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- 第1回 袁紹の出生から冀州牧となるまで
袁紹のことを知るために、『陳志』袁紹伝と、『范書』袁紹伝を比べて、情報を整理する。これが終わったら、ほかの列伝などから、適宜 肉づけをする。
まずは、袁紹伝vs袁紹伝から。
『陳志』=『三国志』袁紹伝は、こちら。
曹操と対比して単純化せず、袁紹の河北平定と皇帝政策を読む
袁紹伝の後半について、まとめようとしたのか、こちら。
建安六~十二年(201-207) 武帝紀と袁紹伝で、曹操の北伐を集解
それから、袁紹に関する本の翻訳。
方詩銘氏の「世族、豪傑、遊侠 ― 袁紹的一個側面」を翻訳する
袁紹の出生
袁紹は、あざなを本初といい、汝南郡の汝陽県のひと。高祖父の袁安は、漢の司徒となる。袁安より四世にわたって三公を輩出し、袁氏の権勢は天下を傾けた。
『陳志』袁紹伝:袁紹、字本初、汝南汝陽人也。高祖父安、爲漢司徒。自安以下四世居三公位、由是勢傾天下。
『陳志』袁紹伝にひく華嶠『漢書』は、袁氏の系譜をひくが、『范書』袁紹伝のほうが詳しいため省く。袁氏の繁栄ぶりは、『陳志』袁紹伝にひく『魏書』に見える。
『魏書』:自安以下、皆博愛容衆、無所揀擇。賓客入其門、無賢愚皆得所欲、爲天下所歸。
華嶠によると、袁安の子の袁京は蜀郡太守であり、袁京の子の袁湯は太尉となる。袁湯に四子があり、平・成・逢・隗である。『陳志』袁紹伝にひく華嶠漢書曰:京子湯、太尉。湯四子。長子平、平弟成、左中郎將、並早卒。成弟逢、逢弟隗、皆爲公。
袁紹の父は史料のあいだで差異がある。
『范書』袁紹伝では、袁紹の父を、袁湯の次男の袁成とする。袁成の官職は一定しておらず、『范書』袁紹伝に「五官中郎将」とあり、『范書』袁安伝には「左中郎」とあり、『陳志』袁紹伝にひく華嶠『漢書』では「左中郎将」とある。
袁成の事績は、『英雄記』に見え、范曄が袁紹伝の本文に抜粋したと思われる。『陳志』袁紹伝注引:英雄記曰。成字文開、壯健有部分、貴戚權豪自大將軍梁冀以下皆與結好、言無不從。故京師爲作諺曰「事不諧、問文開。」袁紹を袁逢の庶子(袁術の異母兄)とし、袁成が早世した後、子となった(袁成の爵位を嗣いだ)とする史料もあり、また袁紹が遡って父の喪に服したという『英雄記』の記述に、裴松之は違和感を表明する。
『陳志』袁紹伝ひく『魏書』、『范書』袁紹伝にひく袁山松である。しかし、范曄・盧弼は袁成の子としており、石井仁『魏の武帝 曹操』でも袁成の子となっているから、かりに袁成の子と考える。
袁紹の出生の卑しさは、一次史料(と思われる)政治声明としては、袁術の側から出ている。ライバルとなった従兄の威信を損なうための宣伝ではなかろうか。
青年期の袁紹
青年時代の袁紹は、『陳志』にひく『英雄記』が詳しい。
『陳志』本文は簡潔だが核心をつき、「紹有姿貌威容、能折節下士、士多附之」として、『范書』は後半を「愛士養名」と言い換える。陳寿は、「曹操が若くから袁紹と交際した」という情報を、蛇足的に付加する。
『英雄記』:紹生而父死、二公愛之。幼使爲郎、弱冠除濮陽長、有清名。遭母喪、服竟、又追行父服、凡在冢廬六年。禮畢、隱居洛陽、不妄通賓客、非海內知名、不得相見。又好游俠、與張孟卓、何伯求、吳子卿、許子遠、伍德瑜等皆爲奔走之友。不應辟命。袁紹は早くに父の袁成を亡くしたが、叔父の袁逢・袁隗から愛された。二十歳で任子のおかげで郎となり、濮陽長となった。母が亡くなると、職を辞して、
『後漢書』許劭伝はいう。袁紹が濮陽の県長をおえたとき。許劭がいると聞いて、行列を質素にあらためた。三年喪に服した。さらに父のために三年喪に服するが、『范書』袁紹伝はその理由を「追感幼孤」と、袁紹が幼いうちに父が死んで、そのとき服喪し損ねたからと説明を付ける。
裴松之は『礼』の規定にないことだと違和感を表明する。しかし、規定に外れて過剰であるからこそ、名声獲得の手段となり得るのである。
范曄は『英雄記』に従って袁紹伝を書きながら、裴松之が省略したであろうエピソードをもらさず挿入する。
既累世台司,賓客所歸,加傾心折節,莫不爭赴其庭,士無貴賤,與之抗禮,輜軿柴轂,填接街陌。內官皆惡之。袁紹の洛陽にある邸宅の庭には、車がひしめいた。
李賢注:說文曰:「軿車,衣車也。」鄭玄注周禮曰:「軿猶屏也,取其自蔽隱。」柴轂,賤者之車」
『説文解字』巻十四上によると、「軿車」とは、ホロつきの車である。『周礼』春官 車僕の鄭玄注に、「軿は、おおいのようなもの。自らを覆い隠すところから取っている」とある。柴轂とは、賎者の車である。
貴賎(現状の官職の高低)に関わらず、袁紹に面会にきたのである。『英雄記』で、趙忠が袁紹を警戒するが、その原因が范曄によって挿入されているのである。ふたたび『英雄記』に戻って、
中常侍趙忠謂諸黃門曰「袁本初坐作聲價、不應呼召而養死士、不知此兒欲何所爲乎?」紹叔父隗聞之、責數紹曰「汝且破我家!」紹於是乃起應大將軍之命。『英雄記』はこれで終わっている。何進の辟を受けたことで、趙忠の警戒を解いたという話である。
しかし范曄は、「叔父太傅隗聞而呼紹,以忠言責之,紹終不改。」と、天下の人材と面会することを、袁紹は辞めなかったというオチを加える。
西園八校尉となる
袁紹が、大将軍の何進に辟されて、掾となった。その後の官歴は『范書』のほうが詳しくて、侍御史・虎賁中郎将となった。
『范書』袁紹伝:後辟大將軍何進掾,為侍御史、虎賁中郎將。中平五年,初置西園八校尉,以紹為佐軍校尉。『三国志集解』にひく『英雄記』曰く、袁紹は(何進によって成績優秀者として)高第に挙げられ、侍御史となった。袁術が尚書となって詔をつくったが、病気と称して退職を願った。
『英雄記』:袁紹辟大將軍府,不得已起從命,舉高第,遷侍禦史。弟術為尚書詔,不欲為台下,告疾求退。
石井仁『曹操』はいう。長官には、辟召という部下を自選する権利があった。どちらかが転任しても、私的な交際がつづく。故主-故吏の関係。ことに三公・将軍の辟召は、エリート官僚の登竜門。かれらは府(官房)をもつ。将軍の場合は「幕府」という。スタッフの成績優秀者を、皇帝に推薦する「高第」という選挙権を認められる。
中平五年、西園八校尉の一員となる。『陳志』では中軍校尉、『范書』では佐軍校尉である。
『范書』袁紹伝にひく『山陽公載記』:「小黃門蹇碩為上軍校尉,虎賁中郎將袁紹為中軍校尉,屯騎校尉鮑鴻為下軍校尉,議郎曹操為典軍校尉,趙融為助軍左校尉,馮芳為助軍右校尉,諫議大夫夏牟為左校尉,淳于瓊為右校尉:凡八人,謂之西園軍,皆統於碩。」此云「佐軍」,與彼文不同。楽資『山陽公載記』はいう。虎賁中郎将の袁紹を、中軍校尉とする。『後漢書』何進伝では、袁紹は中軍校尉である。『後漢書』蓋勲伝、『後漢書』五行志は、どちらも袁紹を、佐軍校尉とする。
宦官をすべて殺す
霊帝が崩じると、袁紹は宦官を殺せと提案する。『范書』何進伝によると、何進は宦官の弊害を知り、また蹇碩が自分を殺そうとしたことに怒っていた。
何進伝において、袁紹が食客の張津に勧めさせるが、これは『陳志』袁紹伝にひく『続漢書』に似ている。
何進伝:黃門常侍權重日久,又與長樂太后專通姦利,將軍宜更清選賢良,整齊天下,為國家除患。
『続漢書』:紹使客張津說進曰「黃門、常侍秉權日久、又永樂太后與諸常侍專通財利、將軍宜整頓天下、爲海內除患。」進以爲然、遂與紹結謀。やや時系列があいまいになり、何進伝で、袁紹が「復た」何進を説得するが、これは『陳志』袁紹伝にひく『九州春秋』と似ている。
ついに袁紹は、董卓を召して何太后を脅した。『陳志』袁紹伝は、霊帝期に「至司隷」とあるが、『范書』袁紹伝にあるように、霊帝の死後、洛陽で兵権を握るために司隷校尉となった。『陳志』袁紹伝にあるように、宦官がわの司隷校尉・許相に対抗したのである。『陳志』袁紹伝に見えないが、『范書』袁紹伝で、董卓の脅威を唱えるのは、大将軍主簿の陳琳と、騎都尉の鮑信である。
大将軍主簿の陳琳は、『范書』何進伝で、
紹等又為畫策,多召四方猛將及諸豪傑,使並引兵向京城,以脅太后。進然之。主簿 陳琳入諫曰:「易稱『即鹿無虞』,諺有『掩目捕雀』。夫微物尚不可欺以得志,況國之大 事,其可以詐立乎?今將軍總皇威,握兵要,龍驤虎步,高下在心,此猶鼓洪爐燎毛髮耳。夫違經合道,天人所順,而反委釋利器,更徵外助。大兵聚會,彊者為雄,所謂倒持干戈,授人以柄,功必不成,秖為亂階。」進不聽。大軍を動員して、何太后を脅すことに反対する。大将軍の属官(もと袁紹の同僚)として、陳群は、袁紹と正反対の意見を唱える。のちに袁紹が河北で「君主権力」を獲得したとき、陳群は檄文を担当するが、単純な袁紹の支持者・臣下として、曹操を批判したと単純化することはできない。文化に関する価値観の自立性を、読み取ることができないか。
『陳志』袁紹伝:及卓將兵至,騎都尉太山鮑信說紹曰:「董卓擁制強兵,將有異志,今不早圖,必為所制。 及其新至疲勞,襲之可禽也。」紹畏卓,不敢發。鮑信は、到着したばかりで疲労している董卓を攻撃すれば、「異志」を抱いた董卓を捕らえられると唱えるが、袁紹は董卓を「畏」れて兵を発さない。史料中、何進と袁紹は、どちらも決断力に欠けて失敗する人物と位置づけられている。のちに鮑信が袁紹を離れ、曹操に味方することの伏線となる。
ただし鮑信は早期に死ぬため、袁紹との因縁の関係とはならない。
洛陽の政変の経緯は、現在の問題関心ではないので、詳しく見ない。
董卓の廃立に敵対する
董卓から廃立を打診されると、『陳志』袁紹伝では、「太傅の袁隗と相談します」といって去り、董卓は「劉氏の種は残すに足らない」という。
『陳志』袁紹伝:議欲廢帝、立陳留王。是時紹叔父隗、爲太傅。紹偽許之、曰「此大事、出當與太傅議」卓曰「劉氏種不足復遺」紹不應。橫刀長揖、而去。『陳志』袁紹伝にひく『献帝春秋』で、董卓は、霊帝の悪政と、董侯(劉協)の適性を主張する。袁紹は、漢室四百年のありがたみと、幼帝(劉辯)に越度がないことを主張して反対する。董卓は「孺子め、わが刀はよく切れる」といい、袁紹は「天下の健者は、あなただけではない」とタンカをきる。
裴松之は、董卓・袁紹がケンカ腰であるのを怪しみ、『献帝春秋』を退ける。しかし、『范書』袁紹伝は、『献帝春秋』の世界観に近い。
『范書』袁紹伝:卓議欲廢立,謂紹曰:「天下之主,宜 得賢明,每念靈帝,令人憤毒。董侯似可,今當立之。」紹曰:「今上富於春秋,未有不善宣於天下。若公違禮任情,廢嫡立庶,恐眾議未安。」卓案劒叱紹曰:「豎子敢然!天下之 事,豈不在我?我欲為之,誰敢不從!」紹詭對曰:「此國之大事,請出與太傅議之。」卓復 言「劉氏種不足復遺」。紹勃然曰:「天下健者,豈惟董公!」橫刀長揖徑出。裴注『献帝春秋』より、かなり簡略化されているが、董卓が霊帝を批判し、袁紹が廃嫡を拒んで説教している。范曄は、袁紹の去り際のセリフとして、「袁隗に相談してくる」といわせる。『献帝春秋』に『陳志』袁紹伝を接続したものであろう。刀を引き寄せて罵倒しながら、「叔父に相談してくる」というのも、おかしな話である。裴松之の言うとおり、『献帝春秋』を退けるべきだろう。
『陳志』の裴注になく、『范書』李賢注にある『英雄記』には、英雄記曰:「紹揖卓去,坐中驚愕。卓新至,見紹大家,故不敢害」とあり、袁紹がタンカを切ったが、董卓は洛陽に来たばかりで政権の基盤が心許ないから、袁紹に手出しができなかったという説明まで増殖している。
しかし、陳寿がテキストを限界まで削って描いたように(上に引用)袁紹は態度を明らかにせず(できず)、そっと立ち去ったというのが事実に近いのではなかろうか。
冀州に出奔する
袁紹が出奔する動作は、『范書』のほうが詳しくて、
懸節於上東門,[洛陽城東面北頭門也。山陽公載記曰:「卓以袁紹弃節,改第一葆為赤旄。」]而奔冀州。李賢注によると、袁紹が節を懸けた上東門とは、洛陽城の東面の最北の門である。『山陽公載記』によると、董卓は袁紹の捨てた節を、第一の葆(はねかざり)を改めて赤旄に改めた。
胡三省はいう。袁紹がひっかけた節とは、仮節と司隷校尉のものだ。
紹既出、遂亡奔冀州。侍中周毖、城門校尉伍瓊、議郎何顒等、皆名士也。卓信之。而陰爲紹、乃說卓曰「夫廢立大事、非常人所及。紹不達大體、恐懼故出奔。非有他志也。今購之急、勢必爲變。袁氏樹恩四世、門世故吏徧於天下。若收豪傑以聚徒衆、英雄因之而起、則山東非公之有也。不如赦之。拜一郡守、則紹喜于免罪、必無患矣」卓以爲然、乃拜紹勃海太守、封邟鄉侯。これは『陳志』袁紹伝であるが、『范書』袁紹伝も基本的に同じで、最初に「董卓購募求紹」、最後に「紹猶稱兼司隸」と説明を挟みこみ、陳寿より親切である。
『三国志集解』で盧弼は、袁紹が司隷校尉であり続けたことを、同じ『范書』袁紹伝で、下に「紹自號車騎將軍,領司隸校尉」とあることを理由に証明する。范曄の記述に一貫性があると分かるだけで、証明にならない。
紹遂以勃海起兵、將以誅卓。語在武紀。『陳志』はこのように省略するが、『陳志』武帝紀よりも、『范書』袁紹伝のほうが、諸将の情報が整理されており、完成度が高い。だから『資治通鑑』は、主に『范書』に依拠した。
拙論「『資治通鑑』編纂手法の検証(中平五年~建安五年)」(三国志学会『三国志研究』第十号)初平元年という改元を受け、やる気を出す袁紹。『陳志』裴注。
『英雄記』:是時年號初平,紹字本初,自以為年與字合,必能克平禍亂。
『范書』袁紹伝:初平元年,紹遂以勃海起兵,與從弟後將軍術、冀州牧韓馥、豫州刺史孔伷、兗州刺史劉岱、陳留太守張邈、廣陵太守張超、河內太守王匡、山陽太守袁遺、東郡太守橋瑁、濟北相鮑信等同時俱起,眾各數萬,以討卓為名。紹與王匡屯河內,伷屯潁川,馥屯鄴,餘軍咸屯酸棗,約盟,遙推紹為盟主。紹自號車騎將軍,領司隸校尉。一覧性がいいので、コピペしました。
董卓がわの反応は、『范書』袁紹伝。
董卓聞紹起山東,乃誅紹叔父隗,及宗族在京師者,盡滅之。卓乃遣大鴻臚韓融、少 府陰循、執金吾胡母班、將作大匠呉循、越騎校尉王瓌譬解紹等諸軍。紹使王匡殺班、瓌、吳循等,袁術亦執殺陰循,惟韓融以名德免。『陳志』が黙殺したというわけではなく、記載が散らばっているのでしょう。
袁紹は、董卓が調停につかわした胡母斑を、(袁紹とともに河内に駐屯する)王匡に斬らせる。この胡母斑は、李賢注『漢末名士録』によると、「三君八俊」表で八廚に位置づけられる。しかも胡母斑は、王匡の妹の夫である。
王匡は、曹操と結んだ胡母斑の遺族に復讐される(武帝紀にひく謝承『後漢書』)。後任の河内太守は張楊。『陳志』巻八 張楊伝:袁紹至河內、楊與紹合。復與匈奴單于於夫羅、屯漳水。單于欲叛、紹楊不從。單于執楊與俱去。紹使將麴義追擊於鄴南、破之。單于執楊至黎陽、攻破度遼將軍耿祉軍、衆復振。卓、以楊爲建義將軍、河內太守。天子之在河東、楊將兵至安邑、拜安國將軍、封晉陽侯。
袁紹は河内にくると、張楊と勢力を合わせた。張楊は、於夫羅とともに漳水に駐屯した。於夫羅に反乱を誘われたが従わなかったので、捕らわれた。袁紹は麹義に鄴の南で追撃させ、於夫羅を破った。(敗れた)於夫羅は張楊を捕らえたまま、黎陽に至り、度遼将軍の耿祉を破り、匈奴の軍はもりかえした。董卓は、張楊を建議将軍・河内太守とした。
胡母斑・王匡のことは、『陳志』袁紹伝では、袁紹が冀州牧になった後(初平二年)にある。時系列が混乱している。『范書』献帝紀で董卓が袁隗を初平元年(190) 三月に殺すことは、年月どころか日付まで確定している。
『陳志』袁紹伝の描写順=因果関係を尊重するなら、①袁氏が起兵し(初平元年正月)、②董卓が胡母斑を派遣し(初平元年春のうち)、③袁紹が王匡に命じて胡母斑を殺す。④袁紹の強行さを見て、董卓が袁隗を殺す(初平元年三月)。⑤袁氏の復仇を掲げて州郡がさわぐ。⑥袁紹は進軍したいが、韓馥が警戒して兵糧をケチり、⑦董卓が長安に引っこみ(初平二年夏四月)、⑧軍が崩壊しかかった袁紹は冀州を狙う。
ゆえに『陳志』袁紹伝の順序を入れ替えて、王匡が胡母斑を殺す話と、関係する裴注を、ここに貼っておく。范曄のほうが時系列どおりに書いていて、エライ。
『陳志』袁紹伝:卓、遣執金吾胡母班、將作大匠吳脩、齎詔書喻紹。紹、使河內太守王匡殺之。卓聞紹得關東、乃悉誅紹宗族太傅隗等。當是時、豪俠多附紹、皆思、爲之報。州郡蠭起、莫不假其名。馥、懷懼從紹索去、往依張邈。
同注引:漢末名士錄曰。班字季皮、太山人、少與山陽度尚、東平張邈等八人並輕財赴義、振濟人士、世謂之八廚。
同注引:謝承後漢書曰。班、王匡之妹夫、董卓使班奉詔到河內、解釋義兵。匡受袁紹旨。收班繫獄、欲殺之以徇軍。班與匡書云「自古以來、未有下土諸侯舉兵向京師者。劉向傳曰『擲鼠忌器』、器猶忌之、況卓今處宮闕之內、以天子爲藩屏、幼主在宮、如何可討?僕與太傅馬公、太僕趙岐、少府陰脩俱受詔命。關東諸郡、雖實嫉卓、猶以銜奉王命、不敢玷辱。而足下獨囚僕于獄、欲以釁鼓、此悖暴無道之甚者也。僕與董卓有何親戚、義豈同惡?而足下張虎狼之口、吐長虵之毒、恚卓遷怒、何甚酷哉!死、人之所難、然恥爲狂夫所害。若亡者有靈、當訴足下於皇天。夫婚姻者禍福之機、今日著矣。曩爲一體、今爲血讐。亡人子二人、則君之甥、身沒之後、慎勿令臨僕尸骸也。」匡得書、抱班二子而泣。班遂死於獄。班嘗見太山府君及河伯、事在搜神記、語多不載。
劉虞を擁立する
『范書』献帝紀によると、ここで年が変わる。初平二年に。
『陳志』袁紹伝は、劉虞の擁立を記すが(『范書』献帝紀によると初平二年の正月ごろ)、『范書』袁紹伝はない。『范書』劉虞伝で、消化が終わっているからであろう。初平二年のこととして、
劉虞伝:二年,冀州刺史韓馥、勃海太守袁紹及 山東諸將議,以朝廷幼沖,逼於董卓,遠隔關塞,不知存否,以虞宗室長者,欲立為主。 乃遣故樂浪太守張岐等齎議,上虞尊號。虞見岐等,厲色叱之曰:「今天下崩亂,主上蒙 塵。吾被重恩,未能清雪國恥。諸君各據州郡,宜共勠力,盡心王室,而反造逆謀,以相垢誤邪!」固拒之。馥等又請虞領尚書事,承制封拜,復不聽。遂收斬使人。
韓馥の治める冀州が動揺する
『范書』袁紹伝は、起兵後、袁隗を殺されてから(初平二年三月)、
是時豪傑既多附紹,且感其家禍,人思為報,州郡蜂起,莫不以袁氏為名。韓馥見人情歸紹,忌(方)〔其〕得眾,恐將圖己,常遣從事守紹門,不聽發兵。橋瑁乃詐作三公移書,傳驛州郡,說董卓罪惡,天子危逼,企望義兵,以釋國難。馥於是方聽紹舉兵。乃謀於眾曰:「助袁氏乎?助董氏乎?」治中劉惠勃然曰:「興兵為國,安問袁、董?」馥意猶深疑於紹,每 貶節軍糧,欲使離散。このとき(初平元年に起兵したとき)豪傑は、おおくが袁紹に味方した。しかも袁紹には、(初平二年三月より以降)袁隗・袁基のため報仇するという(董卓と戦うための)名目ができた。州郡は「袁氏のため」を掲げて蜂起した。韓馥は、袁紹が自分を騙して冀州軍を乗っ取ることを恐れ、従事をつかわし、袁紹の門を監守させ、袁紹が兵を出せないようにした。
橋瑁が、三公がつくったという文書を偽作し、州郡に回付して董卓の罪悪を説き、董卓を撃てと主張した。韓馥は袁紹に、挙兵を許そうとしたが、
曹操の視点の武帝紀だと、袁紹は何もせずに、当初の目的を失って滞陣しただけに見える。しかし『范書』袁紹伝によると、袁紹は韓馥から(兵糧を握られて)掣肘を受けており、董卓軍と戦いたくても戦えなかった。韓馥は「袁氏を助けるか、董氏を助けるか」と聞くと、治中〔従事〕の劉恵は、「国のために軍を起こせ。袁氏・董氏という設問の立て方がおかしい」といった(天子を救出するために袁氏を支持せよと唱えた)。
『全訳後漢書』によると、劉恵はここ以外に記述なし。伸びしろのあるキャラクター。しかし韓馥は、まだ袁紹を疑うから、軍糧を減らし、袁紹軍を離散させようとした。
『范書』袁紹伝にひく『英雄記』に、劉子惠,中山人。兗州刺史劉岱與其書,道『卓無道,天下所共攻,死在旦暮,不足為憂。但卓死之後,當復回師討文節。擁強兵,何凶逆,寧可得置』。封書與馥,馥得此大懼,歸咎子惠,欲斬之。別駕從事耿武等排閤伏子惠上,願并見斬,得不死,作徒,被赭衣,埽除宮門外。」劉子恵は、中山のひと。兗州刺史の劉岱に文書を送り、「董卓は無道だが、もう死ぬだろう。董卓を殺したら、韓馥を撃て。強兵を擁するのに、何ぞ凶逆たる(何とも心の拗ねた人物である)。韓馥を放置できない」と。劉岱から韓馥にひそかに回付された。韓馥が劉子恵を斬ろうとすると、別駕従事の耿武は、劉子恵にかぶさって、「劉子恵を斬るなら、私も斬れ」と態度で示した。劉子恵は(死罪を免れて)赭衣(赤い囚人服)を着て、宮門の外を掃除させられた。
耿武は、あざなを文威。韓馥の部下として、長史・別駕従事を務めた。韓馥が袁紹に攻められると、閔純とともに抵抗するが、袁紹にかなわず、袁紹の命を受けた田豊に殺された。
ぼくは思う。中山のひと劉恵(劉子恵)といい、耿武・閔純といい、麹義といい、もと韓馥の部下の人々の動向を、ていねいに追いたい。
袁紹が韓馥の冀州をねらう
陳寿はシンプルに、「後、馥軍安平、爲公孫瓚所敗。瓚遂引兵入冀州。以討卓爲名、內欲襲馥。馥懷不自安」と経緯をまとめる。韓馥は安平に進軍したが、公孫瓚に敗れた。公孫瓚は、冀州に兵を入れた。董卓を討つという名目であるが、韓馥を襲うつもりであると。
薄洛津は、冀州の安平国である。
范曄はもう少し丁寧で、「明年,馥將麴義反畔,馥與戰失利。紹既恨馥,乃與義相結。」とあるから、初平二年(191) 韓馥の将である麹義がそむいた。韓馥は、戦っても麹義に勝てない。袁紹はすでに(兵糧を削られ、董卓と戦わせてもらえないから)韓馥を恨んでおり、麹義と結んだ。
『范書』袁紹伝は、麹義というキッカケを得てから、逢紀に語らせる。
紹客逢紀謂紹曰:「夫舉大事,非據一州,無以自立。今冀部強實,而韓馥庸才,可密要公孫瓚將兵南下,馥聞必 駭懼。并遣辯士為陳禍福,馥迫於倉卒,必可因據其位。」紹然之,益親紀,即以書與瓚。瓚 遂引兵而至,外託〔討〕董卓,而陰謀襲馥。逢紀は「冀州の兵は強いが、韓馥は庸才である。公孫瓚が南下すればビビる。弁士を使わせて禍福を説けば、袁紹に冀州牧を譲るだろう」という。 『陳志』袁紹伝にひく『英雄記』は、問答形式になっていて、袁紹が「冀州兵彊、吾士飢乏、設不能辦、無所容立。」と疑問を投げかけるところが楽しい。范曄が、1回だけの演説にまとめてしまったのだろう。
袁紹はますます逢紀を信用して、公孫瓚に文書を送った。公孫瓚は(袁紹の思惑どおり)南下した。董卓の討伐に託して、ひそかに韓馥を襲おうとした。
ここに登場した逢紀は、『范書』袁紹伝にひく『英雄記』に、
英雄記曰:「紀字元圖。初,紹去董卓,與許攸及紀俱詣冀州,以紀聰達有計策,甚親信之。」逢紀は、南陽のひと。あざなは元図という。袁紹が董卓のもとから去ったとき、許攸とともに冀州にきた。聡達で計策があったから、袁紹から親信された。袁紹の死後、袁譚に殺された。
『陳志』袁紹伝に「會卓西入關、紹還軍延津。」とあり、このとき董卓が函谷関より西に入って(袁紹は董卓軍と戦えないので)軍を延津に還したと情報を付加する。公孫瓚と組んで、南北から冀州を攻める準備である。
初平二年夏四月、董卓は長安にいる。董卓が関東から去り、関東の緊張がほぐれたとき、袁紹は軍をひきいる意義を失った。董卓が洛陽周辺にいるときですら、韓馥に掣肘されて、董卓と戦えなかった。関西まで長駆して董卓を攻めるのは不可能なので、冀州に矛先を変えた。
高幹・荀諶が韓馥を説得
『陳志』袁紹伝:因馥惶遽、使陳留高幹、潁川荀諶等、說馥曰「公孫瓚乘勝來向南、而諸郡應之。袁車騎引軍東向、此其意不可知。竊爲將軍危之」馥曰「爲之奈何?」『陳志』袁紹伝によると、陳留の高幹、潁川の荀諶が、韓馥を説得する。顔ぶれは『范書』袁紹伝も同じ。高幹に「外甥」と説明があって、范曄のほうが優しい。
これが『通鑑』巻六十だと、「韓馥の親しむ所たる潁川の辛評・郭図」まで、説得というか脅迫に参加する。袁紹の冀州入りは、潁川名士の総意だったかのように描く。『通鑑』の顔ぶれは、「馥長史耿武、別駕閔純、洽中李曆、騎都尉沮授」と全員が登場する、『後漢紀』に従ったようである。
謝承『後漢書』はいう。高幹は、あざなを元才。父の高躬は、蜀郡太守。祖父の高賜は、司隷校尉。高官の家柄。
『後漢書』臧洪伝はいう。むかし張景明(張導)は、壇にのぼり、血をすすり、韓馥に印章をゆずらせた。章懐注は、『英雄記』をひく。袁紹は、張導、郭図、高幹をゆかせ、韓馥に冀州をゆずらせた。
高幹・荀諶は、『范書』では、韓馥を詰問する。「自分を袁紹と比べて、どう思ってるですか。三つの点で、袁紹に及ばないでしょう」と告白させる。
諶曰:「君自料寬仁容眾,為天下所附,孰與袁氏?」馥曰:「不如也。」「臨危吐決,智勇邁於人,又孰與袁氏?」馥曰:「不如也。」「世布恩德,天下家受其 惠,又孰與袁氏?」馥曰:「不如也。」諶曰:「勃海雖郡,其實州也。今將軍資三不如之埶,久處其上,袁氏一時之傑,必不為將軍下也。度量と支持者の数、決断力と知勇、天下に施せる恩恵、この三点で、韓馥は袁紹に及ばない。しかも袁紹が太守を務める勃海は、郡であるが、実力は州である(そのわりに袁紹は兵糧に困窮してるけど)。人物として三点が劣り、領土も同等なのに、韓馥が袁紹の上位にいるのはおかしい。
『范書』が韓馥をやり込めてから、『陳志』と『范書』は合流する。
且公孫提燕、代之卒,其鋒不可當。夫冀州天下之重資,若兩軍并力,兵交城下,危亡可立而待也。夫袁氏將軍之舊,且為同盟。當今之計,莫若舉冀州以讓袁氏,必厚德將軍,公孫瓚不能復與之爭矣。是將軍有讓賢之名,而身安於太山也。願勿有疑。」馥素性恇怯,因然其計。典拠の史料を、陳寿が省略したが、范曄は多くを採用したか。『范書』だけ読めば、ここは充分である。
韓馥の心がゆらぐと、部下が制止する。制止に関する問答は、陳寿・范曄に共通なので、陳寿から引いておくと、「冀州雖鄙、帶甲百萬、穀支十年。袁紹孤客窮軍、仰我鼻息。譬如嬰兒在股掌之上、絕其哺乳、立可餓殺。奈何乃欲以州與之?」馥曰「吾、袁氏故吏。且才不如本初。度德而讓、古人所貴。諸君獨何病焉!」ただし、制止する顔ぶれがちがう。
『陳志』は、長史の耿武、別駕の閔純、治中の李歴。『范書』は、長史の耿武、別駕の閔純は同じだが、騎都尉の沮授が加わる。
『范書』を採用することが多い『通鑑』だが、ここは『陳志』を採用する。沮授の初登場は、おあずけになる。
『范書』袁紹伝にひく李賢注に、
献帝伝:「沮授,廣平人。少有大志,多謀略。」英雄記曰:「耿武字文威。閔純字伯典。後袁紹至,馥從事十人棄馥去,唯恐在後,獨武、純杖刀拒,兵不能禁,紹後令田豐殺此二人。」『献帝伝』はいう。沮授は、広平のひと。大志があり謀略がおおい。韓馥の部下。官渡の戦いで曹操に捕らわれ、逃亡をはかって殺された。
韓馥の部下とするのは『全訳後漢書』より。『英雄記』はいう。耿武は、あざなを文威。閔純は、あざなを伯典。韓馥の部下。のちに袁紹が冀州に至ると、韓馥の従事は十名が韓馥を棄てて去てて、逃げ遅れるのを恐れた。ただ耿武・閔純だけは、刀を杖つきて抵抗したから、兵はふたりを妨害できない。のちに袁紹は、田豊にふたりを殺させた。
田豊と袁紹の関係は、注目したい。田豊は、袁紹が冀州を得るための、立役者のひとり。
冀州を奪うための戦い
冀州を奪うための戦いは、『陳志』袁紹伝は、情報量が少ないので、頼りにならない。『范書』袁紹伝に、
先是,馥從事趙浮、程渙將強弩萬人屯孟津,聞之,率兵馳還,請以拒紹,馥又不聽。乃避位,出居中常侍趙忠故舍,遣子送印綬以讓紹。とあるが、物足りない。『范書』李賢注の『英雄記』と、『陳志』袁紹伝にひく『九州春秋』に同じ場面の記述がある。『九州春秋』がもっとも詳しい。
九州春秋曰。馥遣都督從事趙浮、程奐將彊弩萬張屯河陽。浮等聞馥欲以冀州與紹、自孟津馳東下。時紹尚在朝歌清水口、浮等從後來、船數百艘、衆萬餘人、整兵鼓夜過紹營、紹甚惡之。浮等到、謂馥曰「袁本初軍無斗糧、各己離散、雖有張楊、於扶羅新附、未肯爲用、不足敵也。小從事等請自以見兵拒之、旬日之間、必土崩瓦解。明將軍但當開閤高枕、何憂何懼!」馥不從、乃避位、出居趙忠故舍。遣子齎冀州印綬於黎陽與紹。韓馥の都督従事である趙浮・程奐は、強弩一万を率いて河陽に屯していた。趙浮らは、韓馥が袁紹に冀州を与えるつもりだと聞き、孟津より東にくだる。ときに袁紹は、まだ朝歌県の清水口にいた。趙浮は(韓馥から冀州をもらいに行く)袁紹軍を、後ろから追った。趙浮の船は数百艘、兵は万余人。整然と兵を動かし、鼓を打って(威嚇して)袁紹の陣営を夜に通過した(袁紹を追い抜いて韓馥に合流した)。朱浮らは韓馥に、「袁紹には兵糧がないから、離散する直前だ。袁紹には、新たに張楊・於夫羅が味方したが、使いこなせない。私が兵をひきいて袁紹を防げば、すぐに袁紹軍は崩壊するだろう。明将軍(韓馥)は、枕を高くして寝ていれば、心配いらない」と。
胡三省はいう。河内の修武県である。袁紹と趙浮は、どちらも舟で黄河をわたり、鄴にむかった。清水口の南岸は、延津である。
『范書』にひく『英雄記』を見たが、『九州春秋』を上回る情報はなかった。韓馥は趙浮に従わず、冀州牧の位を退き、趙忠のもとの屋敷にいた。子を遣わして、冀州牧の印綬を、黎陽で袁紹に与えた。
子って誰だろう。袁譚?ついに袁紹は、冀州牧を領した(『陳志』袁紹伝)
限りなく「メモ」に過ぎないページになってしまいましたが、この作業をやっておけば、袁紹の「伝記」を書くことができるでしょう。151228閉じる
- 第2回 公孫瓚・黒山と、冀州を争奪する
前回、韓馥に冀州牧を譲らせた袁紹。しかし初平二年~初平四年は、公孫瓚・黒山(魏郡の反乱)との戦いで、つねに冀州を失いそうになった。アプリオリの強者でないことが、袁紹の魅力です。
沮授の唱える戦略
『范書』袁紹伝だけに、「紹遂領冀州牧,承制以馥為奮威將軍,而無所將御」とあって、袁紹が承制して、韓馥を奮威将軍にしたとわかる。制度史のひとが好きな、「将御する所なし」です。袁紹が冀州牧になった直後に「承制」したことが、『范書』のほうが『陳志』よりも情報がおおい。
続いて『范書』は、冀州牧になった直後の施策として、沮授を別駕として(引沮授為別駕)沮授に戦略をたずねる。『陳志』では「従事の沮授が」と既成の官職で登場する。范曄のほうが丁寧である。
『陳志』袁紹伝にひく『献帝伝』では、「沮授、廣平人、少有大志、多權略。仕州別駕、舉茂才、歷二縣令、又爲韓馥別駕、表拜騎都尉。袁紹得冀州、又辟焉」とある。冀州の別駕となり、茂才に挙げられ、二つ県令を歴任した。韓馥は沮授を別駕として、表して騎都尉とした。袁紹が冀州を得たら、同じように沮授を辟した。
つまり、陳寿は「従事」とするが、韓馥の時代にすでに「別駕」だったじゃないか。きちんと『献帝伝』に基づいて修正した范曄はエライ!となる。
沮授が戦略を教えた結果、袁紹が上表して、沮授を監軍・奮威将軍とするのが『陳志』で、「奮武将軍となし諸將を監護せしむ」のが『范書』。奮威と奮武で異なるし、だいいち『范書』では、奮威将軍とは韓馥のことだった。范曄と陳寿のそれぞれのなかで矛盾はないが、范曄が良さそう。
『三国志集解』袁紹伝で潘眉はいう。前漢には、千秋が奮武将軍となった。後漢末、曹操は行奮武将軍となった。奮威、奮武、どちらがほんとうか、わからない。
趙一清はいう。『後漢書』袁紹伝は、奮武将軍がただしいとする。ときに韓馥を、奮武将軍とした。沮授と重複する。
周寿昌はいう。『後漢書』袁紹伝はいう。韓馥を奮威将軍としたが、兵をひきいる権限がなかったと。沮授は、韓馥とおなじ奮武将軍なのに、諸将を監護した。袁紹は、韓馥と沮授を、おなじ待遇としたのではない。韓馥を去らせ、沮授を迎えたのか。
盧弼は考える。呂布は、奮威将軍となる。『宋書』百官志では、呂布は奮武将軍になったとされる。雑号将軍なので、定員がなく、奮威と奮武の区別も怪しい。
『范書』のほうだけ、先に袁紹が沮授に質問する。
「今賊臣作亂,朝廷遷移。吾歷世受寵,志竭力命,興復漢室。然齊桓非夷吾不能成霸,句踐非范蠡無以存國。今欲與卿戮力同心,共安社稷,將何以匡濟之乎?」一族が歴世に恩寵を受け、漢室の復興を志た。斉桓公に管仲がおらねば、句践は范蠡がおらねば、国を起こせなかった。どうやって国を救ったらよいかな。
情報がおおいほうを「ヨシ」としてきたが、これだけは范曄の勇み足という気がする。『陳志』袁紹伝が先にあって、范曄が読みやすいように、袁紹の質問を付け足したという感じ。管仲とか范蠡とか、ありがちなワードで。沮授の答えは、より原典に近そうな『陳志』より。
「將軍弱冠登朝、則播名海內。值廢立之際、則忠義奮發。單騎出奔、則董卓懷怖。濟河而北、則勃海稽首。振一郡之卒撮冀州之衆、威震河朔名重天下。
雖黃巾猾亂黑山跋扈、舉軍東向則青州可定。還討黑山、則張燕可滅。回衆北首、則公孫必喪。震脅戎狄、則匈奴必從。橫大河之北、合四州之地。收英雄之才、擁百萬之衆、迎大駕於西京、復宗廟於洛邑、號令天下、以討未復、以此爭鋒、誰能敵之?比及數年、此功不難」紹喜曰「此吾心也」沮授曰く、「袁紹は二十歳で出仕して名声をひろめた。廃立に反対して出奔。勃海郡は袁紹を歓迎。勃海から冀州を掌握して、威信は河朔を震わせ、名は天下に重い」という、すでにかなりプラスのハンデがあることを確認し、
東して黄巾を撃てば青州が定まる。還って黒山を討てば、張燕も滅ぼせる。北せば公孫瓚を討ち、匈奴を従える。黄河の北を思うままにして、四州の地・英雄の才を集めれば、百万の軍で長安に皇帝を迎え、洛邑で宗廟を復し、天下に号令すれば、対抗者はいなくなる。数年もすれば容易に残党を倒せる」と。袁紹は、「わが心である」という。
袁宏『後漢紀』巻二十六はいう。沮授のセリフは「劉虞をほろぼせ」だ(回師北首,則劉虞必喪)。いま沮授は、袁紹に河北4州を得させたい。初平二年(191)、幽州の南は、劉虞に属す。公孫瓚に属さない。袁宏が、劉虞と記すのは、意味が通じる。
ぼくは思う。沮授が、袁紹・韓馥が劉虞を擁立したことを知らず、「劉虞が野心を抱き、長安の天子をないがしろにした」と思っていたら、スタート時点でのボタンの掛け違えがおもしろい。しかし『後漢紀』の誤りだろうなー。
沮授のアイディアのなかでは、河北四州を得たら、強敵はいない。
黒山については、『范書』に李賢注があるが、『陳志』では袁紹伝に割り振っていない。張燕が軍中で「飛燕」と呼ばれ、常山・趙郡・中山・上党・河内の山谷の盗賊と繋がったことなど。
審配・田豊が、韓馥から移る
沮授だけでなく、魏郡の審配・鉅鹿の田豊が加わった記事が、『范書』で次にくる。時系列という点で、整理が優れている。
『范書』袁紹伝:魏郡審配,鉅鹿田豐,並以正直不得志於韓馥。紹乃以豐為別駕,配為治中,甚見器任。魏郡の審配・鉅鹿の田豊(ともに河北出身)は、韓馥のもとでは志を得なかった。しかし袁紹は、田豊を別駕〔従事〕、審配を治中〔従事〕として重んじた。
『范書』袁紹伝の李賢注より、
先賢行狀曰:「配字正南。少忠烈慷慨,有不可犯之節。紹領冀州,委腹心之任。豐字元皓。天姿瓌傑,權略多奇。紹軍之敗也,土崩奔走,徒眾略盡,軍將皆撫膝啼泣曰:『向使田豐在此,不至於是。』」『先賢行状』より、審配伝・田豊伝を消化する。
審配は忠烈・慷慨で、袁紹から腹心の任を委ねられた。田豊は容貌がすぐれ、権略には奇が多い。袁紹軍が(官渡で)敗れると、軍将たちは膝を抱いて涙を流し、「もし田豊がいたら、こうならなかった」と泣いた。
「もし田豊がいたら」というイフ設定を、史料から頂戴しました!
韓馥の最期
『陳志』袁紹伝は、ここで袁紹が王匡に胡母斑を殺させる記事を載せるが、時系列がおかしいのは上述のとおり。おそらく韓馥の最期に繋げるために、書きモレを一気に挽回したのだろう。
『陳志』は、胡母斑のことに続け、「卓聞紹得關東、乃悉誅紹宗族太傅隗等。當是時、豪俠多附紹、皆思、爲之報。州郡蠭起、莫不假其名。馥、懷懼從紹索去、往依張邈」とあるが、現時点(初平二年)で起きているのは、韓馥が張邈のもとに逃げたことだけ。それより前の、袁紹の声望は初平元年のこと。『范書』はうまく裁いて、初平元年に移した。
『范書』袁紹伝は、「馥自懷猜懼,辭紹索去,往依張邈。後紹遣使詣邈,有所計議,因共耳語。馥時在坐,謂見圖謀,無何,如廁自殺」と、韓馥の最期を書いている。『陳志』袁紹伝と、同注引『九州春秋』を繋いだもの。
ただし、韓馥の死ぬ経緯は、『陳志』裴注および『范書』李賢注『英雄記』に詳しい。おそらく同じ出典。
英雄記曰。紹以河內朱漢爲都官從事。漢先時爲馥所不禮、內懷怨恨、且欲邀迎紹意、擅發城郭兵圍守馥第、拔刃登屋。馥走上樓、收得馥大兒、槌折兩腳。紹亦立收漢、殺之。馥猶憂怖、故報紹索去。
初平三年、公孫瓚と界橋で戦う
『陳志』袁紹伝には重大な欠陥があって、初平二年冬、公孫瓚が黄巾を降して南下した結果、初平三年春、袁紹と公孫瓚が界橋で衝突するところを書かない。
公孫瓚と袁紹の戦いは、袁術のところにいる公孫越が、袁紹のつかわした周昂に流矢によって殺されたことから。
劉虞と袁紹と袁術を知るために、公孫瓚伝 03
『范書』袁紹伝に、磐河・界橋・龍湊の戦いがある。
其(初平二年)冬,公孫瓚大破黃巾,還屯槃河,威震河北,冀州諸城無不望風響應。紹乃自擊之。瓚兵三萬,列為方陳,分突騎萬匹,翼軍左右,其鋒甚銳。紹先令麴義領精兵八百,強 弩千張,以為前登。瓚輕其兵少,縱騎騰之,義兵伏楯下,一時同發,瓚軍大敗,斬其所置冀 州刺史嚴綱,獲甲首千餘級。麴義追至界橋,瓚斂兵還戰,義復破之,遂到瓚營,拔其牙 門,餘眾皆走。紹在後十數里,聞瓚已破,發鞌息馬,唯衞帳下強弩數十張,大戟士百許 人。瓚散兵二千餘騎卒至,圍紹數重,射矢雨下。田豐扶紹,使却入空垣。紹脫兜鍪抵地, 曰:「大丈夫當前鬬死,而反逃垣牆閒邪?」促使諸弩競發,多傷瓚騎。眾不知是紹,頗稍引 却。會麴義來迎,騎乃散退。三年,瓚又遣兵至龍湊挑戰,紹復擊破之。瓚遂還幽州,不敢復出。初平二年冬、公孫瓚は(青州)黄巾を破り、磐河に還る。公孫瓚の威は河北を震わせ、冀州の諸城は、みな公孫瓚に呼応する。
公孫瓚が劉備を平原相とするのも、この時期。
『范書』献帝紀では、界橋の戦いを初平三年春とする。だからここで、初平二年から三年に切り替わる。公孫瓚が黄巾を破ったのは初平二年冬だから、袁紹と公孫瓚の戦いは、年をまたいだのだろう。『范書』袁紹伝は、磐河・界橋までを初平二年とし、つぎの龍湊を初平三年とするから、献帝紀と食い違う。『通鑑』は献帝紀を採用して、年をまたいでから界橋で戦う。(公孫瓚に対抗するため)袁紹は自ら公孫瓚を攻め、麹義を先鋒とした。公孫瓚の置いた冀州刺史の厳綱を斬った。
また麹義は、界橋でも公孫瓚を破った。袁紹は麹義よりも後ろにいたが、勝って休憩しているところ、矢を射かけられた。田豊が袁紹を守った。公孫瓚は、それが袁紹だと気づいておらず、麹義がきたから撤退した。
初平三年、公孫瓚は龍湊で袁紹に挑んだが、また袁紹が勝った。公孫瓚は幽州に還り、二度と出なかった。
『通鑑』では、初平三年の末尾に、「公孫瓚復遣兵擊袁紹,至龍湊,紹擊破之。瓚遂幽州,不敢復出」と置く。季節・月が不明だから、『范書』袁紹伝の「三年」だけを手掛かりに、アリバイ的にここに配置したのである。司馬光の常套手段。
『陳志』袁紹伝に、この戦いが丸ごと欠落しているから、裴注『英雄記』が、おせっかいなほど補う。『范書』袁紹伝よりも記述が豊かである。范曄が『英雄記』の軍記物語っぽい記述を、やや理性的にアレンジしたようである。
『英雄記』:公孫瓚擊青州黃巾賊、大破之、還屯廣宗、改易守令、冀州長吏無不望風響應、開門受之。紹自往征瓚、合戰于界橋南二十里。瓚步兵三萬餘人爲方陳、騎爲兩翼、左右各五千餘匹、白馬義從爲中堅、亦分作兩校、左射右、右射左、旌旗鎧甲、光照天地。紹令麴義以八百兵爲先登、彊弩千張夾承之、紹自以步兵數萬結陳于後。
義久在涼州、曉習羌鬭、兵皆驍銳。瓚見其兵少、便放騎欲陵蹈之。義兵皆伏楯下不動、未至數十步、乃同時俱起、揚塵大叫、直前衝突、彊弩雷發、所中必倒、臨陳斬瓚所署冀州刺史嚴綱甲首千餘級。瓚軍敗績、步騎奔走、不復還營。義追至界橋。瓚殿兵還戰橋上、義復破之、遂到瓚營、拔其牙門、營中餘衆皆復散走。(初平二年冬)公孫瓚が広宗に屯して、県の守令を交替させたことは『范書』より多い。いずれの長吏も、開門して公孫瓚の派遣した長官を受け入れた。
李賢注に、袁紹は、広宗の界橋に駐屯したとある。(初平三年春)界橋の南二十里で戦ったとか、公孫瓚の白馬義従のこと、麹義が久しく涼州にいて強かったことなど、范曄によってカットされた部分。
袁紹が公孫瓚に急襲され、別駕従事の田豊に救われるところは、范曄とほぼ同じ。はぶく。
『陳志』袁紹伝にひく『英雄記』は、公孫瓚の「白馬」について触れる。
『英雄記』:瓚每與虜戰、常乘白馬、追不虛發、數獲戎捷、虜相告云「當避白馬」。因虜所忌、簡其白馬數千匹、選騎射之士、號爲白馬義從。一曰胡夷健者常乘白馬、瓚有健騎數千、多乘白馬、故以號焉。初平三年、龍湊で袁紹が公孫瓚を破ったことは、陳寿および裴注にない。
初平四年、趙岐が仲裁にくる
『陳志』袁紹伝にひく『英雄記』はノンストップで記述するが、『范書』袁紹伝は、『英雄記』の内容を分けて、ここで初平四年(193) に切り替える。
『范書』袁紹伝に、
四年初,天子遣太僕趙岐和解關東,使各罷兵。瓚因此以書譬紹曰:「趙太僕以周、邵 之德,銜命來征,宣揚朝恩,示以和睦,曠若開雲見日,何喜如之!昔賈復、寇恂爭相危害, 遇世祖解紛,遂同輿並出。釁難既釋,時人美之。自惟邊鄙,得與將軍共同斯好,此誠將軍 之眷,而瓚之願也。」紹於是引軍南還。建安四年初、太僕の趙岐が関東を和解させる。『范書』献帝紀には、前年四月に董卓が死に、八月に「遣日磾及太僕趙岐,持節慰撫天下。」とする。趙岐が、半年弱かけて関東に到達したのだろう。
『范書』列伝五十四 趙岐伝:「及獻帝西都,復拜議郎,稍遷太僕。及李傕專政,使太傅馬日磾撫慰天下,以岐為副。日磾行至洛陽,表別遣岐宣揚國命,所到郡縣,百姓皆喜曰:「今日乃復見使者車騎。」是時袁紹、曹操與公孫瓚爭冀州,紹及操聞岐至,皆自將兵數百里奉迎,岐深陳天子恩德,宜罷兵安人之道,又移書公孫瓚,為言利害。紹等各引兵去,皆與岐期會洛陽,奉迎車 駕。岐南到陳留,得篤疾,經涉二年,期者遂不至。
建安四年「初」である情報はどこから? つぎの三月の祭祀の行事よりも前に置くから、それなら「初」だろうという推論だろうか。公孫瓚は、「太僕の趙岐は、周公旦・召公奭のような御方なので、和解しましょう」と袁紹に申し出た。
同じ記述は、『陳志』袁紹伝にひく『英雄記』にもあり(むしろ『英雄記』のほうが原典に近く)こちらでは、袁紹は百里まで出迎えて、帝命を受けた。
袁紹が趙岐を歓迎したとは、献帝・李傕政権の肯定である。劉虞に皇帝・承制を拒否された結果、皇帝権力については代替案がなくなった。翌年、劉虞が殺されるので、袁紹が献帝を否定する余地がなくなる。
初平四年、魏郡・黒山の反乱
ここまできて思うに、
『范書』袁紹伝は、時系列の整理に優れている。テキストがほぼ一致するので、①魏郡の反乱、②趙岐の仲裁のところは、范曄の出典は(『陳志』裴注の)『英雄記』と見なすことができる。范曄は『英雄記』を修正して、袁紹伝を書いたか。
『英雄記』は、①魏郡の反乱、②趙岐の仲裁、という順序。②の冒頭で初平四年と明記される。だから(②の直前である)①は初平三年だったかに見える。
范曄は、②趙岐の仲裁、①魏郡の反乱、と逆転させ、どちらも初平四年に収める。①魏郡反乱は、記事の内容(祭祀の習慣)から三月と決まる。②趙岐の仲裁によって、公孫瓚と停戦しない限り、のんびり祭祀したときに、①魏郡の反乱を受け、それを平定する、という順序にならない。ひとつの見識だと思う。
三月上巳,大會賓徒於薄落津。聞魏郡兵反,與黑山賊干毒等數萬人共覆鄴城,殺 郡守。坐中客家在鄴者,皆憂怖失色,或起而啼泣,紹容貌自若,不改常度[獻帝春秋曰:「紹勸督引滿投壼,言笑容貌自若。」]。賊有陶升者,自號「平漢將軍」,[英雄記曰:「升故為內黃小吏。」]獨反諸賊,將部眾踰西城入,閉府門,具車重,載紹家及諸衣 冠在州內者,身自扞衞,送到斥丘。紹還,因屯斥丘,以陶升為建義中郎將。ここまでが、初平四年の三月~五月までか。三月上巳、薄落津で袁紹が賓客を集めて行ったのは、禍いを払うための慣習。袁紹は家族が鄴城にいるが、平気な顔で投壺をした。
賊のなかに「平漢将軍」を称した陶升がいた。内黄県の小吏であったが、鄴にいた袁紹の家族・州内の官吏を護衛して、斥丘に送り届けた。袁紹は陶升をほめて建議中郎将とした。
ぼくは思う。「平漢」という雑号から、漢室に敵対した叛乱だとわかる。しかし陶升は叛乱をやめて、袁紹を助けた。気まぐれに味方してくれる在地勢力という意味で、袁紹にとっての陶升は、曹操にとっての程昱にひとしい。兗州のすべてが、ひっくりかえったのに、兗州の程昱は曹操の味方をした。
武帝紀との照合はあとにしようと思ったが、関連性が深いので、
武帝紀:四年春,軍鄄城。荊州牧劉表斷術糧道,術引軍入陳留,屯封丘,黑山餘賊及於夫羅等佐之。術使將劉詳屯匡亭。太祖擊詳,術救之,與戰,大破之。術退保封丘,遂圍之,未合,術走襄邑,追到太壽,決渠水灌城。走寧陵,又追之,走九江。夏,太祖還軍定陶。同じ初平四年春、袁術が陳留に入り、封丘に屯して、黒山・於夫羅と結んだ。魏郡の反乱と、袁術の兗州攻めは同時であり、どちらも黒山に関係する。一連の軍事行動と見るべきだ。
曹操の功績は、袁術を叩いたことではなく、袁紹の冀州失陥を防いだことにある。ここで曹操が袁術を叩かねば、南陽-河北という、光武帝のロイヤルロードを、袁術が歩むことになった。
『范書』袁紹伝は、『英雄記』に基づいた記述を続ける。六月,紹乃出軍,入朝歌鹿腸山蒼巖谷口,討干毒。圍攻五日,破之,斬毒及其眾萬餘級。紹遂尋山北行,進擊諸賊左髭丈八等,皆斬之,又擊劉石、青牛角、黃龍、左校、郭大賢、李大目、于氐根等、復斬數萬級,皆屠其屯壁。遂與黑山賊張燕及四營屠各、鴈門烏桓戰於常山。燕 精兵數萬,騎數千匹,連戰十餘日,燕兵死傷雖多,紹軍亦疲,遂各退。麴義自恃有功,驕縱 不軌,紹召殺之,而并其眾。六月、袁紹は于毒を討った。黒山の張燕らを屠り、雁門の烏桓と死闘を演じ、互いに疲れて引いた。麹義は功績を誇って殺された。
麹義の死は、「魏志」公孫瓚伝にひく『漢晋春秋』にある。
『陳志』公孫瓚伝にひく『漢晋春秋』に、袁紹が公孫瓚に与えた文章として、麹義の残党が出てくる。かつて公孫瓚を界橋で破ったやつらですと。「前以西山陸梁、出兵平討、會麴義餘殘、畏誅逃命、故遂住大軍、分兵撲蕩、此兵孤之前行、乃界橋搴旗拔壘、先登制敵者也。始聞足下鐫金紆紫、命以元帥、謂當因茲奮發、以報孟明之恥、是故戰夫引領、竦望旌斾、怪遂含光匿影、寂爾無聞、卒臻屠滅、相爲惜之。范曄が省いたが、『英雄記』では一連の戦いが、「紹復還屯鄴。」で終わる。
冀州の争奪まとめ
袁紹は初平二年、韓馥から冀州を奪った直後、同年冬、青州黄巾を破った公孫瓚の威令がおよび、冀州の全域が靡いた。初平三年春、界橋で戦って泥沼化したが、初平四年初、趙岐に仲裁してもらった。しかし同年春、魏郡で反乱が起き、袁術が北上。曹操に袁術を討たせ、袁紹は六月まで黒山・烏桓と死闘を演じて、やっと冀州を安定させた。足掛け三年の冀州争奪戦であり、勝ったものの、麹義に功績を与えすぎた。だから麹義を処罰して兵を奪った。
191年から193年までが、冀州を得るための戦い。
この年、公孫瓚が劉虞を殺す。すなわち公孫瓚は、劉虞と戦うために、袁紹と和解したかったとも読める。冀州に領土を広げるよりも、幽州を確実に自分のものにしたい。まるで袁紹が韓馥から冀州を奪ったように、劉虞から幽州を奪いたい。袁紹と順序が逆転したから、公孫瓚の動きがチグハグになった。
このサイトの公孫瓚伝のところで、書きましたが。袁紹に界橋や龍湊でやぶれた公孫瓚は、幽州にもどり、劉虞を殺す。袁紹が、冀州で泥仕合をしているあいだに、劉虞は死んでしまう。はじめから終わりまで、袁紹と劉虞の関係は良好。冀州に入った袁紹を、背後の幽州から、無言でバックアップしているような感じ。もし袁紹が、魏郡や于毒の平定に忙しくなければ、劉虞を助けただろう。 目線を高くすると。公孫瓚-于毒-袁術は、つながっている。劉虞-曹操-袁紹に対抗している。于毒が動いたせいで、袁紹が釘づけられ、公孫瓚が劉虞を殺す。偶然でなく、外交のなせるわざ!
次回、献帝との接点が出てきます。151228閉じる
- 第3回 曹操と対立し、河北四州を支配
初平四年(193) の記事に続いて、興平二年(195) まで飛ぶ。ちょっと史料にブランクがある。袁紹は、何をしていたか。公孫瓚と、戦っていた。劉虞の仇討も兼ねて。
だれが袁紹とともに、公孫瓚と戦ったか。漁陽の鮮于輔、齊周。騎都尉の鮮于銀。燕国の閻柔。劉虞の子・劉和。公孫瓚を易京に押しこめる時期の話が、『三国志』袁紹伝で省略され、公孫瓚伝にある。下記ページの後半。 公孫瓚04) 193年劉虞の死、195年易京へ
献帝に対する方針の対立
『范書』袁紹伝は、いきなり「興平二年,拜紹右將軍。」と断言する。
恵棟によると、『後漢紀』では後将軍である。袁紹の幕僚が、献帝について議論を始めるのは、献帝が長安を出た時期だという判断でしょう。しかし、長安の李傕政権との関係について、袁紹が検討しなかったはずがない。時期を明示しない『陳志』のほうが、偶然、優れている。
初、天子之立、非紹意。及在河東、紹遣潁川郭圖、使焉。圖還、說紹迎天子都鄴。紹不從。はじめ董卓が献帝を立てたのは、袁紹の本意でない。だが献帝が河東にくると、袁紹は潁川の郭図を使者に送った。郭図は還ると、袁紹に「天子を鄴に迎えよ」と説いた。
同注引『献帝伝』で、沮授が献帝の奉戴を勧めるが、郭図・淳于瓊が反対する。獻帝傳曰。沮授說紹云「將軍累葉輔弼、世濟忠義。今朝廷播越、宗廟毀壞、觀諸州郡外託義兵、內圖相滅、未有存主恤民者。且今州城粗定、宜迎大駕、安宮鄴都、挾天子而令諸侯、畜士馬以討不庭、誰能禦之!」紹悅、將從之。郭圖、淳于瓊曰「漢室陵遲、爲日久矣、今欲興之、不亦難乎!且今英雄據有州郡、衆動萬計、所謂秦失其鹿、先得者王。若迎天子以自近、動輒表聞、從之則權輕、違之則拒命、非計之善者也。」授曰「今迎朝廷、至義也、又於時宜大計也、若不早圖、必有先人者也。夫權不失機、功在速捷、將軍其圖之!」
紹弗能用。案此書稱(郭圖)[沮授]之計、則與本傳違也。
范曄もこれを見たようで、沮授のセリフに出てくる「今朝廷播越」と関連づけるため、「其冬(興平二年)車駕為李傕等所追於曹陽」と情況説明を加えてくれる。
李賢注にて、沮授が『左伝』を踏まえていることを示す。『范書』のほうが、利用する史料として優れている。
左傳,周襄王出奔於鄭,狐偃言於晉文公曰:「求諸侯莫如勤王,諸侯信之,且大義也。繼文之業而信宣於諸侯,今為可矣。」文公從之,納襄王,遂成霸業。『左伝』僖公 二十五年、周襄王が出奔したとき、晋文公がこれを迎えて、覇業を達成することができた。袁紹も同じことをせよと。
『范書』では、郭図・淳于瓊が反対する。郭図の天子奉戴に関する意見は、『陳志』では賛成、裴注『献帝伝』では反対であり、范曄は『献帝伝』を採用した。
李賢注は優れている。『九州春秋』から郭図のあざなが「公則」であることを表示。郭図のセリフが『史記』淮陰侯列伝における蒯通「秦失其鹿,天下共追之,高才者先得焉。」を踏まえたものであると表示。
郭図は、高幹・荀諶とともに韓馥を説得し、袁紹に冀州を取らせた。官渡のとき、沮授・淳于瓊らとともに都督に任じられ、一軍をひきいた。袁紹の死後、袁譚を輔佐した。曹操に敗れ、袁譚とともに殺された。
『范書』の出典は明らかに『献帝伝』なので、再引用しないが、異なるのは結末。「帝立既非紹意,竟不能從。」と、前から献帝が立つことは袁紹にとって本意ではなかったから、ついに(沮授に)従うことができなかった。この「能」の字は『献帝伝』になく、范曄の価値判断です。
袁紹の子供たち=河北の支配体制
『陳志』では、曹操が献帝を許県に迎えた話になる。しかし『范書』は、袁紹の子の話を先にやる。范曄の時系列の整理に沿って、河北の支配体制を見ておく。
先に『全訳後漢書』の『補注』から、3子を確認。
袁譚:袁紹の長子。父の死後、袁尚と対立。曹操にくみして対抗。のちに離反するが、曹操の配下である曹純の騎兵に斬られた。
袁熙:幽州刺史。袁譚・袁尚のどちらにも味方しないが、袁譚・曹操に敗れた袁尚をかくまった際、部下に離反されて烏桓に亡命。公孫康に殺された。妻は甄氏。
袁尚:袁譚にくみした曹操に敗れ、遼東に亡命をはかったが、公孫康に殺された。
『范書』袁紹伝:紹有三子:譚字顯思,熙字顯雍,尚字顯甫。譚長而惠,尚少而美。紹後妻劉有寵,而 偏愛尚,數稱於紹,紹亦奇其姿容,欲使傳嗣。乃以譚繼兄後,出為青州刺史。沮授諫曰: 「世稱萬人逐兔,一人獲之,貪者悉止,分定故也。且年均以賢,德均則卜,古之制 也。願上惟先代成(則)〔敗〕之誡,下思逐兔分定之義。若其不改,禍始此矣。」紹曰:「吾 欲令諸子各據一州,以視其能。」於是以中子熙為幽州刺史,外甥高幹為并州刺史。袁熙のあざなは陳寿が「顕奕」とするが、潘眉いよると「雍」「熙」は意味が呼応することから、范曄のように「顕雍」が正しいと。
袁譚は年上で恵み深く、袁尚は年下で美しかった。後妻の劉氏が袁尚を偏愛して、しばしば袁紹のまえで褒めた。袁紹は袁尚の姿形を評価し、後嗣にしたい。そこで、袁譚に兄のあとを嗣がせ、青州刺史にした。
沮授は『慎子』から「ウサギの所有者が決まれば、みんな諦める」、『左伝』昭公二十六年から後嗣の立て方をひき、袁尚を立てるなと説いた。
『全訳後漢書』216p に出典の説明が詳しい。袁紹は、一州ずつ任せて「能を視よう」といった。袁熙を幽州刺史、外甥の高幹を并州刺史とした。
『三国志集解』袁紹伝で、周寿昌はいう。袁紹の子は、袁譚、袁煕、袁尚だが、その下に四男の袁買がいる。「魏志」袁紹伝の末尾にひく『呉書』にある。袁尚が幼いから手元におき、并州を高幹に任せた。袁買には、まだ国を与えていなかったか。
『范書』の記述は、『陳志』に依っており、場所が違う。『陳志』では、袁紹が公孫瓚を易京で殺した後のこととして、
出長子譚、爲青州。沮授諫紹「必爲禍始」紹不聽、曰「孤欲令諸兒各據一州也」。又以中子熙、爲幽州。甥高幹、爲幷州。これでは簡潔すぎるから、裴注『九州春秋』で、
九州春秋載授諫辭曰「世稱一兔走衢、萬人逐之、一人獲之、貪者悉止、分定故也。且年均以賢、德均則卜、古之制也。願上惟先代成敗之戒、下思逐兔分定之義。」紹曰「孤欲令四兒各據一州、以觀其能。」授出曰「禍其始此乎!」『九州春秋』が先にあって、陳寿・范曄とも、自分なりに省略・変更を加えて、袁紹伝を書いたことが分かる。陳寿はダイジェスト版にした。范曄は沮授の予言だけを消した。沮授を悲劇の英雄にするのを避けたか。
おなじ裴注『九州春秋』は、袁譚の赴任直後のことを書く。
譚始至青州、爲都督、未爲刺史、後太祖拜爲刺史。其土自河而西、蓋不過平原而已。遂北排田楷、東攻孔融、曜兵海隅、是時百姓無主、欣戴之矣。然信用羣小、好受近言、肆志奢淫、不知稼穡之艱難。華彥、孔順皆姦佞小人也、信以爲腹心。王脩等備官而已。然能接待賓客、慕名敬士。
使婦弟領兵在內、至令草竊、巿井而外、虜掠田野。別使兩將募兵下縣、有賂者見免、無者見取、貧弱者多、乃至於竄伏丘野之中、放兵捕索、如獵鳥獸。邑有萬戶者、著籍不盈數百、收賦納稅、參分不入一。招命賢士、不就。不趨赴軍期、安居族黨、亦不能罪也。はじめ袁譚が青州にきたとき、都督したが、刺史にならず、のちに曹操が(献帝に斡旋して)袁譚を青州刺史とした。袁譚の領土は、黄河より西で、平原だけ。ついに公孫瓚がおいた青州刺史の田楷を、北に退けた。東に孔融を攻めた。
『後漢書』孔融伝はいう。孔融は、北海相となる。北海に6年いた。劉備は上表して、孔融を青州刺史とする。
『范書』孔融伝:融負其高氣,志在靖難,而才疎意廣,迄無成功。在郡六年,劉備表領青州刺史。 建安元年,為袁譚所攻,自春至夏,戰士所餘裁數百人,流矢雨集,戈矛內接。融隱几讀 書,談笑自若。城夜陷,乃奔東山,妻子為譚所虜。 建安元年(196)、孔融は袁譚に攻められた。春から夏に戦い、孔融の数百人が斬られた。孔融はびびらず、談笑して読書した。城が落ちると、孔融はにげたが、妻子は袁譚にとらわれた。このとき百姓は無主だったので、袁譚を諌言した。しかし袁譚は群小を信じて用い、心地いい言葉を聞くのを好んだ。ほしいままに浪費し、農政の危機を知らない。華彦や孔順らは奸佞・小人だが、腹心となった。王脩は官職に就いているだけ。しかし賓客を接待し、名を慕い士を敬った。
政治的な立場は、袁紹の後継者なのだろう。妻の弟に州内で兵を領させ、城の内外で略奪させた。ふたりの将に募兵させ県を治めさせたが、賄賂があれば免れ、賄賂がなければ捕らわれた。窮乏した者がおおく、山野に逃亡すると兵を放って捕捉させた。邑に一万戸あっても、戸籍には数百戸しか載らず、税収は三分の一も入らない。賢士を招命しても就かず。軍の召集の期限に遅れても、族党のなかに安居しており、これを処罰できない。
献帝を迎えた曹操との交渉
曹操が献帝を獲得したときの反応は、『范書』が圧倒的に詳しい。
『陳志』袁紹伝が、
會太祖迎天子都許、收河南地、關中皆附。紹悔、欲令太祖徙天子都鄄城、以自密近。太祖拒之。天子以紹爲太尉、轉爲大將軍、封鄴侯。紹、讓侯不受。きわめて簡素なのに対して、『范書』袁紹伝は、袁紹の上書を載せる。
建安元年,曹操迎天子都許,乃下詔書於紹,責以地廣兵多而專自樹黨,不聞勤王之師 而但擅相討伐。紹上書曰:と、詔によって献帝に協力しなかったことを咎められると、袁紹は「いやいや、漢王朝に協力的なんですよ」と弁解する。『全訳後漢書』p218から。原文は長大なので要約。
①張譲ら宦官を討伐
②袁隗の犠牲も厭わず、董卓に対抗(家より国が優先)
韓馥に妨害され、董卓の討伐は失敗したが、という言い訳つきw③河北の討伐は、皇帝のため(正当に評価してね)
青州・兗州を荒らした黄巾、冀州を荒らした黒山・張楊は、袁紹が朝廷のために討伐したと。竇融になぞらえて承制し、曹操を兗州牧にして秩序を回復した。兵権を弄んでいるのではないと。
假天之威,每戰輒克。臣備公族子弟,生長京輦,頗聞俎豆,不習干戈。戦うたびに勝てたのは、皇帝の威信のおかげ。わたしは三公の子弟として洛陽で育ち、戦争のこと詳しくないのに勝てたのは、皇帝のおかげ。
『范書』は上表を載せたあと、袁紹と曹操の関係を記す。
於是以紹為太尉,封鄴侯。[獻帝春秋曰:「使將作大匠孔融持節之鄴,拜太尉紹為大將軍,改封鄴侯。」]時曹操自為大將軍,紹恥為之下,偽表辭不受。操大 懼,乃讓位於紹。二年,使將作大匠孔融持節拜紹大將軍,錫弓矢節鉞,虎賁百人,兼督 冀、青、幽、并四州,然後受之。建安元年、袁紹は太尉・鄴侯。建安二年、将作大匠の孔融が持節して使者となり、袁紹は大将軍、弓矢・節鉞・虎賁百人を錫わった。
『陳志』袁紹伝の裴注『献帝春秋』は、ちょっと情報がおおい。
獻帝春秋曰。紹恥班在太祖下、怒曰「曹操當死數矣、我輒救存之、今乃背恩、挾天子以令我乎!」太祖聞、而以大將軍讓于紹。恩知らずの曹操めが!
袁紹は、献帝を鄄城に移せと要請する。『范書』袁紹伝:
紹每得詔書,患有不便於己,乃欲移天子自近,使說操以許下埤溼,洛陽殘破,宜徙 都甄城,以就全實。操拒之。田豐說紹曰:「徙都之計,既不克從,宜早圖許,奉迎天子, 動託詔令,響號海內,此筭之上者。不爾,終為人所禽,雖悔無益也。」紹不從。袁紹は詔書をもらうごとに、都合の悪いことが書いてないか憂えた。「許県は低湿地であり、洛陽は無惨に破壊されているから、鄄城に天子を移せ」という。曹操が拒む。
田豊が袁紹に「曹操が遷都を拒むなら、早く許都を攻めて、天子を得てしまえ。さもなくば人に捕らわれる」と提案するが、袁紹は従わず。
田豊は、建安五年、曹操が徐州を攻めたときも、許都の急襲を勧めた(『陳志』袁紹伝)。しかし官渡のときになると、南下に反対する。
公孫瓚を滅ぼし、革命を考える
『范書』袁紹伝は「四年春,擊 公孫瓚,遂定幽土,事在瓚傳」とし、『陳志』袁紹伝は、時期が心許ないが、「頃之、擊破瓚于易京、幷其衆。」と、公孫瓚を滅ぼしたことに、話が繋がる。
『陳志』袁紹伝にひく『典略』に、
典略曰。自此紹貢御希慢、私使主薄耿苞密白曰「赤德衰盡、袁爲黃胤、宜順天意。」紹以苞密白事示軍府將吏。議者咸以苞爲妖妄宜誅、紹乃殺苞以自解。とあり、范曄も「紹既并四州之地,眾數十萬,而驕心轉盛,貢御稀簡」と情況説明をしたあと、『典略』に基づいて描写する。耿苞を殺したところも、范曄が「紹知衆情未同,不得已乃殺包以弭其迹」と心理描写を盛んにやっている。
出典が『典略』なのだから、前後の描写は、范曄による創作ですね。
袁氏の革命の予感については、裴注のほうが充実して、
九州春秋曰。紹延徵北海鄭玄而不禮、趙融聞之曰「賢人者、君子之望也。不禮賢、是失君子之望也。夫有爲之君、不敢失萬民之歡心、況於君子乎?失君子之望、難乎以有爲矣。」
英雄記載太祖作董卓歌、辭云「德行不虧缺、變故自難常。鄭康成行酒、伏地氣絕、郭景圖命盡于園桑。」如此之文、則玄無病而卒。餘書不見、故載錄之。袁紹が鄭玄の招聘・優遇でしくじったことを書き、鄭玄の六天説=革命の是認を、内部に取り込んだことを記す。
袁紹の最盛期の勢力
『陳志』袁紹伝と、『范書』袁紹伝は同じで、
『陳志』袁紹伝:衆數十萬、以審配逢紀統軍事、田豐荀諶許攸爲謀主、顏良文醜爲將率、簡精卒十萬、騎萬匹、將攻許。審配・逢紀が「軍事を統べ」、田豊・荀諶・許攸が「謀主」で、顔良・文醜が「卒を将ゐ」る。『陳志』は数十万とするが、裴注で孫盛が批判したことを踏まえ、『范書』は十万と修正する。
世語曰。紹步卒五萬、騎八千。孫盛評曰。案魏武謂崔琰曰「昨案貴州戶籍、可得三十萬衆」。由此推之、但冀州勝兵已如此、況兼幽、幷及青州乎?紹之大舉、必悉師而起、十萬近之矣。
戦略に関するモメごとは、裴注『献帝伝』にあり、范曄は基本的にこれを踏まえて袁紹伝をつくる。しかしアレンジの形跡があるから確認する。
紹將南師、沮授、田豐諫曰「師出歷年、百姓疲弊、倉庾無積、賦役方殷、此國之深憂也。宜先遣使獻捷天子、務農逸民。若不得通、乃表曹氏隔我王路、然後進屯黎陽、漸營河南、益作舟船、繕治器械、分遣精騎、鈔其邊鄙、令彼不得安、我取其逸。三年之中、事可坐定也。」裴注『献帝伝』で、沮授・田豊が「連年の戦いで疲弊した。農政を優先せよ。まず天子に戦勝を報告し、曹操が遮ったら黎陽にすすみ、河南をじわじわ攻め取り、三年の持久戦をせよ」という。
范曄は、発言者から田豊を削り、沮授だけに喋らせる。連年の戦いが「公孫を討つ」ものだったと、沮授のセリフを補う。あとは同じ。
裴注『献帝伝』で、審配・郭図が速攻を主張すると、沮授が、天子を迎えた曹操を討伐することに名目がないと反対する。
審配、郭圖曰「兵書之法、十圍五攻、敵則能戰。今以明公之神武、跨河朔之彊衆、以伐曹氏。譬若覆手、今不時取、後難圖也。」授曰「蓋救亂誅暴、謂之義兵。恃衆憑彊、謂之驕兵。兵義無敵、驕者先滅。曹氏迎天子安宮許都、今舉兵南向、於義則違。且廟勝之策、不在彊弱。曹氏法令既行、士卒精練、非公孫瓚坐受圍者也。今棄萬安之術、而興無名之兵、竊爲公懼之!」范曄は少し言葉を変えるが、だいたい内容は同じ。ここで、范曄が田豊を外した理由が分かる。すでに田豊は、許都の攻略を訴えた。「許都を攻める名目がない」と考える沮授とともに、論陣を張ることができない。
続けて『献帝伝』で、郭図ら(+審配)は、周武王が殷紂王を討伐したことから、沮授を論破しようとする。
圖等曰「武王伐紂、不曰不義、況兵加曹氏而云無名!且公師武臣(竭)力、將士憤怒、人思自騁、而不及時早定大業、慮之失也。夫天與弗取、反受其咎、此越之所以霸、吳之所以亡也。監軍之計、計在持牢、而非見時知機之變也。」紹從之。圖等因是譖授「監統內外、威震三軍、若其浸盛、何以制之?夫臣與主不同者昌、主與臣同者亡、此黃石之所忌也。且御衆于外、不宜知內。」紹疑焉。乃分監軍爲三都督、使授及郭圖、淳于瓊各典一軍、遂合而南。袁紹は、郭図・審配を支持して、沮授を退ける。
郭図・審配が、「沮授に、袁紹と同等の権限を持たせるのは、『三略』に照らすと危険なこと。外で軍を統御するものに、内政をさせてはいけない」と主張し、(河北派の)沮授の権限を三分割して(河南派の)郭図・淳于瓊に与える。
沮授がいじめられたというより、河北を平定して、袁紹政権の性質がつぎの段階に移行した画期と見るべきだろう。草創期は、できるひとがやる。権力が集中して、組織がアンバランスになっても、滅亡するよりマシ。しかし地盤が整うと、入念な組織の設計が必要。
『范書』は思いやりがあり、出典の『献帝伝』が「ついに南す」で終わっているのに、「未だ行くに及ばず」と修正している。そう。まだ袁紹は、出発しない。
建安五年、曹操が徐州にゆく
タイミングを見落とす袁紹として、『陳志』はお得意の時系列シャッフルで「是より先」と断って、曹操が劉備を徐州にやって袁術を防がせたところ、袁術が死に、
先是、太祖遣劉備詣徐州、拒袁術。術死。備殺刺史車冑、引軍屯沛。紹遣騎、佐之。太祖遣劉岱王忠擊之、不克。建安五年太祖自東、征備。田豐說紹、襲太祖後。紹辭以子疾、不許。豐舉杖擊地曰「夫遭難遇之機、而以嬰兒之病失其會、惜哉!」太祖至、擊破備。備奔紹。范曄は、劉備が者注を殺したところから建安五年とする。范曄が追加したのは、この情況に曹操が「懼」れたこと。陳寿は「田豊が曹操の後ろを襲え」と片づけたところを、会話に開いて、
「與公爭天下者,曹操也。操今東擊劉備,兵連未可卒解,今舉軍而襲其後,可一往而定。 兵以幾動,斯其時也。」また杖を叩きつけたとき、田豊に「嗟乎、事去矣」と余計な(小説みたいな)セリフを喋らせたこと。しかも袁紹が、これを聞いて怒り、田豊を疎んじるようになったと、ストーリー性が持たされていること。
范曄のホスピタリティだと思います。
『范書』袁紹伝は、曹操の徐州攻めと、田豊の攻撃提案のギクシャクとして、
曹操畏紹過河,乃急擊備,遂破之。備奔紹,紹於是進軍攻許。田豐以既失前幾,不宜 便行,諫紹曰:「曹操既破劉備,則許下非復空虛。且操善用兵,變化無方,眾雖少,未可輕 也。今不如久持之。將軍據山河之固,擁四州之眾,外結英雄,內修農戰,然後簡其精銳, 分為奇兵,[孫子兵法曰:「凡戰者以正合,以奇勝也。」注云:「正者當敵,奇者擊其不備。」]乘虛迭出,以擾河南,救右則擊其左,救左則擊其右,使敵疲於奔命,人不得 安業,我未勞而彼已困,不及三年,可坐剋也。今釋廟勝之策而決成敗於一戰,若不如志,悔無及也。」紹不從。豐強諫忤紹,紹以為沮眾,遂械繫之。曹操は、袁紹が渡河するのを畏れて、いそいで劉備を撃った。劉備は袁紹のもとに奔り、やっと袁紹は許県を攻める気になった。田豊は、チャンスを失っているので、持久戦を主張した。三年もせずに勝てるだろうと。袁紹は従わず。田豊が強硬に主張するので、田豊は枷をはめて獄に繋がれた。
田豊のセリフを見るに、『孫子兵法』によると、正攻法なら「合」戦といい、備えなきところを撃つのは「奇」襲である。田豊は、奇襲を訴えたが、退けられた。
沮授ははじめから持久戦を主張した。田豊は、最初は速戦の論者であり、さっさと許都を攻めよといった。曹操が徐州に向かうと、まさに好機だと、態度を硬化させてまで主張した。時期が去ると、沮授に合流した。
沮授・田豊は、どちらも河北出身である。原則として持久戦を支持するが(河北がリスクを冒す理由がない)、田豊のほうが合戦に対して血の気が多く(公孫瓚の矢から袁紹を守ったように)条件があえば急襲することも辞さない。
陳寿の本文では、官渡で負けたあとに、遡って田豊の言葉がある。范曄は「三年」とするが、陳寿は「二年」とする。「三年」といったのは沮授で、范曄はそちらに合わせたのか、筆が滑ったのか。時系列という意味で、やはり范曄が優れている。
蛇足だが、『通鑑』は『范書』袁紹伝によりながら、さらに時系列を整理した。
裴注『魏氏春秋』が載せる、陳琳の檄文は、はぶく。『范書』袁紹伝も引用する。『全訳後漢書』では、241ページ。
曰く、曹操は、もと九江太守した陳留の辺譲を殺した。もと太尉の楊彪を罰した。 議郎の趙彦に諫言されて、弾圧した。梁の孝王の墓を掘った。兗州と豫州の民を苦しめた。公孫瓚とむすび(袁紹の領土を奪うため)黄河を北渡した。発覚すると、敖倉に進軍して袁紹軍を防ごうとしている。など。
次回、官渡の戦い。袁紹政権の成り立ち。配下の人々の顔ぶれ。だいぶ整理が進んできました。151229閉じる
- 第4回 官渡の敗北と、袁紹の死
官渡の戦いが始まりました。
白馬における顔良の死
『陳志』袁紹伝はいう。
紹進軍黎陽。遣顏良攻劉延于白馬。沮授又諫紹「良、性促狹。雖驍勇、不可獨任」紹不聽。太祖救延與良戰、破斬良。例によって陳寿はまとめすぎ。袁紹が黎陽にゆき、顔良に白馬の劉延を責めさせる。しかし沮授が「顔良の性は促狹である。驍勇であるが、ひとりで用いるな」と言ったのは、范曄に省かれている。顔良の性質・勝敗は、范曄には、どうでも良かったのだろう。
范曄は、裴注『献帝伝』に目を移して、袁紹伝を書く。
沮授臨行,會其宗族,散資 財以與之。曰:「埶存則威無不加,埶亡則不保一身。哀哉!」其弟宗曰:「曹操士馬不敵, 君何懼焉?」授曰:「以曹兗州之明略,又挾天子以為資,我雖剋伯珪,眾實疲敝,而主驕將忲,軍之破敗,在此舉矣。楊雄有言:『六國蚩蚩,為嬴弱姬。』今之謂乎!」沮授が財産を分割すると、弟の沮宗が「曹操なんか怖くない」という。沮授は、楊雄の言葉をひき、「袁紹の諸将は、驕り怠けている。まるで戦国六国が愚かで(驕り怠けて)周王朝を弱めて、秦に天下を与えたようなものだ」と敗戦を予感する。これは裴注『献帝伝』を全面的に採用したもの。
范曄は戦さの結果を、陳寿に従って記し、
曹操遂救劉延,擊顏良斬之。[蜀志曰:「曹公使張遼及關羽為先鋒,羽望見良麾蓋,策馬刺良萬眾之中,斬其首還,諸將莫能當,遂解白馬圍。」]紹乃度河,壁延津南。これに続いて范曄は、裴注『献帝伝』に基づいて、沮授の結末を書き切る。沮授のセリフが1回おおい、裴注のほうを引用しておく。
紹將濟河、沮授諫曰「勝負變化、不可不詳。今宜留屯延津、分兵官渡、若其克獲、還迎不晚、設其有難、衆弗可還。」紹弗從。授臨濟歎曰「上盈其志、下務其功、悠悠黃河、吾其不反乎!」遂以疾辭。紹恨之、乃省其所部兵屬郭圖。袁紹は、渡河を厳しく諌める沮授をウザがって、沮授の部する所の兵を、郭図に与えてしまう。
文醜の死、官渡の籠城
『范書』袁紹伝は、『陳志』袁紹伝から情報量を減らすことなく、戦さの経過を描写するので、そちらをひく。
紹使劉備、文醜挑戰,曹操又擊破之,斬文醜。再戰而禽二將,紹軍中大震。操還屯官度,紹進保陽武。沮授又說紹曰:「北兵雖眾,而勁果不及南軍;南軍穀少,而資儲 不如北。南幸於急戰,北利在緩師。宜徐持久,曠以日月。」紹不從。連營稍前,漸逼官度, 遂合戰。操軍不利,復還堅壁。紹為高櫓,起土山,射營中, 〔營中〕皆蒙楯而行。 操乃發石車擊紹樓,皆破,軍中呼曰「霹靂車」。紹為地道欲襲操,操輒於內為長壍以 拒之。又遣奇兵襲紹運車,大破之,盡焚其穀食。顔良を失った袁紹は、劉備・文醜に挑戦させたが、曹操にまた撃破され、文醜が斬られた。再び戦ったが、二将が捕らわれた。袁紹軍は、おおいに震えた。
曹操が官渡に還ると、袁紹は進んで陽武に陣をしく。沮授が「兵は南が強いが、物資は北が多い。持久戦をせよ」という。また沮授の諌言が退けられるパターン。
後進の利点を最大限活用して、范曄の記述のほうが優れている。陳寿の上位互換になっている。范曄を引用して、差異があれば指摘する。
相持百餘日,河南人疲困,多畔應紹。紹遣淳于瓊等將兵萬餘人北迎粮運。沮授說紹 可遣蔣奇別為支軍於表,以絕曹操之鈔。紹不從。
許攸進曰:「曹操兵少而悉師拒我, 許下餘守埶必空弱。若分遣輕軍,星行掩襲,許拔則操(為)成禽。如其未潰,可令首尾奔 命,破之必也。」紹又不能用。會攸家犯法,審配收繫之,攸不得志,遂奔曹操,而說使襲取淳于瓊等,瓊等時宿在烏巢,去紹軍四十里。操自將步騎五千人,夜往攻破瓊等,悉斬之。「百餘日」は陳寿になく、「日 久し」のみ。「河南人」は陳寿になく「百姓」のみ。
袁紹は淳于瓊に、河北から兵糧を運ばせる。沮授は袁紹に「蒋奇に兵糧を守らせ、曹操の略奪を防げ」というが、袁紹は従わない。陳寿も同じ。
蒋奇は、審配の讒言を、このあと袁紹に吹きこむ。許攸が許都の急襲を主張するのは、范曄にあって陳寿にない。曹操が烏巣を歩騎五千で攻めるとき、曹洪を留守に残したことは、陳寿のほうが詳しい。
官渡の戦いの結末
『范書』袁紹伝の李賢注は、武帝紀にひく『曹瞞伝』をひき、
曹瞞傳曰:「公聞許攸來,跣出迎之。攸勸公襲瓊等,公大喜,乃選精銳步騎,皆執袁軍旗幟,銜枚縛馬口,夜從閒道出,人把束薪。所歷道問者,語之曰:『袁公恐曹操鈔掠後軍,還兵以益備。』問者信以為然。既至,圍屯,大放火,營中驚亂,大破之,盡燔其粮穀寶貨,斬督將(睢)〔眭〕元進等,割得將軍淳于仲簡鼻,殺士卒千餘人,皆取鼻,牛馬割唇舌,以示紹軍。將士皆惶懼。」戦いのなかで、曹操が働いた「ミットモナイこと」「あくどいこと」を暴露する。
曹操がはだしで許攸を歓迎した。睢元進を斬って、淳于仲簡(淳于瓊)の鼻を削いだ。士卒の千余人を殺し、みな鼻を切り取り、牛馬は唇舌を割り、袁紹軍に示した。将士は、びびらされた。
徐州の虐殺とならぶ、評判を落とす行為だと。
烏巣の守備について、范曄は補足する。初,紹聞操擊瓊,謂長子譚曰:「就操破瓊,吾拔其營,彼固無所歸矣。」乃使高覽、張郃 等攻操營,不下。二將聞瓊等敗,遂奔操。
曹操が淳于瓊を撃ったと聞くと、袁譚は「曹操に烏巣を抜かれたらまずい」といい、高覧・張郃に官渡城を攻めさせるが、落ちない。高覧・張郃は降った。
『范書』袁紹伝の李賢注で、『陳志』張郃伝をひく。
魏志曰:「張郃字儁文,河閒鄚人也。郃說紹曰:『曹公精兵往,必破瓊等,則事去矣。』郭圖曰:『郃計非也,不如攻其本營。』郃曰:『曹公營固,攻之必不拔。若瓊等見禽,吾屬盡為虜矣。』紹但遣輕騎救瓊,而以重兵攻太祖營,不能下。太祖果破瓊等。紹軍潰,圖慙,又更譖郃快軍敗,郃懼,歸太祖。」郭図の讒言により、張郃は曹操に降ったと。
李賢注も含めて見れば、『范書』袁紹伝だけで、だいたい官渡の戦いの経過が分かるようになっている。作られた時代が、後である強みである。張郃は、河北の名家である。郭図が、単純に戦術眼がなかったとは限らず、名声と軍権のある張郃に、牽制を加えたという見方もできるだろう。
於是紹軍驚擾,大潰。紹與譚等幅巾乘馬,與八百騎度河,至黎陽北岸,入其將軍蔣義渠營。至帳下,把其手曰:「孤以首領相付矣。」 義渠避帳而處之。使宣令焉。眾聞紹在,稍復集。餘眾偽降,曹操盡阬之,前後所殺八萬人。『范書』袁紹伝にある、袁紹の逃亡シーンは『陳志』にない。せいぜい「紹與譚、單騎退渡河」とあるだけ。蒋義渠の陣営に飛びこみ、「命を預ける」と、蒋義渠を頼る。
蒋義渠は、蒋奇の一族か?本人か?曹操が八万人を殺したとは、裴注の張璠『漢紀』から。
沮授の結末について、陳寿が、
沮授、不及紹渡、爲人所執。詣太祖。太祖厚待之。後、謀還袁氏、見殺。とするが、簡潔すぎる。范曄は、裴注『献帝伝』のまま引用して、列伝の地の文に接続する。
沮授為操軍所執,乃大呼曰:「授不降也,為所執耳。」操見授謂曰:「分野殊異,遂用圮 絕,不圖今日乃相得也。」授對曰:「冀州失策,自取奔北。授知力俱困,宜其見禽。」操 曰:「本初無謀,不相用計。今喪亂過紀,國家未定,方當與君圖之。」授曰:「叔父、母、 弟懸命袁氏,若蒙公靈,速死為福。」操歎曰:「孤早相得,天下不足慮也。」遂赦而厚遇焉。授尋謀歸袁氏,乃誅之。沮授が捕らわれた場面、沮授が逃亡を図って殺された場面は、陳寿に依る。そのあいだの曹操・沮授のセリフの応酬が、『献帝伝』から引かれている。
ここでいきなり、田豊伝
袁紹の敗因、臣下の意見を使いこなせなかったことを、陳寿は、田豊の最期を記すことで、描き出そうとする。淡々とした時系列の描写ではなく、ややテーマ・関心に沿った書き方である。
南下を諌める田豊は、范曄にならって上で消化した。陳寿はここに記述を置くが、再掲載はしない。
田豊の死にざまは、『先賢行状』が原典で、それを陳寿が抜粋してコメントを付し、さらに范曄がアレンジしたように見える。
『范書』袁紹伝によると、
及軍還,或謂田豐曰:「君必見重。」豐曰:「公貌寬而內忌,不亮吾忠,而吾數以至言迕之。若勝而喜, 必能赦我,戰敗而怨,內忌將發。若軍出有利,當蒙全耳,今既敗矣,吾不望生。」紹還,曰: 「吾不用田豐言,果為所笑。」遂殺之。田豊は、袁紹の欠点を見抜いて、自分の死を悟る。
陳寿が列伝の最後に、評に曰く、
外寬內忌、好謀無決。有才而不能用、聞善而不能納。とあるから、これを、范曄が本文(列伝の地の文)に取り込んだものか。すなわち、『先賢行状』→陳寿→范曄のN次創作。
陳寿は『先賢行状』から史実をひいてから、「紹、外寬雅有局度、憂喜不形于色、而內多忌害、皆此類也」とコメントを加える。これが『范書』本文に吸収され、同じ文言を引いてから、続けて「而性矜愎自高,短於從善,故至於敗。」と范曄のコメントが接続される。
かわいそうに、袁紹。歴代の史家による、悪口大会である。
陳寿が削ってしまった『先賢行状』は、裴注で見られる。李賢注より裴注のほうが情報量が多いので、裴注を載せる。
先賢行狀曰。豐字元皓、鉅鹿人、或云勃海人。豐天姿瓌傑、權略多奇、少喪親、居喪盡哀、日月雖過、笑不至矧。博覽多識、名重州黨。初辟太尉府、舉茂才、遷待御史。閹宦擅朝、英賢被害、豐乃棄官歸家。
袁紹起義、卑辭厚幣以招致豐、豐以王室多難、志存匡救、乃應紹命、以爲別駕。勸紹迎天子、紹不納。紹後用豐謀、以平公孫瓚。
逢紀憚豐亮直、數讒之於紹、紹遂忌豐。紹軍之敗也、土崩奔北、師徒略盡、軍皆拊膺而泣曰「向令田豐在此、不至於是也。」紹謂逢紀曰「冀州人聞吾軍敗、皆當念吾、惟田別駕前諫止吾、與衆不同、吾亦慚見之。」紀復曰「豐聞將軍之退、拊手大笑、喜其言之中也。」紹於是有害豐之意。初、太祖聞豐不從戎、喜曰「紹必敗矣。」及紹奔遁、復曰「向使紹用田別駕計、尚未可知也。」田豊は、袁紹の招きに応じて、別駕となる。天子の奉迎を勧めるが、用いられない。田豊の謀略により、公孫瓚を平定した。
逢紀は田豊をはばかり、袁紹に讒言した。袁紹が敗れて「田豊の言うとおりにすれば」と悔いると、逢紀は「田豊は手を打って笑ってます」といった。はじめ曹操は、田豊が従軍しないと聞いて、袁紹の敗北を予感した。袁紹が逃げるとき「もし田豊を用いていれば、どうなったか分からん(勝てた)」と言った。
逢紀は奔走の友で、袁紹の君主権力の延長である。沮授は戦略を考えるひと、田豊は戦術を考えて現場で戦うひと、郭図は政権のあるべき組織構造を考えるひと。棲み分けがある。やはり人材が揃っている。
裴注は、孫盛の論評を載せるが、これは『范書』と重複しない。
孫盛曰。觀田豐、沮授之謀、雖良、平何以過之?故君貴審才、臣尚量主。君用忠良、則伯王之業隆、臣奉闇后、則覆亡之禍至。存亡榮辱、常必由茲。豐知紹將敗、敗則己必死、甘冒虎口以盡忠規、烈士之於所事、慮不存己。夫諸侯之臣、義有去就、況豐與紹非純臣乎!詩云「逝將去汝、適彼樂土」、言去亂邦、就有道可也。
南陽の逢紀が、魏郡の審配を助ける
よく整理された『范書』を軸に、袁紹の最期まで目を通す。列伝六十四(袁紹伝)上は、ここで終わる。下巻は、袁譚・袁尚の時代と、劉表伝のセット。劉表は、袁氏の後継者に手紙を送ったり、繋がりが深い。
官度之敗,審配二子為曹操所禽。孟岱與配有隙,因蔣奇言於紹曰:「配在位專政,族大兵強,且二子在南,必懷反畔。」郭圖、辛評亦為然。
紹遂以岱為監軍,代配守鄴。護軍 逢紀與配不睦,紹以問之,紀對曰:「配天性烈直,每所言行,慕古人之節,不以二子在南 為不義也,公勿疑之。」紹曰:「君不惡之邪?」紀曰:「先所爭者私情,今所陳者國事。」紹 曰「善」。乃不廢配,配、〔紀〕由是更協。官渡で敗れると、審配の二子は、曹操にとらわれた。孟岱と審配は、仲が悪い。
孟岱って誰だよと思ったが、他にヒットしない。孟岱は、蒋奇から袁紹に、「審配は、位にあって(鄴を守る監軍の任務にあり)政を専らにし、一族は大きく、兵が強い。もし二子が河南にいれば、必ず叛く(曹操を河北に引き入れる)でしょう」と吹きこませた。郭図・辛評も同意した。
先取りすると、審配・逢紀は、袁尚を支持する。辛評・郭図は、袁譚を支持する。
審配は魏郡のひとで、韓馥のもとで志を得られず、袁紹によって治中〔従事〕にしてもらった。腹心の任を委ねられた。『献帝伝』で審配は、郭図とともに「周武王が殷紂王を攻めたのだから、曹操を攻めてもいい」という。
きっと袁紹軍は、河北出身で、袁紹政権でトップになったものが、順番に退けられてゆく。沮授・田豊・審配は、袁紹が冀州に入ったら、召し抱えられた。沮授は軍権を三分割された。田豊が「袁紹を笑った」と讒言された。つぎは後方で鄴城を守る審配のターンである。なぜ審配に矛先が向くかといえば、沮授・田豊がいなくなったから。
はじめは、豪族・大姓の力を借りて、州を支配する。やがて豪族・大姓に掣肘をくわえて、君主権力を確立する。袁紹そのひとの素質の問題ではなく、構造的な問題である。驚かされるのは、主義主張は、二の次であること。献帝を迎えるか、曹操を攻めるか、後嗣を誰にするか。いずれも離合集散して、一貫した主張をするひとがいない。袁紹は、孟岱を監軍として、審配の代わりに鄴県を守らせる。
孟岱は、ほかにヒットしない。袁紹が河南から連れてきた、使い勝手のいい人脈なのだろう。少なくとも冀州の豪族層ではない(豪族を用いたら、またジャマになる)護軍の逢紀は、審配と仲が悪い。だが逢紀は、「わたしは審配がキライだが、私情です。審配が裏切るわけがない。国事だから私情は排する」と答えた。
ここから、袁尚を支持するペアが誕生する。
つまり、河南からきた士大夫である辛評・郭図は、ドライに君主権力を構築する。国の秩序をつくるために、在地の有力者である、(沮授・田豊に次ぐ)審配の権力を削ろうとする。長子相続を推進する。
君主権力から見たらジャマなのは、在地の有力者である。沮授・田豊・審配である。沮授・田豊のパターンで、審配も讒言を受けたのだが、ぎりぎり逢紀が守った。逢紀も「官渡で負けた。これ以上、河北の士大夫を迫害しては、袁紹政権が危ない」と思ったのだろう。だから、これまでの逢紀なら、悪口に便乗して審配を追い落とすところを、すこし「公」心を発揮した。
しかし審配が、次代の君主権力(袁譚・郭図・辛評)にとってジャマなことは、揺らがない。たまたま袁紹との個人的な紐帯しか、頼るものがない逢紀は、審配と結合したのだろう。おそらく逢紀は、河南の出身であるが、南陽だし、潁川の郭図・辛評に比べると名家の出身ではない。だから、袁譚・郭図・辛評から、距離があったか。
審配のことは、裴注『英雄記』に見え、これが『范書』の出典。裴注のほうが、
紀字元圖。初、紹去董卓出奔、與許攸及紀俱詣冀州、紹以紀聰達有計策、甚親信之、與共舉事。この分だけおおい。
袁紹の死
冀州城邑多畔,紹復擊定之。自軍敗後發病,七年夏,薨。未及定嗣,冀州の城邑がそむき、再び平定するのは、『陳志』も同じ。死因・死期とも同じ。後継者を決めていないのも、陳寿・范曄が同じ。
『范書』李賢注で、魏志曰:「紹自軍破後,發病歐血死。」
獻帝春秋曰:「紹為人政寬,百姓德之。河北士女莫不傷怨,市巷揮淚,如或喪親。」
典論曰……怒濤のように注釈が入るが、3つめの『典論』は裴注が詳しいので、そちらから。というか、袁譚が「恵」で袁尚が「美」だとは、范曄が列伝本文で消化済みだった。
典論曰。譚長而惠、尚少而美。紹妻劉氏愛尚、數稱其才、紹亦奇其貌、欲以爲後、未顯而紹死。劉氏性酷妒、紹死、僵尸未殯、寵妾五人、劉盡殺之。以爲死者有知、當復見紹於地下、乃髠頭墨面以毀其形。尚又爲盡殺死者之家。
後継者争いで、臣下が分裂する様子を、並列させると、
『陳志』:審配逢紀與辛評郭圖、爭權。配紀、與尚比。評圖、與譚比。衆、以譚長欲立之。配等、恐譚立而評等爲己害。緣紹素意、乃奉尚代紹位。
『范書』:逢紀、審配宿以驕侈為譚所病,辛評、郭圖皆比於譚而與配、紀有隙。眾以譚長,欲立之。配等恐譚立而 評等為害,遂矯紹遺命,奉尚為嗣。『陳志』によると、審配・逢紀ペアと、辛評・郭図ペアは、権力を争っていた。審配・逢紀は、袁尚を支持する。辛評・郭図は、袁譚を支持する。
審配・郭図は、かつて一緒に、袁紹に河南への進出を説いた。このとき意見は同じだったが、後継者問題では対立した。沮授・田豊がいなくなって、残ったひとが分裂したのである。衆論は、長子ゆえに袁譚を立てたい。(少数派となった)審配・逢紀は、袁譚が立てば、辛評・郭図に殺されると恐れた。そこで袁紹の本意に基づいて、袁尚に位を嗣がせた。
『范書』は情報が多くて、審配・逢紀は、「驕侈」だから袁譚に疎まれていた。審配は、河北の大豪族で、経済力があった。君主権力にとって脅威になる。だから、こんな書きぶりになるのだろう。だから袁紹の遺命を矯めて袁尚を立てた。
これが本当なら、長子であり、素質に問題がなさそうな袁譚は、衆論からの支持もあった。袁紹の寵愛は「私的」なものである。しかし、審配・逢紀が、保身のために、後嗣の問題を掻き乱したと。
袁譚の青州支配は、簡単ではなかったが、青州は荒れ地である。袁紹は、一州ずつ任せて「能」を見たいといったが、具体的には、もっとも統治の難しい青州を任せ、嫡子の袁譚に試練を与えるというのが、目的だったように見えてくる。袁譚は、官渡で「淳于瓊のいる烏巣を守れ」と、適切な発言をしている。
郭図は「出ると負ける」と評判が悪いが、潁川の名士として、少なくとも袁譚から睨まれるような横暴はしてないし、長子を支持するという常識的な判断をしている。
次回、後継者争いが起き、曹操を巻きこみます。151229
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- 第5回 袁譚と袁尚の時代
袁譚が鄴城に入れない
『范書』袁紹伝の下は、ここから始まる。
譚自稱車騎將軍,出軍黎陽。尚少與其兵,而使逢紀隨之。譚求益兵,審配等又議不與。譚怒,殺逢紀。陳寿のほうが情報が多いのは、袁譚が(鄴城)至ると「立つことができず」車騎将軍を号したこと。「これにより、袁譚・袁尚に隙あり」と関係が悪化したこと。なくても分かる。范曄が陳寿の贅肉を削いだ。
鄴城に入れない袁譚は(曹操に備えて)黎陽に出て守った。袁尚は、兵を少ししか与えず、逢紀を(監視のため)袁譚につけた。袁譚が増兵を要求すると、審配ら(審配と逢紀か)は話し合って、増兵せず。袁譚は怒り、逢紀を殺した。
審配・逢紀は、私怨を忘れて「国事」によって結合し、袁尚を擁立した。このときの鄴城は、このふたりが牛耳る。袁譚は、審配・逢紀が結合していることを見抜いているから、逢紀を殺した。
袁譚の兵を増やせば、その兵を使って鄴城を攻める危険がある。
この兄弟げんかに曹操が介入する。『范書』から、
曹操度河攻譚,譚告急於尚,尚乃留審配守鄴,自將助譚,與操相拒於黎陽。自九月至 明年二月,大戰城下,譚、尚敗退。操將圍之,乃夜遁還鄴。操進軍,尚逆擊破操,操軍還 許,陳寿のほうが多いのは「尚欲分兵益譚、恐譚遂奪其衆」で、袁尚は、袁譚を曹操と対抗させるため、兵を増やしたいが、袁譚に兵を奪われるのを恐れたと。陳寿の描いた袁尚の内面を、范曄が削っている。
袁紹の生前は、陳寿が削りすぎて事実を淡々と要約し、范曄が内面やストーリー性を補っていた。ここは逆である。審配を鄴城に留め、袁尚はみずから兵を率いて曹操を黎陽の城下で防ぐ。九月から翌二月まで戦う。
李賢注に、郭緣生述征記曰:「黎陽城西袁譚城,城南又有一城,是曹公攻譚之所築。」とある。黎陽の西に袁譚の城、黎陽の南に曹操の城。
『陳志』武帝紀では、曹操が袁譚・袁尚を「三月」に破るとする。袁譚・袁尚は敗れた。陳寿は「城に入りて守る」とあり、分かりやすい。曹操が囲むと、袁氏は夜に逃げ、鄴城にゆく。陳寿は「追至鄴、收其麥、抜陰安、引軍還許」とする。范曄は、「袁尚が逆え撃ちて曹操を破る」とある。陳寿が、曹操が麦を刈り、陰安を抜いたと、曹操の戦果を記すけれど、范曄は曹操の敗北と明記する。
曹操の次の動き「太祖南征荊州、軍至西平」は、陳寿だけにある。あたかも曹操が、意志をもって「転進」したかのような描写。
袁譚と袁尚が戦い始める
陳寿が載せない、袁氏兄弟の会話。陳寿が「譚尚遂舉兵相攻、譚敗奔平原」と、省略したところの中身。
譚謂尚曰:「我鎧甲不精,故前為曹操所敗。今操軍退,人懷歸志,及其未濟,出兵掩 之,可令大潰,此策不可失也。」尚疑而不許,既不益兵,又不易甲。譚大怒,郭圖、辛評因 此謂譚曰:「使先公出將軍為兄後者,皆是審配之所構也。」譚然之。遂引兵攻尚,戰於外門。譚敗,乃引兵還南皮。袁譚は袁尚にいう。「鎧甲が精ならず(審配・逢紀が充分な装備を持たせてくれないから)、曹操に負けた。曹操軍は帰心を抱き(外征から帰るため心が逸っており)黄河を渡る前に撃てば壊滅させられる」と。袁尚は(袁譚に兵を奪われることを)疑い、袁譚に兵員・装備を与えなかった。袁譚は大怒した。
郭図・辛評は、袁譚にいう。「袁紹は、袁譚を将軍として外に出したので、袁譚は後嗣になれませんでした。これは審配が仕組んだことです」と。
『全訳後漢書』を見てもよく分からなかった。袁譚はそうだと考え、袁尚を攻め、鄴城の外門で戦った。袁譚は敗れ、南皮に還った。
陳寿が「尚攻之急、譚遣辛毗詣太祖請救」と、省略したところの中身。
別駕王脩率吏人自青州往救譚,譚還欲更攻尚,問脩曰:「計將安出?」脩曰:「兄弟者, 左右手也。譬人將鬬而斷其右手,曰『我必勝若』,如是者可乎?夫弃兄弟而不親,天下其 誰親之?屬有讒人交鬬其閒,以求一朝之利,願塞耳勿聽也。若斬佞臣數人,復相親睦,以 御四方,可橫行於天下。」譚不從。尚復自將攻譚,譚戰大敗,嬰城固守。尚圍之急,譚 奔平原,而遣潁川辛毗詣曹操請救。別駕の王脩が(もと袁譚が刺史を務めた)青州から、吏人をひきいて救いにきた。袁譚は、袁尚を攻めるための計略を聞いた。王脩は、兄弟で争うことに反対した。
袁譚は従わない。袁尚はみずから袁譚を責めた。袁譚は大敗して、南皮城を固守した。袁尚の包囲戦が厳しいので、袁譚は平原に奔った。潁川の辛毗を、曹操のところに遣って救いを請うた。
李賢注が『陳志』辛毗伝をひき、
魏志曰:「辛毗,潁川陽翟人也。譚使毗詣太祖求和,毗見太祖致譚意。太祖悅,謂毗曰:『譚可信,尚必可克不?』毗對曰:『明公無問信與詐也,直(言)當論其埶耳。袁氏本兄弟相伐,非謂他人能閒其閒,乃謂天下可定於己也。一旦求救於明公,此可知也。』」袁譚は辛毗を曹操のところに行かせ、袁譚・曹操の和睦を交渉させた。曹操は悦び、「袁譚は信じられるか。袁譚は必ず勝てるのか(袁譚に勝ち目はあるのか)」と聞いた。辛毗は、「信じるか詐るかという問題ではなく(疑い出せばキリがなくて無益なので)情勢に目を向けなさい。袁氏は兄弟で戦っているが、他人が関係性を操作することはできません(兄弟の心がどう転ぶか予想しても仕方がない)。袁譚は、自分で天下を定めるつもりです。(なりふり構わず、袁紹の敵であった)曹操に和睦を求めたことからも(袁譚の志が)分かるでしょう」と。
辛毗は、何を言ったか。信じるか騙すかという、べたべたした馴れあいの同盟ではない。まして、袁譚が曹操に屈服したのではない。袁譚は、彼自身の天下のために、曹操を利用するに過ぎない。しかし曹操だって、天下を目指すものでしょう。袁譚が和睦を求めてきたという、この情況を曹操自身のために利用したら、そうなんですか。割り切ったお付き合いだが、その状況を是認して利用するだけの判断能力を、曹操さんは持っているでしょう。
劉表が袁氏兄弟を諌める
『范書』袁紹伝は、まず劉表が袁譚を諌めて、袁尚と戦って曹操と結ぶことの不可を説く。つぎに本文を載せず、劉表が袁尚にも文書を送ったとする。
『陳志』袁紹伝の裴注は、『魏氏春秋』より、劉表が袁譚に送った文書(『范書』に近いか)と、袁尚に送った文書(范曄が省略したが、李賢が採録した)を載せる。李賢によると、劉表の二通の書簡は、『王粲集』に見えるそうです。
『全訳後漢書』を見れば充分すぎるので、ここに引かない。
曹操が袁譚を救いにくる
『陳志』に、
太祖乃還救譚、十月至黎陽。尚聞太祖北、釋平原還鄴。其將呂曠呂翔、叛尚歸太祖。譚復陰刻將軍印、假曠翔。太祖知譚詐、與結婚以安之、乃引軍還。とある。范曄は「北す」を「渡河す」とするが同じ意味。袁尚は平原の包囲を解き、鄴城に還った。呂曠と呂翔(范曄は「高翔」につくり、潘眉はこれを是とする)は、袁尚にそむいて曹氏に帰す。
『陳志』にある、呂曠・呂翔のゴロの良さに馴染があるが、もし高翔ならば、高幹の一族と思われ、影響が大きくなる。袁譚は、将軍の印をきざみ、呂曠・高翔にあたえた。曹操は、袁譚の詐(独立する意志がある)を知り、子の曹整と袁譚の娘を結婚させた。還った。
曹整の名は、范曄が『陳志』に追加してくれた。 李賢注:魏志曰,整建安二十二年封郿侯,二十三年薨,無子。黃初二年,追進爵,謚曰戴公。
『范書』は、ここで建安九年と、年を区切って、
九年三月,尚使審配守鄴,復攻譚於平原。配獻書於譚曰建安九年、袁尚は審配に鄴城を守らせ、みずから袁譚を平原に攻める。審配は(攻撃対象である)袁譚に書簡を献じた。
この内容と、『陳志』裴注の『漢晋春秋』がほぼ同じ。
審配曰く、「袁紹は、袁紹の亡兄の後嗣として袁譚を家から出し、袁尚を袁紹の後嗣にした。しかし凶臣の郭図が、袁譚を後嗣にすると言って、袁氏を混乱させました。郭図のせいで、館陶での兄弟の戦いが起きたのです。裴注『漢晋春秋』は「逢紀のせい」とするが、誤りだろう。逢紀は、審配と結んで、袁尚を立てた側だから。
李賢注:獻帝春秋曰:「譚尚遂尋干戈,以相征討。譚軍不利,保于平原,尚乃軍于館陶。譚擊之敗,尚走保險。譚追攻之,尚設奇伏大破譚軍,僵屍流血不可勝計。譚走還平原。」
『献帝春秋』によると、袁譚と袁尚が戦い、袁譚が敗れて平原で守る。袁尚は館陶に進軍した。袁譚はこれを破ったので、袁尚はにげて険地で守った。袁譚はこれを追撃した。袁尚は奇伏を設けて、おおいに袁譚を破った。死体が膨大に転がり、袁譚は平原に還った。
袁紹の事業を損なわぬよう、至孝であった本来の袁譚に戻って、停戦して下さい(鄴城を諦め、袁尚に楯突くのを辞めなさい)」
審配は、袁紹の遺志ゆえに、正義がこちらにあると主張する。袁尚を立てた盟友の逢紀は、すでに袁譚に殺されており、袁尚派は審配ひとりである。郭図・辛評は、このとき袁譚軍にいたのだろうか。
裴注『典略』によると、
典略曰。譚得書悵然、登城而泣。既劫于郭圖、亦以兵鋒累交、遂戰不解。審配の書簡を受けとった袁譚は、しょんぼりとして城壁に登って泣いた。しかし、郭図に(袁尚と戦えと)脅されていたので、袁尚と戦うしかなかった。
河北政権を、魏郡の審配が主催するか(沮授・田豊の系統)、袁紹が河南から連れてきた郭図(辛評・辛毗も)が主催するかという戦い。袁譚は、郭図の旗印として利用されたという感じか。
「袁紹の後継者を兄弟が争った」とは、見せかけであり、現代のぼくらが郭図に騙される必要はない。後継者争いに見せかけた、主導権争いである。
悲惨さは袁尚のほうも変わらない。「審配が留守、袁尚が外征」とは、君臣が逆に見える。袁尚が正真正銘の君主なら、審配が外征にゆけよ。そうでなく、審配もまた、郭図との権力争いを「後継者争い」に偽装しているが、実態としては、魏郡の士大夫による、在地・自前の政権があるだけ。袁氏なんて飾りです。
鄴城の陥落
『陳志』のほうが記述が多いから、そちらを引く。
尚使審配蘇由守鄴、復攻譚平原。太祖進軍將攻鄴、到洹水、去鄴五十里。由、欲爲內應、謀泄。與配戰城中、敗、出奔太祖。袁尚は審配・蘇由に鄴城を守らせ、平原にゆき袁譚を攻める。
蘇由は、『范書』に出て来ない。『陳志』では、ほかに武帝紀に出てくる。
九年春正月,濟河,遏淇水入白溝以通糧道。二月,尚復攻譚,留蘇由、審配守鄴。曹操は鄴城を攻めるため、洹水に至る。鄴城まで五十里。蘇由は、曹操に内応しようとしたが、審配にバレたので、城中で審配と戦い、敗れて曹操に走った。
『范書』では、審配の将の馮礼が内応する。
太祖遂進攻之、爲地道。配亦於內作塹以當之。配將馮禮、開突門、內太祖兵三百餘人。配覺之、從城上以大石擊突中柵門。柵門閉、入者皆沒。馮礼は突門をひらいて、曹操軍の三百余人を入れたが、審配に悟られた。審配は、城門の上から大石を落として門を閉ざし、曹操軍は全滅した。蘇由・馮礼とも、別の仕方で曹操に内応しようとした。
引き続き、『陳志』を軸にして、
太祖遂圍之、爲塹周四十里。初令淺示若可越、配望而笑之、不出爭利。太祖一夜掘之、廣深二丈。決漳水以灌之。自五月至八月、城中餓死者過半。曹操は、越えやすそうな浅い堀をつくるが、審配は笑って警戒しない。曹操は一夜で堀を深くして、漳水を引き入れた。五月から八月まで包囲して、城内の過半が餓死した。『范書』も同じ。
尚聞鄴急、將兵萬餘人還救之。依西山來、東至陽平亭、去鄴十七里臨滏水。舉火以示城中、城中亦舉火相應。配、出兵城北、欲與尚對決圍。太祖逆擊之。敗還、尚亦破走、依曲漳爲營。
太祖遂圍之。未合、尚懼遣陰夔陳琳、乞降。不聽。尚還走濫口。進復圍之急。其將馬延等、臨陳降衆。大潰、尚奔中山。盡收其輜重、得尚印綬節鉞及衣物、以示其家、城中崩沮。袁尚は、平原に袁譚を攻めている場合ではないから、鄴城に戻ってきた。『范書』が「尚走依曲漳為営」と概括する。しかし陳寿は、袁尚の経路や、火を使って城の内外で審配と呼応したことなど、戦況に詳しい。
陰夔・陳琳が降伏の交渉をするのは、『陳志』『范書』とも同じ。袁尚の将の馬延らが降るのも同じ。陳寿で充分にカバーする。
袁尚の(もとは袁紹の)印綬・節鉞・衣物を得て、それを鄴城に示したら、城内は混乱した。
審氏と鄴城の最後は、『范書』のほうが詳しい。
審配令士卒曰: 「堅守死戰,操軍疲矣。幽州方至,何憂無主!」操出行圍,配伏弩射之,幾中。以其兄子榮為東門校尉,榮夜開門內操兵,配拒戰城中,生獲配。操謂配曰:「吾近行圍,弩何多 也?」配曰:「猶恨其少。」操曰:「卿忠於袁氏,亦自不得不爾。」意欲活之。配意氣壯烈,終無撓辭,見者莫不歎息,遂斬之。全尚母妻子,還其財寶。高幹以并州降,復為刺史。陳寿では、審配の兄子の審栄が「東門を守る」とあるが、『范書』では東門校尉と官職まで書いてある。范曄は、裴注『先賢行状』を、陳寿に接続しているようだ。
袁尚の母・妻子は助けられ、財宝を返還された。高幹は并州ごと降り、同じ并州刺史に留められた(そして後で叛く)
審配伝
鄴城の陥落は、審配の最大の見せ場。『陳志』袁紹伝の裴注、『先賢行状』より、
配字正南、魏郡人、少忠烈慷慨、有不可犯之節。袁紹領冀州、委以腹心之任、以爲治中別駕、幷總幕府。
初、譚之去、皆呼辛毗、郭圖家得出、而辛評家獨被收。及配兄子開城門內兵、時配在城東南角樓上、望見太祖兵入、忿辛、郭壞敗冀州、乃遣人馳詣鄴獄、指殺仲治家。是時、辛毗在軍、聞門開、馳走詣獄、欲解其兄家、兄家已死。
魏郡のひと審配は、袁紹の腹心の任を委ねられ、治中別駕となる。幕府(袁紹の将軍府)を統べた。
(袁紹が死に)袁譚が去ったとき、辛毗・郭図の家族は(審配・袁尚が制圧した)鄴城を脱出できたが、辛評の家族だけ(審配に)捕らえられた。審配は、曹操軍が(鄴城に)入るのを東南角の楼上で見ており、辛評・郭図が冀州を滅ぼしたことに怒り、辛評の家族の殺害を命じた。辛評がどこにいったか、史料がない。ときに辛毗は曹操軍におり、城門が開くと、辛評の家族を助けようとしたが、すでに殺された後だった。
是日生縛配、將詣帳下、辛毗等逆以馬鞭擊其頭、罵之曰「奴、汝今日真死矣!」配顧曰「狗輩、正由汝曹破我冀州、恨不得殺汝也!且汝今日能殺生我邪?」有頃、公引見、謂配「知誰開卿城門?」配曰「不知也。」曰「自卿(文)[子]榮耳。」配曰「小兒不足用乃至此!」公復謂曰「曩日孤之行圍、何弩之多也?」配曰「恨其少耳!」公曰「卿忠于袁氏父子、亦自不得不爾也。」有意欲活之。配既無撓辭、而辛毗等號哭不已、乃殺之。審配が生きたまま縛られ、帳下にきた。辛毗が馬鞭で審配の頭を叩いた。審配は「お前ら(郭図・辛評・辛毗)のせいで冀州が敗れた。私が辛毗を殺せないのが残念だが、辛毗だって私の生死を自由にできない(決めるのは曹操だ)」と。曹操から、兄子の審栄が城門を開いたと聞かされた。「もっと弩があれば(曹操軍を退けてやったのに)」と憎まれ口を叩いた。曹操は審配を活かしたいが、審配が屈服しないし、辛毗が(兄の家族の仇として審配を)やかましいので、審配を殺した。
初、冀州人張子謙先降、素與配不善、笑謂配曰「正南、卿竟何如我?」配厲聲曰「汝爲降虜、審配爲忠臣、雖死、豈若汝生邪!」臨行刑、叱持兵者令北向、曰「我君在北。」はじめ冀州のひと張子兼は、先に降った。
河間張氏(張郃の同族)だったら面白いのに。ふだんから審配と不仲だったので(曹操に捕らわれた審配に向けて)「結局は捕まった(間抜けな)お前と、先に降った(賢明な)私を比べると、どんなものかな」とからかった。審配は「お前は降虜で、私は忠臣だ。私が忠臣として死んでも、お前が降虜として生きているより優れている」といった。北を向いて死んだ。
◆裴松之のコメント
樂資山陽公載記及袁暐獻帝春秋並云太祖兵入城、審配戰于門中、既敗、逃于井中、於井獲之。
臣松之以爲配一代之烈士、袁氏之死臣、豈當數窮之日、方逃身于井、此之難信、誠爲易了。不知資、暐之徒竟爲何人、未能識別然否、而輕弄翰墨、妄生異端、以行其書。如此之類、正足以誣罔視聽、疑誤後生矣。寔史籍之罪人、達學之所不取者也。『山陽公載記』も『献帝春秋』も、曹操軍が鄴城にきたとき、審配は門中で戦い、敗れて井戸に逃げて捕らわれたという。裴松之が考えるに、烈士・死臣の審配が、そんなことするはずがないもんね。
袁譚・郭図の死
また『陳志』袁紹伝を軸にして、
太祖之圍鄴也、譚略取甘陵・安平・勃海・河間、攻尚於中山。尚走故安、從熙。譚悉收其衆。太祖將討之、譚乃拔平原幷南皮、自屯龍湊。范曄は袁譚の動きとして、「譚復背之」と説明するから親切。曹操に味方したかと思いきや、曹操が鄴城を囲むと、袁譚は領土を拡大し始めた。袁尚は曹操に敗れ、中山にいたのだが、そこを袁譚が攻撃した。
史料から姿を消した、郭図・辛評は、きっとまだ袁譚のもとで、助言をしているのだろう。袁譚に入れ知恵して、「袁尚派を徹底的に叩いて、もと袁紹の勢力をふたたび結集し、曹操に対抗しましょう。むしろ曹操の刀を借りて、袁尚を斬り、曹操・袁尚が疲弊したところを、ふたたび袁譚が攻める」とか、そんなことを考えていそう。袁尚は敗れ、故安ににげ、袁熙に従った。袁譚は、袁尚の全軍を得て、龍湊に屯した。
十二月太祖軍其門、譚不出、夜遁奔南皮、臨清河而屯。
十年正月攻拔之、斬譚及圖等。建安十年正月、曹操は清河水に臨んで駐屯する袁譚を攻めた。袁譚・郭図らを斬った。このときの最期は、『范書』のほうが詳しくて、
譚欲出戰,軍未合而破。譚被髮驅馳,追者意非恆人,趨奔之。譚墯馬,顧曰:「咄,兒過我,我能富貴汝。」言未絕口,頭已斷地。於是斬郭圖等,戮其妻子。袁譚は、出て戦おうとしたが、陣が整う前に破られた。袁譚は、髪を振り乱して駆けた。追う者は、つねの人ではない(高貴な人物である)と思い、追った。袁譚は落馬して、顧みて「私を見逃してくれたら富貴にしてやる」といった。言い終わる前に、首が切り落とされた。郭図らを斬り、その妻子を殺した。
袁譚に最後まで従っていたのは郭図。袁譚の軍事行動は、郭図が立案したものと考えていいでしょう。辛評、どこいった。
辛評・辛毗の兄弟と、荀諶・荀彧の兄弟は似ている。どちらも頴川郡の出身。時期が違うが、袁紹から曹操に転職して、ながく活躍した。そして、辛評・荀諶とも、史料でいつの間にかフェードアウトするのも同じ。荀彧・辛毗を、はばかって削除されたか。もしくは、荀彧・辛毗が、削除させたか。逆に、史料に記述が少ないからって、辛評・荀諶が「無能で活躍しなかった」とはならない。これは嬉しい材料。
幽州・烏桓に逃亡する
熙尚、爲其將焦觸張南所攻。奔遼西烏丸。觸、自號幽州刺史、驅率諸郡太守令長。背袁向曹。陳兵數萬。殺白馬、盟。令曰「違命者斬!」衆莫敢語、各以次歃。袁熙・袁尚は、部将の焦触・張南に(裏切られて)攻められた。遼西の烏桓に走った。
幽州刺史の袁熙の腕前は、あまり発揮されなかった。焦触は幽州刺史を自称して、太守・令長を集めて「曹操に味方する」と、白馬を殺して誓った。血をすする。地方長官たちの様子は、陳寿が「敢えて語るなし」、范曄が「敢えて仰視するなし」と、微妙にちがう。
至別駕韓珩、曰「吾受袁公父子厚恩。今其破亡。智不能救、勇不能死、於義闕矣。若乃北面於曹氏、所弗能爲也」一坐爲珩、失色。觸曰「夫興大事、當立大義。事之濟否、不待一人。可卒珩志、以勵事君。」別駕〔従事〕である代郡の韓珩が、「袁氏に厚恩を受けたのだから、曹操に味方できない」と言った。一同は色を失ったが、焦触は「韓珩の志を遂げさせよう」といった(盟約を裏切った韓珩を斬らなかった)。
韓珩に関する『先賢行状』は、裴注・李賢注にあり。
先賢行狀曰。珩字子佩、代郡人、清粹有雅量。少喪父母、奉養兄姊、宗族稱孝悌焉。
『范書』は、ここに後日談を置く。「曹操聞珩節,甚高之,屢辟不至,卒於家」と。曹操は、韓珩のことを聞き、しきりに辟したが、来てくれなかった。『陳志』は、袁尚の死後にあって、時系列としては『陳志』が優れている。
并州の高幹が叛する
『陳志』を軸にして、『范書』で味付けする。
高幹、叛。執上黨太守、舉兵、守壺口關。遣樂進李典、擊之未拔。
十一年太祖征幹。幹、乃留其將夏昭鄧升守城、自詣匈奴單于求救。不得。獨與數騎亡、欲南奔荊州。上洛都尉、捕斬之。高幹が挙兵すると、楽進・李典が向かったことは、『陳志』のほうが情報が多い。
建安十一年(206) 曹操が高幹を責めると、高幹の将の夏昭・鄧升が上党の城を守ったことも、『陳志』のほうが多い。
典略曰。上洛都尉王琰獲高幹、以功封侯。其妻哭于室、以爲琰富貴將更娶妾媵而奪己愛故也。裴注にある『典略』は、李賢注にも同文が引かれている。
公孫康が、袁熙・袁尚を斬る
十二年太祖至遼西擊烏丸。尚熙、與烏丸逆軍戰、敗走奔遼東。公孫康、誘斬之、送其首。太祖、高韓珩節。屢辟、不至、卒於家。建安十二年、曹操が遼西に烏桓を撃ち、袁尚・袁熙は遼東に逃げた。『范書』は「乃與親兵數千人奔公孫 康於遼東」と、親兵の数千人とともに遼東に入ったことが分かる。実は公孫康は、乗っ取られる危機である。
『范書』の本文は、ここから裴注『典略』にすべる。もとになった『典略』のほうを貼っておく。
典略曰。尚爲人有勇力、欲奪取康衆、與熙謀曰「今到、康必相見、欲與兄手擊之、有遼東猶可以自廣也。」康亦心計曰「今不取熙、尚、無以爲說於國家。」乃先置其精勇于廄中、然後請熙、尚。熙、尚入、康伏兵出、皆縛之、坐于凍地。尚寒、求席、熙曰「頭顱方行萬里、何席之爲!」遂斬首。譚、字顯思。熙、字顯奕。尚、字顯甫。
吳書曰。尚有弟名買、與尚俱走遼東。曹瞞傳云。買、尚兄子。未詳。裴注が小ネタ。『呉書』によると、袁尚には、袁買という弟がいた。袁尚とともに遼東ににげた。『曹瞞伝』によると、袁買は、袁尚の兄の子である。未詳。
『范書』袁紹伝は、袁尚らを斬ったものとして公孫康伝を始める。別の話なので引用しない。
とりあえず『陳志』袁紹伝と、『范書』袁紹伝の比較は完了!151230閉じる