-後漢 > 公孫瓚伝・劉虞伝(後漢書と三国志を統合)

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第1回 張純・張挙の乱より前

『全訳後漢書』の劉虞伝と、『三国志集解』公孫瓚伝を両方みながら、『後漢書』劉虞伝(范書虞伝とする)と『後漢書』公孫瓚伝(范書瓚伝とする)と、『三国志』公孫瓚伝(陳志瓚伝)を比べながら、情報を整理します。
『三国志集解』公孫瓚伝にひく周寿昌によると、『後漢書』は公孫瓚伝の前に劉虞伝があるが、『三国志』にはない。しかし公孫瓚伝は、実質的に劉虞伝を含んでいる。他の列伝なみに名づけるなら「公孫瓚伝 付劉虞伝」となる。

張純の乱までの劉虞

范書虞伝:劉虞字伯安,東海郯人也。
同李賢注:謝承書曰:「虞父舒,丹陽太守。虞通五經,東海(王)恭〔王〕之後。」
范書虞伝:祖父嘉,光祿勳。虞初舉孝廉,稍遷幽州刺史,民夷感其德化,自鮮卑、烏桓、夫餘、穢貊之輩,皆隨時朝貢,無敢擾邊者,百姓歌悅之。公事去官。中平初,黃巾作亂,攻破冀州諸郡,拜虞甘陵相,綏撫荒餘,以蔬儉率下。遷宗正。

劉虞は、東海の郯県のひと。謝承『後漢書』によると、父の劉舒は丹陽太守。劉虞は五経に通じる。東海恭王の子孫。
『三国志集解』公孫瓚伝によると、東海恭王の劉彊は、范書の列伝あり。爵位が世襲され漢末に至った。竇皇太后と竇憲の兄弟の母は、劉彊の娘。中山簡王の劉焉は、劉彊と同じく郭皇后の末子である。
祖父の劉嘉は、光禄勲となる。孝廉に挙げられ、幽州刺史となる。民夷(漢族と非漢族)が徳化に感じ、鮮卑・烏桓・扶余・濊貊らが朝貢した。

鮮卑は、東胡の子孫とされ、一世紀初め(後漢初)、匈奴に率いられて後漢に侵入。匈奴が衰えると、後漢から賞賜を受け、互市を許される代償に、北匈奴・烏桓の中国侵入を防御した。内田吟風『北アジア史研究 鮮卑柔然突厥篇』参照。
烏桓は、匈奴の冒頓単于に滅ぼされた東胡の一派とされる。後漢の北辺を防御した。後漢末に大同団結して袁紹に通じたが、建安十二(207)年、曹操に撃破されて四散した。
扶余・濊貊は、中国の東北から朝鮮半島の北東に居住した。ツングース系とされるが定説なし。『三国志』巻三十 東夷伝に詳しい。

公事により、幽州刺史を去った。中平初(184) 黄巾が乱をなすと、冀州の州郡を攻破した。劉虞は甘陵相となる。宗正に遷る。

ここまでの劉虞の伝記は陳志瓚伝 注引『呉書』のほうが詳しく、

陳志瓚伝 注引『呉書』:吳書曰:虞,東海恭王之後也。遭世衰亂,又與時主疏遠,仕縣為戶曹吏。以能治身奉職,召為郡吏,以孝廉為郎,累遷至幽州刺史,轉甘陵相,甚得東土戎狄之心。後以疾歸家,常降身隱約,與邑黨州閭同樂共卹,等齊有無,不以名位自殊,鄉曲咸共宗之。時鄉曲有所訴訟,不以詣吏,自投虞平之;虞以情理為之論判,皆大小敬從,不以為恨。嘗有失牛者,骨體毛色,與虞牛相似,因以為是,虞便推與之;後主自得本牛,乃還謝罪。會甘陵復亂,吏民思虞治行,復以為甘陵相,甘陵大治。徵拜尚書令、光祿勳,以公族有禮,更為宗正。

初め劉虞は、県に仕えて戸曹吏となり、有能なので郡吏となる。孝廉を挙げられ、しきりに遷って幽州刺史となり、甘陵相に転ず。

甘陵は、武帝紀 建安十年に見える。銭大昭によると、劉虞は甘陵献王の劉忠の国相となった。

范書虞伝と同じく、東方の戎狄の心を得た。劉虞が病気で私宅に移っても、訴訟があると劉虞に持ち込まれ、劉虞の判決を恨まなかった。牛を失った者が訴訟を起こすと、劉虞はそっくりの牛を(別に準備して)失った者に「返却」した。盗んだ者が劉虞に謝罪した。

家畜を失って訴訟する、というエピソードは多い。曹操の祖先の曹節とか。解決法にバリエーションがあるが、劉虞の場合は、裁定者として登場し、「身銭を切る」という形で、人格・度量を表した。

ちょうど甘陵国が再び乱れた。吏民は劉虞の治政を思慕するから、また劉虞が甘陵相となった。洛陽に徴されて尚書令・光禄勲となった。公族なので礼があり、宗正となる。

陳志瓚伝 注引『英雄記』:虞為博平令,治正推平,高尚純樸,境內無盜賊,災害不生。時鄰縣接壤,蝗蟲為害,至博平界,飛過不入。
陳志瓚伝 注引『魏書』:虞在幽州,清靜儉約,以禮義化民。靈帝時,南宮災,吏遷補州郡者,皆責助治宮錢,或一千萬,或二千萬,富者以私財辨,或發民錢以備之,貧而清慎者,無以充調,或至自殺。靈帝以虞清貧,特不使出錢。

『英雄記』はいう。劉虞は(兗州東郡の)博平令となる。領内に盗賊がなく、災害が起きず。隣接する県が蝗蟲の害にあっても、ムシは博平の県内には飛び入らず。
『魏書』はいう。劉虞は幽州にあり、清静・倹約である。霊帝のとき南宮が火災となり、州郡に建設費用を求めた。

『范書』霊帝紀によると、中平二年二月、南宮が焼けて、火は半月で消えたと。『范書』宦者伝に「明年,南宮災。讓、忠等說帝令斂天下田畝稅十錢,以修宮室。發太原、河東、狄道諸郡材木及文石,每州郡部送至京師,黃門常侍輒令譴呵不中者,因強折賤買,十分雇一,因復貨之於宦官,復不為即受,材木遂至腐積,宮室連年不成。刺史、太守復增私調,百姓呼嗟。凡詔所徵求,皆令西園騶密約勑,號曰「中使」,恐動州郡,多受賕賂。刺史、二千石及茂才孝廉遷除,皆責助軍修宮錢,大郡至二三千萬,餘各有差。當之官者,皆先至西園諧價,然後得去。有錢不畢者,或至自殺。其守清者,乞不之官,皆迫遣之。」とある。
黄巾の乱の「明年」つまり中平二年、天下の田畝に課税して、宮室を修築せよと張譲・趙忠がいう。太原・河東・狄道から材木・文石を運ばせたが、宦官がカネ儲けのために受入を延期したので、材木は腐ってしまい、連年しても宮室が成らず。刺史・太守もひそかに課税した。霊帝から「中使」が州郡に遣わされ、賄賂を求めた。支払えぬ地方長官は自殺し、清を守る者は長官に着任することを望まず。

一千万・二千万の供出を求められ、富者は私財で支払い、民に課税する地方長官もいた。支払えないと自殺する長官もいた。霊帝は、劉虞が清貧なので、銭を取らなかった。

これらを全て「袁紹が、皇族の長者として、劉虞を天子に推戴する」ことの伏線として読むと、興味深い。杭世駿によると、『太平御覧』は『英雄記』巻二五八 良刺史下に「幽州刺史劉虞,食不重肴,藍縷繩履」とある。清貧ぶりが分かる。


張純の乱までの公孫瓚

陳志瓚伝:公孫瓚字伯珪,遼西令支人也。為郡門下書佐。有姿儀,大音聲,侯太守器之,以女妻焉,
同注引『典略』:瓚性辯慧,每白事不肯梢入,常總說數曹事,無有忘誤,太守奇其才。

公孫瓚は、遼西の令支の人。郡の門下書佐となる。

郡国志によると、幽州遼西郡の令支県。孤竹城があり、伯夷・叔斉の本国である。王先謙によると、漢末は鮮卑が遼西に拠り、建安十二年に曹操に平定された。
門下書佐は、『三国志集解』董卓伝に注釈がある。范書瓚伝に「家世二千石。瓚以母賤,遂為郡小吏」とある。家は世よ二千石であるが、母が賎しいので郡の小吏となった。その小吏が、門下書佐である。

姿儀あり、声が大きい。侯太守は、公孫瓚に娘を与えた。
『典略』によると、公孫瓚は、ちくま訳では「弁舌さわやかで頭の回転が早く」、報告のときは個別に説明せず、すべての部署のことをまとめて述べ、忘れたり誤ったりしないから、侯太守はその才を奇とした。
范書瓚伝は「為人美姿貌,大音聲,言事辯慧」とまとめる。

公孫瓚を評価したのは、陳志瓚伝では「侯太守」で、范書瓚伝では「太守」である。『三国志集解』公孫瓚伝によると、「故太守」とする版本もある。「侯氏の太守」であろうが、「もと太守」であろうが、つぎに出てくる「劉太守」と別人である。

陳志瓚伝:遣詣涿郡盧植讀經。後復為郡吏。
范書瓚伝:後從涿郡盧植學於緱氏山中,略見書傳。舉上計吏。

涿郡の盧植のところで、経書の読解を習った。『范書』でのみ「緱氏山中」で習ったことと、『范書』盧植伝へのリンクが見える。陳志は「郡吏」とのみ記すが、范書で「上計吏に挙げらる」と分かる。
『三国志集解』が引く恵棟によると、劉寛碑は門生の姓氏を載せるが、なかに公孫瓚の名がある。公孫瓚は、劉寛からも学んだ。

◆劉太守についてゆく

陳志瓚伝:劉太守坐事徵詣廷尉,瓚為御車,身執徒養。
范書瓚伝:太守劉君坐事檻車徵,官法不聽吏下親近,瓚乃改容服,詐稱侍卒,身執徒養,御車到洛陽。

のちに郡吏となる。劉太守が事に坐して廷尉に徴された。恵棟は『英雄記』により、太守の名を「劉基」とする。
公孫瓚は車を守る。范書は「檻車」とあり明確である。范曄は事情について解説があり、『全訳後漢書』に従うと、官法では下役人が檻車に近づくことを許されないため、公孫瓚は衣服を着替え、下男と詐称し、自ら雑役を引き受けて、檻車を御して洛陽に至った。

陳志瓚伝:及劉徙日南,瓚具米肉,於北芒上祭先人,舉觴祝曰:「昔為人子,今為人臣,當詣日南。日南瘴氣,或恐不還,與先人辭於此。」再拜慷慨而起,時見者莫不歔欷。劉道得赦還。
范書瓚伝:太守當徙日南,瓚具豚酒於北芒上,祭辭先人,酹觴祝曰:「昔為人子,今為人臣,當詣日南。日南多瘴氣,恐或不還,便當長辭墳塋。」慷慨悲泣,再拜而去,觀者莫不歎息。既行,於道得赦。

劉太守が日南に徙される刑が適用されると、公孫瓚は豚肉と酒を北芒山に供え、祖先を祭って「私は人(祖先)の子として生まれたが、人臣となり(孝よりも忠を優先して)日南に行きます。帰って来られないかも」と泣いた。慷慨して悲泣し、見たものは歎息した。劉太守は、移動中に赦された。
何焯によると、公孫瓚は遼西の人で、祖先に洛陽に出仕した者がないのに、北芒山に祖先の墓があるのは不審である。恵棟によると、謝承『後漢書』により、母の墓に別れを告げたのである。周寿昌によると、北芒山は死者の鬼が集まるところで、公孫氏の墓を参ったのではない。
盧弼によると、公孫瓚は『范書』で「世よ二千石」であるから、公孫氏は洛陽に出仕したことがあり、何焯は誤りである。恵棟が着目した謝承『後漢書』は、遼西を去るときのことか。趙一清は、遼西にも北芒があるというから、そのときのこと。
思うに、遼西の出来事なら、なぜ護送より後に書かれたか。洛陽の北芒山で公孫瓚は祭りを行い、中央の人々に目撃されたと考えるのが自然であろう。

◆胡族との戦いを始める

陳志瓚伝:瓚以孝廉為郎,除遼東屬國長史。嘗從數十騎出行塞,見鮮卑數百騎,瓚乃退入空亭中,約其從騎曰:「今不衝之,則死盡矣。」瓚乃自持矛,兩頭施刃,馳出刺胡,殺傷數十人,亦亡其從騎半,遂得免。鮮卑懲艾,後不敢復入塞。遷為涿令。
范書瓚伝:瓚還郡,舉孝廉,除遼東屬國長史。嘗從數十騎出行塞下,卒逢鮮卑數百騎。瓚乃退入空亭,約其從者曰:「今不奔之,則死盡矣。」乃自持兩刃矛,馳出衝賊,殺傷數十人,瓚左右亦亡其半,遂得免。

公孫瓚は遼西郡に帰り、孝廉に挙げられ、遼東属国長史となる。

遼東属国は、斉王紀 正始五年に。銭大昭によると、『続漢志』に郡ごとに太守・丞1人ずつを置き、郡が辺戌のとき、丞は長史となる。属国ごとに都尉・丞を1人ずつ置く。属国長史とは属国丞のことである。いつ制度が変わったか分からない(属国には長史でなく丞が置かれるはずなのに)。李祖楙によると、公孫瓚は、都尉の丞(副官)が、辺境の郡では長史と称された事例である。

数十騎をひきいて長城を出ると、鮮卑の数百騎がいた。公孫瓚は、空の亭中(ひとのいない物見台)に退き、

顧炎武によると、亭は留であり、けだし旅宿の会する所。

「ここで突き破らねば、全滅する」といった。自ら両刃の矛をもち、

陳志では「矛を持ち、両頭に刃を施し」とあり、范書では「両刃の矛を持ち」とする。周寿昌によると、もとから矛には両刀が付いて、1つの武器であった。陳志のように、この場で矛に刃を装着して、いきなり実戦で使えば、刃が外れるリスクがある。范書のほうが正しい。

数十人を殺傷した。騎兵の半分を失ったが、脱出できた。
陳志瓚伝のみ、鮮卑が公孫瓚に懲りて、入塞しなくなり、

杭世駿によると、『英雄記』に、公孫瓚が遼東属国長史に除せられ、辺寇と連接する。警あるたび、顔色をかえて怒声をあげ(公孫瓚の声は大きい)、讐敵に赴くかのように、塵を望んでは奔り、夜を継いで戦った。劉虞は公孫瓚の声を知り(音声&声望のダブルミーニングか)その勇を憚り、敢えて干渉しないと。
『太平御覧』巻八百七十に「《英雄記》曰:公孫瓚與破虜校尉鄒靖俱追胡,靖為所圍。瓚回師奔救,胡即破散,解靖之圍。乘勝窮追,日入之後,把炬逐北。又曰:周瑜敗曹操於赤壁。密使輕船走舸百餘艘,艘有五十人施棹,人持炬火。」と。/公孫瓚は、破虜校尉の鄒靖とともに胡族を追い、鄒靖が包囲された。公孫瓚は引き還して救い、胡族を破散して、包囲を解いた。勝ちに乗じて追い詰め、日没後、炬を把して北のかた逐ふ。/というわけで、鄒靖が主役ではなく、『太平御覧』火部三なので、灯りを持って追撃したのが主役。
鄒靖は、先主伝に「靈帝末,黃巾起,州郡各舉義兵,先主率其屬從校尉鄒靖討賊有功,除安喜尉」とあり、劉備は、校尉の鄒靖に従って、霊帝末に黄巾を討伐し、安喜尉となった。

公孫瓚は涿令に遷ったとする。范書瓚伝は、涿令となったことを省くが、劉備との接点となる貴重なネタなので、看過すべきでない。161220

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第2回 張純・張挙の反乱

張純・張挙の反乱

この反乱の経緯を、『三国志集解』公孫瓚伝の注釈から先取り。
范書烏桓鮮卑伝によると、

范書烏桓伝:烏桓者,本東胡也。漢初,匈奴冒頓滅其國,餘類保烏桓山,因以為號焉。俗善騎射,弋獵禽獸為事。隨水草放牧,居無常處。……霊帝初,烏桓大人上谷有難樓者,眾九千餘落,遼西有丘力居者,眾五千餘落,皆自稱王;又遼東蘇僕延,眾千餘落,自稱峭王;右北平烏延,眾八百餘落,自稱汗魯王:並勇建而多計策。中平四年,前中山太守張純畔,入丘力居眾中,自號彌天安定王,遂為諸郡烏桓元帥,寇掠青、徐、幽、冀四州。五年,以劉虞為幽州牧,虞購募斬純首,北州乃定。

范書によると、烏桓は東胡であり、冒頓単于に国を滅ぼされ、余類が烏桓山に拠った。霊帝初、烏桓の大人で上谷郡に難楼というものがおり、遼西郡に丘力居があり、どちらも王を自称した。遼東郡の蘇僕延は峭(ショウ)王を称した。右北平の烏延は、汗魯王を称した。
中平四(187)年、前中山(太守)〔相〕の張純が反して、多数の烏桓の王のうち、丘力居の衆中に入って「弥天安定王」を自号して、諸郡の烏桓の元帥となった。つまり烏桓は、漢族の張純を触媒にして、諸王が大同団結した。烏桓は、青州・徐州・幽州・冀州を寇掠した。中平五(188)年、劉虞の幽州刺史としての治績が買われ、幽州牧となった。劉虞は張純の首に懸賞金をかけ、(中平六年三月)北方の地域は平定された。

陳志烏桓伝:漢末、遼西烏丸大人丘力居、衆五千餘落。上谷烏丸大人難樓、衆九千餘落。各稱王。而遼東屬國烏丸大人蘇僕延、衆千餘落、自稱峭王。右北平烏丸大人烏延、衆八百餘落、自稱汗魯王。皆有計策、勇健。中山太守張純、叛入丘力居衆中。自號彌天安定王、爲三郡烏丸元帥。寇略青徐幽冀四州、殺略吏民。靈帝末、以劉虞爲州牧、募胡斬純首、北州乃定。

陳志によると、遼西郡の烏丸の丘力居・上谷郡の難楼は王を称した。遼東属国の蘇僕延は、峭王を称した。右北平の烏延は、汗魯王を称した。みな計策があり、勇健である。中山(太守)〔相〕の張純は、丘力居の衆中に入り、三郡の烏桓の元帥となった。范書と同じ内容。

◆范書霊帝紀による整理
時系列を、范書霊帝紀によって確認すると、

范書霊帝紀:夏四月,涼州刺史耿鄙討金城賊韓遂,鄙兵大敗,遂寇漢陽,漢陽太守傅燮戰沒。扶風人馬騰、漢陽人王國並叛,寇三輔。太尉張溫免,司徒崔烈為太尉。五月,司空許相為司徒,光祿勳沛國丁宮為司空。六月,洛陽民生男,兩頭共身。漁陽人張純與同郡張舉舉兵叛,攻殺右北平太守劉政、遼東太守楊終、護烏桓校尉公綦稠等。舉(兵)自稱天子,寇幽、冀二州。

中平四年 夏四月、涼州刺史の耿鄙が、韓遂に大敗して、漢陽郡を寇された。漢陽太守の傅燮が没した。扶風の馬騰が、漢陽の王国とともに叛し、三輔を寇した。この涼州反乱のため、幽州の兵を回そうとして、張純・張挙の乱が起きる。
六月、洛陽で男子が生まれ、頭が2つで体が1つ。これが張挙らに「天子が2人となる」という確信を与えた。ついに漁陽の張純・張挙が、劉政・楊終・公綦稠らを殺して、天子を自称し、幽州・冀州を寇したと。
恵棟によると『水経注』では楊終を楊紘に作る。

范書霊帝紀:(中平五年)九月,南單于叛,與白波賊寇河東。遣中郎將孟益率騎都尉公孫瓚討漁陽賊張純等。冬十月,(壬午御殿後槐樹自拔倒豎)青、徐黃巾復起,寇郡縣。甲子,帝自稱「無上將軍」,燿兵於平樂觀。
十一月,涼州賊王國圍陳倉,右將軍皇甫嵩救之。遣下軍校尉鮑鴻討葛陂黃巾。巴郡板楯蠻叛,遣上軍別部司馬趙瑾討平之。公孫瓚與張純戰於石門,大破之。是歲,改刺史,新置牧。

中平五年九月、南単于が叛して、白波賊とともに河東を寇した。中郎将の孟益(恵棟によると水経注は孟溢に作る)が、騎都尉の公孫瓚を率いて、漁陽賊の張純らを討つ。冬十月、青州・徐州の黄巾がまた起こり、郡県を寇した。十月甲子、霊帝は「無上将軍」を称して、平楽観で閲兵した。
十一月、涼州賊の王国が陳倉を囲み、右将軍の皇甫嵩が救う。下軍校尉の鮑鴻に、葛陂の黄巾を討たせる。巴郡の板楯蛮が叛き、上軍別部司馬の趙瑾に討平させる。公孫瓚は、張純と石門で戦って、大いに破る。この歳、刺史を改めて州牧が新設された。
中平五(188)年は、霊帝の死ぬ1年前。河東を白波、漁陽を張純、青州・徐州を黄巾、涼州を王国、巴郡を板楯蛮が攻撃した。後漢の滅亡の兆候があり、州牧を設置する理由を作った。公孫瓚は、中郎将の孟益に率いられ、張純を討伐した。もともと前年から継続する、涼州の反乱を平定するため、幽州で編成された軍だった。

范書霊帝紀:六年春二月,左將軍皇甫嵩大破王國於陳倉。三月,幽州牧劉虞購斬漁陽賊張純。下軍校尉鮑鴻下獄死。夏四月丙午朔,日有食之。太尉馬日磾免,幽州牧劉虞為太尉。丙辰,帝崩于南宮嘉德殿,年三十四。

中平六(189)年二月、左将軍の皇甫嵩が王国を陳倉で大いに破る。三月、幽州牧の劉虞が、漁陽賊の張純に懸賞をかけて斬った。下軍校尉の鮑鴻が下獄され死ぬ。四月、幽州牧の劉虞を太尉とする。同月、霊帝が崩御した。

つまり、中平四(187)年の夏に、張純・張挙が叛した。孟益・公孫瓚が張純と戦っていたが、決着には到らない。中平五(188)年、劉焉の発議で州牧が設置され、劉虞が幽州牧となる。中平六(189)年、劉虞の恩信により、烏桓らが張純を裏切って、3月に首を届けたと。
この功績で劉虞は次月に太尉になり、同月に霊帝が崩じた。急展開!

劉虞が幽州牧となる

概要を見ることができたので、劉虞伝を読む。

范書虞伝:後車騎將軍張溫討賊邊章等,發幽州烏桓三千突騎,而牢稟逋懸,皆畔還本國。
同李賢注:前書音義曰:「牢,賈直也。」稟,食也。言軍糧不續也。

のちに車騎将軍の張温が、辺章らを討伐する。幽州烏桓の突騎三千を徴発した。しかし軍糧の供給が続かず、みな背いて本国に帰った。
李賢注によると、途絶えた「牢」とは、賈直(給金)のこと。「廩」とは、食糧のこと。郡の糧食が続かないの意。

范書虞伝:前中山相張純私謂前太山太守張舉曰:「今烏桓既畔,皆願為亂,涼州賊起,朝廷不能禁。又洛陽人妻生子兩頭,此漢祚衰盡,天下有兩主之徵也。子若與吾共率烏桓之眾以起兵,庶幾可定大業。」舉因然之。
范書校勘:集解引錢大昕說,謂南匈奴、烏桓傳俱作「前中山太守」。按:張森楷校勘記謂中山是國,兩漢初未為郡,不應有太守,作「相」是也,兩傳自誤耳。

前の中山相の張純は、ひそかに前の泰山太守の張挙に「烏桓は背き、乱を願う。涼州の賊を、朝廷は制圧できない。洛陽に2つ頭の子が誕生した。漢朝の命運が衰え、天下に2人の君主が現れる前兆である。きみと私で烏桓を率いて騎兵すれば、大業ができる」と。

張純・張挙は、漁陽のひと。ともに起兵したが、公孫瓚に敗れたのち、幽州牧の劉虞に平定された。『全訳後漢書』劉虞伝の補注は、突然のネタバレ。

銭大昕によると、『范書』南匈奴伝・烏桓伝は、張純を「前の中山太守」とする。両漢期には、中山は国であり、郡になったことがないから「相」が正しい。南匈奴伝・烏桓伝が誤り。

范書虞伝:四年,純等遂與烏桓大人共連盟,攻薊下,燔燒城郭,虜略百姓,殺護烏桓校尉箕稠、右北平太守劉政、遼東太守陽終等,眾至十餘萬,屯肥如(県、遼西郡に属す)。舉稱「天子」,純稱「彌天將軍安定王」,移書州郡,云舉當代漢,告天子避位,勑公卿奉迎。純又使烏桓峭王等步騎五萬,入青冀二州,攻破清河、平原,殺害吏民。朝廷以虞威信素著,恩積北方,

中平四(187)年、張純は烏桓大人と連盟し、薊下を攻め、城郭を焼き、百姓を略し、護烏桓校尉の箕稠・右北平太守の劉政・遼東太守の陽終らを殺し、遼西郡の肥如県に屯した。
護烏桓校尉は、秩禄が比二千石。箕稠は他に史料がなく不明だが、范書 霊帝紀は「公綦稠」に作る。劉政は、他に史料がない。陽終も史料がないが、范書 霊帝紀は「楊終」に作る。
張挙は「天子」を称し、張純は「弥天将軍・安定王」を称して、州郡に書を移し「張挙は漢に代わるべし。霊帝を退位させ、公卿に張挙を奉迎させる」と告げた。張純は、烏桓の峭王(遼東属国のひと蘇僕延)に歩騎5万を率いさせ、青州・冀州に入り、清河国・平原国を攻破し、吏民を殺害した。朝廷は、劉虞の威信が明らかで、恩を北方に積むことから、

范書虞伝:明年,復拜幽州牧。虞到薊,罷省屯兵,務廣恩信。遣使告峭王等以朝恩寬弘,開許善路。又設賞購舉、純。舉、純走出塞,餘皆降散。純為其客王政所殺,送首詣虞。靈帝遣使者就拜太尉,封容丘侯。 [四]容丘,縣,屬東海郡。

翌(188)年、ふたたび劉虞を幽州牧とした(州牧の設置は188年)。劉虞は薊県(広陽国に属し、州牧の治所)に到着し、駐屯する兵を省き、務めて恩信を広めた。使者を峭王に遣って「朝廷の恩は寛容であり、改心を許す」と伝えた。張挙・張純に懸賞をかけた。張挙・張純は塞外にゆき、他は降散した。張純は食客の王政に殺さ、首が劉虞に届く。霊帝は、使者を遣わして劉虞を太尉・容丘侯とした。

◆陳志公孫瓚伝
同じ乱は、陳志 公孫瓚伝にもあり、劉虞の赴任までに、

陳志瓚伝:光和中、涼州賊起。發幽州突騎三千人、假瓚都督行事傳、使將之。軍到薊中。漁陽張純、誘遼西烏丸丘力居等叛、劫略薊中、自號將軍。略吏民、攻右北平遼西屬國諸城、所至殘破。瓚、將所領追討純等、有功。遷騎都尉。屬國烏丸貪至王、率種人詣瓚、降。遷中郎將、封都亭侯。進屯屬國、與胡相攻擊五六年。丘力居等鈔略青徐幽冀。四州被其害、瓚不能禦。
同注引:九州春秋曰。純自號彌天將軍、安定王。

光和中平期、涼州の賊が起こった。

沈家本によると、賊が起こるのは中平元年11月なので、光和は誤り。ぼくが考えるに、中平への改元は、同年末なので、光和が正しいとも言える。

幽州の突騎3千を徴発し、公孫瓚に都督行事の伝を仮させ、徴発された兵を率いさせた。伝は所在を転移すること、もしくは符牒のこと。難しいが、兵を送り届け、その兵が確かに今回の命令で動いたものという証明書を運んだか。
公孫瓚が薊中(広陽国に属し、州牧の治所)に到ると、
漁陽・張純が、遼西の烏桓の丘力居を誘って叛した。薊中を劫掠し、将軍を自号した。『九州春秋』によると、張純は弥天将軍・安定王を自号した。右北平・遼西属国の諸城を攻め、残破した。公孫瓚は、ひきいる兵で張純らを追討し、功績があり、騎都尉に遷る。属国烏桓の貪至王は、種人を率いて公孫瓚にいたって降った。中郎将に遷り、都亭侯に封じられた。進んで〔遼東〕属国に屯し、胡族とのあいだで攻撃しあうこと5-6年。つまり中平期、公孫瓚はずっと胡族と戦って、時間を費やしたことになる。劉備も同じであろうか。
丘力居らは青・徐・幽・冀州を鈔略した。四州は被害があり、公孫瓚は防御できない。そこで劉虞さまの登場となる。

◆范書公孫瓚伝

范書瓚伝:中平中,以瓚督烏桓突騎,〔従〕車騎將軍張溫討涼州賊(賊即邊章等)。會烏桓反畔,與賊張純等攻擊薊中,瓚率所領追討純等有功,遷騎都尉。張純復與畔胡丘力居等寇漁陽、河閒、勃海,入平原,多所殺略。瓚追擊戰於屬國石門,虜遂大敗,弃妻子踰塞走,悉得其所略男女。

中平期、公孫瓚は烏桓突騎を督し、車騎将軍の張温に従って涼州賊の辺章らを討つことに。たまたま烏桓が叛き、張純らとともに薊中を攻撃した。公孫瓚は領する兵で張純を追討して、功績により騎都尉に遷る。張純はふたたび胡族の丘力居とともに叛いて漁陽・河間・勃海を寇し、平原に入り、多くを殺略した。公孫瓚は追撃して属国の石門(山の名)で大いに破った。賊軍は妻子を捨てて、塞を越えて逃げた。公孫瓚は、ことごとく男女を捕獲した。

范書瓚伝:瓚深入無繼,反為丘力居等所圍於遼西管子城,二百餘日,糧盡食馬,馬盡煑弩楯,力戰不敵,乃與士卒辭訣,各分散還。時多雨雪,隊阬死者十五六,虜亦飢困,遠走柳城。遠走柳城、詔拜瓚降虜校尉,封都亭侯,復兼領屬國長史。職統戎馬,連接邊寇。每聞有警,瓚輒厲色憤怒,如赴讎敵,望塵奔逐,或繼之以夜戰。虜識瓚聲,憚其勇,莫敢抗犯。 瓚常與善射之士數十人,皆乘白馬,以為左右翼,自號「白馬義從」。烏桓更相告語,避白馬長史。乃畫作瓚形,馳騎射之,中者咸稱萬歲。虜自此之後,遂遠竄塞外。瓚志埽滅烏桓,而劉虞欲以恩信招降,由是與虞相忤。

公孫瓚は深入りして、続く軍がおらず、ぎゃくに丘力居らに遼西の管子城で囲まれ、2百余日。糧は尽き馬を食べ、馬が尽きると弩楯を煮て食べ、力戦したが敵わず。士卒に別れを告げ、分散して還った。ときに積雪があつく、穴に落ちて死ぬ者が10人に5-6人。敵軍も飢え苦しみ、遠く柳城に逃げた。詔して公孫瓚を降虜校尉とし、都亭侯に封じ、ふたたび兼ねて属国長史を領させた。職は戎馬を統べ、しきりに辺寇に接した。緊急事態の知らせを聞くたび、公孫瓚は厳しい顔で憤怒し、まるで讎敵に赴くように追い、継続して夜戦に突入した。敵軍は公孫瓚の声を知り、勇猛をはばかり、抵抗しなかった。
公孫瓚はつねに射撃の得意な数十人とともに、白馬に乗り、左右翼とし、白馬義従と自号した。恵棟によれば『英雄記』によって数千とすべきで、その理由は「左右翼」を形成するには、数十人では足りないから。烏桓は「白馬長史を避けよう」と語りあった。公孫瓚の姿を描いて、騎兵を馳せて(イラストを)射て、あたれば万歳を称した。烏桓は、塞外に逃げた。

◆公孫瓚と劉虞の出会い
沈家本によると、陳志公孫瓚伝では「公孫瓚は、四州の被害を防げない」とあり、范書公孫瓚伝では「烏桓は逃げ去った」として、整合しない。劉虞の赴任が要請されたことから、烏桓は逃げていない。
范書公孫瓚伝は、劉虞伝との重複を避けて、張純・張挙の乱の結末を書かず、初平二(191)年に飛ぶから、ザツである。中平五年、劉虞が赴任して、中平六年三月、張純の首が届いたと。公孫瓚の志は烏桓を掃滅することで、劉虞は恩信により招降したい。劉虞と公孫瓚は、対立した。

中平五年に劉虞が幽州牧となり、薊県に赴任したのが、公孫瓚と劉虞の初対面。初平四(193)年冬、公孫瓚が劉虞を殺すまで、平行線である。胡族に対する姿勢が、根本から異なるため、和解の余地がない。これは、個人の価値観ではなく、王朝の方針レベルの大きな話。しかし、胡族と戦うことで地位を上げた公孫瓚が、胡族に恩徳を施せば、官僚としての存在価値が消える。
ぎゃくに袁紹と劉虞は、胡族との協調という方針が一致するから、「劉虞を天子に」という問題でこじれても、戦うには至らなかった。公孫瓚を共通の敵と見なして、劉虞の残党・遺族は、袁紹を頼って、公孫瓚を滅ぼした。

◆陳志公孫瓚伝

陳志瓚伝:朝議。以宗正東海劉伯安、既有德義。昔、爲幽州刺史恩信流著、戎狄附之。若使鎭撫可不勞衆而定。乃以劉虞爲幽州牧。虞到。遣使至胡中、告以利害。責、使送純首。丘力居等聞虞至、喜。各遣譯、自歸。瓚害虞有功、乃陰使人徼殺胡使。胡知其情、閒行詣虞。虞上、罷諸屯兵。但留瓚、將步騎萬人屯右北平。

朝議は(公孫瓚ではラチが明かないので)宗正の劉虞に徳義があり、むかし幽州刺史として恩信を施し、戎狄を懐けたため、衆を労せず(戦闘せず)鎮撫できると考え、幽州牧とした。劉虞は、胡族のなかに使者を送り、利害を説いた。反乱を責め、張純の首を送れと説得した。丘力居は、劉虞が至ると聞いて喜び、使者・訳者を使わし、自ら帰した。
公孫瓚は、劉虞の功績をいやがり、ひそかに胡族の使者を殺させた。胡族はその実情を知り、こっそり劉虞にチクった。劉虞は(朝廷に)上して、屯兵を解散させた。ただ公孫瓚だけが、右北平で1万余人をひきいる。

前後するが、范書劉虞伝で「初」と遡る記述を、『三国志集解』が引き、

范書虞伝:初,詔令公孫瓚討烏桓,受虞節度。瓚但務會徒眾以自強大,而縱任部曲,頗侵擾百姓,而虞為政仁愛,念利民物,由是與瓚漸不相平。

はじめ詔して公孫瓚に烏桓を討たせ、劉虞の節度を受ける(指揮をされる)とした。公孫瓚は、ただ軍勢を集めて強大になろうとし、ほしいままに部曲を編成し、百姓を(漢族・胡族を経済的に)侵擾した。劉虞は仁愛により政治を行い、民を経済的に利することを考えた。これにより、公孫瓚・劉虞は対立した。
軍事費用の捻出のため、重税を課する公孫瓚。まさか百姓の財産を「物理的に強奪」しなかろうが、実態は同じ。劉虞は、胡族を懐けることで、戦闘の発生そのものを予防し、軍事費用を低減すれば、百姓への税を軽減できる。これは政治上の信念のレベルの対立。

胡族の扱いでモメたか、軍拡or軍縮でモメたか。
『三国志集解』公孫瓚伝に引く王補の説によると、『資治通鑑』は、二者の対立の原因を、烏桓の掃滅vs招降に求め、陳志公孫瓚伝に拠る。
『後漢紀』に「初,公瓚孫與劉虞有隙,虞懼其變,遣兵襲之,戒行人曰:「無傷餘人,殺一伯圭而已。」瓚放火燒虞營,虞兵悉還救火,虞懼,奔居庸,欲召烏桓、鮮 卑以自救。瓚引兵圍之,生執虞而歸」とある。
公孫瓚と劉虞は対立した。劉虞は政変を懼れ、公孫瓚を攻撃しようとしたが、逆に軍営に放火され、居庸ににげて、烏桓・鮮卑を召して援軍にしようとした。劉虞は、烏桓・鮮卑を自分のために使役しようとした。范書劉虞伝が伝える劉虞の仁愛は、単純な賛美とは言い切れないと。

陳志瓚伝:純、乃棄妻子逃入鮮卑。爲其客王政所殺、送首詣虞。封政爲列侯。虞以功卽拜太尉、封襄賁侯。

張純は、妻子を棄てて鮮卑に逃げ入り、客の王政に殺され、首が劉虞に届く。王政を列侯に封じた。劉虞は、太尉となり、(襄賁)〔容丘〕侯となる。

襄賁は、武帝紀 建安十一年に見える。


『三国志集解』公孫瓚伝は、時系列を整理する。
『范書』劉虞伝によると、このとき劉虞は容丘侯となり、董卓が秉政すると、劉虞を大司馬・襄賁侯としたと。『後漢紀』は、中平六年三月己丑、光禄勲の劉虞を大司馬とし、幽州牧を領させたと。『范書』烏桓伝によると、中平五年、劉虞を幽州牧とする。
柳従辰はいう。張純は中平四年六月に叛し、劉虞は中平五年に幽州牧となり(劉虞伝・烏桓伝)張純の首に懸賞をかけ、中平六年三月に首が届いた(霊帝紀)。『後漢紀』は、中平六年に幽州牧になったとするが、まとめて書いただけ。

陳志瓚伝 注引『英雄記』:虞讓太尉、因薦衞尉趙謨、益州牧劉焉、豫州牧黃琬、南陽太守羊續、並任爲公。

『英雄記』によると、劉虞は太尉となることを辞退し、衛尉の趙謨・益州牧の劉焉・豫州牧の黃琬・南陽太守の羊続を推薦した。彼らも三公になった。
『范書』趙典伝に、霊帝のとき衛尉となったとある。趙謨は趙典のことか。
『范書』黄琬伝に、黄琬が豫州牧になると、寇賊を討伐したとある。
『范書』羊続伝によると、中平三年、江夏の趙慈が叛き、南陽太守の秦頡を殺し、6県を攻没した。羊続を南陽太守として、平定した。続きの原文を引くと、

『范書』羊続伝:六年,靈帝欲以續為太尉。時拜三公者,皆輸東園禮錢千萬,令中使督之,名為「左騶」。其所之往,輒迎致禮敬,厚加贈賂。續乃坐使人於單席,舉縕袍以示之,曰:「臣之所資,唯斯而已。」左驂白之,帝不悅,以此不登公位。而徵為太常,未及行,會病卒,時年四十八。

中平六年、霊帝は羊続を太尉にしようとした。当時、三公になる者は、銭1千万を納めるシキタリ。中使が督促し、それを「左騶」という。中使がくると、厚くもてなし贈賄するルール。しかし羊続は中使を単席に座らせ、衣服を示して「私の財産はこれだけ」と言って、銭を収める意志がないことを告げた。中使が霊帝に告げ、羊続は三公に登らなかった。徴されて太常とされたが、着任せずに病没した。

『三国志集解』公孫瓚伝に引く柳従辰によると、『太平御覧』巻二百七 注引 袁山松書に、太尉の劉虞が、羊続に位を譲ったとする。いま『英雄記』は、羊続だけでなく、趙謨(趙典)・黄琬もあげており、一致しない。

『范書』劉虞伝・公孫瓚伝、『陳志』公孫瓚伝とその裴注。同じようなところを何周もしたが、いずれも網羅性では決め手に欠く。161224

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第3回 劉虞を天子に、天子を関東に

初平元年

范書虞伝:及董卓秉政,遣使者授虞大司馬,進封襄賁侯。初平元年,復徵代袁隗為太傅。道路隔塞,王命竟不得達。舊幽部應接荒外,資費甚廣,歲常割青、冀賦調二億有餘,以給足之。時處處斷絕,委輸不至,而虞務存寬政,勸督農植,開上谷胡巿之利,通漁陽鹽鐵之饒,民悅年登,穀石三十。青、徐士庶避黃巾之難歸虞者百餘萬口,皆收視溫恤,為安立生業,流民皆忘其遷徙。虞雖為上公,天性節約,敝衣繩履,食無兼肉,遠近豪俊夙僭奢者,莫不改操而歸心焉。[一]夙猶舊也。

(中平六年)董卓が秉政すると、使者を遣わして劉虞に大司馬を授け、襄賁侯に進めた。初平元年、復た徵して袁隗に代えて太傅とした。『范書』霊帝紀によると、初平元年三月戊午、董卓が袁隗を殺した。その後任者である。
しかし道路が隔塞し、王命は竟に到達せず。

冀州牧の韓馥は、袁紹に協力して、董卓と戦っている。その背後の劉虞は、韓馥とともに洛陽を攻めるでもなく、韓馥の背後を衝くでもなく、生還している。劉虞を幽州から離したら、長安の朝廷の威信は高まるが、だれを後任にするつもりか。董卓が州牧を任命すると、董卓に叛くという図式が完成している後なので。
董卓の使者が、幽州に到達できなかったのは、袁紹らが戦時体制を布いたから。
兗州刺史の劉岱だけは、董卓に敵対したけど、それ以外の劉氏の州長官たちは静観。幽州牧の劉虞は、董卓に攻撃しないが、冀州の韓馥を攻めて董卓に加担するわけでもない。董卓と袁紹らの戦いって「天下が総出演」の印象があるが、劉虞・劉表・劉焉が中原の周囲で、見守っていた。やや不気味。

ふるくから幽州の管轄地域は荒外に応接し、資費がかかる。毎年、青州・冀州の賦調2億余を割いて、幽州にあてた。ときに道路は断絶し、輸送が届かない。しかし劉虞は寛政につとめ、農植を勸督し、上谷の胡巿の利を開き、漁陽の塩鉄の饒を通し、民は喜んで豊作となり、穀物の値段は1石あたり30銭である。青・徐の士庶は、黄巾の難を避けて、劉虞に帰する者が1百余万口。みな温恤を收視し、生業を安立す。流民はみな(故郷から)遷徙したことを忘れ(幽州の生活になじんだ)。劉虞は上公である(太傅となった)が、天性は節約とし、ほつれた衣・縄のクツ。2種類以上の肉を同時に食べない。遠近の豪俊で、かねて僭奢してきた者は、節操を改めて劉虞に心を寄せた。

◆劉虞の幽州支配について
幽州の単体で見れば、収益構造は黒字にすることができる。しかし、胡族と戦うから、赤字となり、青州・冀州から支援を受けていた。劉虞(というか後漢や袁紹)が、胡族と融和した政策を採ったのは、思想的な背景もあろうが、経済的な実利も考慮されていそう。

劉虞その人が倹約家だったことは、政策と無関係でなかろうが、べつにそれによって財政が好転したわけじゃない。しかし後漢において、こういう個人の徳も、政治をうまく回すには必要だったか。

幽州牧の劉虞・益州牧の劉焉、そして荊州牧の劉表。中平期に異民族との戦闘で疲弊した地域に、劉氏の州牧を置いて、後漢の基本方針に沿った寛大な政治を行わせ、百姓の経済状況を立て直す。わりと成功した。揚州牧の劉繇も、期待された役割は同じ。やはり異民族と接点がある州という点が共通する。しかし、20年後には、曹操・劉備・孫権らの権力基盤になったけど。
前漢の前期、異姓の諸侯を劉氏の王に置き換えた。推測ですが、後漢末の州牧も、初めは異姓を認めつつ、徐々に有能&有徳の劉氏の州牧が増えてゆけば、後漢は「藩屏」を順調に築き、再建されたかも。異姓の曹操は実態として「藩屏」の機能を果たしたが、異姓であるために、おかしくなった。もしかして劉焉の当初プランで、劉氏の並存が想定されたか。その傍証として、州牧に劉氏の比率は高い。

袁紹・袁術が抗争もそこそこに協調したら、どうなるか。袁氏の原動力は、漢朝への怨嗟と絶望。冀州・兗州・豫州・司州などの中原を確保するが、幽州の劉虞・揚州の劉繇・荊州の劉表・益州の劉焉らとの戦いに意外と苦戦する、という展開になるのかな。史書で無能な保守派に見える、劉氏の粘りが見たい。


◆公孫瓚が幽州に向かう黄巾を撃破

陳志瓚伝:陳志瓚伝:會董卓至洛陽、遷虞大司馬、瓚奮武將軍、封薊侯。關東義兵起。卓、遂劫帝西遷、徵虞爲太傅。道路隔塞、信命不得至。

(中平六年)董卓が洛陽に至ると、劉虞を大司馬に遷し、公孫瓚を奮武将軍・薊侯にした。関東の義兵が起こると、董卓は長安に遷都し、劉虞を徴して太傅としたい。道路が隔塞し、信命は到達せず。

陳志がザツだが、公孫瓚が薊侯となるのは、初平二年に黄巾を破ってから。

范書瓚伝:初平二年,青、徐黃巾三十萬眾入勃海界,欲與黑山合。瓚率步騎二萬人,逆擊於東光南,大破之,斬首三萬餘級。賊弃其車重數萬兩,奔走度河。瓚因其半濟薄之,賊復大破,死者數萬,流血丹水,收得生口七萬餘人,車甲財物不可勝筭,威名大震。拜奮武將軍,封薊侯。

初平二年、青州・徐州の黄巾30万が、勃海に入り、黒山に合わさろうとした。公孫瓚は歩騎2万をひきい、東光県の南郊で迎撃した。黄巾は輜重の数万両を棄て、にげて黄河を渡る。公孫瓚は、その半数が渡って、兵数が減ったところを、おおいに破った。死者は数万。7万余を生け捕り、武具・財物は数えきれず。奮武将軍・薊侯となる。

武帝紀で、曹操が青州黄巾と戦うのは、つぎの初平三年夏に記事がある。いちど公孫瓚に敗れ、冀州から幽州に入り損ねた黄巾は、仕方なく兗州に転じた。

青州黄巾は、当初、劉虞が豊かにした幽州を目指したようである。かねて青州は、幽州の軍事費用を補填していた。経済的な繋がりはある。いま、劉虞によって「幽州が青州を経済支援する」と転じている。黄巾も、そのベクトルに乗るのは、ありえること。しかし公孫瓚に撃退され、兗州に転じた。青州黄巾を曹操に与えたのは、間接的には公孫瓚であった。ただし、本当に間接的にであるが。

初平二年、劉虞を天子に

范書虞伝:二年,冀州刺史韓馥、勃海太守袁紹及山東諸將議,以朝廷幼沖(時獻帝年十歲),逼於董卓,遠隔關塞,不知存否,以虞宗室長者,欲立為主。乃遣故樂浪太守張岐等齎議,上虞尊號。虞見岐等,厲色叱之曰:「今天下崩亂,主上蒙塵。吾被重恩,未能清雪國恥。諸君各據州郡,宜共勠力,盡心王室,而反造逆謀,以相垢誤邪!」固拒之。馥等又請虞領尚書事,承制封拜,復不聽。遂收斬使人。

初平二(191)年、冀州刺史の韓馥・勃海太守の袁紹および山東の諸将は議した。天子が幼く董卓に逼られ、関中に隔たって存否も分からない。劉虞は宗室の長者であるから、主君に立てたいと。もと楽浪太守の(甘陵の)張岐らが、劉虞に尊号をたてまつる。劉虞は血相を変え、「天下は崩乱し、主上は蒙塵する。

左傳曰,周襄王出奔于鄭,魯臧文仲曰:「天子蒙塵于外。」(左氏伝 僖公経二十四年)

吾は重恩をこうむるが、まだ国恥をすすげずにいる。諸君は州郡に割拠し、力をあわせ心を王室に尽くすべき(左氏伝 伝成公十年)。しかし逆謀して、恥ずべき誤りをするのか」と。

『三国志集解』公孫瓚伝に引く何焯の説に、袁紹は計を誤った。劉備は天子即位を実現した。劉虞は宗室に属するが、人となりは服従であり、両漢の封建の諸侯王らしい人であった。
劉虞の辞退の文句は、定型文である。実際の劉虞の思考は分からない。


陳志瓚伝:袁紹韓馥議。以爲少帝制於姦臣、天下無所歸心。虞、宗室知名、民之望也。遂推虞爲帝。遣使詣虞、虞終不肯受。紹等復勸虞、領尚書事承制封拜、虞又不聽。然猶與紹等、連和。

袁紹・韓馥は議して、「幼い皇帝は姦臣に制され、天下の心は帰属しない。劉虞は宗室で名を知られ、民の望である」と。ついに劉虞を帝に推した。劉虞は最後まで受けず。袁紹らはさらに劉虞に、尚書事を領して、承制・奉拝をせよと要請したが、劉虞はゆるさず。しかし劉虞・袁紹は、連和をたもつ。

陳志瓚伝 注引『九州春秋』:紹、馥使故樂浪太守甘陵張岐齎議詣虞、使卽尊號。虞厲聲呵岐曰「卿敢出此言乎!忠孝之道、既不能濟。孤受國恩、天下擾亂、未能竭命以除國恥、望諸州郡烈義之士勠力西面、援迎幼主、而乃妄造逆謀、欲塗污忠臣邪!」

韓馥は張岐を劉虞のもとに送る。劉虞は叱って「卿はあえてそんなことを言うか。忠孝の道が廃れている。私は国恩を受けた。天下が擾乱するが、命を尽くして国恥を除けずにいる。諸将は幼主を救出してほしい。みだりに逆謀を持ちこみ、忠を汚すな」と。
セリフはだいたい同じ。むしろ『九州春秋』を見て、范書虞伝が書かれたと思われる。ここから分かるのは、①劉虞が董卓に敵意を持つ、②献帝の支持派であること。劉虞が認識する「国恥」とは、董卓の廃立ではなく、遷都のことを指すようである。

陳志瓚伝 注引『呉書』:馥以書與袁術、云帝非孝靈子、欲依絳、灌誅廢少主、迎立代王故事。稱虞功德治行、華夏少二、當今公室枝屬、皆莫能及。又云「昔光武去定王五世、以大司馬領河北、耿弇、馮異勸卽尊號、卒代更始。今劉公自恭王枝別、其數亦五、以大司馬領幽州牧、此其與光武同。」

韓馥は袁術に文書を送った。「天子は霊帝の子でない。前漢の絳・灌(絳侯の周勃・潁陰侯の灌嬰)が、呂氏の子の少帝を誅廃して、代王を迎立(漢文帝)した故事に準拠したい。劉虞の功徳・治行は、中華でトップであり、公室の枝属であり、及ぶものがない」と。さらに「光武帝は長沙定王の5世孫で、大司馬として河北を領した。耿弇・馮異が尊号を勧め、更始帝に代わった。いま劉虞は恭王の枝属であり、5世孫である。大司馬として幽州牧を領した。光武帝と同じである」と。

袁術が劉虞を天子に推戴することに反対した、という史料が、なぜか『三国志』公孫瓚伝の裴注の『呉書』。陳寿が省略しまくる前、オリジナル『呉書』には、袁術の話もいっぱいあったかも。


陳志瓚伝 注引『呉書』:是時有四星會于箕尾、馥稱讖云神人將在燕分。又言濟陰男子王定得玉印、文曰「虞爲天子」。又見兩日出于代郡、謂虞當代立。紹又別書報術。是時術陰有不臣之心、不利國家有長主、外託公義以答拒之。紹亦使人私報虞、虞以國有正統、非人臣所宜言、固辭不許。乃欲圖奔匈奴以自絕、紹等乃止。虞於是奉職脩貢、愈益恭肅。諸外國羌、胡有所貢獻、道路不通、皆爲傳送、致之京師。

このとき四星が箕尾に集まった。韓馥は「讖が、神人が燕の分野に現れることを告げた」といった。さらに済南の男子の王定が玉印を得て、そこに「虞 天子となる」と刻まれていた。さらに2つの太陽が代郡に現れ、「劉虞が(献帝に代わって)立つ」と言われた。劉虞の即位の前徴は、充分に準備された。

何焯はいう。四星が箕尾に集まったのは、劉備が涿郡から起こる前徴。虞が天子になるとは、虞舜の子孫である曹氏の魏の前徴である。

袁紹は、袁術にも文書を送った。このとき袁術にひそかに不臣の心があり、国家に長主がいると不利である。外は公義に託して、拒否の回答をした。

『呉書』における袁術の貶し方と、『魏書』における袁術の貶し方の差異から、呉の独自の正統性を見つけることができないか。

袁紹はひそかに劉虞に連絡した。劉虞は、国には正統がおり(献帝)、人臣が言うべきことでないとして、固辞した。

遠隔地に正統な天子がいることが、代わりの天子を立てない根拠となる。逆に、遠隔地の天子の存否が分からなければ、天子を立てていい。袁紹・韓馥が使った理由はこれであり、劉備・諸葛亮が使ったのもこれ。
袁紹が劉虞を天子に推薦したのは、初平二年。韓馥と連名で。つまり袁紹が冀州を支配する前。袁紹に確固たる領土がなかったから、劉虞を担いで、影響力の拡大を狙った可能性もあります。ぎゃくに袁紹が、確固たる領土を得たら、成人済(笑)の劉虞との関係が微妙になるかも。

劉虞は、匈奴に奔って自ら関係を絶とうとした。袁紹らは止めた。劉虞は、長安に奉職・脩貢し、いよいよ・ますます恭肅とした。諸外国の羌・胡が、貢献をあっても道路が通じない場合、代わりに劉虞が伝送して、長安に届けてあげた。

異民族からの貢献・朝貢を代わりに受けるから、このとき劉虞は、実質的には天子と同じことをしている。じつは異民族は、劉虞を天子と同等に見なして、朝貢のネットワークができていたのでは。


劉和・袁術が絡んで、こじれる

范書虞伝:於是選掾右北平田疇、從事鮮于銀、蒙險閒行,奉使長安。獻帝既思東歸,見疇等大悅。時虞子和為侍中,因此遣和潛從武關出,告虞將兵來迎。道由南陽,後將軍袁術聞其狀,遂質和,使報虞遣兵俱西。虞乃使數千騎就和奉迎天子,而術竟不遣之。
初,公孫瓚知術詐,固止虞遣兵,虞不從,瓚乃陰勸術執和,使奪其兵,自是與瓚仇怨益深。和尋得逃術還北,復為袁紹所留。

〔初平元年?〕掾の右北平の田畴・従事の鮮于銀を選び、険阻な道をひそかに通り、長安にゆかせた。献帝は東帰したいから、田畴・鮮于銀に会って悦んだ。

田畴・鮮于銀の関与は、この時点ではない。司馬光・盧弼が指摘する。後述。

〔初平二年〕ときに劉虞の子の劉和が侍中である。劉和を武関から出して、劉虞に兵をひきいて迎えに来させる。南陽を経由して、後将軍の袁術がその状況を聞くと、劉和を質として、劉虞に「兵を遣わしてともに西に行こう(董卓と戦おう)」と伝えた。劉虞は、数千騎を劉和(・袁術)のもとに遣って天子を迎えたい。しかし袁術は兵を遣わさず。
はじめ公孫瓚は、袁術の詐を知り、劉虞の派兵に反対した。しかし劉虞は従わず(数千騎を袁術に送った)。公孫瓚は、ひそかに袁術に「劉和を捕らえよ。劉虞の兵を奪え」と勧めた。これにより、劉虞・公孫瓚の仇怨がますます深まった。劉和は、袁術のもとを逃げて北に還ったが、こんどは袁紹に留められた。

陳志瓚伝:虞子和爲侍中、在長安。天子、思東歸、使和偽逃卓、潛出武關詣虞、令將兵來迎。和、道經袁術、爲說天子意。術、利虞爲援、留和不遣。許兵至俱西、令和爲書與虞。虞得和書、乃遣數千騎詣和。瓚知術有異志、不欲遣兵、止虞。虞、不可。瓚懼術聞而怨之、亦遣其從弟越將千騎詣術以自結。而陰教術、執和奪其兵。由是虞瓚益有隙。和、逃術來北、復爲紹、所留。

劉和は長安におり、天子は東帰したい。劉和に偽って董卓から逃げさせ、ひそかに武関を出て劉虞に赴き、兵をひきいて迎えさせたい。劉和は袁術を経由して、天子の意を伝えた(←劉虞伝より詳しい)。袁術は、劉虞を利せしめて援軍になろうと考え、劉和を留めて(幽州まで)遣わさず。袁術は、兵を使って西に同行することを許し、劉和に劉虞への文書を書かせた。

袁術は「劉虞軍が董卓から天子を奪還する」という事業に、必ず自分も関与するため、劉和を留め置いた。これが劉虞伝の「劉和を質とす」に対応する。

劉虞は、劉和の書を得て、数千騎を使わして劉和のもとに送る。公孫瓚は、袁術に異志があると考え、劉虞に兵を遣らせたくない。劉虞を止めたが、止まらず。公孫瓚は、袁術に(派兵に反対したことを)知られて、怨まれることを懼れた。そこで従弟の公孫越に1千騎をつけて自ら袁術と結んだ。公孫瓚はひそかに袁術に「劉和を捕らえて劉虞の兵を奪え」と告げた。これにより、劉虞と公孫瓚はますます対立した。劉和は袁術から逃げて北にゆき、袁紹に留められた。

◆田畴の派遣時期について
『通鑑考異』はいう。『陳志』公孫瓚伝は、ただ天子が東帰したいと言うのみで、田畴の関与を記さない。もし田畴が長安に到達すれば、劉和・田畴は、一緒に行動して武関を出たはず。また田畴伝で、田畴が帰着する前に劉虞が死んでいた。劉虞の死は初平四(193)年で、界橋の戦いは初平三年(192)春である。(ここに田畴を登場させる)『范書』劉虞伝は誤りである。
『三国志集解』公孫瓚伝で盧弼はいう。田畴伝によると、劉虞は田畴を従事とし、長安に送ったとあるが、劉和と同行したと記さない。

陳志田畴伝:初平元年,義兵起,董卓遷帝于長安。幽州牧劉虞歎曰:「賊臣作亂,朝廷播蕩,四海俄然,莫有固志。身備宗室遺老,不得自同於眾。今欲奉使展效臣節,安得不辱命之士乎?」眾議咸曰:「田畴雖年少,多稱其奇。」畴時年二十二矣。……既取道,畴乃更上西關,出塞,傍北方,直趣朔方,循閒徑去,遂至長安致命。詔拜騎都尉。畴以為天子方蒙塵未安,不可以荷佩榮寵,固辭不受。朝廷高其義。三府並辟,皆不就。得報,馳還,未至,虞已為公孫瓚所害。畴至,謁祭虞墓,陳發章表,哭泣而去。

田畴伝は、初平元年に董卓が遷都したことに続け、劉虞がその事態を歎き、田畴を長安に送ったとある。田畴は、董卓の遷都・関東の起兵の直後、初平元(190)年に派遣されたと考えられる。董卓軍と戦闘中であり、事態が把握できないから、塞外を経由せざるを得なかった。
劉和が長安を脱出したのは、董卓軍との戦闘が鎮静した、初平二(191)年のこと。劉虞伝の時系列に沿うならば、そうなる。すると、田畴・鮮于銀の派遣は、初平二年の劉和の記事の「前日談」として、まとめて置かれたことになる。そして田畴は、劉和が長安を脱出したあとも長安に残り、初平四年に劉虞が死んだ後に幽州に帰着した。

◆公孫瓚と袁術の関係について
事実だけを抽出すると、①長安を脱出した劉和を、袁術が南陽で留める(保護する)。②劉虞が兵数千を南陽に送る。③公孫瓚が、公孫越の1千騎を南陽に送る。④袁術が長安を攻めない。
これだけを見ると、袁術が公孫瓚に教唆されて、劉和・劉虞軍を盗み、天子の救出をサボったように見える。しかし、公孫瓚伝で次に見えるように、孫堅の豫州を襲って、董卓との戦いを妨害したのは、袁紹である。袁術は、劉虞軍・公孫越を、袁紹との戦いに使わざるを得ず、しかも公孫越を失った。
公孫瓚伝は、小説家のように「公孫瓚は袁術の異志を見抜き、劉虞の派兵に反対した」とか、「袁術に怨まれることを懼れ、袁術が劉虞軍を奪うのに協力した」とか、内面を描写する。これは真に受ける必要はない。

公孫瓚が見抜いた「袁術の異志」は、史書は「帝位の僭称」をほのめかしたのであろうが、これは却下できる。
抽出した事実だけから考えると、まず袁術は、できることなら天子を長安から救出したい。つまり、自らの政治的・経済的・軍事的な能力が及べば、董卓を討伐したい。そのために、拠点の南陽に重税を課し、孫堅を豫州刺史にして戦争の拠点を確保し、劉虞の動きに「あいのり」を希望し、来る兵を拒まない。董卓を討伐できれば、劉虞とともに「功臣」になることができる。
公孫瓚は、幽州の周囲の胡族の討伐を、一貫して主張してきた。幽州の兵を温存したい。董卓との戦いは、優先順位が低い。劉虞が胸中において忠臣であるのは勝手だが、はるか長安に関与しようとすることに反対である。
しかし、いざ劉虞が派兵してしまえば、その劉虞軍の指揮権を奪いたいのは、他の誰でもない公孫瓚である。だから、追って公孫越を付けた。「袁術と劉虞が、董卓を破って、漢を復興しました」なんてストーリーに落ちついては困る。袁術のことは何も知らないが、対立者である劉虞が、計画を着々と実現するのは、おもしろくない。公孫瓚は、この事態を利用して、軍事的な権限・影響力を拡大したい。

「天子の救出」という戦いを、袁術(配下の孫堅も)・劉虞がしているとき、関東の群雄割拠という新しい戦いを始めたのが、袁紹であった。袁紹が、豫州刺史の孫堅を攻撃した。袁術から見れば、「味方から背中を切られた」状態であり、なしくずしで、群雄割拠の戦いに巻きこまれてゆく。天子が後回しになる。
変化点は、袁紹が韓馥から冀州を奪ったことだろう。(冀州を奪う前に)袁紹は、初平二(191)年の途中まで、韓馥と協調して、劉虞を天子にするという方針であった。これに失敗すると、群雄割拠にいち早く移行した。袁術・孫堅・公孫越は、やや後手に回って損失を出したと。これを受けて、公孫瓚は、冀州を得たばかりの袁紹と、冀州を争い、袁紹軍を追い詰める。

以上から、
公孫瓚が最初から袁術の異志を見抜いたとか、公孫瓚が袁術に怨まれることを懼れたとか、いずれもデタラメと分かる。公孫瓚は袁術の素志なんて知らん。公孫瓚が遠く離れた袁術に怨まれても、この時点では、なにが困るのか。ウソの上塗りで、意味が分からなくなったのが、公孫瓚伝である。
冀州を獲得した袁紹が、豫州を得ようとして、袁術を攻撃し、たまたま公孫瓚も袁紹と利害が対立し、闘争の関係になった、というのが実態であろう。公孫瓚は幽州にいるから、勢力を拡大するなら、となりの冀州しかない。公孫越が袁紹に殺されようが、殺されまいが、もしも群雄(州郡に拠って立つ勢力)になりたければ、袁紹と衝突するのは必至であったと。

劉虞にしてみれば、袁術を信頼して派兵したのに、かってに袁紹との叩きあいを始めてしまい、結果的に兵を奪われた。無念に違いない。劉和の存在は「国力のある劉虞から、援助を引き出すボタン」という利権に変わり、袁術のもとから去っても、袁紹に留め置かれるという。
しかし劉虞は、袁紹・袁術の協力を抜きに、遠い幽州から、独力で天子を救出することは不可能なので、袁紹・袁術のケンカに巻きこまれてゆく。

天子に関するやりとりが終わり、群雄割拠の話に移行するので、ここで回を区切ります。161225

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第4回 作成中

袁紹と、豫州・冀州を争う

陳志瓚伝:是時、術遣孫堅屯陽城拒卓。紹使周昂奪其處。術遣越與堅攻昂、不勝。越、爲流矢所中死。瓚怒曰「余弟死、禍起于紹」

このとき袁術は、孫堅に陽城に屯させ、董卓を拒ぐ。陽城は董卓伝注に。胡三省によると、孫堅は豫州刺史を領して、陽城に屯する。『范書』献帝紀によると、初平二年二月、袁術は孫堅を、董卓の将の胡軫と陽人(聚名、河南郡)で戦わせた。
袁紹は、周昂に陽城を奪わせた。この周昂の名が、異説の宝庫。『通鑑』は、袁紹が会稽の周昂を豫州刺史として、陽城を奪ったとする。銭大昕の引く陳景雲の説によると、

遂出軍屯磐河、將以報紹。紹懼。以所佩勃海太守印綬、授瓚從弟範、遣之郡。欲以結援。範、遂以勃海兵助瓚。破青徐黃巾、兵益盛。進軍界橋。

陳志瓚伝 裴注:典略載瓚表紹罪狀曰「臣聞皇、羲以來、始有君臣上下之事、張化以導民、刑罰以禁暴。今行車騎將軍袁紹、託其先軌、寇竊人爵、既性暴亂、厥行淫穢。昔爲司隸校尉、會值國家喪禍之際、太后承攝、何氏輔政、紹專爲邪媚、不能舉直、至令丁原焚燒孟津、招來董卓、造爲亂根、紹罪一也。卓既入雒而主見質、紹不能權譎以濟君父、而棄置節傳、迸竄逃亡、忝辱爵命、背上不忠、紹罪二也。紹爲勃海太守、默選戎馬、當攻董卓、不告父兄、至使太傅門戶、太僕母子、一旦而斃、不仁不孝、紹罪三也。紹既興兵、涉歷二年、不卹國難、廣自封殖、乃多以資糧專爲不急、割剝富室、收考責錢、百姓吁嗟、莫不痛怨、紹罪四也。韓馥之迫、竊其虛位、矯命詔恩、刻金印玉璽、每下文書、皁囊施檢、文曰『詔書一封、邟鄉侯印』。邟、口浪反。昔新室之亂、漸以卽真、今紹所施、擬而方之、紹罪五也。紹令崔巨業候視星日、財貨賂遺、與共飲食、克期會合、攻鈔郡縣、此豈大臣所當宜爲?紹罪六也。紹與故虎牙都尉劉勳首共造兵、勳仍有效、又降伏張楊、而以小忿枉害于勳、信用讒慝、殺害有功、紹罪七也。紹又上故上谷太守高焉、故甘陵相姚貢、橫責其錢、錢不備畢、二人幷命、紹罪八也。春秋之義、子以母貴。紹母親爲婢使、紹實微賤、不可以爲人後、以義不宜、乃據豐隆之重任、忝污王爵、損辱袁宗、紹罪九也。又長沙太守孫堅、前領豫州刺史、驅走董卓、掃除陵廟、其功莫大。紹令周昂盜居其位、斷絕堅糧、令不得入、使卓不被誅、紹罪十也。臣又每得後將軍袁術書、云紹非術類也。紹之罪戾、雖南山之竹不能載。昔姬周政弱、王道陵遲、天子遷都、諸侯背叛、於是齊桓立柯亭之盟、晉文爲踐土之會、伐荊楚以致菁茅、誅曹、衞以彰無禮。臣雖闒茸、名非先賢、蒙被朝恩、當此重任、職在鈇鉞、奉辭伐罪、輒與諸將州郡兵討紹等。若事克捷、罪人斯得、庶續桓、文忠誠之效、攻戰形狀、前後續上。」遂舉兵與紹對戰、紹不勝。

陳志瓚伝:以嚴綱爲冀州、田楷爲青州、單經爲兗州、置諸郡縣。紹、軍廣川。令將麴義先登與瓚戰、生禽綱。瓚軍敗走勃海、與範俱還薊。於大城東南築小城。與虞相近、稍相恨望。

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