぜわたしの塚を壊したのだ」と。魯粛の幽霊は、左右に目配せした。従者は、伯陽をひっぱって、刀環で数百回も、築(う)った。伯陽は死んだが、久しくして蘇生した。打撃されたところは、みな腐って潰れた。やがて伯陽は死んだ。


權稱尊號、臨壇、顧謂公卿曰「昔魯子敬、嘗道此。可謂明於事勢矣。」

孫権が帝位にのぼり、魯粛のことを語った。

吳書曰。肅爲人方嚴、寡於玩飾、內外節儉、不務俗好。治軍整頓、禁令必行、雖在軍陳、手不釋卷。又善談論、能屬文辭、思度弘遠、有過人之明。周瑜之後、肅爲之冠。

『呉書』は、魯粛の人物評をのせる。

袁宏『三国名臣序賛』にも、魯粛の人物評あり。上海古籍3290ページ。


肅遺腹子淑、既壯、濡須督張承、謂終當到至。永安中、爲昭武將軍、都亭侯、武昌督。建衡中、假節、遷夏口督。所在嚴整、有方幹。鳳皇三年卒。子睦、襲爵、領兵馬。

魯粛の子孫について。1580520

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補説:魯粛について考えたこと 150520

荊州での外交のこと

2010年に自分で考えた魯粛の話を再読しました。
王朝の歴史家が伝説化した、孤高の詐欺師・魯粛伝
呉書九(周瑜・魯粛・呂蒙伝)のウソを読み解く

赤壁の魯粛は、Wikipedia編者の想定する演義=常識では、「諸葛亮にあしらわれ、周瑜になじられるお人好し」らしい。
Wikipedia「魯粛」の編集履歴を分析(~2015)
だが実態は、劉備に「孫権を利用して曹操を倒せ」といい、孫権に「劉備を利用して荊州を取れ」といい、周瑜を「劉備を使役して荊州を取れ」と導くひとだと思う。

赤壁の主人公は、劉備(諸葛亮)・孫権・周瑜のいずれでもなく、みな魯粛によって「あなたが主役」と思いこまされ、都合よく使われているだけに見える。魯粛は目に見える総大将を務めるわけじゃないが、ひとりで対立を煽って開戦に導いた。なぜ魯粛が開戦を欲するか。「漢を滅ぼすため」だと思う。

魯粛が漢を見限った理由は、まだ見つかってない。

漢を滅ぼしたい魯粛は、曹操を項羽に準えて、「忠臣かと思いきや、気づくと王朝を壊してた」という役割を割り当てる。孫権に劉邦を演じさせ、曹操による王朝の破壊を助長させる(曹操が項羽を演じ切るにはライバル役が必要)。
周瑜・劉備ら軍閥を、荊州というエサで釣り、彼らを使って曹操と孫権の衝突をあおる。

魯粛の死後、呂蒙が関羽を攻めるとか、ミクロな誤算はありますが。曹氏に「忠臣かと思いきや、気づくと王朝を壊してた」項羽の役を演じさせ、孫権に「新しい王朝を立てる」劉邦の役を演じさせたのだから、マクロには魯粛の戦略は成功してる。誤算は、たかが傭兵の劉備が、漢王朝の亡霊として、漢帝を自称したことか。
このあたりは、諸葛亮と「やりたいこと」が違ったゆえに起きた事故だと思います。相互に利用しあって、相互に利益を引きだした。片方だけが、完全に要求を通すことはなく、それなりに、得点・失点があったのだ。

孫権について

赤壁後の孫権は、「周瑜は名門で、兄の孫策と同格。荊州で独自勢力を培っていて怖く、臣下とは呼べない。魯粛は食客きどりで、何をやりだすか分からない。劉備は、同盟者なのか傭兵なのか、潜在的な敵なのか分からない」という状況に置かれる。しかも劉備の人物評は、周瑜・魯粛の間で異なる。
混乱のあまりウツになるレベル。

孫権がスッキリするのは、魯粛の死後。周瑜・魯粛が死に、明らかに格下の呂蒙に荊州を委ねる。劉備を「顕在化した敵」として扱える。
あ、でも孫権は、曹操との関係がスッキリしていない。曹氏を「顕在化した敵」とするのは、曹丕と決裂してから。この曖昧が許されるのは、地理的な距離があるからか。
曹操の生前、どういう動機で、孫権が曹操と戦うのか。これを解き明かさないと、孫権のことを理解できない。おそらく、魯粛が作った「曹操と対立する孫権」という既定路線から、降りることができず、惰性で防衛戦をやらざるを得なかったんだと思う。
だから魯粛が死ねば、魏呉の同盟ができるわけで。もし魯粛の生前に、魏呉の同盟をやろうものなら、さらに、ひとまわり凝ったサギを食らわされ、孫権は追いつめられただろう。魯粛のサギは、怖いのです。

徐州を去るときのこと

論じる順番が前後してすみません。
魯粛が、周瑜・孫権・劉備・曹操をコマのように操るが、前例が190年代にある。彼は、塢のような運命共同体の長として、周瑜・孫策・袁術・鄭宝ら、(当事者である周瑜らですら)敵対関係・君臣関係を分かっていない、あいまいな諸人物のあいだを遊泳する。
魯粛は、自分で君主にならずとも、共同体の存続のために舵を取る。結果的に天下に影響も与える。もっとも嗅覚・判断力に優れたひと(塢主)が、共同体の成員によって感謝される。そういう意味で魯粛は、頼れる人物。
魯粛の嗅覚・判断力は、飛び抜けていたので、塢の共同体を活かすだけでなく、孫権の集団にまで御利益が及び、呉に雄飛のチャンスを与えたのかも知れない。魯粛の塢の共同体が生き残ることと、その宿主である孫権が生き残ることは、矛盾しないから。宿主が安泰なら、寄生するひとも安泰。

200年ごろ、魯粛が3百人を連れて故郷を去ると、徐州の州兵に追われるが、天下の乱れを説いて追いかえし、孫策に会う(魯粛伝にひく『呉書』)。だが『三国志集解』によると、魯粛は孫策に会ってない。魯粛が南下するのは孫策の死後。とすると、魯粛が追いかえした徐州の州兵とは、曹操の配下か。
「州の政治は乱れ、信賞必罰は、でたらめ。州兵は、がんばるのを辞めちゃいなよ」と、魯粛はいう。いかにも袁術の国への批判に思えるが(かってなイメージ)、曹操だって、呂布から奪った直後の徐州を、ろくに把握できていなかった可能性がある。だから、依然として、江南への人口の流出がつづいた。

199年、劉備が、徐州刺史の車冑を斬って、一時的に独立する。曹操がみずから討伐にくる。それほど、徐州には、「曹操の統治領域」としての血が通っていなかった。おそらく、なかば放置・委任統治のようなかたちで、徐州がほったらかされた。
魯粛の離脱は、こんな背景があるはず。
袁術・呂布がいたから、争奪の対象となって、荒れた。袁術・呂布がいなくなれば、もはや生活を継続できないほど荒れて、放置された。
孫呉に、徐州の出身者がおおいのは、徐州がとくに荒れたからだろう。べつに、積極的に揚州が魅力的だったからではあるまい。

など、魯粛のことを考えた日でした。20150520

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