01) 孔融と袁譚に辟される
『三国志集解』を見つつ、王脩伝をやります。
豊作祭に母が死に、南陽に遊学する
王脩は、あざなを叔治という。北海の營陵の人。
『郡国志』はいう。青州の北海である。
7歳で母が死んだ。母が死んだのは、社日である。翌年、隣の里で社があると、王脩は哀しんだ。隣の里は、王脩の哀しみを聞き、社をやめた。
『孝経緯』はいう。「社」とは土地の神である。封土を「社」として、功に報いる。『礼記』月令の2月の説に、択元日命人社。
ちくまは「村祭」とする。訳注はいう。立春後と立秋後の第五のつちのえの日。春を春社、秋を秋社という。土地の神を祭り、豊作をいのる。
ぼくは思う。母の死をトラウマに、王脩が悲しむのはけっこうだが、豊作の祭りを辞めさせていいのか? 隣の里だから、いいのかな。自分の里じゃないから。「豊作を祈ると、身内に不幸がおこる」なんて、しょーもない定式を立ててしまうと、王脩は「餓死の願望がある」なんてことになる。本人は、直接はそう言わなかろうが、「そういうもの」である。
、、という無責任な伏線をはったが(この部分だけ、ページ作成終了後に書いてます)伏線を回収できなかった。むしろ、曹操の司金中郎将となり、経済政策や財政を任された。餓死したいはずの人が、「いかに餓死を回避するか」ばかりを考える仕事をさせられた。逆説的だなあ。「なぜ逆説的な仕事をうまくやれたか」という問いを立てれば、こじつけの説明はつけられそうだが、そこまではしません。笑
20歳のとき、南陽に游學した。張奉の舍にとまった。
盧弼は考える。毛義伝には張奉はない。劉平らの列伝にある。周寿昌が誤ったのだ。廬江の毛義の名は、劉平伝のすぐ前にある。毛義は、章帝の時代の人である。張奉も章帝の時代である。王脩は漢末の人である。おそらく、毛義伝(劉平伝)の張奉と、王脩伝の張奉は、別人である。
張奉は、家をあげて病気になった。王脩が看病してから去った。
ぼくは思う。王脩は、北海が出身。北海から南陽に遊学にいく「ルート」があったのだ。ただ道が開通してるってだけじゃなく、「南陽は学びに行く土地」という諒解があったことが大切だなあ。
初平、孔融により、県令、孝廉にあげられる
初平のとき、北海の孔融が、王脩を召して主簿とした。高密令を守した。
ぼくは思う。王脩は、北海の出身。同郡の北海に引っぱりあげられ、同郡内の県令となった。ベタベタの北海人である。
高密の孫氏は、豪俠である。しばしば人客は、犯法した。相劫した賊が、孫氏に入りこめば、吏は執えられない。
王脩は吏民をひきい、孫氏をかこんだ。孫氏が拒守し、吏民は孫氏に近づけない。王脩は令吏に命じた。「孫氏を攻めなければ、孫氏と同罪である」と。孫氏は懼れて、賊をさしだした。これにより、豪彊は懾服した。
孫氏の態度もおもしろい。県令の王脩が、本気になって討伐を命じたら、すぐに怖じ気づいた。孫氏が自律できるのは、県令が及び腰のときだけである。孫氏の自律性を強調する話か、県令の権力のつよさを強調する話か。ぼくは後者だと思う。豪強って言っても、県令を無視できない。
孔融により、孝廉にあげられた。王脩は邴原に譲ったが、孔融はゆるさず。
『孔融集』は、孔融と王脩の問答をのせる。
孔融はいう。「堯が採用を漏らした賢人を、舜が採用した。私が採用を漏らした邴原を、私の後任が採用するだろう」と。なおも王脩が辞退して「邴原を孝廉に」と言った。孔融は言った。「あなたの実績はすばらしい。辞退するな」と。
ときに天下は乱れた。王脩は孝廉だが、都にゆかず。
このころ、北海の郡中で、反乱がある。夜にはしり、王脩は孔融を救った。孔融は左右に「よく難を冒して來たるは、ただ王脩のみ」と言った。言い終わると、王脩が駆けつけた。
史書を編纂する便宜として(わかりやすく、印象的にするため)、セリフをここに貼り付けたのだ。気持ちは、わかる気がする。キレイだもん。ただしぼくは、この形式をもって、「孔融のセリフはウソである」なんて、言わないけれど。
ふたたび孔融は、王脩を功曹とした。
「孔融だけが、軍事的に弱い太守で、賊に攻められてばかりいた」は、正しくない推論だと思う。まあ、北海という土地(青州)が、豪強や黄巾がつよい地勢だったのは事実だろうが。それにしても孔融は、よく助けられる。助けられる記述がのこる。
ときに膠東県では、賊寇がおおい。ふたたび孔融は、王脩に膠東令を守させた。
ぼくは思う。北海には、侯国がおおいのか? はじめ王脩は、高密令で、いま膠東令。どちらも北海国の侯国。侯国の分布と、豪強の自律性(治めにくさ)は、相関するのかなー。という、言いっ放し。笑
膠東人の公沙盧は、宗彊である。營塹をつくり、發調に応じない。
沈欽韓はいう。『群輔録』はいう。公沙穆には5子がいた。みな令名がある。京師の人はいう。「公沙氏には5龍あり。天下に無双である」
恵棟はいう。北海者旧伝(書名か?)はいう。公沙孚と荀爽は約出し、貴勢につかえないとした。荀爽は董卓のとき、巾をぬぎ、100日未満で司空となった。のちに公沙孚と荀爽は再会した。荀爽は約束をやぶったので、席を割って座った。
ぼくは思う。北海の公沙氏は、県令をだし、頴川の荀氏とつきあう官僚の家。根っから後漢に独立した豪強ではない。この官僚の家が、後漢末に、孔融にさからった。王脩は平定に向かわざるをえなかった。有力な官僚家と、自律した豪強のあいだを往復するのがおもしろい。おなじ家を、表裏から言い換えたものに違いない。
王脩は數騎をひきいて、営塹の門をくぐり、公沙盧の兄弟を斬った。公沙氏はおどろき、動けない。
公沙氏も、まえの孫氏も同じだが。県令が本気で討伐にくると、思っていない。だから、王脩が強硬手段にうったえると、フリーズする。
豪強は、後漢を否定するわけじゃないが、完全に服従するわけじゃない。微妙な暗黙のバランス、お約束があると思っている。そのバランスやお約束を、王脩が故意にやぶっていく。王脩は、「後漢の爪牙」みたいな人である。ちがうか、より直接的には「孔融の爪牙」というべきか。
王脩は余党を撫慰した。寇掠は少止した。孔融に困難があるごとに、王脩は家からでも駆けつけた。いつも孔融は、王脩を頼って困難をまぬがれた。
袁譚と袁紹に辟され、袁尚と戦う
袁譚が青州におり、王脩を辟して、袁譚の治中從事とした。しばしば別駕の劉獻が、王脩の短所を毀損した。のちに劉獻が死罪になったとき、王脩は劉獻をたすけた。ときの人は、ますます王脩をほめた。
袁紹もまた王脩を辟して、即墨令に除した。
『郡国志』はいう。北海国の即墨県である。
ぼくは思う。袁譚が辟した人物が優れていると、父の袁紹が辟し直すのか。袁紹の勢力圏は、そういう出世ルートがあったのかも。つまり、袁紹の息子らが各州をおさめて、人材を探す。とくに幽州だと、袁紹の府で採用する。まるで「地方」と「中央」のようだ。袁紹の統治のありかたを、ちょっと思わせる動きだ。
ぼくは思う。つくづく王脩は、青州の北海のなかを、ウロウロするなあ。おなじ北海だから、、北海相の孔融は、袁譚に明けわたすかたちで、退いたんだっけ。孔融の動向、わすれた。いま王脩の動きを見ると、孔融というヒトより、北海というトチに結びついて、官位についてる。
のちに、ふたたび袁譚の別駕となる。
袁紹が死ぬと、袁譚と袁尚が対立した。袁譚が袁尚に敗れると、王脩は吏民をひきいて、袁譚を救いにいった。袁譚は喜んで、「わが軍を成すのは、王別駕である」と言った。
っていうか、官職により人間関係が作られ、人間関係により官職につけられる。どちらが先、ということは、ないのかも。劉備だって、関羽と張飛と、「官職をくばる」という付き合い方で、関係をふかめた。
袁譚がやぶれた。劉詢が、漯陰で起兵した。みな諸城は劉詢に応じた。
ぼくは思う。はじめて聞いた地名。平原ってことは、袁譚の本拠地である。袁譚が袁尚に敗れたのを見て、根拠地が叛いたのだ。叛くときは、県単位で叛くのね。
袁譚は歎息した。「いま青州をあげて背叛した。私の不徳のためか」と。王脩はいった。「東萊太守の管統は、海沿いにいるが、袁譚に反さない。必ずくる」と。10余日後、管統は妻子をすてて、袁譚にきた。妻子は賊(劉詢ら)に殺された。袁譚は管統を、楽安太守とした。
ぼくは思う。なんか、カッコよく書いてあるが。袁譚が東莱郡を失った、ということだ。管統は、2つのものを天秤にかけた。東莱の統治権か、袁譚とのつながりか。もともと、 袁譚のおかげで、東莱太守にしてもらったのだろう。だが周囲が袁譚にそむいたので、 どちらを優先するか、選ばなければならない。
東莱の統治権をおもく見るなら、袁譚にそむいて挙兵するとよい。群雄への道だな。袁譚とのつながり(官位をくれた恩)をおもく見るなら、袁譚のもとに戻り、ふたたび任命してもらえばよい。袁譚に従う場合、軍事的な理由で、東莱は敵のものである。袁譚を助けつつ、東莱郡は捨てるという結果になる。
この天秤ゲームは、なかなか面白い。
王脩の口ぶりからすると、管統のほかの守令たちも、袁譚に任じてもらった人たちである。彼らは、土地の統治権をえらび、袁譚の恩を捨てた。こちらのほうが、大多数を占めるのだ。土地を選び、袁譚を捨てた人たちが多いから、袁譚は「わたしの不徳」と言って、ガッカリしたのだ。
袁譚が「また袁尚を攻めたい」という。王脩は諫めた。「兄弟が攻めあうのは、敗亡之道である。佞臣の數人を斬り、袁尚と親睦しあい、四方をまもれば、天下に橫行できる」
袁紹、劉表、曹操、孫権。みんな後継の兄弟をあらそわせる。彼らの個人的資質を説明して、分かった気になるのは足りない。兄弟を対立させるような、配下の人材のありかたが、時代に共通するのだろう。
袁譚は王脩をきかず、曹操に救いをもとめ、袁尚を攻めた。曹操が冀州(袁尚)をやぶると、ふたたび袁譚は曹操にそむいた。曹操は袁譚を、南皮でせめた。
ときに王脩は、楽安で運糧する。
王脩は、袁譚のピンチをきき、領兵と諸從事の數十人をひきい、袁譚のいる南皮にむかった。
王脩は高密で、袁譚の死を聞いた。下馬して號哭した。「君は無し。どこに歸したらよいか」と。ついに曹操をもうで、「袁譚の死体を收葬したい」といった。曹操は応じないで、王脩を観察した。ふたたび王脩がいった。「袁氏の厚恩を受けた。もし袁譚の死体を收斂できれば、私は死んでもいい」と。曹操は收斂をゆるした。
袁氏が「四世三公」ですごいのは、高官だからでない。全国に門生故吏がいたからだ。つまり、辟すとか任ずとかで、恩を施してきたから。王脩が袁譚に心服したのも、おなじ方法である。辟して任ずという恩の与え方(これが袁氏の競合優位性をつくる)を、袁紹も袁譚も、さらには袁術もやった。彼らの方策は「自己撞着」してないなー。
臣松之案田疇傳,疇為袁尚所辟,不被譚命。傅子合而言之,有違事實。
『傅子』はいう。曹操は袁譚のクビをさらした。「袁譚のために哭せば、本人と妻子を殺す」と令した。王脩と田畴だけが、「私は袁氏に辟命を受けた」といい、曹操の令をやぶって哭した。曹操はゆるした。
裴松之は考える。田畴伝で田畴は、袁尚には辟されたが、袁譚に辟されてない。『傅子』は、田畴が袁譚に辟されたというが、誤りである。
劉虞の使者となるが、袁紹・曹操の官爵を受けない田畴伝
次回、曹操の財政を担当し、魏国の九卿になります。